俺は吉村に揺り起こされた。朝もやの中、薄暗くて辺りが見えない。
眠たい目を擦りながら、水を飲み外に出る。裏庭のトマトをもぎ、かじる。
吉村とシンケンは黙々と細い枝を削っては矢筒に入れている。俺は絶望の気分で鉄パイプを握った。溜息が出た。野鳥に誘われ森に少し入る。露を含んだ羊歯が山道を覆い、うっすら霧が立ち込めている。緑色の顔をした翔太がいた。息子もトマトを齧ったようで、口の周りを赤くしている。
「お母さんは何処へ行ったんだい」
少年は「分かんない」と首を振った。
息子の顔を覗き込んだ。無邪気な丸い顔はこれから起こる事を何も考えていないようだ。
「翔太くん、見ただろう。この島には恐ろしい死神が棲んでいるんだ。俺たちを殺そうとしているんだよ」
「何で殺しに来るの」
息子は泣きそうなほど怯えている。
「それはね、俺たちを死の国へ連れて行くためなんだ」
「死の国?」
「そうだ。仲間たちが沢山殺されただろう。みんな死の国へ旅立ったんだ」
「怖いよ~」
「そう、怖いからみんな死の国へ行きたがらないんだ。それで仕方がない、こうなったら無理やり死の国へ連れて行くしかない。そこであの死神が登場し、銃を撃って、せっせとみんなを死の国へ戻しているんだ」
「おじちゃんは怖くないの」
脚が震えていたが、強がって否定する。
「ぜんぜん怖くないね。ただ、おじちゃんには、まだやり残していることがある。一応、二十九年も生きたのだが、子孫を残していない。悲しいことだよ、まったく。子供ができれば、成長を見守りたいとかで未練ができるんだろうが、俺に言わせりゃ、ずいぶん贅沢な話だ。翔太くんはこの島で思う存分楽しんだかもしれないが、俺なんか、今まで楽しいことなんてほとんどなかったね。生きているのに、死の国いたようなもんだ。もう少しこの生の国を味わってから、おさらばしたいよ」
子供相手に話がだんだん愚痴っぽくなる。
「おじちゃんは死に際に思うのだが、この一ヶ月が人生で一番楽しかったよ。最高に生きているって気がした。ここで三年もインディアンをやって踊って騒いでいりゃ、妬んだマゾヒストが出現して、死の国へ連れて行こうとしても不思議じゃないね。銃弾を一発浴びれば、あっという間に死の国境を通過する。ほんの一瞬の苦痛だ。そう、死神を見たら、判断する間もないと思うよ。だからねえ、翔太くん。俺たちはもう既に境目に来ているわけだ。そろそろ死の国へ行く心の準備だけは、固めておいた方が良い」
「死の国へ行く準備って、何をするの?」
「日本人の伝統では、両手を合わせて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えるんだ」
両手をそろえて実演する。無邪気な少年は真似をしている。
ナタを持ったケイコが紙切れをひらひらさせながら森から下りてきた。追い込まれている割に表情が穏やかだ。合掌している二人を見て怪訝な表情をした。
「何やってんの?」
「はあ、お祈りを少々」
「近くに死体は無かったわ。片山くん、これから森の中に入るから、支度をして」
突撃命令を聞き、鉄パイプを持つ手が震えた。こんな物であの二人と戦えと言うのか。
「死の国に行くのですか!」
「ここにいる方がよほど危険だわ。守りに入るだけになるもの」
確かに攻撃は最大の防御であるというが、ウサギはチーターに勝てない。
「しかし酋長、森に入るのは相当危険ではないですか」
俺の怯えを見たケイコは、軽蔑した声で、「あなた、臆病だったのね。見損なったわ」
性格を読んで扇動してくるケイコに腹が立ってきた。
「臆病じゃないですよ。無謀なことはしたくないだけです。撃ち殺されるのが目に見えてますから」
ケイコは眉を上げ、楽観的な口調で、
「ここにいても何も始まらないわ。皆で力を合わせ、一矢報いましょうよ」
ケイコが紙は広げた。生存者リストだ。ルリカケス族とジャガー族と全員の名前が二列に及び、シンケンから聞いた生死の確認、死んだ場所が記されてあり、その下に地図がある。丸い島に道筋があり、死んだ場所にはバツ印がついていた。
「生存者を探し、死体を見つけながら歩くのよ」
死体を見つけるどころか、俺たちが死体になるのではないかと思ったが、ケイコは本気だった。すやすや眠っているトモコを蹴り起こし、森に行くと告げる。
「ケイコ、狂ったの!」と大反発された。トモコは「ハブがいる」、「自殺行為だ」散々ののしり、南に残ると言い張った。
ケイコは説得を止め、生存者リストに二名、南に残ったことを記入した。
三十六人中、生存者七人。安否不明十八人。
内心、俺も残りたかったが、ここにいれば助かるわけでもない。あの二人が南に現れたとき、かえって障害物のない浜辺に追い込まれていくことになる。
吉村がジャンベを叩き、出陣の踊りが始まった。シンケンが蛇皮線を弾き、独特の喉で島唄を歌う。太鼓は暗い音だが、その無感動な音には飛び跳ねるリズムがあった。ナタを持った酋長は飛び跳ねる。俺はやけくそで鉄パイプ片手に乱舞した。
踊りが終わると、ケイコは息子に太い葉を糸でしっかりと結び、顔や腕に緑色の顔料を塗りたくっていた。最後まで生き残ってほしい母親の愛情が伝わってくる。ハブ革のベストで俺の体も酷くカモフラージュされている。だが、あの死神なら見抜いて撃つだろう。何をするのも空しく感じられた。
「行くわよ」
踊って五人の意思が統一した。残ったトモコと連れ合いは、桂木が到着するまでヤドカリのように磯に身を隠すという。俺は双眼鏡を首にぶら下げ、水の入ったペットボトルを腰にくくり付ける。
先頭に吉村が歩き、俺が続く。酋長と息子を守るように、シンケンがしんがりを歩く。足音を殺し、樹木の隙間を凝視しながら進んで行く。死神は何処に隠れているのか分からない。浮かび上がった根っこで躓きやすい。大きい石は足を惑わせ、小石は落ち葉と一緒に足を滑らせる。足に絡みつく蔓や枝はハブと見間違える。
時が静か過ぎる。時折鳥が音を立てると、心臓が止まりそうになった。
ヒカゲヘゴの高い天蓋を見上げながら、ここに何度も来たのを思い出す。
俺たちは道を逸れ、見覚えのある場所で休憩した。二週間前、吉村と花を摘んでいる際、あづまと再開した場所だ。淡い紫のフヨウやサツキが幾つも咲いている。安全を期してもっと奥に入ると、青々とした葉に白い朝顔に似た花が頭を垂れていた。
ケイコはナタを握ったまましゃがんでいた。生きた心地がしない。声を潜め、
「酋長、あの二人、こっちに向かっているのではないですか。ばったり出くわしたら一瞬にしておしまいですよ」
「じゃあ、私が先頭に立って歩こうかしら」
「死ぬのは一緒ですよ」
風に垂れ下がった白い朝顔が揺れていた。俺は白い花を千切った。この花を摘み、笑っていたのを思い出す。ブラックルームに一輪挿してあったのはこれかもしれない。
「そういえば酋長、この花、あの死神男が摘んでいましたよ」
ケイコの顔がびくっと仰け反り、悪魔を見たように険しくなった。
「こんなもの摘んでたの! これ、朝鮮朝顔じゃない」
「朝鮮朝顔?」
「そう。別名、ダチュラとか、マンダラケといって、種子にアルカロイドを含む有毒植物よ。喘息などの薬になって、江戸時代には麻酔薬として用いられたの。毒が強いのは種だけれど、葉も花でもよくて、粉にして喫煙するの。煎じて飲んだり、粉に引いて油と混ぜたものを肌に塗っても効果があるわ。バッドトリップに使う麻薬で、悪魔に会うためにこれを使う人が多いから、昔から悪魔儀式に使用されたの。キチガイナスビよ」
「キチガイナスビ……」
ケイコは朝顔を刈り、真剣な表情で手にとって見つめている。
休憩は終わり、再び道に出る。しばらく歩くとせせらぎが聞こえて来た。東へと小川が流れる場所に辿り着いた。この地点もかつて何度か来た経験がある。
高木の葉陰が辺りをまだらにしている。見晴らしが良かったので、双眼鏡で樹木の隙間を覗く。ぶら下がった枝や大きな葉っぱなどがくっきりと浮かび上がる。台風で小川が氾濫し岸をけずった形跡が見られたが、河床は元に戻っている。新しい足跡が何個か残っている。何処まで続いているのか興味を持って目で追いかける。
「おい、これを見ろ」
護衛隊長の刃先を見ると、緑の葉が血を吸っていた。弓が落ちている。矢がばら撒かれてある。宙吊りになり両手をだらりと下げた大男が果てていた。
「おお、土方!」
シンケンは吊り罠を切断して、死体を落とした。顔を当てて抱擁する。
親友だったのだろう、声を上げて泣き、死体の茶色いバンダナを外して腕に巻いた。
昨日の悲鳴はここから聞こえたようだ。
ケイコは紙を出した。地図と生存者リストに記入する。
安否不明十七人。
吉村とケイコ、シンケンの三人が小さい声で口論し始めた。どっちへ行くか迷っている。
俺は島の地図をイメージしながら考える。今まさにこの中央の地点で、ロシアンルーレットに匹敵すべき、生死を分かつ決断に迫られているのだ。このまま小川を越えて島の頂上へ行くこともできる。そうすればさらに道が二つに分かれている。真直ぐ進み北に行くか、途中で折れて西へ行くか。だが東へ行くなら小川の沿道を歩くしかない。もしハブ族が東にいて西や南へ行こうとするのなら、この沿道を通るだろうから、バッタリ出くわす可能性が高い。だが北か西にいるかもしれない。すると直進しても危険である。北経由の海岸沿いの道もあるわけだから、確率的に考えて、何処が安全とは言い切れない。
吉村とシンケンは真直ぐ行って西に曲がることを頑として主張した。山小屋にいるなら、まだ眠っている可能性があるし、あの辺は鬱蒼とし、不意打ちのチャンスだと。
俺は疑問に思った。早起きし、こちら南に向かって歩いているとしたら、みすみす殺されに行くようなものではないか。だが今の俺たちとて、置かれた状況は変わらない。
「ねえ、どうする?」
死体の位置を観察しながら、ケイコは皆の意見をまとめようとした。
「このまま北か西へ向かうんだにゃ」
「私も西へ行きたいけれど、まず東の様子を見た方がいいと思うの」
「何でですか」俺が問うと、
「東にジャガー族の生き残りがいると思うの。だってワシ族が皆殺されたのを知らなかったら、助けを求めに行くのが普通だわ」
「あり得ますね」
「いれば一緒に連れて行きたいわ」
シンケンは猪首を振り、駄目だと低い声で反対した。
「こっからは自由にさせてもらう。あんたらだけで行ってくれ」
吉村も優子の仇討ちに熱くなっている。八つ裂きにしてやると吐き捨て、シンケンと行動を共にした。結局、五人は分裂し、俺とケイコ、息子は東へ進むこととなった。
どちらが死ぬにせよ、これが吉村と最後になるような予感がし、固い握手を交わす。吉村はケイコとも握手し、絶対に仕留めてくると誓った。
小川の岸には足跡が沢山交錯していた。小動物のもある。ハブ製ブーツをぬかるみに入れ、俺の足跡と川岸についた足跡を細かく比較したが見当たらない。潰れた足跡もありハッキリしない。あづまが東へ行っていないなら、衝突する可能性が少なくなるので少し安堵する。だが油断は出来ない。この道を通っていないとしても死体を片付けたときの道、北から東へ回る海沿いルートがある。奴が西→北→東と海辺の道で迂回することを選んだとしたら、今度は東→西、もしくは東→南へ行くために、他に道はないはずだから、この森にある小川沿いの道を通ることになり、バッティングすることになる。
川岸を伝って歩き、小川に沿った道に上がると落ち葉や雑草が多く、足跡もほとんどついていなかった。
罠を作って待ち構えているかもしれない。耳をそばだて、慎重に歩く。慣れたせいかケイコの歩くスピードは別れる前より速くなっている。親子の背中を見ながら、赤い集落に二人が待ち構えているのか不安になる。ハブ靴はハブに咬まれる可能性が少ないのだと己に言い聞かせる。蚊が多い。喉が渇く。