明かしえぬ共同生活 -5ページ目

調査結果。 par 灰猫

新のぞき屋04  長いことお待たせいたいたしました。長期休暇に入り時間に余裕ができたので、いくつか頂戴している質問の中から今回は『新・のぞき屋』について返答します。

 さて、件の質問は『新・のぞき屋』における「オナペットの名前ってなんでしたっけ」というものだったけれども、「あのザマスおばさんが愛用してる・・・」という貴君の補足から推察するに、念頭にあるのは「ペロンちゃん」かと思われます。よって、質問に対する答えは「ペロンちゃん」ということになります。

 しかしながら、この件に関して調査をする上で興味深い事実が発覚したのでそれもご報告します。なんとなれば、ペロンちゃんが『新・のぞき屋』に登場するのは合計5回で、コミックス第2巻収録のDATUM11「追跡」、同・DATUM12「追走」、第4巻・DATUM37「潜入」、第5巻・DATUM45「過去」、そして第10巻・DATUM96「用件」です。このことを踏まえた上でここで問題にしたいのは、第5巻・DATUM45「過去」における登場の仕方です。

新のぞき屋01  ペロンちゃんが登場するシーンのパターンは2通りあり、まずは飼い主のおばさん(このおばさんの名前は不明)がペロンちゃんの捜索依頼をする場合で、もうひとつはペロンちゃんが発見される場合です。そして問題にしている「過去」におけるペロンちゃんの登場の仕方は後者、つまり捜索依頼されていたペロンちゃんが発見されておばさんに返される場面なのだけれども、飼い犬に再会したおばさんが喜びと共に発する台詞が「ペロちゃんおかえりー どこいってたのー」です。『新・のぞき屋』において合計5回登場するペロンちゃんが、この「過去」においてのみその呼び名が「ペロちゃん」になっています。

新のぞき屋03  まあ、件の犬が登場する5回中4回が「ペロンちゃん」と呼ばれているので、犬の名前は「ペロンちゃん」で、「過去」における「ペロちゃん」という呼び名は単なる誤植なのではないかと結論付けるのが妥当かと思います。

 以上が『新・のぞき屋』における調査報告です。

 しかしあれだね、一気に読み返したのだけれども、やっぱり山本英夫作品は素晴らしいということを再確認しました。とりわけ『新・のぞき屋』においては「真実/現実」の関係を見事に描いていると思う。そして、この作品において秀逸であるのは、この「真実/現実」の関係を「見ているもの/言われていること」、「視覚/聴覚」の関係との差異において捉えていることです。重要な点は真実と現実との差異を描いているのではなく、真実と現実の関係を描いているということ。ともすればそれらは表裏一体のコインのようなもので、密接な共犯関係にあるとさえ言えます。ただひたすら「現実」と追い求める主人公の見(ケン)と「真実」を追い求める女子高生レイカの間に奔る亀裂は、まさしくそれらが密接に関係し合っているのだということを表しているように思います。

新のぞき屋02

 

 あ、他の質問については書ける気がしたときに返答するけれども、あまり期待しないでね。

極寒? gig from チドリアシ

 極寒の地、ロシアより、お久しぶりでございます。日本は相変わらず、極暑な感じでしょうか。そちらでは、将軍様のきまぐれに対して、どのような論調が主流なのか気になります。ミサイルが列島に突っ込む心配は、ゼロなんでしょうか。帰る場所がなくなるのを想像すると、非常に怖いです。きっと、我輩は北の大地で身売りされることになるでしょう。若しくは、ジプシーに紛れて、カザフスタンまで放浪し、何かの過激派の一員にでもなるのでしょうか。ああ、考えるだけで、怖い。
 さて、現在、ペテルブルクは一時期の暑さが和らいで、なんだか過ごしやすい日々が続いております。学業やら、諸事情に関しては内緒。うふ。そういうのは、後からついてくると信じています。エジプト人とロシア人との語学交換が後々生きてくることを願いながら。何れにせよ、極寒説を退けるのはちょっと時期尚早な感じがします。十二月には、冷凍キャビアと一緒に日本に出荷される心配があるので。いやいや、冬将軍もどこかの将軍もこわいこわい。み~んなこわい。それでは。調べものに関しては、気長にお待ちしてます。面倒だったらば、ブッチも大丈夫です。ほな。

あっつい。 par 灰猫

 あー、超暑い。僕ぁ汗っかきだので、日本の夏はキツいです。もとい、日本以外の夏を知らないけれども。たはー。

 ところで、調べ物を怠っています。ごめんなさい。もう少しで学校が長期休暇に入るので、しばしお待ちください。

 それにしても、ロシアも暑いのね?こりゃ「ロシア=極寒」のイメージは払拭しなければならんね。まあ、今のところロシアに行く予定はないです、はい。

 W杯は決勝トーナメントに入り、観戦する側としてもスケジュールに余裕ができてきました。7月9日まで楽しませてもらうわ。ウフ。


追記。減量には大成功しています。

ErErEr gig from チドリアシ


 返信、遅れました。なんとなく暑くなって、部屋にいるだけで気力が抜けていきます。寮に冷房設備がないので、七月・八月と危険な思いをしそうです。
 いやはや、こちらから一方的に質問ばかりしてご免なさい。答えるのも大変でしょう。実はこれとは別に「神」について意見をお聞きしたいなと思ったのですが、辞めておきます。暑いんだもん。誰だ。露国が単なる極寒の地みたいな言い方したのは。夏は夏で暑いじゃん。避暑地気分でやってきた人が可愛そうです。おサセも立派に育っています。我輩も卑猥にならなくては。

取り急ぎ。 par 灰猫

 返信が遅くなって申し訳ない。なんとなくバタバタしていました。

 まず、「 」内に疑問符を入れることは問題ないと思います。ただ、疑問符がなくても文脈で通じる場合と通じない場合があるので、その辺の匙加減は書き手の文体によると思うよ。例えば、「明日の午後はヒマですか」と「明日の午後はヒマですか?」は同じだけれども、「明日の午後はヒマ?」と「明日の午後はヒマ」とでは文意が違ってくるから。

 そして< >は、まあ、これも書き手によって使い方が分かれるとは思うけれども、たいていの場合はある思想家なり作家の独特の用語であったり、またはアルファベットの大文字で書かれた言葉を訳したときに使われることが多いと思う。<現実界>や<想像界>はラカン的な用語という意味合いで< >に入っているし、特に<現実界>に関しては、一般的な現実世界という意味合いとはまったく違うので、ただ単に現実界と表記してしまうと誤解を招くことになります。

 「手紙のタイトル‐宛名」に関しては、確かに貴君に貸した本にも載っているけれども、ジジェクはいろんなところでこの概念を引いています。というのは、これはラカンとデリダにおける決定的な差異を象徴する概念だからで、デリダによるラカン批判という点では無視する訳にはいかず、ジジェクもこれをあちこちで考察しているということです。

 まだまだ答えなければならないことがあるけれども、とりあえずここまで。ヘーゲル、『のぞき屋』、そして「ユダヤ人」に関しての返答はしばし待たれよ。

rErErE gig from チドリアシ


 ええと、何から話しましょうか。あ、模様替え、素敵アイディアですよ。自分もサイドバーが読みづらいなぁと常々感じていたので。
 さて、まずお礼をいいたいのですが、括弧についての丁寧かつ興味深い話、有難うございます。
おそらく我輩にとって分かりやすいように、ジジェクを引き、かつ、現在関係のあるロシアの話をだしてくれたのだと思います。ちなみに、この「手紙のタイトル‐宛名」という概念ですが、これは以前灰猫さんが我輩に貸して下さった本で論じていたことですか。そういえば、宛先がどうにかなっている手紙は対象に届かない、という話を台所で聞いて、なんとなくそれをかっこいいと感じた我輩は、拙ブログのメッセージ欄に、「白ヤギさんの手紙は黒ヤギさんに届かないよ」というようなことを書いた覚えがあります。(そういえば 「メタ言語は存在しない」もメッセージ欄に書いていました)勿論、当時も今も「手紙のタイトル‐宛名」という概念の一部始終の話を聞いて、なんだかえらい興奮して舞い上がり、表面だけ分かった気になっただけなんですけどね。きっと嬉しかったんでしょうね。確かに、精神分析(こういっても差し支えないのでしょうか)と呼ばれるものには強烈に惹かれます。その思いだけが、自分の中で残っているが為に、我輩は今でもジジェク好きを標榜するのです。だって、それほど面白かったんだもん。
 それと、追加で質問があります。一重括弧を使う時に、例えば会話文語末で、’?’を入れるのは問題のないことなのでしょうか。小学生の作文では’」’とセットで’。’は欠かせませんが、論文などで一重括弧内語末の'。'というのはないような気がします。(勘違いだったらすいません、因みに「返答。」らは一つのexpressionとして考えています)そのように考えると、’?’はどのような扱いをされるのか疑問に思ったのです。加えて 「<現実界>のどの主体か?」の<>についてはどのように判断すればいいのでしょうか。これはラカンの言わば’ラカン言語’という風にみなせばいいのでしょうか。そういえば、以前、我輩は<現実界><空想界>(合っていますか?)らの定義がごっちゃになってしつこく灰猫さんに質問をした記憶があります。そして、残念ながら、今となっては忘却の彼方、辛うじてこれらが、一般的な意味とは異なるということだけ覚えている状態です。<>を使っている文章というのは滅多に見ないので、’おおよそ’特殊な記号として見なしても問題はないでしょうか。取り敢えず、今回の質問はここまで。
 実はここ数日、灰猫さんの’大人げない意地悪’の意味を考えていました。そして、自分なりにそこに二つの動機を見出しました。ところで我輩は先ほどからウンウンと悩んでいます。何について悩んでいるかというと、それらの動機をこの「明かしえぬ~」において分析するか、「盆栽~」において行うかということについてなんです。
というのは、我輩にとって、この「明かしえぬ~」はあの川崎の台所とはまた違った’幻想的共同生活’であって、素直に無知を曝け出しづらいからです。その点、我が箱庭はご覧の通り、自分にとっては放言がしやすい環境が整っています。(放言というのは適当な表現ではないのですが、これについて詳しく説明を試みると、「手紙のタイトル‐宛名」の概念の一部に抵触してしまいそうですので、放言といわせて頂きます)という訳で、決めました。「盆栽~」で灰猫さんへ手紙を書きます。少し書くのは遅くなってしまうかもしれませんが、少々お待ち下さい。
 それとヘーゲルの「主人と奴隷の関係」について。このように説明をうけると、確かに、我輩も実生活でこのように感じたことがあります。この国にきて、この国の一部の若者と自分を比較する時、彼らの存在によって自分の存在が規定されていると感じることがありました。また日本でもそういうことがありました。しかし、どうしても実感として、「絶対的な王様」のイメージを捨てることができません。すごく周囲にいばり散らしていて、大臣などをこき使って、奴隷にとんでもないことをやらせる、というイメージを。おそらく、灰猫さんのいう説明を理解するためには、我輩はまず始めに「とにかくそういう理論があって、それに当てはめると、こういう風になるんだ」と信じ込まなくてはいけないんでしょう。あるいは太古の時代かた現代にかけて存在したであろう「絶対的な王様」は、精神病者だったのかもしれませんね。
 長くなりました。お手紙必ず書きますので、ちょっと待って下さいね。何故、手紙を公開する必要があったのか。何故、所謂手紙のスタイルをとらなかったのかについても説明します。
追伸・「覗き屋」のオナペットの名前ってなんでしたっけ。あのザマスおばさんが愛用してる・・・

変身かつ返信。 par 灰猫

 まず、勝手に模様替えをしました。それというのも、ブログのサイドバーの部分が見にくかったからです。貴君が提案したように、このブログのサイドバーにそれぞれのブログのリンクを貼り付けましたが、背景が黒だとなかなかどうして気が付きませんで、やたらとポップな感じに仕上がっていますが、今のところ機能性を重視気しています。しかしながら、気に入らなかったらばその旨お申し付けください。

 そして、各種括弧記号の使い分けについて。まず、基本的に『 』(二重括弧)は著作名を表記するときに使います。そして「 」(一重括弧)は論文のタイトルや著作の中の章のタイトルを表記するとき、あるいは引用を表記するときに使用するものです。

 以下に例を挙げましょう。



 スラヴォイ・ジジェク著『イデオロギーの崇高な対象』「<現実界>のどの主体か?」においてジジェクは、「手紙のタイトル‐宛名」という概念を巡ってデリダがラカンに対して行った批判が不当なものだとしている。デリダの批判は、ラカンが提出した「メタ言語は存在しない」というテーゼに向けられているが、ジジェクによればデリダの―そしてポスト構造主義的な―批判は「表象」という概念の捉え方の誤解に基づいている。では、具体的な例を挙げてジジェクの論を検討しよう。


   ラカンのいう「手紙のタイトル」はむしろ絵画のタイトルに近い。たと

  えば、「ワルシャワのレーニン」という有名なジョークに出てくるような

  絵のタイトルだ。モスクワのある 絵画展に一枚の絵が出品されてい

  る。その絵に描かれているのは、レーニンの妻ナジェージダ・クルプ

  スカヤがコムソモール(全連邦レーニン共産主義青年同盟)の若い男

  と寝ているところだ。絵のタイトルは「ワルシャワのレーニン」。 困惑

  した観客がガイドに尋ねる。「でも、レーニンはどこに?」ガイドは落ち

  着き払って答える。「レーニンはワルシャワにいます」。

  (スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳『イデオロギーの崇高な対象』p.242)


 この引用文の要点はこうである。絵のタイトルに「ワルシャワのレーニン」とあるにも関わらず、その絵の中に肝心のレーニン本人の姿が見当たらない。観客に見えるのはレーニンの妻ナジェージダ、彼女と不倫している若い男の二人である。「では、レーニンはどこに?」という観客の困惑は的を射ているようにも思えるが、しかし、このタイトルはその絵に欠けているまさにそのものを表している。つまり、レーニンがワルシャワにいるからこそ彼の妻は密かな楽しみを味わうことができるのだ、ということである…。



 さて、少々長くなりましたが、おさらいしましょう。まず、ジジェクの著作『イデオロギーの崇高な対象』は二重括弧で囲む。そして章のタイトル、これは5章なのだけれども、「<現実界>のどの主体か?」は一重括弧で囲みます。

 そして、二段落目が引用部分ですが、今回のように引用部分が長くなるときは「 」で囲むのではなく、一段、もしくは二段下げてそのまま転載した方がいいです。また、原文ではなく訳本から引用した場合は著者のほかに訳者も明記しなければなりません。注を付けて巻末にまとめて記載する場合でも同様で、ページ数、出版社、出版年度も記すのがマナーです。しかし、今回の例ではは出版社、出版年度の表記を省きました。

 ここまで読んで貴君は云いたいことがあるでしょう。そう、それはまだ説明されていない括弧の使い方が例文中にあるからです。つまり、「ワルシャワのレーニン」や観客とガイドのやり取りがそれに該当します。まず、前者についてですが、絵画作品や音楽、またはお店の名前なども「 」で囲むのが一般的です。そして、これは特に云う必要がないとは思うけれども、会話文も当然「 」で括ります。

 このほかに、強調する場合にも「 」を使うことは可能です。しかし、強調する場合は‘ ’を使う人もいれば太文字を使う人もいて、これはその人の好みによります。ただ、こういった使い分けは著作の最初の部分に明記してあります。少なくとも学術書ではそうなっています。

 以上のことをまとめると、『 』と「 」の基本的な使い分けは明確だけれども、強調府を使用する場合は「 」や‘ ’、太文字などその人の好みによるということです。肝心なのは、同一の文中でこれらの使用を混同しないこと。さっき『 』で括られていたものが「 」になっていたりすると、読者はそれを違うものだと思います。これは注意しなければならないし、逆説的に、同じ言葉でも違う意味で用いたい場合は意図的に変化をつけるということは文章を書く上でテクニックのひとつです。ちなみに、先日小生が書いた「 返答。 」という記事においてこのような表記を見つけることができるはずです。

 そして、件の「アウシュヴィッツ」発言について。貴君の回答は小生を満足させるものでした。つまり、「適当なことを書いたとしか言い様がありません」という告白は小生の疑問を完全に払拭しました。

 うんと、実はあの記事にコメントを付けようとしたときに少し躊躇したの。それというのは「きっと、なんとなくの思いつきで書いたんだろうな。でも、それはそれで楽しいんだよなあ」と思ったからで、それを薄々感じつつもあのような質問をぶつけるのも大人げないのではないかと考えたからです。しかし、『デッドマン』を素材にしているし、なんとなく挑発的な印象を受けたので、フフ、ちょっと意地悪したくなっちゃったのです。ごめんしてね。

 あ。ついでにもうひとつ意地悪。質問に対する回答の中で「王である自分が死ぬとは、なんたる理不尽であるか。自分がやむを得ずこの世を去るのに、それでも奴隷達は生きている。そんなことが許されるのか」という文があったけれども、王様が自分自身のことを絶対的な王様だと信じているとしたらば、つまり「私は生まれついての王であり、お前たち臣民とは違うのだ!」と信じているとしたらば、その王様は精神病者と何ら変わりません。こう考えてみてはどうでしょう、権力とは絶対的な力のことではなく、あくまでもある関係において機能するものだ、と。確かに、『ドラえもん』が通用する文化圏において、ジャイアンは「いじめっ子」の表す記号だけれども、それでもジャイアンが絶対的な「いじめっ子」ということにはなりません。ジャイアンは、のび太がいるからこそ、場合によってはスネ夫がいるからこそ「いじめっ子」なのです。つまり、「いじめられっ子」なしに「いじめっ子」は存在することができず、王様もそれと同様で、王様はあくまでも臣民がいてこその王様でしかないのです。これはヘーゲルの「主人と奴隷の関係」をベースにしているけれども、それは、主人が主人であるのはその人に主人としての本質的な要素があるからではなく、奴隷との関係性のなかにおいてその人が主人として位置づけられるという考え方です。「絶対的な王様」が精神病者と変わらないというのは、彼らが認識する世界には他者が存在していないということに由来します。

 またしても長くなってしまったのでとりあえずここいら辺で止めますが、ヒトラーがユダヤ人を皆殺しにしようとしたことについても、貴君と小生とではやや見解が違う模様です。次回、「解説図」付きで説明したいと思います。


追記:勝手にブログペットを飼い始めました。名前は「おサセ」です。猥褻な子に育てたいと思います。

返返信。    gig from チドリアシ


ブログリンクについて。
我輩の言葉足らずで、もしかしたら誤って伝わってしまった可能性があるので、あらためて書きます。
自分「あかしえぬ共同生活」にお互いのブログのリンクを貼付けようと提案してみたんです。
もしかしたら、なんだか違って伝わってしまったかなと思いまして、念のため。


Deadmanについて。
まず、誤植の指摘、ありがとうございます。
「アウシュビッツもこれと同列で考えられるのでは」の部分ですが、ご指摘通り、前後の文脈から考えても、この一文は不適当ですね。なんでこんなことを書いたのか。
おそらく、Deadman関連の資料をネット上で集めていたときに、偶然、アウシュビッツに関する記事(おそらくDeadmanと関連しているだろう)をみつけたことが、その理由だと思います。
今、思い出そうと試みているのですが、一体どこでみたのか、ううん。思い出せない。もしかしたら、そんな記事はなかったのかもしれません。
でも、こういう文章を書いたからには、何か理由があるはずですよね。
少し時間をください。
「盆栽」において考え直してみたいと思います。


二文字の謎について。
なるほど。そういうことでしたか。
ということは、この漢字二文字タイトルが終わるとき、新たな「異変」があるのかなと思うと、自然、タイトルにばかり目がいきそうです。『カイジ』『アカギ』は灰猫文庫からいくつか拝読させてもらったので、知ってます。
そういえば『アカギ』は二文字タイトルだった気がしますね。
なんだかこんな話がでてきたから、『カイジ』と『最強伝説  黒沢』の続きが猛烈に気になってきました。


そうそう。今、タイトルを囲うときに『』この括弧を使いましたが、「」’’などなど、括弧にはどのような使い分け方があるんでしょうか。
大学でのレポート提出時、色々と間違いを指摘されたのですが、どうも忘れてしまって。
灰猫さんの文章をみている感じだと、『』この括弧がオリジナルのタイトル用で、「」が個人的にその言葉に意味をおいたり強調したりしたいとき、’’この括弧は普通は使わないという感じでいいんでしょうか。
よろしければ、教えて下さいまし。

返答。 par 灰猫

 いろいろとお返事しなければならないことがあるけれども、まずはお互いのブログのリンクについて。これを各々がブログに貼り付けることは賛成です。手続きも簡単にできるし、当方はなるべく早めに処置いたします。

 そして、ボルダリングの話題。各種ホールドにはそれぞれ名前がついていて、パーミング、ポケットのほかには、ガバ、カチ、セミアーケなどというものがあります。ガバに関して云えば、一番掴みやすい、あのガバっとしたヤツがまさしくガバです。ちなみに、ポケット攻略に指筋は必要。鍛え方としては、まあ、ボルダリングを一生懸命やるにこしたことはないのだろうけれども、指立て伏せも選択肢のひとつではあると思うよ。時間があるときは小生もやります。ただ、今は左手を負傷しているので、さすがに指立て伏せは敬遠しているけれども。

 さて、貴君のブログに書き込もうとした質問だけれども、それは「Nobodyは何者か 」というタイトルの記事に対してです。ブロックを解除してもらえたみたいだけれども、「荒らし」のようになってもあぢきないと思うので、こちらのブログに書かせてもらいます。小生の質問は以下のようなもの。

 「2 作品におけるNobodyの役割」という部分で貴君は、物語中におけるノーバディの役割について考察を展開しているけれども、ウィリアム・ブレイクが犯すことになる「ここでの人殺しは、Blakeの死に際しての、儀式の供え物や生け贄と考えられる」とした上で、括弧で括って、これは「歴史において、偉大なる権力者の死後、墓に共の(※→墓の共に、の誤りでは?)埋めるべく、たくさんの人間を殺したように。ある意味、アウシュビッツもこれと同列で考えられるのでは」ないかと述べています。しかし、小生にはどのような文脈でアウシュヴィッツが出てきたのかがよくわかりませんでした。

 問題の文章の主格が曖昧になっていて理解しにくいのかも知れないけれども、それにしても「<主体的な>死の旅路」と「アウシュヴィッツ」が並列されているので気になりました。ここで、小生が<主体的な>というのは、この『デッドマン』という作品が、主人公であるウィリアム・ブレイク(いわゆる「物語論」的な見地からしてブレイクを主人公とみなすことに正当性があります)彼個人の<死>を描いているのではないかと考えるからです。

 ともあれ、質問を要約すると、貴君が「アウシュヴィッツ」を引き合いに出した意図を把握できなかったので、説明をよろしくお願いします、ということです。

 最後に、小生のブログの記事タイトルが漢字二文字に統一されていることについて。貴君が指摘した「気まぐれ」という理由は、半分当たりです。では、なぜ「半分」なのか。それはすなわち、そうするに至るには、こう云ってよければ、ある種の偶然が入り込んできたからです。というのは、最初はまったく意図することなく、二日続けて、つまり5月16日の「異変。」と17日の「不覚。」のタイトルが続いたのです。そして、18日の記事を書こうというまさにそのとき、この事態に気付いた小生は、今度は意図的に「発覚。」というタイトルを18日の日記に書き込んだのです。このとき、「発覚。」は二重化しています。つまり、そこに記されているのはその日の記事の内容そのものを表すものとしての「発覚」と、その記事を書いていた「今」に起きていた事態、漢字二文字のタイトルが不意に連続しているということの「発覚」の二重性です。

 したたかな貴君は、そこには無意識的な意図が働いていたのではないか、と指摘するかもしれませんし、あるいはそのように説明することも可能でしょう。しかし、「異変。」から「不覚。」に至る道のりは、それを書いている小生自身にとって、偽りなく、まったくの「不覚」であったのです。どうしてこのような事態が起こったのか想像もつきません。書いていた記事の内容と同調し、小生はそこで時を同じくして「不覚」に陥っていたのです。

 しかし、もう一度日記を見返してみましょう。なぜならば答えは最初に出ているからです。漢字二文字のタイトルが連続するという奇妙な事態、その最初のタイトルが「異変。」なのです。それはまさに、「発覚。」における二重性と同様にして二重化していることはもうおわかりでしょう。つまり、「異変。」は、記事の内容を表す「異変」であると同時に、記事を書いていた「今」に起こりつつあった「異変」、これから起こるであろう「異変」を、すでに、そこに記していたのです。そして、一度こうした事態が「発覚。」したのち、小生はそれをも「引率。」し、「接続。」し、現在に至っているのです。

 さて、そろそろ本音を云いましょう。『カイジ』や『アカギ』、あるいは『最強伝説 黒沢』の筆者である福本伸行を貴君はご存知でしょうか。小生は福本大好きっ子なのだけれども、彼の著作において、記憶が確かならば『アカギ』だったと思うのだけれども、一話ごとのタイトルが漢字二字の熟語から成っています。そう、小生はこれを意図的に真似ています。

 この野郎っ、あんなクソ長ぇふざけた文章を読ませやがって!などと怒ってはいけません。それというのは、件の説明における最初の二日についての部分、つまり「異変。」と「不覚。」が偶然に続いたというエピソードは紛れもない事実だからです。まあ、そこに多少なりともエスプリを効かせたつもりのバカな文を付したことについてはお詫び申し上げる次第だけれども、正直に云うと、その偶然に気付いた小生は福本の真似をし始め、結果、勢いでさきほどのふざけた説明までをも付け足した、ということです。だから、まあ、気にしなくてもいいと思うよ。むしろ、小生自身が止めるタイミングを逸してちょっと困っています。

 全体を通じて長文になってしまいましたが、どうかご容赦ください。そして、気が向いたらば、質問への返答をよろしくお願いします。

8ミリ君について      gig from チドリアシ




8ミリに関して、その友人からどうのこうの・・・という話、そういえば台所で依然も聞いたことがありました。
もしかしたら、二回聞いたことがあったかもしれません。
何度も何度も、すいませんね。
いや、あたしゃ、悪気があったわけじゃないんですよ。



そして、あの肝臓くんにパーミングなんて名前があったなんて。
手のひらで持つから、パーム+ingなんですかね。
小粋な名前と裏腹に、すごくイライラ系ですね。というのは
我輩もちょっと彼に触れて火傷した経験があるからです。

そしてこのポケットというやつ。
指の筋力を要求するなんて、またふてぇ野郎ですね。
一体全体どう筋トレすりゃいいんだって感じです。
指立て?ですかね。



さてブログに関してですが、ご迷惑おかけしました。
言葉言葉でブロックをかけていたので、それが原因だったのだろうと思います。
現在、あまりに短いブロックワードは削除したので、大丈夫かなと思います。
万が一、問題があるようでしたら、こちら「明かしえぬ」にコメントを頂いてもうれしいですし、あちらのコメントブロックを解除しようかなとも考えております。




それと提案。
この空間も不確かなものなんですが、お互いのブログをリンクにしてみようなんて思うんですが、如何ですか。
包括的にネットの繋がりをつくったほうが、人の目には触れるかな、と思うんです。




それと、最近の「日常~」のタイトルがすべて二文字に統一されているのは何か理由があるんでしょうか。
気になって気になって、オラは夜も眠れねぇだ・・・ってことはありませんが、なんとなく気になりまして。
多分、気まぐれなんだろうなと思いながらも、一応。