蛇のスカート    -5ページ目

19-b

ジャガー族の視線は、手首の先に集中した。そんなにこれが魅力的なのか。

羽飾りを頭につけた群集は噂をし合っている。

「新しい運び屋だ」

「仁王さんは、融通が利かんかったからな」

「くらの助、太鼓を叩くのを止めろ!」

日本刀を提げている男が叫ぶ。長髪を左右に振り分けている。四十前後か。用心棒のような風貌で、無精ひげをさすりながら、

「あいつは、昨日帰りで見かけた」

連れてきた小男が、「護衛隊長、会長はおるか。今日も臥せっとるのか」

「容態が良くない」

「副酋長を出そうか」

「それなら、じい様の方が役に立つ」

日本刀の男が寄ってきて、「俺は護衛隊長だ。ついて来きな。会長の家に案内してやろう」

「色々看板が出ていますね」

感心して、きょろきょろする。

「初めてか。入る前に、一周するか」

黒いバンダナは、酋長の看板の前を素通りした。

「酋長は娘と一緒に住んでいる。娘は巫女で、酋長は神官。二人で月と闇を祀っている」

護衛隊長は反時計回りに歩いた。酋長の隣には、祈祷の札や品々が置いてあり、「占い」の看板があった。その先は「病院」とある。軒先には蛇の干物がぶら下がっている。

「あれが、じい様の家だ。じい様は由緒ある霊媒師だ。酋長は心臓が悪くて臥せりがちだから、今はじい様がジャガー族を束ねている」

「病気なんですか。こっちにも医者がいるようですね」

「主の高井は薬剤師だ。看護婦の女房と息子で住んでいる」

ガジュマルの傍には、ピンポンでも出来そうな赤黒い台があった。蝿が団子になってとまっている。その前の看板を見ると「肉屋」。お立ち台にも見えるが、どす黒く染まっているので、ブラックルームの生贄台を思い出す。しゅっしゅと磨る音がして来た。肉屋の中を覗くと、女が包丁を砥いでいた。砥ぎ石の傍に、牛刀が置かれてある。背中越しにボーボーと鳴き声が聞こえてきた。振り向くと、ガジュマルの木陰が伸びていて、弾けるほど太った子豚がいた。五歳ぐらいの裸の少女が戯れてた。丸みを帯びた子豚は横にぐるぐると転がされている。黒い子豚は飼い慣らされているらしく、人見知りせず歩み寄ってきた。大きな耳を揺らし、愛嬌のある鼻で蛇革の靴をなめる。

「あの子は狩男と女房の娘だ。俺もあんな娘が欲しいが、ここでは誰の子供と言うわけでもない」

肉屋の隣には「建設」とあった。表には斧や鋸、カンナなど、使って下さいとばかりに陳列してある。家の横は材木置き場になっていた。護衛隊長は囁くように、

「ここの主、土方っていうんだが、なかなか馬力がある。鉞で一刀両断。槍や銛で突くのも上手い。さっきの狩男は矢が上手い。ちなみに俺は剣道五段だ」

さらに歩くと、どうやら一周したようだ、「武器、釣具」とある。

「これが俺の家だ。隣には女房がいる。副酋長だが、ナギナタ持って島に来たから、ナギナタって呼ばれている。俺は日本刀を持ってきたから、シンケンだ。成り行きだろうが、今では同じ家に住んでいる始末だ」

酋長の家に入る前に、残りの家も気になった。

「向こうにも家がありますね」

「この六件が真のジャガー族だ。もっとも、俺や池じいなどは三ヶ月ハブ族で暮らしたこともあったがな。向こうの四件が新棟で、あれは元ルリカケス族だ。追い出されたり、出て行って行き場がなくなった奴らだ。酋長の慈悲で家を建てて住んでいる」

護衛隊長は別のサークルに移った。この男の家と建設が複合している。

森の陰になっている場所に「衛生所」の看板があった。水の流れる音がし、赤白の服を着た若い女が洗濯をしていた。長い髪を垂れ下げ、疑い深そうにこちらを見ている。

「ここに女が二人住んでいる。直子と美紀だ。阿婆擦れだが、こんなのがいねえと隣の男が困るだろう」

壁に彫られていた名前を思い出す。護衛隊長は、今度は時計回りに歩き始める。衛生所の隣は「狩人、山田兄弟」という奇妙な看板があった。

「何ですか、これは」

「血の気の荒い奴で、何をやらかすか分からん。俺が間に入る形で、じい様や酋長が一番遠い所に隔離した」

なるほど。仲間同士でも牽制しあっているわけだ。護衛隊長は広場を指差し、

「あそこで踊るわけさ。明後日、草を吸ってな」

「狩人」の先を見ると「雑貨屋」とある。羽根や大小さまざまな太鼓のコレクションが置かれ、あの大男が太鼓を提げ、こちらを見ている。挨拶代わりに、ぼおうん、ぼおうんと打つ。その純粋な顔は小学生のものだ。

「あれはくらの助といってな、一番の太鼓叩きだ。同じ屋根の下に住んでいるのが、あんたを連れてきた藤本さんだ。この黄色系の二人が一番取っ付き易いし、まともだろ」

その隣に行く。「ヨガ教室」とある。家の陰で、緑のバンダナをした髭もじゃらの男が両足を首に巻きつけるような姿勢で耐えている。

「あの人は何をしているのですか」

「ヨガだ。あのヨガ男いつもああしている。あれで幸せなんだろ。とにかくジャガー族はこれで最後だ。同じ屋根の下には、三味線弾きの禿坊主が住んでいる。二人とも悪気のない奴らだが、変人だから追い出されたんだろ」

護衛隊長は十個の家を全て紹介し、酋長の家を叩いた。隣の家で、赤いバンダナが腕を組み、目をギラギラさせて待ち受けていた。馴れ馴れしく「ハブ族の新入りじゃな」と肩を叩いて来る。六十前後で、長老然としている。

「おお、じい様」

護衛隊長が挨拶すると頷いた。部族の実力者は、昨日見かけたあの男だったのか。元ハブ族らしいから、話は早いだろう。会長に手紙を渡したいと伝える。

「無用心じゃな」

赤いバンダナは呆れたような声で呟いた。

「何がですか」

「おみゃーさん、ピストル持っとらんじゃろ」

「は、はあ」

「それで草を持ち歩く。あんな小さなもんでも百万は下らんのじゃぞ」

「百万!」

「お人良しに見つかったから運がえかったんじゃ。最初に出会ったのが山田兄弟だったら、殺されて奪われとるかも知れんぞ」

その目は物欲しげに胸倉を見つめている。なるほど。ハブ族だから命の保障はあるわけではないようだ。それで護身用に拳銃を見せ付けているのか。

酋長の家の戸口に立つと、仰々しい肩書きが並べられてある。三枚の板には創始者の魂が込められていたように思えた。


 インディアンになろう会 会長     近藤勉

 映画『ダンス・ウイズ・スネイク』 監督

 ジャガー族 酋長


護衛隊長がノックをすると、「あぁ~」と死人の呻き声が戻ってきた。ケイコのところと同じ長テーブルが待ち構えていた。長老に続いて中に入る。

網戸が一杯に開けてあったが、汗の香りと湿気を帯びた熱が充満しており、首筋から汗が噴出してくる。壁には色鮮やかな青緑のマントが掛けてある。勉の顔を見て魂消た。紫色のバンダナを額にぐるりと巻いていたが、これでは時代劇の病に付した殿様ではないか。

奥のベッドで寝込んでいた勉は心臓に手を当てたまま、ゆっくりと腰を起こした。

軒下で赤い洋ランが揺れていた。このクソ暑いのに家に篭っているのだろうか。

19-c


じい様が「ハブ族の新入りだ」と紹介する。

「物好きな奴もおるねん」

勉は力なく答え、薄ら笑いを浮かべた。精気がない。

「今日は暑いが、大丈夫かの」

じい様が心配そうに言うと、

「池じい、頭がふらふらする。もう長くないかも知れん」

「何言うとる。残されたわしらや晶子ちゃんはどうなるんじゃ」

勉は目やにが浮かんだ顔を上げた。長い髪は乱れ、無精ひげが生えている。紫の鉢巻をした土色の顔を観察すると、やはり兄弟だ。あの郵便屋の面影がある。この男が噂の近藤勉だ。が、想像していた半分も覇気がない。

蒸し暑さに耐え切れなかったのか、護衛隊長と池じいは「また来る」と部屋を出た。

勉は枯れた木のような手の平を差し出し、「草を見せてくれ」

ポリ袋を渡すと、勉は棚から小切手と領収書の束を取り出した。天秤を用意し、俺の持ってきたポリ袋を量りはじめる。

「百グラムか。相場が一グラム一万円として、五千円に勉強してもらっているさかい、これで五十万円や」

近藤勉は息切れをしながら、小切手と領収書を千切った。手際よく五十万と書き、はあっと判子に息を吹きかけて押し、

「これを先生に渡すんや」

こんな葉っぱに価値があるのか疑問に思いながら胸ポケットにしまう。知らぬ間にドラッグの売人になっている事実に恐怖を覚えた。勉は天秤を出す時、カチャカチャと音を立ており、変だなと思ったが、仕舞う手は、やはり震えていた。

それにしても五十万とは大金だ。仲間全員で使用すれば量も増えるから当然なのだろうが、払えるのか。あまり突っ込んで事情を聞くとロクなことはないと思い、嵩張った手紙を三通出し、順番に説明する。

「会長、ここに手紙が三通ありますが、まずこれは大阪のお兄様から言付かったものです」

勉は怒ったように吐き捨てた。

「あの堅物の兄貴は、裏切り者やねん」

「でもお兄様は蛇島での暮らしを思い浮かべ、夜な夜な踊っていますよ。恥もなく公園で」

「安定した職にしがみ付いてやがる。何もかも捨てて島に来るのが怖いんや。あんな兄貴、リストラか病気にでもなっちまえば良いんや」

投げやりなことを言いながら、勉は手紙を開けた。とたんに「おお! あの元気な親父が死んだのかよ~」と酷く驚きはじめた。口を開け、天井を向いたまま、微動だにしない。男は放心状態になっていた。兄が気軽に書いた嘘が、弱っている弟にはカウンターパンチのごとく効いたようだ。発狂するのではないかと、心配になっていると、勉は四次元方程式でも解くような難しい顔に変わり、

「おお、背中から聞こえてくるようや。この親不孝もんが、勝手に蒸発しやがって、こんな所で何をしとるんやって」

「考えすぎじゃないですか」

「わいは霊感が鋭いんや。最近おかしいとは思ったんやが、やっぱし、親父のせいやったんか。死ぬ直前まで気にしとったやろうから、ああ~、憑かれてしもうたんや~。それで頭がふらふらしてしもうて……」

近藤勉は頭を抱え、怯えていた。不安は次第に怒りに転じ、俺に八つ当たりし始めた。

「もう何週間もたっとるやんけ! 何で早よう来んかったんや!」

「そ、それが、お兄様に言われ、会長に面会する為に、この島に遥遥やって来たわけですがルリカケス族に捕まりまして」

勉は細い目を押し広げ、「捕まっただぁ? 遊んどったんやないか?」

「い、いえ、まあ」

今さら叱っても仕方がないと思ったのか、勉の怒りは収まった。

「まあええか。あんたに責任はない。引き止めたケイコのせいや。あの女は能天気で、自分は大地の女神であると心底信じてんやで。へっへ、ただのお嬢様やんけ。ままごとや」

変わりやすい性格に驚きながらも、神妙にうなずく。

「うちの酋長も現実逃避だとか言っていました。自分もあの、ぬるま湯に耐えられなくて、ハブ族の所へ逃げ出したわけですが、その飛び出す直前、ひょんなことに、本土から唐沢なる病院理事長の秘書がやって来まして」

「これを預かってきました」

二通目を差し出す。

「何や」

疲れ切った表情で勉が紙を取った。目を通す。想像していたより長たらしくて色々と書かれてあるようだ。勉は一瞬、鬼の顔に変貌したが、読んているうちに、鼻で笑い、次第に穏やかになると、「親を看取りに行く……晶子を渡せ、だってよ……」

「ダメですか」

「当たり前や。俺が翔太を頂くっていったら、ケイコは『ダメだ』って言うやろが。それと一緒や。……で、その秘書はこの島で俺の返事を待っとるんか?」

「さあ、それは……」

誤魔化しながら、三通目の手紙を出すのを躊躇した。

「先生は何や言うとった?」

勉の視線が三つ目の手紙に注がれていた。仕方なしに渡すと、勉は真剣な表情で読み始めた。手紙を読んだ勉は渋い表情を浮かべて溜息をついた。

「今から会議をやるんけ」

「本当に、唐沢という男を殺してしまうのですか」

「分からん。そやが、そいつを放って置けば、しつこく迫ってくるやろう。草の事が明るみに出たら、ヤバイやんけ」

「しかし会長。唐沢なる人物は、南に逗留しているわけですから、ルリカケス族が立ちはだかるかも知れませんよ。現にジャガー族を『畜生』呼ばわりして嫌い、槍を持って練習していましたし……」

勉は不敵な笑みを浮かべて言葉を遮った。

「畜生か。その割には手に負えない仲間ばかりを押し付けてくるやんけ。都合の良い女や。独善的や。自分の気に入らん奴は追い出すか、見殺しにするつもりなんや」

「そうかもしれませんね」

「ケイコは何してた」

「ほとんど毎日踊っています」

「へっへ、相変わらずやな。翔太は強い子供になってたか」

母親が太鼓を叩き、それに合わせて踊っている姿が脳裏を過ぎる。

「踊っていました」

「情けねぇ。男のカスになるやろう。男はふつう、暴力で、相手を支配しようとする生き物やねん。なあ、あんたもそう思うやろ」

勉は人情味のある喋りで、同調を求めてきた。

「そうかもしれませんが、あの山田兄弟は危険ではないですか」

不満をぶちまくと、勉気は頭を落として溜息を吐き始いた。

「力を誇示したがっているだけで、あの兄弟も実は臆病なんや。全体として血の気の荒いから、草でもやらんと統制が難しいねん。肉の食いすぎか知らんが、心臓や頭が病気になって、気分まで弱くなっちまった」

「本当に大丈夫ですか。東京へ戻って、一度病院で治療を受けられるのは如何でしょうか」

罵倒されるのを覚悟で言ったが、勉は意外にも、

「夜中苦しくなって、救急車を呼びたいことが何度もあった。収まれば今のままでええと思う。草も体に悪いんやろうが、手術が必要な状態かも知れん。俺は今、酋長を辞めたいと思っとるんや。そやが、言い出した張本人やからな。これだけはどうしても言い出せんのや」

本音に後悔が混じっていた。

「辞めたいのですか。そういえば、会長は以前、作家だったと聞きましたが」

勉は吐き出すように、

「ああそうや。そやが作家なんて、まともな仕事やない。書けば書くほど頭がおかしくなっちまう。自然に戻って農業でもして暮らすのが一番健全やろ。そう考えてインディアンをやってたんやが、一筋縄にはいかん」

「映画撮影はどうなったのですか。表にはアカデミー賞みたいなタイトルがありましたが」

勉はへらへら笑って、「今、上演されて、皆で見とるやんけ。なんや、あんたの格好は。唐沢がのこのこ来て島が揺れる。どうなるやろか。その先は誰にも分からん。とりあえず、会議や」

近藤勉は左胸に手を当てたたま、よろめきながら立ち上がった

   

20-a 唐沢の運命

くらの助は提げ太鼓を力強く打ち鳴らす。ガジュマルの下にジャガー族が集合した。闇に三日月の浮かぶ旗が、次々と掲げられ、風にはためいている。色の入ったバンダナを付け、矢や槍、楽器を携えている。女は額に何もないが、羽飾りを付けている。

副酋長は女で唯一ピンク色のバンダナをし、赤い尾羽を立て並べていた。ナギナタを振り上げ、大声で「一同、整列~」と気合を入れる。

俺は二四人の列を唖然と眺める。

先頭は赤い尾羽を爆発させた副酋長。その後ろでヨガ男が旗を持ち、すぐ後ろでくらの助が太鼓を打っている。

勉は緑色のマントを羽織っていたが、槍を杖代わりにしてもたれ掛かっている。今にも倒れそうだ。続いて娘がいた。カラフルな鳥羽輪で顔を包み、鈴を握り、しゃんしゃん振っている。護衛隊長が日本刀を腰に当て、盾を背負っていた。坊主が続き、蛇皮線をびんびこ爪弾いている。その後ろには池じいが槍を持ち、体格の良い土方が壁を作っていた。

狩男も槍を立て続き、その後ろにはひょろりとした薬剤師が槍を立てていた。旗を持った女や、救急箱を持った女、棒切れを持った子供、二人組みの女が続いた。藤本がラッパを吹いている。山田兄弟がしんがりを務めていた。山田兄が矢筒を背負って弓を抱え、山田弟が槍を振り回す。

行進曲には秩序があった。太鼓にラッパが呼応し、鈴が鳴り、三線が島の音楽を奏でる。

「出発、進行!」

副酋長はナギナタを脇に挟ませ、すり足で前進し、先導する。

代表者会議に大勢で行く必要があるのか。山田兄弟の後ろは危険だが隊列を崩せない。俺は山田兄弟に付かず、離れず付いて行く。ジャガー族は、行進よって一体化し出し、歌い始めた。

「病気に負けるな、怠けるな。ああ、ジャガー族、我らが家族、ジャガー族……」

打ち寄せる海を見下ろしながら、初めて歩く道を楽しむ。

海岸沿いの道は森の道より圧倒的に早く白い集落にたどり着けた。

騒がしさを聞き、ハブ族の二人が広場に出てきた。続いて、スズメバチを思わせるワシ族の代表が三人も出てきた。

勉は池じいと副酋長を残し、残りを西に戻す。ラッパが高らかに鳴り響き、ジャガー族は丸ごと西へ舞い戻っていく。

ワシ族の酋長は、無差別級の柔道選手を思わせた。左右に黒髪を束ね、虹色のバンダナを締めている。だぶだぶの紬も虹のベルトで引き締め、連れの二人も同じ格好をしていた。

島役場に入ると、がっしりした長テーブルが置いてあった。

入り口の壁を見る。県警の捜査本部のように、島の地図が一杯に貼られていた。山道や小川、建物、畑、牧場、海岸などが書き込まれている。俺と唐沢は既にカウントされており、北三人、南十二人、東二十四人、西十三人。合計五十二人。

更にその横には、

<ハブ族代表>    酋長・あづま、 副酋長・木田、  酋長補佐・片山

<ワシ族代表>    酋長・カズオ、 副酋長・福原兄、 酋長代理・福原弟、

<ジャガー族代表>  酋長・勉、   副酋長・ナギナタ、相談役 ・池じい、

<ルリカケス族代表> 酋長・ケイコ、副酋長・吉村、  経済計画長・元木

   

    と肩書きがあるが、南地区がバッテンで消され、村八分ならぬ、島八分とある。

俺は自分が酋長補佐であることに驚いた。

九人も揃えば公的な場で、抑制しあう雰囲気が立ち込む。

テーブルは、島の雛形になっていた。東にワシ族三人、西にジャガー族三人。北の座長席にあづまが座り、団扇を仰いでいる。ルリカケス族の空席に、木田が座ったので、俺は隣に座った。目の前にはごま塩の振られた池じいの横顔があった。

俺はワシ族が並ぶ右を見る。がりがりに痩せた男を睨んだ。俺の脚を射た野郎。福原一族は兄弟妹から成っており、弟に当たるようだ。その兄はカズオ同様、熊の体をしている。

俺は木田に連れられ、湯飲みを置いて回る。東の一番席にいる勉は力なく視線を落としている。様子のおかしさに気付いたのだろう、ワシ族の酋長は不思議そうに、「兄貴、心臓は大丈夫か」

池じいが扇子で仰ぎながら代弁した。

「頭の具合も悪いんじゃ。今朝、一緒に訃報が届いての。親父が死んだらしいんじゃ。カズオ、お前の叔父でもあるんじゃろうが」

初めてワシ族の酋長が、会長の従兄弟であることを知った。体格こそ違え、言われてみれば目の細い所が似ている。

「叔父も年だから死んでもおかしくねぇ。それが一体どうしたってんだ」

「親父の霊に憑かれとるんじゃ。懺悔の念で、弱気になってしもうての」

カズオはテーブルに顎を付け、目の前の男を観察した。

「こりゃ、重症だぜ。本当に、叔父に体を乗っ取られているんじゃねぇか」

頷き、納得し始める。本当は生きているのだから、思い込みとは恐ろしいものだ。

議長が木槌でテーブルを叩いた。

「静粛に! これからルリカケス族にいる男、唐沢という理事長の秘書について吟味を始める。まず、新しくハブ族の酋長補佐に就任した片山くん。君は彼をどう思うかね」

俺は立ち上がって、

「はい。彼は極めて安全だと思われます。その証拠として、彼はルリカケス族に交じってせっせと踊っていますし、秘書の癖に誰にも報告していないのです。ケイコさんと子供二人を東京に連れて帰るという目的はあるのですが、理由が理事長の危篤でありますから、いったん三人を連れて帰って看取らせれば、再びこの蛇島へお返しするものと思われます」

池じいが胡散臭い目で俺を睨み、手を挙げた。座ったまま、

「議長、異議ありじゃ。再び帰ってくる保障が、何処にあるんじゃな?」

「片山くん!」

「それは、……信じるしかありません」

するとカズオが嘲笑し、

「へっ、馬鹿言うな。東京の人間なんて、誰も信じられねぇぜ」

「そうだ、そうだ」

福原兄弟が相槌を打つ。


20-b


あづまはテーブルを叩いた。

「静かに! 勉くん、君は晶子ちゃんを貸す気はあるかね」 

「あるわけないやんけ。なあ」

勉は声を振り絞り、ナギナタと池じいを見る。

二人は当然だと肯く。あづまは意見を集約しながら、

「するとジャガー族は目的の晶子ちゃんを、その秘書に引き渡さないと言うことだね。すると片山くん、その唐沢という秘書は二人だけで東京に戻ると思うかね」

「戻るかもしれませんが、理事長が肺癌ですから、頑張るかもしれません」

「すると喧嘩になるね。片山くんは、彼の処分をどうすべきだと思うかね」

「ここは、諦めさせて追い返すべきだと思います」

カズオは荒々しく、「またやってきたら、どうすんだよ。サツ連れてきて、俺たちが調べられる羽目になったら、やべーぜ。ここは口封じの意味も込めて、生け贄にすべきだぜ」

「そうだ、大麻吸っていると通報されるぞ! 殺っちまえ!」

福原弟が拳骨を握って加勢する。ジャガー族の女副酋長が口を開いた。

「そこまでする必要があるのかな。その秘書を連れてきて、ジャガー族の事情を話せば解ってもらえるんじゃないか。晶子ちゃんは死んだと言うことにするとか」

騒然とすると、あづまは木槌で机を叩き、

「静粛に! それではこれから多数決を行う。生け捕りにして連れてくるか。生け贄にするか。ちょうど三部族が三人いる。よって部族内の多数意見を部族の主張とし、さらに多数部族の主張を最終結論とする。みなさん、異議はないね」

彼の命は消えたなと、俺は溜息を吐く。

次々立ち上がり、順番に意見を述べ始めた。

まずワシ族。カズオは立ち上がり、生け贄を主張した。福原兄弟も生け贄と意思表示し、ワシ族の主張はスムーズに生け贄と決定した。

次にジャガー族。池じいは立ち上がり、生け贄とひと言。副酋長は、生け捕りといったので、目を合わせた二人に火花が散った。勉はよろよろ立ち上がり左右を見回しながら、

「カズオ、池じい。生け贄なんてとんでもない。あんたら自分が生け贄にされたらどう思うんや。ワシ族は自分が死なんとでも思っとるんか。なあ、そんなに簡単に殺すようだと、自分も簡単に殺されるぞ。そもそもインディアンは人殺しなんか……」

長いこと喋る会長に、あづまは苛立ち、

「勉くん、結論だけで良い」

「生け捕り」

ジャガー族は二対一で生け捕りに決定した。聞いているうちに「生け捕り」の延長に「生け贄」あるように思われて仕方がない。

最後にハブ族の三人。木田は立ち上がって、生け贄。これで決まったか。俺は奇跡を祈って立ち上がり、生け捕りと反対する。場の視線は俄然、キャスティング・ボードを握るサングラス男に移った。島役場の隣には、死神を祀る社がある。どう見ても唐沢に分が悪い。

あづまは立ち上がると、胸ポケットから青い石のサイコロを取り出した。

「私の結論は奇数が出たら生け贄、偶数が出たら生け捕りだ。それっ」

テーブルの上にサイコロが跳ねた。止まった瞬間、どよめきが起こった。

四の目。

「よし、私も片山くん同様、生け捕りだ。よってハブ族の意見は生け捕り。ジャガー族も生け捕りだから、二対一で生け捕り。会議はこれで解散」

皆出口に向ってに立ち上がる。カズオは「あんなのあるかよ」と不満を漏らした。

唐沢が生きるか死ぬか、サイコロを転がして決定するとは、何てふざけた議長だ。が、あづまは百パーセント生け贄を主張すると思っていたので、意外な結果に安堵した。

   

20-c

研究室に行くあづまに付いて行く。

木田がワシ族から預かった小切手と領収書を渡したので、俺も倣った。

あづまは帳面に記入し、木箱に入れた。中にはゴムバンドで留められた紙の束が山と詰まっている。木田が湯を沸かし、あづまはその茶を啜る。

興味深く帳面を覗き見していると、サングラス男は嬉しそうに、

「どれぐらいだと思うかね」

「え? 二千万ぐらいですか」

勘を言うと、あづまは咳き込んみ、

「上物はグラム当たり一万円はするが、半額で売ってやっている。ワシ族九人、ジャガー族二十人。計二十九人。一人月四万円。元ルリカケス族の吸っていない期間を考えて、合計、えー、約三千八百万円なり」

電卓を叩き、あづまは唇を尖らせて熱い緑茶をすすった。

「しかし酋長、現金はまだ受け取っていませんよね」

「そこが味噌なのだ。小切手OKも理由があって、彼らとの契約で二割の手数料を貰うことになっている。金利だ。ということは、えー、まけて四千五百万円なり」

太陽電池の電卓には、長い数字が並んでいる。取らぬ狸の皮算用の気がしてならない。

「しかし酋長、そんな大金、あんなインディアンなんかに返せるんですかね」

「君はルリカケス族にいたのに、何も聞かされていないのかね」

「え? 何をですか」

「インディアン基金のことだよ」

「そういえば、映画を作る時、みんなで金を出し合ったと聞きましたが」

「ルリカケス族に巨大な蛇の石像があったのを知っているだろう」

「ええ、大地の女神、コアトリクエですか」

「あの石像の中に、一億円眠っている」

「ええ! あんな所にですか! でも、何であんなところに……」

「持ち逃げを防ぐためだ。あの石像は相当頑丈だ。金を木箱に入れて、セメントで固め、石膏で形づくっている。あれでは、黙って持ち逃げするのは無理だろう」

「なるほど、それは良いアイデアですが……」

そうか。これを目当てにサングラス男はこんな島に出入りしていたわけだ。

あづまは思い出したように、木田の肩を叩き、

「ワシ族に借金の取立てをしてみたのかね」

「それがですね、あのワシ族の酋長、ジャガー族と一緒に一括で払う、待ってくれの一点張りで。この間、ジャガー族へ小切手を貰いに行った時、ルリカケス族と交渉してくるとか言っておりましたが、さあ、どうなっているのやら……」

木田は首を傾げ、言葉を濁した。俺は二週間も南にいたが、交渉の気配は全く無かった。ジャガー族は代金を踏み倒すつもりなのか。

あづまは湯飲みに髭をつけ、音を立ててゆっくりと茶をすする。

「本当に払う気があるのでしょうか」

木田が不安げに尋ねる。

「大丈夫だ。インディアンは嘘をつかない。約束は守られる。それに三年間も耽ったら忘れられないだろうし、インディアンが現金など持っていて何になる」

そうだろうか。必要ないなら何故すぐに渡さないのだ。

案外強かで、この島から脱出した後の事を想定しているのかもしれない。

俺は恐々と尋ねた。

「酋長、もし、連中が踏み倒したらどうなさるおつもりなのですか」

あづまは両脇から拳銃二丁を取り出した。銃口を俺に向けながら、

「みんな銃殺だ! 嘘をつくインディアンなど、生きている価値などない。金が出せないなら、命を持って償ってもらうまでだ!」

俺は本当に引き金を引くと判断した。その剣幕には、木田でさえ目を丸くし、びびりながら、「その可能性は有ります。どうなさいますか」

「仕方ない。次の議題に上げるしかあるまい。カチ割る道具は用意してあるのだ。あの男を捕らえる際、ついでに石像をぶち壊して金を出そう。最近金回りが悪くてね。奄美の業者がハブ革の買い付けを減らしやがった。チャイルド装置だって特許権を取り商品化されない限り一銭にもならん。そこまで辿り着くためには、まだまだ金がかかるだろう」

茶を啜って怒りを収めた酋長は、紙とペンを取り、何やら書き始めた。

返済額 ジャガー族三千万円。返済額 ワシ族千五百万円。それぞれに三年間に渡る商品の弁済を金銭でして下さい……。マリファナによる快楽の代償は、命よって支払うべきものではありません。担保もないあなた方へ、このままでは強制執行しなければならなくなります……。

あづまは脅迫めいた借金の督促文を折り畳んだ。木田に押しやり、催促に遣る。木田なら般若の面構えが役に立つだろう。

あづまはジャガー族のスケジュール表を手に取り、眺めている。牛肉を食べる日に印がある。久しく肉を口に入れていなかったので羨ましく思っていると、

「片山くん、今晩からジャガー族は二日間の断食に移るようだ。催促に行ったら、ついでに泊り込みで、断食の修行をしなさい」

「そ、そんな……」

「ハブ族の一員となった以上、君は苦しまなければならない」

俺は諦め、「修行を楽しんできます」と手紙をポケットに入れ、研究室を出た。

21-a 元ルリカケス族の男

   

  夕日が差してきた。北西の海辺を見ると、丸みを帯びた石が、アザラシの大群を髣髴させる。赤い波が幾重にも光っており、涼しい潮風が吹きつけてくる。

麻薬の運び屋をした後は、借金の取立てで、さらには断食修行が待っている。

俺はこれから自分がどうなるのか空恐ろしくなった。虎穴には入らずんば虎子を得ずをスローガンに、潜り込むのに成功はしたが、虎の子の体重は既に四十キロはある。とても独りで担いで森を走って逃げられない。本人の動く意思があったとしても、桂木が来るまで後三日以上はある。

黒い家に着くと、俺は借金返せと酋長の家の戸を叩いた。寝ていた勉は、紫色の鉢巻をぶら下げて出てきた。督促文を渡す。

「払わなければ本当に殺されますよ」 念を押す。

「分かっとる。金絡みで人を殺したことがあるんや、あの先生は」

会長は胸に手を当てながら、愚痴を繰り出した。

「そやけど病気になると、金が恋しくなる。今にして思えば、子供の戯言だったかもしれん。人生の目的は金やないと蛇島へ来た。本当の宝はどこかにあると船出したんや。子供の考えることやな。それで規律を作って厳しくした。見たろ。ジャガー族の行進。あれは大人のやることやないで。インディアンは子供や。だから操る工夫がいる。音楽や歌、踊りやハッパ、穏やかな海も荒れるから、断食とペット食いをやる。そうやって生活していったら、宝島に必ず辿り着く思うて頑張るんやが、上手いこといかん」

「宝島って、ルリカケス族はもう着いているのではないですか」

勉は土色の顔に乗った目を細め、

「そうや。ケイコの宝島は踊り島や。そやが宝島はそう簡単には辿り着けんのと違うか。古代メキシコの世界は、肉体を超えた霊的世界に繋がっている。そやからジャガー族は断食する」

「僕も一緒に断食しろと駆り出されました。この島は神話の世界になっているということですが、ジャガー族の祀っている闇の神と、ハブ族の死神は違うのですか」

勉は細い目をおっぴろげ、

「違うつもりだったが、やっぱ似てるか。いや、西の闇は東の太陽とワンセットやが、北の死神は単品、それも先生のオリジナルや。わても興味があって試しに崇拝してみたんやが、何ていうかな、生きる力を失わせる教義で、くわ~っと体中のエネルギーを吸い取られていくようやった。暗すぎるんや。それに変態趣味や。三年前、クジで負けた仲間を七人割り振ったんやが、二ヵ月後、自殺者が二人も出てな、その後一ヶ月間に木田を残して皆逃げ出したんや。あんた相当の物好きやな」

「そうかもしれませんね。やはりハブ族は嫌われているのですか」

本音を言うと、勉は即答せず、上を向き、

「どうかな。草をくれる以外、訴えてくる何かがあるんや。断食するたびに、赤子にすら噛み付きたくなる重苦しい感情に襲われる。この断食明けに、牛丸と名付けて可愛がって育てた牛を食べるんやが、情が移って、たかが牛と片付けられん。でも殺して食わな、飢えの苦しみが続く。愛するペットの命を奪うのはキツイ。結局、わしらもハブ族と同じように、死神でも見出して殺すしかないねん」

勉は唸り声を上げ、ため息を何度も吐いた。心臓病にノイローゼ、空腹を抱え、血色の悪い顔はさらに厭世観にまで苛まされている。

「断食なんて、子供には地獄でしょうね」

「一番必要な教育や」

歌い踊り、仲間と楽しみを分かち合っているケイコに軽さを感じたが、仲間と苦しみを分かち合おうとする勉には重たさを覚えた。

「ルリカケス族は、断食なんて苦行はなかったですよ。ジャガー族が目指すものは、さぞ素晴らしいもので、奥が深いのでしょうね」

褒めちぎると、勉は目を細めて、

「それが実のところ分からんのや」

頼りない言葉に不意打ちを食らわされた。

「え? 古代メキシコの霊的世界へ行くのではないのですか」

勉は渇いた唇を動かしながら、

「その目的地への手段が問題や。断食もその手段やと思うが、栄養失調で病気になったらどうする。大麻もその手段やと思うが、麻薬中毒になるだけかも知れん。なら、アステカ人のように生け贄を捧げるのはどうか。いや、ただの人殺しになるだけかも知れん。いや、そもそも自殺するのが一番手っ取り早いのかも知れん。そうなったらもう、あんたらの世界や。わても先生と同じ道を歩んでいるんやないか。そもそも古代メキシコは魂の楽園いうより、死神帝国やったかも知れんやろ」

勉は不安を一気にぶちまけた。

「とんでもない道を歩いている可能性があるわけですね」

「そういうことや。金を渡したら、引き返すのは難しくなるが、仕方ないやろ」

テーブルにはスケジュール表があり、勉は震える指先で「ハブ族の酋長補佐、断食参加」と付け加えた。

日程表をみると、責任者、ナギナタとある。農作業、家畜の飼育、子供の世話。ヤス突き。蒸し風呂。薪拾いと炭焼き。草取り、収穫。狩り、釣り、潮干狩り。断食明け祭りの用意。牛丸を殺す儀式、料理。音楽、踊り。呪術の実践。儀礼。食事作り……。

勉は窓を覗き込み、どんよりした夕焼けに眉をひそめ、鉛筆を齧る。

「大雨が降るかも知れん。五人がかりで牛小屋の屋根を直させるか。断食中はキツイか」

「病気なのに忙しそうですね」

「確認して付け足すだけや。ほとんど副酋長や池じいに任せとる。狩りや釣りでは確実に食えん。そやから畑に水を引いてトウモロコシや芋など色々植えてんやが、これが手間隙かかって害獣にやられるねん。それでも皆で育てて収穫することに喜びがある。昔の人間の方が神に近かったんやろな……」

話の途中でノックが聞こえた。青黒い顔の池じいが「オーッス」と元気よく入ってきた。

「会長、不幸じゃったのー」とお悔やみの言葉を述べると、勉は立ち上がり、後ろ向きになった。キジのように首を警戒して動かしながら、

「池じい、俺の頭の上とか背中に、親父がおらんか」

勉はさらに横になって、前を向いた。ごま塩の髭をした池じいは鋭い眼差しで会長を足から頭にかけて丹念に眺める。

「薄ら白いもんが見えちょる。頭の天辺じゃ」

「うっ、やっぱし……。親不孝が祟ったか……。思い残したわいを、さぞ強う念じて死んだんやろな……」

勉はベッドに倒れ込んだ。

「会長、悪霊とは限らん。気に掛ける必要はないんじゃ」

勉はベッドの上で溺れるように喘ぎながら、

「はあ…、ふう…、池じい、もう駄目や。これが潮時かも知れん……」

「なんじゃ? ついに矢が尽きたんか? 形だけでええんじゃ」

「それすら疲れたんや。もう解放してくれ……」

勉は白目を向いていた。

黒目が戻ったとき、勉は池じいと見詰め合っていた。

食事の準備が要らないためか外は静かだ。蝉だけ啼いている。窓から日差しがテーブルを桃色に染め、池じいの影が壁に黒く伸びている。

勉を見下ろす池じいは大きく息を吐いた。

「どうかなされたのですか」

恐々と尋ねると、俯いた会長の代わりに池じいが口を開いた。

「会長は三年間頑張ったんじゃが、限界じゃ。酋長の座を降りるじゃろ」

「え? 辞めてしまうんですか」

池じいはこくりと肯き、

「わしは前から知っておった。会長は、とっくに情熱が失われとったんじゃな」



21-b


「では、ジャガー族はこれからどうなるんですか」

「池じい、後は副酋長に任せた。マントを持って行け」

勉が後任を託すと、池じいは渋った。

「そりゃ無理じゃ。あのナギナタ女はえらい我が強いし、毛嫌いをしとる者が何人もおるんじゃ。命令を下される男や洗濯女の身になってみい」

「だったら池じい頼む」

「わしは横から口を出すだけの占い屋じゃ。とにかく、情熱ある後任を探さにゃならんわい。誰かおらんかのぉ」

池じいは天井を見た後、視線を俺に移した。

「酋長補佐、そこで何しとるんじゃ。暗うなるで。はよ帰らんか」

「いえ、断食をしろという酋長の命令がありまして」

勉が寝たまま声を出す。

池じい、どこか泊めてやるところはないか」

池じいはごま塩の髭をさすりながら、笑みを浮かべ、

「そりゃ、災難じゃったの。あの男のやりそうなことじゃ。泊まるには、何処がいいじゃろ。わしら家族持ちは話しとるうちに時が過ぎるが、泣く子を黙らせるのが面倒で、五月蝿い。子供がおらん所いうても、洗濯女や山田兄弟の所に置くわけにもいくまい。ヨガ教室は変り過ぎとる。坊主は三味線あれば満足し、ヨガ男は断食を何とも思うとらん、あのボサボサも暑苦しいわい。雑貨屋はどうじゃろうか。太鼓狂いはともかく、藤本に話し相手をやったら良いじゃろ。藤本の所へ泊まるのはどうじゃな」

最初出会ったゴリラの子供が頭に浮かんだ。まともな部類に入ると思い了承する。

広場に人気が無かった。体を動かさないことでカロリー消費を減らすのか。

ガジュマル囲う旧棟を抜け、新棟に向う。衛生所に行って手を洗い、ペットボトルに水を汲んでいると、「何してるの」と赤茶けた髪をした女が近づいてきた。細い目が笑っている。垢抜けした顔にインディアンの衣装。不釣合いに思えた。

「美紀さんですか」

「直子よ」

「こっち側に住んでいる人たち、元ルリカケス族なんだってね」

「そうよ」

「何で追い出されたんだい」

「あっちの酋長の嫌われたの」

「何で?」

「勝手なのよ。あなたの目は男を食い殺す目をしているって、出て行かされたの。確かに横浜にいた時は踊り子みたいな水商売やったこともあるけれど、酷い話よ」

「女は蜘蛛で男はトンボって言うもんね。子供を育てる栄養分として食い殺されるわけだ」

女は高い声で笑った。艶美な笑みに、俺は心を掻き毟られた。なるほど、彼女と懇ろになり切り離されれば、俺も南を抜け出すかもしれない。

「それは働かない主婦の発想よ。私は舞台に立って稼いでたのよ。女は花で男はミツバチ。私ね、主婦になって都会のマンションに篭っていられない性質なのよ」

「大都市は孤独だからね……」

がつっと壁に矢が刺さった。鋭い音に魂消て、飛んできた方を見る。青いバンダナの頬傷男が、矢を持って仁王立ちしている。

勘違いされたと、衛生所を離れる。バイバイと書いたのは、この男なのか。

山田兄弟の家を過ぎ、雑貨屋の前で足を止めた。ぽこぽこ太鼓の音が筒抜けしてくる。隣の家からは哀愁ある三味線が流れてくる。雑貨屋に入る。太鼓がしない方の扉を叩く。

戸が開くと、蝋燭の燈った部屋に妙な煙が充満していた。藤本は虹色の羽飾りを被っている。どうしたのか尋ねられたので、理由を話し、中に入れてもらった。

「そうか、池じいも粋な計らいをしてくれる。よし、座れ、座れ」

蛇の烏帽子を取って、ブーツを脱ぐ。

「隣、一人で祭りをやってんですか」

「くらの助か。気にするな、あれは太鼓中毒だ」

「五月蝿くて、いらいらしませんか」

「慣れた。心地良いくらいだ」

六十前後の無精ひげ顔は、リラックスをして煙を吐いた。

「良いんですか、断食中に大麻なんか吸って」

「煙は胃袋の足しにはならん」

「ちょっと横になりますよ」

騒々しさにくわえ、背中が疼く。欠伸をして体を半分崩した。

「あんたまだ若いのに、こんな島に来て、しかもあのボスに付いて行くなんて、相当変わってるな」

「まだ二日目です。ルリカケス族には二週間いまして、本当はジャガー族に合流する予定だったのですが、山田兄弟に見つかって殺されかけ、逃げる途中でハブに咬まれ、ハブ族の酋長に救われたのがご縁で、こうなりました」

藤本は腕を捲くりながら、

「あれは酷い。俺も島に着て直ぐに咬まれたが、肉が抉れて溝が出来た。山田の弟なんか、三メートル近いハブに咬まれて、手がグローブのようになり、どうしようもなくて切断したぐらいだ」

蝋燭に照らされた壁は歴史書で埋まっていた。アメリカ原住民が集団移動しているポスターに目が留まる。

「相当、研究されていますね。沢山ある……」 

「持ってきたのは少ない。昔は九重大学で教授で考古学を教えていたからね。与那国島にある巨大海底遺跡を探索しているとき、会長達が島にやって来てね、類は友を呼ぶだ、『インディアンになろう会』に入ってしまったよ、ははは」

藤本は味わいながら吸っては、名残惜しそうに煙を吹く。九重大学の元教授とは、世間でいうエリートではないか。何でまたこんなに零落れ果ててしまったのだろう。

藤本は行進の時に吹いていた原始的な角笛を取り出し、プップーと鳴らし始めた。

「へー、大学教授だったんですか。家族は反対しませんでしたか」

藤本はラッパを吹くのを止め、

「家族はおらん。女房は十年前に癌で死んだ。どう生きようが、俺の自由」

「不満はないんですか」

藤本は指で歯を弄り始め、「しーしー」言いながら、

「言い出したら限がない。歯が痛い。大麻は鎮痛剤代わりだ。前歯、もうじき抜けそうだ。踊る時にもいるし、これは未開世界には不可欠だ」

太鼓の音が抜けてくる。大麻でほんわりしている藤本は饒舌だった。学者時代より健康になったし、子供に戻ったようでなかなか面白いという。

「疑問に思うのですが、藤本さんは相当まともですよ。何でまた、ルリカケス族から追い払われたんですか」

「自分から抜け出たんだ。未開生活の厳しさぐらい分かる。もう年だし、いきなりジャガー族はきついだろうと思って、一年程ルリカケス族で慣らして、こっちに来た。こっちは厳しいが、本物に近い。大麻は吸えるし、肉も食える。女も情けをかけてくれる。食い物を実らせるのも面白い」

「確かにいきなりここは厳しいですね。そういえば、会長は死に掛けてまして、ボロボロですね。今さっき、ジャガー族の酋長を辞めるとか言っていましたし」

藤本は興味を持ち、

「ほお、辞めるのか。後任は誰だ? 池じいか?」

「いえ、あの人は断りましたよ。副酋長も器不足らしく、多分、護衛隊長でもなるのではないですか」

「それも問題だ。狩男や土方は喜ぶだろうが、山田兄弟は反対するだろう」

「複雑ですね。東西南北に別れて住んでいるから、まだましなんでしょうが…」

「あれは俺の発案だからな」

   

21-c


ボソッと漏らした言葉に驚いた。

「え! 藤本さんだったのですか」

「面白いだろ。最初は映画化を志すほどロマンを求めていたからなぁ。ユカタン半島まで遺跡を発掘しに行ったことがあるが、全く、考古学者など銭儲けの墓掘り人だよ。事実から仮説を組み立てて認識する。発掘して調べるのだが、骸骨の何処にロマンがある。たとえ骸骨に肉付けしても、人形の領域を出ない。真のロマンとは大昔の人間が何を感じ、どう行動していたのか知ることだ。演じてみなけりゃダメだ。そうして俺はこうなった」

「へー、それで考古学者から役者に転向ですか」

藤本の咥える紙束はちびていた。唇は美味しさで震えており、目から涙が潤んでいる。

「俺も昔、考古学のロマンは凄い遺跡でも発掘して執筆し、テレビ出演することだと思っていた。与那国島にある巨大海底遺跡。一万年以上大昔前、我々と同じ遺伝子を持った人々がどんな生活をしていたのか。今では温暖化で水位が上昇しているが、あの遺跡が顔を出していた頃は寒かった。新生代第四紀の氷河時代は海が氷結し、水位が下がっていた。ベーリング海峡も北東シベリアと陸続きだった。アジアの狩猟民族はマンモスなどを追いながら日本やアメリカ大陸に散らばって行った。それが彼らだ」

藤本は壁の写真を指差した。

「見てくれ。アメリカ先住民だ。あの顔つき。我々と同じ蒙古人種。血清タンパク中の遺伝子分析によると、古代日本人の遺伝子は、インディアン、ポリネシア、中国江南人と同一であると判明している。インディアンのズニ族の言語は、日本語と同音同義語が多いらしい。例えば、『厳つい』のことを『イカチー』、『辛い』のことを『カリー』、『大きい』のことを『オキー』と言うらしい」

虹の羽飾りを揺らす教授の説得には力があった。

「では、与那国島の海底遺跡もインディアンの祖先に関係するのですか」

「さあね。もうどうでも良いことだ。俺は墓堀人を辞めた。君は死んだ後、家や骨を拾って組み立ててもらいたいかね。アホくさいだろ。もっとロマンある人生を体験しようじゃないか。遺伝子を目覚めさせるのだよ。遺伝子には大量の経験が蓄積されている。俺は自然に身を任せ、インディアンになってみることにした」

藤本は火をもみ消し、僅かに残った大麻を大事そうに木箱に収めた。

「これが面白い。荒唐無稽な夢ばかり見るようになった。ワシのような鳥に化けたり、ミミズのような虫にさえなっている。昼間ですら、何かしら夢を見ている心地だ。本を読んだり、映画を観たりするのが馬鹿らしくなってくるくらい」

マリファナを吸えばおかしくなるだろう。

「ただこの島では当初、映画を作る予定ではなかったのですか。あの映画はどうなったんですか」

藤本は「映画か」と横臥し、羽飾りを外した。頭の天辺は薄くなっている。

「やろうと思えば出来たし、最初はやるつもりだった。特に君のボスは、金になると意気込んでいたね。君のその格好、靴やズボン、帽子までわざわざ全部蛇革で作った。悪役を演じるつもりだったんだろ。船で沢山の獣を運び、狩りが出来るようにした。俺たちも東西南北に赤黒黄白の集落を作り、衣装や小道具が整えた。だが、やらんかった」

「何でですか」

藤本は眠そうな声で、

「怖くなったんだ。シナリオ的に面白過ぎたから。映画を作って大ヒットしたらどうなる。生活が台無しになる。大自然での暮らしが、刑務所暮らしだ」

杞憂だろうと思いながら内容が気になる。

「どんなシナリオだったのですか」

「異質なもの同士の激突だ。東京で生活していた男が、嵐のためインディアン島に漂流するという話。男は船がなく、島から出られない。仕方ないので友好的なルリカケス族に混じって踊りながら生活しているうちに、他の三部族のことを知る。男は島の抗争に巻き込まれ、命を狙われるという筋書きだ」

俺は話に既視感を覚えた。

「藤本さん、それ、現実に起こっていますよ。自分は何とか助かりましたが、そういえば、唐沢という秘書が生け捕りになるという話を聞きましたか」

「聞いた」

「場合によって、殺されると言うことはあり得ますか」

藤本は体を起こし、胡坐を組んだ。襲い掛かるほど目をギラつかせ、

「それは十分にあり得る。というより、それが映画のストーリーだ。迷い込んだその東京の男を、白い家で犠牲にする。人身供犠は神に近づく最高の儀式になっている。実際、古代アメリカでは何十万人もの生贄の心臓が捧げられた。映画では危ない所でルリカケス族が救う。正義が勝たないと受け入れられないからね。現実はどうかな。君のボスが麻薬で部族を操っているし、ピストルで脅すことも出来る。最後の一線を踏み越えるかもしれん」

平然として言う藤本に苛立った。

「藤本さんはそれでいいのですか。この島に正義はないんですか」 

「正義ね」藤本は薄ら笑いを浮かべ、

「あるけれど、種類が違うんだろうね。倫理学にボートの理論がある。救命ボートの定員は決まっている。皆が乗れない。だからリストラするわけで、これが現実だ。自分が降りてやるから、代わりに乗れとは誰も言わない。博士号とか切符があっても乗れない場合がある。俺はたまたま担当教授に力があって、運よく大学のボートに乗れた。でないと、食い詰めて高校のボートにでも割り込んだだろう。その分一人押しのけられる。俺はそのボートに乗って、高校生に民主主義や正義を語る。俺に押し退けられた者は正義を語る前に、別の人をボートから引き摺り下ろして乗らねばならない。全員乗れないのが現実だ。全員乗れるようにすべきだと語る者は、何で人を殺してはいけないのか答えられない」

藤本の顔に皺が刻まれた。切羽詰っている。俺は楽観的に、

「一応、正義はあるのではないですか。現実には殺してやりたいほど憎くても、殺せば死刑になるから、殺さないとか。でも何で殺しちゃいけないんでしょうかね」

「俺は六十過ぎだがまだ死にたくない。俺を死に追い詰める者があれば殺すだろう。殺すほど追い詰められていないから人を殺してはいけない、これが俺の答えだ。まったく甘かったよ。大学教授に踏ん反り返っていた間、俺は世の中を甘く見ていた。厳しい競争に勝ってボートに乗ったわけだから、自分で自分を正当化できた。努力しないのが悪いのだとか、自分なりの正義があったわけだ。だが俺の正義は俺だけもの、俺と同じ側にいる者のものでしかなかった。違うかね……。ボートが丸ごと沈没する時代だ。今まで以上に突き落としあうだろう。残った者が正義を語るが、人間味が薄いね。昔は酷い戦争に遭って色々考えたのだろうけれど、今は健康や豊かさが当たり前、ボートに乗れないのは頭の悪い奴。同情するにしても、見下す態度。弱みを見せたら、つけ込まれて落とされるだけ。虚勢を張っていないといけない。もう厭になったよ、年をとり過ぎて、情に脆くなった。女房に死なれ、強烈に孤独感の襲われたよ。ああ、あの時、突き落とされたんだろうね。ああ、死を意識するようになった。定年まで大学にいる気力も無くて、譲ってやった。子供でもいたら違ったかもね。やはり、長年連れ添った女房に死なれたのが痛かった……」

藤本は熱くなり、次に弱弱しくなり、最後には鼻をすすり始めた。

胸を熱くして涙を流している。俺は三十年後の自分を見た気がした。

騙し蹴落としあう世界。勝ち残った者でさえ、孤独や虚しさと闘う。勝ち犬も、寄る年には勝てない。俺はそっと背中を抱いた。  

22-a 月の女神

翌日、隣の太鼓が目覚ましになり、起きた。

女の声がし、くらの助が何やら忠告されている。

こちらのドアと叩く音がした。鍵がないので引けば開く。朝日を背に、額に桃色のバンダナをした副酋長が立っていた。

「ねぇ、藤本さん。今日は昼前に集会があるから。それと、山に行ったら、薪を拾って来てちょうだい」

大きな女が胡散臭い目で俺の方を見ている。

俺は挨拶をし、「今日は断食の日ではないのですか」

「それがどうしたんだ。散歩がてらに山に入ったら、薪の一本でも拾わなければいけないんだ。燃やしたら無くなるんだから。……あんたはハブ族だけれど、断食開けたら、ここで食べて行ってもいい。その代わり一緒に行って薪を伐って来るんだ」

男のような口ぶりに感心しながら、

「副酋長も大変ですね。断食なのにそうやって動いているわけですか」

「楽なもんだ。私ね、この島に来る前は、毎日十二時間は働いていたんだ。金を出せば何でも手に入ったけど、それが虚しくて、この島に来たんだ。動物も飼っているし、やることが沢山あるんだ。何もないからな。こっちはルリカケス族とは違うんだ」

かっと見開かれたナギナタの瞳には、小さな炎が燃えていた。

「あっちは反則ですよね」

「自活力が足りないんだ。あんたもハブ族だから食い物に困ることはないだろうが」

「そうですかね。断食しろと追い出されましたよ」

冗談を言ってみたが、ナギナタは笑うどころか真剣な表情で、

「苦しみは一時だ。戻れば食わしてくれるだろ。私も昔、ハブ族を体験したことがある。飯ごうで炊くキャンプ生活だった。でもここはその穀物を育てるんだ。幸い、この島は実りがいいから、収穫が計算できる。ただやることが多すぎて、島に来る前とは全然違った頭がいるんだ。こうやって毎日回って、仕事の分担を確認しているんだ」

ナギナタは戸を閉めながら、

「薪を拾ったついでに、花があったら摘んで来るんだ」

そういって去った副酋長は、三味線坊主の家に回った。

俺は顔を洗い、烏帽子を被って黒い家の周りを散歩する。

副酋長に勧告されたのか、瘠せたヨガ男は機織り機の前に座り、ガンジーさながらからから回している。

岬のような場所に立ち、西方に果てしなく広がる紺碧の海を眺めた。潮騒を聞きながら青空を見つめ、大きく深呼吸をする。

瞼に彼方の都会が浮かぶ。貧しくとも地に足が着いた生活だった。道路、工場、事務所、商店街……。誰もが自由に活動をしていたが、踏み倒すことはなかった。警察や裁判所があったからだ。財産も、命も奪われることはない。

この島は違う。安心できないから、あづま達はピストルを携えている。大麻を売って小切手を渡し続けているのだが、あの連中が払うのか。

稼ぐための苦労を忘れたわけではあるまい。連中は金なしで将来の不安を払拭出来るのか。ケイコ達は大麻に反対して孤立していたのだろうか…。

くらの助が鉞を持ち、藤本も森に入ろうとしていた。一緒に薪を取りに行く。集会があるから早めに帰らねばならない。

何の集会だろうかと話しながら、薪を伐る。道を塞ぐ樹木を伐る。くらの助も藤本も、腹が減るのか動き緩い。カロリー消費を嫌いサボっていると、牧場から三人出てきた。土方と狩男、高井だ。牛小屋の屋根を頑丈にし、道具を持って戻って行く。

俺たちも釣られるように、薪を抱えて山から戻った。

ガジュマルに大きな牛が括られ、晶子がかしずいていた。

晶子は艶のある黒い腹に頬を当て「長い付き合いだったわね」と語りかけている。

唐沢の船が来るまで後二日。連れて逃げたいものだと、偶然を装って近寄る。

「やあ、おとなしい牛だね」 角を握ってみる。

「去勢されてるからね」

「それは惨い」

「明日の晩には食べられるのよ。可哀相に」

「仕方がないよ。運命だから」

晶子は文句を言いたげな顔で、

「あなただって、そんな蛇の格好しちゃって、ろくなことにならないと思うわ」

「さすが分かってるね。それより、僕は蛇島に来て二週間、ルリカケス族で暮らしたけれど、晶子ちゃんのことをお母さん、心配していたよ」

「踊って暮らして、血を見ることもないし気楽よね」

「だったらルリカケス族に鞍替えしたらどうかな。大歓迎されると思うよ」

「勉くんを独り、置きざりにして行けないでしょう。今でも弱っているのに」

「父親思いなんだね」

「それに私はここの巫女。月の女神が抜けるわけにはいかないじゃないの」

年を越えて大人びた口調である。ジャガー族の行進で振っていた旗がちらつく。

「へー、月の女神か。あの旗。ジャガー族は闇の神を祀るからシンボルは月になるのか。それにしても、今どき高校に行かないなんて、問題じゃないかな」

「別に構わないんじゃないの」

晶子はあっけらかんとしていた。

「もっと世界を知るべきじゃないかな。太陰暦って何だか分かる?」

「馬鹿にしないでよ。勉くんと一緒だから、いろいろ教わっているのよ。新月、上限の月、満月、下限の月、もう一度新月になるまで、だいたい三十日。私の生理と一緒。満潮になったり、干潮になったり、地震の引金にもなるらしいわ。不思議な光よね」

「なるほど。親が物知りだと学校へ行くより知恵がつくわけだ。じゃあ、その月の女神をずっとここでやり続けるつもりなの?」

「それしかないわね」

晶子は牛のブラッシングを止めて、手の平を上に向け、天を仰いだ。

「あの大きな光は、月と違って、姿形あるもの全てが明らかになる。草も、私も、牛丸も、全部まんべんなく育てているのよ」

「確かインディアンの神話によると、太陽の神は生け贄を要求しているんだってね」

「あれは命よ。命が燃えていて、生き物はあの光に愛されているのよ、私も、牛丸も。殺して食べたいくらい、愛されているのよ」

その狂信的な瞳に戦慄を覚える。

俺は天上を指差し、

「なら、あれは、僕らを殺して食べたいと呟きながら輝いているわけ?」

「愛情よ。あの大きな目は、きっと何もかもお見通しなのよ。あなたや私がよちよち歩きをしていた頃からずっと見守っている。太陽は眼が潰れるから目を合わせないけれど、月とは毎日、会話をしているの。月の瞳が閉じたとき、寂しいわ。昨日の下弦の月。目つきか厳しくなった気がするわ。何か悪いことが起こりそうな気がするの」

背中に虫が這うような感じを覚える。

「どんなお告げが出ているんだい」

「島で悪いことが起きる、ここから逃げなさいって……」

牛の前で立ち話をしていると、いつの間にか山田兄弟に取り囲まれた。

薄い眉で頬傷のある兄は威嚇するように小突いてきた。

「おい、何を話してんだ」

弟は槍で突き上げながら、

「うちの巫女に手を出すんじゃねぇ」

「やめなさいよ」

「こいつ、どうも怪しいんだ。気に食わねぇ」

またしても邪魔が入った。心残りがあったまま晶子の傍を離れる。

正午になると煤を帯びた雲が、空を覆い始めた。台風でも近づいているのか、樹木が悲鳴を上げながら揺れていた。

水を飲むのは許されていたので、水道のある衛生所へ行くと、直子と美紀が、アダンの陰で静かに休んでいた。

  

22-b

集会は俺の紹介から始まった。

ガジュマルの木陰に、副酋長、池じい、勉が立っている。紫の鉢巻を垂らす勉の顔は、青ざめていた。シンケンが、土方の太い腹を叩いている。山田兄弟が胡坐を組み仰け反っている。子供たちが空腹の余り、泣き声を合唱をしていた。

牛は「ぼ~~」と低い声で唸っている。のそのそと干草の方へ移動して食む。口をもぐもぐしている様子を、みんな顔を強張らせて見つめている。

泣き疲れた裸の子供は、毛の長い犬とじゃれ付き始めた。白いウサギも抱えている。

注目の的である俺は、池じいから「ハブ族の酋長補佐だ」と紹介された。苦行を共にし、断食開けの宴会にも、歓迎会として加われるらしい。

「仁王が運び屋を辞めたのか」

「ジャガー族の専任だ」

噂が流れる。

白ウサギを裸の子供がさすっていると、池じいは、ところで皆の衆と、ウサギの耳根っこを掴み上げ、競りでもかけるように、

「このか弱いウサギ。こいつを馬鹿にしてはならん! 生きている姿は弱弱しいが、死んだら強烈な霊となって祟って来るんじゃぞ。死ぬまで呪ってくるんじゃ」

苛烈な説法に、山田兄弟は「怖いことを言うな!」と野次を飛ばす。

狩男も「そうだ! 信じられんぞ!」と文句を言う。

俺もその通りだと心で呟いた。

池じいはウサギを降ろして放す。怖かったのか飛び跳ね、遠くへ逃げていく。

「よく聴くんじゃ。例えば狩男が、か弱い乙女を強姦して殺し、山に埋めたとする。生憎、発覚しなければ死刑にはならん。だからと言って狩男は大手を振って歩けるか。いいや出来ん。狩男は怨霊で呪い殺されることをひたすら恐れるようになる。か弱き女も死んだ途端に強くなる。狩男は夜も眠れんようになる。何をするにも悪霊がぴったりと背後に回っているような気がする。死刑にされるまでもなく、呪い殺されるんじゃ」

「じいさんよ、霊って人間でなくてもいるのか」

山田兄が神妙に尋ねると、池じいは声に重みを加え、

「そうじゃ。むやみやたらに矢を放ってはならん。殺したら最後、ずうっと呪われ続けるんじゃ」

「池じい、霊は何で現れんだよ?」

霊を語る占い師は、尋ねた山田弟を見据えた。兄もしつこく、「そもそも何で呪うんだ?」

「時と場合によって違うじゃろ。復讐するためか、成仏させてもらいためか、感謝してもらいたいためかも知れん。苦しんだことやら、何かを知ってもらいたい為に憑くわけじゃ」

「ふん、だからどうだっていうんだ!」

山田弟は池じいの説法が気に食わない顔をした。

冷たい野次が飛ぶんだ瞬間、池じいは噛み付く虎の形相をした。

「何で分からんのじゃ! 何でわしらがこういう格好をしているのかを!」

池じいが一喝をしたら「何だ、何だ」と場がざわめく。

「わしらは皆、滅んだインディオの亡霊に憑かれとるんじゃ!」

稲妻の声が落ちた。広場は静まり返り、文句を言う者は消えた。

蝉の声を背に、牛が唸り声を上げた。空は灰色になり、小さな雫が降り始めた。

池じいは睨んだまま。時を見計らったかのように、勉が「聞いてくれ」口を開いた。

「今、わいは病気で弱っている。本当にこの島で何をしているんやろうか。生きているのが厭になることもある」

「そういう時もある!」

同調が飛んだ。

「酋長、早く病気を治しなさいよ!」

「元気になって!」

励ましの声も響く。

勉の目は隈が出来ており、腐ったサバのように死んでいた。場が滑らかになったところで、勉がぺこりとお辞儀をし、

「みんな済まねー。ペテン師だらけの東京が嫌で、この島に来たんやが、わても所詮、ペテン師やったかも知れん。これ以上は責任が持てん……」

これには隣の副酋長も驚いたようで、大きく目を見開き、

「酋長、何言ってんだ!」

護衛隊長も慰めるように、「ぜんぜん騙されてはいないぞ!」

勉はもう一度屈み、紫の鉢巻をだらりと垂らした。

「済まん。俺はこの先やって行く自信がねぇ。力不足を感じる。酋長の座を降りようと思う。後任は、皆で投票して決めよう……」

爆弾発言に副酋長の目が動転した。大ブーイングが沸き起こった。

「今さら何言ってんだ! 会長は死ぬまで酋長だろうが!」

山田兄弟が叫べば、狩男や土方も責める。

「約束が違うじゃねーかよー」

「勝手に止めないでくれ! 会長の他に誰がいるんだ!」

「俺は酋長の器じゃなかったんだ。済まん」

勉は只管わびを繰り返す。

空腹だから不満が溢れるのかもしれない。ナギナタは地団太を踏み、直子と美紀はヒステリックに「キャー、キャー」叫ぶ。池じいが警備員のように両手を振ってなだめる。

「みんな聴くんじゃ。さっき言うたように、霊は恐ろしい。ここにおるハブ族の酋長補佐から知らせがあったんじゃ。会長の父親が死んだんじゃ。会長は今、ノイローゼになっておるんじゃ。その霊に憑かれて苦しんどるんじゃ。そっとしてやってくれ」

「そんな馬鹿なことがあるか!」 シンケンが叫べば、

「酋長は腹が減って弱気になっているだけだ!」 狩男は原因を探る。

「そうだ! 食ってから考えろ!」 土方も同調した。

勉は手振り身振りで弁解をする。

「腹が減った今やから、みんな分かってもらえると思う。俺たちのやっていることは、ハブ族と大して変わらんのや」

「だったらどうだってんだ!」 怒った山田兄が叫ぶ。

「後のことは、あづま先生に頼んだらどうかと思う。先生は船を動かすから、もっと豊かな生活を約束してくれるやろ。ハブ族の仲間もここにいるし、友好的や。ハブ族と合体すれば、上手くいくのではないか。それに北は空きがあるが、東は狭い。子供が産まれればもっと狭くなるし……」

「きゃぁ~~」

説明の最中で悲鳴と共に、女性のブーイングが多くなった。

「いやよ!」

これまで黙っていた看護婦が拒絶反応を示した。

「何でや。ジャガー族とハブ族は向かっている方向が一緒やないか」

ピンクのバンダナは大声で捲くし立てる。

「私はいたけどね、あんな所、全然楽しくなかった。ハブ族に入るくらいなら、ルリカケス族に行くか、島を出た方がましだ!」

「そうよ!」  池じいの女房が賛成する。

勉は弱った体に鞭を振るって大声を出した。

「ルリカケス族とは、あの一件で絶交したままだ。もはや我らの行き先は、北しかない」

「あんなのはインディアンじゃねーよ」

狩男が反対すると、副酋長も手を突き上げて、

「そうだ! あれは、この世では存在してはならないような暗い思想だ!」

「悪魔よ!」

看護婦は相当嫌っているようだ。

飢えで皆の神経が逆立っている。茶色のバンダナをした土方は立ち上がって槍を振り回し始めた。

「腹が減った!」

「何か食べたい!」

裸の子供達は何も分からず叫んでいる。

その心が伝わる。俺たちは何でこんな小さな島で断食をして苦しんでいるのだ。