蛇のスカート    -2ページ目

6-b

「さあ、頭がいかれているから何を仕出かすか分からないわ。狩りの延長上に人殺しがある、これって自明じゃない。世界史眺めても、狩猟民族は例外なく戦争が好きだから。あなた、気を付けなさいよ。この島、ハブだけでなくて、イノシシも多いわよ。タヌキやキツネなら人を襲ってこないけれど」

ははぁ、昨日広場を駆けたイノシシ、あれだな。確かに獣類が多そうな雰囲気がある。会話が途切れた。島には勝手に残ることにし、帰ろうとする。ふと医務室を見回し、時計を捜す。医学書や医療器具が陽射しで光っている。月の満ち欠けのイラストのある自家製のカレンダーがあった。酋長なら、懐中時計ぐらい持っているのではないかと試しに聴いてみた。

「今何時ですか」

「さあ。時計なんて要らないわ。ここでは時間がずっと止まっているの。その中で祈りながら年を取っていくだけ」

「退屈しませんか」

「つまらない? あっちの生活の方がよっぽど空しいわ。人間が何のために生を授かったのか分かる?」

「さあ、人間存在に意味なんてあるんですかねぇ」

「人間は神を祝福するために生まれてきたの」

ケイコは椅子から身をよじり、パイプの先で壁のほうを指した。自家製のカレンダーを指しているようだった。

「今日は、私が掃除当番か」

太陰暦のカレンダーの六月四日に黒丸の印が付けてあった。

「酋長がされるですか」

「やりたくない仕事は皆でやるしかないわ。畑だって耕すし、料理だってやる。そうそう、一昨日、たこ焼き屋をやったの。そしたら、またやってくれって、大好評だったのよ」

ケイコは独りで喜んでいた。

「それは受けるでしょう」

なんて悲しいことだ。こんな刺激のない島では「たこ焼き」が重宝される。亭主と別れケイコは寂しくないのだろうかと思っていると、息子が医務室に飛び込んできた。 

「釣りをするのだ」と訴える。何でいちいち母親の元に来るのかと思うと、竿が折れたから隣にある「釣具・建設」の店へ行って、長い竿をもらう許可を求めているようだ。

ケイコは片面太鼓を持って家の外に出た。何をするのかと思いきや、しゃがみ込み、両手でぱたぱた太鼓を叩き始める。脳髄を打ち砕く弾ける音に合わせ、翔太は楽しく飛び始めた。ケイコは強弱をつけ、リズムを微妙に変えながら叩く。

子供の飛び跳ねる姿を見たその口元は、無上の幸福を感じていた。息子は両手を横に伸ばし、首や尻をふらふら揺すって踊っている。その姿は母親の操り人形である。悦に入った少年は両手で何やら表現している。翔太の踊りは奥深く、神々しかった。何かしら母親を祝福しているか、感謝の気持ちを表しているかのように思われた。

いつものことか、仲間は気にしていない。面白いし、気魂のこもった踊りだったので、見とれていると二十分ぐらいで終了した。息子の踊りにケイコは喜びながら、手を叩いた。

ケイコは「ここにいても、すぐに飽きが来る」と警告し、「レストランへ行けば誰か食べさせてくれる」と別れる。

「レストラン・市場」は「釣具・建設」のすぐ右隣にあった。黄色い家の天辺には円筒形の煙突が伸びている。てんとう虫の頭の部屋には、大テーブルが顔を出し、日光浴していた。三足の椅子が幾つもある。かまどが設えてあり、ステンレスの流し台に蛇口が付いている。干物が掛けてあり、一升瓶が置いてある。プラスチックの水槽にはアジやシロギス、チヌがゆったり泳いでいる。

テーブルの奥で、赤羽の男が生魚を箸で突いていた。ぎょろりとした目だが口元は笑っていた。サザエの貝殻がある。アジの刺し身料理も食べているようだ。

「どうした、魚を食べるんにゃ。俺が料理してやるにゃ」

赤羽の男は箸を置き、立ち上がった。網を取り、水槽から魚を掬う。俎板の上に、三十センチほどの魚を一匹置き、殺した。皮をはいで手際良く捌いている。「今日獲れたばかりにゃ。俺は名古屋で板前の経験があるんにゃ」

刺身包丁を斜めにし、腸を抜き、三枚下ろしにして皮をはいだ。整った刺し身が皿にのる。ワサビはないが、醤油と塩があてがわれた。釜で炊いたばかりの焦げたご飯が小さな茶碗にひと盛りあてがわれる。

「このレストランのオーナーなんですか」

「ここは原則セルフサービスだにゃ」

料理してくれた男の横に皿を置く。この赤羽、今日は緑色の顔料がない。確か昨晩、アフリカ太鼓を叩いていた。

赤羽の男は、十年来の友達であるかのような口調で話し掛けて来た。自分が吉村清輝であると名乗る。〈なろう会〉のメンバーでないことを知り、この島に何で住みたいのかを執拗に追求してきた。黒鯛の切れ身はあぶらが乗って旨かった。咀嚼ながら話を逸らす。

「この島に興味があるんです。動物が多いし、あの山の向こうに何があるのか、ジャガー族がどんな人達なのか、全部に興味があるんです。こんな生活をすると自分自身にどんな変化があるのか、ひょっとして今までに見たこともない新しい自分に出会えるのではないか期待しているんです」

綺麗事を並べ立てると、男は澄んだ眼差しで昔を思い出すように、

「そうだにゃぁ、俺が三年前、最初ここで感じたことは、都会で汚れに汚れた自分がお掃除されて行くような気がしたにゃ。歌って踊り、太鼓を叩いているうちに欲が無くなって来る。森を歩いて鳥の声や風の音を聞いていると、心が鎮まる。木を伐ったり魚を釣ったり、雑用している時も、馬の合わん上司が睨んでいないし、時間守れ、しっかり働け、言われん。ストレスが溜まらんのにゃ。前よりも健康になったし幸せだにゃ」

吉村は生き生きとした瞳で語ってくる。世知辛い都会で苦しんでいるので、何となく分かるような気がした。だがすぐに飽きるのが現実だろう。刺し身を口に放り込みながら、

「府に落ちないことがあるんですが、何で一ヶ月間だけのインディアンの体験が許されないのですか。生活費は自分で払おうと思っているのですけど」

「この島に来たちゅううことはにゃ、自殺したんと同じことにゃ。一回死んだ人間が生き返るっちゅうことはなかろうにゃ」

自殺代わりに島暮らしを選んだのか。

「ジャガー族と仲が悪そうですね。何でこの島は分裂したんですか」

吉村の目が一瞬、石像に移り、瞬きをした。

「そりゃ、多いからだにゃ。子供の頃を思い出したら分かるにゃ。やっぱり気の合う仲間同士でグループを作るにゃ」

明らかに誤魔化した声だった。何か石像に意味があるのか。固い締まった身をコリコリ噛みながら、

「たくさん看板が出ていますが、現金は使えるんですか」

 赤羽の男は大笑いをした。

「現金だって? 使えるわけにゃーよ、はっは……」

頭に青い羽根を立てた男が「ヨッシー、何事か」と近寄ってきた。緑色の紬を着ている。スキンヘッドで眼鏡をかけたこの男は昨日舞台でラッパを吹いていた。

「経済学博士、教えてやりにゃ。ここで現金が使えるかどうか」

青羽の男は日に当たる場所の椅子に座り、知性のある鋭い眼差しを向けてきた。

「船を頻繁に動かすなら別だけど、離島で円を使用するのはマズイさ。円はハイレベルの通貨。資本も労働力も、大都市や工場に移動する。島に住んでいる人間は出て行かなくちゃならなくなる」

「なら、どうやって品物を買うのですか」

禿頭の男は手の平をテーブルにばんと押し付けた。

「ここは十一人しかいないから信頼関係が全てだ。自分が魚を釣れた時に相手に与えておけば、釣れなかった時には相手がくれるという具合に、義理を通すのさ」

「がんちゃん、面白いこというにゃ。この間、俺が掃除当番をサボったときに、ちょうど酋長がたこ焼きを作っていて、十二個のところを六個しかくれなかったにゃ」

「そのうち追い出されるぞ。くれるだけでも有り難いと思わないと」

「罰が下るんですね」

青羽の男は難しそうな顔で、銀縁のめがねを弄った。

「罰というか、金を稼ぐ必要がないから、怠け過ぎるのさ。今の社会は無理に働かされる。俺の妹が良い例さ。神戸でパン屋を始めたんだが、苦労してる。客が来ないから安売りをして薄利多売、おまけに時間帯を引き延ばして消耗する。土地やテナントを借り、バイトを雇う。その経費は借金してでも支払わなければならない。首を絞められながら働いているようなものさ。その点、この島は自分達の力で食わなくちゃいけない。大工や害獣駆除、色んなことをやらなければいけない。魚だってそう簡単には釣れない。人手が足りたいくらいさ」

がんちゃんは期待した目つきで、肩をぱんと叩いてきた。

「僕はね、ルリカケス族の経済計画長だ。ここは原始共産主義に近くて、計画経済の世界さ。君は何か特技があるのかね。大工とか、散髪とか、料理とかさ」

そんなものがあったら、こんな所に来るわけないだろうと思いながら、「いえ、これといって特別な芸を持ち合わせていません。それにそもそも僕はまだ酋長の定住許可を頂いていませんから」

「え? ヨッシー、そうなの……」

青羽の男は驚いたような声を出した。吉村がうなずくと、力が抜けたように立ち上がり水槽を覗き込む。

「あーあ。魚も少なくなったし、釣りにでも行くか」

青羽の男はレストランから離れ、石像の向こうへとぼとぼ歩いていく。


7-a 狩猟際

    食事を済ませ、「レストラン・市場」を出る。何の気なしに家の裏を覘く。黄色や緑の服が広げて干してある。森にかけてネットが張られ、馬鹿でかいトマトがぶら下がっていた。「踊り場・劇場」の裏も覗く。曲りくねったキュウリが栽培されており、漬物石に似た南瓜が三つばかり置いてある。灼熱が蝉の嵐と共に迫ってくる。額の汗をぬぐう。六月初めだが溶けてしまうほど暑い。「倉庫・ライブラリー」裏に回って、森の方に歩み寄った。バショウが聳えており、サーフボードにでも出来そうな葉っぱを揺らしている。こっちへ来いと誘っているようだ。ハブは怖かったが、島を探検したいという強い衝動に襲われた。森の中には何かこの島の秘密を握るカギがあるのではいか。

時計を紛失し今何時だか分からないが、太陽がほんの少し西に傾いている。裸足に纏わりつく砂を洗って、長靴を履いた。水道管が長く続いている。森の奥から伸びていた。辿って歩く。草が刈られた道が、パイプと一緒に奥へと続いていた。湿った落ち葉から巨大なムカデが這い出てきた。踏み潰す。少しだけ歩いてみようと突入する。ソテツやヘゴが生い茂っていた。ハブに気を付けながら登る。

ぎゃーぎゃー……。森の中でやかましく鳴いている鳥がいた。姿こそ見せないが、カラス科の鳥。するとあれがルリカケスなのか。岩の隙間や倒木に眼を凝らす。

途中で引き返そうかと思っていたが、邪魔をする枝が少なく、進みやすかったので、後少しだけ、後少しだけと、おっかなびっくりで先へ上る。かなり奥まで上った所で二人並べるくらいの広い道があった。安心し、さらに奥にへと進んで行く。

天高く羊歯のビーチパラソルを張り巡らすヒカゲヘゴが続いている。恐竜が現れても不思議ではなかった。足元では草むらに覆われた水道パイプがまだ上に走っている。

重層的な樹木の奥からせせらぎがした。そのまま辿って歩くと、音が大きくなってきた。がけが崩れて赤土が見える場所から、ちょろちょろと小川が流れていた。伝ってきた道とは別の方向を流れている。川岸に道があるようで、足跡が幾つか残っていた。動物の跡ではなく、人間らしきものが押し付けてある。足跡があるということは、小川に沿って誰かが通っているわけだ。この小川は何処まで続いているのか。今度はこの川岸に沿って歩けば全然違う場所に辿り着くに違いない。

不安で膝がすくむ。ポケットから折り畳み式のナイフを取り出して身構える。戻れなくなってはいけないので、分岐点に聳えるヘゴの枝に白いハンカチを裂いて括り付ける。ヘゴは骨のように硬かった。

手帳を取り出し、ここまでの小川や道などの情報を記入する。たかが半径二キロの島。そんなに長くは続くまい。五十人いるのなら、後四十人近くが何処かで暮らしているはず。不安を胸にしまい、これは仕事なのだと言い聞かせる。川岸の足跡を追う。しばらく歩いた所で足跡は消えていた。小川から逸れ、独立した道がある。足跡もそっちに移っている。道はそのまま小川と並立しながら延々と続いていた。草むらで露虫がじりじりと鳴いている。蒸し暑くて首筋が汗でまみれている。短いナイフを片手に、ただ目の前にある道だけを凝視して歩く。何が出てきてもおかしくない。湿った枝が腕や太ももに触れただけでドキッとした。頭の中はハブで一杯だった。

神経をすり減らしたためか、非常に長く感じた。すんなりと東に行くと思われた道が、山の構造に沿って捻じれていた。蛇のくねりを見せながら、小川とその道は競うように延々と続いていた。

元の位置に帰れなくなるのではないかと泣きたくなってきた。だが道があるからには何処かに到達するに違いない。冠ワシがスダジイの枝にとまっていた。あの鳥は本当にハブを食べるのかと余計な事を考えているうち、小川は広さを増していく。前の道をただ進む。しだいに滝の落ちる音が近づいた。草木で塞がれた視界に碧い海が見え、感動した。やった。ついに島のどこか別の場所に辿り着いたのだ。足を緩め、腰の高さの羊歯の隙間から下の方を覗く。切り開けた場所に、何と、真赤な建物が立ち並んでいるではないか。

俺は目を疑った。サークルを描きながら六つの家が、砂地に奇麗に並んでいる。だが黄色ではなく、赤いのだ。一周して元に戻ったのだろうか。自分が山で駆け下りている間に黄色いビニールを全部張り替えて真赤にしたのだろうか。

磁石を取り出した。東を指している。昨日船で来る最中は、北と西しか見ていないので、細い滝が落ちていることや赤い集落を初めて目にするのは当然だ。

新しい情報を記入する。大遺跡を発掘した考古学者の心境で、赤い家と砂地の広場を見つめた。一緒に来た小川は、集落の傍で滝となって海へ落ちている。

ここも映画のセットであるとしたら、色の違いは一体どういうことだ。ここは土埃のしそうな広場があるが、蛇の石像がない。ケイコの所と違う格好をした人々が、釣り具や弓矢を手に、赤い家を出入りしている。長い髪を左右に束ね、虹色の鉢巻をする胸板の厚い男がパイプを咥え、小屋の前で突っ立っていた。赤と黄色が主流のスズメ蜂みたいな模様の入ったベストを着ている。太いバンダナとベルトで頭と腹を締めている。

ここも家が六つ。三人ずつ住んでも、せいぜい一八人。では残りは北か、西に住んでいるのか。そこでは未だ映画の撮影をしているのか。目を細め、カメラを探す。

パイプを咥えたインディアンと視線が合った。間髪いれず、山犬の遠吠えを出して来た。

「ウォ~~~、ウォ~~~~、ウォッ、ウォッ、ウォー~~、ウォー~~~」

地面を揺らす太鼓が鳴り始めた。仲間が次々と現れた。槍や弓矢を引っ提げ、飢えた虎のように飛びかかる顔つきだ。

7-b

しまった。バレたのだ。ナイフを握っていたものの、これでは勝ち目はない。一目散に小川に沿って来た道を駆け上る。これだ。これがケイコの言っていたジャガー族だ。生け贄にされる。助けてくれ。走りながらイノシシの精霊にでもなった心地がした。矢が飛んでくる。狩られる。

ぎゃーぎゃー……。ルリカケスが鳴いて羽ばたきをした。タヌキか何かの獣の声がする。

生き物は沢山いるではないか。だが事もあろうに、白羽の矢が立ったのは俺なのだ。逃げ道は蛇行をえがいて果てしなく上っている。息を切らしながら必死で元に戻る。後ろから野獣の吠え声が聞こえた。血に飢えた野獣どもが何人も追いかけているのだ。

冗談じゃない。こんな所で殺されてたまるか。あんな狂人どもに。自分を殺してどうする。皮を剥いで食べるつもりか。人喰い人種め。畜生め。これが生け贄の儀式なのか。

襲ってくる背後の勢いのせいで、ハブへの注意が薄れる。長靴と運を信じ、死に物狂いでただ目の前にある道をひたすら走った。

郵便配達の男を呪いながら全力疾走する。何がルポライターだ。ルポライターとは無縁仏になる仕事なのか。脚力には自信があったが、敵のインディアンに足が速いのが一人だけいて、それが最後まで執拗に追ってきた。

スピードを限界まで上げてもお構い無しに、足音と吠え声がついてきた。振り切れない。肩で息をし、勘弁してくれと泣きながら走る。敵は往路だが、自分は復路。徐々に足元がふらつき、枯葉や枯れ枝に長靴が滑って前に進まなくなっていく。

小川が上流に来ると道は川岸に移り、さらに白いハンカチがあった。そこに飛び込む。横切った瞬間、助かったと思った。ルリカケス族のテリトリーであろう場所まで戻ったからだ。が、甘かった。茂みの向こうからの野獣の声は、止むどころか、近づいているではないか。地獄の果てまで追い掛けるつもりか。

もう駄目だ。足を緩める。後ろを振り向く。少し距離を置いてがりがりに痩せた蛸のような男が姿を現した。容赦無しに弓を引いて狙いを定めている。矢が飛んできた。地面にうつ伏せになる。一本目はかわした。激痛の恐怖を前に、豚のような高い悲鳴を上げ、四つん這いで山道を駆け下りると、稲妻が体を駆け抜けた。二本目の矢が、太股に刺さったのだ。溜まらず、天に向かってけたたましい絶叫を張り上げる。

敵は近づいてくる。道端に転がり、両手をすり合わせて泣きながら命乞いした。痩せた男は容赦無く、とどめの矢をゆっくり引く。手の平で押さえても、ぬるぬるとした血液が止まることなく流れ出してくる。観念し、樹木で塞がる天を見上げる。ああ、やっぱり、こんな島に来たことは間違いだった。

「こっちだ。こっちへ来い!」荒っぽい声が道を外れた草むらの向こうで聞こえた。天の声に向って草道を飛び、羊歯の茂った草むらに転がり込む。

「ワシ族にゃ。弓を引いとるにゃ。こんな場所まで来ちょる」

声の主は顔も体も緑色の保護色に包まれている。吉村だ。緑に塗った楯を前に出し、俺を抱えて一歩、二歩緑の奥に後退する。

追い詰めた獲物が不意の行動をしたので、敵は警戒して身を屈めた。道の方向に照準があった弓矢はまだ自分に向けられている。白いTシャツは目立つのか。

矢がすっと伸びてきた。「あっ、殺られた」と口を開けた瞬間、吉村が反射的に楯をかざした。かつっと鈍い音で楯を穿る。危機一髪で助かり、全身の力が抜けてへらへらになった。吉村は応援が来たことを示すために威嚇した。

「あわあわ、何しゃあがる、畜生! ケダモノ!」

「ウォーッ、ウォーッ、そいつをよこせ!」

二人は罵り合っている。よそ者が勝手に侵入すると攻撃を仕掛けてくるのか。

「逃げるにゃ。こっちへ来るにゃ」

吉村は体を低く落として、じりじり蟹のように動いて距離を広げる。燃え盛る足を引き摺り移動する。痩せたスズメバチは弓を思いっ切り引張り、狙いを定めている。吉村が近くに転がっていた枝を拾い、遠くに放り投げた。がさっと音を立てて落ちる。その方向に矢が一直線に飛んで行った。

「こっちだ!」

吉村は俺の体を半ば背負い、二人三脚で、邪魔な枝をへしり折りながら移動した。足元が滑る。枯れた木を土台にしてさらに植物が生えていた。

きょろっぴりー、きょろっぴりー……。静かな森には鳥の平和な歌だけが聞こえる。

ハブを警戒してか、慎重に足元を選んでいる。曲りくねって枝分かれが酷い木々は、空中に根っ子をぶら下げ、行く手を邪魔した。吉村はこの界隈を良く知っているようで、少しだけ森の中で格闘した後、すぐに道に合流し、南へ下りた。

ここは挨拶代わりに矢が飛んでくる島だったのだ。

8-a 古代アメリカ神話

   そのまま「病院・美術館」へ直行した。不意の患者にケイコは「何て無茶なことしたの!」と困惑な表情を浮かべた。それでも診てあげると棚から瓶を下ろした。医者らしい近代的な処方を期待していたが、消毒液を振ってからは薬草を使った怪しげな治療に変わった。

「あなた、ウミネコのようなシャツ着て東に行くなんて自殺行為よ」

ケイコは患部にアロエなどの薬草を塗りつけ、白い包帯をぐるぐる巻いた。

こんな治療で大丈夫なのか不安だ。痛さで脂汗を流しながら弁解する。

「まさか、あんな場所にこっちと瓜二つの居住地があるとは……、びっくりしました」

「その矢は毒が塗ってないから助かったのよ。ワシ族はジャガー族と同じで好戦的だから余所者が勝手に近づくと攻撃してくるの。当たり所が良かったから、すぐに治るわ」

動物の名前の部族がまだ他にもあることに戸惑った。

「ワシ族? ジャガー族とワシ族は違うのですか」

「一緒よ。東の住居は真赤だったでしょ。あれ、血に飢えているという証なの」

「ジャガー族かと思いました。では、ジャガー族が黒い家に住んでいるのですか」

「あなた、どうしてそんなこと知っているの」ケイコは素っ頓狂な声を出した。

「来る時、沖から西側に黒い塊が見えました」

「抜け目ないのね、この島について知りたいの?」

しかめ面で口を押さえ、威勢よく叫ぶ。「酋長、自分を仲間に加えて下さい。こんな怪我、へっちゃらです。向こうの連中が攻めてくるなら戦ってみせます」

ケイコは難色を示し、でしばらく考えていた。長たらしいキセルを手にして燻らせる。やがて表情が和み、ケイコは情熱の入った燃える眼差しで見据えてきた。

「分かった。その勇敢さに免じてルリカケス族に加えてあげる。その代わり、永住よ。会員でないのは、村上君の連れてきた子とあなただけなんだから」

ケイコの熱い眼差しと、得体の知れない魔力によって二つ返事で承諾する。二人目の例外とは有り難い。南の仲間になれて安堵する。

許可した後、ケイコは長いキセルを吹かしながら、島の仕組みについて話してくれた。

「この島はね、三年前、〈なろう会〉のメンバー総勢五十四人でスタートしたのよ。後から来た人もいるわ。ロケーションハンティングで島を探したのだけれど、ハブの繁殖が物凄くて嫌われていた島があったの。理想的な無人島よ。都合の良いことに、形の丸い島じゃない。脚本では東西南北にセットが必要だったから、これでインディオの映画が出来る、そう、神話の世界が展開できると、みんな万歳三唱だったのよ」

「へー、この島、神話の世界になっているんですか」

「そう。アメリカ先住民の神話といえば、マヤの『ポポル・ヴフ』。『古事記』と似ているファンタジーだけれど、とてもユニークな物語よ。二人の主人公が冥界の敵と戦うストーリーで、その長い過程でガマは蛇の食べ物となったり、蛇は鷹の食べ物となったとしている。最後に地上で勝利を収め太陽になり、もう片方は月になるの。負けた敵も天に昇って無数の星になるのよ」

文学部で古代西洋を学び、ギリシア神話には興味があったが、インディアンの祖先の神話は初めて聞いた。ケイコは淡々と話し続ける。

「『ポポル・ヴフ』には神は自分を祝福してくれる生き物を創造したとか、神に感謝の意を示すために耳から血を出したり、肘を刺したりして供儀をするとか、アメリカ先住民のエッセンスが盛り込まれているわ。ここは自己供儀なんてしないけれど、ワシ族とジャガー族は実践しているようだし、満身創痍なのではないかしら」

「壮絶ですね。それをカメラに収めるつもりだったんですか」

「やったら問題になるわね。私は巫女役。あいつが監督で、闇の神を祀る神官。太陽神を祀る神官がワシ族の酋長で助監督。脚本は研究者が書いたけれど、みんな内容に嘴を突っ込み、映画は破綻したのよね。結局、主義主張の違いで東西南北に分かれたの。この島はインディオのカルトが三つも四つもある状態ね」

「ええ! そんなにバラバラになったのですか」

本気で驚くと、ケイコは薄ら笑いを浮かべ、「夜中、太鼓が聞こえてくるわよ。よそも歌って踊っているから。それだけだったら別に、古代アメリカの脚本に拘る必要はないと思うけれどね」

ケイコは蛇状の髪の毛を、軽く払った。四本しか前に長く垂れていないが、ギリシャ神話のメドゥサと重なる。髪が蛇である妖怪の視線に合った者は誰でも石と化すという。

「そういえば、ギリシア神話にも、ディオニュソスが人々を踊らせていたとか…」

言い終わらぬうちにケイコは人差し指を上げ、「そう、酒と踊りの神。対極に、太陽神アポロがあるじゃない。あれと同じ。古代アメリカの神話では、文明の神ケツアルコアトルがアポロの代わりで、闇の神テスカトリポカがディオニュソス。創造と破壊、平和と戦争といった対立する概念のシンボルね。元々映画では、ここは文明神ケツアルコアトルを祀る場所だったけれど、今では映画そっちのけでやっているわけ」

「ケツアルコアトル、って難しい名前ですね」

「メキシコでは有名よ。ケツアルは『鳥』、コアトルは『蛇』の意味。だからケツアルコアトルは、『羽毛ある蛇』。神話によれば、そのケツアルコアトルの母親が、大地の女神コアトリクエ。コアトリクエは『蛇のスカート』。ついでにテスカトリポカは『煙る鏡』。実際、古代アメリカ人は掴み所のない精霊をそんな姿にイメージして、木や石に刻み込んだのよ」

「何で黄色や黒、赤なんかに別れて、散らばっているのですか」

ケイコはタバコの煙をふーっと長く吐いた。

「東西南北に分かれて役割分担していたの。トルテカの神話にワシは天駆ける太陽で、天頂まで昇って行く。天頂を過ぎるとだんだん力を失って光が鈍り、オレンジ色になって地平線に落ちてしまう。すると今度はジャガーになって地下の世界を歩き回る、とある。光は闇に吸収されていくの。ここで、太陽の軌道、つまり東と西で役割分担が始まるわけ」

「それでワシ族とジャガー族ですか。それで、彼らの役割って、何ですか」

「畜生の世界よ」

「は?」

「生け贄を捧げるのよ。ワシ族とジャガー族は太陽をキャッチボールしているの。太陽が昇る東は赤で、太陽が暗黒に沈む西は黒。だから居住地も赤と黒。太陽は飢えている。だから生け贄を捧げなければならない。一方で闇の神にも生け贄を捧げなければならない。そのために彼らは毎日狩りをし、ついに我慢できなくなって人間にも矢を飛ばしてくるの。無差別攻撃よ。神話によると最高の滋養分は人身御供なんだから」

傷口の太股に手を当て、唾を飲む。俺を目掛けて突撃してきたワシ族を思い出す。イノシシと人間の見境が無くなっていた気がする。その勢いたるや並々ならぬものがあった。

吉村に足を借りながら島の山道を降りた。黄色い家に辿り着いて助かったと安堵したが、抑えている脚の血が止まらない。痛みの油汗と運動の激しさで疲れが一気に出る。

8-b

太陽が飢えているだなんてショッキングな思想だ。太陽は赤ん坊に対する母親のように無償の愛情を捧げてくれているのではなかったのか。ただとにかくこの島は合理的というか、神話の世界という、ちゃんとした設定があって運営されているようだ。

「へー、恐ろしい世界観ですね。それはまるで人殺しの理論じゃないですか。それで自分は生け贄にされそうになったのですか」

「あれが映画の演技に見えた?」

「いえ、東西が本物の野蛮人だと分かりました。では、南北はどうなのですか」

ケイコは無感動な声で説明した。「南は黄金の温かさを持つから黄色。全てが冷たい北は白。神話では『大きな眼』と呼ばれた金星はケツアルコアトルを表している。このケツアルコアトルが血を流して、今の人間を創造した。マヤの世界観は垂直的であり、大地を中心に天上界は十三層、地下界は九層に分かれている。だからケツアルコアトルは天上界と地下界を繋ぐ梯子のようなもの。上方は宇宙の惑星、生命を与える太陽、真ん中に人間、下は動物、水、鉱物、と延びている。もろもろの物質の秩序を示すと同時に、精霊と物質を繋ぐ梯子である」

ケイコは一気に聞き慣れぬ情報を早口で捲くし立てる。混乱し、慌てて待ったをかける。

「酋長、ルリカケス族の任務は、どうなるわけですか」

言葉を止められたケイコはいらいらし、

「だから梯子だって言ったでしょ。高い所や低い所にある、森羅万象の精霊を呼び起こすために踊るのよ」

「へー、イタコみたいですね」

「ケツアルコアトルは風の神でもあり、踊りの神。慈悲深くて、蛇や蝶以外は生け贄を禁止している。このルリカケス族は魚を食べる代わり、肉を食べないという掟があるの」

「え! 肉が食べられないのですか!」

驚きの余り切ない声を出すと、

「片山くんは肉が好きなの?」

「いえ、あまり食べませんが……」

焼肉が一番の好物だったが、残るために嘘をついた。

「なら問題ないわね。肉を食べるといっても、東や西は必要以上に殺している。神への供儀よ。派手に踊っては生け贄を捧げている。もう収十がつかなくなっているわ。生贄の強迫観念に憑かれているのよ。ワシ族はアステカの主神、太陽神ウイツィロポチュトリを祀っている。ジャガー族はトルテカの主神、闇の神テスカトリポカを祀っている。……どう、この島の構造が分かった?」

「はあ。光と闇が、赤と黒で、血の色と死の色なのですか。ふつう、光が善で、闇が悪の気がしますが、昼も夜も生け贄を要求しているなんて、やり切れませんね。正義は一体何処へ行ったんでしょうか」

余程おかしかったのか、ケイコは咳き込で笑った。

「ここよ。文明の神、ケツアルコアトルを祀っているのだから、この南こそが平和で、一番明るいの」

「それは、安心しました」

キセルを置いたケイコは、頭の天辺にある大きな瑠璃色の羽を一本外して手に取り、その羽根をプレゼントしてくれた。

「これであなたもルリカケス族になったわね。太陽の軌道、春夏秋冬、雨や嵐、稲妻、作物の成長と収穫、鳥や獣の鳴き声。喜怒哀楽のうちに年を重ねていく私たち。人生が味わい深いものに変わっていくわ。全部が繋がりあって生きている。食べたり踊ったりして触れ合う。生きる活力が湧き、エネルギーが体中に漲ってくるわ」

ケイコは立ち上がり、肩で何度か大きく息をした。目の前にはハブの絡まったものがぶらぶら揺れている。

「あなた独り者だったら、『かおりちゃん』を紹介してあげるわよ」

心当たりがあったが、詳しく相手について尋ねると、ケイコは眉間をしかめた。

「そうね。丁度一年前来たわ。あなたより若くて、少し変わっている。でも一緒について来てくれる物好きな人がいるのなら、連れてきても良いわよ」

「いえ、僕はかなり孤独に強いですから」

「でもね、それは実りのない大地よ」

ケイコは子供っぽい笑いを見せ「傷の具合はどう?」と包帯の巻いてある太腿をぱしっと叩いた。脚に電気が走り、椅子から滑って、床に腰をつけた。立ち上がれず「ぎゃあ」と派手なうなり声を上げ手痛がった。

「ハブを甘く見ないことね。咬まれたらこんなものでは済まないわよ」

教訓を与えているのか、ケイコは立ち上がれるようにと手助けはしなかった。

激痛が緩まるのを待っていると、「そこで寝ても良いわよ」と滑らかな声がした。

こんな床板で眠れるわけがないが、動かすと激痛が走り、立つ気力がなかった。

「本当に寝ますよ」と自棄になると、ケイコは両膝を床に着き、俺の頭を胸元に引き寄せた。心臓が早鐘を打つ。傷口を押さえて痛みをこらえていたが、ケイコの柔らかい胸倉に顔を埋めているうちに、自然と涙が噴出した。遠い過去、幼児の記憶が過ぎった。ずっと永い間待ちわびていた温もりであろうか。生きる喜びが額に渦となって集中し、水を貰った枯れ木のような心地であった。全く子供同然として受け入れ、抱擁してくれるケイコに慈悲を感じた。

「男はみんな子供。子供のいない女にはね、希望や光がないのよ。女のいない男はね、大地の恵みを知らないから、何も実りがないのよ」

「シムシアン族の子守唄よ」とケイコは張りのある声でゆっくりと詩を口ずさみはじめた。

この()摘みます野いばらを

   そのためこの娘は生まれたの

 この娘は摘みます野いちごを

   そのためこの娘は生まれたの

 この娘は摘みますこけももを

   そのためこの娘は生まれたの

 この娘は摘みます野いばらを

そのためこの娘は生まれたの……

花畑で遊んで、歌を聴いているようだった。不思議と足の痛みが緩くなる。芳しい百合のような匂いを嗅いでいるうち、眠りに落ちた。


9-a 訪問者

怪我をして以来、島で生活が続いた。十一人の仲間は、ケイコと翔太以外、カップルが四組あった。吉村と優子、元木と早苗、村上と芳子、トモコと長瀬。そして酋長の家で寝泊りしている女、かおりがいた。 

俺はケイコに無理やり見合いをさせられた。活動的で浅黒い割りに、口数が少なく、時々不敵な笑みを浮かべたかと思うと、ぼーっとしている。ポニーテールに羽冠を被せ可愛らしかったが、五月蝿く俺に纏わりついてきた。何処へ行くにも磁石のようにくっ付いて来る。レストランへ行けば待ち伏せしていたのか、隣の席にさっと座ってきた。野菜を料理し、頼みもしないのに俺の皿に入れる。皆どうなるのか興味深そうに見守っている。無視ばかりするのも悪い気がして、たまに話しかけてみると、首をかしげ、恥ずかしそうにへらへらしている。だが島で釣りや踊りをしながら女と暮らすなんて、土深く根付いて抜け出せなくなるシナリオではないか。深く関わりたくなかった。ただここの女たちは都会の女と違って、海と森の匂いが漂っているように思えた。

元木は労働力の増加を喜んだ。このスキンヘッドの経済計画長は、楽に生きようとラッパを吹く。流れ者であることを自負し、資本主義体制を呪っている。住み良くするため、英知を絞り、合理的行動を追求している。草刈から、枝拾い、水撒きなど適当に済ませるであろう事柄を、綿密に計画し実行する。元木は島に移住して二年、その経験から、台風対策や食物の確保などに余念がない。

俺は命の恩人である吉村と親しくなった。生え抜きの彼は四十三で、十四歳も年上だが、年齢を無視して語りかけてくれる。銀行員から板前、不動産屋、自営業、最後には劇団を携わり、色んな職を遍歴したらしい。昔恐持てだった面影が頬の皺に刻まれていたが、ジャンベを何時も携え、部族の踊りでは心臓に活力を与える太鼓を叩く。彼の連れ合い、優子は奄美大島の村を捨て流れてきた。「釣具・建設」で一緒に暮らしている。雑貨屋の奥にある制作室からは大島紬を織っている音が聞こえてくる。

ある雨の日、することもないので、元木や吉村とテーブルに座り、優子の話を拝聴したことがある。昔の南西諸島にケイコのような役割を持ったノロがいたらしい。神を祝う女と書くノロは、島の神祭りを司り、女性だけがなる。琉球王朝から統治に利用するため任命された。祝女は太陰暦に従い、島人を踊らせた。古き奄美大島。果てしない海の向こうから島に神がやってくる。ようこそ来ましたと、祝って踊る。しばらく神が滞在し、神は去っていく。さようならと、送る祭りをやる。稲や山芋の収穫でも祭りをやる。八月は三八月と呼ばれ、三行事が連続した。太鼓を鳴らし、歌声を響かせ、神々に祈りながら踊り明かす。祝女が島全体を祀る世襲制の神職なら、ユタは人々の支持を得ている個人的な相談所。巫病に罹り、成巫式という儀式を経て口寄せが出来るようになるらしい。

毎日の生活で天然のものを食べ、浅瀬に浮かんでオゾンを浴びたせいか、俺の健康状態は頗る良くなった。パニック症はどこかへ飛んだ。毎日サンゴ礁の浅瀬に体を浸ける。窒息しながら、母の羊水で泳いでいる気がした。海洋療法加え、焼酎や煙も少し嗜んだ。タバコを吸えば、足の痛みも多少和らぎ、気も紛れる。怪我の功名で、簡単な仕事が宛がわれた。釣りの他、椰子など漂流物や薪にする流木を集める。かおりと出くわすと、頼みもしないのに手伝ってくる。その行動や顔つきから俺に好意を寄せているから困ったものだ。

不思議なこともあった。一日釣り糸を垂れている時だった。ぼんやりと波の音に耳を傾けていると、突如、波に乗ったサーファーが姿を現した。頭にはキャップを被り、サングラスの水中眼鏡、髭だらけである。フェリーで出会った男に似ていた。錯覚かと目を擦っると、視界から消えていった。この界隈で遊んでいるということは、一体どういうことか。また物置で一人寝ていると、壁板に刻まれた文字を発見した。「直子バイバイ」「美紀バイバイ」と彫られている。どれもルリカケス族の女に該当しない名前だ。昔、ルリカケス族に美紀と直子がいたのだろうか。この空き家に誰か住んでいたのだろうか。夜風を浴びに外に出ると、遠方から太鼓の音が潮騒に混じって轟いてきた。

暑さ、天気が変わり易さに悩まされた。一回り大きなゴキブリが倉庫で蠢いている。ハブ、ムカデ、蚊に襲われる。海ではウミヘビが揺れ、クラゲに刺される。水洗便所でなく、全てに不便だ。何の進歩もない。ルポライターの仕事だが、森に潜入しないと突破口が開けない。ストレートに尋ねると疑われるし、難しい。かん口令でも敷かれているのか、吉村でさえ口が堅い。秘密が分からない。知り得たのは仲間の移住した時期や理由ぐらい。ケイコは教えてくれるどころか、かおりを押し付けて以来、話すらしてこなくなった。

彼女は相変わらず太鼓で息子を踊らせ、喜んでいる。黙々と貝を拾い、植物に水をやり、近くの森を散歩しながら花や薬草を集める。家では東洋医学の本を読み、画を描く。仲間といえば酋長に飼われている感じ。ペットは過保護にされると、権威症候群に陥るが、無視すれば飼い主の気を引こうとする。この術を心得ているかのようで元木も顔色を窺いに通う。「病院・美術館」の前を通れば香の匂いが漂っており、時折、美しい声が流れてくる。新しく描かれた半裸の画が艶美に微笑んでいる。描かれた女性の肉体が自然そのもので、女体に蛇が集合し、髪やスカートになり、頭には鳥が舞って羽根を飛ばしている。ケイコの姿と重なり合う。インディオの巫女はガラガラヘビの化身なら、沖縄の祝女はハブの化身のように思えた。

幸い傷も浅く、二週間で脚の傷は殆ど癒えた。生命それ自体に恐るべき治癒力があるのだと思い知らされた。昨日は足を気にしながら踊ったが、悪くなるどころか、返って良くなった気がした。今日も踊ろうと胸を弾ませる。

もうこうなればルポどころではなかった。俺の頭上では、紐で締めた白羽が何本も潮風で震えている。色眼鏡の女、トモコから貰ったものだ。緑の紬服は、優子に予約しておいたが、紬糸不足と織る時間が掛かるという。未だに危険な白いTシャツ姿で歩く。

今日は桂木がくる日だった。当番の掃除を午前中に終わらせ、奄美大島でゴム草履や髭剃り、緑色のTシャツでも調達してきてもらおうかと、財布から千円札を三枚取り出した。海水パンツをはき、浜辺に下りる。漁船は定時に来ない。アダンの陰に横たわり、キツネ色に日焼けした皮膚を眺める。傷みは消え、脱皮している。暇つぶしに皮をぺりぺり剥ぐ。

渚には男と女がいた。羽飾り職人の女と、その片割れ。打ち上げられたマグロのように並んで横たわっている。その肉はオイルで焙られ、ぎらついている。色眼鏡をした女の手首には切れ込みがあり、タオルで胸を隠している。蛇島へ流れて来たのはほんの三ヶ月前。トモコは元女流作家。九年前、角田川賞を獲ったのを覚えている。男は長瀬という大手出版社の元編集者らしい。共に三十代半ばの働き盛りであるが、出版業界を放棄し、逃避行している。トモコはケイコの親友で、羽飾りの製作が趣味と化しているようだ。長瀬は道連れに見える。この島では極端に女に尽くしている。

昼下がりの青い水平線を見つめる。現地報告が出来き次第、直ちに本土に帰ろうと決意する。ケイコは優しいから、婚約者がいるから連れてくるといえば帰らせてくれるだろう。こんな生活を続ければおかしくなってしまう。ただ物事を深く考え過ぎて生きて来たせいか、何も考えない生活は新鮮。一ヶ月の滞在予定で、残りが二週間以上もある。滞在期間が余りにも長いと、依頼主は苦労しただろうと手当てを付けてくれるかもしれない。

焦る必要はない。二人に習って寝転ぼう。俺は白い波の手に誘われて、砂地を駆ける。漂流したペットボトルを枕に、大の字になって太陽光線を浴びた。生温い風が身体を愛撫してくる。目を閉じ、潮騒と蝉の音に目を閉じる。全ての思考を停止すると、あたかも砂が肌の一部になった錯覚が生じた。肉体が大地に溶け込んでいく。

9-b

あわあわ。

未開の叫びに、覚醒した。岩場の陰で、赤羽の吉村が口を叩きながら合図を沸き起こしている。浜辺には、青羽の元木、白羽の村上が、続けざまに姿を現した。

岸壁には漁船が到着している。桂木は平らな岩に荷揚げした。荷物運びの仕事が始まる。手伝いに行こうと、三人が集まっている岩場に歩き出す。自分の仕事と言うわけではないが新入りだ。忘れぬうちに買い物も頼んでおこう。

船着き場には、捻り鉢巻の漁師が、仲間と荷を担ぎ浜を歩いている。お札を握り、タイミングが悪いかと立っていると、懐かしい格好をした男が目の前でおろおろしていた。黒斑のごついメガネをかけた男で、年は五十くらい。肩幅が広く体格が良い。

黒ズボンに長袖の白いカッターシャツ、しゃれた青縞のネクタイしている。黒鞄を提げている辺りから知性が感じられる。頭を抱えながら、燃え盛る西日に向かって大きく口を開けていた。何かしら壮烈な絶望感が背中に漂っている。

二週間前の自分の鏡を見ているような変な気がする。親近感が湧き、砂を蹴りながら男に近づいた。

「寄るな! シッ、シッ」

大企業の重役のような男は太い声を出し、睨み付け、犬でも追い払うように盛んに腕を振った。野蛮だと差別している態度だ。

この男は何者だろうか。〈なろう会〉の会員ではない。何も知らずに訪問してきた全くの余所者ではなかろうか。二週間前の俺と同じように。

頭の白い羽飾りを外し、丁寧な社交辞令をしてみた。すると男は眉をしかめ、しばらく考えた後、近藤勉はどこにいるのか尋ねてきた。

唖然とし、即答できなかった。ひょっとしてこの男、自分と同じように副会長から派遣されたルポライターではないのか。年季が入っていそうだから、こっちは本職なのか。

「近藤勉さんは、ここにはいらっしゃいませんが、ケイコさんならいらっしゃいます。ひょっとして勉さんのお父さんがお亡くなりになられたのですか……」

カマをかけて先回りした所、予想が外れた。

「け、恵子さんがいらっしゃるのですか! どこに、どこにいらっしゃるのですか!」

男は殺気立った眼差しで食いついてきた。

これは何かある、と訝しがりながら、とにかく男を酋長の所に連れて行くことにした。

「病院・美術館」の看板を見たときの男の顔は笑うどころか引き攣っていた。せっかくの機会なので、黒斑メガネに同行して俺も部屋の中に入った。

すると開口一番、悲鳴のような声が木霊した。「お、お嬢さん、何ですか、その格好は!」

酋長も驚いて肩を竦めた。「唐沢さん? どうしてこの場所が分かったの」

「まさかとは思いましたが……。こんなところで何をしていらっしゃるのです。東京では大変なことになっているのです。原田総合病院の後継者はお嬢さんしかいらっしゃらないのです。そんな馬鹿な生活は止めて、今すぐにでも東京にお帰り下さい」

ケイコはいつものように落ち着きを取り戻し、

「私はルリカケス族の酋長。大地の女神を祀る神官よ。昔の原田恵子は死んだのよ。ここで私は、生まれ変わったの」

「何がルリカケス族です! 新宿にいらっしゃるお父様は嘆いておられますぞ!」

男が罵声を上げていると、白黒の蔕を付けたキュウリの少年が飛び込んできた。また荷物運びをサボったのであろう。棒切れを持って振り回している。

「ぼ、坊ちゃん、ですか~~。何とまあ、こんな変わり果てたお姿に……。お爺様が孫の顔が見たくて狂っておられます。さあ、早く一緒に帰りましょう」

「黙りなさい! 唐沢さん、私はここを動きません。この島に骨を埋めることを決めているのです。出て行きなさい。GET OUT!」

ケイコは蛇の髪を振り乱し、英語混じりで一喝した。

男は頭を小刻みに振り、おろおろしながら黒鞄を揺すって酋長の部屋を出る。

俺は追い出された男の背中を叩き、怪獣の像がある芝生の広場へ誘導した。なるほど、常識的に親兄弟、家族に反対される。蒸発でもしない限りこんな生活は実現不可能だ。

酋長の手前、さっきは白い羽根の冠をつけていたが、白いTシャツで海水パンツをはいていた。インディアンらしくないのが幸いしたのか、男が話し掛けてきた。それでも表情は猜疑と警戒で鉛色に曇っている。

「失礼ですが、つい最近この島に来られた方ですか」

「やっぱり分かりますか。二週間ほど前です。まだ慣れない新入りのインディアンですけれど、何とか楽しんで生活しております」

「ちょっと聞きますが、近藤勉氏は何処にいらしゃいますか」

男は丁寧に、二週間前の自分のような質問をしてきた。

「この島について余計なことを喋るのは禁止されています」

「そうなのですか」

男は首を上下に振りながらも、腹で何か別の事を考えているようだ。

何かある。この男を叩けば何か出る。何か面白い情報が得られるに違いない。

俺は探偵を演じてみることにした。

「唐沢さん――とおっしゃいましたね。この島でケイコさんが生活していることをどうやって突止められたのですか」

「それは……」

相手は口を濁して黙った。警戒を解くため、小さい声で意味ありげに囁く。

「実はですね、ここだけの話ですけれども、僕、この島にルポというか、調査しに来ているんです。大金を頂いて出張しているんですよ」

ハッタリが功を奏して唐沢の表情が一変した。

「誰ですか。ひょっとしてお宅、新宿興信所の方ですか」

「はい、会社の者です」自信を持って答える。

「それは良かったぁ、安心しましたよ。周りは皆何を考えているのか、頭がいかれたような火星人ばかりですからね。……私、唐沢源三と申しまして、東京都新宿区にあります原田総合病院の理事長の秘書をやっている者です。三年前忽然と理事長の娘夫婦が姿を暗ませて、病院が大騒ぎになって以来、私が捜索の全責任を背負わされております。さすが全国、いや、全世界にネットワークを築いている新宿興信所ですな。守秘義務も徹底しており、既に事は水面下で着々と調査が進んでいたわけですな」

ぼろぼろ白状する唐沢を横目に、俺はデタラメを並べ立てた。

「はあ、そうですか。何せここは携帯の圏外ですので、会社に報告できないのです。……申し遅れましたが、私、新宿興信所の探偵で、片山と申します。で、唐沢さん、どうやってこの現場を押さえることが出来たですか」

「はい。片山さん、実は、近藤勉の兄である近藤慶と人物がいるんですが、現金を積みに積んで、とうとう白状させたのであります」

俺は煮え滾るような怒りを抑え、「ああ、あの髭を生やした郵便配達の男ですか。で、幾らぐらい積まれたのでしょうか」

「さすがはよく御存知ですな。あの男、非常に頑固でして、最初は兄のことは全然知らんや、知らんのや、の一点張りでした。三年前、娘夫婦が失踪した当時からそうだったのです。以前から何か情報を掴んだら謝礼を差し上げます、と言ってはいたのです。二週間ぐらい前ですか。もうすぐ詳しい情報が入るかもしれない、と私めの方に電話が来ました。ひょっとして何か連絡が来たのではないかと、思い切って再度アプローチしてみました。理事長が手段を選ぶな、とおっしゃっておられましたので、五十万円ずつ現金攻撃をしてみますと、二百万円で落ちました」

「そ、そうだったのですか。でもそんなには必要なかったのではないですか。それにしても、本物のインディアンは金を欲しがりませんからねぇ。あの髭男、副会長の癖に、インディアンになる気が無くなったのでしょう」

「副会長? は? あの男は普通の日本人でございましたよ。……それより片山さん、近藤勉とついてお聞かせ頂けませんか」

興信所の探偵だと名乗った以上、現況報告せねばなるまい。さっそくこの島が映画の脚本で出来ており、古代アメリカの神話を交えながら、野蛮な西側の黒い家に住んでいる云々、説明した。理事長の秘書は興味深そうに唸り声を上げながら、耳を傾けた。

「ほお、この島は映画のロケ地で、神話の構造になっているのですか」

「ええ。四色、四思想で、東西南北でグループに分かれているようです」

「翔太くんは南にいましたが、晶子ちゃんはどこに行ったのでしょうか」

穴を掘りで硬い岩にぶつかった気がし、息が止まった。 

「そう言えば、酋長は自分の娘については何も語りませんでしたし、誰も口にしていません。ひょっとしてお亡くなりになったとか……」

周りを気にしながら唐沢と芝生の上を歩いていたが、石像の前で立ち止まる。何十匹ものガラガラ蛇をスカート状にぶら下げ、髑髏を腹の真ん中に抱えている。顔は蛇そのもので、二つに割れた長い舌を出してこちらを向いている。四本の牙はドラキュラのごとく口からはみ出している。見るからに素人が寄り集まって作った、大掛かりな石膏芸術作品だ。

タバコが吸いたくなり、ポケットから長い筒を出して咥える。マッチを擦って火を付ける。唐沢はため息をつき、視線を石像に移し、感慨深い声音で、

「晶子お嬢ちゃんは、今生きていれば一五歳です。高校生ですか。ちょうどこの石像で言えば、真ん中の骸骨の辺りでしょう」

唐沢は意味ありげな眼差しのまま、返事を待っているように思えた。

「ひょ、ひょっとして、この石像の中に娘さんの死体があるというのですか」

「いくらなんでも、そんな常軌を逸した行動をとるはずがありませんな。人柱じゃあるまいし。ははは」

なんちゃって探偵の俺は、目を細め、意味ありげに唐沢に囁いた。

「分かりませんよ。この島はみんな頭の歯車が狂っていますから。この島には知られたら生きては返してくれないような秘密があるんです。この石像は石膏で固めてありますから、ひょっとして中に何か入っているのかもしれません。人身御供となった自分の娘が秘密なのかも知れませんよ」

 冗談で言ったつもりだったが、唐沢の表情は真剣になった

9-c

「でしたら勉氏も、何か仕出かした可能性がありますな。あの男は東京にいた時から頭の構造が少し違っていましたから」

「はい。ここに住んでいるインディアンはあの男のことを人間と見なしていません。西でとんでもないことに耽っているのではないでしょうか……」

この島で唯一理性的な現代人を演じる。気障にタバコを吹かすと、唐沢はひょんなことを質問してきた。

「北の方はどうなっているのですか」

「東西ほど詳しくは知りませんが、北は白い家で、ハブ族らしいですね。その辺は酋長から聞きそびれまして。宿先に本が沢山ありますので、アメリカ先住民の話を調べてみたですが、蛇の体は水で湿っており、洪水は蛇のようなうねりを見せます。洪水や渇水をもたらす水神のシンボルです。祀っているのはきっと雨の神トラロックでしょう」

意外にも唐沢は興味を持ったようで、白い歯を見せた。

「面白いですな。メキシコは高度差が激しいですから、雨の少ない地域では水が重要で蛇を祀ったのでしょうな。日本でも蛇はオロチと恐れ敬われ、古事記の主人公、オオクニヌシノミコトは大蛇と闘いました。ハブ族はやっぱり野蛮なのですか」

「四部族のうち、明るくて平和でプラス思考なのはここだけ、残りの三つは血みどろの世界らしいんです。西のジャガー族は特に畜生の世界らしいですから、ハブ族はそれよりましではないですか」

そう言えばハブ族の情報は全く入って来ない。何人いて、どんな特色があるのだろう。

唐沢は唾を飲み込み、恐怖で瞳が大きくなった。黒鞄から双眼鏡を取り出し、「片山さん、実は、この島に来る時、これで覗いていたのです。お嬢さんがいないかどうか。黒い家が見え、様子を伺ったのです。長い髪の男が赤い服を着て踊っていました。今にして思えば、あの男、血塗れになって生き物を殺していたのかもしれません。ひょっとしてあれが近藤勉だったのかも……」

「何と言ってもジャガー族の酋長ですからね。ケイコさんと別れた理由も良く分かりますよ。唐沢さん、あの男とケイコさんはどういう経緯で結婚したんですか」

唐沢は溜め息交じりに、

「うちの病院ですよ。十三年前、原田総合病院で出会いました。別館病棟502号室、未だに忘れられませんな。奴が心臓病で入院した時、研修医だったお嬢さんと知り合ったのです。どんな男に惚れたのか興味深く個室を覗いてみると、目を疑いましたな。羽飾りをつけ、踊りながらパソコンを打っていました。それがきっかけで、何とまあ、お嬢さん自身も劇団に入り、そのうち二人は結婚したわけです。弱りましたよ。相手はうちの精神病棟に入れてもおかしくない人物ですよ。理事長は怒っても、お嬢さんは既に妊娠しているし、あの男のせいで婿を取って病院を受け継いでもらう計画がぶち壊しです。それでも寛容な理事長が折れて、和解した時分もありましてな。かわいい孫が二人も生まれて、この内の一人でも病院にと思っていた矢先、忽然と姿を消したのです。全く音沙汰がありません。理事長があまりにも可哀相ですよ。一人娘と孫二人ですから」

「ジャガー族の酋長、そんなに体が悪いんですか」

「ええ。お嬢さんにも心臓に軽い疾患があり、腎臓にも少し異常があって、大丈夫かと心配していたのですか、大変元気そうでびっくりしました」

石像の側で唐沢と長話していると疑われたようだ。赤羽を付けた吉村が眉間をしかめて近づいてきた。かおりや元木もこちらを見ている。

踊りで病気を跳ね除けたのかと驚く。

「何をしているにゃ」

「はあ、この人がジャガー族のところへ連れて行けと言いますので、命が幾つあっても足らないと教えていたところです」

吉村はジャンベを提げており、遊び半分で、ぱたぱた心地の良い高音を繰り出した。胡散臭い目で、唐沢の全身をなめている。太鼓を打つのを止め、

「行きたいなら、行かしたらいいにゃ。それより片山、今から食事をするにゃ。たっぷり食べにゃ。徹夜で踊るにゃ」

唐沢と目を合わせる。これが仕来たりなのだと黙礼する。唐沢の前で好きでやっているのではないことをアピールするため、白々しく喚く。

「えー、今から朝方まで踊るんですかぁ。僕、脚がまだ悪いんですよ~」

「大丈夫にゃ。踊ったら治るにゃ。今日は満月で、この時期の踊りが一番気持ちいいにゃ。ウサギになって飛び跳ね、汗をかくにゃ」

「じゃあ、片足で踊りますか。本当に踊るために生きているんですねぇ」

笑いながら唐沢と別れる。

この踊り三昧の島は、独自の神々を祀っているから、お供えが不可欠。自生するサツキなどの花を摘みに行くのも、薪拾いや食料の調達に劣らず、重要な仕事とされた。

吉村と一緒に森に入る準備をする。長靴を履き、殺されかけた魔の山道を登る。吉村は太鼓の代わりに首から籠を提げていた。槍を立てている。俺も槍を杖代わりにして歩く。花摘みは女の仕事だが、怖いから誰も森の奥を歩きたくないのだろう。身を屈め、慎重に歩いていると、吉村は笑った。

「はは、大丈夫にゃ。昔と違って、ハブは少なくなったにゃ」

吉村が先導するから、精神的に余裕があった。だが草道は全てハブが潜んでいるようで足が重い。ハブ以外で気を奪われたのは、萌え上がる若葉、圧倒してくる自然であった。つるが足を攫い、枝は肩に噛み付いてくる。歩きながら密生する緑に瞠目する。太い葉は顔以上に大きいし、鋭い葉は剃刀のように鋭い。貼り損ねの日傘に似たヒカゲヘゴを見上げながら、これだけのバリエーションで小さな島が覆い尽くされていることに鳥肌が立つ。

吉村は途中、崩れた崖の斜面がシダの大群で覆われている場所に入った。進むと、日が当たる場所に、サツキが赤い壁をつくっていた。規則正しい五枚の花弁を摘んでいるとき、コバルトブルーの蝶がリズミカルに跳ねていた。フヨウもあった。花弁の中心が濃い紫で、外側に行くほど色が薄くなっている。美味しそうだと思いながら摘む。

形の良い花を選んでいる際、東京から来た秘書の顔が浮かんだ。これからどうなるのか。ケイコは帰らないから手ぶらで帰るつもりなのか。それとも強行策にでも出るのか。

籠一杯摘み、来た道を戻ろうとすると、茂みの隙間で大蛇のようなものが、すっと過ぎった。背筋がぞわっと震えた。何だ。この島、アナコンダでもいるのか。目撃した場所に意識を集中させる。金縛りにあい、微動だにできない。ばさばさ音が聞こえる。蔓草や枝葉を両手で掻き分けながら、恐竜が姿を現した。それは咳をした。よく見ると、蛇の烏帽子を被り、蛇革のベストを着けていた人間だった。

突然の出現に驚き、吉村に振り向くと、恐竜男の胸に向け、槍を突き出している。

ワシ族か、ジャガー族か。男の顔を見る。自然と「あららっ」と素っ頓狂な声が出た。

見たことのある顔だ。奄美大島へ行く際、二等船客で酒を飲み交わした男ではないか。

「ああ! お久しぶりですね。こんなところで再開するとは……」

「君はまだこの島を出ていなかったのかね」

男は相変わらず口ひげで顔を覆い、サングラスをしていたが、全身を覆う蛇革が際立った。ブーツもズボンも、ベストも帽子も蛇革。太ももの動きはシャム双生児の大蛇を髣髴させる。確かこの男は、奄美の商売人ではなかったのか。何で蛇人間のような格好をして、こんな辺鄙な島をうろうろしているのだ。

右手には長いサーベルを光らせている。左手に白い花束を持ち、くんくん犬のように臭いを嗅いでいた。咳を何度かし、「くっく」という独特の甲高い含み笑いをした。

「君は実に良い格好をしているね」

男の顔は上下に動き、つま先から頭まで俺の姿を舐めまわしているようだ。「まあまあすっかり未開人になってしまって」と言わんばかりである。だがそういう自分こそ、蛇の妖怪のような格好をしてこの島で一体何をしているのだ。

「すみません、どうも嵌まってしまったようです」

「きっと神が君をここに誘ったのだ」

低い声で警告を発した男の口元は、嬉しげに横に割れていた。光る刃先に目が釘付けになる。槍を握る腕が震える。何でここに居るのか、問おうとしたとき、吉村が口を挟んだ。 

「何だにゃ、あづま。ハブ族はどうなっとるんにゃ」

吉村はあまり警戒していない。顔見知りのようだが、あづまは無視し、「くっく」と含み笑いをし、剣で枝葉を斬りながら森の奥へ消えていった。

唖然としていると、「戻ろう」と吉村が肩を叩いてきた。

「吉村さん、知っているんですか」

商売人とはいえ、電力会社や地勢調査の人でもない。ただ白い花を摘みに着ただけか。  

どうでも良いと吉村は草道を足早に戻っていく。急いで吉村の緑色の背中を追い、「あの人、一体誰なんですか。ハブ族の人ですか」

「さあにゃ」

海だけならまだしも、山でも出会った。ということは、この島にどっぷりと浸かっているということではないか。

「教えてくれても良いじゃないですか。あの男、ハブの毒吸い取り器を売ろうとしていましたし、この前、サーフィンしてたのを見かけましたよ」

吉村は口元を歪め、吐き捨てるように、

「ハブ族だにゃ。それも酋長だにゃ」

「ええ! あの男が、ハブ族の酋長!」

酋長の癖に島抜けするとは、おかしいではないか。

「吉村さん、僕、フェリーの中で会いましたよ。酋長って一体どういうことですか。どうしてあんな凄い格好でここをうろついているんですか」

「あの男はにゃ、死神を祀る神官なんだにゃ。毒蛇は死の化身だにゃ」

「ハブ族って、死神を祀っているんですか!」

「そうだにゃ。でもあまりにも暗い思想だから、ハブ族の仲間みんなが逃げてしまったんだにゃ」

吉村は集落へ戻ろうと足を急ぐ。追いかけて食らいついた。

「仲間に逃げられて、独りで生活できるんですか」

「あづまは船乗りだったからにゃ。何とかやっていけるにゃ」

「なるほど。この島には他にも船があったんですか」

見過ごしていた。南の海を幾ら眺めても船が姿を現さないはずだ。

山を下りながら考える。船で奄美大島から通っているとしたら、奴はここで一体何をしているのだ。この島に商売の種があるのか。考えられるのは携えていた白い花か、ハブだ。珍しい薬草か何かを製薬会社に売るのか。いや、そんな貴重な植物がこんな島にあるとも思えない。やはりハブだ。ハブをばら撒いて、毒吸い取り器を売る魂胆なのか。

10 踊るルリカケス族

  その晩、吉村たちと一緒に焼酎を飲みながら、刺身を平らげた。過分なアルコールの摂取でやや動悸がし、頭がふらふらになる。酔ってもハブ族の酋長が脳裏から離れない。水神信仰だと思いきや、死神崇拝。格好からして一体何を考え、どんな生活をしているのか。どうでも良いと白い羽飾りを頭に巻いて、シャツ一枚で広場に飛び出る。

唐沢は酋長の家の陰に隠れ、体育すわりをしてこちらを見守っている。インディアン踊りなんて馬鹿馬鹿しくて観察するだけなんだろう。まるでTVのドキュメンタリー番組に出てくるアフリカ人を観るようなものだ。「どうですか」と誘ったがあっさりと断られた。踊る阿呆と見る阿呆、というから実際やってみればいいのにと思う。こんなに気持ちがいいのに。かつての俺がそうであったように踊らない人間は食わず嫌いなのだと思った。手招きすると、唐沢は憐憫の眼差しどころが、逆に猜疑の眼差しさえ向けて来た。

無理もないだろう。東京から来た秘書に、調査会社の者だと証しても、本当は餌に困って流れ着いた失業者。挙句は調査そっちのけ、毎日海女のように泳ぎ、羽飾りを付けて浜辺を歩く。まるでアホウドリの化身である。しかも酒を飲み、歌って踊って、馬鹿に拍車が掛かっていく。

太陽は西の海上に半分欠けていた。

石像には花が供えてある。焚き木が投げ込まれると、神火は勢いを増した。持って来たA4の封筒を火の中に放り込む。

ケイコが颯爽と出てきた。吉村がアフリカ太鼓を力強く打ち鳴らす。得意技を披露し、リズムを変えて仲間を操る。舞台の四隅に蝋燭が点り、鈴を鳴らして踊るケイコの顔をオレンジ色に染めた。元木はラッパを高らかに鳴らし、皆が声を上げて騒ぎ始める。優子やトモコが体を揺らしている。俺も混じって芝生の上を跳ねる。

酋長が「ほおおお~」と狼の遠吠えを上げた。音楽隊は一斉に音を立てるのを止め、静まり返った。

茶色い紬服に、蛇のスカートが垂れ下がっている。触角のように伸びた髪の下で、ケイコの憑かれた目が燃えている。仰け反るように両手を広げ、何かを表現しようとしている。潮騒と鳥の鳴き声が重なる。南西諸島を祭る神官、祝女が蘇る。蛇島の大自然が、大地を祀らせるために彼女を押し上げた気がした。全身から湯気の立つようなエネルギーが感じられ、霊気は充実している。今まさに大地への賛歌がこの女の肉体を拝借して、舞台の上で表現されようとしているように思えた。

ケイコは甲高い声を張り上げ、訴えた。命に感謝して踊ろう。心臓が命の太鼓を打っている。今度は我らの足で大地の太鼓を打とう。大地の女神が、音楽を演奏し、踊れと命令している。踊りながら、命を表現しろと命令している。踊り狂って、理性を破壊しろと命令している。生命は自由になりたがっている。今こそ解き放つのよ。踊りで揺さぶられる全身、それが生命よ。 天に向かって遠吠えを上げる獣、それが本当の姿なのよ。

ケイコが叫び終えたのを確認すると、間髪入れず吉村がジャンベをぱたぱた打ち鳴らす。下では優子が蛇皮線を鳴らし、かたかたと村上が打楽器の高い音を木霊させている。

ケイコは蛇のスカートを揺さぶりながら乱舞した。頭の蛇をぐるぐる回し、情念を滲み出した。 渾身の力を込めて両手を上下し、精霊を大地に呼び込もうとしたり、 力を抜いて両手を左右し、精霊と一体化しようとしている。

色眼鏡の女が舞台に上がった。カラフルな羽冠を被った女は太い羽根の扇子を翳し、仰ぎながら舞った。瑠璃色の尾羽が夜風にそよいでいる。今度はトモコが叫び始める。

島の女神に捧げる歌。背泳ぎに疲れた女神が海に浮かんでいる。大きな肉体に水色の血が張り巡らされ、その緑色の髪は風にそよいでいる。生き物は果物になってぶら下っている乳房を吸って安らぎ、眠りに就く。起きればその恵みに感謝し、母親を踊って祝う。島の女神は満月に目覚める。満潮の今宵、島の精霊が、無数の蛇となって一斉に踊り出す。蛇は女神の体を覆い尽くし、自由に這い回る。髪の毛に登って、枝やツルに精気を与える。大地は呼吸をしながら、我々に話しかける。愛しい子供たちよ、あなたにも蛇を与える、再び精気を取り戻しなさい、わたしはここにいる、活力を失った人形には何の意味もない。

派手なトモコがケイコと並んで踊ると、舞台が引き締まった。徳高き女性とはかくあるべきなのか。女の方が男よりも神に近いのか、今まで受けた教育は一体何だったのか、わけが分からなくなり、トランス状態で跳ね続ける。やがて例の『精霊降ろし』が始まった。

せいれ~~、せいれ、せいれ、せいれ、

せいれ~~、せいれ、せいれ、せいれ、……

『精霊降ろし』の次に『大地の踊り』が始まった。

ほーほっほ、大地の踊り、大地の踊り、

ほーほっほ、大地の踊り、大地の踊り、……

いつもの踊りのメニューを終えると、今度は酋長が先住部族伝承の詩を次々と吟唱する。舞台にはマラカスやカスタネット、笛や鉦などの楽器が登場し、神秘的な演奏が行われた。

何時間も体を揺さ振っていると流石に疲れ、脚が痛くなって立ち止まった。ケイコの足も止まっている。吉村の太鼓は弱まらず、溌剌と跳ねていた翔太は、長距離マラソンに耐え切れず、足取りが緩くなった。かおりは未だに揺すっている。元木は芝生をただ軽く踏んでいる。優子は嗄らした声で吠えている。

ルポライターであることを忘れ、炎に意識を吸い取らて行く。生き物多き島。食べ物多き島。踊らされる島。熱い島。中南米、ハワイ、タヒチ、バリ島が過ぎる。そこでは氷の人間も、熱湯に落ちて溶けていく。ガスバーナーの炎がフラスコの内部にエネルギーを宿す。そこではエネルギーの塊そのものが、生の意味を確認し、歌って踊ることで熱をはいている。理性が蒸発してしまうほど全身がぐつぐつ沸騰していく。

俺は自由なのだ、何でも演じられるのだと、蛸ダンスをする。生き物は羽ばたかなくてはならないと、鳥の格好をして踊る。

『回し歌』が始まった。全員が舞台に立ち叫びながら舞う。日頃暇な時に作詞した歌を発表する場。恥は消え、本音が飛ぶ。声を振り絞って、今の思いを皆にぶつける。

基調となる吉村の太鼓のリズムに合わせ、歌い手は吠える。叫び手に向いて、皆が黙って踊りを捧げる。俺は即興で思いついたことを叫んだ。俺は無能なのだ。文明社会では何も役に立たないのだ。生きているだけ虚しいのだ。今の世で生活しても面白いことはないのだ、だからこの島に来たのだ等々。ほとんど愚痴だった。野生に帰って吠えれば気分爽快。恥を叫ぶ分、仲間意識が強くなる。つまらないことでも皆理解を示す。元角田川賞作家も「私は一体何処に運ばれていくのかしら」と成り行きの人生を歌に込めていた。連れ合いには驚いた。詩人ランボーの詩をフランス語で叫んで、意味が伝わらない。最後にケイコが絶叫し、もっと私にパワーを下さいと祈っていた。

オレンジ色に照らされた舞台を順繰りに上がると、演技の力量があぶりだされる。ケイコの体を跳ねる蛇は際立っていた。

踊りは続いた。くにゃくにゃ運動に夢中になる。架空の仲間が踊っている。祝う女に導かれ、踊って死んだ南西諸島の魂をはじめ、古代メキシコ、古代ギリシアなど古代人が復活し、一緒に混じって踊っている気がした。妄想に耽っていると、突然、俺の脚は熱い鉄の棒を突っ込まれた激痛を感じた。ガクッとひざが落ち、覚醒した。

右の太股を触ると鮮血がほとばしっている。厚いかさぶたがぺろりと剥げていた。生暖かい、ぬるぬるした真っ赤な手の平を見た。何て無茶なことをしたのだ。

太鼓に交じり、鳥のさえずりが聞こえ、薄い紺色の空に明けの明星が煌いていた。薄っすら日が射している。もう朝ではないか、まだ皆、踊っているのだろうか。

隣を見ると、シャツ一枚の唐沢が、手を捏ね繰り回していた。

11 祭りの後

  

徹夜で踊り明かした後、ルリカケス族は昼下がりまで眠った。

台風が接近しているのか、浜風が強かった。椰子の木は悲鳴を上げてしなっている。曇り空は今にも泣き出しそうだ。

物置部屋は賑やかになった。桂木に唐沢まで加わり、暑苦しい雑魚寝が展開された。俺は傷が痛んで寝付けず、転がって考える。これでは調査にならない。ただ近藤慶はこの秘書から二百万円ゲットしている。秘書が直々に来たのなら調べた情報に一体何の価値があるのか。ゴミ箱に捨てられるなら、手抜きの報告書を作って大阪に帰れば良いではないか。だが残りの二十万円はどうなる。あのハブ族の酋長はこの島で何をしている。この蛇島に宝でも埋まっているのだろうか……。

昼過ぎ、そろそろケイコが起きている時間だと思い、病院に駆け込んだ。大げさに痛がり、踊り過ぎて無茶をしたので足を診て下さいと足をまくる。

かさぶたが剥がれて、傷口が化膿していた。ムカデ油の入った瓶を借りて塗る。サラダ油に生きたままムカデを入れ密封して作った特効薬らしい。その上に怪しげなハブ油も塗る。ケイコはあまり寝ていなかったようで、目を擦りながら念のために血圧を測っている。

「こんな状態でよく踊ったわね」

「気持ち良かったですよ。あれなら毎晩踊ってもいいですよ。もう僕は踊りがないと生きて行けません」

落伍者のセリフを吐くと、ケイコは冷静に突き放した。

「そう、生きる気力が湧いて良かったじゃない」

「人間の体って不思議ですよね。踊るように出来ているんですから」

「脳にあるA10神経という快感神経が働いているのよ。ドーパミンやエンドルフィンが分泌されると、A10神経は前頭連合野、側坐核、視床下部、中脳に繋がるの」

脳の仕組みが良く分からない。「よく怒った時ノルアドレナリンが分泌するとか聞きますが、あれは一体何ですか」

「脳の中にある麻薬。麻薬はふつう、コカインや覚醒剤などを指すけれど、正真正銘の麻薬は体にあるの。本物の麻薬が体にあって、紛い物の麻薬が、それに働きかけているだけ。体の中の麻薬を促進したり、それを邪魔するものを疎外したり……」

「では、僕は踊ることで、その麻薬を使っているわけですか」

「そういうこと。本当は踊りなんて、体を動かすだけでしんどいだけよ。でも歌や音楽で脳内麻薬が流れると、快楽に代わっていく……」

ケイコは急に不審者を見るような疑い深い眼差しになった。

「そういえば片山くん。かおりちゃんと上手く行っているの」

「いえ、それはちょっと……」

「かおりちゃんは、片山くんのことを気に入っているようだわ。可愛いし、気立ての良い子じゃないの」

「それは、そうかもしれませんが……」

言葉に詰まり、強引に話題を変える。

「そういえば、森の中であづまという人に会いましたよ。蛇の化身のような格好をしていました。ハブ族の酋長ということですが、一体何の商売をされているのですか」

ケイコの眼が白く光った。「知らないわよ、そんなこと!」

裏切り者を見るような厳しい目つきで声を荒げる。触れてはいけないことだったのかもしれない。それでも開き直ってここぞとばかりに追及した。

「実はこの島に来る前、フェリーの中でも出会ったんです。海を眺めながら、釣りをしていると逆に海に釣られているのだとか、何か物凄く暗い事を言っていましたが、死神に仕える神官だったのですね」

「あんな男、生きている価値なんてないわ」

ケイコの眉間に皺がよる。酷く軽蔑している様子であった。

「マゾヒストはね、脳がおかしいから怖いのよ。おぞましいことを考えただけで、脳の中に麻薬が流れて、それで幸せを感じているのだから」

「でも蛇の装飾品を纏っているという点では、酋長と同じではないですか」

「一緒にしないでよ! 見た目は同じカレーライスを食べているとしても、ワシ族やジャガー族は辛口を食べているの。死神の男に至っては、これはもう、大激辛のカレーを食べているのよ。本当なら、辛口にしろ、一さじ食べたら口から火が出るほど辛くてもう終わりにしたいのに、水を飲み、ハアハア言いながら無理して食べている。馬鹿よね」

俺は大激辛口のカレーがどんなものなのか興味を持った。

「そうなのですか。でも、あの男は仲間もいないようですし、ここで一体何をしているのでしょうか」

ケイコは襲い掛かる山姥のような顔を見せた。

「それ以上聴くのなら、もう、このルリカケス族から出て行って頂戴!」

「い、いえ、それでもう十分です」

怖くなり、また話題を変える。

「ところで酋長、唐沢さんがもう一度面会したいとのことです。連れて参りましょうか」

ケイコは厳しい口調で睨み、「断っておきなさい。話すことなど何もありません。すぐにでも桂木さんの船に乗せて追い返すのです」

酋長の家から出ると、海からの突風が、びっこをひく俺を倒そうと襲う。大粒の雨がパラパラ落ちてきたと思ったら、直ぐに止んだ。二週間の経験で島の天候は非常に変わりやすいことが分かったが、今回は黒い雲が群をなして泳いでおり、どしゃ降りになりそうだ。

若葉の山を覘くと、雨が噴きかけたので、緑がいっそう美しく見えた。

よろめきながら「物置・ライブラリー」に急ぐ。壮大な踊りが雨乞いになったのではないかと空恐ろしい。

物置に戻ると、一面敷かれている厚いワラの上に、唐沢と桂木が腰に手をつき、緊張感のない顔を向けている。シャツ一枚の黒斑のメガネの男は眠たそうに目を擦りながら、

「どうでしたか。お嬢さんの所に行ってもいいですか」

「駄目でした。もう諦めて下さい。……こりゃ、大雨が降りますよ」

唐沢は暗い表情で沈黙した。桂木から酒を頂いたようで、少し赤ら顔だ。

やがて本格的に雨音が走り出し、窓が閉まる音がした。部屋の中は薄暗い影に包まれた。

「おお、こりゃぁ、海が荒れて帰れんわい。身動きが取れんようなったのぅ」

桂木は諦めて棚にもたれ、焼酎をちょびちょび飲み続ける。

白いシャツ一枚の唐沢は溜め息を吐いて笑った。

「もうしばらくここに滞在しろと言う天のお告げでしょうかな。……ああ、それにしても昨日の踊りは良かったですな。東京で溜まったストレスが全部ふっとんだ、爽快な気分に包まれました。私は五十五歳にして、積極的に踊った経験はほとんど無いですから。神社の祭りや宴会で踊らされたこともありましたが、こうも吾が身で踊り耽ったことはなかったですな。お嬢さんの踊りも、音楽も全て惹かれるものがありましたな」

「そうでしょう、中毒になりそうでしょう」

俺は同調しながら、長いパイプを咥える。

「ええ、念じながら踊るのは、第三者から見れば馬鹿げていますが、陶酔している本人には堪らないものがありますな。あれはモルヒネを打たれた感じでしょうか。うちの病院で踊りながら書いていたあの男の気持ちが、今やっと分かりました。それに健康にもいい」

禁断の果実を齧った唐沢は、だらしなく微笑んだ。その心酔した表情には曲者の面影が失せていた。マッチを擦りながら俺は冗談任せに、

「ここの踊りは阿波踊りみたいな形式がなくて、蛇か、クラゲか、鳥か、デタラメな格好をして踊るので、常識人が見たら狂ったとしか思えません。でも踊りながら郵便配達をしている奴もいるわけですから、唐沢さんも踊りながら秘書をされてはどうですか」

唐沢は首を捻って渋い表情で、

「うーん、それは難しいですな。今は良い息抜きになっていますが、仕事は半ば理事長の片腕ですからな。これは例外中の例外で、戻ればスケジュールがびっしりと詰まっています。多忙な中、少しでも時間を見つけて踊れ、と言いわれましても、まさか理事長の目の届く所でやるわけにはいくまいし、かといって自宅で踊れば『お父さんは狂った』と言われるのは目に見えますな」

ゴジラのように煙を吐きながら、

「そうですね。近所のおばさんにでも目撃されたらおしまいですから、六本木にでも行って若者に混じってやけくそになるしかないでしょうね。本土では踊れませんよ。常に人の目を気にしなければいけませんから」

「ええ、確かにそうですな。山奥の村に行くしかありませんな」

「いえ、むしろ田舎の方がやりにくいですよ。皆が監視し合っていますから。山奥で踊っても太鼓の音を嗅ぎ付けられ、すぐに村中の評判になります。五月蝿い、止めろと苦情が雨あられと降ってくるわけで、やはり無人島に来て映画を作るしかありません」

「聞きましたよ。ロケ地誘致ではないようですが、密かにヒットしたら周辺の島興しになることでも期待されているんでしょうかね。映画よりも、お嬢さんたちには怪我や病気をせずに暮らして欲しいものですな」

「これだけ運動したら病院は要らないですよ。もっとも、家でじっと菓子を食いながらテレビを観ていたら運動不足で、薬漬けの人生になるかもしれませんが」

唐沢は大きくうなずき、

「お蔭様で儲けさせて頂いています。昔の日本人は粗食で強かったですが、今は駄目ですな。車に乗ってハンバーガー。将来はもっと医療費が嵩みますな。ストレス解消で稼いだ金を使う。踊りの方が余程経済的で健康的ですな」