変身かつ返信。 par 灰猫
まず、勝手に模様替えをしました。それというのも、ブログのサイドバーの部分が見にくかったからです。貴君が提案したように、このブログのサイドバーにそれぞれのブログのリンクを貼り付けましたが、背景が黒だとなかなかどうして気が付きませんで、やたらとポップな感じに仕上がっていますが、今のところ機能性を重視気しています。しかしながら、気に入らなかったらばその旨お申し付けください。
そして、各種括弧記号の使い分けについて。まず、基本的に『 』(二重括弧)は著作名を表記するときに使います。そして「 」(一重括弧)は論文のタイトルや著作の中の章のタイトルを表記するとき、あるいは引用を表記するときに使用するものです。
以下に例を挙げましょう。
スラヴォイ・ジジェク著『イデオロギーの崇高な対象』「<現実界>のどの主体か?」においてジジェクは、「手紙のタイトル‐宛名」という概念を巡ってデリダがラカンに対して行った批判が不当なものだとしている。デリダの批判は、ラカンが提出した「メタ言語は存在しない」というテーゼに向けられているが、ジジェクによればデリダの―そしてポスト構造主義的な―批判は「表象」という概念の捉え方の誤解に基づいている。では、具体的な例を挙げてジジェクの論を検討しよう。
ラカンのいう「手紙のタイトル」はむしろ絵画のタイトルに近い。たと
えば、「ワルシャワのレーニン」という有名なジョークに出てくるような
絵のタイトルだ。モスクワのある 絵画展に一枚の絵が出品されてい
る。その絵に描かれているのは、レーニンの妻ナジェージダ・クルプ
スカヤがコムソモール(全連邦レーニン共産主義青年同盟)の若い男
と寝ているところだ。絵のタイトルは「ワルシャワのレーニン」。 困惑
した観客がガイドに尋ねる。「でも、レーニンはどこに?」ガイドは落ち
着き払って答える。「レーニンはワルシャワにいます」。
(スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳『イデオロギーの崇高な対象』p.242)
この引用文の要点はこうである。絵のタイトルに「ワルシャワのレーニン」とあるにも関わらず、その絵の中に肝心のレーニン本人の姿が見当たらない。観客に見えるのはレーニンの妻ナジェージダ、彼女と不倫している若い男の二人である。「では、レーニンはどこに?」という観客の困惑は的を射ているようにも思えるが、しかし、このタイトルはその絵に欠けているまさにそのものを表している。つまり、レーニンがワルシャワにいるからこそ彼の妻は密かな楽しみを味わうことができるのだ、ということである…。
さて、少々長くなりましたが、おさらいしましょう。まず、ジジェクの著作『イデオロギーの崇高な対象』は二重括弧で囲む。そして章のタイトル、これは5章なのだけれども、「<現実界>のどの主体か?」は一重括弧で囲みます。
そして、二段落目が引用部分ですが、今回のように引用部分が長くなるときは「 」で囲むのではなく、一段、もしくは二段下げてそのまま転載した方がいいです。また、原文ではなく訳本から引用した場合は著者のほかに訳者も明記しなければなりません。注を付けて巻末にまとめて記載する場合でも同様で、ページ数、出版社、出版年度も記すのがマナーです。しかし、今回の例ではは出版社、出版年度の表記を省きました。
ここまで読んで貴君は云いたいことがあるでしょう。そう、それはまだ説明されていない括弧の使い方が例文中にあるからです。つまり、「ワルシャワのレーニン」や観客とガイドのやり取りがそれに該当します。まず、前者についてですが、絵画作品や音楽、またはお店の名前なども「 」で囲むのが一般的です。そして、これは特に云う必要がないとは思うけれども、会話文も当然「 」で括ります。
このほかに、強調する場合にも「 」を使うことは可能です。しかし、強調する場合は‘ ’を使う人もいれば太文字を使う人もいて、これはその人の好みによります。ただ、こういった使い分けは著作の最初の部分に明記してあります。少なくとも学術書ではそうなっています。
以上のことをまとめると、『 』と「 」の基本的な使い分けは明確だけれども、強調府を使用する場合は「 」や‘ ’、太文字などその人の好みによるということです。肝心なのは、同一の文中でこれらの使用を混同しないこと。さっき『 』で括られていたものが「 」になっていたりすると、読者はそれを違うものだと思います。これは注意しなければならないし、逆説的に、同じ言葉でも違う意味で用いたい場合は意図的に変化をつけるということは文章を書く上でテクニックのひとつです。ちなみに、先日小生が書いた「 返答。 」という記事においてこのような表記を見つけることができるはずです。
そして、件の「アウシュヴィッツ」発言について。貴君の回答は小生を満足させるものでした。つまり、「適当なことを書いたとしか言い様がありません」という告白は小生の疑問を完全に払拭しました。
うんと、実はあの記事にコメントを付けようとしたときに少し躊躇したの。それというのは「きっと、なんとなくの思いつきで書いたんだろうな。でも、それはそれで楽しいんだよなあ」と思ったからで、それを薄々感じつつもあのような質問をぶつけるのも大人げないのではないかと考えたからです。しかし、『デッドマン』を素材にしているし、なんとなく挑発的な印象を受けたので、フフ、ちょっと意地悪したくなっちゃったのです。ごめんしてね。
あ。ついでにもうひとつ意地悪。質問に対する回答の中で「王である自分が死ぬとは、なんたる理不尽であるか。自分がやむを得ずこの世を去るのに、それでも奴隷達は生きている。そんなことが許されるのか」という文があったけれども、王様が自分自身のことを絶対的な王様だと信じているとしたらば、つまり「私は生まれついての王であり、お前たち臣民とは違うのだ!」と信じているとしたらば、その王様は精神病者と何ら変わりません。こう考えてみてはどうでしょう、権力とは絶対的な力のことではなく、あくまでもある関係において機能するものだ、と。確かに、『ドラえもん』が通用する文化圏において、ジャイアンは「いじめっ子」の表す記号だけれども、それでもジャイアンが絶対的な「いじめっ子」ということにはなりません。ジャイアンは、のび太がいるからこそ、場合によってはスネ夫がいるからこそ「いじめっ子」なのです。つまり、「いじめられっ子」なしに「いじめっ子」は存在することができず、王様もそれと同様で、王様はあくまでも臣民がいてこその王様でしかないのです。これはヘーゲルの「主人と奴隷の関係」をベースにしているけれども、それは、主人が主人であるのはその人に主人としての本質的な要素があるからではなく、奴隷との関係性のなかにおいてその人が主人として位置づけられるという考え方です。「絶対的な王様」が精神病者と変わらないというのは、彼らが認識する世界には他者が存在していないということに由来します。
またしても長くなってしまったのでとりあえずここいら辺で止めますが、ヒトラーがユダヤ人を皆殺しにしようとしたことについても、貴君と小生とではやや見解が違う模様です。次回、「解説図」付きで説明したいと思います。
追記:勝手にブログペットを飼い始めました。名前は「おサセ」です。猥褻な子に育てたいと思います。