北奥のドライバー -2ページ目

北奥のドライバー

思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

さて、この日本国では昨今の少子高齢化の時代となっても尚、目に見えて人口が増え続けている都市があります。その代表格の街が東京です。この東京という街が持つメリットは何でしょうか。

 

……端的に言えば『巨大なスケールメリットが齎す利益とチャンス』です。また他人同士が寄り集まる街ならではの気楽さ、また統計的に証明するのは困難でしょうが、地方都市には存在しない「文化的資源に恵まれた環境特有の多様性や豊饒さ」といった要素もあるかもしれません。

 

若者が都会に流出する原因の多くは、やはりそこら辺が大きな理由でしょう。

 

若者の県外流出の多くは高校卒業後の大学進学や都会への就職の時点で起こるのですが、特に殆どの県で流出率が顕著なのが男の子よりも女の子となります。

 

これは何故かというと、若い女性が希望する仕事の多くは事務仕事のようなオフィスワーク、或いは店舗内販売員といった内勤的な仕事が圧倒的多数だからです。にもかかわらず、地方にはそういった就職先の絶対数が少ない。

 

因みに私の周囲の知り合いや親戚等にも若いのから中年まで女性が何人かいますが、彼女らが希望する仕事は概ね「手や靴を汚さない」種類の屋内労働です。

 

こういった職場が沢山有るか無いか、あとは風通しが良く色々な議論がし易いか否か、また『古臭い慣習』に縛られず、十分に満足出来る待遇を準備できる産業が有るか否かが最重要の課題となります。

 

近年は男性ですら上記のような「綺麗な仕事」をしたがる人が圧倒的多数派ですし、更に女性となれば、尚更その傾向は顕著になります。これを「今どきの若物は我儘だケシカラン」と言ったところで始まりません。

 

それから、よく地方では「都会が地方から若者を奪っている」といった被害妄想丸出しな文脈の話をしたがる人も多いのですが、それは私に言わせれば全くの逆です。

 

むしろ、地方の大人がついぞ若者の望む職場を創り出せなかった、という事ではないでしょうか。実際、女の子というものは、男の子と同じ環境に置かれて「よーいドン!」で勉強すると、男の子よりも平均的に見て成績が良い事も多い。

 

にも拘らず、その能力に見合わぬ仕事しかないケースが多い。それから「コネ付き」や「地方社会に順応できる特殊な資質」でも持っていない限りは、地域社会の不合理な慣習の中で不利な立場に立たされるリスクが男性よりも高いといった要素もありましょう。

 

そうなると、いよいよそれなりの能力や行動力を持った若者、特に女性は自己実現の場を求めて都会に旅立つしかありません。

 

ここでハッキリと書いておかねばなりませんが、若者の流出を避けたいのであれば、高校卒業時点で「地元で進学・就職しても良いか」と思わせれる環境を官民上げて準備しなければなりませんし、逆にこれが出来なかった時点で、ほぼアウトといえます。

 

そして、これが出来なかった土地は必然的に若者が少なく、特に結婚相手の女性の少ない『男余り状態』の状況が生み出されますので、やがて地域全体が人口減少を起こします。まあ、しかしこれは当然というものではありませんか。

 

さて、そういえば昔々、地元地方紙に連載を持っていた『アンチ豊臣秀吉』の歴史小説家氏(?)が16世紀における豊臣政権の侵略的な東北進出に関して「現代に例えれば都会の巨大企業が地方に進出して富を吸い上げ地場産業を潰してゆくような」といった表現をしていましたが冗談じゃない。

 

この手の話になると、判で押したように「都会の勢力=侵略・収奪者」、「地方の勢力=上方の横暴に抗した英傑」といった単純な図式で歴史や社会を語りたがる人もいますが、こういった『物語』に拘泥して世の中を論ずる人々は、概ね地方でも比較的収入の安定している人種である事が多い。

 

だから私からすれば、こういった議論は地方でも運よく恵まれた地位につけた人たちの知的娯楽といった類のもので、一般的な庶民の生活水準の向上やら幸福度やらには何ら寄与するものではない、という認識を持っています。

 

第一、彼らの多くは自分の足元を支える低賃金労働者の問題にはビックリするほど無頓着だ。「都会人が侵略者・収奪者だ」というなら、彼らや彼らのお友達の経営者たちは何なのでしょうか。

 

まあ、確かに酷薄な都会の企業が地方経済を好き放題に食い荒らしてゆく様は一介の地方民として寂しく、また悔しく思いますが、ハッキリ言えば、こういった事象が起こる遥か以前の段階から、既に地方は若者にとって魅力のない土地になっていたのです。

 

例えば極端な事例かもしれませんが、地方経済活性化のアドバイザーをしている木下斉氏は、地方の経営者や有力者と話をしていて呆れる様な場面に何度も出くわしているようです。

 

端的に言えば、薄給で何でもしてくれる便利屋の様な若者を欲しがるばかりで、特にこれといったビジョンも無く、何処まで本気で魅力的な地域づくりや体質改善を考えているのか非常に怪しいケースも多いというのです。

 

これは近年になって「都会の大企業が地域経済を食い荒らす事象」が起こるよりも遥か以前からあった地方経済・地方政治の宿痾といえます。

 

高度成長期からバブル景気の頃までは、地方での金回りも現在に比べれば若干ながら良かったし、当時の若者の多くは都会と地方の経済的・文化的格差を薄々知りつつも、多少の不満は飲み込んで故郷に留まり、こういった「地方特有の宿痾」に付き合ってきた訳です。

 

しかし現在の若者は過去のそれに比べれば遥かに情報に聡く権利意識が強い。「お金は無くとも生き甲斐があります」的な馬鹿馬鹿しいキャッチコピーに騙される者もそうそういません。

 

つまり、多くの地方における地場産業は、ある意味必然として力を失い、都会の企業に滅ぼされたとも言えるのです。しかしあの「歴史小説家」はこういった事を理解した上で『都会批判』を展開していたのでしょうか?正直、甚だ怪しいと言わざるをえません。

 

少々キツイ言い方をすれば、非常に数少ない地方の恵まれた地位にたまさか引っ掛かる事が出来た、お公家様の戯言と言ってもよいのではないでしょうか。

 

 

 

其の参に続く

 

 

昨今、100万人レベルに達しない地方都市は概ね人口が減少傾向ですし、さらに山間部に有るような数万人規模しかない自治体に至っては、絶望的な勢いで人口が減っています。理由は複数有るでしょう。

 

① 狭い村社会でプライベートが無いに等しく息の詰まる生活を強いられる。

 

② 働き口に乏しく、また有ったとしてもコネがあるか、或いは公務員にでもなれない限りは低賃金で働き続ける事になる。

 

③ 仮に何か特殊な才能があったとしても、それを生かす場が無い。

 

こういう事を書いていると自治体のリーダーや経営者の皆さんから、こんな抗議の声が飛んでくるかもしれません。

 

「それなら文句を言う手間で、企業や地域を盛り上げるアイディアの一つも出してみせろ」

 

「むしろグズグズと文句ばかりを言う怠け者ばかりだから地域が衰退したのだ」と。

 

しかし、仮に『地域経済を盛り上げるアイディアマン』が数人ばかり登場したところで根本的な解決には繋がらないのではないでしょうか。

 

というのも、地方の産業は『労働集約型で中卒や高卒の労働者を低賃金で長時間労働させつつ利益を上げる』という方法以外に、これといった経営ノウハウを持っていない会社が大多数なのです。

 

この経営体質を大幅に改善して生産性を上げようにも、その為に経営陣が一から新しい会社経営を勉強し直し、組織を再編し、更に新たな設備投資も必要となれば、そこにかかるスイッチングコストは莫大なものになります。

 

そこへ更に経営者の高齢化や後継者不足の問題も加わります。何時消え去るか分からない不安定な状態の会社を抱えつつ経営するとなれば、そもそも「後々の為に就労環境を良くしよう」という動機も生まれにくい。

 

残念ながら、地方経済なんてのは大体こういう現状でありますので、仮に『才能あふれるアイディアマン』が鳴り物入りで地方に登場して何かしらの仕事をしたとしても、それらは概ね『焼け石に水』となる事も多く、結局「地方振興の試みはしてみましたが……」という生煮え状態で終わる事が圧倒的に多くなるワケですね。

 

 

(その弐につづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

「公正世界仮説」という心理メカニズムをご存じでしょうか?

 

これは「世界は原則的に公正であり、善い行いを行えば必ず良い結果を得られ、逆に不心得だったり怠惰な者は必ずその分だけ罰としての災いを受ける。基本的にまともな努力をした者が不幸に陥る事はあり得ない」といった認知バイアスの一種です。

 

こういった認知バイアスの強い人間というのは、この「構成世界仮説」の大原則に当てはまらない想定外の好ましからざる事態が発生すると、脳の認知機能が一旦混乱をきたしたようになり、最終的には「むしろ被害者・弱者側に大きな問題があったに違いない」と考え、無意識に自己の中にある矛盾を埋め合わせようとします。

 

例えばですが、日本では性犯罪が発生すると加害者はさして批判されず、寧ろ「男を挑発するような服装や振る舞いをした被害者の方に原因がある」などと批判されることも多いわけですが(こういった話は性被害者の手記、ブログ等で山のように出てきます)、これも上記のそれと同じメカニズムだと思われます。

 

また、度々起こる生活保護受給者や貧困者、所謂「エッセンシャルワーカー」といったブルーカラー的な現場労働者に対する心無い差別発言やバッシングを看過する社会構造も、この「公正世界仮説」がもたらした認知バイアスによるものでしょう。

 

更に言えば、学校や会社内で起こる「イジメ」における「寧ろいじめられる側にこそ原因や責任があった」といった考え方も、この範疇に入るでしょうね。

 

しかし、こういった主張をする人達は、この「公正世界仮説」の原則に当てはまらない現実に突き当たると、「日本社会は安全であり、常に公正なゼロサム的秩序で回っている」という、自らの規範である(場合によっては自らの不道徳を正当化してきた)物語が崩壊しかねない状況に陥ります

 

その『物語の崩壊』から逃れる為に「被害者・敗者とされる側の行いに、より多くの問題があった筈だ」という解釈を無意識の内に自己生成し、自身の中にある認知的不協和を埋め合わせようとするのです。

 

その結果起こるのが不可抗力であったり、或いは本人に法的な権利があるようなケースですら権利の行使を抑圧したり、又は人格否定に繋がる批判を行う人間の大量発生だったのだと思われます。

 

そういえば、2020年に大阪大学の三浦麻子教授らの調査によって「コロナ感染は自業自得だと思うか?」というアンケート調査が行われました。その結果は「そう思う」の他に「ややそう思う」といった回答を含めると

 

日本人:11.5%、

 

米国人:1.0%、

 

英国人:1.49%、

 

イタリア人:2.51%、

 

中国人:4.83%

 

……とまあ、日本人は比較して高い水準でありました。

 

因みに「全く自業自得だとは思わない」と回答した人の割合は他の国で概ね60~70%台だったのに対して、日本は29.25%、つまり三割弱しかありませんでした。

 

……この調査自体に関しては個人的に新味は感じません。何故ならコロナ以前の時代から様々な研究機関が先進国を対象に行ってきた意識調査を見ても、概ね日本人はこの手の「自己責任論」と親和性が高く、「役立たずは叩かれて当然」、「困り事があっても他者や公的機関に頼るのは恥ずべき行為」といった思想的傾向が他国のそれよりも顕著なのです。

 

現在の世界を席巻している「自己責任論」は元来、欧米の起業家や投資家が自らの「エゲツナイ商売」を正当化する方便としてバラ蒔いたものなのでしょうが、コイツは存外日本社会の中に大昔から潜在的に存在したであろう精神性と実に相性が良かった……とまあ、そういう事なのだと思います。

 

さて、専門知識の無い私がこういう事を書くのは迂闊な事かもしれませんが、敢えて想像してみようと思います。日本人は西洋人が云うところの「Nation=(この場合“近代”)国家」、「Modern society=近代(現代)社会」、そして何よりも近代社会の土台を構成する必須の要素である「fundamental human rights=基本的人権」という概念が極めて希薄で、良くも悪くも狭い村社会的な価値観で物事を測る事が多いのではないでしょうか。

 

私は英語圏の知り合いはいません。ただ、色々な読み物を読んだり様々な伝聞に触れるに、

 

『日本人が日本語で「国家」、「社会」、「基本的人権」と口に出して語った時と、西洋人が「Nation」、「Modern society」、「fundamental human rights」と口に出した時では、その解釈は似ても似つかぬものになっているのでは?』……と思う事があるのです。

 

日本的な『伝統的村社会』に於いて「お上」というものは、「飽くまでも自分たちが暮らす生活秩序の外側にあるもので、あまり深く関わったりするものではない」という潜在的規範が強いのではないでしょうか。

 

出来れば『村社会の中にある独自のルール・規範』だけで何もかも終わらせ、なるべく自分たちの秩序の中に外からの権力や「新しい概念」を引き入れたくない。

 

これは少なくとも西洋的な「近代国家とは、国民全体で共有し、国民によって管理運営され、その帰結として持ち得た強大な力をもって国民を守り養う存在である」という考え方とは全く異質なものです。

 

そんな狭い価値観の中では、弱い者、周囲の足を引っ張る者、地域の秩序に波風を起こす者は「厄介者であり存在意義を否定され、攻撃されても仕方のない役立たず」です。

 

近代法が目指す公明正大さやルールの妥当性よりも構成員たちの情緒をベースにした村の秩序こそが絶対的正義です。

本来「justice=正義」とは、「justな判断=適正かつ公正な判断」という事です。
そこには「自分の認知的不協和を埋め合わせたい」といった、
身勝手極まるエゴイズムなどが入り込む余地はありません。
しかし明治の開闢からこの令和の時代に至るまで、日本国自体も自治体も企業も、
実はこういった日本人に特有の『近代以前の村社会的なjustならざる正義』に頼りきりで
発展してきた背景があるのではないでしょうか。

そういう意味に於いて、この日本という国は制度上は近代化して150年余り経っている訳ですが、実はいまだに精神面では封建制を引きずったままでいるのだと思います。

 

この村社会的自己責任論は国の発展段階では上手く機能した側面もあったでしょう。しかし現在はむしろ格差の拡大や深刻な社会的分断を促す危険な要素となりつつあるように思えます。まるで暴走した免疫機能が体に侵入したバイ菌のみならず、周囲の骨や内臓組織をも分解してやがて人を殺すように。

 

だからこそです、現在の日本に求められているのは古く歪んだ『正義』なのではなく、真の意味でのjusticeであり、fairnessなのだと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年三月の末、最高裁で画期的な判決が下され確定いたしました。これは「歩合給で働いているタクシードライバーにも相応の残業代をキチンと払いなさい」という内容のものです。

 

……さて、貴方は毎月決まった給与を貰っている従業員だとします。

 

例えば基本給25万、様々な手当の加算も含めて額面(総支給)30万円の仕事をしているといたしましょう。

 

「今月はもの凄い残業もこなしたし、もしかすれば2万円くらいの残業代が加算されているかな?」

 

などとワクワクしながら給与明細を見たら

 

基本給23万+その他の手当て5万+残業代2万=総支給30万円と記載されていたらどう思いますか?

 

会社側は紙の上では残業代を払っているように装いながら、実は一円も払っていないとしたら普通の人はどう思うでしょうか?まあ、心穏やかではいられないでしょうね。 

   

こういう話をすれば、「運輸業以外にも普通のサラリーマンが働いている企業にだって悪質なケースは山ほどあって、残業代に絡んだ違法行為の例も数えきれないほどあるだろう、こんなものは取り立ててブログ上で語るほどに珍しい話でもなんでもないではないか」という反論が返ってくるかもしれません。

 

この話のキモはといいますと、一般的な悪質性の高い企業の場合、こういった残業代の誤魔化しが明らかに法律に触れる行為であるのに対して、タクシーの残業代未払い問題は『出来高制を採用する特殊な給与形態の為に、この判決が下される以前は人や立場によって意見が分かれていて、そもそも何処からがどの様に違法なのか判然としていなかった』という事だったのです。

 

会社側は裁判で「これはドライバーが安易な残業に走り過労運転を起こさぬように設けたもので、むしろドライバー達を守る為に作ったルールなのだし、残業代のルールを定めた労働基準法37条にも違反していない」などと主張したそうです。

(現に差し戻し審の高裁判決では会社側の主張が認められ、原告側が敗訴しています)

 

ちなみにこの裁判の経緯を見ますと……

 

地裁 原告(ドライバー側)勝訴

高裁 原告勝訴

最高裁 審議内容が不十分だとして高裁に差し戻しを指示

高裁差し戻し審 原告敗訴

最高裁 原告勝訴(確定)

 

……となっています。当初原告側は、この労働基準法37条の中にある純粋な法解釈を巡って戦ったものの、途中の差し戻し審で敗れたものと思われます。そこで彼らは戦略を変更したわけですね。

 

どの様に変更したのかというと、「労働基準法37条って、本来はキチンと時間内に業務を纏める事の出来なかった事業者側の責任を問うために作られた法律でしょ?なのに何で従業員にその責任を擦り付ける事に利用してんの?これって本来あるべき37条の主旨に反した法解釈だよね?」

 

……という風に、『飽くまでも法律制定の根本的な意図を問いかける』攻め方に変更したわけで、結果的にこれが功を奏しました。

 

さて、タクシー営業の日々の売り上げは『時の運』も絡んでいますので、どんなに努力しても思い通りに稼げない時もあります。しかもノルマの売上げを稼がなければ上司から強烈な叱責を受ける背景もあったようで、ドライバーはほぼ選択の余地なく残業する事となっていたという実情がありました。

 

なによりも、本当にドライバーの過労運転を防ぐつもりであれば、成績不振の末端ドライバーに延々とパワハラをはたらき残業に駆り立ててていた者達に対して会社は何かしらの指導なり処分なりを下さなければならない筈ですが、実際にはそのような指導をした形跡は無かったようですし、むしろ状況から見れば、会社(グループ)ぐるみで暗にこのパワハラ行為を是認していたフシさえ感じられます。

 

ここだけを見ても「運転手を過労運転から守る為の給与差し引き」などという言い訳は、怪しげな法解釈を隠れ蓑にした悪質な搾取行為であった可能性が高いというものです。

 

そうして散々尻を叩かれ一生懸命稼いだとしても、上の赤文字で書かれているようなインチキをされるワケですから、もうドライバーの身からすれば、全然稼いだ甲斐がありません。

 

……そんな出鱈目な法解釈や歪な慣習から生みだされたルールが今回の最高裁判決をもって、初めて司法により「完全に違法ですよ」と認定されたのです。


 

この裁判は確定までに8年と実に長いものとなりました。逆を言えば、ここまでの長く険しい裁判を戦わなければ運輸業の残業代に関わる違法性を立証できなかった、という事でもあります。まあ、その位に事業者側のモラル任せで、法的にあやふやで未解決の領域が広いという事なのです。

 

こういったハードな戦いは普通の人では到底出来る事ではありません。この長丁場を戦い続けたドライバー氏の信念には本当に感服させられます。裁判後の記者会見で、原告のドライバー氏は感極まって男泣きに泣いてみせたとのこと。本当にお疲れさまでした。

 

 

 

 

 

 

 

運輸業の高齢化と人手不足は昨日今日に始まったものではありませんが、実は若者が一切入ってこないという訳ではありません。これは飽くまでも私個人の観測範囲での話でしかありませんが、実は内勤者、具体的には事務職や配送指示のようなオペレーティングに関わる仕事に関しては、チョロチョロと20~30代の若い層が入ってきております。

 

まあ、今の若い方たちはホワイトカラー志向でありますから、やはりデスクワーク希望者が多い。また、これも私個人が見知っている範囲ではありますが、こういった内勤者は概ね一日当たり8~9時間労働、どんなに長くても精々10時間労働に収まる事が多い。

 

例えばドライバーの労働条件に関わるルール……給与にせよ拘束時間にせよ、ですが、何処までが違法なのか曖昧な領域が広く、極端な話、事業者の腹一つで何とでもなる事が多いのに対して、こういった内勤者に見られるホワイトカラー的な仕事は、法的にカッチリと給与や労働時間に関わるルールが定まっている事が多く、そもそも長時間拘束がしづらいという背景があります。

 

多くの内勤希望者の思う所というのは、「この際、固定給であれば貰える給与は安めでも良い。何よりも決まった時間から時間に働ける仕事をしたい」といった感じではないでしょうか。そして昨今の高学歴化とそれに伴うブルーカラーの地位低下が、こういった認識にますます拍車をかけます。

 

この「ホワイトカラー的な仕事をしたがる人は年々割合として増えているが、逆にそれを下支えする現場の労働者が減っている」という現象は国内の様々な産業で見られ、それは運輸業でも同様だという事です。ハッキリ言ってこれに対する処方箋と言えるものは現状無さそうであります、残念ながら。