288話 お陀仏にはなりたくない |  荒磯に立つ一竿子

288話 お陀仏にはなりたくない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月初頭の長潮の日、連絡船橘丸は、定刻の4:50、三宅島は三池港の岸壁に接岸した。
入港直前に船内放送があって、まもなく本船は入港作業に入ります。ご下船のお客様はお忘れ物のないようご準備ください。本船は下船作業が終わり次第、八丈島に向かって出港しますとアナウンスがあった。     

船内放送に呼応して下船口に集合した下船客は40人ほど。やがて水密扉が開かれて桟橋からタラップが掛かると、船長の下船OKの合図とともに下船が開始された。その日は風も落ちてうねりもなかったので、船体が動揺してタラップが動き回ることはなかった。

タラップを降りて駐車場広場の外れに到着すると、外灯の灯に照らし出された広大な広場の薄闇に軽自動車が20台ばかり、それに村営バスが2台駐車していた。

駐車している軽自動車の中に迎えの車を探したが、まだ、薄木荘の軽ワゴンは来ていなかった。その内に来るだろうと外灯の下に荷物を置いて待っていると、待てど暮らせど迎えは来なかった。

 

仕方なく未明の夜空を仰ぎ見ると、濃紺の夜空には白いクラゲのような半透明の月が弱々しく光を放っていた。少し離れた暗い夜空には明るい星がいくつか瞬いていた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20分ほど待ったがまだ車は来ない。駐車場広場のほとんどの車はすでに姿を消してしまい、わずかに3台だけが残っていた。背後の桟橋を振り返ると、桟橋では煌々と照明をつけて橘丸がまだ荷役作業を続けていた。30分ほどして、港に入る緩い坂道を下ってくるヘッドライトが目についた。まもなく、その車はわいの立つ外灯の下に停車して、お待たせしましたと言いながらご主人が降りてきた。


薄木荘に向かう車の中でご主人が、「先週、常連さんが来たんですが、二日間、ほとんどアタリもなくて、メジナは全然釣れなかったそうですよ。」「どうしたんでしょうねえ。潮が悪いのか水温が高すぎるのか。」と言うので、

「三宅のメジナは絶滅しちゃったのかもしれないよ。」「それに、今日は長潮で潮が動かないから、どうなることやら。」と返して、でも、今回はご主人がかつてシマアジを大釣りしたというミチナシに入るから途中まで道案内してくださいね。

崖を降りる途中、要所要所に目印を付けておかないと、行きはよいよい帰れなくなりますとご主人に言われたから、熔岩に吹き付ける目印用のペンキスプレーを買ってきました。

釣り人が入らないところだからサメも出ないだろうし、なんと言っても、ご主人がシマアジを30匹もバカ釣りしたんでしょう。楽しみだなあ。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一周道路を15分ほど走って薄木荘に到着すると、「じゃあ、部屋はいつものところを使っ
てください。」「釣り支度が出来次第、声を掛けてください。すぐミチナシにご案内します。」
と言って、食堂のガラス戸の前で寝転んでいた数匹の猫と遊びはじめた。
わいが「ねこちゃん、今日は大分少ないね。どこかに出張でもしてるのかな。」と呟くと、

「そうなんですよ。」この1ケ月で、10匹いた外猫の内、3匹が車に轢かれたり、行方不明になったりしているんですよ。そのうちの一匹は2キロも離れた阿古の郵便局近くで車に轢かれていました。

「おじいちゃん、毛並みがここの猫そっくりの猫が郵便局の近くで死んでいたよ。」と近くに住む孫娘が知らせてくれたんです。可哀そうだから埋めてやろうと新聞紙をもって行ってみると、顔はつぶれていたけれど、毛並みは見覚えのあるタヌキ柄の猫で、まさしく臆病だったうちの外猫でした。多分、宅急便とか野菜を買いに来たお客さんの車に入り込んでしまって、車から出ても帰れないので、ウロウロ迷っていて轢かれてしまったんでしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


知らない内に猫が車に入り込んでいた。わいもそんな経験は何度もしている。

光明丸の庭先で軽ワゴンの後部ドアを開け放しで釣り支度をしていて、いざ発進しようとして後ろを見ると、後部座席で猫がわいを見つめていたなんてことが何度もあった。

真夜中に出かけようとして、車内のバックミラーで後ろを見たら、暗闇の中に緑色の球体が2個光っていた。こりゃ妖怪かと肝を冷やしたこともあった。猫は魚やオキアミの臭いに誘われて軽ワゴンの中に入り込んでしまうのだ。
 

6時を回ってすっかり夜が明けた頃、わいは食堂の扉を開けて、道案内をお願いしますと呼びかけると、テレビを見ていたご主人は「ハイよ、」と答えながらすぐに出てきてくれた。

10数棟のビニールハウスで色々な野菜や果物を栽培しているご主人は働き者である。

農作業に入る前に缶コーヒーで鋭気を養っていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミチナシのある間鼻への道は、途中までは鬱蒼とした灌木林で形成されている。数百年あるいは数千年にわたる火山活動で、雄山が溶岩を噴出させて溶岩原を造り、その上に長い年月をかけて植生が形成され、鬱蒼とした灌木林が出来たのである。

灌木林は先端に近づくに従ってススキやイソギクなどの背の低い植生に変わって、先端部周辺はもはや草木も生えない不毛地帯となっている。ともかく、不毛の溶岩地帯にこれほどの灌木林を造り上げるとは、植物は何と逞しいことか。薄木荘から間鼻への1キロほどの道のりは、この灌木林を切り開いて造られている。


ご主人は間鼻の先端から、50メートルほど手前の瓦礫地帯に軽ワゴンを停めると、

「私についてきてください。」と言ってゴツゴツした溶岩原を歩き始めた。断崖の先端付近まで近づいたところで、「ここから降りていきます。」というので断崖直下を覗き込むと、張り出
した溶岩や岩棚で崖下は全く見えなかった。

こんなところを降りるのか。まるでロッククライミングの下降みたいだね。と不安を口にすると、「そうです。ここを降りなければ釣りは出来ません。」と気にも留めない。

わいから道案内を頼んだのだから、今更、怖いから辞めたいなんて、口が裂けても言えはしない。腹を括って断崖を降りることにしたが、その時急に、目印に使うペンキのスプレー缶を忘れたことに気が付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ご主人、ペンキのスプレー缶を車に忘れてきた。」というと、ご主人は「絶対に必要です
から、取りに行ってください。」と強く言われた。

その時はペンキスプレーなんて全く重視していなかったが、ご主人と別れてから、目印をつける重要性を思い知らされた。ほんの2、3分前に下降したり、登攀したルートがたちまち判らなくなってしまうのだ。溶岩はどれも酷似しているから違いは全く分からない。そのため、一歩でも誤った方向に進むと進退窮まってしまうのだ。


ゴツゴツした穴だらけ瘤だらけの溶岩の崖を降っていくのだが、当初は猿になったと思えばいいだけだと高を括っていたが、いざ降り始めてみると後悔先に立たずで、見るとやるでは大違いだった。

溶岩の突起や窪みを手掛かり足掛かりにして、へばりつくように降っていくのだが、次の足場を探そうとして下を見たら、情けないことに足がすくんでしまった。うっかり足を滑らせようものなら、一巻の終わりお陀仏なのだ。