26-a 死神の化身
俺は唐沢を連行し、木田と白い家に戻った。あづまは実験室で工作をしており、木田の報告を聞いてハブ族の資金六百万円を受け取ると、よくやったと笑みを浮かべた。
「自殺者の金か。借金のうち、三百万円ほど差し引いてやろう。西に伝えときなさい」
意外な寛大さをみせ、重そうな塩の袋を持ち上げた。
「これも持って行け」
最後の物資供給か。俺は外で待つ唐沢の処分を聞いた。
「そうだな。とりあえず、会長のところに監禁して置きなさい」
あづまは広辞苑を取り出した。中はくり貫かれており大麻が入っていた。鷲摑みでポリ袋に入れる。
「これで島ともお別れだ。今から東で派手なパーティーをやってくる。明日はジャガー族の所でやるから、返済の準備をしておくように」
木田の背中を叩きながら、研究室を出て行く。
俺は後姿を見送りながら、話が違うではないかと憤る。ジャガー族は金の配分方法が複雑だ。金を巡る仲間割れが始まるかもしれない。
塩を提げ、唐沢を連れて海岸の道を西に回る。日はまだ明るく、銀色に煌く海が見える。あのジャガー族がすんなりまとまるだろうか。黙ったまま考えながら歩いていると、
「片山さん、秘書であるかどうか調べなかったですね。私は一体どうなるのですか」
わざと笑顔を作って唐沢を勇気づける。
「解き放たれると思いますよ」
「本当ですか」
「自分も早く逃げたいですよ。この島から」
「どうしてですか」
「現金をとり出して以来、何か雰囲気がおかしいんですよ。さっきの行進の帰り、みんなお金のことばかり考えていたからのではないですか」
「ということは、金を払わないとか」
「まさか。撃たれるくらいなら払うでしょう。ただ池じいや山田兄弟など、一部の金にかける執着は凄そうですから、危険ですね。明日、何も起きなければ良いですが」
「どれぐらい支払うわけですか」
「三千万円の予定でしたが、ケイコさんが百万円出し、自殺者の三百万円がサービスされましたので、二千六百万円です。まだまだキツイですね。五十万円組が四人いるわけですから。誰かが損を被り、それで得する者が出るわけで、妥協が難しいですよ。ワシ族と違って、血縁がないですから、上手く行くかどうか……」
黒い家が見えた。池じいが占いの家にいた。注連縄が張られ、ヒナゴ弊が飾られ、札が貼られてある。出てきた池じいは、剃刀の眼で俺を睨んできた。塩袋を降ろし、三百万円を棒引きしたことを告げると、「そりゃ、よかった」皮肉っぽい笑いを見せた。口は喜んでいたが、目は怖かった。
釣り竿を肩に掛けた護衛隊長が、池じいと浜へ降りていった。
地面に浮き上がったガジュマルの根元で、裸の子供が子犬と遊んでいた。
藤本の家へ行った。が、いない。薪拾いにでも行ったか。くらの助もいない。ヨガ男は背骨を前に折るポーズを取っていた。どうしたのかと聞いたが、無視された。坊主も隣で背筋を伸ばし、顎を引いて座禅をしている。
「私はどうすればいいのですか」
唐沢が不安がるので、とりあえず、雑貨屋に入ってもらうことにした。軟禁状態にしておけば、文句は出ないだろう。
ペットボトルの水を持たせようと、水汲み場に行く。衛生所の前に美紀と直子がいた。色気のある髪を風に靡かせ、網で餅を焼いている。炭とトウモロコシ菓子の匂いが流れてくる。切り刻んだ野菜や魚も焼いている。何を作っているのだと問うと、細い目をした直子がタコスだと答えた。
「食べてみる?」
「頂いていいのですか」
「幾らでもできるわよ。トウモロコシに魚と野菜を挟んで、ソースを塗って食べるのよ」
言われた通りにして齧ってみると、舌が蕩けるほど美味かった。
「これ、捕虜の唐沢さんに食べさせたいので、持って行って良いですか」
「捕虜? 良い身分よね。お金ぐらい払って欲しいわ」
「金ですか。あの人は随分持っていますから貰ってきましょうか。一つ一万円ぐらいで」
下膨れをした顔の美紀が大きな目で笑った。
「これで商売できたらいいわよね。私たち二人でタコス・ショップでも経営したいわ。こうやって羽飾りをつけて」
「何言っているのよ、美紀。私らハッパの借金払ったら、ほとんど残らないのよ」
「そうなのよね」
タコスをもう一つ作ってもらい、雑貨屋へ戻る。汗だくの唐沢が横になっていた。
蒸し暑さに溜まらず、一緒に外に出る。
唐沢は黒鞄を膝に置き、タコスを頬張った。新しい味覚に頬が緩んでいる。
「どうですか。お代わりしたければ、あそこで焼いている女が一万円で売ってくれるらしいですよ」
「えらい吹っかけますな。まあ、確かに今はそれくらいの金はあるんですよ。もっとも、死んでしまえば食べられませんが」
唐沢の目は何かを訴えてくる重さがあった。
「私は死ぬのですか」
「そこまでしないでしょう。どうせ、この島からは逃げられません。唐沢さんも、自分も」
夕方の涼しい風が海から上ってくる。蝉の声を噛み締めながら、このまま平和であることを祈った。ふと石像を壊す皆の顔が浮かぶ。欲望は人間を鬼に変える。金を目の前にぶら下げれば、善人も悪人になる。
唐沢が残念そうにぽつりと吐いた。
「金を持って東京に戻って、幸せになれるのですかね」
都会の貧乏暮らしもキツイが、それでもタコスを齧って感動するような目には遭わない。金があるだけ、便利で快適なシステムに浸れる。
「三年が限界だったんでしょうね。唐沢さんは来て間がないからそう思うだけですよ」
辺りは薄暮に包まれてきた。中からジャガー族の群れが現れた。手には釣竿やびく、バケツを持っている。池じい、ナギナタ、護衛隊長、土方、狩男、藤本、くらの助、山田兄弟。何をしていたのか問うと、魚を釣りながら海岸で話し合っていたという。
「イシガキダイの塩焼きでも食うかの」
池じいは、誤魔化すような口ぶりようだった。
「それより明日が支払日ですから、用意は良いですか」
腑に落ちなかったので念を押すと、大人しく肯いた。
「分かっとる。けりはついた」
夜のジャガー族の顔は一物含んでいた。くらの助の太鼓は聞こえない。昨夜断食明けの踊りがあったばかりだが、金が戻って来た祝いか、盛大な踊りがまた行われた。太鼓やラッパ、三味線に合わせ、手足をひねり回す。仮面を被った誰だか分からないものが飛び跳ねる。唐沢は圧倒されたようで、口を開けて眺めている。夜空に散らばる星を見ていると、天から叫び声が降り落ちてきた気がした。
踊りが終わると、衛生所で汗を流す。くらの助の部屋に、唐沢を泊まらせ、俺は藤本の部屋に戻る。藤本の枕元にはビニールに透けた札束の山があり、俺は息を呑んだ。
藤本は大金にむしろを被せた。横になり、湯飲みの酒を注ぎ、俺に勧める。
飲みながら金の話をする。
「山田兄弟もいたことですし、さぞ、揉めたでしょうね」
「うん……」
ゴリラの子供は険しい顔をしていた。しばらく黙ったまま濁酒をあおった。
ため息をついたので問う。
「どうしたのですか。何かあったのですか」
「俺の口からは何も言えん。ただ君は明日、ルリカケス族のところへ逃げなさい」
藤本の赤ら顔を観察しながら、その意図を探る。
恐ろしいことが閃く。南へ逃げろということは、まさか、ハブ族を皆殺しにする気か。そうすれば一銭も出さなくて済むし、問題解決。背を向けて寝転がった藤本の態度が差し迫った状況を語っているように思えた。
26-b
俺はほとんど寝ないまま、朝早く黒い集落を抜け出した。遥か西の海上が仄かに白くなっている。囀る鳥を探すように森の道を登り、白い靄を切って頂上に着く。
南下する予定だったが躊躇した。昨日、先頭に立ってシンボルをぶっ壊したのだ。裏切り者がのこのこ戻って良いのだろうか。晶子も連れていない。
あづまと木田が憐れに思えてきた。ツケで大麻を売り捌いた挙句、殺される。違法行為とはいえ、借金は借金だ。払うべきではないか。あの男は確かに死神に憑かれているが、命の恩人であり、唐沢の生け贄を主張しなかった。奴に密告すれば案外、誰も殺さずに、脅して金だけ奪って逃げるのではないか。そう考えた俺は、奴の人間性に賭け、北に降りることにした。
到着した白い集落からは、岩を打つ波の音だけが聞こえた。
誰もいないのだろうか。そっと研究室の戸を開けると、血の臭いが鼻を打った。うっすら朝日が入った部屋は、憂鬱な雰囲気に満ちていた。
机に札束のビニール袋が山積みされていた。木田は壁にもたれて座り、放心状態になっている。右腕の白い包帯に、血が滲んでいた。あづまは蝋燭を握り、手の平にぽたぽた垂らしている。固まった蝋を剥いでは、こびり付いた指紋を嬉しそうに眺めている。
サングラスのあづまと目が合った。
「困ったことになった」
咳き込んでいるあづまの格好は土で汚れていた。
「どうしたのですか」
「昨日ワシ族で、大麻を吸って踊り、借金を貰って帰るはずだった。マリファナダンスの前に食事をよばれた。料理があまりに豪勢だったので、私は子供に皿に持ってやったのだ。すると母親が顔色を変えて皿を弾いた。河豚毒入りのを食わそうとしたのだよ。福原兄弟が左右から私を突こうとした。私はかわして胸を撃った。木田くんはかわし損ねてやられたが、森に逃げようとするカズオを撃った。親父もだ。こうなったら仕方がない。木田くんと二人で、残りの女子供を皆殺しにしてしまったのだ」
俺は気が変になりかけた。あづまは血を吐くのではないかと思うくらい、酷い咳を何度もした。腰の左右に携えた銃を出して構え、
「信じてくれ。あれは正当防衛だったのだ」
幼児や女を殺しておいてそれは過剰だろう。
「は、はい。自分もその立場ならきっと撃ったでしょう」
「分かってくれるのだね。だが世間に知られると、大量殺人犯にされかねない。今から死体を片付けに行こう」
俺は力が抜けた状態で付いて行く。足は宙に浮いている気がした。これなら、ジャガー族の背信行為を語れば、迷うことなく皆殺しにするだろう。
三人で海沿いの道を足早に歩く。途中、木田は船のある浜に下りていった。咳き込む男が、俺を後から急がせる。
赤い集落に着くと、広場には槍や羽根、食い物が散乱していた。人間が重なり合うように地べたにうつ伏せになっている。血の袋が破れ、積まれていた。手の平がどす黒く染まり、胸を押さえて苦悶した後が窺える。カズオの口は縦に開かれ、黒い飯のように蝿を喰らっている。
本当に正当防衛だったのか。先入観なしで見ようとしたが、これでは検証できない。ひっくり返った鍋に蝿が蠢いている。
割れた皿に、ネズミがひっくり返っていた。やはり河豚鍋か。木田の包帯も正当防衛の証しである。それにしても一族皆殺しとは度が過ぎる。食事中、両サイドから突かれ、反射的にかわせるものか。ふぐ鍋を食わせて殺そうとして失敗したのは、奴の方ではないか。
死体を海岸に落とすよう命じられた。逆らえない。ネコ車に屍を乗せ、崖まで押す。崖下では木田が待っていた。磯に転落した肉塊を、船に引き摺り上げる。
あづまに連れられ、俺はデッキに上がった。エンジンがかかり、泡を立て進ん行く。
俺は一緒に海に投げられるのではないかと不安で仕方ない。大海の真っ只中で船は止まった。
木田と呼吸を合わせ、あづまは死体を放り投げる。しばらくすると、海上に魔の印が集まってきた。巨大な魚がばしゃばしゃと踊り始める。背中をひねり、白い腹を時折見せる。
あづまはカズオの屍を落とし、「強欲な者の味はどうですか」とサメに話しかけていた。
自分自身を餌にしろと思いながら、ワシ族の絶滅に感慨を抱く。
「金が惜しくて襲ってきたのですよね。島を出る気だったのでしょうか。それなら、福原一族は一体何のためにインディアンをやっていたんでしょう」
「神のためだ。そしてこれが、神の定めた運命なのだ」
あづまは最後に福原弟の死体を海に転がした。白波の飛沫は赤く滲み、サメの群れが肉にむしゃぶりつく。太ももや脹脛、腕や尻の肉を食い千切り、白い骨が見えてきた。
「もうすぐこの島ともおさらばだ。片山くん、君は私についてくれば金には困らない。これから一緒に這い上がろうではないか」
光るサングラスに怯えながら、俺は先を読む。ワシ族の皆殺しが発覚する前に、残りを始末しなければならないだろう。するとまだ東と南の始末が残っている。二人では難しいが三人なら可能だと考え、俺を金で釣っているのだろうか。用が済めば、サメの餌食にされても不思議ではない。
船を降りると、走って研究室に戻る。あづまは実験室から瓶の箱を持ってきた。夜襲の準備か、薄いガラス容器をテーブルに並べた。以心伝心、俺は木田と二人で油を垂らし込み、蓋をし、火炎瓶を作る。あづまは木田の銃を取り、点検して弾を入れていた。
木田と俺を前に、あづまはジャガー族の殲滅作戦を語った。
その低くて冷静な声に、俺は凍りついた。
海沿いの道と森の道に分かれて不意打ちする。家やガジュマルなど要害が多いが、逆に袋の鼠にできる。あとは火炎瓶を投げて、挟み撃ちにするだけだと。
あづまは怯える俺の顔色を窺いながら、威力を見せ付けるように撃った。弾丸は入り口を圧し折った。回転式リボルバーに、酔った息を吹きかけた。弾を詰める。巾着に入った替えの弾は、ハンドボールのように膨らんでいる。
拳銃を貸してもらえるのかどうか尋ねると、
「君の役目は、囮だ。両手で楯を持ち、凶暴な奴ら、山田兄弟や狩男、シンケンなどの気を引き付けてもらいたい。逆上させるため、家に火炎瓶を投げて回りなさい」
あづまは援護射撃するから大丈夫だと、楯を渡し、硬直した俺の肩を叩いた。
燦然と降り注ぐ日輪は頂上に昇っていた。湿っていた庭は真っ白に焼かれている。
あづまは俺たちを連れ、ブラックルームに入った。平伏し誓う。
「大勢を神の元へ連れて行きます」
社を出ると、俺は楯と火炎瓶を持った。木田の目は狩に燃えていた。
木田と山小屋のルートで攻めに行く。木田に押され、俺は森を走る。
ジャガー族の罠を語るどころではなかった。奇襲と奇襲の激突。どっちにせよ死人が出る。選択肢は二つ。あづまに従い強盗殺人をして飛ぶか。それともハブ族を離れ、南に逃げるか。手には瓶の箱がずしりと重い。自分のポケットにも瓶を二つ入れる。
山小屋を過ぎ、牧場で草を食む牛が見えた。黒い家は近い。火炎瓶を道端に置き、木田に待ったをかける。用を足し、飲料水を汲んでくると告げ、小川に向う。
澄み切った空に首を上げる。「これも運命だったのだ」と未来の俺が撃たれるシーンが過ぎる。
これ以上ついていけるか。
俺は森の道を一目散に駆け上がった。
27-a 西南北戦争
約束があるので、木田は追いかけて来ないようだ。上り続けると急に谷があり、水が溜まって渦を巻いていた。波紋が静かにゆれている。風にそよぐ緑色の羊歯の葉の群れを見ると、水を含んだヘゴの葉は、太陽の光を振り撒いていた。黒や黄色の蝶が踊っている。大自然の美に幻惑され、遠く離れた故郷に戻ったような気がして涙が出た。
黄色い家が見えてきた。広場には粉々の石がまだ転がっている。
ぽっかりと穴が開き寂しい気がした。だが、それどころではない。酋長の家を叩き、頭を下げながら、殺し合いが始まったと説明する。金に目が眩んだワシ族が返り討ちに遭い皆殺しになったと告げると、
「だからあの石像は壊さない方が良かったのよ!」
噛み付く顔は震えており、ヒステリックに叫び散らかす。
「早く逃げましょう。ジャガー族を殺した後、こっちへ来ますよ」
ケイコは落ち着こうとしたのか、キセルを吹かし始めた。
「逃げるって、何処へ逃げるのよ。海岸でも下りる気?」
「とりあえず、何か武器はありませんか」
ケイコが戸口にあるナタを指差したので、拾って渡す。
俺は飛び道具が必要だと、「釣具・建設」を叩いた。吉村はいたが、元木は村上と釣りに出かけていないという。とりあえず、トモコと長瀬に差し迫った状況を伝えると、真っ青になって、逃げる仕度をし始めた。
遠くで銃声が轟いた。白い煙が西の空に横流しになっている。わめき声や短い金切り声も木霊していた。
吉村は浜を駆け降り、元木や村上を連れ戻し、武装させた。かおりや優子は家の陰に隠れ、弓矢と一緒に息を潜めている。まだ間があると、ケイコは元木と吉村を呼び入れた。ケイコは翔太に顔料を塗りたくっている。
「煙が上がってるにゃ」
窓を覘く吉村が怯える声を出した。
ポケットにあった瓶を二つ見せ、この火炎瓶と弾丸が山ほどあると教える。
「元木さん、この島、誰か来ないのですか」
「無論、来るさ。でも映画を作っているといえばそれで終わり。宣伝や公開していないだけだからさ。大麻だって、まさか集団で吸っているとは思わないさ」
桂木は出たばかりだし、絶望的ではないか。敵の行動を考えていると、黒いバンダナをした男がドアをぶち破るように息を切らせて入って来た。
「た、大変だぁ、ルリカケス族の酋長さんよ、みんな殺られたぁ~」
駆け込んだ目は飛び出さんばかりに驚いている。護衛隊長ではないか。
「何なのよ! あなた!」
ケイコが鉈を向けると、
「待ってくれ、違うんだ! 大変なことになってんだ! 助けてくれ~。ジャガー族が炙り出されて、皆殺しにしてんだぁ」
護衛隊長はうろたえながら、広場を見回し、何かを探している。
「おい、もうすぐ銃弾が来るぞ、どうするつもりだ。戦うのか」
「いったん逃げた方がいいかもね」
「そうか。そうだな。なら、どこか良い隠れ家はないのか」
シンケンは狼狽の極地で突っ立ったまま。こんな非常時になぜか蛇皮線を持っていた。
近くで悲鳴が上がった。側の窓が割れる音がすると、火炎瓶が爆発した。
青くなり、ドアを飛び出ようとすると、シンケンは太い腕で静止した。
「待て! 出たらジャガー族の二の舞だ。もう少し待つんだ」
ビニールの焦げる匂いを嗅いでいると、シンケンは出口と反対の壁を刀で突き刺し、削り始めた。穴はなかなか広がらない。ケイコは運び出す物をまとめている。普通のズボンをはいていた。火の手は上がり、煙が充満して景色が揺らぐ。
銃声が連続し、「がんちゃん~」と女の甲高い悲鳴が聞こえた。
元木は「早苗~」と飛び出す。その瞬間、風船がはじける爆竹の音が二発轟いた。シンケンは抉じ開けた板を蹴飛ばし、「ここから逃げろ」と飛びぬけた。
ケイコと吉村、翔太の後を追い、海岸の方に転がり込む。這いつくばってソテツの陰まで移動し、息を潜める。
黄色い家が次々と炎を上げている。銃声が響く。
「助けてくれ~」と叫んだ後、太陽に向かって甲高い絶叫が舞い上がった。村上だ。炎が煙を吐きながら勢いを増している。
吉村と一緒に伏せ、状況を見守る。優子が逃げ損ねていて、か細い手で矢を引いて応戦している。あづまは用心深く腰をかがめ、銃を放つ。矢はことごとく外れ、あづまは笑っていた。俺は飛び出そうとする吉村を制止した。優子は声も上げず、銃弾に倒れた。
吉村が怒りの矢を飛ばすと、シンケンも弓を引いた。茂みから次々と矢が飛んでくるのに驚いたのか、あづまは木田に引けと腕で命令して、森の中に消えた。
罠ではないかとしばらく動けない。火は咀嚼の音を立て、黄色い家を食い尽くす。ケイコは蛇のスカートに頬を埋め、涙を流して声を殺していた。
焼け落ちたころ、生き残った者が泣きながら集まってきた。
黄色い家は踊り場を残して消えた。粉塵が風に吹かれ、咳を催す。
「うわ~~。何でにゃ~ 何であづまはこんな恐ろしいことをするんだにゃ~」
吉村は優子の死体の前でわめき散らしている。淡い色の大島紬がどす黒く血で染まっていた。翔太もソテツの陰に隠れて助かっており、母親と抱き合っていた。
片割れを失った吉村は広場の砂を掬い、自分の頭に振りかけて嘆き、喚いている。
シンケンは刀を抜いて振り回した。何をするのも虚しく感じられる。
「くっそ~~、死神先生は何考えてんだよ!」
シンケンは俺に詰め寄り、切先を喉仏に向けてきた。
「ちょっと、何するんですか」
「お前、ハブ族だろ。どうしてくれるんだ!」
「もう仲間じゃないですよ。一緒に行動するどころか、狙われているじゃないですか」
ケイコが仲裁に入り、「止めなさい! とにかく残った皆で力を合わせて戦うのよ!」
俺はシンケンの持ってきた怒りを、ケイコにぶつけた。
「どうやって戦うんですか。相手は拳銃を持っているんですよ!」
「なに情けないこと言っているのよ。相手はたったの二人。さっき逃げたでしょ。私たちだけで解決できるわ」
身の程知らずか、気が強いのか、呆れて言葉が出ない。
生残った者が壊れた石像の近くに集まった。石像の呪いか、結局十一人いたルリカケス族は吉村、ケイコと息子の翔太のほか、トモコと長瀬の五人しか残っていない。
27-b
ケイコは蛇のスカートの他、キセルなども持って逃げたようで、タバコを吹かしている。
「シンケンさん、この島は今、一体どうなっているの」
西から逃げてきた護衛隊長は蛇皮線を膝に抱き、苦虫を噛み潰した顔で、
「俺が殺されずに済んだのは、ハブ族を襲おうと忍んでいたからだ。金が惜しかったんだよ。でも相手は一枚上だった。武器を準備し、攻撃してきたんだ」
「ジャガー族は何人くらい生き残っているの」
「さあな。あったのは血溜まりだけだった。野郎が西に現れたとたんに、銃声が聞こえた。俺は驚いて、逃げようとしたら、火の手が上がった。炙り出され、次々と撃たれた。草むらに潜んで襲うつもりが、襲われている。笑っちまうな。池じいは矢を放ったが、それが仇となって銃弾が返ってきた。俺は何も出来ず様子を伺うしかなかった。池じいの家族も、ナギナタも、それにあんたの旦那も、死んでいた」
「そう……。あの人、死んだの……。で、晶子はどうなったの」
「知らないな。坊主の死体と蛇皮線が転がっていて、俺はそれを形見に拾って逃げたんだ。調べる余裕なんてないさ。晶子ちゃんは好きだったね。皆から好かれていたから、情けをかけてくれれば良いが、会長が殺されたんだから、そうも行くまいなあ」
夢を見ている気がした。昨日まで一緒に歌い踊っていた人々が、石像を壊したとたん、あっけなくこの世から消えてしまった。盛大な生贄踊りをやっていたが、自分たちの死を予想して踊っていたようなものだ。
シンケンはハブ皮の楽器を構え、爪で弾きながら、
「だが奴の計画は狂ったはずだ。ジャガー族は武装し、男は家の陰や茂みで待ち構えていた。幾ら銃を撃とうが、矢で応戦している間に逃げるだろ。今頃、生き残った仲間は、わけも分からず森をさまよっているだろうよ」
シンケンが語る間、ケイコの目は森の奥を探していた。廃墟に白蝶が舞っている。澄み切った青空に雲が泳いでいる。静かだ。西に傾いた太陽は血を吸って輝きを増したかのように思えた。
「あの男、殺したいほど金に飢えていたのだろうか」
シンケンが細い声で漏らすと、ケイコは鋭い目で睨み返した。
「殺すのが快感に変わったのよ。それにワシ族を全員殺した以上、口封じするしかないじゃないの」
確かに証人がいれば死刑は免れない。後は何人追加しようが数が増えるだけ。だが俺には、奴は島のもの全員を死神の元へ連れて行こうとしているようにしか思われなかった。
惨劇を目の当たりにしたトモコは、夢から醒めた顔で駄々をこね始めた。
「この島から出よう、カヌーを漕ごう」と言い出し、長瀬は苦笑いをしながら、たしなめている。
なす術も無く静まり返っていると、森の奥から銃声と断末魔の声が上がった。ジャガー族の残党が狩られているようだ。悲鳴と銃声はしばらく置いて再び起こり、間髪置かず、もう一度起こった。俺は金縛りに遭う。恐怖で誰も喋らない。
やがて皆で六人の骸を揃えた。焼け崩れた家で利用できそうなものを漁る。倉庫の跡で、焼き芋が出来ていた。倒れた板をどけると、唐沢の双眼鏡が無事だった。
細い鉄パイプを発見する。手頃なので振り回し、感触を確かめる。
吉村は怒って、矢を放ち、訓練している。シンケンは近くで矢の材料を探している。上段に構え、一刀のもとに枝を伐った。梟が鳴き、生温い風が吹きつける。俺は銃の威力を見せ付けられているので、矢を削る気になれない。ただ果てしない海に夕日が沈んでいくのを見つめる。
ケイコが息子を連れて海岸へ下りた。皆ついて行く。シンケンは蛇皮線を膝に、砂に腰掛け、慰めの音を奏でる。
俺は吉村と海に浸かった。塩は悪魔を退治するというが、効果があるのか。明日死ぬ予感がしたので、全てが新鮮に見えてくる。ケイコは裸になって体を洗っていた。艶かしい裸体を遠くから眺めながら、砂浜で横になる。きめ細かい砂のベッドで、痛いくらいの西日を全身に浴びる。シンケンの蛇皮線は、仲間の死を忘れさせ、沖縄でバカンスを楽しむ錯覚に陥らせてくれた。
夕日を背後に水浴びする母と子の姿は、どこか神秘的だった。吉村は槍で魚を刺すでもなく、魂が抜けた状態で浅瀬にぷかぷか浮いている。シンケンは蛇皮線を止め、薄ら笑いを浮かべながら、俺の体に砂をかけて埋めようとする。
死期が近いと悟ったのか、シンケンは身の上話をし始めた。沖縄に移住し、那覇で巡査をしていたというから驚きだ。だがストレス多き毎日に辛抱できず、自由を求めて辞めた。東京へ渡ったが良い仕事がない。肉体労働を転々とし、居場所を求めて劇団に転げ込んだ。近藤勉に夢を託し、島でインディアン生活に嵌まり、踊りや狩りに耽っていたという。
砂で動けなくなったので、俺は亀のように首を伸ばし、
「シンケンさん、今、ヤバいですよ。逃げ道がないから、殺人鬼にとって絶好のチャンスじゃないですか」
「大丈夫だ。奴とて人間だ。殺し疲れたから休息がいるし、夜は弾の無駄だろ。眠るさ」
俺は夕暮れに溶け込んだアダンの群生に目をやる。隠れて構えている気がした。シンケンは本音交じりに、
「金って恐ろしいよな」
「ほんとですね」
同調すると、シンケンは薄ら笑いを浮かべ、
「生き物を殺すのも、金のうちだ。木こりだって漁師だって、金のために殺すんだ。沖縄も、昔は蛇島のように自然豊かだったんだろうが、ブルドーザーで森を削り、滑走路やトンネル、道路、色んな施設を作った。全部金のためだ。自然を大切にとか綺麗ごと言ってたら貧しいままだ。この島は苦しみも多い。退屈だし、虫歯は痛い、腹が減る、食い物が同じで面白くない、将来の不安が大きい。この苦しみを大麻で紛らわせないなら、終わりだ。だから殺して金を守ろうとした」
「よく頑張りましたよ。僕なら一年と持たないでしょうね」
「金を巡って殺し合うなんて、最低だ。どうせ俺たちは島に繁殖しているウイルスのようなものだ。人間なんて死神さ。俺たちが皆殺しにされたら、島の自然は守られるだろうよ」
シンケンは上唇を軽く嘗め、襲い掛かる目をした。再び砂を弄り始めた。柔らかい砂浜に手を潜らせてピンク色の貝を見つけると、「ナギナタの親戚だ」と子供の笑みを見せた。
夜になり、俺たちは広場に戻った。
石像すら崩れた廃墟に、踊り場だけ残っている。吉村がタコを刺していた。矢の削りかすを燃やし、タコを焙り分け、焼き芋と一緒に食べた。蚊よけの煙を焚き、踊り場で横になったが、ハブが出そうで寝付けない。
ケイコは息子を抱き、トモコと話をしていた。
「五年間、楽しかったわね」
「私はたったの三ヶ月よ。それでも楽しすぎたから、いつかこういう日がやってくるのではないかと思っていたわよ。もう終わりね」
「まだ、終わっていないわよ」
「遊び過ぎちゃいけないってことよ。生き方が間違えていたのかもよ」
「人間が、人間以外の存在を祝福し、祈りを捧げる。これのどこが間違えているかしら」
「それが現実離れしてるのよ」
口論を尻目に、俺は明るい夜空を見上げる。銀の砂が散らばっている。一月生まれの俺は冬の夜空に愛着があった。オリオン座とスバルだけ見つめ、生まれる前はあの星にいて、あそこにではなかろうかと妄想にふけったものだ。今、夏の夜空には、天の川に身を浸しているサソリが弧をえがいていた。その心臓部にはアンタレスが赤く光っている。ギリシア神話によると、猟師オリオンが「俺に殺せない動物はいない」と豪語したため、怒った女神ヘラが、オリオンを殺すために放った。以来、オリオンは天上に昇ってからもこのサソリを恐れ、サソリ座が東の空に上ってくるころ、こそこそ水平線に隠れてしまうらしい。
俺はサソリの代わりにハブを当て嵌めてみた。この島は今、毒蛇が星の数ほどうごめいている。あづまとて蛇島の夜の森は難儀だろう。オリオンをあづまとするなら、毒蛇のお陰で夜襲を防いでいるのか。だが朝が来ると状況が一変する。ハブは大人しくなりオリオンが活躍する。その時、大地に銃声が轟き、悲鳴が響き渡るのだ。
28-a 死の森
俺は吉村に揺り起こされた。朝もやの中、薄暗くて辺りが見えない。
眠たい目を擦りながら、水を飲み外に出る。裏庭のトマトをもぎ、かじる。
吉村とシンケンは黙々と細い枝を削っては矢筒に入れている。俺は絶望の気分で鉄パイプを握った。溜息が出た。野鳥に誘われ森に少し入る。露を含んだ羊歯が山道を覆い、うっすら霧が立ち込めている。緑色の顔をした翔太がいた。息子もトマトを齧ったようで、口の周りを赤くしている。
「お母さんは何処へ行ったんだい」
少年は「分かんない」と首を振った。
息子の顔を覗き込んだ。無邪気な丸い顔はこれから起こる事を何も考えていないようだ。
「翔太くん、見ただろう。この島には恐ろしい死神が棲んでいるんだ。俺たちを殺そうとしているんだよ」
「何で殺しに来るの」
息子は泣きそうなほど怯えている。
「それはね、俺たちを死の国へ連れて行くためなんだ」
「死の国?」
「そうだ。仲間たちが沢山殺されただろう。みんな死の国へ旅立ったんだ」
「怖いよ~」
「そう、怖いからみんな死の国へ行きたがらないんだ。それで仕方がない、こうなったら無理やり死の国へ連れて行くしかない。そこであの死神が登場し、銃を撃って、せっせとみんなを死の国へ戻しているんだ」
「おじちゃんは怖くないの」
脚が震えていたが、強がって否定する。
「ぜんぜん怖くないね。ただ、おじちゃんには、まだやり残していることがある。一応、二十九年も生きたのだが、子孫を残していない。悲しいことだよ、まったく。子供ができれば、成長を見守りたいとかで未練ができるんだろうが、俺に言わせりゃ、ずいぶん贅沢な話だ。翔太くんはこの島で思う存分楽しんだかもしれないが、俺なんか、今まで楽しいことなんてほとんどなかったね。生きているのに、死の国いたようなもんだ。もう少しこの生の国を味わってから、おさらばしたいよ」
子供相手に話がだんだん愚痴っぽくなる。
「おじちゃんは死に際に思うのだが、この一ヶ月が人生で一番楽しかったよ。最高に生きているって気がした。ここで三年もインディアンをやって踊って騒いでいりゃ、妬んだマゾヒストが出現して、死の国へ連れて行こうとしても不思議じゃないね。銃弾を一発浴びれば、あっという間に死の国境を通過する。ほんの一瞬の苦痛だ。そう、死神を見たら、判断する間もないと思うよ。だからねえ、翔太くん。俺たちはもう既に境目に来ているわけだ。そろそろ死の国へ行く心の準備だけは、固めておいた方が良い」
「死の国へ行く準備って、何をするの?」
「日本人の伝統では、両手を合わせて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えるんだ」
両手をそろえて実演する。無邪気な少年は真似をしている。
ナタを持ったケイコが紙切れをひらひらさせながら森から下りてきた。追い込まれている割に表情が穏やかだ。合掌している二人を見て怪訝な表情をした。
「何やってんの?」
「はあ、お祈りを少々」
「近くに死体は無かったわ。片山くん、これから森の中に入るから、支度をして」
突撃命令を聞き、鉄パイプを持つ手が震えた。こんな物であの二人と戦えと言うのか。
「死の国に行くのですか!」
「ここにいる方がよほど危険だわ。守りに入るだけになるもの」
確かに攻撃は最大の防御であるというが、ウサギはチーターに勝てない。
「しかし酋長、森に入るのは相当危険ではないですか」
俺の怯えを見たケイコは、軽蔑した声で、「あなた、臆病だったのね。見損なったわ」
性格を読んで扇動してくるケイコに腹が立ってきた。
「臆病じゃないですよ。無謀なことはしたくないだけです。撃ち殺されるのが目に見えてますから」
ケイコは眉を上げ、楽観的な口調で、
「ここにいても何も始まらないわ。皆で力を合わせ、一矢報いましょうよ」
ケイコが紙は広げた。生存者リストだ。ルリカケス族とジャガー族と全員の名前が二列に及び、シンケンから聞いた生死の確認、死んだ場所が記されてあり、その下に地図がある。丸い島に道筋があり、死んだ場所にはバツ印がついていた。
「生存者を探し、死体を見つけながら歩くのよ」
死体を見つけるどころか、俺たちが死体になるのではないかと思ったが、ケイコは本気だった。すやすや眠っているトモコを蹴り起こし、森に行くと告げる。
「ケイコ、狂ったの!」と大反発された。トモコは「ハブがいる」、「自殺行為だ」散々ののしり、南に残ると言い張った。
ケイコは説得を止め、生存者リストに二名、南に残ったことを記入した。
三十六人中、生存者七人。安否不明十八人。
内心、俺も残りたかったが、ここにいれば助かるわけでもない。あの二人が南に現れたとき、かえって障害物のない浜辺に追い込まれていくことになる。
吉村がジャンベを叩き、出陣の踊りが始まった。シンケンが蛇皮線を弾き、独特の喉で島唄を歌う。太鼓は暗い音だが、その無感動な音には飛び跳ねるリズムがあった。ナタを持った酋長は飛び跳ねる。俺はやけくそで鉄パイプ片手に乱舞した。
踊りが終わると、ケイコは息子に太い葉を糸でしっかりと結び、顔や腕に緑色の顔料を塗りたくっていた。最後まで生き残ってほしい母親の愛情が伝わってくる。ハブ革のベストで俺の体も酷くカモフラージュされている。だが、あの死神なら見抜いて撃つだろう。何をするのも空しく感じられた。
「行くわよ」
踊って五人の意思が統一した。残ったトモコと連れ合いは、桂木が到着するまでヤドカリのように磯に身を隠すという。俺は双眼鏡を首にぶら下げ、水の入ったペットボトルを腰にくくり付ける。
先頭に吉村が歩き、俺が続く。酋長と息子を守るように、シンケンがしんがりを歩く。足音を殺し、樹木の隙間を凝視しながら進んで行く。死神は何処に隠れているのか分からない。浮かび上がった根っこで躓きやすい。大きい石は足を惑わせ、小石は落ち葉と一緒に足を滑らせる。足に絡みつく蔓や枝はハブと見間違える。
時が静か過ぎる。時折鳥が音を立てると、心臓が止まりそうになった。
ヒカゲヘゴの高い天蓋を見上げながら、ここに何度も来たのを思い出す。
俺たちは道を逸れ、見覚えのある場所で休憩した。二週間前、吉村と花を摘んでいる際、あづまと再開した場所だ。淡い紫のフヨウやサツキが幾つも咲いている。安全を期してもっと奥に入ると、青々とした葉に白い朝顔に似た花が頭を垂れていた。
ケイコはナタを握ったまましゃがんでいた。生きた心地がしない。声を潜め、
「酋長、あの二人、こっちに向かっているのではないですか。ばったり出くわしたら一瞬にしておしまいですよ」
「じゃあ、私が先頭に立って歩こうかしら」
「死ぬのは一緒ですよ」
風に垂れ下がった白い朝顔が揺れていた。俺は白い花を千切った。この花を摘み、笑っていたのを思い出す。ブラックルームに一輪挿してあったのはこれかもしれない。
「そういえば酋長、この花、あの死神男が摘んでいましたよ」
ケイコの顔がびくっと仰け反り、悪魔を見たように険しくなった。
「こんなもの摘んでたの! これ、朝鮮朝顔じゃない」
「朝鮮朝顔?」
「そう。別名、ダチュラとか、マンダラケといって、種子にアルカロイドを含む有毒植物よ。喘息などの薬になって、江戸時代には麻酔薬として用いられたの。毒が強いのは種だけれど、葉も花でもよくて、粉にして喫煙するの。煎じて飲んだり、粉に引いて油と混ぜたものを肌に塗っても効果があるわ。バッドトリップに使う麻薬で、悪魔に会うためにこれを使う人が多いから、昔から悪魔儀式に使用されたの。キチガイナスビよ」
「キチガイナスビ……」
ケイコは朝顔を刈り、真剣な表情で手にとって見つめている。
休憩は終わり、再び道に出る。しばらく歩くとせせらぎが聞こえて来た。東へと小川が流れる場所に辿り着いた。この地点もかつて何度か来た経験がある。
高木の葉陰が辺りをまだらにしている。見晴らしが良かったので、双眼鏡で樹木の隙間を覗く。ぶら下がった枝や大きな葉っぱなどがくっきりと浮かび上がる。台風で小川が氾濫し岸をけずった形跡が見られたが、河床は元に戻っている。新しい足跡が何個か残っている。何処まで続いているのか興味を持って目で追いかける。
「おい、これを見ろ」
護衛隊長の刃先を見ると、緑の葉が血を吸っていた。弓が落ちている。矢がばら撒かれてある。宙吊りになり両手をだらりと下げた大男が果てていた。
「おお、土方!」
シンケンは吊り罠を切断して、死体を落とした。顔を当てて抱擁する。
親友だったのだろう、声を上げて泣き、死体の茶色いバンダナを外して腕に巻いた。
昨日の悲鳴はここから聞こえたようだ。
ケイコは紙を出した。地図と生存者リストに記入する。
安否不明十七人。
吉村とケイコ、シンケンの三人が小さい声で口論し始めた。どっちへ行くか迷っている。
俺は島の地図をイメージしながら考える。今まさにこの中央の地点で、ロシアンルーレットに匹敵すべき、生死を分かつ決断に迫られているのだ。このまま小川を越えて島の頂上へ行くこともできる。そうすればさらに道が二つに分かれている。真直ぐ進み北に行くか、途中で折れて西へ行くか。だが東へ行くなら小川の沿道を歩くしかない。もしハブ族が東にいて西や南へ行こうとするのなら、この沿道を通るだろうから、バッタリ出くわす可能性が高い。だが北か西にいるかもしれない。すると直進しても危険である。北経由の海岸沿いの道もあるわけだから、確率的に考えて、何処が安全とは言い切れない。
吉村とシンケンは真直ぐ行って西に曲がることを頑として主張した。山小屋にいるなら、まだ眠っている可能性があるし、あの辺は鬱蒼とし、不意打ちのチャンスだと。
俺は疑問に思った。早起きし、こちら南に向かって歩いているとしたら、みすみす殺されに行くようなものではないか。だが今の俺たちとて、置かれた状況は変わらない。
「ねえ、どうする?」
死体の位置を観察しながら、ケイコは皆の意見をまとめようとした。
「このまま北か西へ向かうんだにゃ」
「私も西へ行きたいけれど、まず東の様子を見た方がいいと思うの」
「何でですか」俺が問うと、
「東にジャガー族の生き残りがいると思うの。だってワシ族が皆殺されたのを知らなかったら、助けを求めに行くのが普通だわ」
「あり得ますね」
「いれば一緒に連れて行きたいわ」
シンケンは猪首を振り、駄目だと低い声で反対した。
「こっからは自由にさせてもらう。あんたらだけで行ってくれ」
吉村も優子の仇討ちに熱くなっている。八つ裂きにしてやると吐き捨て、シンケンと行動を共にした。結局、五人は分裂し、俺とケイコ、息子は東へ進むこととなった。
どちらが死ぬにせよ、これが吉村と最後になるような予感がし、固い握手を交わす。吉村はケイコとも握手し、絶対に仕留めてくると誓った。
小川の岸には足跡が沢山交錯していた。小動物のもある。ハブ製ブーツをぬかるみに入れ、俺の足跡と川岸についた足跡を細かく比較したが見当たらない。潰れた足跡もありハッキリしない。あづまが東へ行っていないなら、衝突する可能性が少なくなるので少し安堵する。だが油断は出来ない。この道を通っていないとしても死体を片付けたときの道、北から東へ回る海沿いルートがある。奴が西→北→東と海辺の道で迂回することを選んだとしたら、今度は東→西、もしくは東→南へ行くために、他に道はないはずだから、この森にある小川沿いの道を通ることになり、バッティングすることになる。
川岸を伝って歩き、小川に沿った道に上がると落ち葉や雑草が多く、足跡もほとんどついていなかった。
罠を作って待ち構えているかもしれない。耳をそばだて、慎重に歩く。慣れたせいかケイコの歩くスピードは別れる前より速くなっている。親子の背中を見ながら、赤い集落に二人が待ち構えているのか不安になる。ハブ靴はハブに咬まれる可能性が少ないのだと己に言い聞かせる。蚊が多い。喉が渇く。
28-b
だいぶ歩いた所に、苔で覆われた大岩が落ちていた。岩陰が死角になっている。ケイコは腰を下ろし、ナタを置いた。息子は敬虔にも小さな手を合わせ、「ナムアミダブツ」と唱えている。息子の奇妙な行動に「あんた何をしているの」と問うと、息子は「教わったのだ」と俺を指をさした。
双眼鏡で森の壁を念入りに監視する。
「そんなことしなくても大丈夫よ。休みなさい」
「でも酋長、東に仲間じゃなくて、ハブ族がいたらどうするんですか」
「失敗したら森へ逃げ込めば良いじゃないの」
つるりとした顔は自信に満ちていた。確かに森から攻めた方が理に適っている。失敗し逃げれば、木が銃弾を守り、枝葉に隠れて姿をくらませられる。だが海で待ち受けるなら要害がなく、砂浜に追い込まれしまう。どっちにしろ、一番の問題は、あの二人が今、何処に潜んでいるのか分からないことだ。ただ逆に言えば、連中にとっても、残党が何処で息を潜んでいるか分からないから自由に動くことの難しさがあるだろう。
野鳥が林の中を羽ばたいた。
「心配なのは、間違えて仲間から攻撃を受けることね」
「それも嫌ですね」
再び立ち上がり、今度は俺が先頭になって進む。邪魔な枝葉を払う。別行動をとった吉村たちを思う。あの山小屋からどれぐらい距離があるだろうか。静かに歩いていれば、死際に、手がかりが聞こえるはずだ。まだ生きているか。いや、慎重なあづまは、隠れて一瞬に頭をぶち抜いたのではないか。静かに殺して、東に向かっている。俺たちの背後に迫っているのではないか。いや、そもそも奴は山小屋ではなくて、白い家で寝た。海沿いの道を通って東へ行き、今まさにこちらへ向かっているのではないか。
悪いことしか想像できない。恐怖で足が進まなくなる。だが足がこんなに早く動いているのはケイコが後ろで元気付けてくれているからだ。
ケイコの足が止まった。
「誰か倒れているわ」
羊歯の草むらを見ると、ヨガ男と直子が手を取り合うようにして死んでいた。ケイコは何も言わず二人の顔を眺めている。紙に記入した。安否不明十五人。
昨日の断末魔はここからも上がったようだ。なら、この辺は逃げたジャガー族が集まっているのかもしれない。
赤い集落に近づくと道が急に下り、体の重心が首の後ろに来る。樹木の隙間から、赤い屋根が斑に見えてきた。
俺は足を止め、双眼鏡を覗く。罠がないか念入りに観察する。
気配がない。殺戮の夜は火炎瓶で消されていない。やはり何か罠があるのか。
「どう? 誰かいそう?」
ケイコが俺の肩を軽く叩いてきた。
「よく分かりませんね。いたとしても、中に隠れているのではないですか」
「あなた、ちょっと見てきてらっしゃい」
「いたらどうするんですか!」
「じゃあいいわ。私が行ってくる」
「待って」と言う間もなく、ケイコは最後の山道を下り、広場に姿をさらした。小屋に向かって歩いていく。息子は手を合わせ、死の国へ行く準備をしながら、母親を見守っている。臆病な俺は情けなくなり、森を駆け下り、赤い家に向かった。
ケイコは丁重にノックをし、「誰かいるの~ ケイコよ~」
大胆に知らせて回る。
しばらくすると、目を光らせた男が小屋のドアを開いた。
「あっ、あなたは……」
「久しぶりだな」
ジャガー族の狩男だった。
家の中には狩男の他、山田兄弟も隠れていた。頬傷のある兄はナイフで黙々と矢尻を削っている。弟は数千万円はある札束の袋を、傍に置いていた。
「たった三人? 他に誰もいないの」
ケイコが不満そうな口調で狩男を問いただす。
「ああ。二人だ。勉は死んだぞ」
「そう。死んだ人、教えて」
生存者リストを広げると、狩男は身を乗り出し、
「俺の娘も、女房も、死んだよ。クソったれが!」
狩男は拳骨を壁にぶつけ叫んだ。
「それから」
「おお、土方死んだのか! 戦力ダウンだな。炎に包まれ、怖がって逃げたから、撃たれたんだ。どうせ土方も女房と子供に死なれて、生きている意味がないだろうよ。おっ、シンケンが生きているのか! 何処行った?」
ケイコは出てきた名前にバッテンを付けながら、
「山小屋に突撃したわよ。他に知っているのは?」
狩男は部屋の柱にだらしなく縋った。目には深い隈が出来ており、精魂疲れ果てている。流し目で生存者リストを指しながら、
「この、看護婦一家も全滅だ。美紀も広場で撃たれた」
「晶子は?」
「知らないな。あんたの娘は酋長になったばかりだったが、霊感が鋭かった。ハブ族を始末する計画に怯えてな、一日中、洞窟に隠れなさいとお告げをしてくれたんだが、欲深い占い師の言うことを聞いたから、このざまだ」
28-c
「洞窟に隠れてるかもしれないわね。それ、何処にあるの?」
「さあ、知らないな。浜に下りれば幾つもあるさ。じっと隠れていられるものかな。残りは……十四人か。そのうち何人かは死んでいるだろうし、死に掛けているだろうよ」
「とにかく、早くここを出ましょう」
「ここを出て一体何処へ行くんだ? 今さら洞窟なんか行かないぞ」
「森の中で敵を攻撃するのよ」
狩男はケイコのナタを見て嘲笑い、首を大きく左右に振った。
「止めときな。運試しなんてこりごりだ。それよりここに潜んで敵が来るのを待つんだ。ここを破壊されたら、その時に移動すれば良いじゃないか。ワシ族の食糧もそのまま残ってる。下手に動けば体力を消耗するだけだ」
狩男の言う通りだ。大した食料もないし、罠もある。ここに辿り着くだけでかなり消耗した。腹の減ったことも手伝って賛成する。
「そうですよ、酋長。しばらくここに逗留しましょう」
「あんたたち、それでも男なの! 吉村さんたちは今、攻撃しに行っているのよ! 彼らが殺されたら、次は私たちの番なのよ」
ケイコは恐ろしい剣幕で一喝したが、「無謀だ」と狩男は鼻で笑った。
俺は部屋を見回した。ここはワシ族の軍事倉庫らしい。長い槍と矢が束ねられ、性能の良さそうな洋弓がずらりと掛けてあった。
山田兄が俺の鉄パイプを突いてくる。「そんな物は役に立たん。これを使え」
満タンの矢筒と一緒に、アーチェリーをくれた。馬力がありそうで、少し引いただけで相当飛びそうだ。
お礼に、まだ火炎瓶が飛んでくる可能性が高いことを仄めかす。いざという時に備え、入り口の反対側をぶち破ったらどうか。俺達はそうやって生き残ったのだ、と。
山田の兄は「そうか」とさっそく壁を刻み始めた。弟も手伝い始める。
ケイコは狩男と口論している。出る幕はないと、俺は矢筒を背負って広場に出た。
練習する前に双眼鏡で森をくまなく調べる。
矢を引き、離れた家を狙って放つ。窓を目的にして屋根に刺さった。面白い。何度か練習するうちに、修正されていく。刺さる度に、野性の本能をくすぐるものがある。しだいに扱いに慣れ、狙った近くに矢が刺さるようになった。一度獲物を狙ってみたくなった。ワシ族やジャガー族が嵌まるのが分かる気がした。狙い通りに刺さると嬉しい。今度は隠れて攻撃する状態を想定し、寝たままの状態で弓矢の練習をしてみる。狙いが定まらず、大きく逸れる。これでは居場所を教えるだけか。
矢を放っているうちに、本数が少なくなった。腐るほどあったから、新しいのを貰いに行こうと再び小屋に戻ると、ケイコと狩男が大声で怒鳴りあっていた。
「あなた、ジャガー族で大麻を貰っていたのでしょう! 落とし前をつけなさいよ!」
「知るか! あれでも物を恵んでくれたり、役に立ったんだ。まさか、あいつがあんな殺人鬼だとは思わなかったよ!」
「大麻を吸っていたあなた達に責任があるのよ! 何とかしなさいよ!」
「何ともならねーよ!」
「銃が怖いのね。でもみんなで力を合わせれば大丈夫よ」
「あんた正気か? 昨日、南が襲われた後、森で悲鳴が何度もあったのを聞いていないのか。やられたのは土方だ、ジャガー族きっての勇者だぞ。森に入ったら勝ち目はねー」
狩男は首を振り、その目は怯えて泣きそうだった。
話を聞き、戦意を喪失する。森にいればカモフラージュされ、生き延びる可能性が高いと考えたのは甘いようだ。
ケイコは出口に向かった。「行くわよ」と肩を叩いてくる。
「酋長、ここにいた方が賢明かもしれませんよ」
ケイコは白い目で、「だったら、あなたもここにいれば」
「わ、分かりましたよ」
再び魔境をさ迷わねばならないのか。家を壊している福原兄弟を尻目に、俺はケイコの分の洋弓を持ち出す。持てるだけ矢を抱えて、赤い家を出た。
ケイコは別の家に入って物色した。中には、干し魚や芋、バナナなどがあった。お腹がすいていたのか、息子はさっそくバナナの皮をむいた。食料を携帯して小屋を出る。ワシ族の集落の近くには細い滝が落ちていた。
ナタを握ったケイコはいらいらした顔で広場を歩いている。束ねた黒髪が艶やかに光を反射している。汗が白く光っている。全身から気迫が漂っている。結局、東には武器と食糧をとりに来たようなものだ。当る訳が無いと思いつつ俺はケイコに弓矢を渡した。
「これから何処へ向かうのですか」
ケイコは弦を引き、実験に一本放った。青空に向かって上がり、海に消えた。
「これ、使えるわね。とにかく一矢報いるのよ。吉村さんが島の中央から攻めているから、私たちはそれを通って、北から攻めましょう」
草が刈り取られ、並んで通れる道が北へ続いていた。高台は見晴らしが良い。青い海が切り刻まれ、椰子の木が揺れている。砂浜が丸石で塞がれており、磯部からさわやかな風が突き上げてくいる。樹上にはパラソルのような羊歯の葉が咲いている。
新鮮な気分で親子に付いて行く。あまりに長閑で死に瀕しているのが不思議なくらいだ。
吉村とシンケンが生きているとして、生存者十人。安否不明四人。くらの助、藤本、晶子、唐沢だ。
蝉がないている。空には雲が一つもない。
梢から鳥が羽ばたいた。慌てて弓を引いて身構える。何も出ない。緊張で喉が渇く。水を一口飲んだ。
道がくねっている。途中で急勾配の道が降り、海岸へ降りる道があった。そのまま進む。先が見えないので不気味だ。近寄る蚊が五月蝿い。音を出さないように追い払う。
「暑いわね」
ケイコはハンカチで汗をぬぐった。
「確かに北へ行くならこの道が近いですね。三角形の斜辺を歩くようなものですから」
「ふっ、ぜんぜん直線ではないわ」
ケイコが緩んだとき、喚き声に雑じって乾いた音が木霊した。
俺は足を止めた。銃声が二度、三度と打ち上がり、罵声と断末魔に似た叫びが連続した。
振り返ると、さっきいたワシ族の集落に煙が立ち上っている。白煙がゆらゆらと天に昇っていた。
「ああっ、東に来たんだ……。あの死神、火炎瓶でも投げたんだ」
「吉村さんたちも、死んだのかしら」
ケイコは呆然とし、力無く道にしゃがみ込んだ。
「酋長、早くしませんと、死神が追いかけて来ているかもしれませんよ」
不意打ちだ。あの二人は何処から降って湧いたのだろう。
ケイコは困惑した顔で独り言をいい始めた。
「これは一体どういうこと? 私たちは誰にも出会わなかったから、敵は森の中央の道からやってきた。ということは、吉村さんたちは出会った。敵は生きている。ということは、吉村さんたちは死んだ……」
「そうとは限りませんよ」
ケイコは印の入った地図を見ながら、
「すれ違っていればいいわよ。でも方向からして出会う可能性は高いわよ」
そうだろうか。西から殺し合いの音がしなかったではないか。不意打ちで殺されたのかもしれない。
「酋長、これからどうしましょうか」
「今がチャンスだわ。死神は今、攻撃したことによって、居場所を知られた。でも私たちは居場所を知られていない。その点では私たちの方が有利よ」
だが相手は二人、拳銃は三丁。
「それで、どうするんですか」
「ここで決着をつけましょう」
「ええ!」
足元が震え、心臓が早鐘を打ちはじめた。
「私が囮になって死ぬ。あなたは、草むらの中に隠れて、それで死神を射て」
ケイコは目を据えていた。
「そんな」
「ここは急カーブだから最適なのよ」
確かに不意を襲うことになる。死神とて急カーブのたびに発砲するわけにもいくまい。
「死神が姿を現した瞬間に私が撃つ。外れたらあなたがすぐに殺して」
これでは男が廃る。ひねくれていた俺は再び強がった。
「酋長、自分が囮になりましょう。酋長が身を隠して、仕留めてください」
ケイコは一瞬戸惑ったが、勇敢ねと笑って承諾した。
カーブから五歩離れた道の真ん中に仁王立ちし、俺は息を荒くして弓をひいた。半ばやけくその状態である。ケイコは草むらではなく、海岸側に身を伏せ、当たるか分からぬ矢で狙いを定めていた。
計画は実にすばらしいが、結局死ぬだけだ。出会えば、矢の速度など高が知れている。奇跡的に一人射たとしても、もう一人に蜂の巣にされるだろう。
今か今かと緊張が続く。密度の濃い時間は疲れる。長く感じる。厳しい日差しとあいまって、全身から汗が滴り、弓矢を握る手がぬるぬると滑る。太い蚊が腕にとまる。
28-d
待った。
待てど待てど死神は来ない。畑から出たケイコは、逆進し、歩調が速くなった。
そのうち海岸の斜面で這い蹲っていたケイコが道に上ってきた。
「来ないわね。警戒しているのかしら」
「そのようですね」
ケイコは弓矢を降ろし、激しい日差しに目を細めた。
「ということは、来た時と同じ道を戻って行ったのよ。東で三人殺したから、今度は別の所を狙うわ。南しかないわ。トモコたちがヤバイわね」
「北とか西の可能性はないんですか」
「北に戻るなら、最短コースのこの道を通るのが合理的でしょう。北で一晩明かして、東を目指したのなら、あの死神が来た道はおかしいわね。昨夜は山小屋で寝たのではないかしら。ここで待ち伏せされているのを想定しているのかもね。それならその先を読んで、来た道を舞い戻ったのよ」
背筋に蛇が這ったような気持ち悪さを覚える。
「案外、北に戻っているかもしれないわね。まともに通れる道が幾つもあるからね。そのまま何もせず北を張っていれば、ぶつかる確率は高いだろうし」
「山小屋から出発したと言うことは、吉村さん達と出会ったのですか」
「そうかもね。あなたが敵ならどうする?」
俺は頭をひねり、
「相手の立場で考えると、インディアンは散らばって何処にいるか分かりません。これは一種の恐怖ですよ。さっきの銃声とこの狼煙で、生き残った者はみんな東へ行くのはためらうはずです。もし東へ向かっていた者がいたとしたら、引き返すか、離れるでしょう。あるいは、止まって僕らのように待ち伏せしているかもしれません。この道なんかが一番危険なはずです。みんな狼煙を見て止まっている。そこで来た道をそのまま引き返し、山小屋まで一度戻るか、あるいは北に向かうか。俺らの行動を読んで、先に待ち伏せしているかもしれません。きっと酋長のように、殺した人間を数えながら、慎重に動いているはずですから」
ケイコは悩みながら少しだけ頷いた。
「それでも酋長は北へ行かれますか」
どう動いてよいのやら、まったく自信がない。そもそも想定した道を死神が歩いているということすら不明だ。ただハブだらけの島だから森を荒らして歩けないはずだ。
もはや神頼みだ。ケイコのインスピレーションに頼るしかない。
「このルートで北へ行くと、浜に下りられます。あづまの船があるんですよ」
「じゃあ、そこに行ってみましょう」
ケイコの足が緩くなった。食糧を背負った息子はケイコの尻に付いていく。弓を携え、その後ろを追いかける。
北東の道は広いところもあれば、両側から草で塞がれた場所まであった。加えて、陽の当たり具合が悪いと、ハブが恐ろしくて自然と駆け足になる。脚がだるい。
途中でサツマイモ畑が見えた。動物に荒らさないように、高い茶色のネットが張り巡らされている。ケイコは知らなかったようで足を止め、網を触っていた。
畑に双眼鏡の焦点を当てると、大男が見えた。薄い黄色のバンダナ。仰向けになっている。死神がいないか眼を凝らし、太い木の一本一本を注意深く点検した。
「どうしたの」
「男が一人、倒れています」
近づいたとたん、不意に撃たれるかもしれず、動けない。
ケイコはぶっきらぼうにネットをくぐり、畑に入った。仕方なしに後を追う。
くらの助だった。ネットに追い込まれて撃たれたようだ。
ケイコは生存者リストをチェックし、溜息をついた。
「安否不明なのは後三人か……。晶子も死んでいるかもしれないわね」
「このまま進むんですか」
「敵は狡猾だわ。一度戻ってみましょうか。そしてトモコたちの所に引き返しましょう」
少し疲れた俺は大きく息を吐き、二人を追いかける。
急ぐ理由が良くわからないが、とにかく引き返してくれて助かった。東は銃撃戦があったばかりだから、しばらく安全なのではないか。
蛇島の東部へ早足で移動する。時折、浜に落ちそうになる。足元に集中する。
後ろの方で、銃音と助けを呼ぶ男の悲鳴が上がった。
ケイコは足を止め、振り返った。俺は心臓が凍りつく。
死神はもう北に辿り付いたのだろうか。
俺は乾いた唇をなめた。「早いですね。もう北でどんぱちやっているのですか」
「あいつらも、駆け足で移動しているのよ」
「あの声、割と近かったですよ。走っているんでしたら、あと少しで出くわしたのではないですか」
「誰か死んだわね」
ケイコはそれ以上何も言わす、さらに早く歩くことに専念しはじめた。
28-e
道が広くなり、赤い家が見えた。さっき休憩した武器庫と家が三つ焼け焦げている。 山田弟は足掻きながら、血塗れの右手を命一杯伸ばしていた。そこには札束の袋があった。
広場には狩男が倒れており、虫の息だった。血だらけの胸を押さえている。
「しっかりして下さい!」
「へ、へ、やった。仁王をやった……」
狩男は指差し、息を引き取った。その方向を辿ると、木田の矢が腹に刺さっており、横からも刺さっている。刺さった方向を見ると、山田兄が地面に伏せていた。
ケイコは木田の握っている銃を取り、「やったわ、これこれ」と喜んでいる。
どういうことなのだ。そうか。木田が単独でやってきたのだ。一人で火炎瓶を投げ、外に出てきた所を狙撃するパターンだったが、裏から逃げた三人が三方向に散らばった。連射する間に、狩男が射止めるのに成功した。しかし遅れて撃たれた、ということか。
ケイコは木田の胸ポケットをまさぐり、弾を調べている。
「二発しかないわ。でもあと一人だから十分だわね」
「見くびってはダメですよ。銃を二つ操れる男ですから」
ケイコが記入する生存者リストを見る。残り少ない。悲鳴が上がったのは男。吉村かシンケンか。両方生きているとして、生存者七人。安否不明三人。
ケイコは木田が死んだ場所に×ではなく、△と記入した。そして先ほどの悲鳴のした船のある付近に髑髏マークを付け、
「これを見る限り、あづまは北にいるわね。臆病なのよ。危険だから東には自分で来なかったのかもしれないわ。子分の帰りが遅いと、死んだかと慌てるわね」
「これから南に戻るのですか」
ケイコは宝石でも見るかのようにピストルを見つめ、
「そう考えていたけれど、これで変わったわね。生存者がいるのなら放っておけないし、今のうちに決着を付けましょう」
「で、この大金はどうするのですか」
「生き残ったら皆で分けるしかないわ」
矢を取る。山田弟の死に際がちらついた。命がけの銭取り合戦か。むなしさとやる気がごちゃ混ぜになる。
ケイコは西に行ったので、小川の流れに沿って、森の道を引き返す。来るときと違い心強い。一人敵が消え、ピストルと洋弓がある。これで仲間が加われば言うことはない。
ヒカゲヘゴの地点を過ぎ、西へ降りる道に出た。何時襲われても不思議ではないので、弦を引き、狩をする姿勢で歩き続ける。
牧場に出ると、ブロックと柵があり、伏せて双眼鏡で辺りを見回す。ヤギが草を食み、牛が尻尾を振っている。俺は小川の水を飲んで休む。
トウモロコシ畑を過ぎた辺りから、光景にケイコは狼狽していた。
黒い集落が見えたとき、蝿や鳥が集まって、吐き気を催す臭いが漂っていた。
腹を空かせた犬が飼い主を齧っている。ナギナタが仰向けになっている。横腹からは腸が垂れ下がり、大地が血で焦げていた。池じいは仰向けになっていた。頭を撃たれ、バンダナの赤色が黒ずんでいた。子供も広場の端で倒れており、悪魔を見た死に顔が印象的だった。俺は息が詰まった。森の境で勉の死体も見つけた。ケイコは呆然とその顔を見つめ、晶子を探し回った。何処にもいなかった。
ガジュマルにもたれている死体を見つけた時、俺は唖然とした。唐沢だった。
死に方が直前の行動を物語っていた。火炎瓶を投げられ、黒鞄を持ったまま家を飛び出したのは良いが、逃げる場所がないので仕方なしにガジュマルに隠れようとした。が、計画通り、違うアングルから狙撃されたようだ。
全部で十五の死体。生存者リストには唐沢の×が加わる。ケイコは生残った者を三つのグループに分け、書き込んでいた。
① ケイコ、翔太、片山
② トモコ、長瀬
③ 晶子、藤本、吉村、シンケン(悲鳴が上がる。このうち一人死亡)
ケイコは汗を拭き、これからどうしたいか俺に尋ねた。
「北へ行くなら、森を通るか、海沿いの近道を選ぶか……。あっ、山小屋を通る道もありますね。考えてみれば、これまで出くわさなかったのは、死神が北の番をしていたからでしょう。行けば、今度こそ本当に出会うでしょうね」
「生き残った人に出会うとしたら、どのコースかしら」
「森にはハブが沢山いますから、隠れるなら日当たりの良い海岸沿いでしょうね」
だが生きて出会うとは限らない。
ケイコに迷いはなかった。息子の手を引き、歩き始めた。
ピストルだけが頼りだ。俺は疲れた足を引き摺って親子を追う。
小さな島とはいえ、曲がりながらの上り下りで時間が掛かり、汗が出る。脚がだるい。
俺は歩きながら腹が立った。映画のシナリオとはいえ、小島で四方に散らばって生活するとは馬鹿げたことだ。固まって生活するのが理に適っている。ただ生き延びられたのは分散生活していたからで、残党と鬼ごっこをしている敵も楽ではなかろう。
ハブに神経を吸い取られながら歩いていると、ばきばきと枝が折れる音がした。姿が見えないがガサガサ音がする。森の中で何者かが動いている。
もしやと思い、弓を構えると、ケイコが待ったをかけた。
「晶子、晶子なの」
しばらくして「藤本だ」と名乗りながら男が姿を現した。手ぶらだ。札束も持っていない。ただ逃げることに専念していたようだ。
現れたゴリラの子供を見て、俺は吃驚した。死んだとばかり思っていたからだ。さらにケイコがこの男を「藤本先生」と呼んでいたことにも奇妙に感じた。
「藤本先生、生きてらしたの」
「ああ。なんとかね。ケイコくんたちも無事だったんだね」
藤本は森を徘徊していたのか、体に細かい枝葉がくっついており、両手でぱっぱと払う。北東の方角に逃げ、主に森の中でじっと隠れていたこと、矢を放ち、槍をついて歯向かっていれば死んでいただろうと、語った。
木田が死に、その拳銃をケイコが手にしたのを知ると、藤本の目は希望で光った。
28-f
藤本も一緒に海沿いの道を歩くことになった。
途中、大岩があり、疲れたので、その岩を囲むように休憩を取る。藤本は朝から何も食っていないという。息子がバナナを渡した。
「藤本先生、よく助かったわね。晶子を見なかった?」
藤本は皮をめくって口に入れ、咀嚼しながら、
「見ないね。生きているなら、森は無理だから、どこで寝たのかな。俺はジャガー族の死体置き場で夜を明かしたよ。火を消して独りになると、えらい不気味だった。晶子ちゃんは知らないな」
「藤本先生、洞窟ってこの辺にある? 晶子が行きそうな所」
「ある」
「どこ?」
「北に崖があるだろ。あれを少し東に行った場所。それがどうしたんだ」
「灯台下暗しね。晶子がいるかもしれないのよ。ところで、シンケンと吉村さんは見なかった?」
「吉村くんは死んでいたよ」
「え! 何処で?」
汗ばんだケイコの顔が悲痛に歪んだ。
「山小屋で罠にかかっていた」
不思議に思ったので、俺は二人の会話に口を挟んだ。
「よく無事でしたね。あそこに近づくなんて危険ではないですか」
「昼前に東で狼煙が上がっただろう。だから山小屋から出て遠くにいることが分かった。直ぐに引き返してくるかもしれないが、あの近くで座っていたから、あいつよりは先に着くはずだ。山小屋を乗っ取ろうと思って行ったら、吉村くんが倒れていたんだよ。鍵が厳重に掛かっていて、雨戸も内側からしてあった。いやな予感がした。山小屋は便利だから、直ぐに戻ってくると思って、また逃げた」
「その後も銃声が上がったでしょう。どうなったのか知ってる?」
「誰か知らないが、生き残っていた者だろう」
ケイコは吉村に×を入れて山小屋で死んだと書き込み、生存者リストを見せた。
藤本は鋭い目で、「だったらあの悲鳴は男だった気がするから、シンケンかな」
ケイコは藤本に、あづまが弟子と島の東部へ襲撃に行かなかった理由を聴いた。
「あの辺はいつも見張っていないといけないだろう。船なしでは幾ら現金があっても島から出られない」
藤本は懐から手帳を出し、ぼんやりと眺めはじめた。大麻の葉も取り出し、手帳を千切って紙タバコにした。
「マッチは持っていないか」
俺は死神から貰ったのを点けてやる。藤本は燻らせると、ケイコもキセルを吸い始めた。一服したら、再び北へ行くことになるので矢の準備をする。
「さあ、行きましょうか」とケイコがキセルを収めたとき、森の中から「助けてぇ~~、きゃあああ~~」と張り裂けんばかりの女性の絶叫が、銃声と同時に轟いた。
生々しい断末魔に凍りつく。
息子の唇がわなわなと震え、ケイコは「あの声は、まさか」と目が金縛りにあっている。
唾を飲んで藤本を見る。眉間にしわを寄せ、次は自分であることを覚悟している。
俺は藤本の耳に囁いた。
「何か怪獣にでも食われたような悲鳴でしたね」
「あの悲鳴。あれが遺伝子の記憶を呼び起こすのだ」
悲鳴が近かったから、すぐそこまで来ているような気がした。あの声は、歌で聞いたことがあるが、あり得ないはずだ。
背丈ほどもある羊歯の隙間から様子を覗いていると、太古の時代に戻ったような、妙な感じがした。
気を紛らわすため藤本に話しかける。
「どんな記憶が蘇ってくるんですか」
藤本はいかれた白目をむいた。
「遠い先祖の記憶だ。爬虫類からこうやって命からがら逃げていた。蛇を見て逃げるのは遺伝子のせいだといわれるが、正にそうだ。ケツアルコアトルは平和な神だと思われているが、実際は違う。進んで生け贄が捧げられていた。俺が思うに、羽毛ある蛇は空想の産物ではなく、実在していたのではないか。恐竜としてな」
「でも時代がちょっと違うのではないですか」
反論すると、藤本は憑かれた白目で、「確かに今から約六千五百万年前の短期間に、恐竜を含めた動物種の七割が死滅したとされている。気候の大変動に適応できなかったからだ。だが一万二千年ほど前、恐竜と先住民と共存していた。これは南米の石の絵やヨーロッパの洞窟の壁画などで証明されている。多分、ケツアルコアトルに祖先は追われていたんだろ。まさに今の我々の状況だ」
そこまで話すと藤本は息を潜め、耳をぴくぴくと別の生き物のように動かせた。
ケイコは溜息を吐いた。
音が聞こえないことを確認すると、藤本は再び語り始めた。
「旧石器時代、アジアの狩猟民族がベーリング海峡を越えて散らばったのはマンモスを追っていたからとは限らない。恐竜に追われていたのではないかな。陸地の続く限り逃げる。生け贄を捧げたのも生き残る知恵の一つだった。脳の発達した恐竜は、満腹すれば村を荒さない。古代アメリカが戦争して生け贄を捧げていたのも、その名残ではないか」
藤本は再び話を止め、耳に全神経を傾け始めた。
普通なら馬鹿げた話だが、悲鳴の余韻が残っていたので、リアルに響いた。
藤本の白い目は太古の世界にトリップしている。
太い葉が頭の上でしなっていた。断末魔の叫びは近くで響いた気がした。
「酋長、島の中央付近で殺られたのではないでしょうか。あの声、ひょっとしてトコモさんではないですか」
「あなたもそう思った? あれはトモコよ。相当近いわよ。まとめて撃たれないように少し離れて歩きましょう」
すると生存が確実なのはこの四人だけ。
ケイコが先頭に立ち、五歩程度間をあけ、息子、藤本、俺と続いた。なだらかな道は次第に太くなったが、湿った落ち葉が足を滑らせ、海岸に落しそうになる。
何故トモコが森に出たのか。不安に負けて海岸でじっとしていられなかったのか。ならば長瀬も森に入ったはずだ。一緒に殺されたのか。
一方、あづまはどう動いているのだ。船着場、白い家、山小屋と巡回しているなら、このまま行けば危険なのではないか。
離れて歩いていたので、カーブで藤本の背中が見えなくなった。海辺を見下ろすと、身も心も洗われる絶景だった。
生きているからこそ、感じられるのだ。死にたくない。
注意し、耳をそばだてていると、前の方から「わあ~」と子供の叫び声がした。