荒磯に立つ一竿子

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292話 イガラシさんへの鎮魂歌

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれは15年ほど前のことである。まだ、大島の鳴海荘のご主人が健在なころだった。
その頃、わいは足繁く大島に通っていた。その晩も、竹芝桟橋を22時出港の連絡船さるびあ丸に乗船し大島に向かうところだった。連絡船の乗船客は相変わらずわずかで、竹芝桟橋の乗船客待合所の船客はわずか100人ほどしかいなかった。

さるびあ丸に乗船したわいはすぐにチケットに記載された2等船室に向かったが、そこは8人部屋の船室なのに、わいのほかには誰もこなかった。出港するとまもなくアナウンスがあって、貸し毛布などを借りて就寝準備を整えると、所在ないので自販機コーナーに向かい、エレベーターホールのポールにもたれて缶コーヒーを飲んでいると、やはり自販機にやって来た釣り人の格好をした青年が近づいて来て、

「どちらに行かれるんですか。」と問いかけてきた。わいは缶コーヒーを口元から下ろすと、「大島です。」と返すと、青年は更に、大島は釣れるんですかとか、今、何が釣れていますかなどと畳みかけてきた。その質問に簡潔に答え、「あなたも釣りみたいですが、どこの島に行くんですか?」と尋ねると「大島のひとつ先の利島と言う島です。」と返して来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「利島ですか。利島と聞くと懐かしいなあ。ぼくも昔よく行った島です。利島にはかれこれ   10年以上は通ったかな。そろそろ、大桟橋でイサキが釣れる頃ですね。」

 

このところずーっとご無沙汰しているけれど、桟橋や防波堤が20年がかりで強化され、しけに強い港に生まれ変わったようですね。連絡船が接岸する大桟橋の遥か西側に長大な防波堤が建造されていたけれど、それも完成して、冬場の大時化でも連絡船が接岸できるようになったらしいね。昔に比べて、欠航も少なくなったでしょうね。
「はい、そんなに昔のことは知りませんが、欠航は少なくなったみたいですね。」

 

ところで利島と言えば、桟橋の名物男イガラシさんはまだ元気かな。暇さえあれば桟橋で竿を出していたけれど、なつかしいなあ。その昔、大変お世話になったけれど、今でも元気に釣っているんだろうねえ、とこみ上げてくる感慨を胸に尋ねると、
「ああ、いつも監視員の腕章を付けて桟橋に来ていた背の高いおじさんですね。」「あの人は大分前に亡くなりましたよ。」
ええっ、亡くなったって・・・

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいは訳あって利島から大島に拠点を移し替えていたが、そのうち、手土産でも持って利島に行って、イガラシさんと一晩中釣りをしたいと考えていたのだ。そのうちそのうちと先延ばししている内に、いつの間にか20年が経ってしまった。

 

利島の桟橋は遥か彼方に富士山を望み、北側の海に向かって、幅20メートル長さ220mの太い桟橋が一直線に伸びていたが、その先端でわいはいつも一人で釣っていた。

桟橋の背後で車が停車した気配がするので振り向くと、「ナカムラさん来てたんだねー。」と明るい声をよく掛けられたものだ。

イガラシさんはいつも洗いざらしの作業着を着て、左腕に色褪せた漁業監視員の腕章をつけて、ひょろりとした上背で海を見ていた。頭髪は白髪交じりのロマンスグレーで無精ひげがトレードマークだった。その頃、60代半ばに見えたが年齢を聞いたことはなかった。


その人は大分前に亡くなりましたよという青年の言葉に、わいは脳天に鉄槌を振り下ろされたような衝撃を受けてしまった。迂闊の上にも迂闊だった。どんなに元気な人でも齢をとれば旅立ってしまうのだ。そんな自然の摂理をすっかり忘れて、元気でいると信じ込んでいたなんて、のんきなとうさんにも程がある。悔やんでも悔やみきれない。

わいは青年との会話どころではなくなってしまった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいの30代から40代にかけてのその頃は金もなく暇もない逆風の中の貧乏時代だった。ただ、利島に来れば、また桟橋で釣ってさえいれば、真冬でも真夜中でもイガラシさんが軽ワゴンでやってきて、そっちはうねりが上がってくるから危ないよ。それに風も強いから、こっち来て釣んなよなんてといつも温かい言葉をかけてくれた。凍えるような真冬の夜にはおれの車の中に入って釣れと誘ってくれた。

イガラシさんの釣り方は太い竿と太い仕掛けでアミ袋を吊るしたバケ釣りであった。いつも桟橋に置き竿にして、車の中から竿の変化や音を観察していた向こう合わせの大雑把な釣りで、繊細さは欠片もなかった。魚が掛かったら、竿がガタガタ揺れるし動くし音がするから暗くても分かるよという釣り方だった。

 

わいも身体が冷え切ってしまったり気力が萎えた時には、イガラシさんの車に避難させて貰って、非常食のアンパンやソーセージを分けて食べたり、あれこれ世間話に花を咲かせたものだった。思い返してみれば、イガラシさんとわいは桟橋の戦友みたいな仲だった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある時イガラシさんに、早朝から深夜まで、暇さえあれば四六時中桟橋に来ているけれど、いったいいつ仕事をして、いつ寝ているの? でも、年がら年中釣りが出来るなんてほんとうに幸せだよね。おれもイガラシさんみたいになりたいよ。利島村で移住者を募集しているから、おれも応募してみようかなと冗談を言ったら、イガラシさんは真顔になって、

「ナカムラさん、甘い言葉に誘われて、移住なんてしちゃあいけねえよ。」

おれは秋田出身の貧乏百姓の次男だけど、中学を卒業するとすぐに上京して工務店の大工見習みたいなことをしていたんだけどよ。ある時、利島から住宅の新築工事の注文が入ったんで、その工事の手伝いで利島に行けと言われて利島に来たら、初めて釣りをしたのに、滅茶苦茶魚が釣れて楽しくて楽しくて、こんな天国みたいなところだったら住みてえなあって言ってたら、それを聞きつけた村の人が、何から何までお膳立てをしてくれて移住させてくれたんだよ。

だけどよぉ、実際に移住してみたら、天国どころか地獄だったよぉ。いいようにこきつかわれるし、新参者は何年たってもよそ者だしな。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数年後のある日、いつものように利島に釣行したら、朝から晩までどころか、翌日の上りの連絡船が出港するまでイガラシさんは姿を見せなかった。

翌月、利島に釣行したら、イガラシさんがいつものように桟橋に出てきたので、「先月、釣りに来た時、全然姿を見なかったけれど、病気でもしていたの?」と訊いてみると、

ごめん、ごめん、ナカムラさんには言ってなかったけどよ、久しぶりに秋田の故郷に帰っていたんだよ。兄弟や甥っ子姪っ子が集まってくれてよ。嬉しかったよぉ。楽しかったよぉ。
それに、おれにいつお迎えがきてもいいように、故郷の寺に自分の墓を建てて来たんだよ。
「イガラシさん、自分の墓って、朱文字で生前戒名を刻むあの生前墓のことなの?」

「そうだよ。死んでからもこんな島にいたくねえからな。」
 

イガラシさんから、死んだら故郷に帰りたいと聞いたのは30年も前のことだった。

生まれ落ちた川に必ず戻って来るという鮭のように、イガラシさんも今頃、故郷に戻って安らかに眠っていることだろう。この一文は異郷に散った戦友への鎮魂歌としたい。
































 

291話 光があれば影がある

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいは自宅のある集合住宅を出て、団地に隣接する緩い坂道を下っていた。すると、どこからともなく、わいの名が呼ばれたような気がした。立ち止まって見まわすと、坂道には人っ子一人歩いていなかった。また、猫の子一匹、自転車1台走っていなかった。

気のせいだったかと再び歩き始めると、今度ははっきり「お~い。」という呼び声が植え込みの陰から聞こえてきた。ひょっこり現れたのは囲碁クラブのメンバーで、当年84才になる元気なじいさんだった。じいさんは首にタオルを巻いて、ジャージの上下にスニーカーといういで立ちだったから、ジョギングにでも出かけるところだったのだろう。

息を切らして小走りに近づいて来たじいさんは、「悪いけど、今度の例会は欠席するからね。」と告げたので、どこか具合でも悪いのと訊いてみた。   
このところ、囲碁クラブのメンバーは体調不良や物故者が相次いで、櫛の歯が抜け落ちるように数を減らしていた。じいさんの年齢を考えれば、いつ不都合が生じてもおかしくない。わいの心配をよそに、「いや、別にどこも悪くないよ。家内と北海道旅行に行くんだよ。」と聞かされて、杞憂であったかとわいは胸をなでおろした。

で、これからジョギングですかと尋ねると、「図書館に行って旅行先の情報を調べておこうと思ってね。」と旅行の準備に余念がないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


その日は気持ちよく晴れ上がって日差しは滅法つよかったが、北寄りのひんやりした風が吹いていたので暑くは感じられなかった。小畔川の下流3キロにあるカフェコモドまで、あと30分、一番乗りで薫り高いコモドコーヒーにありつこうと目論んでいたが、自宅からコモドまでの道程で、坂道を下る辺りからは人通りはほとんどない。しかし、その日に限ってじいさんに足止めを食らってしまった。

 

坂道を下りおえて水鳥の郷公園の外周を回ると、左手に鯨井新田の水田が展がる農道に出る。そこには田植えを終えたばかりの早苗が、まるで幼稚園児の運動会のように行儀よく並んでいた。

軽トラ1台がやっと通れる農道のアスファルトには、年輪のように無数の亀裂が走っていた。路面には至るところに窪みやひび割れが出来ていて、前日降った雨があちこちに水溜まりを作っていた。わいが足元に気を取られながら歩いていると、踏み出した左足のすぐ前に千切れたカラフルなストラップが落ちていた。

ストラップは鮮やか色の赤黒斑で、真田紐のような織りになっていた。幅1センチ、長さ30センチほどに千切れていたが、なぜ、千切れたのだろうか。ストラップが切れたら、スマホはただでは済まないだろう。おかしな切れ方をしていたので、念入りに観察してみると、それはストラップではなく、蛇の皮だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノシイカ状になっていたので見間違えたが、色や模様、形から見て、ヤマカガシの子どもではなかろうか。ヤマカガシの子が水田にアマガエルを食いに来て、農道で、あえなく軽トラに轢かれてしまったのかもしれない。

 

最近はほとんど見かけないが、以前は川沿いの径を歩いているとしょっちゅう蛇に出くわしたものだ。生い茂った夏草の陰に荒縄が落ちていると思って、その荒縄を跨いだ時、突然、荒縄が動き出してびっくりさせられたことは何度もある。やはり、草むらの小径で荒縄を踏んづけたと思ったらぐにゃりとして、それが動きだして、蛇だと分かった時にはぞっとした。蛇のことを昔は「くちなわ」と呼んだそうだが、くちなわとはよく言ったもので、朽ちて黒ずんだ荒縄は蛇にそっくりである。


水田にはたくさんの小動物がいるので、それを狙って様々な鳥がやってくる。

特に田起こし後の水田には、ミミズやオケラが掘り起こされて姿を現すからツグミやカラス、シラサギなどが群れを成してやって来る。また、代掻きの後、水田に水が張られると、オタマジャクシやカエル、ゲンゴロウが一斉に繁殖し、それを捕食するため蛇やカメまでやって来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新型コロナが蔓延する数年前、この農道で出会ったのは甲羅が25センチ大のカメである。いつものようにコモドに向かう道を歩いていたら、前方の路面に平べったい石が置いてあった。水路から田んぼに引き込む水を止める時、止水栓代わりに石やぼろ布を使ったりするので、農家の人が置き忘れたのだと思っていたら、その石がゆっくり動き出した。

石のように見えたものは実はカメで、。そのカメは50メートル以上も離れた小畔川の水辺から、広い河川敷を乗り越え、堤防の斜面を登り、密生した夏草をかき分けて、やっとのことで農道まで辿り着いたのだ。田んぼまであとひと踏ん張りである。

カメは苦労に苦労を重ねて田んぼにやってくるが、田んぼにはその苦労が報われるだけの多くの御馳走がある。ドジョウにゲンゴロウにオタマジャクシ、カメにとって涎が出るような御馳走の山なのだ。カメは本能的にそれを知っているのだ。

 

この水田地帯は鯨井新田といって、新田という呼称からして、近年、開発された水田のようだ。以前は水利が悪くてこの辺では畑作しか出来なかったようだ。
それは、この辺りが小畔川より6~7メートルも高い台地になっていたため、小畔川からの取水が出来なかったからだ。近年、ポンプで地下水を汲み上げることが出来るようになって、初めて稲作が可能になったのだ。


真夏の炎天下、堤防天端の道を辿っていて、桜並木の木陰に入ると、涼しさのあまり極楽に来たような気持ちになる。しかし、桜の木にはまもなく無数の桜毛虫が発生する。

木の下を通るだけで、帽子からTシャツまで毛虫だらけになることがある。

何事も光があれば影があり、功罪は相半ばするものなのだ。とは言え、森の中でヒグマに出遭えば食い殺さされるかもしれないが、桜並木の毛虫なら、いくらたかられても食い殺されることはないだろう。

























 

290話 返す返すも不覚であった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全く以てみっともない話である。

あわてて作り直した仕掛けの釣り針を、左手親指と人差し指でつまんで、右手で竿を持って狭いテラスで立ち上がろうとした時、中腰になった途端、弛んだハリスが足元のトゲトゲ岩に引っかかってピンと張り詰め、その反動で釣り針が親指にグサッと刺さってしまった。

背後は絶壁。立ち上がる時、少し尻を突き出さないとバランスが取れないが、そんな余裕は全くない。もし、突き出せばつんのめって、眼下の海に転落するだろう。

しかも、テラスの岩は凸凹が激しくその上傾斜している。立ち上がるだけでも容易ではない。そんな悪条件を割り引いても不覚であった。この釣り針事件はビギナーレベルの注意力と幼稚な所作から引き起こされてしまったのだ。50年も無駄飯を食ってきて、その程度の危険がなぜ予測できなかったのだろう。

 

その上、刺さった釣り針はがっつり食い込んでいて、押そうが引こうが抜けなかった。

手に負えなくなって、釣り宿のご主人に電話をしたら、診療所に連れて行ってくれた。

ドクターや看護師さんは「磯釣りにはよくあることです。」と言ってくれたが、腹の中では、なんてへまな人と笑っていたかもしれない。まったく、恥ずかしいったらありゃしない。穴があったら入りたいくらいだ。今後は磯釣り歴50年なんて口が裂けても言えやしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄木荘に戻る車中で、「どうでした。痛くないですか。」とご主人が訊くので、

ヤットコで無理矢理引っこ抜かれた時は痛かったけれど、引っこ抜かれた後はほとんど痛みませんね。事前にご主人が電話してくれたので、待合室にいた10人ぐらいを飛び越して診察してくれました。ありがとうございました。さすが、三宅村の農業部会長ですね。

 


わいは再びミチナシのテラスに入ると、急いで仕掛けを作り直した。時刻は既に11時を回って干潮の底まであと1時間余り、さっきまで海中に没していた沈み根があちこちで頭を出して、その周りで大波が白いさらしを作っていた。
タイムアウトか最後のチャンスか。コマセを入念に打ってから、「南無八幡大菩薩、日光の権現、願わくは、大魚釣らせたまえ。」と那須与一さながらに神仏に願をかけると,願が神仏に通じたか、わずか数投後に突然ウキが消し込まれた。

瞬時に竿を合わせると猛烈なパワーで沈み根に潜ろうとする。潜られたら最期、ハリスはもたない。竿は4号の剛竿、ハリスはシーガーグランドマックスの6号、こうなったら力較べだ。

全力で振り切ろうとする獲物と5分ほど格闘していると、遂に疲れた獲物が水面下に姿を現した。50センチはあろうかと言うオキナメジナである。わいも疲れていたが、獲物も疲れて平を打っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この状態ならなんとか抜き上げられると、ジリジリとリールを巻いて行くと、海水面を切ろうとすると重すぎて上がらない。剛竿といえども無理をすれば折れてしまう。手間はかかるが玉網で取り込むしかない。

テラスから海面までは4mほどあるので、玉網の柄6m長ではギリギリである。案の定、玉網を伸ばすと打ち寄せる波と風、潮の流れで、逃げ回る魚が捉えられない。玉網の柄はダイワのトーナメント60、強靭にして機能的な最高峰の玉網ではあるが長さ不足なのだ。

しかし、手間暇かかったが10分ほどかけてなんとか玉網に取り込んだ。玉網に取り込んでも、それをテラスまで引き上げないことには取り込んだことにはならない。

獲物を入れた重い玉網が途中のトゲトゲ岩に引っ掛かったら、これまたすべてが終了してしまう。だから、トゲトゲ岩に触れないで、岩から離して引き上げなければならない。従って玉網の柄は畳まず、伸ばしたまま引き上げることにした。これは難工事である。その難工事を突破して、やっとテラスまで引き上げて玉網の首を掴んでほっと一息ついていた時、バッキーンと乾いた破裂音が断崖に響き渡った。玉網の柄の首の部分が破断したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左手には釣り竿、右手には獲物の入った玉網、もう一本手がないことには玉網の柄本体まで確保できない。足元に獲物の入った玉網を置いてからと考える暇があらばこそ、数秒後に玉網の柄は、カランカランと岩に当たりながら落下してしまった。玉網の柄はしばらく海面を漂っていたが、まもなく海中に没して姿を消してしまった。高価な玉網の柄と引き換えにオキナメジナが釣れたのだ。神仏は大物を釣りたいという願いは聞いてくれたが、その見返りに玉網の柄を持っていってしまった。神仏といえども決して甘くはないのだ。

というわけで、その日だけでアクシデントが2連発。そんな厄日に釣りを続けていたら、災厄3連発となりかねない。わいは竿を畳んでさっさと納竿することにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

289話 ばかにつける薬はないよ ♪♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月の下旬、三宅島は連日のように強風や降雨に見舞われていた。いくら何でも大時化では釣りにならない。ジリジリしながら時化の収まるのを待っていたら、大連休直前になって、たった一日だけ、風が落ちて海が凪ぎそうな予報が発表された。これは幸いだった。待てば海路の日よりとはよく言ったものである。

          
しかし、いつもなら船中一泊、釣り宿に一泊で、二日間釣りが出来るのだが、今回は一日だけしか出来そうにない。二日目にはまた天気が崩れて時化模様になりそうなのだ。ドンブラコ、ドンブラコと海がしければ連絡船さえ欠航するし、帰京さえままならない。

そんな訳で、コスパは良くないが、竿が出せれば満足と考えて渡島することにした。磯釣りに100点満点を期待してはいけないのだ。
早朝4:50 連絡船はかつて三宅島の玄関口と言われた三池港に入港し接岸した。
すでに夜は白々と明けて、彼方にぽっかりと浮かぶ御蔵島の中天に、白いクラゲのような半透明の残月が掛かっていた。連絡船のタラップを降りると岸壁には風はなく、三池浜の沖からサタドー岬まで、一面湖のようになぎていた。大連休直前ということもあって、桟橋を歩む下船客は100人を超えていた。                                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

100メートルほど歩いて、だだっ広い駐車場のどこで待っていようかと立ち止まると、駐車中の車の影から声が掛かった。振り返ると、薄木荘のご主人だった。ご主人には珍しく、その日は早めに来ていたのだ。
ご主人の運転する軽ワゴンは20分ほどで薄木荘に到着した。三池港では空の色にまだ夜明けの青さが残っていたが、わずか30分ほどで、空の色はもはや日の出前の明るい色に変わっていた。軽ワゴンを降りたご主人の足元には、外猫たちがすり寄って頭をすりつけていた。ご主人は軽ワゴンを指さして「車はこれを使ってください。今日はどこへ入りますか。」と尋ねて来た。先月入ったミチナシのテラスに入ります。断崖の昇り降りに冷や冷やさせられて怖かったので、今回はザイル代わりのロープを用意してきました。10メートルのロープですが、要所要所に滑り止めを打ってあります。それを危険な岩場に張って釣ります。
「ミチナシのテラスですか。気を抜くと危険ですよ。気を付けてくださいね。でも、ロープを張って釣るなんてロッククライマーみたいですね。」と言ってご主人は笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいは30分ほどかけて諸々の釣り支度を整えると、準備万端、ミチナシのテラスに向けて軽ワゴンを発進させた。
ミチナシは薄木溶岩流が山腹から溢れ出て、海に落ち込んで形成された断崖の一角にある。薄木溶岩流とは三宅島の火山雄山が数百年に渡って何度も割れ目噴火を起こして、山腹から大量の溶岩を噴出して、海に達するまでの数キロに渡る溶岩原のことである。
直近の割れ目噴火は40年前で、雄山の山腹に突如、4.5kmの亀裂が生じ、亀裂の周辺90か所から一斉に噴火が起こって溶岩を噴出した凄まじい噴火であった。
薄木荘からミチナシの断崖までは、距離にして1km程度だから、車で下れば5分とかからない。途中、鬱蒼とした灌木や篠竹の林が続き、それが途切れるとカヤやススキの草むらに変わり、次に、背の低いイソギクの群落に変わって、最後に赤茶けた溶岩が露出した熔岩原となる。        
軽ワゴンは断崖の手前100m辺りで乗り捨てて、ロープを肩に断崖に向かったが、しばらく進むと行く先が分からなくなった。前回、ラッカースプレーでマークしたのに、そのマークのほとんどが消えかけていた。よく見れば溶岩の溝や隙間にスプレー跡が残っていたが、余程注意しないと分からなかった。 改めて新品のスプレーで目印をつけることにした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、テラスへの昇り降りの危険を回避するためにロープを張り、リュックを始めとするアイテムは途中の岩場に下ろして、テラスには竿、バッカン、玉網などの必要最小限のものだけ持ち込こむことにした。それらの作業に2時間余りを費やした。              
釣り座のテラスは畳半畳ほどの広さで、岩棚はデコボコで傾斜していた。背後の断崖は猿しか登れない絶壁で、道具を置くスペースもわずかしかなかった。油断したら、たちまち転落しそうだった。
眼下の海中を覗くと水深は極めて浅く、キノコ状をした岩塊や巨岩がゴロゴロした沈み根を作っていた。岩塊や巨岩の間隔はわずか1メートルかそこらで、その隘路を荒波や速い潮が通っていた。仕掛けを落とせばすぐにも釣れそうな荒磯で、巨岩の陰や隙間にはいかにも大物が潜んでいそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕掛けを造りオキアミのコマセを打っているうちに既に9時を回っていた。2時間半かけて釣り支度を整えたわけである。いざ、眼下の狭い水路に仕掛けを打ち込むと、一瞬でウキが消し込んだ。瞬時に竿を煽ると、獲物は強烈なパワーとスピードで沈み根に飛び込んだ。その瞬間ハリスが破断した。その間、わずか2秒か3秒である。ハリスはシーガーグランドマックス6号だから、よほどの大物が潜んでいたのだ。
こいつを逃してなるものか。心急かしてポケットから釣り針を取り出すと、改めてハリスに新しい釣り針を結んだ。その釣り針を左手指でつまみ、右手で竿を持って、狭いテラスで立ち上がろうとしたその途端、アッ、タ、タ、タ、タ、釣り針が親指に突き刺さってしまった。

立ち上がろうとした瞬間、たるんだハリスが溶岩の突起に引っ掛かって、自分で自分の親指を釣ってしまったのだ。釣り針が刺さったままでは釣りは出来ない。

すぐさまハリスを切って、釣り針を抜き取ろうとしたが、いくら引っ張っても抜けそうもない。
当たり前である。釣り針には返しというフックが付いていて簡単には外れないのだ。仕方がないから、返しの深さまでナイフで切開して外そうとしたが、鋭利なナイフではないから、親指まで切り落としかねなかった。

 

 

釣り針と格闘して数分、ついに音を上げて観念した。わいは断崖の上に上がってご主人に電話を掛けることにした。
「もしもし、ご主人、」  「どうしました。なにか釣れましたか。」
「親指を釣っちゃいました。」  「えっ、えっ、なにを釣ったんですか?」
「魚でなくて親指です。すぐ薄木荘に戻るから、診療所の場所を教えてください。」
薄木荘に舞い戻ると、ご主人はビニールハウスの農作業を中断して待っていてくれた。

すぐにスマホを取り出すと、「薄木荘ですが、うちのお客さんが釣り針を指に刺してしまったんですが、すぐ、診てもらえますか。」と電話で了解を取ってくれた。

すぐ診てくれるそうだから行きましょう。診療所は神着にあります。釣り針が刺さったままでは運転しづらいでしょうから、ぼくが運転していきますと連れて行ってくれた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10年くらい前だが、光明丸のむつみと三宅村の医療について話していたら、三宅の診療所なんてよぉ、年寄りの医者が一人いるだけでよぉ。赤チンつけるか風邪薬出すぐらいしかできねえよぉ。と言って嘆いていたのを思い出した。
木造の古い汚い建物に年配の医者が一人と看護婦が一人いるだけの淋しい施設を想像していた。しかし、40分ほど走ってその診療所に到着すると、想像とは正反対だった。建物は立派な鉄筋の二階建てで大きくて清潔そうだった。
入り口のドアを開けるとそこに看護師さんが待機していた。釣り針の方ですねと言って、簡単に必要事項を書かされたが、待合室には来診者が10人近く待っていたのに、その人たちを飛び越して、すぐに診察室に案内された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


汚れた手袋は脱いでください。そして、きれいに手を洗ってください。それから、ベッドに仰向けに寝て、左腕を腕置き台に置いて右手でしっかり抑えてください。と看護師さんから次々に指示が出された。そこに、30代の青年医師が笑いながら現れた。魚でなくて自分の指を釣ってしまった釣り師なんて、そりゃあ、おかしいよな。
青年医師はヤットコのようなピカピカの機具を手にしていた。「麻酔をすると痛いし、しばらく釣りが出来なくなるから、麻酔なんかしませんよ。」「腕をしっかり抑えて動かさないでください。」と言うから、これからメスで切開するのかと身構えていると、ヤットコみたいな機具で釣り針を掴むと、強引に引っ張り始めた。えっ、釣り針には返しがあるから、そりゃ無理だよと言いたかったがじっと耐えていると、30秒ほどで,「はい、取れました。」と抜けた釣り
針を見せてくれた。取れないはずの釣り針がきれいに取れて、代わりに血がどっと噴き出していた。地獄に仏だった。先生、ありがとうございました。
釣り針の抜去後、看護師さんが、「温水でよく手を洗ってください。」と言うから、これから消毒したり化膿止めを処方してくれるんだろうと考えて、はい、洗いましたと答えると、

今度は「タオルで拭きとってください。」と指示された。拭き取ってから治療するのだと思ったら、その後は、救急バンをペタッと貼って、「はい、これで終わりです。」だとさ・・・


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

288話 お陀仏にはなりたくない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月初頭の長潮の日、連絡船橘丸は、定刻の4:50、三宅島は三池港の岸壁に接岸した。
入港直前に船内放送があって、まもなく本船は入港作業に入ります。ご下船のお客様はお忘れ物のないようご準備ください。本船は下船作業が終わり次第、八丈島に向かって出港しますとアナウンスがあった。     

船内放送に呼応して下船口に集合した下船客は40人ほど。やがて水密扉が開かれて桟橋からタラップが掛かると、船長の下船OKの合図とともに下船が開始された。その日は風も落ちてうねりもなかったので、船体が動揺してタラップが動き回ることはなかった。

タラップを降りて駐車場広場の外れに到着すると、外灯の灯に照らし出された広大な広場の薄闇に軽自動車が20台ばかり、それに村営バスが2台駐車していた。

駐車している軽自動車の中に迎えの車を探したが、まだ、薄木荘の軽ワゴンは来ていなかった。その内に来るだろうと外灯の下に荷物を置いて待っていると、待てど暮らせど迎えは来なかった。

 

仕方なく未明の夜空を仰ぎ見ると、濃紺の夜空には白いクラゲのような半透明の月が弱々しく光を放っていた。少し離れた暗い夜空には明るい星がいくつか瞬いていた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20分ほど待ったがまだ車は来ない。駐車場広場のほとんどの車はすでに姿を消してしまい、わずかに3台だけが残っていた。背後の桟橋を振り返ると、桟橋では煌々と照明をつけて橘丸がまだ荷役作業を続けていた。30分ほどして、港に入る緩い坂道を下ってくるヘッドライトが目についた。まもなく、その車はわいの立つ外灯の下に停車して、お待たせしましたと言いながらご主人が降りてきた。


薄木荘に向かう車の中でご主人が、「先週、常連さんが来たんですが、二日間、ほとんどアタリもなくて、メジナは全然釣れなかったそうですよ。」「どうしたんでしょうねえ。潮が悪いのか水温が高すぎるのか。」と言うので、

「三宅のメジナは絶滅しちゃったのかもしれないよ。」「それに、今日は長潮で潮が動かないから、どうなることやら。」と返して、でも、今回はご主人がかつてシマアジを大釣りしたというミチナシに入るから途中まで道案内してくださいね。

崖を降りる途中、要所要所に目印を付けておかないと、行きはよいよい帰れなくなりますとご主人に言われたから、熔岩に吹き付ける目印用のペンキスプレーを買ってきました。

釣り人が入らないところだからサメも出ないだろうし、なんと言っても、ご主人がシマアジを30匹もバカ釣りしたんでしょう。楽しみだなあ。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一周道路を15分ほど走って薄木荘に到着すると、「じゃあ、部屋はいつものところを使っ
てください。」「釣り支度が出来次第、声を掛けてください。すぐミチナシにご案内します。」
と言って、食堂のガラス戸の前で寝転んでいた数匹の猫と遊びはじめた。
わいが「ねこちゃん、今日は大分少ないね。どこかに出張でもしてるのかな。」と呟くと、

「そうなんですよ。」この1ケ月で、10匹いた外猫の内、3匹が車に轢かれたり、行方不明になったりしているんですよ。そのうちの一匹は2キロも離れた阿古の郵便局近くで車に轢かれていました。

「おじいちゃん、毛並みがここの猫そっくりの猫が郵便局の近くで死んでいたよ。」と近くに住む孫娘が知らせてくれたんです。可哀そうだから埋めてやろうと新聞紙をもって行ってみると、顔はつぶれていたけれど、毛並みは見覚えのあるタヌキ柄の猫で、まさしく臆病だったうちの外猫でした。多分、宅急便とか野菜を買いに来たお客さんの車に入り込んでしまって、車から出ても帰れないので、ウロウロ迷っていて轢かれてしまったんでしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


知らない内に猫が車に入り込んでいた。わいもそんな経験は何度もしている。

光明丸の庭先で軽ワゴンの後部ドアを開け放しで釣り支度をしていて、いざ発進しようとして後ろを見ると、後部座席で猫がわいを見つめていたなんてことが何度もあった。

真夜中に出かけようとして、車内のバックミラーで後ろを見たら、暗闇の中に緑色の球体が2個光っていた。こりゃ妖怪かと肝を冷やしたこともあった。猫は魚やオキアミの臭いに誘われて軽ワゴンの中に入り込んでしまうのだ。
 

6時を回ってすっかり夜が明けた頃、わいは食堂の扉を開けて、道案内をお願いしますと呼びかけると、テレビを見ていたご主人は「ハイよ、」と答えながらすぐに出てきてくれた。

10数棟のビニールハウスで色々な野菜や果物を栽培しているご主人は働き者である。

農作業に入る前に缶コーヒーで鋭気を養っていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミチナシのある間鼻への道は、途中までは鬱蒼とした灌木林で形成されている。数百年あるいは数千年にわたる火山活動で、雄山が溶岩を噴出させて溶岩原を造り、その上に長い年月をかけて植生が形成され、鬱蒼とした灌木林が出来たのである。

灌木林は先端に近づくに従ってススキやイソギクなどの背の低い植生に変わって、先端部周辺はもはや草木も生えない不毛地帯となっている。ともかく、不毛の溶岩地帯にこれほどの灌木林を造り上げるとは、植物は何と逞しいことか。薄木荘から間鼻への1キロほどの道のりは、この灌木林を切り開いて造られている。


ご主人は間鼻の先端から、50メートルほど手前の瓦礫地帯に軽ワゴンを停めると、

「私についてきてください。」と言ってゴツゴツした溶岩原を歩き始めた。断崖の先端付近まで近づいたところで、「ここから降りていきます。」というので断崖直下を覗き込むと、張り出
した溶岩や岩棚で崖下は全く見えなかった。

こんなところを降りるのか。まるでロッククライミングの下降みたいだね。と不安を口にすると、「そうです。ここを降りなければ釣りは出来ません。」と気にも留めない。

わいから道案内を頼んだのだから、今更、怖いから辞めたいなんて、口が裂けても言えはしない。腹を括って断崖を降りることにしたが、その時急に、目印に使うペンキのスプレー缶を忘れたことに気が付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ご主人、ペンキのスプレー缶を車に忘れてきた。」というと、ご主人は「絶対に必要です
から、取りに行ってください。」と強く言われた。

その時はペンキスプレーなんて全く重視していなかったが、ご主人と別れてから、目印をつける重要性を思い知らされた。ほんの2、3分前に下降したり、登攀したルートがたちまち判らなくなってしまうのだ。溶岩はどれも酷似しているから違いは全く分からない。そのため、一歩でも誤った方向に進むと進退窮まってしまうのだ。


ゴツゴツした穴だらけ瘤だらけの溶岩の崖を降っていくのだが、当初は猿になったと思えばいいだけだと高を括っていたが、いざ降り始めてみると後悔先に立たずで、見るとやるでは大違いだった。

溶岩の突起や窪みを手掛かり足掛かりにして、へばりつくように降っていくのだが、次の足場を探そうとして下を見たら、情けないことに足がすくんでしまった。うっかり足を滑らせようものなら、一巻の終わりお陀仏なのだ。




















 

287話 キラキラ電気のお店があったなんて

 

 

 

 

 

 

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

光明丸の船長が早朝、キンメ漁に出漁し、夕刻、沖の漁場の船上で倒れているのが発見されて、はや三年が経とうとしている。享年は88歳と10カ月であった。
思い起こせば、わいが船長に出会ったのは47年前のことである。

その頃、船長は45才の働き盛りで、御蔵島の離れ磯に渡す瀬渡し船の上では、不動明王さながらに釣り客の我儘は許さなかった。また、筋骨隆々として短気で気が荒かったので、憤怒の仁王像を髣髴させるような屈強の漁師だった。
船長の家は極めて貧しい漁師だったので、中学校を卒業するとすぐに漁師の手伝いを始めたというから、学問とか高等教育には無縁であったようだ。しかし、生来の勘の良さと旺盛なチャレンジ精神で、折からの離島ブームや磯釣りブームを追い風にして離島でできる事業を模索したという。

その事業は、三宅島ではまだ誰も手掛けていなかった瀬渡し船で、それは無謀だ、うまくいかねえ、という雑音にも惑わされることなく、船長は三宅島でいの一番に取り組んだのだ。
「22才の時、同い年のかかあと一緒になったけれど、その頃は船も持たねえ貧しい漁師だった。かかあと二人素潜りをして、テングサを採って採って採りまくったよ。
その金で最初の船を買ったんだよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

30才も半ばを過ぎた頃、瀬渡し船を始めようと本格的に着手した時、「そんなばかなことはするな。商売になる訳がねえ。絶対に失敗するから、やめろ。」と漁師仲間や周囲から散々反対されたけれど、怖がっていたら何にも出来ねえ。一生、貧乏漁師で終わってしまう。たとえ失敗しても挑戦した方がいいと反対を押し切って始めたそうだ。
それが大成功を収めるや、猛反対していた漁師仲間が手のひらを返して、我も我もと瀬渡し船を始めたというから笑ってしまう。船長のそんな苦労話は何度聞いても痛快だった。

船長は瀬渡し船を皮切りに釣り宿も併設して成功を収め、光明丸は三宅島で一番人気のある瀬渡し船&釣り宿となったのである。

わいが九州の任地から東京の本社に戻ったのがその頃だった。九州では3年半を過ごしたが、その間、わいは磯釣りを知り、磯釣りを覚えて、ヘボではあったがすっかり磯釣りに魅了されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


47年前、わいが初めて渡島した頃の船長は、憎たらしいほどタフで逞しかった。また、その頃の三宅島は、離島ブームの追い風を受けて空前の好景気に沸いていた。
日曜日の早朝5時、連絡船のタラップから岸壁に乗船客が吐き出されると、三池港の岸壁は、たちまち、釣り客や観光客で溢れ返り、身動きできないほどに混雑した。
そこからだらだら坂を上がって一周道路までの数百メートルの区間に、まるで蟻の大群が移動するかのような長蛇の列が出現した。
また、坂の取っ付きの道脇には、サザエのツボ焼きやクサヤを売って商売をする、漁師のかみさんの屋台が10台20台と並んで下船客を呼び込んでいた。その先の道の両側には食堂、喫茶店、土産物屋が延々と軒を連ねていた。


あの賑わいはいったいどこに行ってしまったのか。夢まぼろしのように消え果てて、今は影も形も、痕跡すらも残っていない。むかしを惜しみ懐かしむのは、三宅島挽歌のノスタルジアに過ぎないのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

話変わって先日のことである。
船長が死んで、娘のむつみは「もう釣り宿は続けられねえ。」と宿を畳んでしまった。

暫くの間、わいは途方に暮れてしまったが、気を取り直して薄木荘に宿替わりした。それから1年余りが経過していた。

宿替わりして気づいたのは、薄木荘では夜釣りでも何でも制約なしのフリーなのだ。

光明丸では船長が、「朝は足元が明るくなってから出ろ。暗くなる前にけえって来い。危ねえことは絶対すんな。」加えて「夕飯の前に風呂にへえって、汗とオキアミの臭いを流しておけ。夕飯はおれと一緒に食うんだ。」これが船長の掟だった。

わいは三宅島に来ると、常に船長の掟に従おうと心掛けていた。夕食時、船長とのおしゃべりは捨てがたかった。しかし、夜釣りが封じられていたのは痛かった。


一方、薄木荘にはそんなタイトな掟はない。しいて言えば、宿への出入りの際、ドアの開閉に注意すること。これくらいだろうか。ドアを開けた途端、外猫が飛び込んでくるから、ドアを開ける時は注意してと奥さんに厳命されていた。

というのは、薄木荘では10匹ほどの外猫の面倒を見ているので、油断していると、ドアの隙間からすぐに入り込まれてしまうのだ。外猫たちは中に入りたくて、いつも入り口でウロウロしているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

という訳で、その日は早朝から昼過ぎまで釣ったけれど、外道のイスズミばっかりで音を上げてしまった。既にご主人には告げてあったが、今夜は午後7時過ぎから夜釣りをしたいので、早めに夕食をお願いしますと頼んでおいた。
ほぼ予定通りに夕食を摂り、天気予報の風速、風向から釣りやすい釣り場を選択して、南部のカドヤシキから南東部のベンケネ辺りを有力候補に予定していたが、念のため、荷物を車に置いたまま、手ぶらで釣り場を偵察したらカドヤシキは予想外に風が強かった。

あちこち釣り場を偵察しながら5キロほど走って釜方(カマカタ)までくると、更に風が強まってまるでダメだった。仕方がないので15キロほど離れた島の反対側に行って釣ることにした。

 


話は少々脱線するが、この釜方(カマカタ)という名の磯、聞きなれない呼称なので不思議に思っていたが、ある日、三宅島にまつわる文献を読んでいたら、偶然、釜方の由来が書かれていた。
江戸時代、三宅島は幕府直轄の天領だったが、三宅島には川もなければ田んぼもないので米はとれない。島民の主食は麦とか粟とか稗が主食で、それすらもわずかしか穫れないので、いつも島民は飢餓に怯えていた。
しかし、米が穫れないからと言って年貢が容赦されるほど甘くはない。米がダメなら塩で納めろと塩年貢となったが、三宅島には塩田となる砂浜がない。そこで、山から薪を伐ってきて海岸に大釜を据え、薪を燃やして水分を飛ばす釜焚き製法で塩を作っていたとあった。

その塩焚き釜を据えた場所が釜方と呼ばれるようになったのだそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



逸れた話を元に戻そう。南側の磯がダメだから、15キロほど離れた裏側に向かって一周道路を走っていると、まだ、8時を回ったばかりの宵の口だというのに、1台の対向車にも出会わなかった。途中、小さな集落をいくつか通り過ぎたが、そこにも人っ子1人、猫の子1匹歩いていなかった。ただ、ただ、外灯の白い灯だけが点々と灯っていた。
これまでわいは深夜の2時3時に走っていたので、人がいないのは当たり前だと思っていたが、宵の口のこんな時刻に人も車も途絶えてしまうとは、それは、衰退する三宅島を象徴するような景色であまりにも淋しかった


30分ほど走って、神着(カミツキ)という江戸時代に島役所が置かれていた集落に入ると、家並の数はいくらか増えたが、やはり人にも車にも出会わなかった。

ひょっとして冥途に向かう道もこんな風に静かなのかもしれないと思いながら走っていると、薄暗いカーブの木立を曲がったあたりで、突然、前方にキラキラ輝くまぶしい光が見えてきた。三宅島の夜にこんな眩しい光に遭遇したのは初めてである。

いったい何があるのだろうか。数秒でその正体に接近すると、それは古い倉庫のような建物のガラス窓から漏れ出る透明電球の光だった。

ヘッドライトに浮かんだ倉庫の壁には〇〇ストアーと白いペンキで大書されていた。ガラス戸を透して陳列棚が見えた。もしかしたら、新設されたスーパーマーケットかもしれない。ただ、店の中にも外にも人の気配はまるでなかった。空き地には車も駐まっていなかった。それでも、それは三宅島で久しぶりに見た心に灯りが点るようなほっとする景色だった。
























 

286話 メジナのために命を張れるか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜の夜行船・橘丸にはギリギリの間一髪で間に合った。
かみさんが運転する車で、19時半に東上線の鶴ヶ島駅前に到着すると、ラッシュアワーは過ぎているのに、なぜか、階段下や駅前広場に大勢の人が人だかりを作っていた。なにかのイベントでもあったのだろうか。わいは人だかりを尻目に、車のトランクからリュックサックやクーラーボックスを下ろしていると、それを見ていた若い女性が近づいてきて、
「今、電車は停まっていますよ。ひとつ先の霞が関で人身事故が起きたそうです。いつ動き出すかわかりません。」と親切に教えてくれた。
人身事故か、投身自殺だな。しかも、ひとつ先の駅とは幸先が悪い。青天の霹靂である。わいは急いで階段を駆け上ると、改札口近くにいた駅員にどのくらいで電車は動きますかと尋ねてみた。
「人身事故の処理次第です。ここでははっきりしたことは分りません。池袋に行かれるなら、タクシーでJR的場駅まで行って、そこから埼京線に乗り替えて行くことはできます。」


主要駅にホームドアが設置されて投身自殺はかなり減ったが、酔っぱらいがホームから転落したり、踏切事故や信号機故障など、電車にはアクシデントはつきものである。

だから、わいは予期せぬ事故を想定して、竹芝桟橋までの所要時間1時間30分を、大目に上乗せして3時間余りを取っていた。

 

 


 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とは言え、代替交通機関の多い都心での事故を想定していたので、こんな田舎でのアクシデントは想定していなかった。今回は、いの一番の出会いがしらに躓いてしまった。この分だと、連絡船の出港時刻に間に合うかどうか分からないと諦めかけたが、ダメ元でもいいと思い直して、川越線の的場駅まで送ってもらった。
しかし、ホームで5分、10分、15分と、いくら待っても電車は来ない。川越線は単線なので、1時間に2~3本しか走らないのだ。電車がやっと来たと思ったら、ゴットンゴットンやけにのんびり走っている。川越駅で埼京線に乗り替えたが、乗り替えた電車もまたのんびり走っている。こんなにのんびりしていたら出港時刻に間に合わない。100%アウトである。

 

 

 

 

        

 

 

 

しかし、人間、追い込まれるとばか力が出るというが、追い込まれて閃いたのが京浜東北線だった。大宮駅で京浜東北線に乗り替えればなんとかなるかもしれない。
一縷の望みを抱いて大宮で乗り替えたが、その電車もまたトロトロ走りなのだ。きっと神様がジラしているのかもしれない。底意地の悪い神様に当たったものだ。

時計を見ながらジリジリして乗っていると、それでも、なんとか浜松町駅に到着した。
竹芝桟橋まであと800m、わいは競歩の選手になって必死に歩きに歩いた。おかげで出港直前に間に合った。竹芝ではすでに乗船が始まっていた。それを横目に、乗船手続きをしていたのだから冷や汗ものだった。
必死に歩いたせいで下着まで汗びっしょりの汗だくだった。それに、心臓がバクバク早鐘を打っていた。それでも、間に合って良かった。

 

 

 



 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

橘丸に乗船して2等船室に荷物を置くと、まもなく出港のドラが鳴り始めた。船の機関音が高まって、まもなく連絡船は岸壁を離れて東京湾に乗り出すのだ。
わいは貸し毛布を3枚借りて就寝準備を整えると、漸くほっとしたので、コーヒーでも飲んでくつろぐことにした。4甲板中央部の自販機で缶コーヒーを買ってラウンジに入ると、ラウンジには誰もいなかった。丸窓の近くに席を取って、コーヒーを飲みながら所在なく夜景を眺めていると、ちらほらと船客が入ってきた。
そのうち、カジュアルな服装の高齢男性が隣の椅子に着席した。暫くするとその男性が「どちらまで行かれるんですか。」と話しかけてきた。三宅島ですよと応えると、釣りに行くのですかと畳みかけてきた。

 

 

 

       

 

 

 

姿格好を見れば釣り人にしか見えないはずだから、笑いながら、あなたは観光ですかと訊いてみると、「いや、私も磯釣りです。」と言うので、観光客みたいな服装ですねと軽く指摘すると、釣り道具から釣り装束まで、一切合切を事前に宅急便で送ってあります。
海楽というホテルです。10年ぐらい通っています。最近は家内が体調を崩したのであまり行けせんでしたが、年に10数回、一回行くと三日か四日は逗留して釣っています。

ということは、暇と金がある人なんだと察しがついた。
その御仁曰く、「最近はメジナはぜんぜん釣れませんね。その上、どこに行ってもサメだらけです。たまに大物が掛かっても、みんなサメに持っていかれてしまうんですよ。昼でも夜釣りでもおんなじです。」とため息をついた。

 









                    










4:50 橘丸が入港したのは三宅島の西側の港、阿古港だった。まだ、雄山の山の端には黎明の青さは見えず、港も集落も夜の闇に包まれていた。橘丸のマストや船体だけが、船のライトや照明で不夜城のように浮かび上がっていたが、それが妙に寒々しく見えた。
薄暗い岸壁をしばらく歩くと、集落に向かう坂道となって小さな十字路にでるが、その付近の路端に軽自動車が何台も駐まっていたので、その中に薄木荘の車を探したが暗すぎて分からなかった。うろうろ探していると、突然、背後からご主人に呼びかけられた。
車に荷物を積み込んで助手席に乗り込むと、ご主人はすぐに車を発進させた。奥さんは東京に行っているそうだけど、ご主人、さびしくないの?と訊いてみると、
「家内は母親の見舞いで毎月行っているから慣れっこですよ。だから、今夜の夕食も明日の朝もみんな私が作りますけど、いいですか。」と訊くので、いいも悪いもないでしょう。

猫10匹とご主人しかいないんだから、ハハハハ、ハ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ところで、この間ご主人が話してくれた断崖絶壁にある間鼻という釣り場について、どこからどうやって入るのか案内してくれませんか。三宅島はサメだらけになっているようだけれど、釣り人が入らない間鼻にはサメは来ないはずだから。
「いいですよ。暗いうちは危険ですから、明るくなったらご案内します。」


三宅島の海は前日まで大しけが続いていたが、その日の予報は午前中は北東風3~4mということなので、もし、南部に位置する間鼻で釣りが出来るとしたら、風裏になるし、サメも出そうもないので一石二鳥だと考えていた。
6:30 夜が明けて明るくなってきたので、早速、ご主人に道案内してもらった。溶岩が流れ下って海にせり出した断崖絶壁のどこに釣り場があるのだろうか。わいはまだ見ぬ釣り場に興味津々であった。ともかく初めての釣り場に入るときには胸が躍るものである。


 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し説明を加えておくが、間鼻のある断崖絶壁とその先に伸びるゴロタ石浜一帯は富賀浜といって、富士箱根伊豆国立公園の特別区域に指定されているのだそうだ。

わいは45年以上三宅島に通っていて、つい最近まで三宅島が国立公園だという事実を知らなかった。それを知るきっかけは橘丸の船内に掲示されていたポスターだった。
4年ほど前、橘丸の4甲板の掲示板に大きなポスターが貼り出されていたが、そこに見事な断崖絶壁の写真が載っていた。それがどう見ても見覚えのある三宅島の景色だった。
写真の下に富士箱根伊豆国立公園と書いてあったので、ええっ、三宅島は国立公園だったのかとその時初めて気づかされたのだ。

ちなみに、間鼻は薄木荘から南に1キロほど下ったところに位置する溶岩の断崖絶壁だが、強風と潮風のために植物はほとんど育たず、断崖から100~200メートル後退して行くと、やっと背の低いイソギクなどが現れ、更に数百メートル後退すると背の低い灌木やカヤやススキなどが密生した林が出現してくる。

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 


ご主人は枯草の茂る熔岩原の一角に軽ワゴンを停めると、「私に付いて来てください。」
と言うと足早に歩き出した。枯草をガサガサ踏んで暫く歩くと、景色が一変して尖ってごつごつした赤黒い熔岩台地となってそれが断崖の先端まで続いている。

ご主人は「気を付けてください。転ぶと大ケガをしますから。」と言いながら足を運んだが、更に、断崖の先端近くまで進むと、「この辺りは断崖が他より低くなっています。」

と崖っぷちを指さすので、怖る怖る身を乗り出してみると、低いと言っても10メートル近くあって足元の崖下では荒波が砕け散っていた。
さすがに断崖の先端に来ると風も強く、砕け散った荒波が飛沫となってビュンビュン飛んで来る。そして最先端で立ち止まったご主人が、「間鼻の釣り場はここです。」と指さすところを見れば、畳一枚にも満たない岩棚が数メートル下に2段見えた。その下でうねりや荒波が砕け散っていた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここですと簡単に言われても、岩棚に降りるには相当な困難と度胸が要求されそうである。万一、そこで足を滑らせた場合、ほぼ生還は無理だろうと推測された。
わいは試しに降りてみようと試みたが、深い裂け目に沿って降りるしか手段はなかったが、裂け目には手掛かりや足掛かりとなるものはほとんどなかった。


宿に戻ったところでご主人が、今日は間鼻で釣りますかと訊いてきたので、
「あそこは怖すぎるよ。空身でも降りられそうもないし、ましてや、バッカンや荷物を上げ降ろしするのに相当苦労するね。最低でもロープが必要ですね。」と感想を述べると、

「そうですね。上り降りにはロープがないと危険です。また、ロープを固定するために、溶岩の割れ目にハーケンを打ち込む必要もありますね。」
というわけで、期待を賭けていた間鼻だったが、現地を見たら断念せざるを得なかった。

ただ、ロッククライミンク゜の経験やスキルがあれば安心して釣りが出来るかもしれない。

まあ、落水して還らぬ人になるのも嫌だし、メジナのために命を張るのもバカバカしいと気づいた朝であった























 

285話 空耳だったかもしれないな

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱ、逃げるしかねえだろー。」
ええっ、逃げるしかねえだって。船長、そんな言い草ねえだろう。船長が臆病風を吹かすとは思わなかったよ。船長は腰抜けだったのかい。見損なったよー。
仮にも40~50年前、三宅島で一二を争う荒くれ漁師じゃあなかったのかい。

あの頃は光明丸の舳先に立って、長尺の突きん棒を片手に、黒潮に乗ってやって来るメカジキを、御蔵と三宅の海峡で待ち伏せて、次々に仕留めていたんじゃねえのかい。
日ごろ、憎まれ口を叩いたり、エラそうなことを言っている割にはキンタマがちいせえなあ。弟分のおれが凶暴なサメの妨害に遭って悲鳴を上げているっていうのに、助けに来てはくれねえのかい。
しっぽを巻いて逃げろっていうのかい。


「そんなことしんぺえすんな。サメの野郎なんか全部おれが退治してやらあ。」ぐらい言って欲しかったねぇ。嘘でもいいから大風呂敷を広げて欲しかったよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                      

 

 

 

 



 

 

 

 

 

これは数年前、光明丸の船長がまだ健在だった頃の夕飯の時のやりとりである。
食卓を挟んで船長と差し向かいでビールで乾杯した後、「おめえは今日、どこで釣ってたんだよぉ。」「そんで、なんか釣れたのかよぉ。」と聞くから、
うん、雑魚しか釣れなかったよ。掛かることは掛かるんだけど、大物が掛かると、サメが跳び出してきて、針掛かりした獲物を食いちぎっていくんだよ。だから、大物は全部サメにやられてしまったよ。

船長、なんとかならねえかいと助けを求めたところ、船長は暫く考え込んでいたが、ポツンと一言、おめえ、逃げるしかねえだろうと言ったのだ。

憎まれ口を叩き合ったその船長も、キンメ漁の最中に船上で倒れて、そのまま他界してしまった。あれから3年が経とうとしている。船長の死とともに光明丸は釣り宿を畳んでしまい、かつての輝かしい痕跡はもう、
なにひとつ残ってはいない。
諸行無常だな。時が流れて、時がすべてを消し去って行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話変わって前月1月のこと、わいの三宅島への渡島はいつになったらできるのだろうか。

風速、風向、水温に潮廻り、それに悪天候を避けてチャンスの到来を待っていたら、いつの間にか月末になっていた。

前週の一週間は大しけにしけて、三宅島・八丈島航路の連絡船は欠航に次ぐ欠航に見舞われていた。欠航では釣りどころか渡島すら出来ない。しかし、天はわれを見捨ててはいなかった。ついに月末の28日、三宅・八丈航路の夜行船に乗船することが出来た。


翌朝5時、連絡船は伊豆岬の付け根にある伊ケ谷港に入港した。

わいは下船客の先頭を切ってタラップを降り、薄暗い岸壁に降り立つと、待ち構えていたように背後の海から北風が吹き抜けていった。
わいは停泊する連絡船を横目に岸壁を5分ほど歩き、高い防波堤の内側に設られた小さな駐車場に到着すると、薄暗い街灯の灯りの下に、村営バスと軽自動車が合わせて20台ほど駐まっていた。
そこには今夜投宿する薄木荘の車が待っているはずなのだ。駐車中の車を一台一台確かめながら、行ったり来たりしてみたが見当たらなかった。まだ来ていないようだ。
待つしかないと待っていると、港に下る急坂を下って来る1台の車が見えた。その車のヘッドライトが木の間がくれにチラチラと光った。やっと来たようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

                                           

 

 

 

 

 

 

 


迎えの軽ワゴンに荷物を載せて助手席に乗り込むと、早速、ご主人が話しかけてきた。
「先週一週間はずっと大しけでしたよ。年が明けても、やっぱりメジナは出ませんね。」
漁師の友達の話では、時々、沖でメジナのナブラ(海面近くに浮上した魚の群れ)を見かけると言ってましたから、メジナは沖の深みに移動してしまったのかもしれませんね。
わいも応じて、適水温になったらメジナも戻って来るかもしれないね。ただ、昨日現在、水温が20℃を割ったから、サメは姿を消したかもしれないよ。メジナが釣れなくても、サメがいないだけありがたい、などと雑談を交わしている内に薄木荘に到着した。
わいはいつもの部屋に入ると急いで身支度をして、40分ほどで出発準備をすべて整えると、軽ワゴンに乗り込んでエンジンを噴かした。

 

その日の釣りは風向・風速・潮廻り・うねり具合から見てカドヤシキと決めていた。

偶然ではあるが、このカドヤシキは数年前、サメの出没に音を上げたわいが、船長に助けを求めた荒磯だが、船長からは、逃げるしかねえだろうと言われた因縁の磯なのだ。

そこはサメさえ出なければ期待のできる磯なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

背負子を背負いロッドケース片手に、荒磯に降る森に立ち入ったわいは、枯れ沢に沿って下り、溶岩や瓦礫地帯を10分ほど歩いてカドヤシキの磯に立つと、その日の海は滅法穏やかに凪ぎていた。20キロ先の御蔵島までべったりと凪ぎて、お椀を伏せた形の薄墨色の島影が眼前に迫ってくるほどの重量感を持ってまじかに見えた。
とは言え、その日の海は凪ぎすぎであった。カドヤシキは、御蔵方向からの強いうねりがワンドに侵入して大岩に当たって跳ね返り、返す波が離岸流を発生させて払い出して行くパターンが釣れるのだ。すなわち荒れ気味の方が好ましいのだ。
案の定、早朝から釣り始めて2時間余り、その日は中潮で、満潮が7時というベストタイムなのに、ほとんど潮が動かない。勿論、ピクリともアタリは出ない。
9時ごろになってやっと潮が動き始めて、ようやく初めてのアタリが出た。釣り上げてみるとカイワリだった。いよいよ時合の到来か。急いでエサを付け替えて次の仕掛けを投入すると、すぐにまたアタリがあって、強烈な引きで横走りした。
パワーや走り方から見て大物のオキナメジナだったかもしれない。なんとか走りを抑えて暴れる魚を引き寄せていると、突然、竿下の海面が割れて大ザメが跳び出してきた。

針掛かりして暴れ廻る魚は、たちまち大ザメに呑まれてハリスは食いちぎられてしまった。
 

 

 

 

 

 

                                          

 

 

 

 

 

 

たぶん、大ザメは竿下の海中に潜んでいたのだろう。針掛かりする魚を辛抱強く待っていたのだ。竿下に潜んでいれば、針掛かりした魚を楽々と横取りできることを学習していたのかもしれない。竿下の海に目を凝らすと、2メートル近い大ザメの影がゆっくりと遊弋していた。
「へっ、へっ、へっ、やっぱし、逃げるしかねえだろ。」

空耳だったかもしれないが、どこかで船長の高笑いが聞こえたような気がした。























 

284話 そのクマはガリガリに痩せていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♪♪ ある日、森の中くまさんに出会った~  花咲く森の道 くまさんに出会った~
         くまさんの言うことにゃ お嬢さんお逃げなさ~い  

                スタコラサッサノサ~    スタコラサッサノサ~ 
この歌はダークダックスが歌った「森のクマさん」という歌だけれど、童謡のクマさんや縫いぐるみのテディベアなら呑気でいられるけれど、ひとたび現実世界に立ち返ると、クマさんの実態は深刻な現実に直面し、絶滅の危機に繋がりかねない状況にある。

特に今冬はこんな歌を歌ったら天罰が下るかもしれない。

 


年明け早々、秋田だか新潟の山間の集落に、腹を減らしたクマがエサを求めて現れたというが、たちまち猟友会の鉄砲で仕留められてしまった。そのクマを解体してみると骨と皮ばかりに痩せこけていたそうだ。クマが人間の集落に迷い込んできたのは、空腹に耐えきれず、冬眠すらできなくなっていたのだろう。


たとえば、ブナの原生林が生い茂る秋田県の白神山地の1月2月は途轍もなく寒い。日中でも氷点下の気温で、水すらすぐに凍りついてしまうほどだ。そんな厳寒の季節には餌となる木の実はまったくない。それを本能的に知っているから、厳冬期のクマは巣穴の中で飲まず食わずに、糞も小便もしないで3~4か月を冬眠してやり過ごす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


まるで、土中入場をする修行僧のようだが、その冬眠に備えて、実りの秋に、どんぐりやブナの実、山ブドウなどをしこたま食べて、それに、海から川に遡上してくるサケを片っ端から捕えて栄養をとり、丸々と肥った状態で巣穴に籠るのだ。
例年ならこの時期、深い森の雪の下で、丸々と肥ったクマが巣穴に籠っているはずなのだ。そんな当たり前のサイクルがこの冬停まってしまったのは、森の実りが絶対的に不足して、クマさんは餓死寸前のエサ不足に陥っていたに違いない。

 

ネット情報の白神山地のブナの実り具合を例にとれば、凶作に輪をかけた大凶作で、例年に比して一割程度の実しか付けなかったとある。そればかりか、秋になれば海から川に遡上してくるサケの遡上も全くなく、サケによる栄養補給が全く出来なかったことも起因しているのだろう。
サケの遡上の激減は日本周辺の海水温の高止まりが主因だと指摘されているようだが、
こればっかりは手の打ちようがない。クマさん受難の時代が来たとしか言いようがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、秋田県の白神山地のことを書いていたら、昔、利島で出会ってお世話になった、秋田県出身のイガラシという高齢男性のことを思い出した。

記憶はおぼろになってしまったが、わいが頻繁に利島に釣行したのは、40年ほど前~30年ほど前までの10年くらいの期間であった。
利島に足繁く通うようになった理由は、その頃はまだ磯釣り全盛の時代で、三宅島でも大島でも、有望な釣り場は常に釣り人がいっぱいで、のんびり気ままに釣りをするなんて望むべくもなかった。かてて加えて、ほとんどの釣り場は暇と金のある釣り人やそのグループに占領されてしまって、サンデー釣り師のわいには竿を出すことすらままならなかった。

ところが、何度か利島に釣行してみるといつ来ても釣り人が少なかった。その理由は、連絡船の欠航が頻発し、しかも欠航が驚くほど長期にわたることで恐れられていたのだ。

しかし、欠航さえ甘受すればわが世の春が謳歌できたのだ。


とは言え、東海汽船の代理人、吉多屋のおやじが、早朝6時前、岸壁の先端に立って風速を測りながら、今日はこれからうんと時化るよ。上り便は欠航だななんて予想すると、岸壁の釣り人は大慌てで荷物を畳み、下りの連絡船に乗り込んで逃げ帰ったものである。

慌て過ぎて道具をしまい切れず、高価な玉網や釣り竿を置き忘れる人も少なくなかった。

ひとたび時化はじめると、置き忘れた荷物はすべて大波に呑まれてしまうのである。


ひとり残ったわいは、小さな岸壁ではあったが、岸壁一帯を独占して釣ることが出来たのである。わいにとってこれは無上の喜びであった。その代わり、吉多屋の予想通り海が時化ると、連絡船は二日、三日と欠航して、逃げ帰った人たちが正解だったと後悔させられたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 






その頃、イガラシさんは使い古したベージュの作業服を着て、左腕に漁業監視員の腕章
を付けて、日に何度か岸壁を見回りに来たものである。
当時はオキアミの撒き餌が禁止されていたのである。オキアミの撒き餌で釣ると釣れ過
ぎて漁業資源が枯渇するという理由で禁止されていたが、付け餌に使うことは許されて
いた。これは伊豆七島共通の禁止事項であったが、いつしか、なし崩し的に忘れ去られ
ていった。

1983年の三宅島雄山の噴火で三宅島への釣行が断たれると、わいは更に足繁く利島に通うようになった。

わいは利島に行くと朝から晩まで寸暇を惜しんで釣っていたし、次の日の朝までオールナイトで釣り続けることもよくあった。その根性がイガラシさんにも伝わったのか、いつの間にか親しく口を利くようになっていた。勿論、イガラシさん自身も無類の釣り好きで、利島の急坂を軽ワゴンで下って来ては暇さえあれば岸壁で竿を出していた。
凍れるような真冬の真夜中、寒月と凍り付いた波しぶきを浴びながら、岸壁の先端で釣っ
ていると、軽ワゴンでやって来たイガラシさんが、そっちは危ないからこっちきて一緒に釣ろうよ、とよく声を掛けてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

                      

 

 

 

 

 

 

 

 


イガラシさんの釣りは太い竿に太いサビキ仕掛けを付けて、アミ袋にアミを入れて、ウキもつけずに岸壁の端から竿先を出して釣る垂らし釣りであった。竿は置き竿である。掛かった魚に持っていかれないように、シッテロープでクーラーに繋いでいたかもしれない。

それを軽ワゴンの中から、タバコを吹かしながら注視していたのである。酒は飲まなかったようだが、次から次にタバコを吸うヘビースモーカーであった。
夜釣りでも、「電気ウキなんかいらねえよ。魚が掛かれば竿先が震えるし、でかいのが掛
かれば暴れてガタガタ音がするよ。」という大雑把な釣りだった。


余りの寒さに軽ワゴンに避難させてもらうこともしばしばあったが、明け方の空腹時、アンパンやソーセージを半分づつ分け合ったり、カンロ飴を上げたり貰ったりしながらあれこれ世間話をしたものである。


イガラシさんの年齢は知らない。また、聞いたこともない。35年ほど前のその頃、60代の半ばぐらいに見えた。問わず語りに聞いたことには、故郷は秋田で、零細農家の次男坊か三男坊らしく、東京に出稼ぎに来て工務店で大工見習いをしていた時、利島での建築工事の手伝いとして呼ばれて、釣りが出来るので、そのまま利島に居ついてしまったという。
「釣りが出来なきゃ、こんな島にはいねえよ。」とよく言っていた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、利島村では移住者募集とか若い人歓迎とかよく広報で募集していたので、ある時、利島に移住したら、イガラシさんみたいに毎日毎日釣りが出来るねと何気なく言ったら、「移住なんてとんでもねえ。絶対だめだ。おれなんて何十年たってもよそ者だよ。適当に利用されるだけだ。」と真剣な顔で忠告してくれた。


秋田出身と言っても、秋田のどこか聞いたことはない。また、知ろうとも思わなかった。

ただ、故郷への思い入れは強く、「利島で獲れたイセエビを故郷(くに)の兄貴や兄弟に送ってやったんだ。」「おれは浜値で安く買えるんだ。」みんな喜んでくれたから嬉しいよなあなんて時々話していたが、それから何年かして、
「ナカムラさん、こないだ久しぶりに故郷(くに)に帰ったんだけどよ。」

「おれももう齢だから、いつ死んでもいいように故郷(くに)に墓を作って来たんだ。」
生前墓ですか。早手回しだね。墓石に朱の文字で自分の名前を彫り込むんだよね。
「そうだよ。死んでからも、こんな島にはいたくねえからなあ。」と言って自嘲気味に笑った。


 

わいは帰りの連絡船の中で、最期は故郷の墓で眠りたいというイガラシさんの望郷心を思い出していた。サケには自分の生まれた川に還って来るという母川回帰本能が備わっているというが、イガラシさんにも同様の熱い望郷心が備わっていたのだ。サケもイガラシさんも、結局、行きつく所は一緒なんだと感心してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話変わって20年ほど前、その頃、わいはある事情から、利島から大島に拠点を移し替えていた。その頃のある晩、大島に向かう夜行船さるびあ丸の自販機のあるデッキで、柱にもたれて缶コーヒーを飲んでいると、釣り人らしい身なりの30代の青年から、「どちらに釣りに行かれるんですか。」と声を掛けられた。
大島だよと応えると、「いま、大島は釣れてますか。」と尋ねてきた。いくつか話を重ねている内に、わいの方から、あなたはどちらへ?と質問すると、

「大島のひとつ先の利島という島です。」と答えたので、ああ、利島なら、昔よく行ったよ。

この時季だったらイサキが出るかな。20年以上ご無沙汰しているけれど、前浜の桟橋の遥か西側に長大な防波堤を作っていたけれど、あれが完成して潮の流れが変わってしまったかな。漁業監視員の腕章をしたイガラシさんは、元気に釣りをしているかなと矢継ぎ早に質問をすると、
「ああ、イガラシさんですか。あの人は大分前に亡くなりましたよ。」
ええ、亡くなったって? 「そうです。大分前に、」


それを聞いてわいは後ろめたい気持ちに襲われた。あんなに世話になったのに、イガラシさんには一言の断りも入れてなかった。結果的に不義理をしてしまった。

せめて、電話ぐらいしておけばよかったと心が痛んだ。ただ、拠点を大島に移し替えても、そのうち利島に行くこともあるさと高を括っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

283話 太鼓判を押したばっかりに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先週の13、14日は、2週間前の月初めから三宅島の気象情報をチェックしていて、この日だったら絶対大丈夫と太鼓判が押せるほどの日であった。
12月も半ばとなれば、伊豆諸島は完全に西高東低の気圧配置となって、北西の季節風が吹きまくり、海は大しけ大荒れで磯には怒涛が荒れ狂う。そんな日では釣りにならない。
とは言え、いくら時化つづきと言っても時々は時化の中休みがある。その中休みを日本気象協会のウエブサイトtenki.jpの長期予報で探していたら、やっと好天が予想される日が見つかった。
それが13、14の両日だった。

予報では、その前後はずっと強風と大しけが続きそうだったが、この両日だけはぽっかりと風も落ちて釣り日和なのだ。まるで台風の目に入ったかのようだ。
ああ、それなのに、それなのに、12日の深夜22時、三宅島行きの連絡船に乗ろうと、竹芝桟橋乗船客ターミナルに到着すると、待合所はガランとして乗船客は30人もいないのだ。
いくらウイークデーとは言え、いったいどうしたことだろう。連絡船橘丸は排水量が6000トンもあって船長以下乗組員は60人もいるのだ。その船に乗船客が30人とは、まるで空気を運ぶようなものだ。その理由はすぐに分かった。

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

乗船券売り場の窓口で、本日の連絡船は三宅島に向けて出港しますが、海上不良や港内状況が悪い場合、入港できずに引き返すことがあります。就航の可否は現地に着くまで分かりません。以遠の御蔵島、八丈島はすでに欠航が決まっていますと告げられた。
これは青天の霹靂、想定外であった。天気予報が外れて出鼻をくじかれてしまった。
しかし、天気予報は恨めない。ダメで元々、乗り掛かった船には乗るしかない。

 

翌朝5:00 橘丸は大しけの海を乗り切って三宅島は伊ケ谷港に入港した。
薄木荘の御主人は、岸壁を300mほど行った高い防波堤の内側にある、船溜まりに面した駐車場の薄暗い街灯の下で手を振っていた。
また、来ました。よろしくお願いしますと挨拶して、軽ワゴンの助手席に乗り込むと、

「大しけですねえ。今日はどこで釣りますか。」とご主人が心配して訊いてきた。

天気予報では今日と明日は凪ると言ってたんだけどなあ。北東の風が強いから、風裏になるカドヤシキあたりなら何とかなりそうですね。

 

 

 

 

 

 

 

                                                                   

 

                   

 


 

 

 

ところでご主人、先月来た時、三日後に三宅村の産業祭が開催されるが、その日は大雨になり大しけの予報なので、連絡船も欠航しそうだから、順延するしかないと言ってスマホで連絡をとり合っていましたよね。

帰宅してからネットで検索したら、阿古小学校の体育館で開催していたみたいですね。

カボチャやニンジン、大根や白菜など野菜を山盛りにした宝船、あれはご主人の農園の産物を出展してたんでしょうと聞いてみると、
「そうです。産業と言っても、三宅村には漁業と農業しかありませんから、何とか工夫して盛り上げてみました。おかげで、招待した友好都市からも何人か来島してくれました。」
なんですって、三宅村に友好都市なんてあったんですか。それってどこなんですか?

「調布と高遠です。」

三宅島と調布間には小型のプロペラ機が1日往復3便飛んでいますね。空路で繋がっているから分かるけれど、高遠って、桜で有名なあの高遠ですか? 

まさか、江戸城大奥のスキャンダル、江島生島の繋がりじゃあないですよね。 
「そうです。スキャンダルのつながりです。」


 

 

 

 

 

 

 

 

                                                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで、大奥のスキャンダルについて説明しておくが、今から300年ほど前、江戸城の大奥で、お年寄りの江島という女官が、大奥の禁制を破って、当代人気随一の歌舞伎役者・生島新五郎と遊興し、密会の嫌疑をかけられて処罰された大事件である。江島は本来なら死罪となるべきところを、将軍家ご母堂の命乞いで一等死罪を免れ、信州高遠の座敷牢に幽閉されて生涯を閉じたという。
一方、片割れである歌舞伎役者の生島新五郎は三宅島に流されて生涯を閉じたそうだ。三宅島の神着(かみつき)という集落には今なお生島新五郎の墓があるそうだ。
*なお、大奥お年寄りとは、老人とか高齢者を指すのではなく、幕府の老中に匹敵する重職を指す。ちなみに、老中とは今で言う大臣、大老といえば総理大臣に相当する。
いずれにせよ、友好都市になったきっかけが、300年も昔の流刑人のつながりというのだから面白い。

話は少しそれるが、同じ神着の集落には、元日本社会党の委員長・浅沼稲次郎の墓と銅像がある。浅沼稲次郎は日本社会党の全盛期の委員長で、60年ほど前、日比谷公会堂で演説中、山口二也という右翼青年のテロで暗殺された三宅島出身の政治家である。
 

流刑の地三宅島には、そんじょそこらの町や村にはない、好奇心をそそられる悲劇や恩讐の歴史が残っているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

                                                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、一周道路を30分ほど走って薄木荘に到着すると、ご主人が戻ったことに気づいた外猫たちが軽ワゴンの周りに集まって来た。外猫たちはご主人の足に頭や身体を盛んにこすりつけていた。これは猫の愛情表現のひとつである。
ご主人も外猫たちの頭や首筋を撫でている。その儀式が一段落すると、乗って来た軽ワゴンを指さして、この車を使ってくださいと言って姿を消すと、暫くしてオキアミの入ったビニール袋をぶら下げて戻ってきた。
それから1時間ほどして、釣り装束に着替えて、すべての仕度と準備を整えたわいは、カドヤシキに向けて軽ワゴンのエンジンを噴かした。カドヤシキまでは5キロほどの距離だから目と鼻の先である。
前々日のデータでは水温が21.6℃と22℃を割っていたし、予報では強風や荒波も島の北側に限定されているはずだから、久しぶりにいい釣りが出来そうだ。また、釣果にも恵まれそうなので、ルンルン気分で知らぬ間に笑みがこぼれていた。

 

 

 

 

 

 

 

                            

 

 

 

 

 

 

ロッドケースを片手に背負子を背負って林の中の枯れ沢に沿って歩き始めると、冬枯れたススキやカヤがわいの前進を妨げた。しばらく歩くと瓦礫と岩石の荒磯に出たが、そこは思いのほか風が強かった。更に歩いて溶岩の突き出した荒磯に出ると沖は白く毛羽立っていた。いつも入る低い岩場には間歇的にうねりがなだれ込んでいた。

先端の岩場から20~30メートル後方の岩場までびっしょり濡れていて、潮だまりがあちこちに出現していた。直近まで波に洗われていたのだ。天気予報に寄れば、大しけは夜中までのはずだが、それがまだ残っているのだ。いわゆる時化残りだ。
竿を伸ばしたり、仕掛けを作ってスタンバイしておこうとその作業を始めると、ドッ、ドッーンと腹に堪える轟音がして先端でうねりが炸裂した。と同時に滝のような波しぶきが頭上から降り注いできた。足元に置いていたバッカンやロッドケースが吹き飛ばされた。

これはヤバイ。命も惜しい。わいは更に後方に下がって時化の収まるのをじっくり待つことにした。しかし、御蔵島方向から打ち寄せるうねりは、目前の岩場から数百メートル先の荒磯まで、次々に襲い掛かっては水柱を噴き上げ炸裂していた。

これではいつまで待っても竿は出せそうもない。わいは更に後方に下がって2時間半ほど、うねりの跳梁跋扈を眺めていたが、ついに結論を出した。今日はや~めたと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                            

 

 

 

 

 

 

 

薄木荘に戻ると、ビニールハウスから戻ったご主人が日差しの下で一服していた。

食堂の軒下のコンクリートに直に腰を下ろして、外猫の頭を撫でながら、

「どうでした。何か釣れましたか。」と聞くので、風裏だと思っていたら、風とうねりが強くなって、うねりがドッカ~ン、ドッカ~ンと炸裂して、下手をしたら命を落としかねなかったので竿は出しませんでした。
夕べは大しけだったので船が動揺して目が覚めてしまったし、寒くて眠れなかったから、ゆっくり昼寝して体力を回復させます。

明日は午前1時に起床して、2時半から磯に立つつもりです。しけが収まっていれば期待できそうですね。ご主人とそんな会話をして、その日は釣りもせずに終わった。
























 

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