322話 死神を振り切って生き延びた男
釣り始めて8時間余りが経過した。この海域に棲息する生物すべてが死に絶えたかと思われるほど寒冷な海で、やっとウキが消し込んだ。地獄に仏とはこんなことを言うのか。 しかし、竿から伝わってくる感触は小物でしかない。釣り上げてみると20センチ足らずの小メジナだった。いつもならリリースだが、今回は持ち帰ることにした。
そんな小さなメジナやイスズミが、その後2時間で10匹ほど釣れたが、すぐにまた無反応の海に還ってしまった。しかも日没を境に、雨粒を伴った強風が音を立てて吹きはじめた。
これでは釣りにならない。頭の隅に撤収という言葉がよぎったが、撒き餌はまだ十分に残
っているし、ここで撤収したら尻尾を巻いて逃げるに等しい。もう少し粘ってみることにした。
しかし、刻一刻と風雨は烈しさを増して、時として突風まで伴ってくる。腰を落としていない
と突き倒されてしまいそうだ。強風と冷雨に打ちのめされて、徐々に戦意は喪失して行った。19時、ついにわいの心はぽっきりと折れてしまった。撤退するしかない。
このまま意地を張っていたら低体温症になりかねないし、あまつさえ、帰路の枯れ沢には雨水が集中し、濁流になっているかもしれないのだ。車に戻る途中に、いくつか難関はあったが、なんとか軽ワゴンまで辿りついた。
おくやま荘に帰着したのは21時を回っていた。おくやま荘の中庭は猫の額ほどしかないが、その中庭に軽ワゴンを乗り入れて、わいは雨の中、潮を被った釣り道具を洗い始めた。最後に、釣れた魚をクーラーに入れ直して氷を入れていると、なにやら背後で人の動く気配がした。振り向いてみると、ヘッドランプの光の中に浮かんだのは白っぽい服を着た男だった。その男はわいの肩越しにクーラーを覗き込んでいた。一瞬ぎょっとしたが、たぶん、おくやま荘の釣り客なのだろう。
わいは男に、今日はこんな雑魚しか釣れなかった。お恥ずかしい限り。なにしろ、風雨が烈しくてギブアップするしかなかったからと語りかけると、男は一言も発せず、わいの顔をじっと見つめていた。なぜか、男の両鼻の穴には脱脂綿が詰め込まれていた。花粉症かもしれないが、不気味なことこの上ない。
終始無言の男に「今日はどこで釣っていたのですか。釣れましたか。」と尋ねてみると、男は両手を拡げて、左右の手の指で二つの輪を作ってゼロを示した。更に、両腕を交差させてバツ印を作り、ダメだったと表現した。この男、ふざけているのか、わいをからかっているのか。コメディアンでもあるまいし、パフォーマンスはほどほどにしろと腹立たしくなってきたら、それを感じ取ったのか、男は逃げるように姿を消した。
気が付けば釣り宿前の狭い露地に、エンジンをかけたままの軽トラックが停まっていた。男はその軽トラックの荷台でなにかを探していたが、暫くすると、黒い板状の物を手にして戻ってきた。わいの目の前にそれを差し出すと何か書き始めた。見れば、それはタブレットで、画面に電子ペンで文字を書いているのだ。
タブレットには 「私は2年前、喉頭がんを患って、手術をして声を失いました。」と書かれていた。次の文言には 「朝から晩までトウフ岩で釣っていましたが、ピクリともアタリはありませんでした。結果はボウズで、なんにも釣れませんでした。」と書かれていた。
そうだったのか。聾啞者だとは気づかなかった。聾唖者がたった一人で、あの人里離れた原生林の崖下で、よくぞ今まで頑張っていたものだ。
わいはタブレットに書かれた文言に感動してしまった。すぐさま、男の肩を叩いてタブレットを奪うと、「この暴風雨の闇夜に、原生林の真っただ中で、よくも、今まで頑張っていましたね。私はあなたを尊敬します。」と書き込むと、それを見た男は嬉しそうに頷いてくれた。
釣り道具を洗い終わって一段落したので、釣り宿に上がると、おばさんが食堂の隅で、所在なげに腰かけていた。「まだ、起きていたんですか。今、表でお客さんらしい人と出会って筆談をしたんだけれど、聾唖者がたった一人で釣りに来ていたんですね。その人の気迫と根性には圧倒されました。」と話すと、
「あの人はね、ヤジマさんていう常連さんだけど、5年間釣りに来られなかったんだよ。」 その5年の間に、最初は大腸がんの手術をして、次に胃がんの手術、その次は腸閉塞の手術、そして、2年前には喉頭がんの手術をして、やっと去年から磯釣りが出来るようになったんだよ。
へ~え、5年の間に4度も大病をして、死神のまな板に何度載せられても、磯釣りを続けているなんて剛毅な人ですね。さっき、庭先でタブレットを介して筆談をしていたんですが、まったく病人には見えなかったですよと言ったら、
「あんたがタブレットを使うことはないんだよ。あの人は声は出せないけれど、耳は聞こえるみたいだからね。でも、小さい声はダメだよ。」
それに、あの人はあたしと同じ82才だけれど、一度釣りに出たら、真夜中まで帰ってこないんだよ。もし、何かあっても、声が出せないから携帯は使えないし、あたしは心配で心配で、帰ってくるまでこうして起きているんだよ。
翌朝7時、わいがまだ二階の部屋でまどろんでいると、階下から「ナカムラさん、ナカムラさん、」とおばさんの呼ぶ声が聞こえてきた。食堂に降りて行くと、「今日は大しけなのでジェット船は全便欠航だって。今、防災無線で放送があったよ。どうするの、」と訊くので、往復とも大型客船だから大丈夫ですと応えて、食堂のテーブルを見ると、昨夜のタブレットの男が黙々と朝飯を食べていた。
昨夜、ヘッドランプの光の中で見たときは、矍鑠とした冒険家のように見えたが、朝の光の中で見ると、哀しいかな、くたびれかけた老人だった。
わいは男に歩み寄って、テーブルの上に置かれたタブレットに
「この暴風雨の最中に、まさか、釣りには行かないでしょうね。」と書き込んだら、男はにやりと笑って、「朝食がすんだらすぐに出かけます。昨日とおんなじトウフ岩です。リベンジです。」と書き込んだのだ。
やはりこの男ただ者ではなかった。死神の手を振り切って生き延びた男なのだ。
321話 いくら抗っても低水温には勝てない
【先日、こんなニュースがウエブサイトに掲載されていた】
鳥取沿岸のハマチ漁場でハマチが消えた。ハマチ漁は過去30年で最低という記録的な不漁に陥っている。「去年は目に見えてひどかった。これだけ獲れなかったのは初めてだ。」2月下旬、ハマチ漁師の谷本達郎さん(39)は嘆息した。
生計を支えてくれていたハマチが昨年、急に姿を消した。経験的にいると思われる海域に網を入れてもかからない。漁獲量は前年よりさらに激減し、収入は半減し、船の燃料代や資材費の高騰が追い討ちをかける。
今冬、日本海側は最強寒波の襲来とかで暴風雪が相次いだ。伊豆諸島の海域も、これに負けず劣らず大しけに見舞われていた。2月下旬のある朝、この大しけもいずれは収まるだろうと、インターネットの週間天気予報を子細にチェックしていると、数日先に凪ぎそうな日が見つかった。
わいはすぐさま、大島のおくやま荘に電話して、3月初頭の日曜夜、竹芝桟橋を出航する大型客船で行きたいんだけれど、翌朝の迎えは大丈夫ですかとおばさんに訊いてみた。すると、「月曜日の朝6:00到着のさるびあ丸だね。その日なら大丈夫だよ。お待ちしてます。」と即座に快諾してくれた。
じゃあ、オキアミは前日の夕方から溶かしておいて下さいと頼んで、果報は寝て待てとばかりに出発の日を待っていたが、出航当日になると天気予報は急転し、明日から明後日にかけては風雨が強くなって大荒れになる。と好日予報が暗転した。
なにを今更と思ったが、天気予報に文句を言っても始まらない。しかも、準備万端整っている乗り掛かった船なのだ。この期に及んで延期はできない。という訳で、悪天候を承知の上で渡島することにした。
早朝6時、連絡船は岡田港の岸壁に接岸した。100人余りいた下船客の先陣を切ってわいはタラップを降りて岸壁を歩き出したが、雨はぽつりとも降っていない。風も吹いていなかった。曇り空から時折薄日が漏れてきたから、天気予報が外れたのかもしれない。
タラップを降りてから岸壁を200メートルほど歩き、港の駐車場に着いたので、迎えの車は来ていないかと目を皿にして探してみたが、それらしい車は見当たらなかった。
暫く待っていると、港に降る急坂を下ってくるおばさんの軽ワゴンが見えた。
車に乗り込んだわいは、天気予報では今日から明日にかけては大しけになるって言っていたけれど、そんな気配はないね。ところで、おくやま荘にはわいのほか誰か来てるのと訊いてみると、「あんただけじゃないよ。釣り好きがもう一人来ていて、もう出かけたよ。」「天気はこれから悪くなるかもしれないよ。」とおばさんのご託宣である。
車は暫く走っておくやま荘に到着した。食堂の椅子に座って、おばさんが淹れてくれたお茶を飲みながら、今回は大型船で来て大型船で帰るから、時間的な余裕はたっぷりある。今日は夜の夜中まで腹いっぱい釣ってくるよ。その代わり、明日は何もしないで昼まで寝ています。天気予報では北東風が強くなるらしいから、風裏になる千波崎のニツンバに入ります。と大まかな予定をおばさんに話しておいた。
わいは30分ほどかけて釣り支度を整えると、軽ワゴンのエンジンを噴かして15キロ先の西側の荒磯ニツンバに向かった。ニツンバに入るには、バウムクーヘンという名の幾重にも露出した地層を横目に、その先を幹線道路から外れて樹林帯の旧道に侵入して行くのだ。
木々や木の葉がトンネル状になった山路を走っていると、突然、路脇のブッシュから子犬のような動物が飛び出してきた。あわてて急停車したが、それはキョンという小鹿に似た小動物だった。キョンはちっちゃくて可愛い顔はしているが、農作物を食い荒らすので、邪魔者扱いされて嫌われている。大島で大繁殖して現在、推定2万頭余りが棲息しているというから、島民7000人の3倍近くがいることになる。いずれにせよ轢き殺さなくてよかった。
樹林の路脇にニツンバ入り口の白いポールを見つけたので、軽ワゴンをポール近くのブッシュに突っ込んで停めると、背負子にバッカンやリュックを括りつけ、ロッドケースを片手に、樹林の中の深く抉られた枯れ沢を下って行った。荷物の総重量は15キロほどだが、雨水で抉られた枯れ沢は滑りやすく穴だらけだから、歩くだけでも堪えるのだ。枯れ沢を抜けても、更に溶岩と瓦礫地帯を昇ったり降りたりしなければならない。それでも20分ほどかけて、目的のニツンバに到着した。
不思議なことにニツンバの磯には波も風もなかった。20キロほど離れた西方の海上にはフジツボ状の島影をした利島がポッカリと浮かんでいた。海面には小じわのような縮緬波があるだけで、まるで湖沼のように静かだった。
溶岩に腰かけて仕掛けを作って、いざ7時過ぎから釣り始めたが、1時間たっても2時間たってもコツリともアタリはなかった。撒き餌の回数を上げても大量に撒いても、また、棚を深くとっても浅くしてもまったくアタリはない。棲息する魚が死滅したのかと疑うほどだ。
アタリのないまま3時間ほどたった頃、曇り空の一角がポッカリと開けて太陽が顔を出した。早春の日差しが降り注いできたのだ。やはり、明るい日差しは嬉しいものだ。
しかし、その喜びも束の間だった。10分もすると暑くて暑くて堪らなくなった。余りの暑さにヤッケを脱ぎ捨てて額の汗を拭った。
5時間ほど経過して正午を過ぎたが、やはりアタリはまったくない。水温が低すぎるのだ。
午後1時を過ぎると風が出てきた。その風がにわかに強くなって、しかも異常なほど冷たいのだ。脱ぎ捨てたヤッケをあわてて着直した。
遥か西空を見るとそこは暗雲に覆われていて、さっきまで見えていた利島も妖しい雲に覆われていた。恐らく、利島の周辺はすでに大雨なのだろう。そのどす黒い雲がこちらに向かって接近しているのだ。
※ このつづきは、次回 「死神の手を振り払って逃れてきた男」 に掲載します。
320話 まさか、こころの風景に出会えるなんて
上の写真は正月の二日、首都圏には珍しい降雪の日の写真である。その数日後、東京練馬区に住むある人から、こんな写真がラインで送られてきた。
しんしんと雪の降る夜の裏通りを、何事もなく歩いていく二人の姿。
降りかかる雪は冷たいはずなのに、傘もささずに歩いて行く二人。
不思議なことに、わいの目にも雪の冷たさはまったく感じられない。二人を包む街灯りは、むしろほのぼのと温かくさえ見えるのだ。
その時、二人の向こうに、なつかしい歌声が聞こえてきた。涙ぐむほどなつかしいその歌声はわいの心に灯をともした。
雪の降る街を~ 雪の降る街を~
思い出だけが通り過ぎてゆく 雪の降る街を~
何にもなかったわいの少年時代、家には壊れかかった古いラジオだけがあった。
そのラジオから、ザーザーという雑音に混じってこの歌が聞こえてきた。だから、わいはこの歌を聞いて育ってきた。ただ、この歌を聞いても、わいは寂しいのか、悲しいのか、うれしいのか、さっぱり分からない。思い出だけが複雑に絡み合って蘇ってくる。
この歌が聞こえた頃は、テレビもない。洗濯機もない。食べるものさえままならない時代だったから、壊れかけたラジオでも音さえ出れば辛抱出来た。ラジオ全盛時代というか、娯楽といえばラジオしかなかった時代だった。
この歌の作詞は内村直也。作曲は中田喜直という人らしいが詳しくは知らない。
「雪の降る街を」の幻想的で物悲しいこの歌は、昭和27年のNHKラジオドラマの挿入歌として誕生したそうだ。当時のラジオドラマは生放送だったので、ある回の放送前日におけるリハーサルで、時間が余ることが分かって、その時間を穴埋めしようと急拵えでこの歌が制作されて、最初は劇中歌として使われたそうだ。
わずか数分の時間つなぎではあったが、放送終了後、問い合わせが殺到したため、その後レコード化したところ、これが大ヒットしたというエピソードが残っている。
リハーサル現場で作詞を依頼された内村直也は、即座に現場の片隅でペンを取って、たちまちこの詩を書き上げてしまったという。作曲を担った中田喜直はこの曲を作る際、かつて、山形県鶴岡市で見た古い城下町の降雪風景を思い起こしてメロディを紡いだそうだ。後世に残るこの名曲はこの二人の天才によって、わずか一日という短期間で完成し、翌日の本番に間に合ったそうだ。
モデルとなった鶴岡市は庄内平野の西端に位置し、北側に日本海を擁し、南側には山岳信仰の山、羽黒山を仰ぎ見る城下町である。江戸時代、鶴岡には庄内藩の本拠地が置かれ、庄内地方の行政の中心地として栄えたようだ。また、三屋清左衛門残実録などで知られる、武家もの市井ものを描いた時代小説作家の藤沢周平氏の生誕の地でもある。
さて、しんしんと降る雪の夜は静かである。雪はすべてを包み込んで隠してくれる。
319話 無事だったから、幸運なのだ
わいが、ご主人の墓参りを了えて軽ワゴンの後部座席に乗り込むと、おばさんが、「折角、釣りに来たのに、元町に立ち寄ったり、墓参りをしてもらったり、あっちこっち引っ張りまわしてあんたの邪魔をしてわるかったね。」と言うので、そんなことはないよ。今日の干潮は2時頃だし、どうせ、その前後は釣りにならないんだから。夕マズメから深夜にかけてが勝負だから、急がなくてもいいんだよと話している内におくやま荘に到着した。墓のある神泉寺とおくやま荘は集落の南と北に位置しているので、ものの5分もあれば着いてしまうのだ。
とは言え、わいが岡田港に上陸してからすでに2時間余りが経過している。時計の針
はすでに12時を回っていた。おばさんに、おにぎりを食べてから出かけるけど、その先
はぶっ続けで真夜中まで釣るから、夕食はいりませんと断っておにぎりを食べ始めると、おばさんが熱いお茶を煎れてくれた。
この先、真夜中まで10時間余り釣り続けるには、途中、必ず空腹を満たさねばならな
い。また、真夜中に帰ってきてもすきっ腹では眠れない。おくやま荘では、何時戻ってきてもいいように食事の用意はしてくれるが、それは、おばさんが夕方7時前に作った料理を長テーブルに並べてくれて、一人前づつ蝿帳をかぶせて置いてあるだけなので、真夜中になると、料理はカサカサに乾いて、その上冷え切ってしまい、まるでうまくないのだ。だから、弁当とかパンを用意するのがベターなのだ。
おにぎりを食べ、釣り支度を整えて、釣り場に向かって軽ワゴンを発進させたのは午後1時を回っていた。その日、天気は快晴だったが、北西風が強くなるという予報が出ていたので、風裏となる三原山の東側に入磯することにした。まず、期待できそうな磯を偵察してみることにして、車を一周道路の道脇に停めて、荷物は車に置いたまま手ぶらで、鬱蒼とした斜面を降っていくと、すぐに山径はブッシュの中に消えてしまい、カヤや笹藪を掻き分けて進んでいくことになった。暫く進むと木立の隙間から海が見えてきた。
ここは通称マツザキという磯で、20年以上前までは人気の高い釣り場だった。週末に
は釣り人が先を争って押し寄せるほど混みあったが、笹薮に埋もれてしまった現状を見ると、最近は誰ひとり寄り付かないのだろう。
わいも15年以上ご無沙汰しているので、現在、ここがどうなっているのか、この目で
確かめないことには釣りは出来ない。笹薮の中を暫く降って行くと、とげとげした溶岩
の荒磯に出て眺望が展けてきた。その荒磯には大きな流木が漂着して横たわっていた。
また、溶岩の岩場は荒波で破壊されたのか、大きく裂けて溝が出来ていた。かつての
景観とは異なって様変わりしていた。更に全体を見渡せる突端に出てみると、足元の
海からは沈み根が頭を出していたり、沖に向かって沈み根が張り出していたりして浅く
なっていた。潮はまったく動いておらず、まるで湖沼のように波もなくべたなぎであった。
これではまったく期待できない。再び斜面の途中まで戻って、その先の磯を偵察してみ
たが、そのあたり一帯の潮は完全に死んでいた。
マツザキ周辺をかれこれ1時間以上は偵察したろうか、しかし、釣れそうな磯はひとつ
としてなかった。諦めて、一周道路に停めた軽ワゴンに戻ると、すでに午後の陽は三原
山の山陰に隠れて夕闇が迫っていた。夜釣りに備えて、夕食と夜食を買っておこうと、
Uターンして泉津集落に舞い戻り、集落に一軒しかない武田商店前で停車すると、
まだ4時前というのにもう店は閉まっていた。後にも先にも泉津集落の商店はここ一軒
しかない。
たしか、30年ほど前、泉津集落の酒屋として、風雪に耐えてきたオンボロの建物が
取り壊されて、新しい店舗に建て替えられたので、その後、何度か立ち寄ったことはあ
るが、かつてはおにぎりや弁当、コロッケなども置いてあって便利ではあった。しかし、老人ばかりのこの小さな集落でよく商売が成り立つものだと感心したものだった。
直近では昨年の11月ごろ、売れ残っていたアンパンを1コ買った憶えはあるが、今回
は生憎閉店しているのでここでは買えない。仕方なく、5キロほど離れた「げんろく」とい
う食品スーパーに向かうことにした。げんろくまでの道路は都道なのでよく整備されているが、途中の沿道には商店はまったくなくて民家もない。その代わり、時々、沿道の樹林の上に張られた電線上に、カラスのように数十匹の野猿が留まっていたりするのを見ることができる。
大島は東京都に属する周囲50キロほどの大きな島だが、コンビニはただの一軒もない。町役場のある元町周辺には食品スーパーが数軒あるが、そのスーパーも午後7時にはぜんぶ閉店してしまうので、必要な食料は7時前に調達しておかないと大変なことになる。うっかり忘れると餓死しかねない。大島は元より、伊豆七島にはただ1軒のコンビニもない。だから、大島に来るとコンビニのありがたみがよくわかる。
げんろくで弁当とコロッケを調達して再び泉津に舞い戻って、おくやま荘近くのオオツク
ロに入ることにした。風が出てきたので、大きな岩壁を背にして高場で釣ることにした。
オキアミのコマセを気前よく放射状に打って、いざ仕掛けを投入すると暫くしてウキがビューっと引き込まれた。こんな引き方は雑魚でしかない。案の定、赤ちゃんの手の平ほどのメジナだった。そんな小魚とのやり取りが30分ほど続いて、夜の帳が荒磯を包んできたので、ウキを電気ウキに取り換えると、今の今まで続いていた雑魚の引きが突然なくなった。
すわ、潮が変わって大物の時間がやってきたのだ。早速、ウキ下を深くとって仕掛けを投入すると、グググーッと大物の引きである。わいの読みというかヤマカンが的中したのだ。
釣れたのは大物ではなかったが、35センチほどの姿形のきれいなオナガグレだった。
さあ、これに続いて次々に釣れまくるかもしれない。わいは貪欲ではないから、せいぜい8匹程度で満足である。まだ、6時だから、今夜は9時ごろまでに納竿することになるかもしれないと皮算用していると、その後は大物どころか、赤ちゃんサイズすら食って来なかった。
6時を過ぎた頃から、急にピクリともアタリがなくなったのだ。針につけたオキアミはそのまま返ってくる。針につけたオキアミを触ってみると、氷水に浸けたように冷たい。
突然、潮が変わって冷水塊が入ってきたのだ。水温低下で、魚たちは瞬時に活性を失ったのだ。こうなるともう釣りにならない。
しかし、わいは諦めなかった。奇跡よ起これとばかりに、これでもか、これでもかと仕掛けを打ち込み続けた。しかし、神仏に無視されたのか、はたまた却下されたのか、その執念は天には届かなかった。
凍えるような真冬の夜の荒磯で、ひたすら竿を振りつづけた一竿子に、神仏の慈悲は届かなかった。22時、ついに精魂尽き果てたわいは投了してギブアップと相成った。
その後の磯上がりの行程は過酷でつらかった。寒さと疲労でくたくたになっているところ
に、背中の荷物の重かったこと重かったこと。溶岩突起に躓いて転びかけたり、枯草
のアシにスパイクを引っ掛けたり、何度転びかけたか分からない。それでも、転びもせず
になんとか釣り宿に帰り着いたのだから、運が良かったと言えるかもしれない。
翌朝の朝食時、おばさんと話していて、きのう、神泉寺近くの武田商店で買い物をし
ようと立ち寄ったら、4時ごろなのに、もう店を閉めていたんだよ。いくらなんでも早す
ぎるよねと話すと、
「知らなかったの。武田商店は大晦日の12月31日で店を閉めてしまったんだよ。
あの店も建物も誰かに買い取られてしまったそうだよ。」
318話 宵祭りの昭和レトロな古道具
このところ冬型の気圧配置が続いていて、シベリアから猛烈な寒気団が押し寄せて、伊豆諸島は連日、北西の季節風が吹き荒れ海は大しけである。大島に渡島したくても、高速ジェットフォイルはしばしば欠航している。チャンスはなかなか巡ってこない。
しかし、行かねばならぬ。行かねばならぬのだ~
釣り人が来島しなければ、おくやま荘は宿を畳んでしまうかもしれない。そうなったら取り返しのつかないことになる。そう考えた刹那、三波春夫の大利根無情の唄が、耳の奥から空耳のように聞こえてきた。
利根の~ぉ 利根の川風よしきりの~ 声が冷たく身を責める~ ♪♪
「止めて下さるな、妙心どの。落ちぶれ果てても平手は武士じゃ、おとこの散り際は知っており申す。 行かねばならぬ、行かねばならぬのだ~。そこをどいて下され、妙心どの~」と血闘の場に向かう平手神酒の心境と、わいの心境が突如一致してしまったのだ。
足腰が弱って気力が萎えてきたおばさんが、「もうダメ、やっぱり宿を畳むことにしたわ。」なんて死刑宣告をしてきたら、わいは路頭に迷ってしまうだろう。 神様仏様、そんな悲劇が起こらないようにと願いながら電話を掛けると、
「あら、ナカムラさん、いつ来るの。明後日の朝の高速ジェット船ね。ちょっと待ってね、
メモ帳をみるから。」
「土曜日ね、いいですよっ。お待ちしてます。」とすごく元気な声で溌溂としていた。 このところ不安心理が先立って、電話をするときは気が重かったが、いいですよの一言で拍子抜けしてしまった。
ところで、1月の31日はおくやま荘のご主人の命日でもある。おばさんは毎日毎日、墓参りをして線香をあげているそうだから、一年という月日の経過で、少し諦めがついたのかもしれない。また、月日が流れて心の痛みを和らげてくれたのかもしれない。
わいも渡島したら、いの一番に墓参しようと線香を一束持参することにした。それがご主人への供養になるばかりか、おばさんへの激励にもなる。また、おくやま荘を長続きさせることにもなるかもしれない。
8:30 高速ジェットフォイルは竹芝桟橋を出港すると、「まもなく本船はテイクオフしますので、必ずシートベルトを着用してください。」とアナウンスがあって東京湾に乗り出した。
ジェットフォイルは海水をジェット流として高圧噴射して海面を疾走するが、翼走速度は時速83キロという高速で、ツバメより速いのだ。従って、竹芝桟橋から大島までの所要時間は2時間弱である。ちなみに大型客船では8時間の船旅となる。
10:30 ジェットフォイルは大島は岡田港に入港した。わいが港の駐車場の入り口付近でリュックやロッドケースを肩から下ろして突っ立っていると、15分ほどして、おばさんの軽ワゴンが坂道を下って来るのが見えた。広場の入り口近くまで来ると、おばさんはわいの姿を認めて、片手を上げて今来たよの合図をしてくれた。いつも一人で来るおばさんだが、その日に限って、助手席に見慣れぬご婦人を乗せていた。たぶん、茶飲み友達でも乗せてきたのだろうとわいは気にもとめなかった。
軽ワゴンのハッチバックを開けて荷物を載せると、わいは後部座席に座って、出迎えの礼を言うと、おばさんが、「わるいけど、元町を廻って行くけど、いいかい。」と断りを入れてきた。急ぐ旅ではないからいいよ、と答えると、釣り宿とは正反対の方向に向かって走り出した。元町までは片道8キロ余りの一本道である。
元町の市街地に入ると、助手席のご婦人がさっさと車から降りて、急ぎ足であちこち廻っていたが、わいがおばさんに、「ずいぶん元気のいいお友達だね。」と言うと、「あれは友達じゃないよ。妹だよ。元町で茶葉店をやってるんだよ。」
今日はオキアミを積んだ貨物船が元町に入港したんで、注文したオキアミを引き取りにきたんだけど、あたし一人じゃ積み下ろしなんて出来ないから、妹に手伝ってもらっているんだよ。
オキアミ8個入りの段ボールを5箱注文していたんだけれど、オキアミは1個3キロあるから、一箱で24キロになるんだよ。重くて持てないよ。段ボール5箱でしめて120キロになるから、あたし一人じゃ積んだりおろしたり出来ないんだよ。
あちこち廻って20分ほどで妹さんの方の用件が済んだので、これから宿に戻るけど、迷惑をかけてわるかったねとおばさんが言うので、これくらいどうってことないよと答えて、
「今月の31日はご主人の命日だったよね。宿に戻る前に、墓参りをしていきたいんだけど、神泉寺に寄ってもらえませんか。」と頼んでみると、
「そりゃ嬉しいね。お父さんも喜んでくれるよ。」とおばさん。
「仏様がうんと喜んでくれて、そのご利益で、大漁まちがいなしだよ。」と妹さん。
墓参りの道具はここに全部積んであるからね、とおばさんが助手席の足元を指さした。
そこには線香や墓参り道具が足の踏み場もないほど置いてあった。
墓地に向かう途中で、ご主人いくつで亡くなったんだっけと訊いてみると、
「85才だよ。昭和14年生まれだからね。生きていれば今年で86才。あたしは昭和18年生まれで、妹は昭和21年。あんたは何年。」と聞かれたので、22年生まれだからお二人の弟分だね。
85才でしたか、ご主人、結構長生きしたんだねえ。ご主人は戦時中の幼い頃、東京から伊東に疎開して、食べる物がまったくなかったから、母親が山林の一角を借りて、そこにサツマイモ畑を作って、辛うじて飢えを凌いでいたそうだね。
終戦後、戦地から戻ってきた父親は、女を作って、妻子を捨てて戻ってこなかったと嘆いていたね。中学を出たらすぐ、川奈のホテルで板前の見習いをして一家を支えたそうだね。
板前になってからはあちこち転々としたらしいけど、大島に居ついて、釣り宿民宿を開業して大成功したんだよね。ご主人からその苦労話を何度も何度も聞かせてもらったよ。
苦労しただけあってご主人は逆境に強かったね。それにアイデアマンだったし、きっと頭が良かったんだと思うよと話していたら、
「頭がいいなんて言われたら、お父さん、大喜びに喜んじゃうよ。」とおばさん。
元町から20分ほど走って、神泉寺近くの道脇に車を停めると、助手席にいた妹さんが、
足元から線香の束と古びた金属ポットを取り出して、先に立って歩き出した。 わいも持参した線香を片手に、去年来た時のことを思い出しながら墓地の中を進んでいくと、そっちじゃないよ。こっちだよ。と妹さんが案内してくれた。ご主人の墓の前まで来ると、ここだよと言いながら線香の束を崩し始めた。
わいも線香に点火しようと、丸めたコピー用紙にライターで着火しようとしたら、風が強くて何度やっても火が点かなかった。妹さんを見たら、真鍮の金属ポットを片手で持ち上げて、重い重いと言いながら火をつけようとしていた。金属ポットの尖ったくちばしからは青い炎が激しく噴き出していた。
この金属ポットは昔どこかで見たことがある。そうだ、60年も70年も前、夏祭りの夜店とか神社の境内の露店で灯明として使われていたような気がする。あのころは電池や懐中電灯はまだなかったし、野外では電灯どころではなかったからな。 二人が線香に火をつけようと悪戦苦闘していると、足を引きずりながら、おばさんが墓前に現れた。金属ポットの扱いに戸惑っていた妹さんからポットを取り上げると、それを器用に操って、たちまち線香に火を点けてしまった。
ネットで調べてみたら、この金属ポットはガソリン式トーチランプと言うものらしい。タンク内に空気を送り込んでガソリンに圧力をかけてバーナーヘッドに送り込んで、点火すると炎が噴きだして、その炎を灯火として利用するとあった。
このポットはその昔、宵祭りや縁日の露店や屋台で照明として用いられていたらしい。 そんな古道具が、おくやま荘ではまだ現役で使われていたのだ。
317話 鬼才からの年賀状
元旦に鬼才からの年賀状が届いた。添え書きに、ミミズののたくったような文字で「腰痛が酷くてもう磯釣りはできなくなった。」と悲痛な心情が記されていた。
鬼才から釣りを取ったら何が残るだろうか。わいは鬼才の落胆を慰めてやろうと、即座にメールで返してやった。
鬼才よ、貴公はもう齢なんだから無理をしてはいけない。もう、危ないことは出来ないんだよ。今更、釣りなんかしなくたっていいじゃないか。死にはしないからさ。貴公はこれまで反吐が出るほど釣りをしてきたんだからね。
それに十八年ほど前の今頃、正月休みを利用して、吉備高原のリハセンターから、高知の宿毛沖にある鵜来島 ( うぐるしま ) まで、単独で遠征したことがあったよな。
生憎、その時は天候が悪化して豊後水道の海は大しけとなり、鵜来島の磯は波をかぶって、猛烈な風が吹き荒れたそうだな。
その時、貴公は突風に衝き倒されて、あわや転落寸前の危機に見舞われたそうだね。
幸か不幸か助かりはしたが、岩に激突して肋骨の骨折という大けがをして、その痛みに耐えながら、吉備高原まで運転して帰ったそうだな。その後暫くして、散々な目に会ったと痛恨のメールが届いたのを今でも鮮明に憶えているよ。
あの時、貴公は九死に一生を得たのだ。だから、今、生きているだけで恩の字なんだよ。今更釣りができなくたって、どうってことはないだろう。
わいと鬼才は30年来の釣友である。釣友と言っても職場は違うし住まいも立場もかけ離れていた。ただ、両者とも釣りが好きで、釣りに生涯をささげてきたところは共通する。また、たとえ釣りが出来なくても、年がら年中釣りのことを考えていた中毒患者であるところも共通している。
30数年前、ある人から、君と同じような釣りきちがいると紹介されたが、それが鬼才と出会ったきっかけだった。それをきっかけに釣り情報などのやり取りが始まって、三宅島や八丈島へ一緒に釣行したりするようになった。ただ残念なことに、鬼才は国家公務員の上級職で某省の幹部であった。ただし、世渡りやゴマすりが不得手だったので出世には恵まれなかった。勢い、どさ廻りとか人工衛星とよばれる地方勤務が多くなって、それと共に一緒に遠征する機会も少なくなっていった。
ふつうキャリアと呼ばれる上級職の多くは、本省で勤務して、本省で出世していくことを望んでいるが、鬼才に関して言えばその真逆で、むしろ本省勤務より地方勤務を望んでいた。
どさ廻りは2~3年毎に転勤して全国を渡り歩くので、出世競争から落伍するし不遇な役回りと見なされて上級職から嫌われているが、鬼才の場合は正反対で、へき地や田舎に行くことをむしろ歓迎していた。その心は、へき地や田舎に行くと自然が豊かで、海山川に恵まれていて、身近なところに釣り場がたくさんあるからだ。
ちなみに、鬼才の定年直前の勤務地は吉備高原のリハセンターだったが、そこは島根と岡山の県境地帯の山奥で、人間よりキツネたぬきが多いと言われる田園地帯であった。鬼才に言わせれば、夏は、官舎近くの渓谷でヤマメや鮎が釣れるし、大山を越えて山を下れば、2時間ほどで日本海の荒磯で磯釣りが出来る。
また、南側に下れば瀬戸内海には2時間で行けるし、本四架橋を使えば高知や徳島の磯にも行けるので、ここは天国だよと本心から言っていた。
出世なんて眼中にないので、釣りさえ出来れば満足という異色の人物であったのだ。
ところでお察しの通り、鬼才というのは本名ではなく、本名はエンドウというしょぼくれたネームだったから、ある時、メールが来るたびに思うんだけど、そのしょぼくれたネームどうにかならないの。良かったら、釣り師らしい風流なネームを考えてやるよと提案してやると、おれはキャリアからみて平凡なネームは似合わない。おれのネームはおれがつけるとばかりに、暫くすると、鬼才と名乗ることを通告してきた。鬼才とは、名人や天才を凌ぐ存在で、他の追随を許さない頂点に君臨する存在だと言うのだ。
よりによってケッタイなネームをつけたものだと思ったが、蓼食う虫も好き好きなので、本人が良ければそれでよしと了解した。また、鬼才とはゲゲゲの鬼太郎の仲間みたいでおもしろいねと褒めてあげた。
それにしても、鬼才は運のいい男である。大しけの鵜来島で落命しなかったのだから・・・
316話 努力は報われないという三億円の法則
今年もあと数日で大晦日である。思い起こせば、たしか去年の今頃、わいは久しぶりに三宅島に渡島していた。その日の連絡船の入港地は伊ケ谷港であった。
伊ケ谷港はわいがお世話になっている釣り宿薄木荘から15キロほど離れた島の反対側
に位置している。わいは連絡船のタラップを降りて、暗くて長い桟橋を他の下船客とともに
黙々と歩き、桟橋の最奥にある漁港の船溜まりに隣接した駐車場に到着すると、薄木荘のご主人が軽ワゴンの運転席で待っていてくれた。
今朝の4時前、三宅村の防災無線が鳴り出して、本日の東海汽船下り船の入港地は伊ケ谷港ですと放送があったので、それを聞いてご主人はあわてて飛び起きてくれたそうだ。わいのために眠さをこらえて、薄木荘から伊ケ谷港まで、1時間近くも掛けて迎えに来てくれたのだからほんとうに頭が下がる。
余談ではあるが、40年前まではこの伊ケ谷港付近にはただ一軒の民家すらなかった。
三宅島一周道路の急斜面の崖下に小さな船溜まりが昔からあったそうだが、そこに数隻の漁船が舫ってあっただけだ。そんな貧弱な漁港が、現在では6000トン級の連絡船が接岸できる本格的な港に変貌しているのだ。
その訳は今から42年ほど前の1983年、三宅島の活火山雄山が、突如、轟音とともに亀裂噴火を起こしたのだ。凄まじい噴煙と火山灰はたちまち全島を呑み込んでしまって、大小の火山弾を雨あられと降らせたという。加えて、亀裂噴火は島内の至る所で溶岩を噴出させて、島民や集落には危険が差し迫っていた。このままでは三宅島は全滅してしまうと危機感を募らせた三宅村は、全島民に向けて避難命令を発出した。
ところが、避難するための一周30キロ余りの三宅島一周道路は亀裂噴火で寸断されており、連絡船が入港できる三池や錆が浜に向かう手段はなくなっていた。島民は追い詰められてしまったのだ。その時、未だ亀裂噴火に見舞われていない地区があるとの情報が寄せられて、三宅村はその地区に島民を集結させることにしたそうだ。
それが伊ケ谷地区であったのは言うまでもない。なぜ伊ケ谷地区に亀裂噴火が発生しなかったのかを調べてみたが、それについての記述はなにもなかった。
その頃、三宅島の島民は8000人余りだったが。8000人の島民が火山灰や火山弾をかいくぐって必死に逃げ延びたのだ。まるで冒険映画を地で行くようなスリリングなシーンが三宅島で展開されたのだ。
ただし、伊ケ谷地区に逃げたから、それで安心という訳にはいかなかった。更に、海を越えて三宅島を脱出しなければ、この危機からは逃れられない。安直に他島まで泳いで渡れるわけではなく、また、雨あられと降りしきる火山弾の中を救出に向かえる船もなかった。
その時、浮上したのが、海上自衛隊の重装甲の自衛艦であった。砲弾やミサイルに耐えられる自衛艦なら、当然、火山弾にも耐えられるはずである。都は自衛隊に災害派遣を要請した。そして、伊ケ谷港の沖に自衛艦を停泊させて、陸地と自衛艦をはしけで結んで全島民を三宅島から脱出させたのだ。
困難を極めたこの脱出作戦を教訓として、伊ケ谷地区のちっぽけな漁港は、その後暫くして大型船が接岸できる港湾に整備され、以降の火山噴火時には、脱出のための避難港として利用できるようになったのだ。余談が長くなりすぎたようなので先を急ごう。
釣り宿薄木荘に到着したわいは、40分ほどして準備を整えると、軒下のコンクリートの叩
きに座って、ノラ猫をかまいながらうまそうにタバコを吸っているご主人に、
「今回は朝から晩までぶっ通しで釣るから、夕食はいりません。夜中に帰ってきますから心配しないでください。明日の朝飯だけはお願いします。」と伝えると、軽ワゴンに飛び乗ってエンジンをかけた。
わいにとって三宅島はアトラクションとアクティビティの宝庫である。ご馳走とか贅沢とはまったく無縁だし、人もいないしお店もない。全くのないない尽くしの島だけれど、わいにとってはパラダイスなのだ。だから、寝食を忘れて没頭できるのだ。とは言え、飲まず食わずではガス欠になってしまう。だからおにぎりとペットボトルのお茶だけは持って行く。それだけあれば十分なのだ。
ご主人にも伝えたとおり、その日は早朝6時から深夜0時まで、わき目も振らずぶっ続けで釣りを続けたが、まるっきり釣果は得られなかった。
なんぼ努力をしたとしても、たとえ、血反吐を吐くほどの努力をしても、それに比例して報酬が得られることはほとんどない。次元はまったく異なるが、有り金をはたいて宝くじを買ったからといって三億円が当たるわけではない。釣果にしても宝くじにしても、努力よりも運の方に遥かに左右されるのだ。これは人生すべてに通じる法則だろう。
というわけで、真夜中の0時過ぎ、わいは疲労困憊して釣り宿に戻ると、風呂に入ることも忘れて衣服を着たまま、敷いてあった布団にもぐり込んだ。
翌朝未明、泥のように眠っていたわいは、騒々しい話し声とドタドタと廊下を踏み鳴らす足音で目が覚めた。たぶん、下りの連絡船で釣り人がやってきたのだろう。
ご主人が港まで迎えに行って、釣り人が今到着したのだ。それにしてもやかましいやつらだと思いながら、わいは再び眠りに落ちてしまった。
8時ごろ目が覚めたので、顔を洗って朝飯を食べに食堂に向かうと、見慣れない格好の男女三人組とすれ違った。三人に軽く会釈して、食堂の長テーブルの前に座って朝飯を食べ始めていると、さっきの三人組が現れてわいの目の前の席に座った。三人の内一人はスポーツマンのような精悍な青年で、後のふたりは30半ばの健康そうな女性だった。三人はおしゃべりをしながら食べていたので、話の合間を縫って聞いてみた。
みなさんは今日どこで釣るつもりですか。ヘルメットとか腰のベルトにいろんな道具をぶら下げていますが、底物釣りでもするんですか??
「いいえ、私たちは釣りに来たのではありません。年末年始の休みを利用して松本から三宅島に岩登りに来たんです。私が身に着けているヘルメットからカラビナ、ハーネス、ザイルなどはすべて岩登りの必須アイテムです。」
これは失礼しました。てっきり釣りに来たものとばかり思っていました。ところで、三宅島にロッククライミングするような岩壁があるんですか。松本から来たそうですが、松本の近くには北アルプスがありますよね。魅力的な岩壁が近所にいくらでもあるじゃないですか。
穂高岳とか槍ヶ岳とか剣岳にはいくつもすごい岩壁がありますよね。
「いえいえ、三宅島には独特の面白い岩壁がいくつもあるんですよ。クライマーにはそれが魅力なんです。」
朝飯を食べながら三人の若いクライマーから畑違いのおもしろい話を聞かせてもらった。食事を済ませた三人は、これから岩登りに出かけますと言って、徒歩でどこかに出かけて
行った。
わいは昨日腹いっぱい釣りをしたので、今日は昼まで何にもしないでぶらぶらしていることにした。10時を少し回った頃、ビニールハウスで農作業をしていたご主人が食堂に戻ってきた。軒下で缶コーヒーを飲みながら煙草を吸い始めた。ご主人はヘビースモーカーだが、決して室内ではタバコを吸わない。それは、奥さんから室内禁煙厳守を申し渡されているからだ。
さっき、松本から来たという三人組と食事をしながらおしゃべりをしたんですが、わざわざ三宅島にクライミングに来る人がいるんですね。びっくりしましたと話すと、
「時々、薄木荘にもクライミング客は来るんですよ。あの三人は3日間逗留して三宅の岩壁をすべて制覇するそうです。近くの海岸にもクライミングに適した岩壁があるみたいですよ。」
「ところで、ナカムラさん、昨日はなにか釣れましたか。」と訊かれたので、雑魚ばかりでぜんぜんでしたと答えると、そうですか、潮が悪いみたいですね。このところ、キンメが釣れないって、漁師がぼやいていましたから。
ところで、ご主人、しまぽ通貨で牛乳せんべいでも買って帰ろうと思っているんだけれど、昔、山腹にあった村営牧場は2000年の噴火以降、噴石と火口の陥没で壊滅しちゃったらしいですね。牛乳せんべいの原料は今はどこから調達してるんですかね。
あの大噴火で、何十頭もいた放牧牛はみんな火山弾に打たれて死んじゃったんでしょうね、かわいそうに。一頭ぐらいは生き延びた牛もいるかもしれませんね、と放牧牛の話をしてみると、
「いや、村営牧場は大噴火で壊滅してしまいましたが、預かっていた牛は一頭も死んでないですよ。噴火前の余震や前兆があった時点で、危険を察知した関係者が全頭引き揚げてしまったそうです。」私は三宅村の農業部会長をしていますが、そう聞いていますとわいの放牧牛全滅の推測を明快に否定してくれた。
ただ、あの大噴火で山頂にぽっかり空いたクレーターは、直径が1.6キロ、深さが500メートルもあると言いますから、村営牧場の再開など全く考えられませんと言っていた。

315話 乙姫様とのランデブー
この夏から秋にかけて、広島では養殖のカキが大量死して、一部の地域では8~9割のカキが死滅するという深刻な事態に直面しているという。特に東広島から呉にかけてはそれが顕著だという。
つい最近、こんなウエブニュースを目にしたが、このニュースに触発されて、この先、カキフライや生ガキが食べられなくなるかもしれない。天井知らずに値上がりしたら大変なことになる。だから、今のうちに腹いっぱい食べておこうなんて、慌てているご仁もきっといるに違いない。
深刻なのは広島のカキだけではない。海水温の高止まりと高塩分化、それに磯焼けという海底の砂漠化で、三宅島でもメジナがさっぱり釣れなくなってしまった。また、海底だけが荒廃したのではなく、その影響は陸上にまで及んでいる。7~8年前までは、海辺の岩場や周辺の森にうるさいほどいた、カラスやカモメが劇的に減少してしまった。
荒磯に魚がいなくなったせいで、小魚や水生動物を常食にしていたカラスやカモメまで激減してしまったのだ。海と山をつなぐ食物連鎖が断たれてしまったからだ。
これは一大事である。釣り師なら、釣れない釣れないと騒いでいれば済むことだが、カモメやカラスたちにとっては生死に関わる問題なのだ。
というわけで、わいは連絡船橘丸に乗って、二泊三日の行程で三宅島にやってきた。
早朝5時、連絡船の照明と岸壁の照明が届くところ以外、まだ漆黒の闇に包まれている三池港の岸壁に橘丸が接岸すると、わずか40人足らずの下船客の一人として、わいはタラップを踏んで岸壁に降り立った。三池港はすっかり寂れてしまったが、40年ほど前までは三宅島の玄関として賑わいに賑わっていたのだ。
岸壁に降り立ったわいは、100mほど離れた港の駐車場に向かって歩きだした。そこで待っていた薄木荘の軽ワゴンに乗り込むと、挨拶もそこそこに、ご主人、最近メジナは釣れていますかと尋ねてみた。
「相変わらずパッとしませんねえ。」「先週、坪田漁港の岸壁で夕方から釣ってみましたが、
メジナが1匹出ただけでした。有望な釣り場に入ると、どこに入ってもサメが出てくるので、
魚が掛かってもサメに引ったくられてしまうだけで釣れません。」とまったく予想どおりの返答が返ってきた。
20分ほど走って薄木荘の敷地に到着すると、ご主人は、車はこの車を使ってくださいと
言いながら、外したキーをダッシュボードに置いてくれた。部屋はいつもの部屋を使ってくださいと言うので、リュックを担いて゛部屋に向かって歩き出すと、食堂のガラス戸の前にノラちゃんが5匹ほど屯していた。つい先日、来島した時には10匹くらいいたはずなのに、今朝はノラちゃん少ないね。どうしたの。旅行にでも行ってるのかなと訊いてみると、
ご主人は「一周道路に出て車に轢かれてしまったり、クロネコヤマトの荷物室に入りこんで帰れなくなったりして、減っちゃったんですよ。」といいながら、オキアミはそこに溶かしてありますからと肝心なことは言い忘れなかった。
民宿薄木荘は、築60年ほどたった木造二階建ての昭和の建物で、客室は古い障子と色褪せた襖で仕切られていた。一階と二階にそれぞれ4部屋づつあって、しめて8部屋あった。三宅島が隆盛を極めた40年前、50年前には週末はいつも満室で、明日泊めてほしいと電話をしても、いつも満室ですと断わられていた。
また、40年前の噴火の時も、25年前の大噴火の時も、溶岩流や火砕流の流路から少し外れて焼失を免れていた。しかし、わいが宿泊したその日の客はわいただ一人、薄木荘の栄華はその昔のむかし話となって、幸運の女神から見離されてしまったのかもしれない。
わいは部屋に入ると釣り装束にさっさと着替えて、帽子にキャップランプを装着して50メートルほど離れた農業倉庫の物置に向かった。物置には磯靴やバッカン、ライフジャケットなど嵩張るものが預けてある。東の空は少しづつ青みがかってきたが、まだ木立の下や倉庫の中は闇に包まれて真っ暗である。30分ほどかけて出発の準備が整うと、食堂に立ち寄って、これからツルネに向けて出発しますとお茶を飲んでいるご主人に声を掛けた。
すると、「そうですか。ツルネは崖を降りたり、溶岩の起伏を昇ったり降りたりするところだから、転んだり落ちたりしないように注意してください。」と心配してくれた。
わいがツルネに入るのはほぼ25年ぶりである。雄山の2000年の噴火以前は、大好きな釣り場のひとつとして、三宅島に来たら必ず入る荒磯だった。
それがあの大噴火以来、巨大岩石の崩落や地盤沈下、噴石の飛来などですっかり地形も様相も変わってしまって磯釣りに不向きな磯になってしまった。
ところが最近、波浪の浸食などで少しづつ地形が変容して釣りができる場所が出来たらしい。だから、今回は久しぶりに思い出の釣り場に入ることにしたのだ。
ツルネに下る崖の上の木の間から、眼下の磯を見下ろすと1か所だけ釣りが出来そうな場所があった。崖の上からその場所まで、ほんの50メートルもなかったが、荷物を担いで辿り着くまで40分ほどかかった。わいは慎重に歩を運んだので全身汗だくになっていた。
釣り座を決めて、釣りの仕掛けを作り、コマセのオキアミを撒いていざ竿を出したのはそれから30分もたった頃だった。
25年ぶりに再会したツルネとの感動の物語が今まさに始まろうとしているのだ。このワクワク感ドキドキ感はもう堪らない。子供の頃の、は~やくこいこいお正月である。
ところが期待とは裏腹に、いくら待ってもアタリはない。7時過ぎから竿を出して3時間、こつりともアタリはないのだ。ウキ下を変えたり、ウキを変えたり、打ち込む場所を変えたり、あらゆることを試してみたが一向に効果はない。
そして4時間ほど経過した頃、やっと初めてのアタリがあった。しかし、釣れたのは15センチ足らずのベラだった。その後、いくらか魚の活性は出てきたが、釣れてくるのは手の平サイズの雑魚ばかり。そんな苦戦を午後2時ごろまで繰り返して、ついにギブアップ。撤収することにした。今日は完璧に潮が悪すぎた。
先年、89才で鬼籍に入ってしまった光明丸の船長がよく言っていた。
キンメ漁から戻った船長に、「船長、今日はどうだった。釣れたの。」と聞いてみると、
「だめだー。真っ暗い内から昼近くまでやったけど、3匹しか釣れなかったよぉ。」
ええーっ、船長でも釣れないことがあるんだなあと冷やかしてやると、
「バカヤロー、潮がわりいときゃあなあ、誰がやっても釣れねえんだよぉ。」
そういう時は早く引き上げるんだよぉとよく言われたものだ。それを思い出して、一度釣り宿に撤収して、一休みしてから夜釣りに賭けることにした。
夕方、夕食を早めに作ってもらって夜釣りに出かけることにした。釣り場所も日中と180
度転換して、島の反対側の伊豆岬を狙うことにした。
19時頃、わいは伊豆岬の崖下の磯に入っていた。空には薄い雲がかかって、雲間から
いくつもの小さな星が瞬いていた。遥かな沖には漁船の漁火がひときわ明るく輝いていた。風も落ちて波もない。夜釣りにはもってこいの晩であった。
果たして、今夜はどんな出会いがあるだろうか。初恋の人との出会いなのか。はたまた憧れのマドンナなのか。胸躍らせて赤い電気ウキの仕掛けを打ち込むと、電気ウキは潮に乗ってゆらゆらと流れていたが、突然、動きが停まってスーッと引き込まれて行った。幸先よしと竿を合わせると、ばかに軽すぎる。
なんだこりゃあ、外道のスズメダイじゃないか。次もまたスズメダイ、またスズメダイ。またまたスズメダイのオンパレード。スズメダイのいないところに投げなければと、相当離れた場所に打ち込んでみたら、またすぐにアタリがあった。ところが、そのアタリは外道のダツだった。ダツはサヨリを巨大化したような魚で、太くて細長くて50センチ以上もある。何より嫌なのは、細長い口にのこぎり状の歯が無数にあって、釣り針を呑み込んでしまう始末の悪い魚なのだ。
こんなお邪魔虫に付き合わされたらたまったものではない。しかし、たまにはこんな不運もあるものなのだ。今回は疫病神に付き纏われてしまったが、次回は乙姫様と出会ったり、ランデブーだってないことではないからね。
314話 取り越し苦労でよかったよ
フィリピンの東方海上で発生した台風25号は、巨大で猛烈な勢力に発達してレイテ島を直撃し、大雨による洪水で川沿いのバラックはことごとく濁流に押し流されてしまった。
同時に、バラック住まいの貧しい住民300人以上が濁流に呑まれて溺死、行方不明になるという甚大な被害が発生したそうだ。その後、同台風は南シナ海からカムラン湾方面に向かって進み、ベトナムやタイにも深い爪痕を残したという。
その直後に東シナ海で発生した低気圧は、急速に発達して爆弾低気圧に成長し、本州南岸を北上して大雨を降らせて東方海上に消え去った。幸いにも、こちらの被害は最小限にとどまったが、疫病神がふたつ消えてくれたおかげで、大しけだった伊豆諸島の海も波風が収まって束の間の平安が訪れた。
この機会を逃してなるものか。わいにとっては半年ぶりのチャンスである。しかも、海水温は平年値を下回って20度台に低下している。たぶん、伊豆大島のメジナやイサキは、腹を減らしてオキアミが天から降ってくるのを待っているはずだ。
早速、釣り宿おくやま荘に電話を入れてみると、呼び出し音は鳴っているもののまるで応答がない。釣り宿の固定電話に電話をすれば、おばさんのスマホにも自動転送されるはずだから、庭先でも外出先でも、どこでも応答はできるはずなのだ。
それが何度掛け直しても応答がない。なぜだ。わいの脳裏に一抹の不安がよぎった。
おばさんは本年1月、60年余り連れ添ったご主人を亡くして、すごく落ち込んでいた。
そればかりか、これまで集落の卓球同好会のリーダーとして活躍していたのに、今では、飛び跳ねるどころか足を引き摺って歩くほど不自由になってしまった。
もしかして、足の具合が悪化して入院でもしているのだろうか。体調が思わしくなくて釣り宿を畳んでしまったのか。はたまた、孤独死してしまっていまだ未発見とか。
想像すればするほど不安要素がありすぎて、どんどん悪い方向に膨らんでいく。82歳という年齢を考えれば、一人で釣り宿を続けていくのは無理だったかもしれない。
船長の死とともに釣り宿を畳んでしまった三宅島の光明丸に続いて、おくやま荘まで廃業してしまうとは、危惧していたことが現実になってしまったのだ。不運不幸の連続にわいは暗澹として言葉を失ってしまった。
わいがパソコンの前で呆然自失して思考停止していると、リビングの電話が突然、鳴り出した。受話器を取り上げると、まさか、まさかのおばさんの声。おばさんは生きていたのだ。
「ナカムラさん、今、菜園から戻ったところ、電話が入ってたから、すぐに折り返して掛けたんだよ。菜園 ? 菜園の野菜はねえ、ナスでもきゅうりでも、油断してるとみんなキョンに食われちゃうんだよぉ。大島の人口よりキョンの方が多いっていうからね。」
なんだ、おばさんは菜園に行ってたのか。取り越し苦労もいいところだった。
おばさんの電話の声はすごく元気だね。顔が見えないから、20才ぐらい若く聞こえるよ。
ところで、おばさんの足の具合はいかがですか。まだ、卓球はしているのと尋ねてみると、
「あたしゃ、口だけは達者だよ。」「今でも、卓球の開催日には必ず行くけれど、ボンドで足が床にくっついちゃって離れないんだよ。だから、案山子みたいに突っ立って卓球をやってるんだよ。」
ハハハハハ、それでも卓球をやれるだけいいですよ。ところで、来週、釣りに行きたいんだ
けど、おくやま荘の都合はいかがですか。
「ちょっと待ってね。メモ見るから、」「来週のいつ頃、ああ、水曜日の朝のジェット船で来
るのね。その日なら大丈夫。お待ちしてます。じゃあね~。」
という訳で電話は3分ほどで終わったが、不運は長く続くものではないようだ。ひとり相
撲を取って、ハラハラドキドキしたけれど、取り越し苦労に終わってほんとうによかった。
313話 おかちゃんは逆境に強かった
本日の大島の天気をリアルタイムで検索してみると、今日も海は荒れていた。
遥か十数年前のその日も、大島の海は荒れに荒れていた。前日の気象予報で、明日は低気圧が発達しながら本州の南岸を通過するから海は大荒れだと言っていたが、当時の予報はコンピューターの解析精度も低く、的中するもしないも、当たるも八卦、当たらぬも八卦だったから、いつも通り外れてくれればありがたいという願望のもと、前夜遅く、竹芝桟橋から連絡船に乗り込んだのだ。しかし、大島に上陸するやいなや、その期待と願望は見事に打ち砕かれた。
どんよりとした鉛色の雲が垂れ込めた三原山はまったく姿を見せず、朝から霙交じりの冷たい雨が岸壁を叩いていた。加えて、季節風はゴーゴーと吹き荒れて、三原山の山腹から海になだれ込む急斜面の原生林を大きく揺すっていた。アゲンストの風をまともに受けたら釣りにならないと考えて、風裏に当たる三原山東側の山裾の磯に入磯したが、朝から昼、そして10時間以上も経過した夕刻になっても、こつりともアタリは出なかった。
というより、荒波と強風を受けて竿は風下に向かって大きくしなり、道糸もたわんで吹き流されて糸ふけし、仕掛けを前方に飛ばすことすらままならなかった。加えて、撒き餌のオキアミも風下に吹き流されるばかりで、前方には打ち込めず、まったく釣りにならなかったのだ。
その上、長時間寒風に晒されたわいは、ミイラのように冷え切って硬直していた。それでも怯むことなく、待てば海路の日和かなと僥倖を期待して、荒磯が闇に包まれてからも釣り続けた。
それから数時間が経った深夜10時ごろ、僥倖どころか、突然、突風が吹き始めた。
その突風に煽られてバランスを崩し、あわや落水寸前の危機を迎えたのだ。
そこまで行ってやっと気づいた。もし、ここで死んだら犬死ではないか。いくら大自然に逆らっても、こんな大しけに魚は釣れはしないのだ。今夜は観念して引き揚げた方がよさそうだ。そう思い始めた途端、一刻も早く釣り宿に戻りたくなった。鳴海荘に戻れば、温かい風呂がある。冷え切った身体を温めて、熱いお茶を飲みたいという欲求がむらむらと膨らんだ。もう、矢も楯も堪らなかった。
わいは疲れ切って鳴海荘に戻ったが、風呂に入る前にやるべきことがあった。まず、お世話になった釣り道具の手入れをしておかねばならない。中庭の洗い場で潮を浴びた竿や汚れたバッカンを洗い終わったところで、深夜0時になっていた。
やっと風呂に入れるとほっとしていると、笹竹の間の進入路にヘッドライトの光がチラチラ見えて、エンジンの音が鳴り響いた。魑魅魍魎の跋扈するこんな時刻にどこのどいつだ。
とヘッドライトの眩しさを手をかざして遮ると、運転席のドアが開いて、
「あらっ、一竿子さん来てたんだ。」と声が掛かった。
おかちゃんという同年輩の釣り師だった。おかちゃんは数少ない鳴海荘の常連である。
「なんだ、おかちゃんだったのか。鳴海荘のお客はわいだけかと思っていたら、おかちゃんも来ていたのか。いつ来たの。」「わいはさっき荒磯から戻ってきたんだけれど、強風と大しけと寒さで何にも釣れなかったよ。波しぶきを浴びただけの、くたびれもうけだった。おかちゃんも釣りにならなかったでしょう。」と訊いてみると、
「わたしは岡田港近くの強風を遮る高い防波堤の内側で、テトラポットと岸壁の間の狭い水路で釣っていたよ。」 あんなところで釣ってたの。あそこは絶対釣れないよね。それはそれはお疲れさまと労ってやると、
「一竿子さん、今日はあそこしか釣るところはないよ。普段は釣れないけれど、こんな大しけの時には釣れるんだ。メジナとイサキが数出たよ。」
ええ、あんなところで釣れたの。ちょっと見せてくれるとクーラーをのぞき込むと、大型のメジナとイサキがいっぱい入っていた。
わいとおかちゃんは特別親しかったわけではない。二人とも単独行の一匹狼だったのでなんとなく親近感はあったが、真夜中に帰投した時とか朝飯の時に顔を合わせて、昨日はどうだったと話す程度の顔見知りだった。
鳴海荘で出会って10年以上たつが、出会い初めの頃は、頭髪が薄くて色黒で、小柄で貧相なおかちゃんのことを、下手の横好き程度のビギナーだろうと舐めてかかっていた。
しかし、見かけとは裏腹に強靭な意思と体力の持ち主で、クレバーな釣り師だった。
真っ暗闇の大しけの海で波しぶきを被りながら平然と竿が出せるなんてただ者ではない。
釣り師としての度胸も根性もあって、技量もわいの数段上をいくリスペクトすべき人物であった。
その頃、鳴海荘のご主人から聞いた話では、おかちゃんは世田谷の方で奥さんと小さなスナックをやっていたそうだ。その奥さんがその頃他界してしまったので、スナックはやめてしまったと聞いたが、それ以上のことは知らなかった。また、知ろうとも思わなかった。
この話よりもっと前の18年ほど前、たまたま朝飯がおかちゃんと一緒になった時である。
ご主人が、わいのお膳に納豆とアジの干物を載せて出してくれたが、おかちゃんのお膳にはアジの干物がなかった。わいがおかちゃんに、ご主人忘れているんだよ。お~い、ご主人、おかちゃんのお膳にアジの干物がないよ、と声を掛けると、おかちゃんは、
「私は魚を食べないんです。子供の頃、魚に当たって七転八倒の苦しみを味わってから、それ以来、魚が食べられなくなったんです。ただ、塩鮭だけは食べられます。」
と述懐してくれたので、そうだったの、だけど、いつもクーラーに一杯魚を釣って持ち帰っているよね。それはペットのエサにでもしているのと疑問を呈してみると、
「いや、魚好きの友達に上げたり、行きつけの居酒屋に持っていってやるんですよ。」
そうすると大喜びでビールや焼き鳥をただにしてくれるんですよ。バーターですね。
そんな話はしたことがあるが、その他についてはほとんど何も知らなかった。
おかちゃんと出会ったあの鳴海荘は人手に渡って、今は取り壊されてしまった。お世話になったご主人も音信もなくなって今はどうしているのやら。歳月は足早に過ぎてしまったが、おかちゃんはまだ釣りをしているのだろうか。もし、どこかで出会ったら、そんな嬉しいことはないのだが、そんな偶然はありえないだろうな。



























































