荒磯に立つ一竿子

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328話 あんたも、もっとしっかりしなきゃあダメだよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コダハムの磯を臨む崖の上に舞い戻ったわいが、断崖に掛かる石段を降り、火山礫の
ガレ場を歩き、溶岩の起伏を昇り降りしてコダハムの先端に立つと、そこにはすでに夕暮れが迫っていた。遥か彼方20キロ先には、フジツボ状の利島の島影が夕焼け空を背景に黒いシルエットを浮かべていた。その先の西空には日輪こそ隠れていたが、夕暮れ雲が赤々と染まって棚引いていた。

足元の海は満潮に向かって、真っ白い晒しを無数に払い出していた。寄せてくる波は荒磯を噛んで這い上がっては岩場を濡らしていた。潮は大潮、時は夕まずめ、風はそよりともせず無風に近い。これほどの好条件は滅多にない。これで釣れなかったら、磯釣りなどさっさと辞めて竿を折った方がいいだろう。


わいは逸る心を抑えて念入りに仕掛けを作り、しっかりと釣り座を構えて、撒き餌を暫くの間打ってから第一投を打ち込むと、ウキはあっという間に沖目に流されてしまった。 潮流が川の流れのように速いのだ。しかし、慌てることは微塵もない。そのうちきっと食って来るのだ。果報は寝て待てばいいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


そうこうしている内に、夜の帳がコダハムの磯に降りてきた。夜の帳とともにやって来るのは荒磯の強敵、真っ黒な大きなやぶ蚊である。やぶ蚊は風の強い時には出てこない。なぜなら、飛翔力の弱いやぶ蚊は風が強いと飛ばされてしまうので、岩陰や溝に引っ付いているのだ。ところが、その日のコダハムの磯は無風に近かった。どこに隠れていたのか、無数のやぶ蚊がわいの廻りを飛び廻りはじめた。
真夏の夜釣りで、やぶ蚊の襲来は至極当然、想定内のことである。リュックのサイドポケットには、いつも、やぶ蚊除けの防虫スプレーと、蚊取り線香とそのホルダーを用意してあるのだ。うっかり刺されてしまっても、かゆみ止めのムヒもある。
しかも、今回は百均のセリアで、コンパクトな蚊取り線香とホルダーを新調してきたのだ。まず、やぶ蚊が狙ってくる手首や首筋などに防虫スプレーを吹きかけ、買ったばかりの最新型の蚊取り線香に火を点けて、ホルダーを救命胴衣の内側にぶらさげてみた。これで胴廻りや目の周辺、耳の穴まで、煙が首筋を伝って昇るのでガードできるだろう。
ついでに、ウキを電気ウキに切り換えて準備万端、さあ、やぶ蚊よ、どこからでも掛かって来いと挑発してやると、早速、頬っぺたと耳の後ろあたりを刺されてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蚊取り線香ホルダーを装着しているのに、どうしたことだ。すぐにホルダーを外して点検してみると、なんと、線香の火は完全に消えてしまっていた。改めて、着火バーナーで点火すると、火は点くには点くのだが、すぐに消えてしまって煙も出ない。何度やっても同じことである。考えてみれば、百均の品は安かろう悪かろうの代表のようなものなのだ。 ましてや、チャイナ製なのだから、それを信用したわいがばかだったのだ。仕方がないので、防虫スプレーを念入りに吹きかけて間に合わせた。

 


やぶ蚊の方は何とかしたが、肝心の釣りの方は全く魚信がない。潮が速すぎて撒き餌が拡散して魚が竿下に集まらないのだ。いつまでも釣れないポイントに執着しても、釣れないものは釣れないのだ。そう考えて、ダメ元でわいは、岩陰で潮の動かない、浅くて期待できない反対側のワンドに釣り場を替えることにした。
そこで、数回コマセを打って、足元に仕掛けを投入すると、なんと、一投目からアタリが出てイサキが上がった。そして、メジナの30センチクラスが次々に食ってきた。     その上、コマセが効いてきたら、40センチクラスの大物も食って来た。さっきまで、何をやってもアタリが無かったのは、いったいなんだったんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ふと気が付くと、真っ暗だった荒磯の岩場が一瞬真昼のように明るくなった。断崖の上を
見上げると、雲の切れ間から満月が、荒磯に向けて浩々と月光を放っていた。すぐに月影は雲間に隠れてしまったが、ほっと一息つく一瞬だった。

21時半、アタリがあるままに釣っていたら、スカリがはちきれんばかりに膨れていた。 これ以上釣ったら重くて持ち帰れないので、納竿することにした。

 


22時半、おくやま荘に帰着して庭先に車を乗り入れ、潮を被った釣り道具を水で洗い、釣った魚も水洗いして、氷を入れてクーラーに入れ直していると、最近、顔見知りになったナカタさんという常連さんが、物音に気付いて中庭に出てきた。


こんばんは、午後のジェット船で来て、もう、釣り場から帰ってきてたんですかと訊くと、  「わたしは公園下の崖下で釣っていたんですよ。いま、夕食を食べたところです。」と言うので、2週間前にも来ていましたね。番付が東の正横綱だけあって熱心ですね。    と感心すると、「釣りをしている分にはみんなに喜ばれますからね。」とにこにこ笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、おくやま荘では昔から、大相撲の番付表と同様の磯釣り番付表を、模造紙に大書して食堂の正面に貼り出していた。ちなみに、ナカタさんの番付は東の正横綱なのだ。番付表には東西の横綱、大関、関脇、小結、前頭など、40数名の釣り人がエントリーされていたが、ナカタさんはその筆頭格だから、名実ともに世話役かつリーダー的存在なのだろう。

 

 

また、注目すべきは、東の名誉横綱は有森裕子になっていた。有森裕子は34年前のバルセロナ五輪で銀メダル、30年前のアトランタで銅メダルを獲得した女子マラソンのレジェンドである。

40年前、小出監督がリクルート陸上部の監督をしていた頃、有森裕子は小出監督の指導を懇願してその指揮下に入り、マラソン選手として大成したのである。
リクルートの陸上部はその頃、強化合宿を毎年大島で開催しており、ベースキャンプをおくやま荘に置いたことから、縁が出来たのである。
昨年、有森裕子は日本陸連のトップに就任したが、おくやま荘のマスターが他界したことを知って、墓参のために、わざわざ来島してくれたそうである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



わいが中庭で釣り道具の後片づけなどをして、30分ほどして中に入ると、食堂で、おばさんとナカタさんがおしゃべりに花を咲かせていた。わいも話の輪に入ったが、何かの拍子に、襖と柱の隙間の修繕の話になって、わいが、ナカタさんはよく気が付きますね。 しかも器用ですね~と言ったら、

おばさんがすかさず、「このひとヒマなんだよ。」と毒舌を吐いた。そう言われたナカタさんはすぐに「大島から帰ってくると、口が悪くなってる。」と家内からよく言われるんだよとお返しをしていた。


その時、時計は23時を回っていたので、わいは、お風呂を頂きますと言って、風呂に入って15分ほどして上がってくると、おばさん一人がぽつんと座っていた。
わいが、ナカタさんも原付バイクで原生林を降って崖下で釣りをしてきたんで、疲れ切って、もう、おやすみになったんですね。と何気なく話しかけると、
「なに言ってんのよ。あの人は夕食を食べに戻って来て、また、原生林の下の釣り場に戻って、明日の朝まで釣っているんだよ。それが82才だよ。あんたももっとしっかりしなきゃダメだよ。」と檄を飛ばされてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

327話 笑うしかない大チョンボ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ばかにつける薬はないよと言うけれど、北海道は羅臼岳の山中でヒグマに遭遇したハンターが、こいつを1発で仕留めてやろうと意気込んだが、気がついたら猟銃がない。 慌てまくって必死に記憶を辿ると、このハンター、家を出るとき、玄関に猟銃を置き忘れたまま四駆に飛び乗ってしまったのだ。
 

人間、何かの拍子に大失態を演じてしまうものだが、もしあなたが、こんな失態を演じた
らどうしますかと尋ねたら、いくらなんでも、そんな間抜けなことはしませんよ。クマさんハッつぁんの落語でもあるまいし、この話は明らかにフィクションですねと一笑に付されてしまった。
ところが、事実は小説より奇なりで、この大失態と似たり寄ったりの大チョンボを、わいは大島で演じてしまったのだ。と言っても、相手は獰猛なヒグマではなく、襲ってはこないメジナやイサキだったので無事にすんだが。







                      
                







恥ずかしながら先月の末、わいは間抜けなハンターと瓜二つの大チョンボをやらかしてしまったのである。
6月29日、その日、わいは高速ジェット船で大島は元町港に上陸した。到着した時刻は
10時20分、前回の大島釣行からわずか2週間しか経過していないが、前回は一刻も早く釣りがしたくて、おくやま荘での釣り支度もそこそこに昼日中から大急ぎで入磯したが、千波崎の荒磯に立ちつづけて8時間余り、時刻にして20時ごろ、蒸し暑さと過酷な作業の連続で、体力を消耗してギブアップしてしまった。前回は心身に負荷をかけ過ぎたのだ。それを教訓として、今回は日中から真夜中まで釣るのを辞めて、日中は釣り宿で昼寝して体力を温存することにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の日没は19時だったので、日没前の18時に入磯すればベストタイムである。
今回の目的地コダハムの鼻まで凡そ25キロ、時間にして45分ほどの行程だから、おくやま荘を17時に出発すれば余裕綽々なのだ。ということは、お昼寝タイムを12時~17時まで5時間とることになる。


わいは押し入れから布団を引っ張り出して、窓のカーテンを引いてお昼寝タイムに突入した。ところが、眠ろうとしてもなかなか眠れない。頭の中のどこかが興奮していて眠りを妨げているのだ。それでも、無理に眠ろうとしてゴロゴロしていたら、却って疲れてしまった。ゴロゴロしているより、さっさと荒磯に出て釣りをした方がよさそうである。わいは予定より2時間早く、コダハムの鼻に向けて出発した。


コダハムの鼻は南北に長い大島の南部にあって、かつては大島屈指の荒磯として人気
を集めていた。40年ほど前の磯釣りの全盛期には釣り人が引きも切らず、コダハムの広大な磯が釣り人でいっぱいに溢れて、入磯すら出来ないことがあったのだ。
それも今は昔で、コダハムの崖上に到着して眼下の荒磯を見下ろすと、そこには誰一人釣り人の姿は見えなかった。磯釣り人気の凋落をこれほど如実に語るものはないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


そんな感慨に耽りながら、わいが眼下の景観に見入っていると、高さ20メートルほどの
断崖に設けられた急こう配の石段を、二人の男が息を切らせながら上ってきた。二人
とも黒い頑丈そうなルアーロッドを手にしていた。
石段は断崖に沿って急勾配になっており100段余りある。疲れ切った釣り人が釣った
魚や荷物を担いで上ってくるので、その過酷さから心臓破りの石段とも呼ばれていた。
しかし、この石段が無ければ断崖の昇り降りは絶対に不可能である。コダハムで釣りが出来るのもこの石段のおかげなのである。


二人が石段を上り切ったところで、わいが「なにか釣れましたか。」と声を掛けると、ぜんぜんと言って首を横に振った。二人はルアー仲間らしかったが、体格のいい40代の男が「イサキが群れていると聞いたから、それを狙って青物が来ると思ったんですよ。」と話し始めた。そこで、もう一人の60代の男が、「じゃあね、また、いい情報があったら連絡してね。」と言いながら道路脇に駐めてあった四駆に乗り込んで走り去っていった。
 

わいが「この先のアカイワで、30年前、20キロのマグロを釣ったと自慢していた地元のブロガーがいましたが、最近は何が釣れているんですか。」と訊いてみると

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私ではありませんが、マグロの60キロとか40キロがルアーで釣れていますね。」

「私は先年、14キロのヒラマサを泉津で釣りましたが、サンマの群れが入って来て、それをヒラマサやカンパチが追っかけてきたんです。」
青物狙いのルアー師にとっては、マグロやヒラマサなどの大物だけがターゲットであって、それ以外は眼中にない。だから、メジナやイサキなどの小物は雑魚でしかない。わいなど小物狙いの釣り師でしかないのだ。


ルアー釣り男性とそんな立ち話をした後、わいは荷物を背負子にまとめて断崖に掛かる石段を降りようとしたら、なにか、手持無沙汰なのだ。気が付けばロッドケース ( 竿など収納するケース ) を忘れていた。軽ワゴンに戻ってバックドアーを開けると、ない、ない、ないのだ。車に積みこんだはずのロッドケースがないのだ。竿がなければ釣りは出来ない。

顔面を蒼白にして記憶を辿ると、ロッドケースはおくやま荘の入り口の下足箱前に立てかけておいたはずだ。今回は昼寝時間をたっぷりとることにしたので、直射日光に晒されないよう、わざわざ屋内に置き直したのだ。なんとも余計なことをしたものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


わいが背負子を降ろして、荷物を改めて軽ワゴンに積み直していると、それを見たルアー釣りの男性が近づいて来て、

「どうしたんですか。釣らないで帰るんですか。」と怪訝そうに尋ねてきた。
実は、ロッドケースを積み忘れてきたので、釣り宿に取りに戻ります。
「えっ、ロッドケースですか。また、大事なものを忘れましたね。どこまで戻るんですか。」と訊くので、泉津のおくやま荘ですと答えると、
「片道1時間近くかかりますよね。」と言って笑い出した。
そうです。笑うしかない大チョンボです。とわいは答えるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

326話 妖怪たちのさんざめき

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月中旬の某日、わいは竹芝桟橋発、朝一番の高速ジェット船で伊豆大島に向かって
いた。このところ、伊豆諸島の海域は台風6号の通過に続いて、その後の低気圧や梅雨前線の停滞などが重なって、雨模様、荒れ模様の日が続いていた。しかし、天気予報とにらめっこしながら気長に待っていたら、やっと磯釣りが出来そうな日和が巡ってきた。しかし、それはたったの2日間というタイトさであった。
竹芝桟橋を出港したジェット船が時速80キロで浦賀水道を抜けて外洋に躍り出ると、
その日の海は湖面のように穏やかだった。

 


高速ジェット船は定刻の10時20分、大島は元町港に入港した。わいが岸壁を200メートルほど歩いて港の駐車場に向かっていると、坂の上から薄汚れたワゴン車がソロソロと降ってきた。わいの前まで来てクラクションを鳴らしたので、運転席を見ると、おくやま荘のおばさんが手を上げていた。本日も15キロほど離れた泉津から、わい一人を迎えるために来てくれたのだと思うと頭が下がったが、スライドドアを開けると、珍しいことに後部座席に三人の釣り客が乗車していた。三人は揃いもそろって見るからに高齢だった。おばさんも含めて、まさに、老人ホームご一行様のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                            

                   

 

 

 

 

 

 

 


わいが車に乗り込むと、顔見知りらしい三人の釣り客は、中断していた話の続きを始めた。「今回は連絡しなかったけどよ。あいつは三度の飯より釣りが好きだから、誘ってやりたかったんだけどよ。ボケが酷くなってしまってよ。この前連れてきた時には、海に突き出た細長い岩に平気で座っているんだよ。危ねえからこっちで釣れ、と言っても聞かねえし、撤収する時には、帰り道の反対方向に歩いて行っちまうし、もう、おっかなくて見ちゃいられねえんだよ。」
「そんなにボケちゃったの。」と運転席からおばさんが声を上げた。わいはそんな話を黙って聞いていたが、おばさんも、常連さんたちも、皆80才を超しているらしいのだ。最年長は85才とか言っていた。往年の猛者と言えども寄る年波には勝てないのだ。

 

 

車は20分ほど走っておくやま荘に到着した。時刻は既に11時半を回っていた。
ナカムラさんの部屋は砂の浜 (さのはま) だよ、とおばさんが言ったので、砂の浜に上がって着替えを済ませ、荷物を整理して20分ほどで廊下に出ると、向かいの部屋に入った先ほどの高齢者のひとりが、幅3センチほどの平板を襖の端に打ち付けていた。
一体なにをしているんですかと尋ねると、「柱と襖の間に隙間が出来ているので、隙間を埋めようと思って平板を持ってきたんですよ。」「あなたの部屋の襖も隙間があるから、あとで、埋めておきますよ。」と言うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 


言われてみれば、わいの部屋の襖にも縦長の隙間が出来ていた。隙間のひとつやふたつ、どうってことはないが、おばさんに言わせると、この建物は築60年も経っているので、傾いたり歪んだりして手の施しようがないんだよ。ちなみに、ビー玉を廊下に置けば、勢いよく転がってしまうほどなのだ。
しかし、磯釣りに来て、釣りの支度もせずに大工仕事とはこれいかに、と疑問を投げか
けると、「私は普段から日中は釣りをしません。日没頃から入磯して真夜中までイサキを狙います。だから、日中は暇なんですよ。」
先ほどは三人でしたが、あの人たちとご一緒ですかと訊いてみると、「私は単独で釣りに来ています。あの二人とは顔見知りですが、別行動です。ただ、あの人たちも日没から動き出しますよ。」

 


その日の天気予報は曇りときどき雨で、風向は北寄りの風5~6メートル。風向に合わせて、釣り場は島の西側に位置する千波崎の船揚げ場に決めた。釣り宿のある泉津集
落は島の東側にあるから、正反対の位置にある船揚げ場まで、凡そ20キロの距離で
ある。千波崎周辺は未だ広大な原生林に覆われていて民家はほとんどない。海岸に沿って打ち捨てられた旧道が山林とブッシュを縫って通ってはいるが、車1台がやっと通れる道幅しかない。

木立の中の薄暗い旧道をゆっくりと進んでいくと、時として、「ギャオオー。」という悲鳴のような唸り声が聞こえてくる。真夜中にこれを聞くとドキッとするが、キョンという小鹿のような小動物の発する悪魔の鳴き声だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


その日の満潮は14時、潮廻りは若潮。原生林の中の深く抉れた枯れ沢に足を取られ
ながら降り、原生林の木立やブッシュを抜けると荒々しい溶岩の起伏が待っている。釣り場までの距離は数百メートルと大したことはないが、ここを踏破するだけで結構堪える。
30分ほどかけて荒磯に出たが、全身汗びっしょりになっていた。おまけに、薄曇りの空から日差しがこぼれて、暑いこと夥しい。


わいは満潮前後の潮を狙って撒き餌を打って仕掛けを投じたが、メジナは釣れたものの
20センチ前後の小物しか釣れなかった。辛抱強く続けていると日没後の19時ごろ、大物の引きがあった。これはでかいと慎重にやり取りをして、やっと魚体が見えてきたと思ったら、水中で白銀色に光った。体長は50センチほどあったが、外道のイスズミだったのでがっかりした


周囲が真っ暗闇になった20時過ぎ、午後からの蒸し暑さと重労働で、わいは疲労困憊して立っているのさえ辛くなった。あまりにも疲れ切って、突然、足から力が抜けて、膝がガクッと折れてしまう。この症状が現れたら危険信号で限界なのだ。これ以上続けると、踏ん張りが効かなくなって、海に転げ落ちてしまうかもしれない。


その時、電気ウキが静かに引き込まれた。竿を合わせると、それが強烈な引きに変わった。わいは最後の力を振り絞っての格闘となったが、釣り上げてみると丸々と太った40センチのオナガだった。最後の最後に荒磯の女神は微笑んでくれたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


釣り道具や獲物をまとめる撤収作業に30分ほどかけて、いざ、背負子を背にして溶岩
の起伏を歩き始めると、くたくたに疲れてしまって足が上がらない。荒磯のちょっとした凸凹にさえ足を取られて躓いてしまう。情けない話だが筋力がなくなってしまったのだ。

こんな時こそ急がば回れで、ゆっくりと確実に一歩一歩踏み出さないといけない。溶岩の起伏で躓いたり転んだりしたら命取りになりかねないのだ。

ゆっくりゆっくり、普段の倍も3倍も時間をかけて原生林の崖っぷちに近づくと、真っ暗闇の木立の急斜面から、人の話し声のような音声が微かに聞こえてきた。人里離れたこんな場所で、絶対にありえないことだ。しかも真っ暗闇の闇夜である。気のせいに違いない。暗闇に怯えたわいが、臆病風に吹かれて化け物を呼び寄せてしまったのだ。

と言っても、薄気味悪いことこの上ない。

 

 

やっと原生林の入り口に差し掛かったわいは、急斜面を枯草やクマザサを頼りに這い上がって、深く抉れた枯れ沢を上り始めたところで、闇夜の木立の間から、狂ったような重低音が響き渡ってきたのだ。初めは風の音かなと思っていたが、枯れ沢を上るに従って、その重低音ははっきりと大音響に変わっていった。いったい何事が起っているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


時刻は22時に近かった。車を駐めておいた場所にやっとたどり着くと、狂ったような重低音は森の木立に木霊して笹薮に充満していた。
この先の森の中に、たしか、数軒の民家が肩を寄せ合っていたはずだ。音源はそこから発信されているのかもしれないと車をゆっくり走らせていると、右側の木立の中からそれらしい灯火が漏れてきた。真っ暗い森の、真っ暗な民家の敷地に、無数の白い灯火が置かれていたのだ。それとともに、ズンズンと腹に応える大音量のヘビーサウンドが流れてきた。祭りなのかイベントなのかさっぱり分からないが、これほどの大仕掛けをしているのに、人の気配がまるでないのだ。まさか、妖怪たちの仕業でもあるまいし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

325話 もう帰っちゃうの、まだまだ演奏するんですよ ♪♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴールデンウィーク直前のことだった。その日、わいは、わいの中学3年時の担任教師に、「今月は先生の誕生月でしたね。おめでとうございます。ところで、手術した目は良くなりましたか。」と電話で訊いてみた。
「おお、ナカムラか、おまえは良くおれの誕生月を憶えていてくれたな。おれは今月で87
才になったよ。」と電話口で喜んでくれたが、わいは先生の誕生月を特別意識して憶えていたわけではない。たまたま誕生月がわいと同じだったので、忘れなかっただけである。


「ところで先生、3度にわたって手術をした網膜剥離の方はその後いかがですか。車の運転はもう出来るんですか。もし、出来るんだったら、ガストでコーヒーでも飲みませんか。」と誘ってみた。


昨年の後半から今年にかけて、先生は網膜剥離のオペを3度も繰り返したのだ。昨年の11月頃、目の中に糸くずや蚊のようなものが動き回って見づらくなったので、大学病院の眼科を受診すると、網膜剥離の診断が下って、すぐにオペをして貰ったそうだ。

術後1ケ月ほどして執刀医に、もう、卓球をしてもいいですかと尋ねたら、完全に治ったから大丈夫だよ。卓球だろうがゴルフだろうがどんどんしていいよと言われて、その言葉を信じて、以前のように1日4時間、週3回ほど卓球をしたら、またまた目の中に蚊が飛び廻り始めたそうだ。

過激な運動をしたので、傷口が開いてしまったのだ。たぶん執刀医は、卓球なんてお遊び程度のピーンポーンぐらいに思っていたのだろう。ところが、先生の卓球は猛烈で過激で極めてハードだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、わいと先生の双方都合の良い5月3日に、ガストでコーヒータイムをとることになった。その前日の夕刻、先生から電話が入って、

「おい、ナカムラ、明日のガストはやめようよ。」「おれがウクレレをやってるのはお前も知ってるだろう。今まで通っていたウクレレ教室の先生は、あーだこーだといちいちうるさいので、ちょっと遠いけど、ときかわ町のウクレレ教室に乗り換えたんだ。

そのウクレレ教室の先生から、明日、私がステージでギターを演奏するから見に来てくれないと頼まれたんだよ。これからお世話になる人だから、顔を立てなけりゃならないんだ。お前も一緒に行かないか。」

 

ギターと聞けば、伊豆のやま~や~ま~月淡く~♪ 灯りに~むせぶ湯の~けむり~  
の湯の町エレジーが思い浮かぶけれど、古賀政男のメロディーをギターで弾き語ってくれるならガストより千倍も魅力的である。
また、ギターと言えば、その昔、路地裏のバーや飲み屋に行くと、流しのギター弾きがひょいと入ってきて、「こんばんわ~、お客さん一曲いかがですか~」なんて声を掛けられたものだ。残念なことに、あの頃のギター弾きは、カラオケに追われて、みんな姿を消してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 


先生、そのギター演奏とやらはどこでやるんですかと訊いたら、「会場はちょっと遠くて小川町でやるそうだよ。」ええーっ、小川町って、紙すきの里の小川町ですか。うちから1時間以上かかりますよ。それでも、先生が行きたいと言うなら私も行きますけど、私は直接現地に行きますから、場所だけ教えてくださいと言うと、「会場の住所はメモしてあるけど、小川町なんて知らないから一緒に行こうよ。」と先生が泣きを入れてきた。


まあいいか、お付き合いだから。翌日、先生の指定した合流場所は毛呂山町の公民館の駐車場だった。あそこならタダで一日中置いておけるからというので、グーグルマップで調べて、早めに行って待っていると、しばらくして黒い軽ワゴンが入ってきた。先生が窓を開けて手を上げたので、わいは運転席に近づいて、

「先生は渓流釣りをしているのに、熊に襲われることもなく、崖から墜落することもなく、こうして無事でいられるんだから、先生は幸運者ですね。」と能書きを垂れてから、これは誕生日祝いのプレゼントですと紙袋を渡すと、「なんだいこれは。」と訊くので、川越は紋蔵庵のどら焼きです。奥さんと一緒に食べてと言って差し上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                             

 

 


 

 

 

 

 

 

先生の車は公民館の駐車場に残して、わいの車で小川町に向かうことにした。この先は山林の中をくねくね走る一本道で、丘陵と山林の中にわずかな畑がある完全な田園地帯である。たぶん、30分も走れば目的地の小川町に到着するはずである。

しかし、なんでこんな田舎町でギターの演奏会があるのかと、疑問に思いながら小川町の入り口に差し掛かった。「先生、もう小川町だけれど、どっちに行ったらいいの。」と訊いたら、「おれも分からないよ。誰かに聞くしかないね。」と言うので、その誰かを探したら、道を歩いている人が一人もいないのだ。


暫く車を走らせているとコンビニがあったので、そこで訊くことにした。先生が胸のポケットから、皴だらけのメモを取り出して、店員さんに尋ねると、

「すみません。わたしには分かりませんが、この先の山の中じゃないですか。」と補足してくれた。先生の背後からメモ書きを覗くと、〇〇ワイナリーと殴り書きされていた。

ワイナリーとは葡萄酒の醸造所のことだから、ギターの演奏とはまるで結び付かない。それでもあちこち走り回ったら、30分ほどでそのワイナリーに辿りついた。ワイナリーは山林や畑のある町外れの丘陵地帯にあって、枯草が生い茂る未舗装の坂を登っていくと、それらしい洋風の建物が見えてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                     

 


 

 

 

 

 

 

 

丘の上に上り詰めると、砂利の敷かれた段々畑のような平地に数十人の客が屯していた。周囲には飲食物を売る小さな屋台が10数台店を出していたので、ワイナリーが販促のイベントをしているらしいことはなんとなく分かった。
しかし、こんな騒々しいところで、古賀政男の哀切なメロディーを聴いても違和感しかないだろう。木造二階建てのワイナリーの中に入ってみると、試飲したり、立ち飲みしたりするスペースがあって、ボトルの販売も盛んにおこなわれていた。
この建物は醸造所というより、むしろ販売目的の建物のようだった。

 

しかし、この建物のどこにギター演奏する場所があるのだろうかと疑問に思っていると、先生が戻って来て、まだ、ウクレレの先生は来ていないけれど、到着次第、演奏が始まると言っていたよ。ギターの演奏は屋内でなく野外でするみたいだねと、一段と低くなった枯れすすきや雑草の広場を指さしてくれた。

そこには既にアンプなどが置かれていて、枯草も踏みつけられていたから、このイベントは連休の期間ずっとやっているのかもしれない。わいが広場に置かれた風化した木製の長椅子で開演を待っていると、先生が屋台からスコーンとコーヒーを買ってきてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                      

 

 

 

 

 

 

 

それを食べながら待っていると、エレキギターとドラムの4人組ユニットが、枯草のステージに現れてイベントの支度を始めた。それを見た先生は、エレキギターを抱えた中年の女性に近づいて話を始めた。この女性がウクレレの先生のようだ。会話が聞こえて、「わざわざ遠いところを来てくれてありがとうございます。」と女性は嬉しそうに笑っていた。この時点で、この演奏会は古賀政男のギターとは無縁であることが判明した。

 

ユニットはエレキギターが3人で、ドラマーを入れて4人で構成されていた。ボーカルは相当な高齢者だったが、年寄りの割には声に張りと伸びがあって、その声を振り絞ってビートルズのナンバーを立て続けに三曲歌ってくれた。ドラマーはパナマ帽を被った貫禄のある老紳士で、司会の話では隣町のときかわ町の前町長で、78才とか言っていた。ボーカルもときかわ町で、現役の家具職人をしていると言っていた。

件のウクレレ教室の先生は、ときかわ町観光協会でガイドを勤めているそうなのだ。

ときかわ町のエレキバンドが、ワイナリーのイベントを盛り上げるため、手弁当で駆けつけてくれたのかもしれない。というより、演奏機会の少ないバンドのようだから、演奏できると聞いて大喜びでやってきたのかもしれない。


ビートルズのナンバーが3曲続いて、4曲目のポールアンカのダイアナが始まったところで、先生が、「おいナカムラ、これだけ聴けば十分だよな。もう帰ろうよ。」と言い出した。そうですねとわいが立ち上がると、先生はつかつかと野外ステージに近づいて、ウクレレの先生に、「ありがとう。今日はこれで帰ります。」と言って手を振った。

すると、ウクレレの先生は演奏の手を停めて、「もう帰っちゃうの、まだ1時間くらい演奏するんですよ。」と恨めしそうな言葉を返してきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 

324話 かけがえのないドリップコーヒー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドコモというのはモバイル通信会社だけれど、それによく似た名前のコモドというのがあるのをご存じですか。


は~い、コモドってコモドオオトカゲのことでしょう。インドネシアに棲む世界最大のトカゲで、別名コモドドラゴンといって全長2メートルを超える大きなトカゲですよね。こいつに嚙まれると体内に唾液の毒が回って数時間で死んでしまうそうですね。跡をつけてきたコモドドラゴンは獲物が死んだ途端に、かぶりついて喰ってしまうそうです。恐ろしいトカゲですね。
なんだと、君はコモドをトカゲだと思っていたのか。ぶっ、ぶっ、無礼者め、

「知らざあ言って聞かせやしょう。」と大見えを切ったら、おっとおいらは弁天小僧菊之助なんてセリフまで飛び出してきた。弁天小僧なんて、今じゃ知っている人はいないだろうが、歌舞伎の白波五人男に登場する大ドロボーのひとりで、このセリフは正体がばれたときに、開き直って明かすセリフなのだ。誰が歌っていたか忘れたが、ぼたんのようなお嬢さん ♪♪ という出だしで、昭和30年代にヒットした歌謡曲にも歌われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

という訳で、コモドはオオトカゲではなく、CAFÉ COMODOという喫茶店であることを言明しておく。わいの住まいから行くと、小畔川と言う農業用水の堤防を3キロほど降って、小畔川にかかる橋を渡り、対岸の町外れにある小さな小さな喫茶店である。

わいがコモドに通い出したのは7年余り前の開店してまもなくだった。ある日、グーグルマップをググっていると、畑や雑木林の中に出来た町外れの新興住宅の一角に、忽然と喫茶店のマークが現れたのだ。こんなところに喫茶店を出しても、果たしてお客さんが来るのか。商売は成り立つのだろうかと驚きあきれるほどの辺鄙な場所だった。

 

コモド誕生の経緯を推測してみると、8年前のその頃、その民家にはマスターの奥さんの年老いたご両親が住んでいて、ご両親の介護のために、毎日遠方から通っていたそうだが、四六時中介護するわけではないので、介護ついでに喫茶店でも開こうよということになって、二階建て住居の一階部分を改造して小さな喫茶店にしたらしい。丁度その頃、マスターは63才で定年を迎えたので、それを機に、バリスタの講習を受けて資格を取り、趣味と道楽で開店した喫茶店だったのだ。


コモドと言う聞きなれない名前についてマスターに尋ねたら、奥さんが若いころイタリアのフィレンツェに留学して声楽を学んでいたので、その頃のことを思い出した奥さんの希望で、イタリア語でコモド、「のんびり寛げる」という意味の店名にしたそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コモドの意味どおり、わいはこの7年余りの歳月をマスターと雑談を交わし談笑しながら、のんびりゆったりと寛がせてもらった。ほんとうに有難い7年余りの歳月だった。

小畔川の堤防天端ののどかな野路を週2回、片道3キロほどをてくてく歩いてコモドに行くのがわいルーティンワークになっていた。
週2回なので、年間では100回余りである。往復6キロだから年にすると600キロ、それを丸7年続けたから、総距離は4200キロ余りになる。マスターと談笑しながらコーヒーを飲むために、なんと4200キロ余りを歩いていたのだ。その距離は北海道の北端宗谷岬から鹿児島の南端佐多岬までを往復するほどの距離である。


コモドの営業日は火水土日の週4日であった。開店は11時なので。毎回わいは11時ぴったりに到着して12時頃に引き上げていたが、幸か不幸か、その間、お客さんが来店することは稀だった。だから、マスターとの雑談や談笑ができたのだ。そんな当たり前の日常が1月前の4月某日、突如断たれてしまったのだ。「このところ体調が思わしくないので、明後日の火曜日からしばらく休ませてください。」とマスターからメールが届いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その数日前にわいがコモドを訪れた時、マスターから「誕生日おめでとうございます。」とコモドコーヒーのプレゼントを頂いたが、ところで、マスターはいくつになったのと訊いたら、私は70才になりましたというので、マスターも、バリスタの腕をますます上げて、あと10年はおいしいコーヒーを淹れてくださいねと注文したばかりだったのだ。

それに、体調が悪いと言っても2週間か3週間もすれば元に戻ってくれるだろうと深刻には考えていなかった。案の定、休業して3週間ほどたった月曜日の深夜、メールが届いて、「明日の火曜日は開店しますからお越しください。」とあった。やはり取り越し苦労に過ぎなかったのだ。と喜び勇んでコモドに向かうと、いつも11時に店先に出す看板が出ていなかった。しびれを切らせてドアを開けると、マスターと奥さんが揃って待っていてくれた。看板を出しわすれてるよと声を掛けると、今日は出しませんと言うのだ。

わいがテーブル席に座って、「マスター、回復してよかったね。だけどずいぶん痩せたみたいだけど。」と声を掛けると、「東京女子医大に検査入院していましたが、食事が喉を通らないので、点滴だけで生きていました。18キロ痩せました。検査結果は金曜日に分かります。」と答えながらドリップしていたが、立っているだけでも辛そうなのだ。


マスターの淹れてくれたコーヒーは奥さんが運んできてくれた。そんなことは初めてである。そして、とうとうマスターは側にあった椅子にへたり込んでしまった。いくら鈍感なわいでも、容態の深刻さはひしひしと伝わってくる。

その日、店を開けてくれたのは、体調が回復したからではなかったのだ。逆に、7年余りの濃密な付き合いにきちんとけじめをつけようと、最後の力を振り絞ってコーヒーを淹れてくれたのだ。別れのセレモニーをしてくれたのかもしれない。

わいはマスターと奥さんに、一言、ありがとうと言いたかったが、哀しみがこみ上げてきて何も言えなくなってしまった。

 

 

 

 

 

                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

323話 あのころの日々は戻ってこない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近くを流れる小畔川の堤防の桜はあっと言う間に散り果てて、赤い花弁もなくなって葉桜になってしまった。華やいだ時代は一瞬にして終わってしまう。葉桜で思い出すのはあの日のことである。そう、あの日とは5年前の5月4日、心から敬愛していた三宅島の漁師、光明丸の船長が88才と10か月で旅立ったその日である。四十数年にわたって積み重ねてきたわいと船長との親交の数々、ガキ大将のような船長との思い出は、思い出すたびに胸が熱くなる。

 


思い起こせば8年ほど前、船長が80才を超えたばかりで、まだ口も達者で元気だった頃の夕食時、船長と差し向かいでビールを飲んでいると、突然、船長が口を開いて、おい、ナカムラ、おれが大事にしてきた光明丸 ( こうめいまる ) を今度オーバーホールすることにしたよと言うから、オーバーホールって車検みたいなものだろう。いくらぐらいで出来るの。車と違って漁船だから100万円ぐらいはかかるんだろうね。と多めに吹っかけて訊いたら、バカヤロー、100万や200万じゃ出来ねえよ。300万は下らねえ。それでも安い方なんだ。普通にやれば400~500万はかかるんだよと説教された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


伊豆の下田の造船所から整備士に来てもらって、1か月ほどかけてバッテリーの交換から、あらゆるボルトやビスまで、錆びたり劣化した部品は全部取り換えてもらうんだよ。御蔵島までの渡船や瀬渡しの最中に、大しけの海で漂流したら大変なことになるし、赤っ恥をかくからな。今、オーバーホールしといたら、この先10年や20年は十分使える。とビールを飲みながら構想を語ってくれた。ということは、船長はこの先10年以上、渡船や瀬渡し、漁師稼業を続けるつもりなんだとわいは嬉しくなってしまった。
「そりゃあ、いいことだね、船長だったら90を過ぎても十分漁師ができるよ。」と煽ってみたら、「バカヤロー、おれは100まで生きるんだよぉ。」と調子に乗って豪語した。
それを台所で聞いていた娘のムツミが、「じじいに100まで生きられた日には、おれの人生めちゃくちゃだよぉ。死ぬまで釣り宿の手伝いをしろって言うのかよぉ。じじいが人並みに死んでくれなきゃ、おれが困るんだよぉ。」と本音丸出しの叫びが聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5年前のその日は、まだ新型コロナが猛威を振るっていた頃であった。ムツミは船長の葬式を済ますと暫くして、「これからは認知症のばあさんの介護で忙しくなるし、村役場から、都会からの来島者は宿泊させないようにとお達しが出ているから、わるいけど、釣り宿は今月限りで畳むことにしたよ。次からはほかの釣り宿に移ってくれない。」とわいを始めとする残り少なくなった常連に通告したのだ。


船長を失くした光明丸は二束三文で売り払ってしまい、船長が毎日使っていた漁具や漁
師道具は仲間の漁師たちにタダで持って行かせたそうだが、瞬く間に、釣り宿や船長の思い出の品々が処分されてしまった。廃棄処分のような惜しげもない処分に、船長とおばさんが血の滲むような努力で築き上げた釣り宿をごみ屑のように捨ててしまうのか。このバチアタリめ、と憤りを覚えたこともあったが、元々、ムツミは好きで釣り宿を手伝っていたわけではなかった。もし、自分がいなくなったら、父ちゃん母ちゃんだけでは、光明丸も釣り宿もまったく機能しなくなって廻せなくなってしまう。だから、父ちゃん母ちゃんのためにおれが犠牲になってやる。たぶん、そんな気持ちで、ムツミは結婚もせずに釣り宿を支えてきたのだ。ムツミにとっては漁船や漁具などまったく無価値で関心もなかった。それこそ、猫に小判以下だったのだ。いずれ処分を迫られるものなら、さっさと片付けてしまえというムツミなりの考えだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古参連中には変な未練や思い出があったので、ノスタルジアが募って、釣り宿だけは続けてほしいと懇請した人もいたようだ。
かく言うわいも、船長との長い付き合いや思い出を、欠片も残さず処分されて、この女は冷酷非情な親不孝者と白眼視したこともあった。しかし、よくよく考えてみれば、ムツミは感謝こそされても、恨まれたり非難されたりする謂れはなかったのだ。

 

 

釣り宿を畳んで数年がたち、すっかり音信は途絶えていたが、船長と二人で光明丸を盛り立てたおばさんはまだ元気でいるだろうか。ムツミさんも元気だろうかと未練ごころと懐かしさが相まって、思わずメールを送信してしまった。


ムツミさんお変わりありませんか。おばさんや猫ちゃんたちも元気に暮らしていますか。と言うメールに、


「マコちゃんは去年の2月に93才の誕生日後に永眠しました。姉妹3人に看取られて大好きな忍三さんの側に行きました。来年は忍三七回忌と昌子三回忌になるので一区切りです。今は猫共に振り回されながら畑で自家栽培をしています。」という返事が返ってきた。
 

 

 まこちゃんとは昌子おばさんの愛称で、忍三さんとは船長のことです



 

 

 

 

 

                                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

322話 死神を振り切って生き延びた男

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

釣り始めて8時間余りが経過した。この海域に棲息する生物すべてが死に絶えたかと思われるほど寒冷な海で、やっとウキが消し込んだ。地獄に仏とはこんなことを言うのか。 しかし、竿から伝わってくる感触は小物でしかない。釣り上げてみると20センチ足らずの小メジナだった。いつもならリリースだが、今回は持ち帰ることにした。
 

そんな小さなメジナやイスズミが、その後2時間で10匹ほど釣れたが、すぐにまた無反応の海に還ってしまった。しかも日没を境に、雨粒を伴った強風が音を立てて吹きはじめた。
これでは釣りにならない。頭の隅に撤収という言葉がよぎったが、撒き餌はまだ十分に残
っているし、ここで撤収したら尻尾を巻いて逃げるに等しい。もう少し粘ってみることにした。

しかし、刻一刻と風雨は烈しさを増して、時として突風まで伴ってくる。腰を落としていないと突き倒されてしまいそうだ。強風と冷雨に打ちのめされて、徐々に戦意は喪失して行った。19時、ついにわいの心はぽっきりと折れてしまった。撤退するしかない。

このまま意地を張っていたら低体温症になりかねないし、あまつさえ、帰路の枯れ沢には雨水が集中し、濁流になっているかもしれないのだ。車に戻る途中に、いくつか難関はあったが、なんとか軽ワゴンまで辿りついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 


おくやま荘に帰着したのは21時を回っていた。おくやま荘の中庭は猫の額ほどしかないが、その中庭に軽ワゴンを乗り入れて、わいは雨の中、潮を被った釣り道具を洗い始めた。最後に、釣れた魚をクーラーに入れ直して氷を入れていると、なにやら背後で人の動く気配がした。振り向いてみると、ヘッドランプの光の中に浮かんだのは白っぽい服を着た男だった。その男はわいの肩越しにクーラーを覗き込んでいた。一瞬ぎょっとしたが、たぶん、おくやま荘の釣り客なのだろう。

わいは男に、今日はこんな雑魚しか釣れなかった。お恥ずかしい限り。なにしろ、風雨が烈しくてギブアップするしかなかったからと語りかけると、男は一言も発せず、わいの顔をじっと見つめていた。なぜか、男の両鼻の穴には脱脂綿が詰め込まれていた。花粉症かもしれないが、不気味なことこの上ない。

 

 

終始無言の男に「今日はどこで釣っていたのですか。釣れましたか。」と尋ねてみると、男は両手を拡げて、左右の手の指で二つの輪を作ってゼロを示した。更に、両腕を交差させてバツ印を作り、ダメだったと表現した。この男、ふざけているのか、わいをからかっているのか。コメディアンでもあるまいし、パフォーマンスはほどほどにしろと腹立たしくなってきたら、それを感じ取ったのか、男は逃げるように姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                            

 

 

 

 

 

 

 

 

 


気が付けば釣り宿前の狭い露地に、エンジンをかけたままの軽トラックが停まっていた。男はその軽トラックの荷台でなにかを探していたが、暫くすると、黒い板状の物を手にして戻ってきた。わいの目の前にそれを差し出すと何か書き始めた。見れば、それはタブレットで、画面に電子ペンで文字を書いているのだ。
タブレットには 「私は2年前、喉頭がんを患って、手術をして声を失いました。」と書かれていた。次の文言には 「朝から晩までトウフ岩で釣っていましたが、ピクリともアタリはありませんでした。結果はボウズで、なんにも釣れませんでした。」と書かれていた。

 


そうだったのか。聾啞者だとは気づかなかった。聾唖者がたった一人で、あの人里離れた原生林の崖下で、よくぞ今まで頑張っていたものだ。

わいはタブレットに書かれた文言に感動してしまった。すぐさま、男の肩を叩いてタブレットを奪うと、「この暴風雨の闇夜に、原生林の真っただ中で、よくも、今まで頑張っていましたね。私はあなたを尊敬します。」と書き込むと、それを見た男は嬉しそうに頷いてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

釣り道具を洗い終わって一段落したので、釣り宿に上がると、おばさんが食堂の隅で、所在なげに腰かけていた。「まだ、起きていたんですか。今、表でお客さんらしい人と出会って筆談をしたんだけれど、聾唖者がたった一人で釣りに来ていたんですね。その人の気迫と根性には圧倒されました。」と話すと、
「あの人はね、ヤジマさんていう常連さんだけど、5年間釣りに来られなかったんだよ。」 その5年の間に、最初は大腸がんの手術をして、次に胃がんの手術、その次は腸閉塞の手術、そして、2年前には喉頭がんの手術をして、やっと去年から磯釣りが出来るようになったんだよ。

 

へ~え、5年の間に4度も大病をして、死神のまな板に何度載せられても、磯釣りを続けているなんて剛毅な人ですね。さっき、庭先でタブレットを介して筆談をしていたんですが、まったく病人には見えなかったですよと言ったら、


「あんたがタブレットを使うことはないんだよ。あの人は声は出せないけれど、耳は聞こえるみたいだからね。でも、小さい声はダメだよ。」
それに、あの人はあたしと同じ82才だけれど、一度釣りに出たら、真夜中まで帰ってこないんだよ。もし、何かあっても、声が出せないから携帯は使えないし、あたしは心配で心配で、帰ってくるまでこうして起きているんだよ。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝7時、わいがまだ二階の部屋でまどろんでいると、階下から「ナカムラさん、ナカムラさん、」とおばさんの呼ぶ声が聞こえてきた。食堂に降りて行くと、「今日は大しけなのでジェット船は全便欠航だって。今、防災無線で放送があったよ。どうするの、」と訊くので、往復とも大型客船だから大丈夫ですと応えて、食堂のテーブルを見ると、昨夜のタブレットの男が黙々と朝飯を食べていた。

昨夜、ヘッドランプの光の中で見たときは、矍鑠とした冒険家のように見えたが、朝の光の中で見ると、哀しいかな、くたびれかけた老人だった。
 

わいは男に歩み寄って、テーブルの上に置かれたタブレットに

「この暴風雨の最中に、まさか、釣りには行かないでしょうね。」と書き込んだら、男はにやりと笑って、「朝食がすんだらすぐに出かけます。昨日とおんなじトウフ岩です。リベンジです。」と書き込んだのだ。

 

やはりこの男ただ者ではなかった。死神の手を振り切って生き延びた男なのだ

 

 

 

 

 

 

                                              

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

321話 いくら抗っても低水温には勝てない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【先日、こんなニュースがウエブサイトに掲載されていた】

 

鳥取沿岸のハマチ漁場でハマチが消えた。ハマチ漁は過去30年で最低という記録的な不漁に陥っている。「去年は目に見えてひどかった。これだけ獲れなかったのは初めてだ。」2月下旬、ハマチ漁師の谷本達郎さん(39)は嘆息した。
生計を支えてくれていたハマチが昨年、急に姿を消した。経験的にいると思われる海域に網を入れてもかからない。漁獲量は前年よりさらに激減し、収入は半減し、船の燃料代や資材費の高騰が追い討ちをかける。   

 

 

 

 

 

 

                                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




今冬、日本海側は最強寒波の襲来とかで暴風雪が相次いだ。伊豆諸島の海域も、これに負けず劣らず大しけに見舞われていた。2月下旬のある朝、この大しけもいずれは収まるだろうと、インターネットの週間天気予報を子細にチェックしていると、数日先に凪ぎそうな日が見つかった。


わいはすぐさま、大島のおくやま荘に電話して、3月初頭の日曜夜、竹芝桟橋を出航する大型客船で行きたいんだけれど、翌朝の迎えは大丈夫ですかとおばさんに訊いてみた。すると、「月曜日の朝6:00到着のさるびあ丸だね。その日なら大丈夫だよ。お待ちしてます。」と即座に快諾してくれた。


じゃあ、オキアミは前日の夕方から溶かしておいて下さいと頼んで、果報は寝て待てとばかりに出発の日を待っていたが、出航当日になると天気予報は急転し、明日から明後日にかけては風雨が強くなって大荒れになる。と好日予報が暗転した。

なにを今更と思ったが、天気予報に文句を言っても始まらない。しかも、準備万端整っている乗り掛かった船なのだ。この期に及んで延期はできない。という訳で、悪天候を承知の上で渡島することにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 


早朝6時、連絡船は岡田港の岸壁に接岸した。100人余りいた下船客の先陣を切ってわいはタラップを降りて岸壁を歩き出したが、雨はぽつりとも降っていない。風も吹いていなかった。曇り空から時折薄日が漏れてきたから、天気予報が外れたのかもしれない。
タラップを降りてから岸壁を200メートルほど歩き、港の駐車場に着いたので、迎えの車は来ていないかと目を皿にして探してみたが、それらしい車は見当たらなかった。

暫く待っていると、港に降る急坂を下ってくるおばさんの軽ワゴンが見えた。

 


車に乗り込んだわいは、天気予報では今日から明日にかけては大しけになるって言っていたけれど、そんな気配はないね。ところで、おくやま荘にはわいのほか誰か来てるのと訊いてみると、「あんただけじゃないよ。釣り好きがもう一人来ていて、もう出かけたよ。」「天気はこれから悪くなるかもしれないよ。」とおばさんのご託宣である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

車は暫く走っておくやま荘に到着した。食堂の椅子に座って、おばさんが淹れてくれたお茶を飲みながら、今回は大型船で来て大型船で帰るから、時間的な余裕はたっぷりある。今日は夜の夜中まで腹いっぱい釣ってくるよ。その代わり、明日は何もしないで昼まで寝ています。天気予報では北東風が強くなるらしいから、風裏になる千波崎のニツンバに入ります。と大まかな予定をおばさんに話しておいた。

 

わいは30分ほどかけて釣り支度を整えると、軽ワゴンのエンジンを噴かして15キロ先の西側の荒磯ニツンバに向かった。ニツンバに入るには、バウムクーヘンという名の幾重にも露出した地層を横目に、その先を幹線道路から外れて樹林帯の旧道に侵入して行くのだ。

木々や木の葉がトンネル状になった山路を走っていると、突然、路脇のブッシュから子犬のような動物が飛び出してきた。あわてて急停車したが、それはキョンという小鹿に似た小動物だった。キョンはちっちゃくて可愛い顔はしているが、農作物を食い荒らすので、邪魔者扱いされて嫌われている。大島で大繁殖して現在、推定2万頭余りが棲息しているというから、島民7000人の3倍近くがいることになる。いずれにせよ轢き殺さなくてよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

樹林の路脇にニツンバ入り口の白いポールを見つけたので、軽ワゴンをポール近くのブッシュに突っ込んで停めると、背負子にバッカンやリュックを括りつけ、ロッドケースを片手に、樹林の中の深く抉られた枯れ沢を下って行った。荷物の総重量は15キロほどだが、雨水で抉られた枯れ沢は滑りやすく穴だらけだから、歩くだけでも堪えるのだ。枯れ沢を抜けても、更に溶岩と瓦礫地帯を昇ったり降りたりしなければならない。それでも20分ほどかけて、目的のニツンバに到着した。

 

不思議なことにニツンバの磯には波も風もなかった。20キロほど離れた西方の海上にはフジツボ状の島影をした利島がポッカリと浮かんでいた。海面には小じわのような縮緬波があるだけで、まるで湖沼のように静かだった。

 

 

 

 

 

 

 

                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

溶岩に腰かけて仕掛けを作って、いざ7時過ぎから釣り始めたが、1時間たっても2時間たってもコツリともアタリはなかった。撒き餌の回数を上げても大量に撒いても、また、棚を深くとっても浅くしてもまったくアタリはない。棲息する魚が死滅したのかと疑うほどだ。

 

アタリのないまま3時間ほどたった頃、曇り空の一角がポッカリと開けて太陽が顔を出した。早春の日差しが降り注いできたのだ。やはり、明るい日差しは嬉しいものだ。

しかし、その喜びも束の間だった。10分もすると暑くて暑くて堪らなくなった。余りの暑さにヤッケを脱ぎ捨てて額の汗を拭った。

 

5時間ほど経過して正午を過ぎたが、やはりアタリはまったくない。水温が低すぎるのだ。

午後1時を過ぎると風が出てきた。その風がにわかに強くなって、しかも異常なほど冷たいのだ。脱ぎ捨てたヤッケをあわてて着直した。

遥か西空を見るとそこは暗雲に覆われていて、さっきまで見えていた利島も妖しい雲に覆われていた。恐らく、利島の周辺はすでに大雨なのだろう。そのどす黒い雲がこちらに向かって接近しているのだ。

 

※ このつづきは、次回 「死神の手を振り払って逃れてきた男」 に掲載します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         

 

 

 

 

 

 

 


 

320話 まさか、こころの風景に出会えるなんて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上の写真は正月の二日、首都圏には珍しい降雪の日の写真である。その数日後、東京練馬区に住むある人から、こんな写真がラインで送られてきた。
しんしんと雪の降る夜の裏通りを、何事もなく歩いていく二人の姿。

降りかかる雪は冷たいはずなのに、傘もささずに歩いて行く二人。

不思議なことに、わいの目にも雪の冷たさはまったく感じられない。二人を包む街灯りは、むしろほのぼのと温かくさえ見えるのだ。

その時、二人の向こうに、なつかしい歌声が聞こえてきた。涙ぐむほどなつかしいその歌声はわいの心に灯をともした。

 


雪の降る街を~ 雪の降る街を~


思い出だけが通り過ぎてゆく 雪の降る街を~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                        

                                                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何にもなかったわいの少年時代、家には壊れかかった古いラジオだけがあった。

そのラジオから、ザーザーという雑音に混じってこの歌が聞こえてきた。だから、わいはこの歌を聞いて育ってきた。ただ、この歌を聞いても、わいは寂しいのか、悲しいのか、うれしいのか、さっぱり分からない。思い出だけが複雑に絡み合って蘇ってくる。


この歌が聞こえた頃は、テレビもない。洗濯機もない。食べるものさえままならない時代だったから、壊れかけたラジオでも音さえ出れば辛抱出来た。ラジオ全盛時代というか、娯楽といえばラジオしかなかった時代だった。

 


この歌の作詞は内村直也。作曲は中田喜直という人らしいが詳しくは知らない。
「雪の降る街を」の幻想的で物悲しいこの歌は、昭和27年のNHKラジオドラマの挿入歌として誕生したそうだ。当時のラジオドラマは生放送だったので、ある回の放送前日におけるリハーサルで、時間が余ることが分かって、その時間を穴埋めしようと急拵えでこの歌が制作されて、最初は劇中歌として使われたそうだ。

わずか数分の時間つなぎではあったが、放送終了後、問い合わせが殺到したため、その後レコード化したところ、これが大ヒットしたというエピソードが残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

リハーサル現場で作詞を依頼された内村直也は、即座に現場の片隅でペンを取って、たちまちこの詩を書き上げてしまったという。作曲を担った中田喜直はこの曲を作る際、かつて、山形県鶴岡市で見た古い城下町の降雪風景を思い起こしてメロディを紡いだそうだ。後世に残るこの名曲はこの二人の天才によって、わずか一日という短期間で完成し、翌日の本番に間に合ったそうだ。


モデルとなった鶴岡市は庄内平野の西端に位置し、北側に日本海を擁し、南側には山岳信仰の山、羽黒山を仰ぎ見る城下町である。江戸時代、鶴岡には庄内藩の本拠地が置かれ、庄内地方の行政の中心地として栄えたようだ。また、三屋清左衛門残実録などで知られる、武家もの市井ものを描いた時代小説作家の藤沢周平氏の生誕の地でもある。


さて、しんしんと降る雪の夜は静かである。雪はすべてを包み込んで隠してくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

319話 無事だったから、幸運なのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいが、ご主人の墓参りを了えて軽ワゴンの後部座席に乗り込むと、おばさんが、「折角、釣りに来たのに、元町に立ち寄ったり、墓参りをしてもらったり、あっちこっち引っ張りまわしてあんたの邪魔をしてわるかったね。」と言うので、そんなことはないよ。今日の干潮は2時頃だし、どうせ、その前後は釣りにならないんだから。夕マズメから深夜にかけてが勝負だから、急がなくてもいいんだよと話している内におくやま荘に到着した。墓のある神泉寺とおくやま荘は集落の南と北に位置しているので、ものの5分もあれば着いてしまうのだ。
 

とは言え、わいが岡田港に上陸してからすでに2時間余りが経過している。時計の針
はすでに12時を回っていた。おばさんに、おにぎりを食べてから出かけるけど、その先
はぶっ続けで真夜中まで釣るから、夕食はいりませんと断っておにぎりを食べ始めると、おばさんが熱いお茶を煎れてくれた。


この先、真夜中まで10時間余り釣り続けるには、途中、必ず空腹を満たさねばならな
い。また、真夜中に帰ってきてもすきっ腹では眠れない。おくやま荘では、何時戻ってきてもいいように食事の用意はしてくれるが、それは、おばさんが夕方7時前に作った料理を長テーブルに並べてくれて、一人前づつ蝿帳をかぶせて置いてあるだけなので、真夜中になると、料理はカサカサに乾いて、その上冷え切ってしまい、まるでうまくないのだ。だから、弁当とかパンを用意するのがベターなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おにぎりを食べ、釣り支度を整えて、釣り場に向かって軽ワゴンを発進させたのは午後1時を回っていた。その日、天気は快晴だったが、北西風が強くなるという予報が出ていたので、風裏となる三原山の東側に入磯することにした。まず、期待できそうな磯を偵察してみることにして、車を一周道路の道脇に停めて、荷物は車に置いたまま手ぶらで、鬱蒼とした斜面を降っていくと、すぐに山径はブッシュの中に消えてしまい、カヤや笹藪を掻き分けて進んでいくことになった。暫く進むと木立の隙間から海が見えてきた。
ここは通称マツザキという磯で、20年以上前までは人気の高い釣り場だった。週末に
は釣り人が先を争って押し寄せるほど混みあったが、笹薮に埋もれてしまった現状を見ると、
最近は誰ひとり寄り付かないのだろう。

 

わいも15年以上ご無沙汰しているので、現在、ここがどうなっているのか、この目で
確かめないことには釣りは出来ない。笹薮の中を暫く降って行くと、とげとげした溶岩
の荒磯に出て眺望が展けてきた。その荒磯には大きな流木が漂着して横たわっていた。
また、溶岩の岩場は荒波で破壊されたのか、大きく裂けて溝が出来ていた。かつての
景観とは異なって様変わりしていた。更に全体を見渡せる突端に出てみると、足元の
海からは沈み根が頭を出していたり、沖に向かって沈み根が張り出していたりして浅く
なっていた。潮はまったく動いておらず、まるで湖沼のように波もなくべたなぎであった。
これではまったく期待できない。再び斜面の途中まで戻って、その先の磯を偵察してみ
たが、そのあたり一帯の潮は完全に死んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マツザキ周辺をかれこれ1時間以上は偵察したろうか、しかし、釣れそうな磯はひとつ
としてなかった。諦めて、一周道路に停めた軽ワゴンに戻ると、すでに午後の陽は三原
山の山陰に隠れて夕闇が迫っていた。夜釣りに備えて、夕食と夜食を買っておこうと、
Uターンして泉津集落に舞い戻り、集落に一軒しかない武田商店前で停車すると、
まだ4時前というのにもう店は閉まっていた。後にも先にも泉津集落の商店はここ一軒
しかない。


たしか、30年ほど前、泉津集落の酒屋として、風雪に耐えてきたオンボロの建物が
取り壊されて、新しい店舗に建て替えられたので、その後、何度か立ち寄ったことはあ
るが、かつてはおにぎりや弁当、コロッケなども置いてあって便利ではあった。しかし、老人ばかりのこの小さな集落でよく商売が成り立つものだと感心したものだった。


 

直近では昨年の11月ごろ、売れ残っていたアンパンを1コ買った憶えはあるが、今回
は生憎閉店しているのでここでは買えない。仕方なく、5キロほど離れた「げんろく」とい
う食品スーパーに向かうことにした。げんろくまでの道路は都道なのでよく整備されているが、途中の沿道には商店はまったくなくて民家もない。その代わり、時々、沿道の樹林の上に張られた電線上に、カラスのように数十匹の野猿が留まっていたりするのを見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大島は東京都に属する周囲50キロほどの大きな島だが、コンビニはただの一軒もない。町役場のある元町周辺には食品スーパーが数軒あるが、そのスーパーも午後7時にはぜんぶ閉店してしまうので、必要な食料は7時前に調達しておかないと大変なことになる。うっかり忘れると餓死しかねない。大島は元より、伊豆七島にはただ1軒のコンビニもない。だから、大島に来るとコンビニのありがたみがよくわかる。

 

 

げんろくで弁当とコロッケを調達して再び泉津に舞い戻って、おくやま荘近くのオオツク
ロに入ることにした。風が出てきたので、大きな岩壁を背にして高場で釣ることにした。
オキアミのコマセを気前よく放射状に打って、いざ仕掛けを投入すると暫くしてウキがビューっと引き込まれた。こんな引き方は雑魚でしかない。案の定、赤ちゃんの手の平ほどのメジナだった。そんな小魚とのやり取りが30分ほど続いて、夜の帳が荒磯を包んできたので、ウキを電気ウキに取り換えると、今の今まで続いていた雑魚の引きが突然なくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すわ、潮が変わって大物の時間がやってきたのだ。早速、ウキ下を深くとって仕掛けを投入すると、グググーッと大物の引きである。わいの読みというかヤマカンが的中したのだ。
釣れたのは大物ではなかったが、35センチほどの姿形のきれいなオナガグレだった。

さあ、これに続いて次々に釣れまくるかもしれない。わいは貪欲ではないから、せいぜい8匹程度で満足である。まだ、6時だから、今夜は9時ごろまでに納竿することになるかもしれないと皮算用していると、その後は大物どころか、赤ちゃんサイズすら食って来なかった。


6時を過ぎた頃から、急にピクリともアタリがなくなったのだ。針につけたオキアミはそのまま返ってくる。針につけたオキアミを触ってみると、氷水に浸けたように冷たい。

突然、潮が変わって冷水塊が入ってきたのだ。水温低下で、魚たちは瞬時に活性を失ったのだ。こうなるともう釣りにならない。


しかし、わいは諦めなかった。奇跡よ起これとばかりに、これでもか、これでもかと仕掛けを打ち込み続けた。しかし、神仏に無視されたのか、はたまた却下されたのか、その執念は天には届かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

凍えるような真冬の夜の荒磯で、ひたすら竿を振りつづけた一竿子に、神仏の慈悲は届かなかった。22時、ついに精魂尽き果てたわいは投了してギブアップと相成った。

その後の磯上がりの行程は過酷でつらかった。寒さと疲労でくたくたになっているところ
に、背中の荷物の重かったこと重かったこと。溶岩突起に躓いて転びかけたり、枯草
のアシにスパイクを引っ掛けたり、何度転びかけたか分からない。それでも、転びもせず
になんとか釣り宿に帰り着いたのだから、運が良かったと言えるかもしれない。

 

翌朝の朝食時、おばさんと話していて、きのう、神泉寺近くの武田商店で買い物をし
ようと立ち寄ったら、4時ごろなのに、もう店を閉めていたんだよ。いくらなんでも早す
ぎるよねと話すと、
「知らなかったの。武田商店は大晦日の12月31日で店を閉めてしまったんだよ。
あの店も建物も誰かに買い取られてしまったそうだよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

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