人類の(信仰の)祖

 

 

 

【「宗教の時間」(NHKラジオ第二)】
<聖書によむ「人生の歩み」⑪>
〔老い&病い〕

~船本弘毅氏
(関西学院大学名誉教授、東京女子大学元学長)

(2015年2月7日)

人間が誰しも避けて通ることのできない重い課題である
「老い」と「病い」ということを、
聖書に聞きつつ共に考えてみたいと思います。
現在の日本が、
少子高齢社会であることに異論を挟む余地はありません。
2014年4月1日現在、
日本では子どもの数が33年連続で減少しており、
全人口に対しての比率は12.8パーセント、
それに比べお年寄りの数は増え続けており、
2040年には、全人口の30パーセントに達するだろう
と推測されています。
世界的に見れば、
人口の30パーセントが子ども、70パーセントが大人、
そのうちの10パーセントがお年寄りだそうですから、
これをもし普通な、平常な姿であると考えれば、
日本の少子高齢化は
異常な姿を呈しているということになります。
そしてこの事実は、
私たちの社会生活にさまざまな影響を与えています。
財政的にも、医療の面でも、
極めて深刻な問題を引き起こしている
ことは言うまでもありません。
そしてこの現実は、
私たちの生き方や生きる目標、
特に若者たちの生活に深い問題を投げ掛けています。
若者たちが自分の将来に夢や希望を持ちにくくなっている。
そして消極的な、また無気力な生き方が
広がりつつあるという現状があります。
ですから、「老い・病い」という今月のテーマは、
我が国が直面している重要な課題であると言えるでしょう。
日本で65歳以上の高齢者の数が、
史上初めて3千万人を越えたのは、2012年のことでした。
その年、14歳以下の子どもの数は、1654万人でしたから、
ほぼ子どもの数の2倍の高齢者ということになります。
世界的には、人口は増加していますが、
日本の人口は、減少が続き、
国立社会保障・人口問題研究所の発表した
推定人口によれば、
日本の総人口は、2048年には、1億を割るだろう
と言われています。
政府は、2014年1月に経済財政諮問会議のもとに
「選択する未来」委員会を設置して、
人口減対策を検討し、
5月には中長期の日本経済の課題を検討する
政府の有識者会議で、
50年後にも1億の人口を保つために、
出産・育児支援を倍増するほか、
女性の就労支援、外国人の受け入れなどを提案する
と報じられましたが、
人口減少に歯止めがほんとに掛かるかどうかは、
容易な問題ではないと思われます。
高齢化が進めば、
病人が増えるのは自然な流れですから、
医療の問題、その財政的裏付けが深刻な問題になってきます。
高齢化が問題にされるようになると、
「年をとる」ということに、
ある種の哀愁感のようなものが漂ってくることは
否定できないと思います。
本来健康で、仕事をして、社会に貢献し、
年を重ねていくということは喜ばしいことです。
ですから日本では、期を定めて、そのことを祝ってきました。
60歳の還暦(かんれき)、
70歳の古希(こき)、
77歳の喜寿(きじゆ)、
80歳の傘寿(さんじゆ)、
88歳の米寿(べいじゆ)、
99歳の白寿(はくじゆ)
など祝ってきたわけであります。
しかし最近はこのような祝いにも、
かつてのような盛大に祝うことは
あまりされなくなってきたのではないでしょうか。
五木寛之氏が『林住期(りんじゆうき)』という書物を書かれて
評判になりました。
古代インドの分類に従えば、
人生は
「学生期(がくしようき)
家住期(かじゆうき)
林住期(りんじゆうき)
遊行期(ゆぎようき)」に分けられ、
「林住期」とは
社会人としての務めを終えた後、
すべての人が迎える
最も輝かしい第三の人生だと言われるのです。
この「四住期」という考え方は、
紀元前2世紀から紀元後2世紀辺りに広まったそうですが、
これを「青年」「壮年」「初老」「老年」というふうに考えると、
前半の二期が現役、後半の二期は引退した、
いわばおまけの時期という感じがして、
何となく侘しい感じがするのですが、
五木氏はこの後半に注目をして、
この時こそ人生のクライマックス、
特に50歳から75歳の林住期こそ、
人生の最も円熟した最高の時ではないかと書いておられます。
 
では聖書は「老い」についてどう語っているのでしょうか。
旧約聖書の中にヨエルという預言者がいます。
十二小預言書の一つに「ヨエル書」というのがありますが、
ヨエルという名は、
「ヤハウェは神である」という意味を持っています。
彼の活躍したのは、
おそらくバビロン捕囚後のイスラエルにとっては
大変困難な時の後であります。
苦難の時を経て、
新しい出発をするイスラエルの民に向かって、
そのうち
「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し、
老人は夢を見、若者は幻を見る
と預言しています。
このヨエルの預言は、ペンテコステの日に、
ペトロによってなされた初代教会最初の説教の冒頭に
引用されていることはよく知られています。
旧約聖書には、
老人についての言及がしばしば見られ、
「老い」を大切に扱ってきたということができると思います。
「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」(箴言16-31)
といった言葉があります。
老いたサウルが、
ダビデの奏でる琴の音で悪霊を去らせたという話、
年老いたノアの話などが記されています。
特に重要だと思われるのは、
アブラハムとサラの出来事で
人間的な目から見れば、不可能と思われる年齢になりながら、
アブラハムとサラにイサクが与えられた話などに、
老人を重んじる旧約聖書の姿勢を見ることができるでしょう。
聖書は、
神が人間と世界を創造されて、
人間は神によって生命ある人格的存在になったと語ります。
人間の生の根拠は、ここに存在しています。
しかし聖書は、
人間の存在を手離しで謳歌しているのではありません。
ヨブ記では、
ヨブが自分の産まれたことを呪う言葉を発しています。
預言者エレミヤも
自分の出生を呪うような言葉を語っています。
しかしそれにも関わらず、
聖書は、だから人生に希望はないとは言わず、
むしろ「死んではならない」という戒めがないほどに、
創造され、生かされている人間にとって、
生きるということは自明のことであるとしている事実を
私たちは見落としてはならないと思います。
聖書が語る強い人間の生の肯定は、
人間の存在根拠には、
神がおられるという信仰と固く結び付いているのです。
ギリシャの思想家や現代人が、
人格の根源を頭脳や知性に求めたのに対し、
聖書は「いのち」の根源を、
人間の内臓にあると見ている
ことが注目されねばならないと思います。
 
「詩編」の139篇はこう述べています。
あなたは、わたしの内蔵を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。
わたしは恐ろしい力によって
驚くべきものに造り上げられている。
御業がどんなに驚くべきものか
わたしの魂はよく知っている。
 
ここに出てくる「内蔵」は、
元の意味は「腎臓」を表しています。
ヘブライ語の腎臓は、意志と感情の宿るところであり、
人格の最内奥の根源を意味する言葉でありました。
日本語の表現にも
「肝腎かなめ」という用法がありますが、
人間の存在を左右する重要な器官ですから
人間の「いのち」は、
単にバイオテクノロジーの対象である命(ビオス)でなくて、
永遠の生命(ゾーエー)であり、
聖書は人間を霊魂と肉体の総合体である
一つの人格として理解しています。
そしてそのような生命を持つ人間の生は、
誕生から死に至るまで、
すべての段階で神の守りの中にあり、
神の愛の中にあるかけがえのない尊いものなのです。
では新約聖書は「老い」をどのように見ているのでしょうか。
新約聖書は、
老人を特に問題とする記事は少ないとしても、
旧約聖書と同じように、「老いる」ということを、
ただ否定的に運命的に捉えているのではなくて、
信仰において希望を持って理解していることには、
私たちは注目をしなければならないと思うんです。
 

 

 

パウロは、「ローマの信徒への手紙」の4章で、
アブラハムの信仰を取り上げて、
次のように論じています。
そのころ彼は、およそ100歳になっていて、
既に自分の体が衰えており、
そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、
その信仰が弱まりはしませんでした。
彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、
むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
神は約束したことを実現させる力も、
お持ちの方だと、確信していたのです。
だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
(ロ-マ4・19~22)
 
アブラハムは、
ただ信じたのではなく、
自分と妻の今ある状況を認めながら、
そしてそれが人間の判断では、
不可能と思われる現実の中にありながら、
それによって信仰を弱められることはなく、
人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。
それは目に見えるものによらない。
ただ信仰による確信に立ったのでした。
年齢と共に深まる思慮と経験を通して
身に付く確信に裏付けられた信仰であった
と言えるのではないでしょうか。
そしてその信仰が、義と認められたと、聖書は言います。
 
イエスは、
自然の人間は、
生まれ、成長し、老い、死んでいくのであるが、
その人間が、
「死人を生かし、無から有を呼び出す神の力」
によって新しく生まれるということを語っています。
信仰によって、
人は新しく生まれ変わり、
永遠の神の国に希望をもって生きる者に変えられる
という信仰によって、
人は老いの苦しみや死の絶望を越えて
生きる希望を与えられるというのです。
 
次に病の問題を考えてみましょう。
老いるということは、
病むことと深く関わっているという現実を、
我々は否定することはできないと思います。
 
 
パウロは
異邦人伝道してキリスト教を
ユダヤの一地方宗教から
世界の宗教へと広めた偉大な伝道者ですが、
必ずしも健康に恵まれてはいなかったようです。
いろいろな病気に悩まされていたようです。
彼はそれを、
「わたしには肉体のとげがあり、
それを取り除いて頂くように、
何度も主に祈ったが、取り除いては頂けなかった」。
それにも関わらずパウロは
そのすべてを神の意志として受け止め
伝道の業に励んだのでした。
「弱さの中に神の力が働く。だから弱さを誇るのだ」
と述べています。
 
先に引用した「ヨエル書」と同じ、
12小預言書の中に、
「ゼカリヤ書」という預言書があります。
ゼカリヤとは「ヤハウェは憶えられる者」という意味ですが、
この預言の最後にこういう言葉があります。
見よ、主の日が来る
その日には、光がなく
冷えて、凍てつくばかりである。
しかし、ただひとつの日が来る。
その日は、主にのみ知られている。
そのときは昼もなければ、夜もなく
夕べになっても光がある。

 
ゼカリヤは、
主の再臨と共に始まる新しい時代には、
夕べになっても光がある。
その時には暑さも寒さも昼も夜もなく、
エルサレムからは生命の泉がわき流れ、
主は全地を支配し、
エルサレムは復旧して平和な光の輝く町となる
と預言をしているのです。
夕べになっても光のある人生を、
主が導いてくださるというのです。
 
渡辺和子先生は、
今、いただいている仕事が、
いつまでできるかわかりません。
若い時には、他人のためにできていたことが、
今は、していただく立場になっていること、
30分でできていたことが1時間かかるなど、
自分のふがいなさを感じています。
86年も働いてくれた目、耳、その他の痛んだ部品に、
「今までありがとう」といいこそすれ、
責めない自分でありたいと、しみじみ思います。
老いてなおできること、
それは、ふがいない自分を、あるがまま受け入れ、
機嫌よく感謝を忘れず生きること。
忙しかった頃、疎かにしがちだった神との交わりを
深めてゆくことでありたいと願っています。
(幻冬舎)
と書いておられます。先生らしい言葉だと思います。
 
私たちは、「老いてなお」の後に、
どのような言葉を入れるのでしょうか。
これは私たち一人ひとりに問われている問い
だと思います。
この問いの前に立つうちに、
私は、スコットランドに留学していた時、
アイオナ島を訪ねた時のことを
思い出さずにはいられません。
アイオナはスコットランドの西の海に横たわる小さな島です。
再建された聖堂の入り口に
こんな言葉が刻まれていました。
This is the first day of the rest of your life.
(今日という日は、
あなたの生涯の残された第一の日である) 
 
これは、
単に流れて行く歴史の中の一日
ということではありません。
主にあって生かされて歩む信仰の歩みにおける
第一日ということだと思います。
私たちは、
速さの異なる二つの時間を
生きているのではないでしょうか。
慌ただしく過ぎていく毎日を生きています。
しかし、同時に、
私たちは、信仰によって永遠につらなる
もう一つの時を生きることが許されている
のではないでしょうか。
短い限られた過ぎゆく時を生きながら、
同時に
永遠に続く信仰によって歩む時を、
生きることが許されているのではないでしょうか。
その意味で、
今日というこの日は、
私たちに残された人生の歩みの
第一日、初日なのだと思います。
若き日には若き日の使命と意味があり、
老いた日には老いた日の使命と意味があります。
人生の歩みをあるがままに、
自分のなり得るものになって生き抜きたい
ものだと思います。 
 
PS
【一条真也の人生の修め方】
〔老いることをポジティブにとらえよう〕
(2015年3月31日)