22-a 月の女神
翌日、隣の太鼓が目覚ましになり、起きた。
女の声がし、くらの助が何やら忠告されている。
こちらのドアと叩く音がした。鍵がないので引けば開く。朝日を背に、額に桃色のバンダナをした副酋長が立っていた。
「ねぇ、藤本さん。今日は昼前に集会があるから。それと、山に行ったら、薪を拾って来てちょうだい」
大きな女が胡散臭い目で俺の方を見ている。
俺は挨拶をし、「今日は断食の日ではないのですか」
「それがどうしたんだ。散歩がてらに山に入ったら、薪の一本でも拾わなければいけないんだ。燃やしたら無くなるんだから。……あんたはハブ族だけれど、断食開けたら、ここで食べて行ってもいい。その代わり一緒に行って薪を伐って来るんだ」
男のような口ぶりに感心しながら、
「副酋長も大変ですね。断食なのにそうやって動いているわけですか」
「楽なもんだ。私ね、この島に来る前は、毎日十二時間は働いていたんだ。金を出せば何でも手に入ったけど、それが虚しくて、この島に来たんだ。動物も飼っているし、やることが沢山あるんだ。何もないからな。こっちはルリカケス族とは違うんだ」
かっと見開かれたナギナタの瞳には、小さな炎が燃えていた。
「あっちは反則ですよね」
「自活力が足りないんだ。あんたもハブ族だから食い物に困ることはないだろうが」
「そうですかね。断食しろと追い出されましたよ」
冗談を言ってみたが、ナギナタは笑うどころか真剣な表情で、
「苦しみは一時だ。戻れば食わしてくれるだろ。私も昔、ハブ族を体験したことがある。飯ごうで炊くキャンプ生活だった。でもここはその穀物を育てるんだ。幸い、この島は実りがいいから、収穫が計算できる。ただやることが多すぎて、島に来る前とは全然違った頭がいるんだ。こうやって毎日回って、仕事の分担を確認しているんだ」
ナギナタは戸を閉めながら、
「薪を拾ったついでに、花があったら摘んで来るんだ」
そういって去った副酋長は、三味線坊主の家に回った。
俺は顔を洗い、烏帽子を被って黒い家の周りを散歩する。
副酋長に勧告されたのか、瘠せたヨガ男は機織り機の前に座り、ガンジーさながらからから回している。
岬のような場所に立ち、西方に果てしなく広がる紺碧の海を眺めた。潮騒を聞きながら青空を見つめ、大きく深呼吸をする。
瞼に彼方の都会が浮かぶ。貧しくとも地に足が着いた生活だった。道路、工場、事務所、商店街……。誰もが自由に活動をしていたが、踏み倒すことはなかった。警察や裁判所があったからだ。財産も、命も奪われることはない。
この島は違う。安心できないから、あづま達はピストルを携えている。大麻を売って小切手を渡し続けているのだが、あの連中が払うのか。
稼ぐための苦労を忘れたわけではあるまい。連中は金なしで将来の不安を払拭出来るのか。ケイコ達は大麻に反対して孤立していたのだろうか…。
くらの助が鉞を持ち、藤本も森に入ろうとしていた。一緒に薪を取りに行く。集会があるから早めに帰らねばならない。
何の集会だろうかと話しながら、薪を伐る。道を塞ぐ樹木を伐る。くらの助も藤本も、腹が減るのか動き緩い。カロリー消費を嫌いサボっていると、牧場から三人出てきた。土方と狩男、高井だ。牛小屋の屋根を頑丈にし、道具を持って戻って行く。
俺たちも釣られるように、薪を抱えて山から戻った。
ガジュマルに大きな牛が括られ、晶子がかしずいていた。
晶子は艶のある黒い腹に頬を当て「長い付き合いだったわね」と語りかけている。
唐沢の船が来るまで後二日。連れて逃げたいものだと、偶然を装って近寄る。
「やあ、おとなしい牛だね」 角を握ってみる。
「去勢されてるからね」
「それは惨い」
「明日の晩には食べられるのよ。可哀相に」
「仕方がないよ。運命だから」
晶子は文句を言いたげな顔で、
「あなただって、そんな蛇の格好しちゃって、ろくなことにならないと思うわ」
「さすが分かってるね。それより、僕は蛇島に来て二週間、ルリカケス族で暮らしたけれど、晶子ちゃんのことをお母さん、心配していたよ」
「踊って暮らして、血を見ることもないし気楽よね」
「だったらルリカケス族に鞍替えしたらどうかな。大歓迎されると思うよ」
「勉くんを独り、置きざりにして行けないでしょう。今でも弱っているのに」
「父親思いなんだね」
「それに私はここの巫女。月の女神が抜けるわけにはいかないじゃないの」
年を越えて大人びた口調である。ジャガー族の行進で振っていた旗がちらつく。
「へー、月の女神か。あの旗。ジャガー族は闇の神を祀るからシンボルは月になるのか。それにしても、今どき高校に行かないなんて、問題じゃないかな」
「別に構わないんじゃないの」
晶子はあっけらかんとしていた。
「もっと世界を知るべきじゃないかな。太陰暦って何だか分かる?」
「馬鹿にしないでよ。勉くんと一緒だから、いろいろ教わっているのよ。新月、上限の月、満月、下限の月、もう一度新月になるまで、だいたい三十日。私の生理と一緒。満潮になったり、干潮になったり、地震の引金にもなるらしいわ。不思議な光よね」
「なるほど。親が物知りだと学校へ行くより知恵がつくわけだ。じゃあ、その月の女神をずっとここでやり続けるつもりなの?」
「それしかないわね」
晶子は牛のブラッシングを止めて、手の平を上に向け、天を仰いだ。
「あの大きな光は、月と違って、姿形あるもの全てが明らかになる。草も、私も、牛丸も、全部まんべんなく育てているのよ」
「確かインディアンの神話によると、太陽の神は生け贄を要求しているんだってね」
「あれは命よ。命が燃えていて、生き物はあの光に愛されているのよ、私も、牛丸も。殺して食べたいくらい、愛されているのよ」
その狂信的な瞳に戦慄を覚える。
俺は天上を指差し、
「なら、あれは、僕らを殺して食べたいと呟きながら輝いているわけ?」
「愛情よ。あの大きな目は、きっと何もかもお見通しなのよ。あなたや私がよちよち歩きをしていた頃からずっと見守っている。太陽は眼が潰れるから目を合わせないけれど、月とは毎日、会話をしているの。月の瞳が閉じたとき、寂しいわ。昨日の下弦の月。目つきか厳しくなった気がするわ。何か悪いことが起こりそうな気がするの」
背中に虫が這うような感じを覚える。
「どんなお告げが出ているんだい」
「島で悪いことが起きる、ここから逃げなさいって……」
牛の前で立ち話をしていると、いつの間にか山田兄弟に取り囲まれた。
薄い眉で頬傷のある兄は威嚇するように小突いてきた。
「おい、何を話してんだ」
弟は槍で突き上げながら、
「うちの巫女に手を出すんじゃねぇ」
「やめなさいよ」
「こいつ、どうも怪しいんだ。気に食わねぇ」
またしても邪魔が入った。心残りがあったまま晶子の傍を離れる。
正午になると煤を帯びた雲が、空を覆い始めた。台風でも近づいているのか、樹木が悲鳴を上げながら揺れていた。
水を飲むのは許されていたので、水道のある衛生所へ行くと、直子と美紀が、アダンの陰で静かに休んでいた。