rErErE gig from チドリアシ
ええと、何から話しましょうか。あ、模様替え、素敵アイディアですよ。自分もサイドバーが読みづらいなぁと常々感じていたので。
さて、まずお礼をいいたいのですが、括弧についての丁寧かつ興味深い話、有難うございます。
おそらく我輩にとって分かりやすいように、ジジェクを引き、かつ、現在関係のあるロシアの話をだしてくれたのだと思います。ちなみに、この「手紙のタイトル‐宛名」という概念ですが、これは以前灰猫さんが我輩に貸して下さった本で論じていたことですか。そういえば、宛先がどうにかなっている手紙は対象に届かない、という話を台所で聞いて、なんとなくそれをかっこいいと感じた我輩は、拙ブログのメッセージ欄に、「白ヤギさんの手紙は黒ヤギさんに届かないよ」というようなことを書いた覚えがあります。(そういえば 「メタ言語は存在しない」もメッセージ欄に書いていました)勿論、当時も今も「手紙のタイトル‐宛名」という概念の一部始終の話を聞いて、なんだかえらい興奮して舞い上がり、表面だけ分かった気になっただけなんですけどね。きっと嬉しかったんでしょうね。確かに、精神分析(こういっても差し支えないのでしょうか)と呼ばれるものには強烈に惹かれます。その思いだけが、自分の中で残っているが為に、我輩は今でもジジェク好きを標榜するのです。だって、それほど面白かったんだもん。
それと、追加で質問があります。一重括弧を使う時に、例えば会話文語末で、’?’を入れるのは問題のないことなのでしょうか。小学生の作文では’」’とセットで’。’は欠かせませんが、論文などで一重括弧内語末の'。'というのはないような気がします。(勘違いだったらすいません、因みに「返答。」らは一つのexpressionとして考えています)そのように考えると、’?’はどのような扱いをされるのか疑問に思ったのです。加えて 「<現実界>のどの主体か?」の<>についてはどのように判断すればいいのでしょうか。これはラカンの言わば’ラカン言語’という風にみなせばいいのでしょうか。そういえば、以前、我輩は<現実界><空想界>(合っていますか?)らの定義がごっちゃになってしつこく灰猫さんに質問をした記憶があります。そして、残念ながら、今となっては忘却の彼方、辛うじてこれらが、一般的な意味とは異なるということだけ覚えている状態です。<>を使っている文章というのは滅多に見ないので、’おおよそ’特殊な記号として見なしても問題はないでしょうか。取り敢えず、今回の質問はここまで。
実はここ数日、灰猫さんの’大人げない意地悪’の意味を考えていました。そして、自分なりにそこに二つの動機を見出しました。ところで我輩は先ほどからウンウンと悩んでいます。何について悩んでいるかというと、それらの動機をこの「明かしえぬ~」において分析するか、「盆栽~」において行うかということについてなんです。
というのは、我輩にとって、この「明かしえぬ~」はあの川崎の台所とはまた違った’幻想的共同生活’であって、素直に無知を曝け出しづらいからです。その点、我が箱庭はご覧の通り、自分にとっては放言がしやすい環境が整っています。(放言というのは適当な表現ではないのですが、これについて詳しく説明を試みると、「手紙のタイトル‐宛名」の概念の一部に抵触してしまいそうですので、放言といわせて頂きます)という訳で、決めました。「盆栽~」で灰猫さんへ手紙を書きます。少し書くのは遅くなってしまうかもしれませんが、少々お待ち下さい。
それとヘーゲルの「主人と奴隷の関係」について。このように説明をうけると、確かに、我輩も実生活でこのように感じたことがあります。この国にきて、この国の一部の若者と自分を比較する時、彼らの存在によって自分の存在が規定されていると感じることがありました。また日本でもそういうことがありました。しかし、どうしても実感として、「絶対的な王様」のイメージを捨てることができません。すごく周囲にいばり散らしていて、大臣などをこき使って、奴隷にとんでもないことをやらせる、というイメージを。おそらく、灰猫さんのいう説明を理解するためには、我輩はまず始めに「とにかくそういう理論があって、それに当てはめると、こういう風になるんだ」と信じ込まなくてはいけないんでしょう。あるいは太古の時代かた現代にかけて存在したであろう「絶対的な王様」は、精神病者だったのかもしれませんね。
長くなりました。お手紙必ず書きますので、ちょっと待って下さいね。何故、手紙を公開する必要があったのか。何故、所謂手紙のスタイルをとらなかったのかについても説明します。
追伸・「覗き屋」のオナペットの名前ってなんでしたっけ。あのザマスおばさんが愛用してる・・・