荒磯に立つ一竿子

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331話 風ですよ、風、つむじ風です

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

秋の長雨とはいえ、今季の雨はあきれるほどの長さである。その日、テレビの気象情報では、東京の都心で雨を観測した日が連続35日となって、これは観測史上最長の記録になるというニュースが流れていた。
加えて、相次ぐ台風の襲来とそれに刺激された秋雨前線が各地に大雨を降らせて、河川の氾濫、市街地家屋への浸水、田畑の冠水、崖崩れや土砂崩れによる家屋の倒壊など、普段、水害に見舞われることが少なかった房総半島の市や町、印旛沼周辺にまで甚大な被害を発生させていた。

 


まさにこの時、常日頃、わいが磯釣りの拠点としている伊豆大島でも、台風25号による線状降水帯が発生して、48時間で800ミリという猛烈な豪雨があって、崖崩れや土砂崩れの危険が切迫して、レベル5という黒色の大雨特別警報が発令されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

わいはテレビの実況を見ながら、泉津のおくやま荘は無事であってほしいと祈りつつ、

10数年前、大島で発生した山津波のことを思い出していた。
その時の雨量は今回の雨量を遥かに上回り、平年の月間雨量の3倍に相当する800ミリを超える豪雨が、たったの24時間で降ってしまったのだ。
3か月分の雨が、24時間で降ってしまっては堪ったものではない。その豪雨で大島の中央に聳える活火山、海抜758mの三原山の山肌がべろんと剥がれて、無数の樹木と膨大な量の岩石が土石流となって、深夜、猛烈な勢いで枯れ沢を降り、ふもとの町を襲ったのである。深夜、土石流に見舞われた枯れ沢沿いの住人や家屋は、犬猫に至るまで跡形もなく押し流されてしまったのだ。その時の死者行方不明者は、確か40数名であったと記憶している。
8月の下旬に発生した、ネパールの氷河と岩盤崩壊による土石流災害に較べれば桁違いではあるが、スケールこそ違えど、天然自然の猛威の前には、人間などアリンコほど
の力も無いことを思い知らされたものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな訳で8月下旬以降、伊豆諸島は大雨や強風で大しけの日が続いて、連絡船は欠航するし、渡島しても釣りなど出来そうになかった。八方塞がりになってひどく気分が落ち込んでしまった。幸い、雨が上がったので、喫茶店のコーヒーで気晴らしでもしようかと、隣町のシャッター通りを歩いてみることにした。

 


隣町までは徒歩で凡そ20分、途中、広々とした稲田と土手の間の農道を歩いていると、稲刈りはほとんど終わっていたが、2割ぐらいの田んぼでまだ残っていた。

刈り取りが済んだあぜ道や土手沿いの荒れ地には、雑草の中に彼岸花が燃えるように咲き乱れていた。
ふと左手の刈り取り前の稲田を見ると、稲田の真ん中辺りがまるでイノシシでも転げまわったかのように稲がべったり倒れていた。昨日は大雨だったけれど風はさほど強くなかった。しかも、稲が倒れているのはここだけで、隣の田んぼはなんともない。昔、イングランド南部の麦畑で、ミステリーサークルという怪奇現象が出現するという話を聞いたことがあるが、ここは埼玉だし、宇宙人の仕業でもあるまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


突如出現したミステリーサークルにわいが戸惑っていると、背後から、「こんにちはー、」と声が掛かった。振り向くと顔見知りの老人が古い自転車を転がして歩いて来た。この老人はすぐ近くで貸し農園を借りてナスやトマト、青菜などを作っているようだが、名前など知らない。農作業をしている姿を見かけた時には「暑いのにご精が出ますねえ。」などと声を掛けたりしているのだ。
そこで早速、老人に質問をしてみた。いいところに来てくれました。ちょっと教えてください。そこの稲田の真ん中あたりで、稲がいっぱい倒れていますよね。まるで、イノシシが転げまわったみたいですが、と訊いてみると、
「ああ、あれですか。あれは風です。風、つむじ風です。」と自信満々即座に答えてくれた。だけど、倒れているのはあそこだけですよ。ほかのところは倒れていませんが、と疑問を呈すると、
「つむじ風が渦を巻くのは風の径だからです。あの辺りに風が集中するんですよ。」と合理的かつ科学的な感じに説明してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

なるほど、そういうことだったんですか。よく分かりましたと礼を言って別れたが、それから数日したある日、大雨の被災地で、被災農家にインタビューしているテレビ放送を見
ていると、被災農家のおじさんが質問に答えて、「稲穂が実るこの時期に大雨がつづく
と、稲穂が雨水を吸って頭が重くなって、倒れてしまうんですよ。それを倒伏 (とうふく) と言うんですが、1本が倒れると、もたれ掛かられた隣の稲まで倒れてしまって、それが次々に連鎖してしまうんですよ。稲穂が水に浸かってしまうともう売り物にならなくなるんですよ。」と苦境を語ってくれた。


つむじ風だよと教えてくれたあの老人、農作業の素人としては独創的な見方をしてくれましたね ♪♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

                    英国のミステリーサークル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

330話 気が付いたら災厄に見舞われていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日、高速ジェット船の午前便、東京行きの入港地は岡田港ではなく元町港だった。わいはおくやま荘のおばさんが運転する軽ワゴンで元町港へと向かっていた。

それにしても、御年83才になるというのに、おばさんの運転はいつもハラハラさせてくれる。普段はびっこを引いて歩くのがやっとというのに、ハンドルを持った途端、ビュンビュン飛ばしてしまうのだ。たぶん、ハンドルを持つと自由の翼が生えて来るのだ。


 

途中、「この程度の風なら、入港地は岡田港でもよかったのにね。」とわいが口にすると、おばさん曰く、岡田港なら泉津から近くて便利なんだけどね。その上、岡田港なら防波堤や岸壁が完璧だから、台風以外はいつでも入港できるんだよ。

だけど、岡田港ばかり使うと、元町が寂れてしまうって苦情が出るんだってよ。それを考慮して、東海汽船は入港地を決めているらしいよ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軽ワゴンが元町港の船客待合所の前まで来ると、おばさんが、さあ、着いたよ。いつも
ありがとうねと言ってくれたので、こちらこそお世話になりました。また、よろしくと言って別れたが、復路の乗船券はすでに持っていたので、そのまま坂道を下って200メートル
ほど先のジェット船乗り場で入港を待つことにした。
暫く待っていると、遥か彼方にゴマ粒のような黒い影が現れた。そのゴマ粒が見る見る
うちに大きくなって、水しぶきを上げて岸壁に向かって接近してきた。更に岸壁に近づくと、接岸のためにスピードを落とし、10分ほどで接岸作業を終えると、岸壁からジェット船に向けてタラップが掛けられた。


下船客の下船が終わって、乗船OKの合図が出ると乗船が開始されるが、わいは右
手にクーラーボックスを、左手にロッドケースを、そして背中にリュックサックという弁慶並みのいで立ちでタラップを上り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

 


わいがタラップを半分ほど上がったところで、突如、足首の辺りに激痛が走った。それは
カッターナイフで切り裂かれるような鋭い痛みであった。一瞬、スズメバチにでも刺されたのかと思ったが、まさか、岸壁にスズメバチはいないだろう。いったい何事かとパニックになったが、わいが立っているのは狭いタラップの中段であり、なおかつ乗船客が次々に上がって来ている。この流れを停めることは出来ない。しかも、わいの両手は荷物で塞がっている。立ち止まることも振り向くことも出来ないのだ。

タラップを上り切っても、ジェット船内は通路が狭く、すれ違うことすらできないのだ。5分ほどして、やっと後部の荷物置き場に辿りつくと、そこに荷物を下ろして、ようやく振り返ったり足元を見ることが出来るようになった。

 

そこで、痛みの所在がどこなのか確認してみると、その場所はくるぶしの高さで足首の真裏だった。その辺りにいくつか傷跡があって、乾いた血がべっとりこびりついていた。

しかし、激痛が走ったのはたった7,8分前なのだ。それにしては血の跡が乾きすぎている。とりあえず、かゆみ止めの常備薬ウナコーワを塗布してみたが、腫れや痛みはまったく引かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     

 

 

 

 

 

 

 

 


激痛が走ってから5時間余り経過して帰宅できたので、早速、原因をインターネットで調べてみると、どうも、原因はやぶ蚊でもスズメバチでもないらしい。もっと手強いブユらしいのだ。やぶ蚊なら、刺されたらすぐにチクリとしたり痒くなったりするのだが、ブユの場合、刺すのではなく、皮膚をかじり取って血を吸うというのだ。

かじるということは傷口が広くなるので、余計に血が吸えるわけである。その際、ブユは吸血対象に気付かれぬよう、唾液とともに麻酔効果のある物質を注入するというのだ。だから、人間にとっては痛くも痒くもないのだ。その麻酔効果は人によっても異なるが、5~15時間続くとあった。


なるほど、前の晩20時ごろ、蒸し暑い湿った荒磯で、ブユにかじられていたとしたら、翌朝の10時半ごろ、麻酔が切れて激痛が走っても不思議はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


思い当たる節といえば、前夜20時ごろ、全長5ミリほどのハエに似た見慣れない虫が、濡れた岩肌の一角にびっしりとたかっていたことだ。あまつさえ、蒸し暑い夜だったから、いつも履く厚手の長靴下の代わりに、流行りのショートソックスを履いていたのだ。
その油断が狙われた要因のひとつなのだ。油断やミスが重なると不運や災厄を招いて
しまうものなのだ。


しかも、ブユによる腫れや痛みは、ふつうのかゆみ止めでは効かないという。

ステロイド剤と抗生物質が有効だというので、早速、近所のドラッグストアーでステロイド剤を購入して塗布したが、もし、ウナコーワを使い続けていたら、未だに腫れやかゆみはなくならず、症状が悪化していたかもしれないのだ。素人の的外れな手当は、まさに、生兵法は大けがのもとであったのだ。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

329話 いくら悔やんでもあとの祭りだよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは40年以上も昔のことである。その頃、わいは大島のひとつ先の孤島、人口300人ほどの利島を拠点に釣りをしていた。その頃の利島は、島民の悲願であった東海汽船の連絡船が、10年ほど前にやっと就航するようになったばかりで、港と言えるような港湾施設はほとんどなかった。
港とは名ばかりで、ただ1本、北側の海に向かって長さ40メートルほどの岸壁が突き出しているだけの、無防備で不完全な船着き場でしかなかった。勿論、そんな船着き場では連絡船は接岸出来ない。
だから、連絡船が寄港する際には利島の沖合に停泊し、利島の側から木造のはしけが漕ぎだして、停泊している連絡船の脇腹に接舷し、荷物の積み下ろし作業をしたり、乗下船作業をしたものである。

しかし、それは海が穏やかなときに限って出来ることで、ひとたびしけ模様になれば、積み下ろしはおろか、はしけが接舷することすら出来なかった。
しかも、連絡船が寄港するのは、下り船が二日に一回、上り船が二日に一回のそれぞれ一日おきにしか寄港しなかった。それでも利島村にとっては、東海汽船の連絡船の就航は画期的な出来事であり朗報だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 



これまでの東京・利島間の交通手段といえば、利島丸という貧弱な村営船に頼って大島を経由していたが、その船は10数人しか乗れない小さな船で、利島には港がなかったから、20キロほど離れた大島の波浮港に係留されていた。それを必要に応じて呼び寄せて、利島と大島間の人や物資を運んでいたのである。
また、大島の波浮港に上陸しても、それからバスで元町港に向かい、そこで本船に乗り換えて東京に向かうしか手段はなかった。しかし、連絡船の就航によって、それらの無駄な手間や無駄な時間が省けたのである。
そればかりか、たった300人の利島村にとって、利島丸の運航経費、維持管理費、乗組員の人件費などの財政負担は、村の財政を圧迫していたが、連絡船の就航を機に村営船は廃止され、見事に財政負担を軽減してしまったのだ。


後述する民宿やまなかのご主人は、その頃、利島村の総務課長をしていたので、しばしば都庁に出張して、各種の予算を付けて欲しいと嘆願し、各部門を尋ね歩いて陳情していた。民宿の薄暗い裸電球の下で、ちびちび焼酎のお湯割りを飲みながらこぼす、愚痴ともつかぬご主人の話を、夕飯を食べながらよく聞いたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 

 

 

 


また、連絡船が就航したといっても、海が時化始めたら、その後、何日欠航するのか、誰ひとり予測できなかった。
50年ほど前の建国記念日の連休に、わいが初めて利島に上陸した時、上陸するとまもなく海がしけ始め、その後、9日間も足止めを食ったことがあった。その時の心境は、鬼界ガ島に流された俊寛僧都さながらに、遥か沖行く連絡船を見つめて、心底、絶望したものであった。


そんな苦い経験がありながら、性懲りもなく利島に通いつづけたのは、当時、利島の岸壁は滅法魚影が濃くて、メジナやイサキばかりか、潮が良ければヒラマサも釣れたし、時にはメジマグロまで釣れたのである。しかも、多くの釣り人が欠航を恐れて上陸をためらっていたから、一人で釣り場を独占することができたのである。それはわいにとって無上の喜びであり、至福の時でもあったのだ。


しかし、魚影の濃さに目が眩んで、当初、軽く見ていた連絡船欠航のリスクも、毎度のこととなってくると生業にも支障をきたすし、経済的にも重い負担となって跳ね返ってきた。
その当時、やまなかという民宿にお世話になっていたが、お世話になったきっかけには深い恩義があって、拠点を移すべきかどうか迷っている内に、とうとう10年という歳月が流れてしまった。











           









やまなかにお世話になったきっかけは、ある真冬の深夜、みぞれ模様の凍えるような寒さの中で、わいは岸壁の先端で釣っていたが、余りの寒さに耐えきれなくなって撤収せざるを得なくなった。

まさか、みぞれが降るとは思わなかったので、釣り宿は確保していなかった。いざとなれば、岸壁の根元にある乗船客待合所に入り込めばなんとかなると考えていたが、乗船客待合所は太いチェーンでロックされていて入れなかった。窮地に陥ったわいは、集落へ上る坂道の途中に壊れかけたコンテナがあることを思い出し、そこで朝が来るのを待つことにした。しかし、濡れた衣服とこの寒さでは朝まで持たないかもしれない。と死を覚悟していたら、イガラシさんという秋田出身の顔見知りの爺さんに発見されて、助かったのである。


事情を察知したイガラシさんは、真夜中に民宿やまなかを叩き起こして、この人が泊まるところがなくて困っている。泊めてやってくれと頼んでくれた。頼んでくれたイガラシさんも、泊めてくれた民宿のおばさんも、わいにとっては命の恩人なのである。

 

 

そんな訳で、民宿やまなかのおばさんには10年近くお世話になってしまった。

働き者のおばさんは中学を卒業するとすぐ、志摩の海に潜って海女をしていたという。アワビやサザエを獲って稼いでいたそうだが、利島に嫁いでから数十年、ただの一度も志摩には帰っていないと言う。親が死んだ時にも帰れなかった。

「ナカムラさんよ、利島はねえ、東京からニューヨークへ行くより遠いんだよ。」

「えっ、なんで。」と訊き返したら、「ニューヨークへは飛行機で1日かそこらで行っちまうだろう。だけど、利島から東京に行くには何日かかるか分からないんだよ。」


当時、おばさんは60才前後だった。あれから40年余り過ぎているから、たぶん、民宿のおばさんもご主人も既に鬼籍に入ってしまったことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話変わって、30年ほど前のことだった。わいが利島に見切りをつけて、拠点を大島に移した頃だった。わいが夜行船さるびあ丸に乗船して、船の中央デッキの自販機でジュースを買って、手すりに持たれて飲んでいると、通りかかった30代の青年が、どこに行くんですかと声を掛けてきた。

大島ですよと答えると、大島は釣れるんですかと訊いてきた。そして、私は大島のひとつ先の利島に行きますというので、私も、昔、利島にはよく行っていましたよ。 懐かしいなあ、秋田出身のイガラシさんという釣り好きの爺さんと仲良しだったけど、イガラシさんはまだ元気で釣っていますかと訊いてみると、

ああ、あの背の高いひょろりとした人ですね。あの人はだいぶ前に亡くなりましたよと返してきた。


わいが大島に拠点を移してから30年近くたつが、その内、利島に行って、かつてお世話になったイガラシさんや民宿のおばさんに会ってこようと考えていたが、その内その内と思っている内にとうとう行きそびれてしまった。

イガラシさんはすでに鬼籍に入ったと聞いて愕然としてしまったが、いくら悔やんでも後の祭りでしかないのだ。










              













 

328話 あんたも、もっとしっかりしなきゃあダメだよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コダハムの磯を臨む崖の上に舞い戻ったわいが、断崖に掛かる石段を降り、火山礫の
ガレ場を歩き、溶岩の起伏を昇り降りしてコダハムの先端に立つと、そこにはすでに夕暮れが迫っていた。遥か彼方20キロ先には、フジツボ状の利島の島影が夕焼け空を背景に黒いシルエットを浮かべていた。その先の西空には日輪こそ隠れていたが、夕暮れ雲が赤々と染まって棚引いていた。

足元の海は満潮に向かって、真っ白い晒しを無数に払い出していた。寄せてくる波は荒磯を噛んで這い上がっては岩場を濡らしていた。潮は大潮、時は夕まずめ、風はそよりともせず無風に近い。これほどの好条件は滅多にない。これで釣れなかったら、磯釣りなどさっさと辞めて竿を折った方がいいだろう。


わいは逸る心を抑えて念入りに仕掛けを作り、しっかりと釣り座を構えて、撒き餌を暫くの間打ってから第一投を打ち込むと、ウキはあっという間に沖目に流されてしまった。 潮流が川の流れのように速いのだ。しかし、慌てることは微塵もない。そのうちきっと食って来るのだ。果報は寝て待てばいいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


そうこうしている内に、夜の帳がコダハムの磯に降りてきた。夜の帳とともにやって来るのは荒磯の強敵、真っ黒な大きなやぶ蚊である。やぶ蚊は風の強い時には出てこない。なぜなら、飛翔力の弱いやぶ蚊は風が強いと飛ばされてしまうので、岩陰や溝に引っ付いているのだ。ところが、その日のコダハムの磯は無風に近かった。どこに隠れていたのか、無数のやぶ蚊がわいの廻りを飛び廻りはじめた。
真夏の夜釣りで、やぶ蚊の襲来は至極当然、想定内のことである。リュックのサイドポケットには、いつも、やぶ蚊除けの防虫スプレーと、蚊取り線香とそのホルダーを用意してあるのだ。うっかり刺されてしまっても、かゆみ止めのムヒもある。
しかも、今回は百均のセリアで、コンパクトな蚊取り線香とホルダーを新調してきたのだ。まず、やぶ蚊が狙ってくる手首や首筋などに防虫スプレーを吹きかけ、買ったばかりの最新型の蚊取り線香に火を点けて、ホルダーを救命胴衣の内側にぶらさげてみた。これで胴廻りや目の周辺、耳の穴まで、煙が首筋を伝って昇るのでガードできるだろう。
ついでに、ウキを電気ウキに切り換えて準備万端、さあ、やぶ蚊よ、どこからでも掛かって来いと挑発してやると、早速、頬っぺたと耳の後ろあたりを刺されてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蚊取り線香ホルダーを装着しているのに、どうしたことだ。すぐにホルダーを外して点検してみると、なんと、線香の火は完全に消えてしまっていた。改めて、着火バーナーで点火すると、火は点くには点くのだが、すぐに消えてしまって煙も出ない。何度やっても同じことである。考えてみれば、百均の品は安かろう悪かろうの代表のようなものなのだ。 ましてや、チャイナ製なのだから、それを信用したわいがばかだったのだ。仕方がないので、防虫スプレーを念入りに吹きかけて間に合わせた。

 


やぶ蚊の方は何とかしたが、肝心の釣りの方は全く魚信がない。潮が速すぎて撒き餌が拡散して魚が竿下に集まらないのだ。いつまでも釣れないポイントに執着しても、釣れないものは釣れないのだ。そう考えて、ダメ元でわいは、岩陰で潮の動かない、浅くて期待できない反対側のワンドに釣り場を替えることにした。
そこで、数回コマセを打って、足元に仕掛けを投入すると、なんと、一投目からアタリが出てイサキが上がった。そして、メジナの30センチクラスが次々に食ってきた。     その上、コマセが効いてきたら、40センチクラスの大物も食って来た。さっきまで、何をやってもアタリが無かったのは、いったいなんだったんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ふと気が付くと、真っ暗だった荒磯の岩場が一瞬真昼のように明るくなった。断崖の上を
見上げると、雲の切れ間から満月が、荒磯に向けて浩々と月光を放っていた。すぐに月影は雲間に隠れてしまったが、ほっと一息つく一瞬だった。

21時半、アタリがあるままに釣っていたら、スカリがはちきれんばかりに膨れていた。 これ以上釣ったら重くて持ち帰れないので、納竿することにした。

 


22時半、おくやま荘に帰着して庭先に車を乗り入れ、潮を被った釣り道具を水で洗い、釣った魚も水洗いして、氷を入れてクーラーに入れ直していると、最近、顔見知りになったナカタさんという常連さんが、物音に気付いて中庭に出てきた。


こんばんは、午後のジェット船で来て、もう、釣り場から帰ってきてたんですかと訊くと、  「わたしは公園下の崖下で釣っていたんですよ。いま、夕食を食べたところです。」と言うので、2週間前にも来ていましたね。番付が東の正横綱だけあって熱心ですね。    と感心すると、「釣りをしている分にはみんなに喜ばれますからね。」とにこにこ笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、おくやま荘では昔から、大相撲の番付表と同様の磯釣り番付表を、模造紙に大書して食堂の正面に貼り出していた。ちなみに、ナカタさんの番付は東の正横綱なのだ。番付表には東西の横綱、大関、関脇、小結、前頭など、40数名の釣り人がエントリーされていたが、ナカタさんはその筆頭格だから、名実ともに世話役かつリーダー的存在なのだろう。

 

 

また、注目すべきは、東の名誉横綱は有森裕子になっていた。有森裕子は34年前のバルセロナ五輪で銀メダル、30年前のアトランタで銅メダルを獲得した女子マラソンのレジェンドである。

40年前、小出監督がリクルート陸上部の監督をしていた頃、有森裕子は小出監督の指導を懇願してその指揮下に入り、マラソン選手として大成したのである。
リクルートの陸上部はその頃、強化合宿を毎年大島で開催しており、ベースキャンプをおくやま荘に置いたことから、縁が出来たのである。
昨年、有森裕子は日本陸連のトップに就任したが、おくやま荘のマスターが他界したことを知って、墓参のために、わざわざ来島してくれたそうである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



わいが中庭で釣り道具の後片づけなどをして、30分ほどして中に入ると、食堂で、おばさんとナカタさんがおしゃべりに花を咲かせていた。わいも話の輪に入ったが、何かの拍子に、襖と柱の隙間の修繕の話になって、わいが、ナカタさんはよく気が付きますね。 しかも器用ですね~と言ったら、

おばさんがすかさず、「このひとヒマなんだよ。」と毒舌を吐いた。そう言われたナカタさんはすぐに「大島から帰ってくると、口が悪くなってる。」と家内からよく言われるんだよとお返しをしていた。


その時、時計は23時を回っていたので、わいは、お風呂を頂きますと言って、風呂に入って15分ほどして上がってくると、おばさん一人がぽつんと座っていた。
わいが、ナカタさんも原付バイクで原生林を降って崖下で釣りをしてきたんで、疲れ切って、もう、おやすみになったんですね。と何気なく話しかけると、
「なに言ってんのよ。あの人は夕食を食べに戻って来て、また、原生林の下の釣り場に戻って、明日の朝まで釣っているんだよ。それが82才だよ。あんたももっとしっかりしなきゃダメだよ。」と檄を飛ばされてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

327話 笑うしかない大チョンボ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ばかにつける薬はないよと言うけれど、北海道は羅臼岳の山中でヒグマに遭遇したハンターが、こいつを1発で仕留めてやろうと意気込んだが、気がついたら猟銃がない。 慌てまくって必死に記憶を辿ると、このハンター、家を出るとき、玄関に猟銃を置き忘れたまま四駆に飛び乗ってしまったのだ。
 

人間、何かの拍子に大失態を演じてしまうものだが、もしあなたが、こんな失態を演じた
らどうしますかと尋ねたら、いくらなんでも、そんな間抜けなことはしませんよ。クマさんハッつぁんの落語でもあるまいし、この話は明らかにフィクションですねと一笑に付されてしまった。
ところが、事実は小説より奇なりで、この大失態と似たり寄ったりの大チョンボを、わいは大島で演じてしまったのだ。と言っても、相手は獰猛なヒグマではなく、襲ってはこないメジナやイサキだったので無事にすんだが。







                      
                







恥ずかしながら先月の末、わいは間抜けなハンターと瓜二つの大チョンボをやらかしてしまったのである。
6月29日、その日、わいは高速ジェット船で大島は元町港に上陸した。到着した時刻は
10時20分、前回の大島釣行からわずか2週間しか経過していないが、前回は一刻も早く釣りがしたくて、おくやま荘での釣り支度もそこそこに昼日中から大急ぎで入磯したが、千波崎の荒磯に立ちつづけて8時間余り、時刻にして20時ごろ、蒸し暑さと過酷な作業の連続で、体力を消耗してギブアップしてしまった。前回は心身に負荷をかけ過ぎたのだ。それを教訓として、今回は日中から真夜中まで釣るのを辞めて、日中は釣り宿で昼寝して体力を温存することにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の日没は19時だったので、日没前の18時に入磯すればベストタイムである。
今回の目的地コダハムの鼻まで凡そ25キロ、時間にして45分ほどの行程だから、おくやま荘を17時に出発すれば余裕綽々なのだ。ということは、お昼寝タイムを12時~17時まで5時間とることになる。


わいは押し入れから布団を引っ張り出して、窓のカーテンを引いてお昼寝タイムに突入した。ところが、眠ろうとしてもなかなか眠れない。頭の中のどこかが興奮していて眠りを妨げているのだ。それでも、無理に眠ろうとしてゴロゴロしていたら、却って疲れてしまった。ゴロゴロしているより、さっさと荒磯に出て釣りをした方がよさそうである。わいは予定より2時間早く、コダハムの鼻に向けて出発した。


コダハムの鼻は南北に長い大島の南部にあって、かつては大島屈指の荒磯として人気
を集めていた。40年ほど前の磯釣りの全盛期には釣り人が引きも切らず、コダハムの広大な磯が釣り人でいっぱいに溢れて、入磯すら出来ないことがあったのだ。
それも今は昔で、コダハムの崖上に到着して眼下の荒磯を見下ろすと、そこには誰一人釣り人の姿は見えなかった。磯釣り人気の凋落をこれほど如実に語るものはないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


そんな感慨に耽りながら、わいが眼下の景観に見入っていると、高さ20メートルほどの
断崖に設けられた急こう配の石段を、二人の男が息を切らせながら上ってきた。二人
とも黒い頑丈そうなルアーロッドを手にしていた。
石段は断崖に沿って急勾配になっており100段余りある。疲れ切った釣り人が釣った
魚や荷物を担いで上ってくるので、その過酷さから心臓破りの石段とも呼ばれていた。
しかし、この石段が無ければ断崖の昇り降りは絶対に不可能である。コダハムで釣りが出来るのもこの石段のおかげなのである。


二人が石段を上り切ったところで、わいが「なにか釣れましたか。」と声を掛けると、ぜんぜんと言って首を横に振った。二人はルアー仲間らしかったが、体格のいい40代の男が「イサキが群れていると聞いたから、それを狙って青物が来ると思ったんですよ。」と話し始めた。そこで、もう一人の60代の男が、「じゃあね、また、いい情報があったら連絡してね。」と言いながら道路脇に駐めてあった四駆に乗り込んで走り去っていった。
 

わいが「この先のアカイワで、30年前、20キロのマグロを釣ったと自慢していた地元のブロガーがいましたが、最近は何が釣れているんですか。」と訊いてみると

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私ではありませんが、マグロの60キロとか40キロがルアーで釣れていますね。」

「私は先年、14キロのヒラマサを泉津で釣りましたが、サンマの群れが入って来て、それをヒラマサやカンパチが追っかけてきたんです。」
青物狙いのルアー師にとっては、マグロやヒラマサなどの大物だけがターゲットであって、それ以外は眼中にない。だから、メジナやイサキなどの小物は雑魚でしかない。わいなど小物狙いの釣り師でしかないのだ。


ルアー釣り男性とそんな立ち話をした後、わいは荷物を背負子にまとめて断崖に掛かる石段を降りようとしたら、なにか、手持無沙汰なのだ。気が付けばロッドケース ( 竿など収納するケース ) を忘れていた。軽ワゴンに戻ってバックドアーを開けると、ない、ない、ないのだ。車に積みこんだはずのロッドケースがないのだ。竿がなければ釣りは出来ない。

顔面を蒼白にして記憶を辿ると、ロッドケースはおくやま荘の入り口の下足箱前に立てかけておいたはずだ。今回は昼寝時間をたっぷりとることにしたので、直射日光に晒されないよう、わざわざ屋内に置き直したのだ。なんとも余計なことをしたものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


わいが背負子を降ろして、荷物を改めて軽ワゴンに積み直していると、それを見たルアー釣りの男性が近づいて来て、

「どうしたんですか。釣らないで帰るんですか。」と怪訝そうに尋ねてきた。
実は、ロッドケースを積み忘れてきたので、釣り宿に取りに戻ります。
「えっ、ロッドケースですか。また、大事なものを忘れましたね。どこまで戻るんですか。」と訊くので、泉津のおくやま荘ですと答えると、
「片道1時間近くかかりますよね。」と言って笑い出した。
そうです。笑うしかない大チョンボです。とわいは答えるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

326話 妖怪たちのさんざめき

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月中旬の某日、わいは竹芝桟橋発、朝一番の高速ジェット船で伊豆大島に向かって
いた。このところ、伊豆諸島の海域は台風6号の通過に続いて、その後の低気圧や梅雨前線の停滞などが重なって、雨模様、荒れ模様の日が続いていた。しかし、天気予報とにらめっこしながら気長に待っていたら、やっと磯釣りが出来そうな日和が巡ってきた。しかし、それはたったの2日間というタイトさであった。
竹芝桟橋を出港したジェット船が時速80キロで浦賀水道を抜けて外洋に躍り出ると、
その日の海は湖面のように穏やかだった。

 


高速ジェット船は定刻の10時20分、大島は元町港に入港した。わいが岸壁を200メートルほど歩いて港の駐車場に向かっていると、坂の上から薄汚れたワゴン車がソロソロと降ってきた。わいの前まで来てクラクションを鳴らしたので、運転席を見ると、おくやま荘のおばさんが手を上げていた。本日も15キロほど離れた泉津から、わい一人を迎えるために来てくれたのだと思うと頭が下がったが、スライドドアを開けると、珍しいことに後部座席に三人の釣り客が乗車していた。三人は揃いもそろって見るからに高齢だった。おばさんも含めて、まさに、老人ホームご一行様のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                            

                   

 

 

 

 

 

 

 


わいが車に乗り込むと、顔見知りらしい三人の釣り客は、中断していた話の続きを始めた。「今回は連絡しなかったけどよ。あいつは三度の飯より釣りが好きだから、誘ってやりたかったんだけどよ。ボケが酷くなってしまってよ。この前連れてきた時には、海に突き出た細長い岩に平気で座っているんだよ。危ねえからこっちで釣れ、と言っても聞かねえし、撤収する時には、帰り道の反対方向に歩いて行っちまうし、もう、おっかなくて見ちゃいられねえんだよ。」
「そんなにボケちゃったの。」と運転席からおばさんが声を上げた。わいはそんな話を黙って聞いていたが、おばさんも、常連さんたちも、皆80才を超しているらしいのだ。最年長は85才とか言っていた。往年の猛者と言えども寄る年波には勝てないのだ。

 

 

車は20分ほど走っておくやま荘に到着した。時刻は既に11時半を回っていた。
ナカムラさんの部屋は砂の浜 (さのはま) だよ、とおばさんが言ったので、砂の浜に上がって着替えを済ませ、荷物を整理して20分ほどで廊下に出ると、向かいの部屋に入った先ほどの高齢者のひとりが、幅3センチほどの平板を襖の端に打ち付けていた。
一体なにをしているんですかと尋ねると、「柱と襖の間に隙間が出来ているので、隙間を埋めようと思って平板を持ってきたんですよ。」「あなたの部屋の襖も隙間があるから、あとで、埋めておきますよ。」と言うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 


言われてみれば、わいの部屋の襖にも縦長の隙間が出来ていた。隙間のひとつやふたつ、どうってことはないが、おばさんに言わせると、この建物は築60年も経っているので、傾いたり歪んだりして手の施しようがないんだよ。ちなみに、ビー玉を廊下に置けば、勢いよく転がってしまうほどなのだ。
しかし、磯釣りに来て、釣りの支度もせずに大工仕事とはこれいかに、と疑問を投げか
けると、「私は普段から日中は釣りをしません。日没頃から入磯して真夜中までイサキを狙います。だから、日中は暇なんですよ。」
先ほどは三人でしたが、あの人たちとご一緒ですかと訊いてみると、「私は単独で釣りに来ています。あの二人とは顔見知りですが、別行動です。ただ、あの人たちも日没から動き出しますよ。」

 


その日の天気予報は曇りときどき雨で、風向は北寄りの風5~6メートル。風向に合わせて、釣り場は島の西側に位置する千波崎の船揚げ場に決めた。釣り宿のある泉津集
落は島の東側にあるから、正反対の位置にある船揚げ場まで、凡そ20キロの距離で
ある。千波崎周辺は未だ広大な原生林に覆われていて民家はほとんどない。海岸に沿って打ち捨てられた旧道が山林とブッシュを縫って通ってはいるが、車1台がやっと通れる道幅しかない。

木立の中の薄暗い旧道をゆっくりと進んでいくと、時として、「ギャオオー。」という悲鳴のような唸り声が聞こえてくる。真夜中にこれを聞くとドキッとするが、キョンという小鹿のような小動物の発する悪魔の鳴き声だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


その日の満潮は14時、潮廻りは若潮。原生林の中の深く抉れた枯れ沢に足を取られ
ながら降り、原生林の木立やブッシュを抜けると荒々しい溶岩の起伏が待っている。釣り場までの距離は数百メートルと大したことはないが、ここを踏破するだけで結構堪える。
30分ほどかけて荒磯に出たが、全身汗びっしょりになっていた。おまけに、薄曇りの空から日差しがこぼれて、暑いこと夥しい。


わいは満潮前後の潮を狙って撒き餌を打って仕掛けを投じたが、メジナは釣れたものの
20センチ前後の小物しか釣れなかった。辛抱強く続けていると日没後の19時ごろ、大物の引きがあった。これはでかいと慎重にやり取りをして、やっと魚体が見えてきたと思ったら、水中で白銀色に光った。体長は50センチほどあったが、外道のイスズミだったのでがっかりした
。


周囲が真っ暗闇になった20時過ぎ、午後からの蒸し暑さと重労働で、わいは疲労困憊して立っているのさえ辛くなった。あまりにも疲れ切って、突然、足から力が抜けて、膝がガクッと折れてしまう。この症状が現れたら危険信号で限界なのだ。これ以上続けると、踏ん張りが効かなくなって、海に転げ落ちてしまうかもしれない。


その時、電気ウキが静かに引き込まれた。竿を合わせると、それが強烈な引きに変わった。わいは最後の力を振り絞っての格闘となったが、釣り上げてみると丸々と太った40センチのオナガだった。最後の最後に荒磯の女神は微笑んでくれたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


釣り道具や獲物をまとめる撤収作業に30分ほどかけて、いざ、背負子を背にして溶岩
の起伏を歩き始めると、くたくたに疲れてしまって足が上がらない。荒磯のちょっとした凸凹にさえ足を取られて躓いてしまう。情けない話だが筋力がなくなってしまったのだ。

こんな時こそ急がば回れで、ゆっくりと確実に一歩一歩踏み出さないといけない。溶岩の起伏で躓いたり転んだりしたら命取りになりかねないのだ。

ゆっくりゆっくり、普段の倍も3倍も時間をかけて原生林の崖っぷちに近づくと、真っ暗闇の木立の急斜面から、人の話し声のような音声が微かに聞こえてきた。人里離れたこんな場所で、絶対にありえないことだ。しかも真っ暗闇の闇夜である。気のせいに違いない。暗闇に怯えたわいが、臆病風に吹かれて化け物を呼び寄せてしまったのだ。

と言っても、薄気味悪いことこの上ない。

 

 

やっと原生林の入り口に差し掛かったわいは、急斜面を枯草やクマザサを頼りに這い上がって、深く抉れた枯れ沢を上り始めたところで、闇夜の木立の間から、狂ったような重低音が響き渡ってきたのだ。初めは風の音かなと思っていたが、枯れ沢を上るに従って、その重低音ははっきりと大音響に変わっていった。いったい何事が起っているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


時刻は22時に近かった。車を駐めておいた場所にやっとたどり着くと、狂ったような重低音は森の木立に木霊して笹薮に充満していた。
この先の森の中に、たしか、数軒の民家が肩を寄せ合っていたはずだ。音源はそこから発信されているのかもしれないと車をゆっくり走らせていると、右側の木立の中からそれらしい灯火が漏れてきた。真っ暗い森の、真っ暗な民家の敷地に、無数の白い灯火が置かれていたのだ。それとともに、ズンズンと腹に応える大音量のヘビーサウンドが流れてきた。祭りなのかイベントなのかさっぱり分からないが、これほどの大仕掛けをしているのに、人の気配がまるでないのだ。まさか、妖怪たちの仕業でもあるまいし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

325話 もう帰っちゃうの、まだまだ演奏するんですよ ♪♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴールデンウィーク直前のことだった。その日、わいは、わいの中学3年時の担任教師に、「今月は先生の誕生月でしたね。おめでとうございます。ところで、手術した目は良くなりましたか。」と電話で訊いてみた。
「おお、ナカムラか、おまえは良くおれの誕生月を憶えていてくれたな。おれは今月で87
才になったよ。」と電話口で喜んでくれたが、わいは先生の誕生月を特別意識して憶えていたわけではない。たまたま誕生月がわいと同じだったので、忘れなかっただけである。


「ところで先生、3度にわたって手術をした網膜剥離の方はその後いかがですか。車の運転はもう出来るんですか。もし、出来るんだったら、ガストでコーヒーでも飲みませんか。」と誘ってみた。


昨年の後半から今年にかけて、先生は網膜剥離のオペを3度も繰り返したのだ。昨年の11月頃、目の中に糸くずや蚊のようなものが動き回って見づらくなったので、大学病院の眼科を受診すると、網膜剥離の診断が下って、すぐにオペをして貰ったそうだ。

術後1ケ月ほどして執刀医に、もう、卓球をしてもいいですかと尋ねたら、完全に治ったから大丈夫だよ。卓球だろうがゴルフだろうがどんどんしていいよと言われて、その言葉を信じて、以前のように1日4時間、週3回ほど卓球をしたら、またまた目の中に蚊が飛び廻り始めたそうだ。

過激な運動をしたので、傷口が開いてしまったのだ。たぶん執刀医は、卓球なんてお遊び程度のピーンポーンぐらいに思っていたのだろう。ところが、先生の卓球は猛烈で過激で極めてハードだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、わいと先生の双方都合の良い5月3日に、ガストでコーヒータイムをとることになった。その前日の夕刻、先生から電話が入って、

「おい、ナカムラ、明日のガストはやめようよ。」「おれがウクレレをやってるのはお前も知ってるだろう。今まで通っていたウクレレ教室の先生は、あーだこーだといちいちうるさいので、ちょっと遠いけど、ときかわ町のウクレレ教室に乗り換えたんだ。

そのウクレレ教室の先生から、明日、私がステージでギターを演奏するから見に来てくれないと頼まれたんだよ。これからお世話になる人だから、顔を立てなけりゃならないんだ。お前も一緒に行かないか。」

 

ギターと聞けば、伊豆のやま~や~ま~月淡く~♪ 灯りに~むせぶ湯の~けむり~  
の湯の町エレジーが思い浮かぶけれど、古賀政男のメロディーをギターで弾き語ってくれるならガストより千倍も魅力的である。
また、ギターと言えば、その昔、路地裏のバーや飲み屋に行くと、流しのギター弾きがひょいと入ってきて、「こんばんわ~、お客さん一曲いかがですか~」なんて声を掛けられたものだ。残念なことに、あの頃のギター弾きは、カラオケに追われて、みんな姿を消してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 


先生、そのギター演奏とやらはどこでやるんですかと訊いたら、「会場はちょっと遠くて小川町でやるそうだよ。」ええーっ、小川町って、紙すきの里の小川町ですか。うちから1時間以上かかりますよ。それでも、先生が行きたいと言うなら私も行きますけど、私は直接現地に行きますから、場所だけ教えてくださいと言うと、「会場の住所はメモしてあるけど、小川町なんて知らないから一緒に行こうよ。」と先生が泣きを入れてきた。


まあいいか、お付き合いだから。翌日、先生の指定した合流場所は毛呂山町の公民館の駐車場だった。あそこならタダで一日中置いておけるからというので、グーグルマップで調べて、早めに行って待っていると、しばらくして黒い軽ワゴンが入ってきた。先生が窓を開けて手を上げたので、わいは運転席に近づいて、

「先生は渓流釣りをしているのに、熊に襲われることもなく、崖から墜落することもなく、こうして無事でいられるんだから、先生は幸運者ですね。」と能書きを垂れてから、これは誕生日祝いのプレゼントですと紙袋を渡すと、「なんだいこれは。」と訊くので、川越は紋蔵庵のどら焼きです。奥さんと一緒に食べてと言って差し上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                             

 

 


 

 

 

 

 

 

先生の車は公民館の駐車場に残して、わいの車で小川町に向かうことにした。この先は山林の中をくねくね走る一本道で、丘陵と山林の中にわずかな畑がある完全な田園地帯である。たぶん、30分も走れば目的地の小川町に到着するはずである。

しかし、なんでこんな田舎町でギターの演奏会があるのかと、疑問に思いながら小川町の入り口に差し掛かった。「先生、もう小川町だけれど、どっちに行ったらいいの。」と訊いたら、「おれも分からないよ。誰かに聞くしかないね。」と言うので、その誰かを探したら、道を歩いている人が一人もいないのだ。


暫く車を走らせているとコンビニがあったので、そこで訊くことにした。先生が胸のポケットから、皴だらけのメモを取り出して、店員さんに尋ねると、

「すみません。わたしには分かりませんが、この先の山の中じゃないですか。」と補足してくれた。先生の背後からメモ書きを覗くと、〇〇ワイナリーと殴り書きされていた。

ワイナリーとは葡萄酒の醸造所のことだから、ギターの演奏とはまるで結び付かない。それでもあちこち走り回ったら、30分ほどでそのワイナリーに辿りついた。ワイナリーは山林や畑のある町外れの丘陵地帯にあって、枯草が生い茂る未舗装の坂を登っていくと、それらしい洋風の建物が見えてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                     

 


 

 

 

 

 

 

 

丘の上に上り詰めると、砂利の敷かれた段々畑のような平地に数十人の客が屯していた。周囲には飲食物を売る小さな屋台が10数台店を出していたので、ワイナリーが販促のイベントをしているらしいことはなんとなく分かった。
しかし、こんな騒々しいところで、古賀政男の哀切なメロディーを聴いても違和感しかないだろう。木造二階建てのワイナリーの中に入ってみると、試飲したり、立ち飲みしたりするスペースがあって、ボトルの販売も盛んにおこなわれていた。
この建物は醸造所というより、むしろ販売目的の建物のようだった。

 

しかし、この建物のどこにギター演奏する場所があるのだろうかと疑問に思っていると、先生が戻って来て、まだ、ウクレレの先生は来ていないけれど、到着次第、演奏が始まると言っていたよ。ギターの演奏は屋内でなく野外でするみたいだねと、一段と低くなった枯れすすきや雑草の広場を指さしてくれた。

そこには既にアンプなどが置かれていて、枯草も踏みつけられていたから、このイベントは連休の期間ずっとやっているのかもしれない。わいが広場に置かれた風化した木製の長椅子で開演を待っていると、先生が屋台からスコーンとコーヒーを買ってきてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                      

 

 

 

 

 

 

 

それを食べながら待っていると、エレキギターとドラムの4人組ユニットが、枯草のステージに現れてイベントの支度を始めた。それを見た先生は、エレキギターを抱えた中年の女性に近づいて話を始めた。この女性がウクレレの先生のようだ。会話が聞こえて、「わざわざ遠いところを来てくれてありがとうございます。」と女性は嬉しそうに笑っていた。この時点で、この演奏会は古賀政男のギターとは無縁であることが判明した。

 

ユニットはエレキギターが3人で、ドラマーを入れて4人で構成されていた。ボーカルは相当な高齢者だったが、年寄りの割には声に張りと伸びがあって、その声を振り絞ってビートルズのナンバーを立て続けに三曲歌ってくれた。ドラマーはパナマ帽を被った貫禄のある老紳士で、司会の話では隣町のときかわ町の前町長で、78才とか言っていた。ボーカルもときかわ町で、現役の家具職人をしていると言っていた。

件のウクレレ教室の先生は、ときかわ町観光協会でガイドを勤めているそうなのだ。

ときかわ町のエレキバンドが、ワイナリーのイベントを盛り上げるため、手弁当で駆けつけてくれたのかもしれない。というより、演奏機会の少ないバンドのようだから、演奏できると聞いて大喜びでやってきたのかもしれない。


ビートルズのナンバーが3曲続いて、4曲目のポールアンカのダイアナが始まったところで、先生が、「おいナカムラ、これだけ聴けば十分だよな。もう帰ろうよ。」と言い出した。そうですねとわいが立ち上がると、先生はつかつかと野外ステージに近づいて、ウクレレの先生に、「ありがとう。今日はこれで帰ります。」と言って手を振った。

すると、ウクレレの先生は演奏の手を停めて、「もう帰っちゃうの、まだ1時間くらい演奏するんですよ。」と恨めしそうな言葉を返してきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 

324話 かけがえのないドリップコーヒー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドコモというのはモバイル通信会社だけれど、それによく似た名前のコモドというのがあるのをご存じですか。


は~い、コモドってコモドオオトカゲのことでしょう。インドネシアに棲む世界最大のトカゲで、別名コモドドラゴンといって全長2メートルを超える大きなトカゲですよね。こいつに嚙まれると体内に唾液の毒が回って数時間で死んでしまうそうですね。跡をつけてきたコモドドラゴンは獲物が死んだ途端に、かぶりついて喰ってしまうそうです。恐ろしいトカゲですね。
なんだと、君はコモドをトカゲだと思っていたのか。ぶっ、ぶっ、無礼者め、

「知らざあ言って聞かせやしょう。」と大見えを切ったら、おっとおいらは弁天小僧菊之助なんてセリフまで飛び出してきた。弁天小僧なんて、今じゃ知っている人はいないだろうが、歌舞伎の白波五人男に登場する大ドロボーのひとりで、このセリフは正体がばれたときに、開き直って明かすセリフなのだ。誰が歌っていたか忘れたが、ぼたんのようなお嬢さん ♪♪ という出だしで、昭和30年代にヒットした歌謡曲にも歌われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

という訳で、コモドはオオトカゲではなく、CAFÉ COMODOという喫茶店であることを言明しておく。わいの住まいから行くと、小畔川と言う農業用水の堤防を3キロほど降って、小畔川にかかる橋を渡り、対岸の町外れにある小さな小さな喫茶店である。

わいがコモドに通い出したのは7年余り前の開店してまもなくだった。ある日、グーグルマップをググっていると、畑や雑木林の中に出来た町外れの新興住宅の一角に、忽然と喫茶店のマークが現れたのだ。こんなところに喫茶店を出しても、果たしてお客さんが来るのか。商売は成り立つのだろうかと驚きあきれるほどの辺鄙な場所だった。

 

コモド誕生の経緯を推測してみると、8年前のその頃、その民家にはマスターの奥さんの年老いたご両親が住んでいて、ご両親の介護のために、毎日遠方から通っていたそうだが、四六時中介護するわけではないので、介護ついでに喫茶店でも開こうよということになって、二階建て住居の一階部分を改造して小さな喫茶店にしたらしい。丁度その頃、マスターは63才で定年を迎えたので、それを機に、バリスタの講習を受けて資格を取り、趣味と道楽で開店した喫茶店だったのだ。


コモドと言う聞きなれない名前についてマスターに尋ねたら、奥さんが若いころイタリアのフィレンツェに留学して声楽を学んでいたので、その頃のことを思い出した奥さんの希望で、イタリア語でコモド、「のんびり寛げる」という意味の店名にしたそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コモドの意味どおり、わいはこの7年余りの歳月をマスターと雑談を交わし談笑しながら、のんびりゆったりと寛がせてもらった。ほんとうに有難い7年余りの歳月だった。

小畔川の堤防天端ののどかな野路を週2回、片道3キロほどをてくてく歩いてコモドに行くのがわいルーティンワークになっていた。
週2回なので、年間では100回余りである。往復6キロだから年にすると600キロ、それを丸7年続けたから、総距離は4200キロ余りになる。マスターと談笑しながらコーヒーを飲むために、なんと4200キロ余りを歩いていたのだ。その距離は北海道の北端宗谷岬から鹿児島の南端佐多岬までを往復するほどの距離である。


コモドの営業日は火水土日の週4日であった。開店は11時なので。毎回わいは11時ぴったりに到着して12時頃に引き上げていたが、幸か不幸か、その間、お客さんが来店することは稀だった。だから、マスターとの雑談や談笑ができたのだ。そんな当たり前の日常が1月前の4月某日、突如断たれてしまったのだ。「このところ体調が思わしくないので、明後日の火曜日からしばらく休ませてください。」とマスターからメールが届いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その数日前にわいがコモドを訪れた時、マスターから「誕生日おめでとうございます。」とコモドコーヒーのプレゼントを頂いたが、ところで、マスターはいくつになったのと訊いたら、私は70才になりましたというので、マスターも、バリスタの腕をますます上げて、あと10年はおいしいコーヒーを淹れてくださいねと注文したばかりだったのだ。

それに、体調が悪いと言っても2週間か3週間もすれば元に戻ってくれるだろうと深刻には考えていなかった。案の定、休業して3週間ほどたった月曜日の深夜、メールが届いて、「明日の火曜日は開店しますからお越しください。」とあった。やはり取り越し苦労に過ぎなかったのだ。と喜び勇んでコモドに向かうと、いつも11時に店先に出す看板が出ていなかった。しびれを切らせてドアを開けると、マスターと奥さんが揃って待っていてくれた。看板を出しわすれてるよと声を掛けると、今日は出しませんと言うのだ。

わいがテーブル席に座って、「マスター、回復してよかったね。だけどずいぶん痩せたみたいだけど。」と声を掛けると、「東京女子医大に検査入院していましたが、食事が喉を通らないので、点滴だけで生きていました。18キロ痩せました。検査結果は金曜日に分かります。」と答えながらドリップしていたが、立っているだけでも辛そうなのだ。


マスターの淹れてくれたコーヒーは奥さんが運んできてくれた。そんなことは初めてである。そして、とうとうマスターは側にあった椅子にへたり込んでしまった。いくら鈍感なわいでも、容態の深刻さはひしひしと伝わってくる。

その日、店を開けてくれたのは、体調が回復したからではなかったのだ。逆に、7年余りの濃密な付き合いにきちんとけじめをつけようと、最後の力を振り絞ってコーヒーを淹れてくれたのだ。別れのセレモニーをしてくれたのかもしれない。

わいはマスターと奥さんに、一言、ありがとうと言いたかったが、哀しみがこみ上げてきて何も言えなくなってしまった。

 

 

 

 

 

                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

323話 あのころの日々は戻ってこない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近くを流れる小畔川の堤防の桜はあっと言う間に散り果てて、赤い花弁もなくなって葉桜になってしまった。華やいだ時代は一瞬にして終わってしまう。葉桜で思い出すのはあの日のことである。そう、あの日とは5年前の5月4日、心から敬愛していた三宅島の漁師、光明丸の船長が88才と10か月で旅立ったその日である。四十数年にわたって積み重ねてきたわいと船長との親交の数々、ガキ大将のような船長との思い出は、思い出すたびに胸が熱くなる。

 


思い起こせば8年ほど前、船長が80才を超えたばかりで、まだ口も達者で元気だった頃の夕食時、船長と差し向かいでビールを飲んでいると、突然、船長が口を開いて、おい、ナカムラ、おれが大事にしてきた光明丸 ( こうめいまる ) を今度オーバーホールすることにしたよと言うから、オーバーホールって車検みたいなものだろう。いくらぐらいで出来るの。車と違って漁船だから100万円ぐらいはかかるんだろうね。と多めに吹っかけて訊いたら、バカヤロー、100万や200万じゃ出来ねえよ。300万は下らねえ。それでも安い方なんだ。普通にやれば400~500万はかかるんだよと説教された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


伊豆の下田の造船所から整備士に来てもらって、1か月ほどかけてバッテリーの交換から、あらゆるボルトやビスまで、錆びたり劣化した部品は全部取り換えてもらうんだよ。御蔵島までの渡船や瀬渡しの最中に、大しけの海で漂流したら大変なことになるし、赤っ恥をかくからな。今、オーバーホールしといたら、この先10年や20年は十分使える。とビールを飲みながら構想を語ってくれた。ということは、船長はこの先10年以上、渡船や瀬渡し、漁師稼業を続けるつもりなんだとわいは嬉しくなってしまった。
「そりゃあ、いいことだね、船長だったら90を過ぎても十分漁師ができるよ。」と煽ってみたら、「バカヤロー、おれは100まで生きるんだよぉ。」と調子に乗って豪語した。
それを台所で聞いていた娘のムツミが、「じじいに100まで生きられた日には、おれの人生めちゃくちゃだよぉ。死ぬまで釣り宿の手伝いをしろって言うのかよぉ。じじいが人並みに死んでくれなきゃ、おれが困るんだよぉ。」と本音丸出しの叫びが聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5年前のその日は、まだ新型コロナが猛威を振るっていた頃であった。ムツミは船長の葬式を済ますと暫くして、「これからは認知症のばあさんの介護で忙しくなるし、村役場から、都会からの来島者は宿泊させないようにとお達しが出ているから、わるいけど、釣り宿は今月限りで畳むことにしたよ。次からはほかの釣り宿に移ってくれない。」とわいを始めとする残り少なくなった常連に通告したのだ。


船長を失くした光明丸は二束三文で売り払ってしまい、船長が毎日使っていた漁具や漁
師道具は仲間の漁師たちにタダで持って行かせたそうだが、瞬く間に、釣り宿や船長の思い出の品々が処分されてしまった。廃棄処分のような惜しげもない処分に、船長とおばさんが血の滲むような努力で築き上げた釣り宿をごみ屑のように捨ててしまうのか。このバチアタリめ、と憤りを覚えたこともあったが、元々、ムツミは好きで釣り宿を手伝っていたわけではなかった。もし、自分がいなくなったら、父ちゃん母ちゃんだけでは、光明丸も釣り宿もまったく機能しなくなって廻せなくなってしまう。だから、父ちゃん母ちゃんのためにおれが犠牲になってやる。たぶん、そんな気持ちで、ムツミは結婚もせずに釣り宿を支えてきたのだ。ムツミにとっては漁船や漁具などまったく無価値で関心もなかった。それこそ、猫に小判以下だったのだ。いずれ処分を迫られるものなら、さっさと片付けてしまえというムツミなりの考えだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古参連中には変な未練や思い出があったので、ノスタルジアが募って、釣り宿だけは続けてほしいと懇請した人もいたようだ。
かく言うわいも、船長との長い付き合いや思い出を、欠片も残さず処分されて、この女は冷酷非情な親不孝者と白眼視したこともあった。しかし、よくよく考えてみれば、ムツミは感謝こそされても、恨まれたり非難されたりする謂れはなかったのだ。

 

 

釣り宿を畳んで数年がたち、すっかり音信は途絶えていたが、船長と二人で光明丸を盛り立てたおばさんはまだ元気でいるだろうか。ムツミさんも元気だろうかと未練ごころと懐かしさが相まって、思わずメールを送信してしまった。


ムツミさんお変わりありませんか。おばさんや猫ちゃんたちも元気に暮らしていますか。と言うメールに、


「マコちゃんは去年の2月に93才の誕生日後に永眠しました。姉妹3人に看取られて大好きな忍三さんの側に行きました。来年は忍三七回忌と昌子三回忌になるので一区切りです。今は猫共に振り回されながら畑で自家栽培をしています。」という返事が返ってきた。
 

 

※ まこちゃんとは昌子おばさんの愛称で、忍三さんとは船長のことです



 

 

 

 

 

                                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

322話 死神を振り切って生き延びた男

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

釣り始めて8時間余りが経過した。この海域に棲息する生物すべてが死に絶えたかと思われるほど寒冷な海で、やっとウキが消し込んだ。地獄に仏とはこんなことを言うのか。 しかし、竿から伝わってくる感触は小物でしかない。釣り上げてみると20センチ足らずの小メジナだった。いつもならリリースだが、今回は持ち帰ることにした。
 

そんな小さなメジナやイスズミが、その後2時間で10匹ほど釣れたが、すぐにまた無反応の海に還ってしまった。しかも日没を境に、雨粒を伴った強風が音を立てて吹きはじめた。
これでは釣りにならない。頭の隅に撤収という言葉がよぎったが、撒き餌はまだ十分に残
っているし、ここで撤収したら尻尾を巻いて逃げるに等しい。もう少し粘ってみることにした。

しかし、刻一刻と風雨は烈しさを増して、時として突風まで伴ってくる。腰を落としていないと突き倒されてしまいそうだ。強風と冷雨に打ちのめされて、徐々に戦意は喪失して行った。19時、ついにわいの心はぽっきりと折れてしまった。撤退するしかない。

このまま意地を張っていたら低体温症になりかねないし、あまつさえ、帰路の枯れ沢には雨水が集中し、濁流になっているかもしれないのだ。車に戻る途中に、いくつか難関はあったが、なんとか軽ワゴンまで辿りついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 


おくやま荘に帰着したのは21時を回っていた。おくやま荘の中庭は猫の額ほどしかないが、その中庭に軽ワゴンを乗り入れて、わいは雨の中、潮を被った釣り道具を洗い始めた。最後に、釣れた魚をクーラーに入れ直して氷を入れていると、なにやら背後で人の動く気配がした。振り向いてみると、ヘッドランプの光の中に浮かんだのは白っぽい服を着た男だった。その男はわいの肩越しにクーラーを覗き込んでいた。一瞬ぎょっとしたが、たぶん、おくやま荘の釣り客なのだろう。

わいは男に、今日はこんな雑魚しか釣れなかった。お恥ずかしい限り。なにしろ、風雨が烈しくてギブアップするしかなかったからと語りかけると、男は一言も発せず、わいの顔をじっと見つめていた。なぜか、男の両鼻の穴には脱脂綿が詰め込まれていた。花粉症かもしれないが、不気味なことこの上ない。

 

 

終始無言の男に「今日はどこで釣っていたのですか。釣れましたか。」と尋ねてみると、男は両手を拡げて、左右の手の指で二つの輪を作ってゼロを示した。更に、両腕を交差させてバツ印を作り、ダメだったと表現した。この男、ふざけているのか、わいをからかっているのか。コメディアンでもあるまいし、パフォーマンスはほどほどにしろと腹立たしくなってきたら、それを感じ取ったのか、男は逃げるように姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                            

 

 

 

 

 

 

 

 

 


気が付けば釣り宿前の狭い露地に、エンジンをかけたままの軽トラックが停まっていた。男はその軽トラックの荷台でなにかを探していたが、暫くすると、黒い板状の物を手にして戻ってきた。わいの目の前にそれを差し出すと何か書き始めた。見れば、それはタブレットで、画面に電子ペンで文字を書いているのだ。
タブレットには 「私は2年前、喉頭がんを患って、手術をして声を失いました。」と書かれていた。次の文言には 「朝から晩までトウフ岩で釣っていましたが、ピクリともアタリはありませんでした。結果はボウズで、なんにも釣れませんでした。」と書かれていた。

 


そうだったのか。聾啞者だとは気づかなかった。聾唖者がたった一人で、あの人里離れた原生林の崖下で、よくぞ今まで頑張っていたものだ。

わいはタブレットに書かれた文言に感動してしまった。すぐさま、男の肩を叩いてタブレットを奪うと、「この暴風雨の闇夜に、原生林の真っただ中で、よくも、今まで頑張っていましたね。私はあなたを尊敬します。」と書き込むと、それを見た男は嬉しそうに頷いてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

釣り道具を洗い終わって一段落したので、釣り宿に上がると、おばさんが食堂の隅で、所在なげに腰かけていた。「まだ、起きていたんですか。今、表でお客さんらしい人と出会って筆談をしたんだけれど、聾唖者がたった一人で釣りに来ていたんですね。その人の気迫と根性には圧倒されました。」と話すと、
「あの人はね、ヤジマさんていう常連さんだけど、5年間釣りに来られなかったんだよ。」 その5年の間に、最初は大腸がんの手術をして、次に胃がんの手術、その次は腸閉塞の手術、そして、2年前には喉頭がんの手術をして、やっと去年から磯釣りが出来るようになったんだよ。

 

へ~え、5年の間に4度も大病をして、死神のまな板に何度載せられても、磯釣りを続けているなんて剛毅な人ですね。さっき、庭先でタブレットを介して筆談をしていたんですが、まったく病人には見えなかったですよと言ったら、


「あんたがタブレットを使うことはないんだよ。あの人は声は出せないけれど、耳は聞こえるみたいだからね。でも、小さい声はダメだよ。」
それに、あの人はあたしと同じ82才だけれど、一度釣りに出たら、真夜中まで帰ってこないんだよ。もし、何かあっても、声が出せないから携帯は使えないし、あたしは心配で心配で、帰ってくるまでこうして起きているんだよ。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝7時、わいがまだ二階の部屋でまどろんでいると、階下から「ナカムラさん、ナカムラさん、」とおばさんの呼ぶ声が聞こえてきた。食堂に降りて行くと、「今日は大しけなのでジェット船は全便欠航だって。今、防災無線で放送があったよ。どうするの、」と訊くので、往復とも大型客船だから大丈夫ですと応えて、食堂のテーブルを見ると、昨夜のタブレットの男が黙々と朝飯を食べていた。

昨夜、ヘッドランプの光の中で見たときは、矍鑠とした冒険家のように見えたが、朝の光の中で見ると、哀しいかな、くたびれかけた老人だった。
 

わいは男に歩み寄って、テーブルの上に置かれたタブレットに

「この暴風雨の最中に、まさか、釣りには行かないでしょうね。」と書き込んだら、男はにやりと笑って、「朝食がすんだらすぐに出かけます。昨日とおんなじトウフ岩です。リベンジです。」と書き込んだのだ。

 

やはりこの男ただ者ではなかった。死神の手を振り切って生き延びた男なのだ。

 

 

 

 

 

 

                                              

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

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