荒磯に立つ一竿子

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315話 乙姫様とのランデブー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この夏から秋にかけて、広島では養殖のカキが大量死して、一部の地域では8~9割のカキが死滅するという深刻な事態に直面しているという。特に東広島から呉にかけてはそれが顕著だという。
つい最近、こんなウエブニュースを目にしたが、このニュースに触発されて、この先、カキフライや生ガキが食べられなくなるかもしれない。天井知らずに値上がりしたら大変なことになる。だから、今のうちに腹いっぱい食べておこうなんて、慌てているご仁もきっといるに違いない。

 

深刻なのは広島のカキだけではない。海水温の高止まりと高塩分化、それに磯焼けという海底の砂漠化で、三宅島でもメジナがさっぱり釣れなくなってしまった。また、海底だけが荒廃したのではなく、その影響は陸上にまで及んでいる。7~8年前までは、海辺の岩場や周辺の森にうるさいほどいた、カラスやカモメが劇的に減少してしまった。

荒磯に魚がいなくなったせいで、小魚や水生動物を常食にしていたカラスやカモメまで激減してしまったのだ。海と山をつなぐ食物連鎖が断たれてしまったからだ。

これは一大事である。釣り師なら、釣れない釣れないと騒いでいれば済むことだが、カモメやカラスたちにとっては生死に関わる問題なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


というわけで、わいは連絡船橘丸に乗って、二泊三日の行程で三宅島にやってきた。

早朝5時、連絡船の照明と岸壁の照明が届くところ以外、まだ漆黒の闇に包まれている三池港の岸壁に橘丸が接岸すると、わずか40人足らずの下船客の一人として、わいはタラップを踏んで岸壁に降り立った。三池港はすっかり寂れてしまったが、40年ほど前までは三宅島の玄関として賑わいに賑わっていたのだ。
岸壁に降り立ったわいは、100mほど離れた港の駐車場に向かって歩きだした。そこで待っていた薄木荘の軽ワゴンに乗り込むと、挨拶もそこそこに、ご主人、最近メジナは釣れていますかと尋ねてみた。

「相変わらずパッとしませんねえ。」「先週、坪田漁港の岸壁で夕方から釣ってみましたが、
メジナが1匹出ただけでした。有望な釣り場に入ると、どこに入ってもサメが出てくるので、
魚が掛かってもサメに引ったくられてしまうだけで釣れません。」とまったく予想どおりの返答が返ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20分ほど走って薄木荘の敷地に到着すると、ご主人は、車はこの車を使ってくださいと
言いながら、外したキーをダッシュボードに置いてくれた。部屋はいつもの部屋を使ってくださいと言うので、リュックを担いて゛部屋に向かって歩き出すと、食堂のガラス戸の前にノラちゃんが5匹ほど屯していた。つい先日、来島した時には10匹くらいいたはずなのに、今朝はノラちゃん少ないね。どうしたの。旅行にでも行ってるのかなと訊いてみると、

ご主人は「一周道路に出て車に轢かれてしまったり、クロネコヤマトの荷物室に入りこんで帰れなくなったりして、減っちゃったんですよ。」といいながら、オキアミはそこに溶かしてありますからと肝心なことは言い忘れなかった。


民宿薄木荘は、築60年ほどたった木造二階建ての昭和の建物で、客室は古い障子と色褪せた襖で仕切られていた。一階と二階にそれぞれ4部屋づつあって、しめて8部屋あった。三宅島が隆盛を極めた40年前、50年前には週末はいつも満室で、明日泊めてほしいと電話をしても、いつも満室ですと断わられていた。

また、40年前の噴火の時も、25年前の大噴火の時も、溶岩流や火砕流の流路から少し外れて焼失を免れていた。しかし、わいが宿泊したその日の客はわいただ一人、薄木荘の栄華はその昔のむかし話となって、幸運の女神から見離されてしまったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


わいは部屋に入ると釣り装束にさっさと着替えて、帽子にキャップランプを装着して50メートルほど離れた農業倉庫の物置に向かった。物置には磯靴やバッカン、ライフジャケットなど嵩張るものが預けてある。東の空は少しづつ青みがかってきたが、まだ木立の下や倉庫の中は闇に包まれて真っ暗である。30分ほどかけて出発の準備が整うと、食堂に立ち寄って、これからツルネに向けて出発しますとお茶を飲んでいるご主人に声を掛けた。

すると、「そうですか。ツルネは崖を降りたり、溶岩の起伏を昇ったり降りたりするところだから、転んだり落ちたりしないように注意してください。」と心配してくれた。

 

わいがツルネに入るのはほぼ25年ぶりである。雄山の2000年の噴火以前は、大好きな釣り場のひとつとして、三宅島に来たら必ず入る荒磯だった。

それがあの大噴火以来、巨大岩石の崩落や地盤沈下、噴石の飛来などですっかり地形も様相も変わってしまって磯釣りに不向きな磯になってしまった。

ところが最近、波浪の浸食などで少しづつ地形が変容して釣りができる場所が出来たらしい。だから、今回は久しぶりに思い出の釣り場に入ることにしたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

ツルネに下る崖の上の木の間から、眼下の磯を見下ろすと1か所だけ釣りが出来そうな場所があった。崖の上からその場所まで、ほんの50メートルもなかったが、荷物を担いで辿り着くまで40分ほどかかった。わいは慎重に歩を運んだので全身汗だくになっていた。
釣り座を決めて、釣りの仕掛けを作り、コマセのオキアミを撒いていざ竿を出したのはそれから30分もたった頃だった。

25年ぶりに再会したツルネとの感動の物語が今まさに始まろうとしているのだ。このワクワク感ドキドキ感はもう堪らない。子供の頃の、は~やくこいこいお正月である。
 

ところが期待とは裏腹に、いくら待ってもアタリはない。7時過ぎから竿を出して3時間、こつりともアタリはないのだ。ウキ下を変えたり、ウキを変えたり、打ち込む場所を変えたり、あらゆることを試してみたが一向に効果はない。

そして4時間ほど経過した頃、やっと初めてのアタリがあった。しかし、釣れたのは15センチ足らずのベラだった。その後、いくらか魚の活性は出てきたが、釣れてくるのは手の平サイズの雑魚ばかり。そんな苦戦を午後2時ごろまで繰り返して、ついにギブアップ。撤収することにした。今日は完璧に潮が悪すぎた。


先年、89才で鬼籍に入ってしまった光明丸の船長がよく言っていた。

キンメ漁から戻った船長に、「船長、今日はどうだった。釣れたの。」と聞いてみると、

「だめだー。真っ暗い内から昼近くまでやったけど、3匹しか釣れなかったよぉ。」

ええーっ、船長でも釣れないことがあるんだなあと冷やかしてやると、
「バカヤロー、潮がわりいときゃあなあ、誰がやっても釣れねえんだよぉ。」

そういう時は早く引き上げるんだよぉとよく言われたものだ。それを思い出して、一度釣り宿に撤収して、一休みしてから夜釣りに賭けることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕方、夕食を早めに作ってもらって夜釣りに出かけることにした。釣り場所も日中と180
度転換して、島の反対側の伊豆岬を狙うことにした。
19時頃、わいは伊豆岬の崖下の磯に入っていた。空には薄い雲がかかって、雲間から
いくつもの小さな星が瞬いていた。遥かな沖には漁船の漁火がひときわ明るく輝いていた。風も落ちて波もない。夜釣りにはもってこいの晩であった。


果たして、今夜はどんな出会いがあるだろうか。初恋の人との出会いなのか。はたまた憧れのマドンナなのか。胸躍らせて赤い電気ウキの仕掛けを打ち込むと、電気ウキは潮に乗ってゆらゆらと流れていたが、突然、動きが停まってスーッと引き込まれて行った。幸先よしと竿を合わせると、ばかに軽すぎる。
なんだこりゃあ、外道のスズメダイじゃないか。次もまたスズメダイ、またスズメダイ。またまたスズメダイのオンパレード。スズメダイのいないところに投げなければと、相当離れた場所に打ち込んでみたら、またすぐにアタリがあった。ところが、そのアタリは外道のダツだった。ダツはサヨリを巨大化したような魚で、太くて細長くて50センチ以上もある。何より嫌なのは、細長い口にのこぎり状の歯が無数にあって、釣り針を呑み込んでしまう始末の悪い魚なのだ。
こんなお邪魔虫に付き合わされたらたまったものではない。しかし、たまにはこんな不運もあるものなのだ。
今回は疫病神に付き纏われてしまったが、次回は乙姫様と出会ったり、ランデブーだってないことではないからね。























 

314話 取り越し苦労でよかったよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリピンの東方海上で発生した台風25号は、巨大で猛烈な勢力に発達してレイテ島を直撃し、大雨による洪水で川沿いのバラックはことごとく濁流に押し流されてしまった。

同時に、バラック住まいの貧しい住民300人以上が濁流に呑まれて溺死、行方不明になるという甚大な被害が発生したそうだ。その後、同台風は南シナ海からカムラン湾方面に向かって進み、ベトナムやタイにも深い爪痕を残したという。


その直後に東シナ海で発生した低気圧は、急速に発達して爆弾低気圧に成長し、本州南岸を北上して大雨を降らせて東方海上に消え去った。幸いにも、こちらの被害は最小限にとどまったが、疫病神がふたつ消えてくれたおかげで、大しけだった伊豆諸島の海も波風が収まって束の間の平安が訪れた。
この機会を逃してなるものか。わいにとっては半年ぶりのチャンスである。しかも、海水温は平年値を下回って20度台に低下している。たぶん、伊豆大島のメジナやイサキは、腹を減らしてオキアミが天から降ってくるのを待っているはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


早速、釣り宿おくやま荘に電話を入れてみると、呼び出し音は鳴っているもののまるで応答がない。釣り宿の固定電話に電話をすれば、おばさんのスマホにも自動転送されるはずだから、庭先でも外出先でも、どこでも応答はできるはずなのだ。

それが何度掛け直しても応答がない。なぜだ。わいの脳裏に一抹の不安がよぎった。

おばさんは本年1月、60年余り連れ添ったご主人を亡くして、すごく落ち込んでいた。

そればかりか、これまで集落の卓球同好会のリーダーとして活躍していたのに、今では、飛び跳ねるどころか足を引き摺って歩くほど不自由になってしまった。


もしかして、足の具合が悪化して入院でもしているのだろうか。体調が思わしくなくて釣り宿を畳んでしまったのか。はたまた、孤独死してしまっていまだ未発見とか。

想像すればするほど不安要素がありすぎて、どんどん悪い方向に膨らんでいく。82歳という年齢を考えれば、一人で釣り宿を続けていくのは無理だったかもしれない。


船長の死とともに釣り宿を畳んでしまった三宅島の光明丸に続いて、おくやま荘まで廃業してしまうとは、危惧していたことが現実になってしまったのだ。不運不幸の連続にわいは暗澹として言葉を失ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいがパソコンの前で呆然自失して思考停止していると、リビングの電話が突然、鳴り出した。受話器を取り上げると、まさか、まさかのおばさんの声。おばさんは生きていたのだ。


「ナカムラさん、今、菜園から戻ったところ、電話が入ってたから、すぐに折り返して掛けたんだよ。菜園 ? 菜園の野菜はねえ、ナスでもきゅうりでも、油断してるとみんなキョンに食われちゃうんだよぉ。大島の人口よりキョンの方が多いっていうからね。」
なんだ、おばさんは菜園に行ってたのか。取り越し苦労もいいところだった。


おばさんの電話の声はすごく元気だね。顔が見えないから、20才ぐらい若く聞こえるよ。

ところで、おばさんの足の具合はいかがですか。まだ、卓球はしているのと尋ねてみると、

「あたしゃ、口だけは達者だよ。」「今でも、卓球の開催日には必ず行くけれど、ボンドで足が床にくっついちゃって離れないんだよ。だから、案山子みたいに突っ立って卓球をやってるんだよ。」
ハハハハハ、それでも卓球をやれるだけいいですよ。ところで、来週、釣りに行きたいんだ
けど、おくやま荘の都合はいかがですか。
「ちょっと待ってね。メモ見るから、」「来週のいつ頃、ああ、水曜日の朝のジェット船で来
るのね。その日なら大丈夫。お待ちしてます。じゃあね~。」


という訳で電話は3分ほどで終わったが、不運は長く続くものではないようだ。ひとり相
撲を取って、ハラハラドキドキしたけれど、取り越し苦労に終わってほんとうによかった。
























 

313話 おかちゃんは逆境に強かった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本日の大島の天気をリアルタイムで検索してみると、今日も海は荒れていた。
遥か十数年前のその日も、大島の海は荒れに荒れていた。前日の気象予報で、明日は低気圧が発達しながら本州の南岸を通過するから海は大荒れだと言っていたが、当時の予報はコンピューターの解析精度も低く、的中するもしないも、当たるも八卦、当たらぬも八卦だったから、いつも通り外れてくれればありがたいという願望のもと、前夜遅く、竹芝桟橋から連絡船に乗り込んだのだ。しかし、大島に上陸するやいなや、その期待と願望は見事に打ち砕かれた。


どんよりとした鉛色の雲が垂れ込めた三原山はまったく姿を見せず、朝から霙交じりの冷たい雨が岸壁を叩いていた。加えて、季節風はゴーゴーと吹き荒れて、三原山の山腹から海になだれ込む急斜面の原生林を大きく揺すっていた。アゲンストの風をまともに受けたら釣りにならないと考えて、風裏に当たる三原山東側の山裾の磯に入磯したが、朝から昼、そして10時間以上も経過した夕刻になっても、こつりともアタリは出なかった。

というより、荒波と強風を受けて竿は風下に向かって大きくしなり、道糸もたわんで吹き流されて糸ふけし、仕掛けを前方に飛ばすことすらままならなかった。加えて、撒き餌のオキアミも風下に吹き流されるばかりで、前方には打ち込めず、まったく釣りにならなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その上、長時間寒風に晒されたわいは、ミイラのように冷え切って硬直していた。それでも怯むことなく、待てば海路の日和かなと僥倖を期待して、荒磯が闇に包まれてからも釣り続けた。

それから数時間が経った深夜10時ごろ、僥倖どころか、突然、突風が吹き始めた。

その突風に煽られてバランスを崩し、あわや落水寸前の危機を迎えたのだ。

そこまで行ってやっと気づいた。もし、ここで死んだら犬死ではないか。いくら大自然に逆らっても、こんな大しけに魚は釣れはしないのだ。今夜は観念して引き揚げた方がよさそうだ。そう思い始めた途端、一刻も早く釣り宿に戻りたくなった。鳴海荘に戻れば、温かい風呂がある。冷え切った身体を温めて、熱いお茶を飲みたいという欲求がむらむらと膨らんだ。もう、矢も楯も堪らなかった。

 

わいは疲れ切って鳴海荘に戻ったが、風呂に入る前にやるべきことがあった。まず、お世話になった釣り道具の手入れをしておかねばならない。中庭の洗い場で潮を浴びた竿や汚れたバッカンを洗い終わったところで、深夜0時になっていた。

やっと風呂に入れるとほっとしていると、笹竹の間の進入路にヘッドライトの光がチラチラ見えて、エンジンの音が鳴り響いた。魑魅魍魎の跋扈するこんな時刻にどこのどいつだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とヘッドライトの眩しさを手をかざして遮ると、運転席のドアが開いて、

「あらっ、一竿子さん来てたんだ。」と声が掛かった。

おかちゃんという同年輩の釣り師だった。おかちゃんは数少ない鳴海荘の常連である。
「なんだ、おかちゃんだったのか。鳴海荘のお客はわいだけかと思っていたら、おかちゃんも来ていたのか。いつ来たの。」「わいはさっき荒磯から戻ってきたんだけれど、強風と大しけと寒さで何にも釣れなかったよ。波しぶきを浴びただけの、くたびれもうけだった。おかちゃんも釣りにならなかったでしょう。」と訊いてみると、
「わたしは岡田港近くの強風を遮る高い防波堤の内側で、テトラポットと岸壁の間の狭い水路で釣っていたよ。」 あんなところで釣ってたの。あそこは絶対釣れないよね。それはそれはお疲れさまと労ってやると、
「一竿子さん、今日はあそこしか釣るところはないよ。普段は釣れないけれど、こんな大しけの時には釣れるんだ。メジナとイサキが数出たよ。」

ええ、あんなところで釣れたの。ちょっと見せてくれるとクーラーをのぞき込むと、大型のメジナとイサキがいっぱい入っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 
わいとおかちゃんは特別親しかったわけではない。二人とも単独行の一匹狼だったのでなんとなく親近感はあったが、真夜中に帰投した時とか朝飯の時に顔を合わせて、昨日はどうだったと話す程度の顔見知りだった。

鳴海荘で出会って10年以上たつが、出会い初めの頃は、頭髪が薄くて色黒で、小柄で貧相なおかちゃんのことを、下手の横好き程度のビギナーだろうと舐めてかかっていた。

しかし、見かけとは裏腹に強靭な意思と体力の持ち主で、クレバーな釣り師だった。

真っ暗闇の大しけの海で波しぶきを被りながら平然と竿が出せるなんてただ者ではない。

釣り師としての度胸も根性もあって、技量もわいの数段上をいくリスペクトすべき人物であった。

 

その頃、鳴海荘のご主人から聞いた話では、おかちゃんは世田谷の方で奥さんと小さなスナックをやっていたそうだ。その奥さんがその頃他界してしまったので、スナックはやめてしまったと聞いたが、それ以上のことは知らなかった。また、知ろうとも思わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この話よりもっと前の18年ほど前、たまたま朝飯がおかちゃんと一緒になった時である。

ご主人が、わいのお膳に納豆とアジの干物を載せて出してくれたが、おかちゃんのお膳にはアジの干物がなかった。わいがおかちゃんに、ご主人忘れているんだよ。お~い、ご主人、おかちゃんのお膳にアジの干物がないよ、と声を掛けると、おかちゃんは、
「私は魚を食べないんです。子供の頃、魚に当たって七転八倒の苦しみを味わってから、それ以来、魚が食べられなくなったんです。ただ、塩鮭だけは食べられます。」
と述懐してくれたので、そうだったの、だけど、いつもクーラーに一杯魚を釣って持ち帰っているよね。それはペットのエサにでもしているのと疑問を呈してみると、
「いや、魚好きの友達に上げたり、行きつけの居酒屋に持っていってやるんですよ。」

そうすると大喜びでビールや焼き鳥をただにしてくれるんですよ。バーターですね。

そんな話はしたことがあるが、その他についてはほとんど何も知らなかった。


おかちゃんと出会ったあの鳴海荘は人手に渡って、今は取り壊されてしまった。お世話になったご主人も音信もなくなって今はどうしているのやら。歳月は足早に過ぎてしまったが、おかちゃんはまだ釣りをしているのだろうか。もし、どこかで出会ったら、そんな嬉しいことはないのだが、そんな偶然はありえないだろうな。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

312話 イワナと命を秤にかけりゃ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸か不幸か、わいは団塊世代の妖怪のひとりである。団塊世代のあまたの妖怪は厳しい生存競争の坩堝に投げ込まれて、気を抜いたら地獄を看るし、落伍したら這い上がれない瀬戸際を生き抜いてきたのである。
ともかく当時、人口が爆発的に増加して日本列島はパンク寸前になっていた。その頃、中学校ひとつとってみても、ベビーブームによる生徒急増のあおりを受けて、深刻な教室不足と教員不足に見舞われていた。わいの通っていた田舎町の中学校では、3年生の一学年だけで350人もいて、一クラス50人ほどの定員でA組~G組まで7クラスもあった。

 

 

さて、記憶を溯ること60年以上も昔、その頃はまだわいも紅顔の美少年であったが、中学3年に進級した丁度その時、福島大学を卒業したばかりの元気のいい青年がわいのクラスの担任として着任した。先生というより、イメージ的にはまだ、大学生の延長線上にあって、兄貴分とかガキ大将と呼ぶ方がふさわしかった。

本職は体操の教師だったが、教員不足の折から、英語や社会なども教えていた。着任当時、福島訛りが酷かったので、先生の教える英語はフグスマ弁だから、フグスマでしか使えないよと笑っていたら、それをしっかり憶えていて、「おまえはあの時、おれをばかにしたろう。」と今でも追及されるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


高校に進学してからは、先生の宿直時に、一時期、校舎や宿直室で夜の夜中まで入り浸って遊んでいた。その頃、先生はまだ独身で暇を持て余していたし、金もなかったので、他の先生が嫌がる宿直当番を、頼まれれば二つ返事で替わってやっていたそうだ。

「アパートに帰ってもやることはないし、宿直をすれば3000円の宿直手当がつくから。」と喜んで替わったそうだ。たぶん、1か月の内、半分以上は先生が宿直をしていたはずだ。


わいが社会人になってからは音信もなくなり交流も途絶えてしまったが、30年ほど前、中学3年時の同級会が催されたのを機に交流が再開された。
先生はわいの住まいから20キロほど離れた山間の住宅地に居を構えていると知ったので、それ以降は時々、中間地点にあるローカル線の駅前で落ち合って話をしたり、釣れた魚を届けたりしていた。

 

その先生と2週間前、ガストというファミレスで落ち合って、コーヒーカップを片手に2時間ほどお喋りをした。

待ち合わせた時刻は午後1時だったが、早めに行って待っていると、ガラス扉の向こう側をそれらしい影が歩いてきた。先生とは4か月ぶりの対面だったが、以前のような溌溂とした面影は影を潜めて、会うたびに髪の毛が薄くなって、あばただらけの八十代の老人になっていた。わいの姿を認めた先生は笑顔になって、シートに腰を下ろすやいなや開口一番「おまえは最近釣りに行っていないのか。」と尋ねてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この5月以降、先生には小メジナ1匹届けていない。

諸条件が思わしくないので、ぜんぜん行ってないですよ。真夏の荒磯は日差しが強烈だし海水温が高すぎる。それに、三宅島の船長は他界してしまったし、娘はすぐに釣り宿を畳んでしまった。大島ではおくやま荘のご主人が亡くなってしまい、おばさんは足腰が悪くなって思うように動けない。このごろは逆境の真っただ中ですね。それでも、海水温が下がってきたらまた出かけます。釣れたら持って行きますから、待っていてください。


「そうか、そういえば、三宅島の船長が死んじまったといつだったか言ってたな。」と先生、「おれは、定年退職した後輩から渓流釣りを教えてくれと頼まれているので、イワナを釣りに奥多摩に行こうと準備をしていたんだけれど、ここのところ毎日のように釣り人がクマに襲われているんだよな。」


先週もおれの家の近くでクマが出たそうだし、家内は危ないからやめてと引き留めるし、後輩は後輩で、数年前、奥鬼怒の源流に二人でイワナ釣りに行った時、気が付いたら、後輩の後ろからクマが追いかけてきたんだよ。それに気づいたおれが、「熊だーっ、熊だーっ、熊だーっ、」と大声で叫んだら、後輩はびっくりして転んでしまい、熊の方もびっくりして、断崖絶壁をスルスル登って逃げてくれたから、何事もなく終わったけれど、それを思い出して後輩は、今は怖いから勘弁してくれと言うしで、今回はクマが引っ込むまで延期しようかと思っているんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


先生がガストのメニューを見ながら、おまえは何を注文すると訊くので、ドリンクバーとポテトチップでいいかな。それから先はまた考えましょうと話しながらタブレットで注文すると、暫くしてロボットがポテトチップを運んできてくれた。わいはコーヒーを片手にまた話し始めた。

 

そうだよね、先生、自重した方がいいよ。たとえ尺イワナが釣れたとしても、熊に襲われて命を落としてしまったら元も子もないからね。2年前、北海道の北の外れ朱鞠内湖で、イトウ釣りをしていた釣り人がヒグマに襲われて食われてしまったけれど、ヒグマは食い残した遺体を土の中に埋めて、それをまた、掘り起こして食うらしいよね。

釣り人の遺体は首も手足もバラバラになって原型をとどめていなかったそうですよ。先生も気を付けた方がいいよ。


「心配するな。おれはな、奥鬼怒の源流でクマに追いかけられて以来、クマ除けのアイテム、5つ道具をいつも持って渓流に入ってるんだよ。」
一つ目はクマを撃退するスプレー、二つ目はサバイバルナイフ、三つ目はクマ除けの鈴、四つ目はホイッスル、最後に爆竹だ。爆竹はバチッバチッバチッ、ともの凄い爆発音がするから、クマは恐れをなして近づかないだろう。それを30分ごとに鳴らすことにしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、鈴とホイッスルは効果のほどは分からないけど持っていく。山梨の山奥で泊まった釣り宿の親父は、鈴とかホイッスルなんて役に立たねえよと言っていたけどね。

サバイバルナイフはクマに襲われて逃げ場がなくなった時、最後の格闘に使うつもりだ。
クマ撃退スプレーは1本12000円~15000円もして高いけれど、試しに実験したら効果はありそうだった。唐辛子の主成分カプサイシンを高圧ガスで噴射してクマの目や鼻を攻撃するんだ。距離にして10メートルは飛ぶし、刺激が強烈だから目を開けていられない。また、呼吸困難にもなるようだ。以前、自宅の裏庭で実験したら、効果抜群だったよ。

 

ええっ、ご自宅の裏庭にはクマはいないでしょう。それなのに何で効果抜群て分かるの? と疑問を呈すると、


それはな、おれが裏庭でスプレーの噴射実験をしてから、しばらくして家の中に入ってみると、かみさんがいなくなってしまったんだ。変だなと思って探してみたら、トイレのドアの前で気絶していたんだ。びっくりしてリビングで介抱してやると、かみさんは正気に戻って、トイレの下側にある掃き出し口から霧状の変な空気が侵入してきて、それを吸い込んだ途端、気絶してしまったそうだ。
噴射テストをしているとき、掃き出し口の小窓が開いていて、スプレーの噴霧ガスが侵入したようだ。家内には気の毒だったが、人間が失神するほどの効果はあったわけだよ。





















 

 


 

3 11話 三線の音はもう聞こえない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数日前の猛烈に暑かった日の昼前、わいは炎天下の堤防天端の道を、一杯のコーヒーを
求めてカフェコモドに向かって歩いていた。

コモドまでの道のりは片道3キロ、40分ほどで到着するが、流れる汗を拭いながらテーブルにつくと、クーラーの風が火照った体を心地よく冷やしてくれる。

マスターがテーブルに置いてくれた冷水を飲み干して、アイスコーヒーを注文するのが一連の手順であるが、そのあとはいつも、毒にも薬にもならない話に花を咲かせるのだ。
 

わいのコモド詣では火曜日と土曜日の週二回、それがいつの間にかルーティンワークになってしまった。とは言え、炎天下の徒歩6キロはさすがにしんどい。

徒歩6キロに要する時間は1時間20分、その間、直射日光に晒されるから、わいは麦わら帽子を被り、日傘をさすという炎天対策をとっているが、麦わら帽子と日傘では強烈な日差しには対抗できない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸いにも、小畔川の堤防には所々に桜並木があって、その木陰を選んで歩ければ結構涼しいが、桜並木が途切れると、道の両側から生い茂る夏草とアスファルトから立ち昇る熱気で、突如、高温のサウナ風呂に叩き込まれたような炎熱地獄に落とし込まれる。
両側から繁茂する夏草で肩幅ほどに狭まった路面が、まるでフライパンのように焼き付いて、路面の熱がゴム草履を貫いて足の裏にじかに伝わってくる。立ち昇る熱気と夏草にこもった熱風で首筋がひりひりする。ここは速やかに脱出しないと危険である。命すら落としかねない。


ところが、前方に目をやると、青緑色の小さな毛虫が灼熱のアスファルトの上を、まさに横断しようとしていたのだ。その毛虫は赤ちゃんの小指ほどの可愛らしさだったが、なぜ、炎天下に熱波の路面を横断しようとしているのか。人間から見れば自殺行為にも見えるが、毛虫にもそれなりの言い分があるかもしれない。

早く渡らないと死んでしまうぞと暫し見守っていたが、毛虫の歩みは遅々として進まない。
おまけに、路面の熱さに耐えかねて、数センチ進むたびにゴロンゴロンと回転して接地箇所を替えていた。毛虫にとっても死ぬほど熱いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ひょっとして、この毛虫はエリートなのかもしれない。火渡りをする山伏を真似ているのか。はたまた植村直己並みの冒険家か。植村直己はマッキンリーの氷河で死んだが、この毛虫は灼熱の路面で死ぬことになる。それはかわいそうである。わいはススキの茎を折り取って、毛虫をつまんで夏草の中に放り込んでやった。


そんな炎熱街道を抜けて10分ほど歩くと、小畔川を跨ぐ県道に金堀橋という橋が掛かっている。そこを渡ってカフェコモドに向かうのだが、橋の上から川面を見下ろすと、時々、
コイが何匹も泳いでいたりする。今日はどうかなと見下ろしてみると、コイは見えなかったが、橋の真ん中あたりでふと5年前のことを思い出した。
5年前といえば、新型コロナが蔓延し、パンデミックで世界中が震撼していた時期である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



それはカフェコモドからの帰り道だった。コモド側の堤防天端の道を歩いていると、どこからともなく哀調を帯びた沖縄民謡と三線(サンシン)の音が聞こえてきた。誰かが沖縄民謡を歌っているのだ。その音源がどこかは分からなかった。そのまま橋に向かって歩いて行って、県道を横切って向こう側の橋のたもとに来ると、歌声と三線の音が急に高まった。

どうやら音源はこの橋の下にあるらしい。夏草が茂る堤防の斜面にはオンボロ自転車が横倒しになっていた。


わいは興味をそそられて、夏草を分けて堤防を降ってみると、日陰になる橋桁下の、流れの岸の護岸ブロックに腰をかけて、瘦身の青年が三線を弾きながら歌っていた。

背後から、こんにちはと声を掛けると、青年は驚いたように振り向いてくれた。
「あなたの歌を聞かせてもらっていいですか。」と断りを入れると、
「下手な歌ですけれど、どうぞ、どうぞ。」と快諾してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


沖縄民謡は独特の節回しと哀調を帯びた旋律で、歌の意味はまったく分からないが何故かこころを揺さぶられる。青年が何曲かつづけて歌ってくれたので、わいが本場の歌を聴かせてくれてありがとうと礼を言うと、青年は恐縮して、お聞かせするような歌ではありませんがと謙遜した。

 

聞けば、青年は沖縄から出てきた東洋大学の学生で、すぐ近くの東洋大学のキャンパスに通っているが、大学の正門近くにある居酒屋でアルバイトをしているという。

しかし、新型コロナの蔓延のせいで居酒屋は開店休業状態に陥って、アルバイトがほとんど出来なくなってしまった。暇になってしまったので、故郷の沖縄を思い出して歌っているのですと言っていた。


あれから5年が過ぎ去った。橋の下で三線を弾きながら歌ってくれたあの青年、今はどう
しているだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

310話 ウイスキーはお好きでしょ ♪♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バーのママからカウンター越しに、「ウイスキーはお好きでしょ。」と言われても、特別、好きでも嫌いでもないよとわいは答えるだろう。このところ、ウイスキーを飲む機会がほとんどなくなって、ここ20年ほど、ウイスキーとは縁が切れてしまった。たまに飲むとすればビールか缶酎ハイである。

 

ただ、サントリー角のCMに登場する井川遥のような上品で雰囲気のある女性から、ウイスキーはお好きでしょなんて言われたら、はい、好きです、好きです、大好きですと答えるだろう。

井川遥のような上品で色気のある女性からカウンター越しにウインクでもされたら、ほとんどの男はイチコロで虜にされてしまうだろう。その井川遥がサントリー角のCMを降板してしまうという残念なニュースがネット上に流れていた。

 


サントリーウイスキーと言えば、60年ほど前のあの頃が全盛時代であったかもしれない。あの頃、サントリーウイスキーの宣伝部には開高健という異才が君臨し、独特のセンスとアイデアで新たなウイスキー文化を作ろうとアピールしていた。いわば、ウイスキー文化とステイタスシンボルの世界へ庶民を誘い、憧憬を煽っていたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

ダンダンディーダダ、ダダッタ、ダディードゥダダダー ♪♪


さて、このCMを憶えているだろうか。小林亜星が作詞作曲したサントリーオールドのCMソングで、一時期、テレビと茶の間を夜毎席巻していたのである。

 

確かその当時、サントリーは寿屋とかトリスとか言っていたが、急速なテレビの普及と相まって、オシャレかつ小粋なCMをテレビで流してウイスキー党にアピールしていた。

ウイスキーを飲めば贅沢な気分にさせてくれるし、あまつさえ、上流階級になったような
気分にもさせてくれる。たぶん、麻薬効果もあったかもしれない。
二級酒や焼酎に甘んじていた貧困層の渇望や上昇志向を刺激して、派手に売り上げを伸ばしていたのだ。あの頃、夜毎ウイスキーが飲めるのは、ごく限られた一握りの人種でしかなかった。



唐突に開高健を引っ張り出してきたが、それには曰く因縁、深い訳があったのだ。

彼はサントリーに在籍時、宣伝部で多大な貢献をしたが、退職後は芥川賞を受賞し、作家としても名を馳せて数々の名作を残している。
なかんづく、冒険心が旺盛でシベリアやアラスカ、南米のアマゾンなど、世界各地を股にかけて釣り歩いて、「フィッシュオン」とか「オーパ」などの釣行記を書き上げた稀代の釣り好き人間だったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

話が横道にそれてしまったが、ウイスキーに話を戻そう。
いくら足搔いても、当時の貧しい勤め人や肉体労働者では高いウイスキーには手が出ない。だから、安月給の勤め人は二級酒を飲んでおだを上げていた。土方を筆頭とする日銭稼ぎの労働者は、焼酎でその日その日の憂さを晴らしていたが、何といっても安くて強くて呑みごたえがあるのが焼酎なのだ。

 


「土方殺すにゃ刃物はいらぬ。雨の三日も降ればよい。」という言葉があるが、土方に限らず大工や漁師などの日銭稼ぎは、雨が三日も降りつづければ稼ぐことが出来なくておまんまを食い上げてしまう、というぎりぎりの生活だったから、たとえ焼酎でも安酒でも飲めればいい方だったのである。
 

その頃、サントリーウイスキーにはランクがあって、最下位のレッドから、ホワイト、角、オールド、リザーブの順になっていた。オールドやリザーブとなると高価すぎて手が出せなかった。今でこそ安くなったがジョニ黒同様高嶺の花だったのである。

当時のサラリーマンの初任給は、概ね3万円か4万円程度だったから、ボトル1本で1万円もするジョニ黒なんて、バチアタリもいいところだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

309話 これは博物館行きの品ですね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

50年ほど前、ラブ・イズ・オーヴァー ♪♪ という歌謡曲が大流行したことがあったが、諸兄は憶えているだろうか。ラブ・イズ・オーヴァーとは「もう、愛は終わってしまったよ。」という意味らしいが、欧陽菲菲という台湾の歌手が、泣き叫ぶように歌っていたのを憶えている。その頃、まさに、磯釣りブームは全盛期を迎えていた。


時は下って、4年ほど前のお盆を過ぎた頃、三宅島を訪れる釣り客、観光客は最盛時の

100分の一ほどに激減していた。

加えて、その年の3月下旬、光明丸の船長はキンメ漁の最中に漁船上に倒れて、漁船とともに行方不明となり、漁師たちの必死の捜索によって発見、救出はされたものの時すでに遅く、意識不明のまま集中治療室で1か月余り、ついに他界してしまった。

娘のムツミは何の未練もなく、釣り宿光明丸を畳んでしまった。丁度その頃のことである。
 

ガキ大将みたいな船長と光明丸という拠点を喪ったわいは、暫くの間、虚脱状態に陥っていたが、磯釣りを続けるためには万やむを得ず、主戦場を三宅島から大島に移すことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大島での拠点はおくやま荘という大島で最も古い釣り宿で、60年にわたって老夫婦が手を取り合って営んできた。

おくやま荘にはこれまで何度もお世話になっていたが、15年ほど前まで、わいが定宿にしていたのは、岡田港から遠く離れた野田浜の鳴海荘という釣り宿であった。
しかし、鳴海荘は磯釣りブームの終焉とともに釣り客が激減し、一週間に数人しかお客が来ないほどの経営不振に見舞われていた。加えて、ご主人の高齢化と健康不安が重なって、溯ること15年前、ついに釣り宿を人手に渡さざるを得なくなってしまった。
ラブ・イズ・オーヴァーではなく、磯釣りブーム・イズ・オーヴァーによる失速と衰退で、釣り宿経営を断念せざるを得なかったのである。


 

その日の大島への渡島は、たしか、竹芝桟橋12:30発の高速ジェット船だった。高速ジェット船なら大島まで2時間足らずで行ってしまうのだ。

晩夏とはいえ、まだ日中の日差しは強烈で、じりじりと照り付けられたら大やけどをしたり、熱中症にもなりかねない。だから、釣り始めるのは日が傾いてくる日没前後からが丁度いいのだ。18時ごろから竿を出して、夜中の2時頃まで釣れれば十分である。

釣り宿には深夜3時頃に戻って、風呂に入って仮眠をとり、朝食を摂ったら大島10:30発の上りのジェット船で帰るというコースは、捨てがたくて魅力的なコースなのだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜、わいは大島の西磯ニツンバに入磯したが、海は穏やかだったし風がそこそこあったので、日が暮れてから襲ってくるやぶ蚊の群れも、腰に吊るした蚊取り線香ホルダーと虫除けスプレーをひと噴きしておけば苦にならなかった。飛翔力の弱いやぶ蚊は風に飛ばされてしまうから、ある程度風があると出てこないのだ。

しかし、そよりとも風の吹かない闇夜になるとやぶ蚊の天下である。どこに潜んでいたのか、黒い大きなやぶ蚊が大挙して襲ってくるのだ。

長袖シャツや長ズボンでも衣服の上からブスブス刺されてしまうのだ。素肌の露出部には防虫スプレーを噴射しておくが、瞼とか目の周辺、あるいは耳の穴や鼻の穴には噴射できないので刺されてしまう。油断して、口など開けようものなら口の中にまで飛び込んでくる。


というわけで、その晩の夜釣りは当初の目論見どおりイサキが数出た。メジナもそこそこだったが、欲を言えば大物が来て欲しかった。
おくやま荘に帰着したのは午前2時を回っていた。洗い場で道具を洗ったり、釣った魚をクーラーに入れなおして氷詰めしたりして一段落すると、風呂に入ってひと汗流し、真っ暗な食堂に電気をつけてテーブル上を見ると、焼き魚や煮物の皿が何枚か置かれていた。

その上に蝿帳がかけられていた。おばさんが前の晩に作った料理だから、冷えきって水気が飛んでパサパサになっているので、おいしくないのは承知していたが、それでも、ポットのお湯でお茶を淹れ、おかずをつまめば腹の足しにはなるからありがたい。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝、10時、出帆港の岡田港まで、おばさんに送ってもらって岸壁で待っていると、暫くしてジェット船が入港してきた。

東京からの下船客が降りきって、船員さんが乗船OKの合図を送ってきたのを契機に、わいは先頭を切ってタラップを上り始めた。背中にはリュック、左手にはロッドケース、そして右手に持った背負子には、釣った魚と目いっぱいの氷が入った重さ20キロ近いクーラーが載っていた。背負子には左右2か所に小さい車輪がついていた。クーラーはすこぶる重かったが、いくら重くてもタラップの上で車輪は使えない。


ジェット船内に入って、床に背負子を降ろしていざ車輪を使い始めると、通路が狭いうえに、座席の肘掛けが出っ張っているので上手く走らない。載せ方が悪かったのか、クーラーが傾いてしまってまっ直ぐに進まない。バランスが取れなくて全体が右に傾いて転びそうになったところで、船員さんが声を掛けてきた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お客様、お客様、これが落ちましたよ。」と言いながら船員さんが何かを手渡してくれた。

よく見たら、背負子についていた片方の車輪で、右側の車輪が車軸から脱落していたのだ。車輪を留めるピンが腐食していたらしい。
脱落した車輪を受け取った時、ひどく恥ずかしい思いをした。みっともないこと甚だしい。

自転車で公道を走っていて、突然、前輪が外れてしまったようなもので、公衆の面前で赤っ恥をかいてしまった。それでも、なんとか自宅には帰着できた。

 

 

それよりなにより、この車輪付きの背負子は地磯歩きの必需品なのだ。これがないと地磯釣りはできない。わいにとっては死活問題なのだ。
この背負子は15年前に買ったものだが、現在、同じ機能を持った製品はどこを探しても見当たらない。磯釣りブームが終焉し、釣り人が激減して商売にならないからだ。
だが、背負子を作ったメーカー自体は現存していた。スノーピーク社という山岳用品の専門メーカーであるが、
わいはそのスノーピークに修理ができるかどうか問い合わせてみることにした。しかし、スノーピークの本社や工場は新潟なのだ。

そこで、スノーピークの代理店でキャンプ用品を取り扱っている店が、15キロほど先の国道沿いにあることを思い出して、そこに行ってみることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その店で最初に出会った店員さんは、この背負子はすでに製造中止されているし、15年
も前の製品ですから、たぶん、修理は無理でしょうねと言われて埒が明かなかった。
おめおめと引き下がるわけにはいかないので、食い下がって、別の店員さんと話したら、

二階のフロントに修理が分かる人がいるから、行ってみたらと教えてくれた。

すぐに行ってみると、二階の店員さんは、偶然にもスノーピーク製品の担当者で、古いカタログを丁寧に調べてくれた。
そして、「製造中止にはなっていますが、確かにスノーピークの製品です。」「こんな古いものがまだ残っていたんですね。大切にお使いいただいていたんですね。ありがとうございます。この背負子はスノーピーク博物館に展示したいくらいです。」と感心しきりだった。

そして、直るか直らないか分かりませんが、この背負子を本社工場に送って調べてもらいます。それでよろしいでしょうかと申し出てくれた。


数日後に電話があって、同じホイールはもうありませんが、似たようなものならあるそうです。それでよろしければ修理させていただきますと嬉しい知らせが舞い込んできた。























 

308話 おどろ木ももの木、山椒の木

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、おどろ木の始まりは7月10日のことである。北海道東部沿岸の流し網漁で獲れたサンマの初水揚げが釧路港であったのが発端である。その時水揚げされたサンマは約170キロ余り、初競りで1キロ当たり25万円というバカ値がついた。 
そのサンマは即日、地元の鮮魚店の店頭に並べられたが、店頭価格はなんと1匹5万円という高値だった。サンマの大きさには大小あったらしいが、大きいので1匹170グラムほどというから、170グラムで5万円ということになる。ということは、マグロの大トロの値段をはるかに上回ってべらぼうな値段である。

こんな高値で買うお客なんて、果たして現れるものかと思っていたら、そのサンマを2匹も買って行く人が現れた。それを地元テレビが取材していた。

そのお客は中年の男性で余程裕福なのか、にこにこ笑いながら初物ですからね、刺身にして家族みんなで食べますよと言っていた。


かつて、サンマは大衆魚の代表といわれていた。例年なら1匹100円~150円程度で売
られているが、近年は海水温の上昇と乱獲によって漁獲量が壊滅的に激減し、大衆魚どころか高嶺の花になってしまった。もはや、貧乏人の口には入らない。間違って口にしよう
ものなら、口が曲がってしまうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



大衆魚といわれるサバやイワシもこれまでは腐るほど獲れた。サケやニシンも同様で、多くの漁師はこれらの魚はいくら獲っても無尽蔵に湧き出てくると思い込んでいたのである。
江戸時代のニシンの大漁時、獲れすぎたときは、捨てるのが勿体ないので綿花畑の肥やしにしたという話だ。

秋田のハタハタもしかり。50年ほど前はハタハタが獲れすぎて、トロ箱一杯が50円とか100円で叩き売られていたそうだが、獲れすぎたせいで、貧乏人はおろか、猫さえもそっぽを向いて跨いで通ったということから、別名「猫またぎ」と蔑まれていた。
30年ほど前は、ハタハタが産卵に来る海の荒れる初冬の季節に、2万~3万トンの漁獲があったそうだが、近年は100トンとか200トンのレベルに落ち込み、禁漁にせざるを得ないほどハタハタ資源が枯渇してしまった。価格も目指しのような小さい丸干しが200円とか300円に高騰して、まるっきり高級魚になってしまった。トロ箱1杯で100円の時代があったなんて漁師すら覚えていないだろう。


なんにでも言えることだが、河原の石ころのように、いくらでもあって容易に手に入るものは誰も欲しがらない。少ししかなくてみんなが欲しがれば、大したものでなくても、法外な値段になってしまう。これは希少価値の法則だよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ついでに言及しておくが、現代日本人はマグロが大好きだが、マグロの大トロは江戸時代、ノラ犬も食わなかったそうだ。なんとマグロは「下魚」と蔑まれるほど価値の低い魚だったのだ。
その理由は、マグロは体温が高いので劣化が早く、すぐに鮮度が落ちてしまうのだ。水揚
げされたマグロが漁場から魚河岸に運ばれる間にたちまち腐りかかってしまうから商品として流通しなかったのだ。マグロが日常的に食べられるようになったのは江戸時代も後期からだという。この頃、しょうゆの醸造が本格化して、マグロの赤身を溜まりしょうゆに漬けたいわゆるヅケが考案されたのだが、ヅケは傷みや腐敗を防ぐ効果もあって、江戸前の握り寿司のネタとして食べられるようになり、一気に人気が沸騰したそうだ。

こうして脚光を浴びるようになったが、マグロには赤身だけでなく、中トロとか大トロなどの部位があり、近年は大トロが大人気になっている。しかし、トロが高級食材として重宝され、人気が出たのは戦後以降のことなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


江戸時代、トロという部位は脂分が多すぎてヅケにすることもできず、劣化が早いために
加熱して食べる以外捨てるしかなかった。また、戦前までの日本人の多くは脂分の多いも
のを食べる食習慣がなかったから、口に合わない人も多かったのだろう。

その後、トロが食べられるようになったのは昭和の後期以降で、革新的な冷凍技術が開発されて生食で食べられるようになってからだ。トロが生食できるようになったのは、ひとえに冷凍技術の進歩のおかげなのである。

 


さて、おどろ木ももの木の最後を飾って警鐘を鳴らしておこう。
7月18日の金曜日、驚天動地の異常事態が伊豆諸島の海域で勃発した。尤も、政府も水
産庁も警報を発するわけでもなく沈黙しているし、また、マスコミも無知でまったく報道しないから知る由もないだろう。だからこそ、わいだけでもアラートを発しておこうではないか。


それは伊豆諸島海域のあちこちで、海水温の逆転現象が起こっているということで、ここ
十数年、大島と三宅島の海水温の推移を検分してみると、三宅島の方が周年2℃~3℃は絶対的に高かった。しかし、7月18日を機に突如、大島が25.9℃ 三宅島が25℃
と大島周辺の海水温の方が高くなってしまったのだ。

この異常現象が海洋生物に与える負の影響を深刻に危惧しているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

307話 ノラねこのマリアさま

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれは去年の今頃だったか、或いはもっと昔のことだったか。はっきりとは憶えていない。その前日未明、三宅島に連絡船が到着するとわいはすぐに、港で待っていてくれた釣り宿の軽ワゴンに乗り換え、薄木荘に到着すると、出撃の準備もそこそこに荒磯に飛び出して行った。

しかし、その日はまったく潮が動かず、海水温の高止まりでメジナらしいアタリもなくて、魚の活性は最悪で外道しか釣れなかった。

早朝7時ごろから竿を出して日没近くまで続けたが、一向に潮の動きは変わらず、本命のアタリもまったくなかった。この先、何の見込みも立たないので、匙を投げて撤収することにした。

いつもなら、午後のひととき、釣り宿で小休止して鋭気を養い、再び夕マズメに出撃して、そのまま徹夜で釣るのが習いであったが、外道しか釣れない上に酷い潮悪だったので集中力が切れてしまったのだ。
光明丸の船長によく言われたが、「おめえ、食わねぇときはあにやっても食わねぇんだよ。腕の良しあしじゃねえんだよ。潮の良しあしなんだよぉ。だから、潮のわりぃときはさっさと引き揚げんのが賢い漁師なんだよぉ。」ダメな時はいくら粘ってもダメなのだ。

船長の言葉を思い出してピリオドを打つことにした。釣り宿に戻って風呂に入りゆったりと身体を伸ばしたらだいぶ楽になった。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝、遅い朝食を摂って食後のお茶を飲みながら時計を見ると9時を回ったばかりだった。上りの連絡船の出航は13時30分、釣り宿を12時半に出たとしても、まだ、3時間以上の時間がある。

 

初夏のまぶしい光の中を間鼻(マハナ)の断崖の先端まで下り、遥かな海原に墨絵のように浮かぶ御蔵島や沖行く船をながめてみよう。その後、富賀浜あたりまで足を延ばしてみようかと思いついた。


薄木荘から間鼻までの道のりは凡そ1キロほど。その間、人家は木立の中に数軒佇むだけで、その先は両側が鬱蒼とした背の低い灌木とカヤや笹竹の密生した小道になっている。この季節にはウツギやエゴなどが清楚な白い花を無数につけて、風や空気には透明な甘い香りが満ち溢れていた。また、その林間の小道に木漏れ日が射し込むと、まるでパラダイスが現出したかのように神々しく見えるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思い立ったが吉日で、わいは麦わら帽子とТシャツに宿のサンダル姿で、のどかに林間の小道を下って行った。10分ほど下ったところで、前方の小道の端に人影が見えた。

この小道は狭いながらもアスファルトで舗装してあって、人だけでなく軽トラックも通れる。ただ、この道で人や車に出会うことは滅多になかった。一体こんなところで何をしているのだろうか。

 

更に接近していくと、質素な身なりのご婦人が腰をかがめて、藪の方に向かって両手をひらひらさせていた。よく見ると、両手の先にとら猫がじゃれついていた。

「かわいいトラちゃんですね。ここで飼っているんですか。」と訊いてみると、

「いいえ、ノラです。毎朝、餌をあげに来てるんです。」

トラちゃん、すっかりなついてますねえ。

そういえば、この先の三叉路の真ん中で、先日、三匹の茶トラの兄弟が固まって寝転んでいましたけれど、こんな人家のないところでよく生きていけるもんだと感心してたんですよ。

 

「あれは兄弟ではありません。母猫と子猫の親子なんです。あの子たちにも毎日餌をあげています。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ええー、まるで、ノラ猫のマリアさまですねえ。

一年ほど前、この先にある無人の富賀神社に初めてお参りしたんですが、その時、竹ぼうきで境内を掃除している人がいて、その近くにノラ猫が何匹かいて、そのねこにも餌を上げているご婦人がいましたよ。三宅島にはノラ猫の面倒を見るボランティアがたくさんいるんですねと言ったところ、

「それもわたしです。この界隈のノラ猫にはぜんぶ私が餌を上げています。」

と言いながら、白いビニール袋からカリカリ餌をひとつかみ取り出すとトラちゃんに与えた。トラちゃんは大喜びで食べ始めた。

 

光明丸が釣り宿を畳んでしまったので、わいは仕方なく薄木荘に釣り宿を移したが、間鼻に下る小道を歩くたびにノラ猫に出会ったが、そのたびに、こんなところで、いったい何を食べて生きているのだろうかと不思議に思っていた。

その日その時、やっとその答えが見つかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

306話 時空を超えた泉津(せんづ)の霊気

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思えば去年の年の瀬、久しぶりに大島での釣行を企図して、釣り宿おくやま荘に電話を入れると、おくやま荘のおばさんが、

「ナカムラさん、わるいけど今、それどころじゃないんだよ。先月、おとうさんが急病で倒れて、意識不明の状態で救急ヘリで東京に運ばれたんだけれど、それ以来ずーっと意識不明が続いているんで、私はおとうさんの容態を見に、東京の病院と大島の間を毎日のように行き来しているんだよ。おとうさんが元気になったら再開するけれど、それまでは釣り宿は休ませてもらっているんだよ。」


と言うわけで大島がNGとなったので、メジナが全滅したかと思われるサメだらけの海、三
宅島に方向を転じたが、結果は予想通り、空振りの三振に終わってしまい釣り納めにはならなかった。


年が明けて正月になると、伊豆諸島の海は荒天や大しけが続いて、連絡船もしばしば欠航するなど釣行の機会はほとんどなかった。

ちらほらと梅の花がほころび始めた2月の初旬、おくやま荘のご主人が病に倒れてから3か月がたった頃である。そろそろ、元気になって大島に戻っているかもしれない。ご主人の具合はいかがですかと電話をしてみると、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いつも元気なおばさんが沈痛な声で、「おとうさんは1月の31日に亡くなりました。享年
85才でした。」と返してきた。そのまま電話を続けると、葬式を済ませたばかりなのでこ
の先どうするかなんて考えていない。釣り宿を続けるかどうかも分からない。

これは希望に過ぎないけれど、東京にいる長男が定年になったら大島に帰ってきてくれるかもしれないと漏らしていた。しかし、おばさんの年齢は81才だから、ご長男は50代後半だろう。定年になるのはまだ先の話である。


受話器をおいて、わいは深いため息をついた。三宅島の光明丸の船長は4年前に他界したが、娘のむつみは釣り宿には未練など全くなく、スパッと宿を畳んでしまった。

60年の風雪に耐えてきた大島最古のおくやま荘も、同じ道を辿ってしまうのだろうか。

 

それから4か月ほどたった5月下旬、わいのルーティーンである「関東海況速報」をウエブサイトで見ていると、三宅島周辺の海水温は23℃なのに、大島周辺は20℃と3℃も低い。海水温が3℃も低ければメジナが釣れるかもしれない。

善は急げと言うから、大島の天気予報をウエブサイトで調べてみると、明日以降、大雨と強風で大荒れになりそうなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


それより何より、おくやま荘がやっているのかいないのか、事前に確認しておくことが先決なのだ。「もう、やめちゃったよ。」と言われたらショックなので、恐る恐る電話をしてみると、呼び出し音は鳴っているがなかなか電話に出てこない。3分ほどしてやっと受話器をとってくれたが、受話器から聞こえてきたその声は、いつもの元気なおばさんに戻っていた。
「川越のナカムラですが、今朝もおばさんは元気だね。おくやま荘が再開してるかしてないか、それを確認したかったんだけどね。」と訊いてみると、
「おとうさんはいなくなったけれど、わたしは毎日、墓参りをして、おとうさんと一緒にやっているよ。あんたももう齢なんだから、今のうちに釣りをしとかないとすぐに出来なくなるよ。来るんだったらすぐ来なよ。」とけしかけてくれたので、明日から天気は崩れそうだけど、おばさんの顔を見に行くよ。朝のジェット船で行くから港まで迎えに来てよと言って電話を切った。


よかった、よかった、ほっとした。釣り宿を畳むか否かはおばさんの気持ち次第だった。

しかもそれは5分5分だった。おばさんは足が痛くて歩くことさえ困難になっていた。

そればかりか、釣り宿を一人で経営するのはもっと大変だろう。だから、「やめることにしたよ。」と引導を渡されることも覚悟していたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


翌朝10時半、元町港桟橋に接岸したジェット船のタラップを降り、100mほど桟橋を歩いて港の駐車場の中ほどまで行くと、軽ワゴンの運転席から、おばさんがきょろきょろとわいの来るのを探していた。
「おばさんの元気な姿を見て安心したよ。」と言いながら、わいが助手席に乗り込もうとすると、足元に足の踏み場もないほどの荷物が散乱していた。
「ごめん、ごめん、おとうさんの墓参りに毎日行くから、墓参りの道具を助手席に載せてあるんだよ。あんたも、おとうさんの墓参りをしてやってね。」


元町港から泉津のおくやま荘までは10キロほどである。車の中で、おばさんに大雑把なスケジュールを告げておくことにした。

本日は風向きが北東風なので、風裏に位置する西岸のニツンバ(荷積場)に入ることにした。ニツンバと泉津は大島の西側と東側の正反対にあって、距離にして15キロほど離れている。
12時が干潮の底なので15時ごろから釣り始め、22時ごろ磯上がりします。ただ、予報では18時ごろから雨が降ると言っていたので、もし、雨が激しくなったら早上がりします。

夕飯は持参したおにぎりとペットボトルのお茶ですませるから夕食はいりません。

明日は10時発のジェット船で帰ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


という訳で、ニツンバで15時ごろから釣り始めたが、雑魚しか釣れなかった。夕マズメになればイサキが釣れると踏んで、日が暮れるのを心待ちしていたが、17時頃から降り出した雨はたちまち豪雨になってしまった。

ニツンバに下る森の中の小径は枯れ沢である。ひとたび豪雨になると、枯れ沢に雨水が集まって凄まじい勢いで流れ下る。そうなると車に戻れなくなる。
19時ごろ、雨脚はさらに激しくなってきて、帰路が危ぶまれてきたので撤収することにした。という訳で、それまでの釣果はゼロであった。釣果はなかったが、今回は釣り宿を再開してくれたお礼と激励が目的であったから、所期の目的は達成しているのである。


翌朝、窓ガラスを激しく叩く風雨の音で目が覚めた。風の音に混じって役場からの防災無線が聞こえてきた。「本日の東海汽船は海上が大しけのため全便欠航となりました。」天気予報の予告通りになってしまった。


一階の食堂で朝食をとりながら、ご主人のお墓はどこにあるのと訊いてみると、神泉寺だよ。神泉寺の入り口近くにあるよと教えてくれた。
神泉寺は泉津集落の外れにあって、おくやま荘から500mほどの距離にある。一見すると民家のような佇まいで無住の小さな寺だが、修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)の功績を讃え祈念する行者道場でもあるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


役行者は1300年前の飛鳥時代に実在した修験者で、修験道の開祖でもある。また、超能力の持ち主であり呪術者でもあった。役行者は奈良に生まれ、卓越した頭脳と体力で名声と信頼を得て、多くの民衆から崇められていたそうだ。また、配下の山伏や行者の頭領として君臨し、悪鬼をも家来にしたという逸話もあることから、剛腕の知恵者であったと推察される。行者一派が一大勢力になることを惧れた朝廷は、役行者を危険視して罪人とみなして大島に流してしまったというのだ。

 

 

その流された場所は人里離れた泉津の南に広がる原生林で、三原山の山裾が海に落ち込む断崖の岩穴であった。役行者は大島に流されてからも修行をつづけたというから凄い精神力である。
行者が1300年前に修行したという窟は、今では行者窟と名付けられ、全国の山伏や行者が毎年その窟前に集結し、行者の魂魄を慰める行者祭りを執り行っているそうである。

毎年6月15日が行者祭りになっているという。


高速ジェット船が欠航した二日目は暴風雨で海は大しけだったから、ずっと宿でごろごろしていた。昼頃、集落にラーメン店が一軒あると聞いたので、カッパを着て雨の中を出かけたが、肩を寄せ合うように建つ民家の中にそれらしい店は見当たらなかった。

道で出会ったおばあさんに聞いてみたら、あそこだよと教えてくれたが、その店は2坪か3坪しかない小さな店で、入り口のドアに、ラーメン1200円、営業日は土曜日と日曜日と貼り紙がしてあった。3日目も大しけで大雨だった。東海汽船はその日も全便欠航であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


その朝おばさんが、今日は31日だから、おとうさんの月命日だよというので頭の片隅に記憶しておいた。15時過ぎに500メートルほど離れた雑貨屋に行ったら、運よくアンパンが売れ残っていた。そのアンパンを食べながら海沿いを歩いていたら、多少、風雨が弱まったような気がした。神泉寺も目と鼻の先にあったから墓参りでもしていこうと門を入ると、ご主人の墓が左手の少し高いところにあった。墓には白い花がいっぱい供えられていた。
わいは手向ける花も線香もなく手ぶらで墓参りをしていたが、その時ふと思った。ジェット船を2日連続で欠航させたのは泉下のご主人だったかもしれない。2日間、わいの足止めをして、月命日に墓参りをさせたかったのかもしれないと。


その帰り道、海沿いの高台を通ると、さっきまでバシバシと吹き付けていた波しぶきが心なしか収まっていた。まだ大荒れではあったが、風裏になる岬の陰なら釣りになるかもしれない。丸二日、何もしないでごろごろしていたのでわいは退屈していた。

漁港の出口付近のうねりに直撃されないところだったら釣りができそうであった。

そう考えて19時頃から釣り始めたが、最初の一投目からメジナが掛かってきた。しかもそれは40センチクラスの良型であった。これにはわいもびっくりした。

その後、40センチから30センチのメジナが次々に掛かってきた。4時間足らずで良型メジナが11匹も釣れたのだ。まるで役行者の霊能が時空を超えて乗り移ってきたかのようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

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