蛇のスカート    -4ページ目

16-a 森の小屋

   

  翌日、雲一つない快晴だった。

出発の前に十一人のルリカケス族が広場に集まり、俺を囲んで踊った。青空に太鼓や合唱が、羽根と共に舞い上がる。ケイコの髪と蛇のスカートが波打ちながら跳ねる。祝いを受ける石像の心地がした。ケイコに言われ、「無事に帰って来れますように」と石膏を拝んで撫でる。この中に何か隠されているような気がしてならない。

晶子を攫って来れば仕事が終わる。これが最後の踊りなら、何か名残惜しい気がした。

戦に行く武士の心境で、長靴を履き、ペットボトルに水を入れる。手紙やナイフ、タバコなどを袋に入れ、腰にくくり付けた。

トモコから貰った黒羽の冠を頭に付ける。吉村に先導され、湿った山道を登り始めた。猛烈な日差しが羊歯やソテツを照らし、辺り一面、緑色の炎が燃えている。この島の山道には多少馴染みができたが、吉村が引っ張ってくれるとさらに安心で、時間が短く感じる。

やがて水道管に繋がる小川の上流に到達した。一昨日の大雨で川幅が広がっていた。吉村は小川に足を浸けて越え、倒木の下や岩陰などに注意しながら、直進する。俺はただ赤羽を追いかける。島の頂上に着くと、萌える若葉に感嘆した。

道が二つあった。吉村が言うには、北へ真直ぐ行けばハブ族に辿り着き、西に折れればジャガー族の集落だという。

「ここからは独りで行くんだにゃ。左側に下りれば大丈夫にゃ。これ、もしもの時使ってくれ」

吉村は木の楯を渡してくれた。あの時助けてくれたやつだ。明らかに攻撃する可能性があるということを示唆している。形見の品か。死ぬかもしれない。

踊って送り出してくれた仲間の手前、もう後には引けない。

頼りない一枚の板を受け取る。勇気が試されているのだと思いながら、西に下りた。

枝や草、ツルが道から這い出して、行く手を阻む。踏みつけられた草の跡、地面にずれた石の跡を観察し、ここは東西の交通要所なのかと疑う。

だいぶ下ったので、そろそろジャガー族に出くわすのではないかと、俺はTシャツを脱ぎ、両手で盾をあげた状態で道を降りた。

纏わりつく蚊を払っていると、下り坂のだいぶ先でインディアンに出会った。

今度こそ逃げてはならんと、威風堂々と前進する。近づくに連れ、相手の格好が浮かび上がってくる。白黒の服を、青いベルトで締めていた。額にも青いバンダナがある。菊のペンダントが胸元で揺れている。

頬には太い刀傷が入っていた。相手は敵と察知したのか、背中から一本矢を取り、弓を引き始めた。

「おい、待ってくれぇ!」

焦った俺は、盾と手の平を大きく振った。

「誰だ貴様!」

「仲間になりに来たんです」

「仲間だと? ジャガー族はもう満杯なんだよ。てめーは生け贄だ。オボオボオボ」

頬傷のあるインディアンは「敵が来たぞぉ~」と後ろに向って合図を叫んだ。

話が全然違うじゃないか! この大嘘つきめ。

俺は叫びたい気持ちで地団太を踏む。

弦を思い切りしなった矢が放たれようとしていた。逃げる間もなく、俺は楯を胸と腹に当てた。ゴツっと深く食い刺さる音がし、絶望を感じた。

向こうは武装しているが、こっちは丸腰、しかも裸。楯を外して逃げたら死ぬ。

俺は楯をかざしたまま猪突した。坂道を駆け下り、二本目の矢を構える相手を思い切り体当たりし、突き飛ばした。襲われるとは思わなかったのだろう。驚きの悲鳴がした。

どうなったか分からない。やけくそになって敵陣に突っ込んで行く。

西に下りる道を走っていくと、叫ぶ声に挟まれた。背中からは「くそ~、殺してやる!」と逆上した声が追いかけてくる。前からは「敵か!」「大丈夫か!」と仲間の声が近づいてきた。

足を止める。前方で、インディアンが槍先を向けていた。飛び掛る虎の目をした敵には、片手がなかった。盾は背後からの矢に備えねばならない。

俺は唯一の武器であるナイフを握り締め、隻腕の男に向けた。敵は、俺は槍の使い手なのだと、ぶんぶん振り回して威嚇している。背後から「殺してやる!」の声と足音が耳元まで近づいてきた。

俺の背筋は凍りつき、脚ががくがく震えた。前にも行けず、後ろにも戻れない。かといって道を逸れ、草むらに入ればハブが飛び掛ってくる危険性がある。

開き直った俺はTシャツを着て、草むらに飛び込んだ。ハブは見逃してくれるかもしれないが、ジャガー族は虱潰しに探して殺そうとするに違いない。

長靴を履いていたが、枝葉を割って格闘している最中、生きた心地がしなかった。

森の奥をさ迷うと、鳥獣の鳴き声がするだけで、声は追って来ない。さすがに森に飛び込む根性はなかったようだ。顔の前にくる蜘蛛の巣や邪魔な枝、ツルを払い、途中で磁石を出す。狭い島だから一方向を突き進んでいけば、いずれ海岸に出られるはずだ。海岸に追い詰められる恐れもあるが、後ろには戻れない。西に逸れるように進む。

出た先には、再びインディアンが待ち構えていたらどうするか。絶望で体の力が入らず、木にもたれ掛けたとき、背中に矢が刺さった激しい痛みを覚えた。

悲鳴を上げ、背後を振り返る。人はいない。追っ手が放った矢ではない。だがのた打ち回りたくなるほど痛い。背後の曲がった枝を見ると、長い緑と黄色の、小さな紐がくねくねと蠢いていた。三角の顔が舌を出し入れし、冷酷な眼差しで俺を睨んでいた。

「や、やられたぁ~~」

反射的に咬まれた背中を押さえ、右手で肉を握り、毒を取り出そうとした。が、背中は口を付けて吸い出すことは出来ない。最悪の状態だ。

毒回りが速いのか、呼吸困難になってきた。背中は大火傷したように熱い。

コブラでないから、五分で死ぬことはないだろう。焦って走れば余計に毒の回りが早くなる。だがじっとしていても助けは来ない。ケイコなら血清を持っているだろうが、戻れそうもない。

広い場所を見つけて倒れよう。俺は運命の流れに身を投じた。このまま前進すると海岸かどこかに辿り着くはずだ。信念の力でよろめきながら下る。

枝や蔓と蛇の見分けなんて付くか。泣きながら愚痴っていると、足で荒らされた場所を発見した。足跡は獣道を作って続いており、抜け出られそうな気配がある。

倒れそうだったが光が見え、踏ん張った。激しい鼓動で胸が痛い。呼吸もおかしく、酸素を取り込んでも苦しい。まさか、こんな状況で持病まで再発したのだろか。

16-b

どうせ死ぬのだ、いっそのこと一思いに殺してもらおう。けもの道を下っていく。すると樹木に飲み込まれるように、屋根の低い木造の一軒屋があった。

なぜこんな所に小屋があるのか。何でもいい。柵の隙間をこじ開け、ドアを強く叩いた。

「助けてください、助けてください……」

最後の命の全てを振り絞って叩く。しばらくするとドアが開いた。誰か出てきた。

「どうしたのかね」

恐竜男だった。蛇革の烏帽子にサングラスで髭を生やしている。

「ハブに噛まれたんです~。背中を咬まれたのです~。もう死にます~~」

「くっく。僕は七回ハブに咬まれたけど、まだ生きているよ」

蛇男は驚きもせず、すんなり中に招き入れてくれた。男の口髭の辺りは、三日月の形をしていた。まるで俺の不幸を喜んでいるかのように。

十畳ぐらいの部屋には、四角いテーブルがあった。蒸し暑く、小型扇風機が緩やかに回っていた。酷い動悸が続いたからか、毒のためか、眩暈がして全身が痺れ、どうにもならない。パニック症が再発し、呼吸困難になっているので喉を押さえながら、

「苦しいです、息が出来ません、何か、紙袋のようなものを頂けませんか」

「息が出来ない?」

テーブルを見る。電卓があり、数式や記号の本が開いている。その隣に「株式会社 あづま屋」と会社名が刷ってあるA4封筒が重ねてあった。

「あれを貸してください」

封筒を素早く一枚とる。中を押し広げ、紙袋にして口を突っ込む。何度も呼吸をする。溺れ死にかけ、再び空気を吸って吐いた瞬間だった。

瀕死の呼吸をしていると、蛇男は俺を椅子に座らせた。後ろに回ってシャツをまくり、咬まれた背中を見ているようだ。猛毒で焼けた背中に硬いものが当たった。

しゅっしゅと音が立っている。毒吸い取り器だろう。続いて男は木箱からアルミケースを取り出し、右腕に血清を打ち込んでくれた。

「これで大丈夫だ。咬み口からして、小さい奴だから治りが早いだろう」

「くっく」と不気味な含み笑いが部屋を席巻した。

天を仰ぐ。どうやら助かったようだ。礼をいう。まだ鼓動は早いが、何より精神的に救われた。ただ、どうしてこの男が血清なんて持っているのか不思議に思い、

「やけに用意がいいですね」

「私はハブを商売の材料にしているからね」

「商売?」

「この島はハブが多いから、奄美大島へ行って売れば儲かる。ハブは酒にもよし、健康食品にもよし、ベルトやカバンなどの皮革にさえもなる」

拍子抜けした。封筒の社名と合わせ、この男の素性が見えてきた。

「ハブを売っていらしたのですか」

「そうだ。だが三年間、みんなで乱獲をし過ぎてハブが少なくなった気がする」

「みんなで?」

「ワシ族やジャガー族だ。ほかに取り柄もない、何の産業もない島だから、ハブを捕獲する仕事を与えたわけだよ」

「そうだったのですか。でもハブは飛びついて来るから大変ですよ。危ないですね」

「だが放置しておいたら殖え続けるだけだろう」

背中に手を当ててみる。時間がたったので患部は腫れ上がり、ラクダの様相を呈している。血清のせいか、頭がくらくらする。ハブを捕まえに森に潜るなど狂気の沙汰に思える。

蛇男は親切にも隅のベッドに寝かせてくれた。風邪なのか、咳き込んでいる。あんまを受ける客のようにうつ伏せになり、硬いマットに頬をつけ、胸でゆっくりと息をする。意識が朦朧としながら、どうやってこの窮地から脱出するかで一杯だった。

「あづまさんも〈なろう会〉のメンバーだったのですね」

「最後の会員だ」

「最後?」

「この小屋は五年前からあった。島でハブを狩っていると、突然、押し寄せてきたのだよ。インディアンになろう会がね。映画を作るというから驚いた。シナリオでは四つの部族で助け合ったり、戦ったりするわけだ。だが東西南北のセット作る前に、ハブと戦わなければならない。そこで私の出番と言うわけだ」

「そうだったのですか。でも、あづまさんはハブ族の酋長でしょう? 確か死神を祀っておられるとか」

あづまは嬉しそうに、「まさに適材適所だよ。ハブ族の役目は捕まえたハブを取り扱うことだ。私が全部引き受け、塩や紬糸、釘など、彼らに無い物と交換する。もっとも最近、ハブが少なくなったし、今は別の商売を手がけている所だが」

「そうだったのですか。で、どんな商売をなさるのですか」

「まだこれからだ。とにかく君は、ゆっくりと休みたまえ」

枕に頭を沈め、体の力を抜く。脂汗が流れる。蛇の烏帽子をのせたサングラス男は、机の上で荷物をまとめ外出しようとしていた。

寝られず、涙ながらに蛇男の横顔に訴える。

「これから自分はどうしたらいいのでしょうか」

振り向いたあづまは「北は安全だろう。北へ行き給え」と優しくアドバイスしてくれた。

「北って、もしかして、ハブ族の仲間に入れて頂けるのですか」

「君が嫌なら別に構わないのだよ」

西へ行けば殺されるだけ。願ってもないことである。

「でも、ハブ族の酋長は、一人残らず仲間から逃げられたとの噂ですが」

蛇男は口元の髭をさすりながら、「くっく」と笑い、

「人の噂は悪いことしか広がらないものだ。愛弟子が一名残っている。とにかく、私は今から出かけるから、動けるようになったら行ってみなさい」

体にハブの毒がじりじりと浸透している。峠を越えているか、体温はもっと上昇する気がする。呼吸を荒くし、思いを巡らす。なるほど、こんな良い人だから悪評だけが先走っていたに違いない。死神を祀る神官とはいえ、俺の体を切り刻むどころか助けてくれた。

意識を保とうとする俺は、薄暗い天井に舞い上がる感じでトリップした。三百万の新車に乗った晶子が遠くへ逃げていく。闇の中で追いかけていると、幻覚だろうか。高音の笑いが連発してきた。妄想だろうか。体の痛みを安らげるような柔らかいバスの声が響いてきた。

「君は今、神の食膳の皿にいる。君の体はハブの毒で蝕まれている。毒はタンパク質をとかし、毛細血管を破壊していく。背中は内出血でじわじわ腫れ上がる。君は長いこと痛みに苦しむことになる。君は神に美味しく頂かれている。神はおっしゃる。ハブに咬まれた人間の苦しみはなかなか出汁が効いている。珍味だ。独特の味と香りがして美味しい。この先もっと増やした方がいいかもな、と。そしてハブを繁殖させ、出汁を増やされる。悲しいかな、神のテーブルには鳥インフルエンザ、悪性腫瘍、アスベスト、ダイオキシン、放射性物質などがズラリと並んでいるわけだ。所詮、人間は神の情けでも待つしかないかな。いや、食べられて幸せだ、とマゾになるのが一番いいだろう」

俺は火の蛇に抱かれながら苦悶し、叫び、暴れた。蕩けるような低い声がすんなりと入っているうち、俺は力が抜け、眠ってしまった。

17-a 死神を祀る白い家

    

一汗かいて、俺は目覚めた。背中は熱いが少し楽になったので、ベッドから降りる。

あづまは何処かに行った。ハブ族の仲間に入れてくれるという言葉を信じよう。だがここにいてはインディアンに捕まりかねない。

重い戸を開け、外に出た。腰丈まである草で覆い尽くされている。風が吹き、高木の枝葉が揺れている。使い古した炭焼き窯が設えてあった。森で炭を焼いているようだ。なるほど、村上が時折やっているから分かるが、あれは煙がきつい。隔離されて当然だ。

ならば燃料を作りに小屋に来る可能性があると、俺は焦った。

ここはハブ族の酋長が頻繁にやって来る。なら北への近道があるに違いないと、磁石を出す。枝葉を掻き分け、薄暗い獣道を伝う。蛇が多そうで、生きた心地がしない。毒が浸透し、爪先まで痺れる。ハブやインディアンに出くわしませんようにと念じながら進む。島に来る途中で観察したが、北は確か断崖のはず。

しばらく歩くと、草むらの向こうに、雪国、かまくらの集落が姿を現した。

やった。着いたのだ。俺は安堵し、へなへなと地べたに寝転がった。シートは灰色に変色している。

森を振り返ると、捻じ曲がった樹木が、左右から襲い掛かるように集落への入り口を塞いで、緑色の鳥居に仕上がっていた。

広場には石像も芝生もない。家の配列は南と同じだが、乾いた地面は草で荒れていた。岩や石が苔に覆われ、潮の混じった強い北風が吹き付けている。

無言で建つ白い家は、冷たい雰囲気が漂わせていた。俺は立ち上がり、今にも海に転落しそうな白い家に首をひねった。

真ん中の家には、「死神の社」という風化した看板がかかっている。神社風に改造され、階段が二つある。厚い格子の扉は、冥界への入り口を思わせる。

社の裏に回ったとたんに脚がすくんだ。断崖の下に海が轟いていた。脚腰を震わせながら少し前進し、かがみこむ。すぐに仰け反った。大岩と白波が呼び込みをしていた。飛び降りて下さいと言わんばかりに。

北の潮風を受けるのは死神の社の他、「衛生所」と「島役場」。

島の自治体? 映画のセットだろうか。島役場の入り口の壁には新品のトンカチがもたれていた。三つもある。杭を打つのか、頭でもかち割るのか。白い家をぶち壊して退散する予定でもあるのか。

海鳥が群れをなして舞う。北は潮の香がきつかった。白いシートは夕日で金色に透けている。緑を壁にした三つの建物も好奇心をそそった。真ん中は「皮革屋」。蛇を生業とするからわかる。その両側は「研究室」「実験室」。奇妙な看板である。

北に着いたとたん、廃村を連想した。実際、看板はあるが人気がない。愛弟子がいるらしいが、気配がない。長靴でかつかつと足音を立ててみる。やはり反応は無い。

疲れたので休もう。俺は社の木の階段に腰かけ、背中の傷口をさすり、ため息を吐いた。寝転んで、青空をまだらな雲が泳いでいるのを眺める。

少しぼんやりして、飛び起きた。ここで寝ているとジャガー族に見つかりやしないか。

島役場の裏に隠れ、俺は手紙の束を取り出した。膝を抱え、頭を伏せる。

計画は大いに狂った。これでは晶子を連れ戻せない。報酬どころか、自分の命が危うい。ただハブ族の酋長に救われたのが、不幸中の幸いだ。もう何もせずに大阪に戻ろう。金さえ出せば、あづまが奄美大島に運んでくれるだろう。だが肝心の彼はどこへ行った?

俺は立ち上がり、島の地図をイメージした。さっき小屋から伝ってきた獣道があるが、この集落は道が左右からも繋がっている。海岸に沿って続いているようだ。

俺はしゃがみ込み、痕跡を探る。水気を含んだ柔らかい部分には足跡が交錯していた。まさかこれこそ、ワシ族とジャガー族が交流するための要所になっているのではないか。ならばここにいれば、インディアンに何時出会っても不思議ではない。

全身が震えた。仲間になる許可は貰ったが、命の保障まではされていない。

再び羊歯の道を駆け上がる。まだ毒が体の隅々を巡っている。よろけながら、休む場を探して歩く。緑が弱火になった所に大岩があり、腰をかけ一息ついた。

喉を鳴らしながら水を飲む。

蝉の声が遠くなり、うとうとし始める。傷口が疼く。

眠るに眠れず摩っていると、茂みからがさがさ音が聞こえ、瞼が跳ね上がった。

鳥か狸かと放って置いたが、その音はだんだん大きくなってくる。

殺気を感じ、首を上げると、樹木の間から恐竜が現れた。蛇の帽子を被っている。

あづまと同じ格好だが、サングラスがない。葉巻を咥えている口元には髭もない。

俺と男は、がっちりと目が合った。

男の顔は般若だった。

驚きのあまり、俺の体が金縛りにあう。ヘビに食われる直前のカエルの心地。

それでも何とか相手の手元を見る。左手には五十センチくらいの黒毛の塊が、体を捩じらせて暴れていた。右手はてぶら。地面には鋭利な槍が落ちていた。相手も驚いているようだ。

俺は別のナイフでもあるのかと武器を探した。すると蛇革ベストの胸ポケットから、拳銃が半分姿を現していた。

俺は息を荒くして見つめた。これが例の愛弟子であろう。だが、その表情は到底友好的なものとは思えない。蛇男は葉巻を落とし、胸に蓄積した煙を一気に噴出した。

流れてくる煙が、俺の鼻腔に届いた。

とたん、俺の頭にエンジンがかかった。この煙の匂い。煙草のものではない。アヘンかコカイン、大麻。きっと手に入れやすい大麻だろう。

ピストルの柄の部分を見ながら、俺はヤバイ状況に陥ったのだと察知した。この愛弟子は狩りの帰りだったのだろうが、出くわした俺を如何にも怪しいと映ったはずだ。殺されるのではないか。この男は俺がハブ族に入ったことを知る由もない。

もう何人も殺していそうな顔を見るうち、閃きが走った。あづまの新しい商売とは、大麻の密売ではないか。実際、ギャングのボスのような風貌だ。そしてこの愛弟子の面構え。蛇を探す振りをして大麻を栽培する。これが宝島の正体だ。それ以外でこの島にいる理由はない。すると秘密を知った俺は口封じされる。凶器はあるし、現場も最高ではないか。

17-b

俺は驚きに恐怖を加え、さらに目を大きく見開いたまま般若の面を見つめた。

タバコを落とした般若は歯を剥き出し、凄まじさを増していた。が、愛弟子はピストルを身構えようとしない。依然として睨みつけたままだ。

なぜ撃たない? 愛弟子は槍を落とすほど俺に驚いている。ということは俺を恐れているのか? いや、そんなはずはない。ハジキがあるのだ。そういえばハブ族は死神を祀っているから、まさか、人間の俺様を生け贄に捧げるつもりなのか。何てことだ! すると発砲して致命傷を負わせるわけにはいかない。生け捕りか? すると格闘が始まることになる。一対一だ。この顔つきはこの世の代物とは思えないが、年は俺より若いし、体の線が細いような気がする。ひょっとして勝てるかもしれない。

だが拳銃を持つ相手より先に手を出すわけにも行かない。

見つめ合ったまま時は過ぎる。

相手も黒いウサギをぶら下げたまま。数分が数時間のように長かった。

やがて相手は疲れたのか、鋼のごとく強張らせた頬の筋肉を緩めた。三日月の笑顔を俺に見せる。

このコペルニクス的転回に、俺は腹の読めない恐怖を陥った。油断させて、襲おうという魂胆ではないか。鼻息がさらに荒くなる。動悸を感じ、汗が冷え、体が凍える。

相手は槍を拾い、穏やかな口調で、ゆっくりと質問をして来た。


「おまえは一体こんな所で何をしているのだ」

それはこっちのセリフだ! お前こそ、こんな島で蛇の皮を被って何をしているのだ。ピストルを携帯し、大麻まで吸っているではないか! 槍を持ったな。ウサギを捕まえついでに、俺も捕まえて死神に捧げるつもりなのだろうが。

喉元まで声が出かかっていたが、ぐっとこらえ、答えを検索した。返答次第では、槍で手か足を一突きされるかもしれない。俺は流血を防ぐシナリオを考え、開き直った。

「俺か。俺が一体何でこんな所でうろうろしているのか、疑問に思うのも無理もないだろう。教えてやろう。実は俺は今、死に場所を求めているんだ。俺はルリカケス族にいたのだが、ハブ族の酋長、あづまさんに惹かれてな。ふっ。今の俺にぴったりだ。俺はな、実は不治の病、エイズに感染しているんだ。ふっ、昔、遊びすぎて移されちまった。自業自得だな。これから先、苦しんで死ぬより、今のうちに死んだ方がいいと思ったんだが、死に方が分からなくてな。まあ、死ぬに死ねない、といった方が正しいかな」

俺はとっさの作り話で、切なさそうに語った。エイズなら感染を恐れ、刺したり抉ったりするのを躊躇うはずだ。それに同情してくれるだろう。

案の定、効果抜群であった。敵は憮然とした顔に変わった。

俺は畳み掛けた。

「俺は死ぬに死ねないんだ。死ぬのはあまりにも苦しいからな。楽に死ねることが、俺の最大の願いだ。もう何もかも厭になった。ルリカケス族は俺にとってナンセンスだ。踊ったり祈ったりした所で、この病は治りやしない。北に来れば苦しみが和らぐのではないかと思って、ハブ族の酋長に直訴し、北へ来たのだが、誰もいない。酋長も来ないし、絶望して、今、自殺でも考えていた所だ」

逃亡先を確保するだけで、根からハブ族になろうなど全然考えていない。が、愛弟子の射るような目尻には皺がよった。

「君も弟子入りか。それは素晴らしいことだ」

烏帽子の男は喜んで、ぽんと背中を叩いてきた。顔の割には中身が単純であった。

連れ立って白い集落へ引き返す。空はえんじ色に染まっていた。蝉の声が夕方の風に吹かれて、寂しい北に連れ添ってくれる。

人は見かけによらない。殺さなかったウサギは、ペットにするのかもしれない。胸元で誇示しているのは玩具のピストルで、ハッタリなのかもしれない。

そう考えると、さっきまで虎に見えた生き物が、大きなネコに思えてきた。俺は帰りがてら、男に質問した。

「ハブ族は酋長も入れて、本当に二人なのか」

弟子はこっくりと頷き、

「でも今日から三人だ。今日は素晴らしい日だ。何ヶ月も追っていたアマミノクロウサギをやっと仕留めることができたし、仲間も出来たし」

男は歩きながら、「木田」であると名乗った。葉の下は、根が張り巡らされ、躓きやすいから気を付けるように注意してくれる。白い集落に辿り着いた。命が救われたと安堵すると、疲れがどっと出た。木田が近寄ってきて、細い紐で俺の胸を結ぼうとする。

「何をするんだ!」

縛られるのかと思い、慌てて振り払うと、木田は制服を持ってくるのだと笑った。足や胴回りの寸法を測る。鍵を取り出し、森に面した「皮革屋」に入った。

俺は腰を下ろして水を一口飲む。これまでは鳥の羽を被ったが、今日から蛇の皮を纏うことになるのか。腹が鳴るが、食えそうな看板はないし、蛇肉でも食わされるのかもしれない。白い家の裏を見たが、きゅうり一本なかった。地が削られ、畑を作ろうとした痕跡はあった。北風に均され、草だけが芽を出している。

夕暮れの涼しい風に安らいでいると、木田が蛇革を抱えてきた。蛇の烏帽子に蛇革ズボンとブーツ、ポケット付きのチョッキの四点セット。これを身に着けろという。

俺は烏帽子を取って、あご紐を結んだ。長靴を脱ぎ、ズボンをはくと、太股がひんやりとした。ブーツは長靴より軽くて動きやすい。蛇革の裏には汗を吸う綿が施してあった。靴紐を結ぶ。これを見ればハブも咬むのを躊躇う気がした。最後に緑のTシャツの上にベストを羽織ると、木田が満足そうに瞳を輝かした。

これで俺も恐竜か蛇人間になったかと、小学校の学芸会を思い出し、懐かしい気分に笑った。

木田は死神の社に案内した。隣の衛生所から白いシート、短剣と台を持ってくる。社の狛犬が居るような場所に置く。座って酋長の帰りを待つという。

何の意味があるのか知らないが、指示された通り、シートに胡坐を組んだ。

木田は縛られたクロウサギを社の前に投げ置く。並んで切腹でもするかのように、短刀の乗った三方を社の前に置いた。

姿勢正しき愛弟子と、西日を吸った刃物が、厳粛さを保って、存在感を増している。ルリカケス族にはない静けさ、重さ、真剣さが、白い家に渦巻いていた。ナイフの鈍い光はこちらに刺さってくる。

切腹を待つ武士の心地で座っていると、姿勢を崩さず木田が話しかけてきた。

「南はどうだった」

「面白く無くは無かったが、飽きが来るね。安易な生活だよ、あそこは」

「ならいい。ここは修行になる」

ナイフが目に刺さる。潮の香りが強い。背後からは、断崖に打ち込む潮騒がする。

「修行? 何か厳しそうだな」

「そうでもない。肉も食えるし」

「あのウサギか」

「食ったことはないが、あれは美味いだろう」

空腹で倦怠感を覚える。やぶ蚊が五月蝿い。蛇革で隠せない腕や首根っ子に針を刺そうと旋回している。まだ熱い背中に手を当て座っていると、海沿い道を通ってきたのだろう、白い家の切れ目からインディアンが三人現れた。

先頭にいるのは男勝りの体格の良い女で、赤白の服を着ていた。太目の胴を桃色のベルトで締め、バンダナもピンクで派手だ。赤い空にナギナタを突き立てていた。続いて肩幅の広い黒いバンダナをした男が槍を握っていた。白黒の服にはワシ族と交易でもしたのか荷物を背負っている。最後に赤いバンダナをした男がとぼとぼ歩いていて、これは手ぶらであった。白黒の服に赤いベルトを締めている。この六十前後の男は、前の二人に声を掛けた。すると三人は死神の社の前で深く会釈をした。三色のバンダナは、俺を見たとたん、化け物を見たかの顔をした。首を傾げて「誰じゃ、ありゃ」「何者だ」「さあ」「信じられない」「世も末じゃ」と囁きあう。やがて広場を横切り、西の方へ消えていった。

自分たちが丁重に扱われていることを不思議に思い、

「このハブ族は、ワシ族やジャガー族と仲が良いみたいだね」

「そう思うか」

「最後に歩いていた男なんて、こっち見て最敬礼していたじゃないか」

「知らないのか。あの赤い鉢巻をしていたのは、ジャガー族の霊媒師だ。先頭に歩いていたピンク色の鉢巻が副酋長、黒いのが護衛隊長。三人とも元ハブ族だ」

「裏切りやがったんだな」

きつい言い方をすると、木田はどうでも良いかのように、

「酋長の方針は『去る者、追わず』だ」

「まったく優しい酋長だよな」

「ああ見えて怖い。狂信的なところもあるし」

「怖い? でもジャガー族に行くのを許したのだろう?」

「うちの酋長は忙しい。面倒を嫌ったのだろう」

「そうかな。俺がハブに咬まれても助けてくれたけれど」

「そういう時もあるだろう。『生かさず、殺さず』だ」

背骨の辺りがすぅっと冷たくなる。なめられないよう大袈裟に言ったに違いないと、

「だったら君は何で最後まで付き合っているんだ」

「集団生活が面倒だからだ」

木田はぶっきらぼうに返事する。

「じゃあ、このままずっと一緒にいる気かい?」

「死ぬまで一緒だ」

「簡単に死ぬって言うけれど、苦しいなんてものではないだろ」

淡白に話していた木田は怒ったように、

「あんた、病気で死ぬ覚悟が出来ているのではないのか」

「それはそうだが……」

自殺をしに来たと口走ったが、死ぬ気はさらさらない。

やがて少ない会話も途絶え、自然の音楽に包まれた。涼しい薄暮に、海鳥が甲高い声で鳴いている。無人島の岬に死神の祠をこしらえ、短剣を前に、蛇の精霊になって座っている。馬鹿げた行為だ。大麻と拳銃について聞こうか悩んだ挙句、聞かなかった。

姿勢だけ落ち着き、心は暴れていた。不安の文字が胸の中で巨大化し始める。あづまは無人島で金儲けを企んでいるようだが、当て嵌まるのは大麻草しかない。なぜ三年前から北は二人なのか。表向きはハブ革の商人でも、裏が麻薬の密売人で、秘密を保つためではないか。ならばその事実を知った俺は始末されるだろう。クロウサギと一緒に。

17-c

    

考えれば考えるほどハブ族は危なく思えた。ケイコも最悪の人物だと言っていたし、ハブ族からジャガー族へ鞍替えしたとなると、畜生のジャガー族より性質が悪いことになる。仲間入りしたのは失敗だったか。あづまの船で奄美大島へ逃げ帰るなんて、密告するために逃げるのかと海に沈められてしまう。逃げるには今しかない。が、隣の男はピストルを持っている。それに手紙を貰って出た以上、南には戻りにくい。背中の陣痛が、夜の森に入る度胸を奪い去っていた。

足音がしないか、俺は耳をそばだてた。小屋を出た後、船でも出したのか。だとしても木田の様子では今夜は戻ってくるはずだ。

視界が闇に飲み込まれ始めた。生温い風が烏帽子を揺るがす。隣の木田を伺うと全身の力が抜けているのか生気がない。雛人形は白い家と共に闇に消えようとしている。

気色悪い。こんなので楽しい明日が待っているはずがない。やっぱり逃げよう。

立ちあがろうと膝に手を当てた時、かすかに、含み笑いが森の茂みから風に乗って運ばれてきた。「くっくっく」という高音の、七面鳥のような鳴き声だ。

俺は青ざめた。耳がぴくぴく動く。鳴き声は少しずつ大きくなっている。

とうとう来やがった。あれこそハブ族酋長、あづまだ。死神のような笑い方。妖怪のような登場シーン。あいつは大麻を扱い、ピストルを所持している。平気で子犬を海に放り投げ、生き物の命を屁とも思っていない。フェリーで会った瞬間からただ者ではないと思っていたが、やっぱり暴力団の親玉だったのだ。一応、ハブ族の格好をしたから助けてくれるだろうか。まさか、生け贄にされるのか。そこにいるクロウサギのように。

絶望だけが膨張する。足音は益々大きくなり、気味の悪い声はさらに響き渡る。

大地を蠢く奇怪な生き物が、うっすらと幽霊のように目の前に現れた。含み笑いが止まる。死神の社と向かい合うと、いきなり、「ぎゃあ!」と恐ろしい絶叫を上げた。

俺は驚きのあまり、横に飛び散った。息を殺し静観する。

化け物はゆっくりと中央のラインを線で引いたように社の方へ前進した。芸術的な程、美しい足取りで。

そのまま階段を上り、社へ突入する。鍵の束を出し、南京錠を開けた。ネズミを踏み潰した音が聞こえ、ぎいっと重い扉が開く。

様子を伺ったが、何も見えない。やがて明かりが点き、俺はぎょっとした。

白い社の内部は、火事で焼けたように黒焦げだった。ただキャンドルライトが等間隔で、不気味な美さで並んでいる。黄色い炎が、黒い幕で覆われた長台を照らし出す。

愛弟子に付いて中に入る。炎の囲いに香の煙がくすぶり、天に上昇する白蛇と化していた。

あづまは何度も激しく咳き込んだ。肺を患っているのか、酷く苦しがり、頓服の紙包み広げた。飲んだ後、背中で呼吸を整えている。

やがて小さな太鼓を勢い良く叩き始めた。皮線を連想させるハブ革の太鼓を、黒い撥でリズミカルに叩く。

「死、死、死……、死、死、死……」

あづまは、「死、死、死」と怒鳴った後、三回太鼓を叩き続ける。

ちかちかと橙色に彩られた部屋を見回す。黒い花瓶に挿してある、一輪の白い花が浮き上がっていた。炙り出される黒い壁には、白い紙に何やら文字が書かれていた。

  あらゆる存在が、無へ、0へ、回帰しようとする。

  あらゆる生命は苦しむ。この力は一体何なのか。

  殺そうとする力。生贄を食べる快楽。

あづまは「死、死、死」と唱えては、三回太鼓を叩く。歯切れの良い連呼に、亡霊の手が墓場の下から差し伸びてくる思いがした。死を洗脳されるようで気味が悪い。

太鼓の音と「し」の声が止み、静まり返った。

次なる儀式に移ったらしい。あづまは突然、尻を高く上げ、平伏した。憑かれた声で喋り始める。遮るものは何もない。低いバスの声が、黒い部屋に不気味に響き渡る。

「主よ。主は私をどのように頂きになるのだろうか。どういう方法で料理されるのか。神のみが知る。それは既に予定されている。私には分からない。そしてそれを知りたいとも思わない。怖いから? 面倒だから? いいえ、私が所詮虫けらに過ぎないからである。虫けらがどうなろうと大したことではない。しかし一寸の虫にも五分の魂。主に苦しみは十分に捧げられるであろう……」

木田も平伏していたので、俺も倣った。恐るべき信仰告白が延々と続いている。

限がないと思ったのか、木田は酋長に向いて囁き始めた。

「酋長、今日はまことに素晴らしい日です。ウサギに加え、仲間も手に入りました」

今しかないとばかりに、俺は平伏した顔を上げ、挨拶した。

「酋長、今朝、ハブに咬まれて助けて頂きました片山です。こうしてハブ族の仲間に加わることが出来、まことに有難いと感謝しております」

地に頭をつけたまま「どうか殺さないで下さい」とばかりに返事を待つ。

しばらくする七面鳥の鳴き声が返ってきた。小刻みな裏声が、機関銃になって暗黒の世界に木霊する。あづまは、振り向かずに、そのまま口を開いた。

「このハブ族に新入りがあるとは、正に奇跡である。そう。我々は今、ここで神にひれ伏している。時間と空間で同じ体験をしているのだ。イメージしたまえ。三次元の座標を。神は原点、ゼロ。唯一絶対。ここではマイナスは考えない。単純化した理論だ。X軸に時間、Y軸に空間をとる。ある一点、X―Y平面のある一点が、このブラックルームである。そしてZ軸に生命をとる。神が生命を一つ一つ放出するのだ。それは様々な天体、星のような軌道を通る。ハレー彗星のように、七十六年周期のものもあれば、百年周期のものもあろう。生命の位置は神によって既に予定されている。星と星がぶつかって砕け散る、これも予定通りなのだ。偶然というものは存在しない。人間の苦しみ、これも神の予定である。苦しみによって人間は神と通じ合う、完全に一体化するには死ぬしかない。死ねば原点に戻る。無に帰す。生きたままの状態で、神と通じ合うには苦しむしかない。そうだ。私にはまだ苦しみが足りないんだな」

ハブの化身は、ゆっくりと低音で喋った。

平伏したまま、俺はこの妙な教義を吟味する。この男、どうやら神は死神だけと考えている。絶望的な一神教だ。

ハブ族の酋長はうつむいたまま続けた。

「ところで、片山くんには確かフェリーで一度会ったね。私は蛇島へは行くべきではないと忠告したが、君は聞かなかった。そして生温いマザコン宗教に仲間入りしたのだ。しかし今、君はここにいる。そして私と一緒に平伏している。天体は再び戻ってきたのだ。君も神を見出し始めたのだ。それは既に神が予定していたのだ」

あづまは自信たっぷりに言ってのけた。

俺の耳は痙攣する。何馬鹿なこと言っているのだ。今ここで俺が平伏しているのは、逃げ場がなくて仕方がなかったからだ。晶子は西にいる。こんな陰気な所には、何の用もないのだ。

木田が這い蹲ったまま進言した。

「酋長、やっと、アマミノクロウサギが捕まりました」

横目で一瞥したとき、酋長は口元をドラえもんのように割りながら、「くっくっ」と笑っていた。蛇革の背中は振り返り、ささやき返す。黒い神殿で炎がゆらゆら揺れる。サングラスに蝋燭が幾重にも映し出される。それはもう妖怪以外の何者でもなかった。

「あの天然記念物を神に捧げる。これも既に予定されていたことだ」

あづまは蝋燭が並んでいる長台に手を差し伸べ、その引き出しを開けた。こんなところに引き出しがあったのか、と不意を突かれる。

「私が殺し、木田くんが右手右足を固定しておくから、君は左側を支えていなさい」

木田が針を渡した。あづまは己の親指にちょこっと突き刺し、俺の中指を掴んだ。突き刺したので驚く。痛み、憎しみが湧いてくる。深くて、重たい感触が指先に集中する。

カバーを取ると、燭台はどす黒く変色した台を露にした。ウサギを寝かせると、異変に気付いたのか、ウサギは最後を予感させる鳴き声を上げ、肩や腰をよじった。が、どうすることも出来ない。やがて諦め、ふさふさした黒い腹を膨らませては凹ませる。その頭上には短刀を握った酋長が立っていた。蝋燭は刃をオレンジに染め、後は血を吸うのを待つだけ。木田と共に手足を固定する。赤子の手足を持っているようで切ない。

あづまはナイフを掲げ、眉間を顰め呟く。ナイフを、さっと真下に降ろし、クロウサギの左胸に突き刺した。心臓の一突きは水風船を弾かせたように鮮血を散らし、俺の頬に飛沫が当った。きゅっと悲鳴が舞い上がり、鼓膜が痛む。あづまは平然とナイフで胸のあばらを砕き、大きな切れ目をつけ、右手を突っ込み、赤黒い塊を勢いよく引っ張り千切った。

紐のように長い血管を幾つもぶら下げた塊を掲げている。その手や顔は、ぬるっとした血で染まっている。あづまは掴み取った心臓を香炉に投げ入れた。灰に包まれたその塊はまだひくひく動いているように見えた。

あづまは血塗れの両手で、ウサギを壁に貼り付け、逆さづりにした。下にたらいを置き、血抜きしながら、すっぽり皮を剥ぐ。作業を終えると、足元の瓶に手を入れて洗った。

怒りと懺悔の念で震えが止まらない。サングラス男は満足の表情を浮かべた。

「よし、これから鍋でもつつきながら、新入りの歓迎会をやろうではないか」

あづまは含み笑いしながら、蝋燭を一本取ってランタンを作った。咳き込みながら残りの火を吹き消し、外に出た。木田は兎の肉と毛皮を提げて行く。

酋長は鍵束を取り出し、拝殿に頑丈な南京錠をかけた。

18-a 肉食の宴

   

社を出ると、隣の衛生所に立ち寄った。

血のついた蛇革ぬぐい、鳥肌が立つ体を水で流す。酋長は水風呂に浸かっていた。俺は木田の次に入った。冷えるので嫌だったが、儀式だと思い身を沈める。寒さで首を縮めるうち、不思議と心地良くなった。背中の咬み傷が沁みたが、頭が冴えてきた。水風呂を出た後、あづまは俯き加減で酷く咳き込んでいた。

酋長は研究室を開け、ランプをつけた。家では灰が舞っていた。あづまが囲炉裏に木炭を入れ、竹筒を吹いて火を熾していた。俺はバケツに水を汲んで来るように指示され、衛生所に行く。木田は包丁でリズミカルにまな板を叩き、葱、ニンジンや椎茸を投げ入れ、新鮮な肉は大まかに切って放り込んでいる。テーブルには青い瓶に『海神様』と貼ってある焼酎の一升瓶が置いてあった。

「あらっ、これはルリカケス族にもありましたよ」

偶然だろうかと聞くと、あづまは咳き込みながら、

「ケイコという名の魔女がいるだろ。あの女がはいている蛇のスカート、あれは私の作品だ。あの代わりに貰ったのが、まだ残っていたのだ」

沸騰している鍋からは、唾液を分泌させる香ばしい匂いがしてきた。酒とコップ、箸、皿がテーブルに置かれると、みんな烏帽子を脱ぎ、床に胡坐をかく。

誰からともなく鍋の兎肉を箸で引っ張り出して食っていると、あづまが切り出してきた。

「片山くんは、森の中で何をしようとしていたのかね」

サングラスの奥に疑いの光が滲んでいた。木田には不治の病と告げており、「自殺しようとしていた」と答えるのが正当だろうが、あづまにはフェリーの中で既に出くわしているから自殺は通らない。「ピストルが怖くて」と木田にあの時の嘘の弁解をして、

「実は大阪にいる近藤勉の兄から手紙を頂きまして……」

仕事で大阪から近藤勉の親父の死を知らせるために島に来た。そのまま生活していると、今度はケイコの父親が危篤になり、署名があってケイコは戻ることになった。そこで晶子も一緒に連れて帰りたいということで、使者として手紙を携え西へ向かったが、襲われた。もう嫌になり、今はハブ族で生活したいのだと、こじつける。証拠の品として預かった二通の手紙を酋長に渡した。

あづまは手紙を捲りながら驚きの声を発した。

「ほお、ついにあの魔女は東京へ帰るのか」

「一時的だと思いますが」

「それは分かららないよ。あの魔女、久々に東京の高層ビルを見て、夢から醒めるかも知れない。案外、熱中していたら、他の世界は見えなくなるからね」

あづまは鍋から肉を選んで、皿に盛る。

「ではルリカケス族が励んでいる精霊崇拝や踊りは、所詮、夢か幻だと」

「片山くん。我々のほとんどの行為は、苦しみに満ちた現実からの逃避だ。私はこれでも科学者の端くれで、実験や発明を楽しんでいる。研究していると、日々の悩みがどこかへいく。熱中しているのだ。没頭している限り、死にたいと思う瞬間すらやってこない。没頭し、狂わせてくれる対象、それが仕事であれば充実した人生が送れるであろう。しかし見方を変えれば、存在自体を問い、生きることの空しさを嘆く生命の苦しみから逃げているのだ」

あづまは兎の肉を引き千切って食べる。

「では酋長、ケイコさん達は苦しみから逃れようとして踊っているだけなのですか」

あづまは酒を注いで飲む。何度か咳きをした後、大きく肯いた。

「その通り。生きていることは快楽ではない。生きていることが苦しみであると感じるとき。何て時が経つのが長いのだ。病気で苦しんでいる一日。悩み多くて眠れない夜……。とにかく眠れないときは何かに熱中して狂うわけだ。片山くん、私の場合はね、眠れない時や病気で苦しんでいる時、自分が皿の上に乗って大の字になっている姿を想像するのだよ。今朝食べたヒラメをのせるような皿に。そして私は微笑んで待っている。何をか。ぺろぺろと神の御舌で嘗められるのを。私は胃がきりきりと痛い。神はそこをぺろりと嘗めておられる。私は幸せだ。そうしているうちに私は眠りに落ちる……。要するに私も自分の思想に狂っているのだ。信者が禁欲生活に耐えられるのも、狂っていて幸せだからではないか。現実はとてつもなく厳しくて苦しい。だから我々は常に自分を狂わせてくれる刺激を求めて彷徨している。彼らは現実逃避で踊っているだけだ」

そう語った酋長は兎肉を頬張って口に入れ、咀嚼する。木田は相当飢えていたようで、もも肉を手掴みで食い裂いていた。俺は最初野菜ばかり食べていたが、試しに一口食べてみると、鶏肉より遥かに美味しいので魂消た。

「クロウサギの肉って、美味しいのですねぇ」

感嘆の声を漏らすと、酋長が奇妙なことを口走った。

「人間の肉はもっと美味い」

平然と語る口ぶりにぎょっとして、

「まさか、経験でもあるのですか」

「今はない。だが、例えば私と君が冬山で遭難したとしよう。食糧が尽きたら、後は想像に任せる。飢えのせいで、究極の味を体験するに違いない」

白い歯を出して笑う男は、今にでも襲って来そうな気がした。

「僕はそう簡単に死にませんよ。そうなったら時は、酋長こそ、気を付けた方が宜しいですね」

冗談で言うと、あづまは大きく咳き込んだ。

「断っておくが、私の肺には酷いウイルスが棲み付いているから、食べない方が賢明だよ」

「え、何の病気なんですか。まさか結核とか」

「ムショにいた頃、精密検査をしたが、別に伝染病ではなかった。正体不明の喘息だが、別に気にしていない」

「刑務所におられたのですか」

18-b

「普通なら、こんな生活はやらないだろう。私はね、実はヤクザまがいの金貸しを殺して、八年間服役していたのだよ。分かるだろ。そうなったら普通の雇われ人は、もう無理だ。やるとしたら自分で会社を興すしかない。飯場で働いて金を貯め、中古の船を買った。蛇島を見つけ、ハブの商品を取り扱っていたわけだ」

酋長は箸を置き、酒をあおった。酒に弱いようで、鼻や頬が赤らんでいる。先入観で見ると、確かに殺人犯の貫禄がある。俺は顔を引き攣らせ、

「ま、まあ、自分も似たようなものですよ。頼みの会社に倒産され、コネで入った会社にはリストラされましたから。現実は過酷なものだと、初めて気がつくようになりました」意外なことに、あづまは驚いていた。

「リストラに遭ったからこの島に来れたのではないか。それも神の思し召しだ。リストラによって労働者は苦しむ。そして神は快楽を感じる。神に頂かれたのだ。どんなに大不況に見舞われ、大量の失業者が出ようと、彼らは決して負け犬ではない。神のために苦しみを捧げるのである。我々は所詮、神の供物だからな。どんな苦しみも命じられたまま耐え、運命の残酷さに身を投げるしかないのだ」

淡々と語る男に、戦慄した。恐ろしい解釈だ。詭弁もここまでくれば大したものだ。

「では先生、ここの神からして、大企業で出世している俺の友達や、大金持ちなんか、一体どのように解釈されるのでしょうか」

「松阪牛は食べられるために大きくなったのではない。痩せ細った子牛が、絶え間ない愛情と寛大さによって、ぴちぴちしたブランド牛になったのである。神は太らせて食べるのだ。さっき、ブラックルームで話したろ。三次元の理論を。原点に神がいて、X軸に時間、Y軸に空間、Z軸に生命がある。まあそれも蜘蛛の巣のように神が創られたのだな。まるで我々は蜘蛛の巣にかかっている蝿なのだ。それはさておき、神は人間を放り投げる。遠くに投げれば投げる程、加速度がつくから、落下する時の衝撃は大きい。幸せであればあるほど、落下のショックは尋常ではない。くっく、実に恐ろしいことだ」

おお、完璧な解釈だと、俺は驚嘆した。

あづま兎肉を口に入れる。二,三度咳き込んだ後、お玉杓子で鍋をかき回しながら、

「食べる者の立場で、この鍋を見ればわかる。野菜ばかりでは味気がない。そこで肉を養殖しておられる。私にしても、そろそろ鍋に放り投げられる頃合かも知れん」

俺の頭に、容赦なく矢を引くインディアンが過ぎった。

「そういえば酋長、ワシ族やジャガー族は一体何を考えているのですか。手紙を渡すために、裸で万歳をして近づいても、平気で矢を飛ばしてきましたが……」

「本当か、君を殺そうとした者がいるのかね」

木田が尋ねてきた。

「どんな奴だった」

「確か、一人は頬に傷があって、もう一人は片腕で槍を持っていました……」

「山田兄弟ですよ」

木田は酋長に囁く。あづまは納得してうなずきながら、

「運が悪かったね。君を襲ったあの二人は元ルリカケス族だ。今ではジャガー族の問題児だが」

「じゃあ、ジャガー族は全員が襲ってくるわけではないのですか」

あづまは笑いながら腰から拳銃を取り出し、

「当然だよ。我々がこうして武装しているのは、何人かの凶暴な獣から身を守るためだ。獲物が捕まらんと、当て付けで射られたら堪らない。そう考えると元ハブ族は優秀だったかもしれない」

あづまは惜しがるような口ぶりで、拳銃を収めた。あの二人は破門になって当然だ。

確かケイコは八人追い出したと言っていた。

「酋長、ジャガー族は今、何人ですか。ルリカケス族も相当混じっているようですか」

「二十四人だ。最初は十一人だったが、三ヶ月と経たないうちに、五人譲り渡してやった。霊媒師夫婦とその息子はともかく、今、会長の護衛隊長をやっている男は惜しかったが」

「護衛って、敵はルリカケス族ですか」

「会長に逆らう者は全員敵なのだ。山田兄弟がいるから脇を固める必要がある。彼は女に足を引っ張られて、北を出て行ってしまった。その女はナギナタ使いで、ジャガー族の副酋長をやっている。まったく、女には神の崇拝など無理だったのだ。ふう…」

あづまは次第に眠そうに体を揺らし始めた。俺は「霊媒師、その妻、その息子……」と指を折って数え、

「ということは、ハブ族は三年前、七人いたということですか」

「いや、九人だ。社の裏をみたかね。崖があるだろ。三年前、二人飛び降りた。あれは台風の過ぎ去った、満月の夜だった。ふう…。死に傾倒しすぎ、ノイローゼになったのかもしれん。ふう…。あれで、ぞろぞろ去ったのだ。ふう…」

赤ら顔はもうダウン寸前である。木田は弁解するかのように、

「逃げられたのではない。今でもこのハブ族は一目置かれている。決して我々に逆らうことはない」

あづまは己の頬をビンタし、意識を戻そうとしている。蛇の格好でピストルを持つ。脳ミソともども気持ちが悪いから逆らわないのではないのか。

ふと妙案が浮かんだ。ハブ族が逆らえない対象なら、この格好で西へ行けば殺されることなく、すんなりと酋長に手紙を渡すことが出来るのではないか。矢を引くのが山田兄弟だけなら、晶子を攫って逃げるのも難しいことではあるまい。もう一度チャレンジしてみようと、

「酋長、この二通の手紙を渡さないというのは問題ですから、明日、ジャガー族のところへ行ってきてもよろしいですか。もしもし、酋長!」

眠そうな酋長を揺り起こす。

「ふう…。だが君は新入りだから、相手にされないかもしれないよ。ふう…」

「ですから、ハブ族の新入りとして挨拶も兼ねるのです。一筆『この者を宜しく』と紹介状を書いていただければ、幸いですが……」

「わかった……」

そのまま言葉が途切れ、あづまはぐったりと倒れた。

  

18-c

翌朝、俺は早起きして研究室を出た。背中の激痛がだいぶ治まった。

あづまの凶悪な面を思い浮かべる。元殺人犯で、科学者と称していた。実験室で一体何を作っているのか気になる。どっちにしろ手紙を貰って晶子を攫えば、永遠におさらばだ。

顔を洗って散歩する。日が昇ってきた。社の裏に回り、清々しい朝の海を眺める。葉巻を吸った木田が、疑い深い目でこちらを監視している。

俺は近寄って、「それは普通のタバコじゃないね」

「麻の葉っぱだ」

平然と言ってのけた。俺はつばを飲み込み、

「それって犯罪じゃないのかい」

「そうだな」

「ヤバイよ。見つかったら、即、刑務所送りだ」

「送られる前に、これだ」

木田はピストルを出して米神に当てた。

「だてや酔狂で死神を崇拝しているのではない。俺は何時でも死ねる」

ヤクでいかれているのか。

平気で引金をひく顔に怖くなり、話を変えた。

「ところで、酋長は科学者だったんだね。こんな辺鄙な島で何をつくっているんだい」

「今開発しているのは、チャイルド装置だ」

「子供の玩具かい?」

「踊って発電させる機械だ。見せてやろうか」

木田は研究室に戻り、鍵と烏帽子を取って出てきた。実験室へ案内してくれた。

物色する。コンデンサーなどの部品やハンダごてなどが整然と置かれてある。自転車に似た装置や、液晶テレビの仕掛け品。改造された車輪とライトを見て、自転車の発電機さえ神秘的に思えた。からから車輪を回しながら、

「簡単そうで、案外、複雑なのかもね」

木田はフレミングの左手の法則で指を形作り、「電磁誘導だ。これはクランク機構ではなく、ピストン運動でタイヤが回転し、フェライト磁石が回る。その外側に、コイルを巻いた鉄心の足が伸びていて、これが磁路をつくっている。そこから出ている磁力線が、コイルの中で増えたり減ったりする。それでコイルの中に電流が誘導されることになる」

なるほど。踊るたびに、エネルギーの浪費だと思っていたので感銘を受けた。必要は発明の母。あづまが床を踏みしめる何十本もの足を眺めながら、あれが発電機か何かになるのではないかと閃くのも頷ける。だが飛び跳ねただけで相当の電力が出るとも思えない。

「発電が目的なら、太陽光発電の方が安上がりで簡単ではないか」

素朴な疑問を投げると、木田は少し怒って、

「素晴らしいのは経済性ではなくシステムだ。人間が機械を踊らせ、機械が人間を踊らせる。踊ってみな。ゲームみたいで楽しいから」

木田は厚目のカーテンを閉めた。薄暗い中、台に乗ってみる。足裏のツボでも押すかのバネが入っていた。踏めば前後に揺れた。飛び跳ねると、不思議とタイヤが回転し始めた。激しく飛ぶと回転数が増し、鮮明な色が点る。

「ライトが生きているようだね」

「人数を増やせば、オーディオ装置さえ起動する。液晶ディスプレイも夢ではない。踊りながら色んな生き物が画面に出る。花や夕焼けなどをデジカメで撮影し、サンプリングして量子化し、デジタルデーターに変換しておく。そうすれば好きな順序で自由に引き出せる。朝日をバックにワシが太陽の化身であるように映すことも出来る。そういう映像に接して踊っていると、精霊になった心地で踊れる」

スピーカーやシート、フレーム、バックライトやバッテリーなどが段ボール箱から溢れている。

背後で七面鳥が鳴いた。サングラス男が腕を組んでいた。

「実に楽しい工作だよ」

「酋長、これは運動不足解消の機械、プログラムウオーカーに一番近いですね」

「これはウオーカー・マシーンの類ではない。映像と音楽が肉体に浸透し、脳みそを溶かす恐怖の麻薬なのだ」

「麻薬、ですか」

あづまは口を横に割った。

「踊りは大麻と同じで、度が過ぎると社会秩序は乱れるだろう」

「そうかもしれませんね。そういえば、鹿児島のメーカーには売れたのですか」

「断られてしまった」

「売り込み方がまずかったのかもしれませんね」

あづまは俺に営業用ファイルを投げた。開いてみる。

新製品チャイルド・マシーン。これは有望な商品です。会社はノルマと競争で殺伐とし、皆ストレスが溜まっています。社長が福利厚生で購入し、『やれ!』と言えば、社員は皆踊ります。感動した親は子供に買い与え、子供は友達と踊ることでしょう。反抗期の子でさえ駄々をこねて欲しがり、親子で踊り、崩壊寸前の家族も和解することでしょう。このマシーンは全世界に広まります。メキシコやブラジルなど踊り好きの国では火に油を注ぐようなもので、アメリカや中国、インドなどの巨大市場に飛び火することでしょう……

18-d

野望とも思える文章を読んでいると、あづまは悦に入り、鳴き声を上げてきた。

俺は疑問に思った。DJがいる既存のクラブハウスの方が、迫力があり、安上がりなのではないか。

「そのうちきっと理解者が現れますよ」

勇気付け、実験室を出る。小雨が降ってきた。先程まで晴れていたので、島の気候はどう転がるか分からない。朝早く手紙を受け取ってジャガー族に行くつもりだったので、

「ところで酋長、ジャガー族へ持参するための手紙は出来ましたか」

あづまはぴくっと頭を上げ、「おお忘れていた」

「早くお願いしますよ」

急かすと、研究室へ戻った。

木田はお湯を沸かし、コーヒーを酋長に差し出した。あづまは机に紙を置き、ボールペンを持ち、長いこと口髭をいじった後、一息で書き終えた。

「今日から君はジャガー族の専属だ。あそこは元ハブ族もいて交渉しやすい。これを持って行き給え」

あづまは棚からを柔らかい文庫本のようなものを出した。よく見ると、ポリ袋に黒い葉っぱがはち切れんばかりに詰まっていた。

あづまは低い声で囁くように、

「初めて見る者に対しては攻撃的だ。友好的になるには、何かを与えることだ。これが好物の餌だ。会長に直接渡して、小切手を貰って来給え」

そういった後、ブツを俺のポケットに突っ込んだ。

大麻を売っているのだろうか。とんでもない奴だと思いながら、手紙を読む。




拝啓  近藤勉 殿


六月中旬、ハブ族に新しい仲間が誕生した。名前を片山という。ハブ族始まって以来の新入りである。彼を挨拶も兼ね、ハブ族の名代としてジャガー族に遣わす。


ところで、島で大きな問題が発生した。ルリカケス族の酋長に迎えがやってきた。病院理事長の娘の父親が、末期ガンで危篤状態となっているらしい。理事長秘書、唐沢が居場所を突き止めて島に来た。現在もルリカケス族に逗留している。来週の船が来るとき、ジャガー族の晶子も連れ、三人で東京へ戻ろうとしている。

そこで本日午後、島役場に集合。三部族で会議を始める。テーマは秘書、唐沢の運命。

生かして帰すか、その場で殺すか。生け贄か、生け捕りにするか。

皆で考えよう。

                       ハブ族の酋長 あづま        敬具





俺は驚愕し、手紙をサングラス男に付き返した。

「こ、こんな手紙は、持っていけませんよ。生け贄にしろって……、恐ろしい……。もっと手柔らかなのをお願いします」

「何を勘違いしている。まだ決まっていない。結論は代表者で話し合って決めるのだ」

あづまは髭を舐めている。結果は見えているような気がした。殺人の共犯者になるなど御免だと、唐沢の命乞いをする。

「何とか殺さずに済ませませんか。あの男は穏便に済ませたいそうですよ」

「だからまだ何も決まっていない。当事者だから君も会議に参加させてやろう。その秘書と話し合う方法が良いのなら、そこで説明し給え」

あくまで手続きを踏んで殺すつもりか。あづまが丁寧な口ぶりで払うと、木田が冷たい声で押し付けてきた。

「酋長の命令だ。この手紙を渡してくるんだ」

あづまはワシ族の酋長宛に会議の招集を書き、

「木田くん、ワシ族に持って行き給え」

ポリ袋を添えて渡すと、仰々しく受け取った木田はポケットに入れ、伝書鳩が飛び立っていくように、研究室を駆け出した。残された俺は再び不安な気持ちをぶつける。

「まさか生け贄はないですよね。本当に殺すとなると、仲間の誰かからクレームが出るでしょうから」

あづまは大きく咳き込んだ後、

「所詮、赤の他人だ。供物になろうが文句は出るまい。人間の苦しみは、神の快楽。我々も不幸に遭った人に同情こそすれ、内心自分がそうでないことに喜びを感じている。君だってそうだろ。クロウサギを可哀相だと思っただろうが、死ぬのは自分ではないと一緒になって殺し、美味しく頂いたではないか」

幼子のような兎の手足と、心地良い毛の感触が、手の平に残っていた。

「そんな、人間とウサギは違いますよ」

「ここはインディアンの島だ」

あづまは暗い声で宿命を押し付けた。胸の辺りに反感が充満する。

「仕方がない。君が行かないのなら、私が知らせに行くまでだ」

「いえ、自分が行きます」

白い家から逃げたい気持ちで、手紙とポリ袋を握り、研究室を飛び出した。

19-a ジャガー族

小雨が止んだ。海沿いの道があったが、道順を頭に叩き込んでおきたかったため、険しい山道を選ぶ。

森に潜る頃、銀色の朝日が鳥の囀りとともに降り注いできた。まろやかな風が爽やかで、鎧が身を守ってくれる。ハブが仲間のような妙な気さえした。

殺されかけたあの時以来、俺は暗い底に落ちた。背中に刺さった二本の毒牙が苦しい現実に引き戻したのだろうか。

微温湯から冷水の世界に俺は落ちた。いや、戻ったのかもしれない。都会の貧乏生活は俺にとって厳しく、ルリカケス族の世界とは相容れなかった。むしろハブ族の救われない世界に取り込まれているのかもしれない。

ならば俺は社会の生贄となるべき存在だったのか

何者かが生きるために食べられてきて、そして殺される。そしてそれを避けるために、他の生贄を探しているのかもしれない。

まさに今もそうではないか。ハブ族の一員になることで俺は救われたが、代わりに唐沢に死の手が迫っているではないか。

今後を予想しながら山道を歩く。死んでもいない親父の手紙を近藤勉に渡し、危篤でもない理事長を看取るために東京に戻るから、晶子を貸せという手紙も渡す。会長が愛娘を手放すはずがない。そこへ会議の手紙を読ませたら、近藤勉は生け贄を主張するだろう。あづまは死神に仕えているし、ワシ族にも反対する理由がない。会議など形だけ。先回りして唐沢に逃げるように言っても、血眼になって森を探すだろう。ハブに咬まれるか、桂木の船が来るまで生き延びられるか。ルリカケス族が情に厚いとはいえ、唐沢のために命を懸けて戦ってくれるか。やはり一人の命が差し出されるだろう。

ヒカゲヘゴの高い傘に覆われ、辺りは暗く、突風でがさがさ揺れた。不気味だった。途中で道が枝分かれした。太い道は南まで上りながら続いているようで、魅力的だった。草で塞がった道には薄らと記憶があり、進んで行くと案の定、昨日の山小屋に繋がった。そのまま獣道を突き進む。曲がりながら西に近づくいている気がした。枝葉が顔面を塞ぎ、落ち葉の堆積や石ころで足元がおぼつかない。

経験から、蛇島には道が三つあるのを知った。

まず、東西南北をクロスさせて結んでいる道。

次に東→北→西と続く海岸沿いの道。

最後は山小屋を通るもっとも険しいこの道。

枝葉を掻き分けて歩くうちに、けもの道は次第に広くなり、腰丈程度のブロックで囲いと木で出来た柵に出くわした。牧場なのかと驚く。石囲いは木を編んで子供の背丈の高さにしている。黒和牛の近くに人がいた。石垣を伝って少し横に逸れると水のそよぐ音がする。茂みの向こうに狭い水流が落ち、太いパイプに合流している。岩陰にハブがいた。

再び石垣の向こうを覗く。草の刈られた広場には、耳をピクピクさせた牛がいて、目が合った。尾を振りながら再び草を食む。ヤギが鳴いている。豚も寝ていた。番をしているインディアンが二人いた。白黒の服。昨日見たのと同じだが、バンダナの色が微妙に違う。一人は干草を運んでいる大男で、長髪を左右に振り分け、薄黄色のバンダナとベルトを締めている。もう一人は熊手で掻いている男で、こちらの鉢巻は黄色が濃かった。熊手を持っている男は気付いたようだ。眼光の鋭く「オーッス」と挨拶してくる。

俺は会釈し返した。熊手男は六十才くらい。白黒の服をぎゅっと黄色いベルトで留めている。化け物でも見たかのように、あんぐりと口を開け、

「あんた、仁王さんではないな。ハブ族におったか?」

「新入りです」

「ああ? あの北に、新入りだとぉ?」

黄色いバンダナは天地が引っくり返るほど驚いている。人見知りの強い、灰色の眼差し突き刺してきたので、新入りの挨拶をしに来たのだ伝える。手紙を掲げて見せた。それでも男は猜疑に満ちた目で首をかしげ、

「おい、くらの助! 北に新入りだってよ!」

熊手を高く掲げて仲間を叫ぶ。

胸板の厚そうな男が振り返った。大男は槍を取り、のそのそと近づいてくる。その眉間の皺の深さは、不信の極みを示していた。

この格好で疑われるとは。俺は力が抜けた。スムーズに事が運ぶと信じていたので丸腰である。牧場を横切って逃げれば、怪しさが倍増し、矢が飛んでくるかもしれない。藁をも縋る思いでポケットをまさぐる。ポリ袋があった。黒い葉を見せ付ける。

それを見た二人は静まり返った。目を丸くし、顔を見合わせている。大男は槍を落とし、深くお辞儀をしはじめた。胴の細い男は愛嬌笑いを浮かべ、頭をかき始めた。

「どうやら本当らしい」

「は、はあ、ですから手紙を……」

「わざわざご苦労なことだ。さあ、近道で案内しよう」

黄色いバンダナをした小男は、ゴリラの子供に似ていた。提灯持ちになって進み始める。

牧場を過ぎると広い道が続いていた。太いパイプは二本に別れ、道の両側にある食糧庫に水を運んでいる。サトウキビ畑の真直ぐな黍は物干し竿のように穂を天に突き上げている。反対側にはトウモロコシが、風に穂を揺らしている。ナスやピーマン、豆などもある広い菜園に感銘を受けながら歩いていると、ハブの毒が残っているためか眩暈がした。異常に膨らんだ熱い背中を押さえる。

やがて見晴らしが良くなり、碧い縞模様の海が見えてきた。見下ろす場所で、高い椰子の木が三本、強風に揺られ、しなっている。家が虫歯のように巣食っていた。黒光した屋根が十個。一連のサークルに、新たに四つ加わって、8の字を描いている。二つの広場のうち一つが巨木でふさがれていた。

先導する二人は既に傾斜を下っており、追いかける。集落の入り口に、ハイビスカスが咲いていた。艶やかな花弁をちぎって手に取り眺めていると、切り裂くように目の前を矢が通過した。

心臓が凍りつく。杭に括り付けられた藁人形に刺さっている。

「こら、山田兄!。何てことをする! ハブ族の新入りを殺す気か!」

青いバンダナをした男は、頬傷のある顔で薄ら笑いを浮かべ、謝りもせず向こうに消えた。傷の走るその顔に見覚えがあった。殺し損ねたから今度こそ、というのか。

広場にはガジュマルが聳えており、溜まり場になっていた。その木陰では上半身裸の子供が四人、赤白の服を着た女が三人混じって昼寝をしている。

個性的なバンダナが、女たちには無い。寝ていた女は上半身を起こし、

「誰を連れてきたの? 仁王さんじゃないね」

「オーッス。驚くなよ、ハブ族に新入りがあって、西へ挨拶に来た」

「北に新入り? 嘘言いいなさい!」

「本当だ。あれがある」

さっきの大男が太鼓を持ってきた。討ち入りでもするかのように、力強く叩き始める。寝ていた子供も目覚め、全員がたかってきた。牛を枕にして寝ていた少女が体を起こした。ライオンの鬣のように鳥の羽で顔中をぐるりと巻き、こちらを見ている。白い半袖服を着ている。顔形の整った少女で母親の面影がある。年頃と言い、あれが晶子だろう。

太鼓と同時に、「アワアワアワ!」「ハウハウハウ!」「オボオボオボ!」野性的な声が飛びかった。次々に「オーッス」と腹から唸る声をひねり出し、個性的な色の鉢巻をした男達が広場に姿を現す。

俺は「武器、釣具」と看板のある家の前でたじろいだ。アリに群がられた飴玉の状態。噛み付きそうで凶暴な顔をしている者がいれば、窪んだ目つきをしている者、虎のように食い入る眼差しをした者もいる。開き直り、自由の女神のように、ポリ袋を天高く掲げた。