荒磯に立つ一竿子 -2ページ目

283話 太鼓判を押したばっかりに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先週の13、14日は、2週間前の月初めから三宅島の気象情報をチェックしていて、この日だったら絶対大丈夫と太鼓判が押せるほどの日であった。
12月も半ばとなれば、伊豆諸島は完全に西高東低の気圧配置となって、北西の季節風が吹きまくり、海は大しけ大荒れで磯には怒涛が荒れ狂う。そんな日では釣りにならない。
とは言え、いくら時化つづきと言っても時々は時化の中休みがある。その中休みを日本気象協会のウエブサイトtenki.jpの長期予報で探していたら、やっと好天が予想される日が見つかった。
それが13、14の両日だった。

予報では、その前後はずっと強風と大しけが続きそうだったが、この両日だけはぽっかりと風も落ちて釣り日和なのだ。まるで台風の目に入ったかのようだ。
ああ、それなのに、それなのに、12日の深夜22時、三宅島行きの連絡船に乗ろうと、竹芝桟橋乗船客ターミナルに到着すると、待合所はガランとして乗船客は30人もいないのだ。
いくらウイークデーとは言え、いったいどうしたことだろう。連絡船橘丸は排水量が6000トンもあって船長以下乗組員は60人もいるのだ。その船に乗船客が30人とは、まるで空気を運ぶようなものだ。その理由はすぐに分かった。

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

乗船券売り場の窓口で、本日の連絡船は三宅島に向けて出港しますが、海上不良や港内状況が悪い場合、入港できずに引き返すことがあります。就航の可否は現地に着くまで分かりません。以遠の御蔵島、八丈島はすでに欠航が決まっていますと告げられた。
これは青天の霹靂、想定外であった。天気予報が外れて出鼻をくじかれてしまった。
しかし、天気予報は恨めない。ダメで元々、乗り掛かった船には乗るしかない。

 

翌朝5:00 橘丸は大しけの海を乗り切って三宅島は伊ケ谷港に入港した。
薄木荘の御主人は、岸壁を300mほど行った高い防波堤の内側にある、船溜まりに面した駐車場の薄暗い街灯の下で手を振っていた。
また、来ました。よろしくお願いしますと挨拶して、軽ワゴンの助手席に乗り込むと、

「大しけですねえ。今日はどこで釣りますか。」とご主人が心配して訊いてきた。

天気予報では今日と明日は凪ると言ってたんだけどなあ。北東の風が強いから、風裏になるカドヤシキあたりなら何とかなりそうですね。

 

 

 

 

 

 

 

                                                                   

 

                   

 


 

 

 

ところでご主人、先月来た時、三日後に三宅村の産業祭が開催されるが、その日は大雨になり大しけの予報なので、連絡船も欠航しそうだから、順延するしかないと言ってスマホで連絡をとり合っていましたよね。

帰宅してからネットで検索したら、阿古小学校の体育館で開催していたみたいですね。

カボチャやニンジン、大根や白菜など野菜を山盛りにした宝船、あれはご主人の農園の産物を出展してたんでしょうと聞いてみると、
「そうです。産業と言っても、三宅村には漁業と農業しかありませんから、何とか工夫して盛り上げてみました。おかげで、招待した友好都市からも何人か来島してくれました。」
なんですって、三宅村に友好都市なんてあったんですか。それってどこなんですか?

「調布と高遠です。」

三宅島と調布間には小型のプロペラ機が1日往復3便飛んでいますね。空路で繋がっているから分かるけれど、高遠って、桜で有名なあの高遠ですか? 

まさか、江戸城大奥のスキャンダル、江島生島の繋がりじゃあないですよね。 
「そうです。スキャンダルのつながりです。」


 

 

 

 

 

 

 

 

                                                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで、大奥のスキャンダルについて説明しておくが、今から300年ほど前、江戸城の大奥で、お年寄りの江島という女官が、大奥の禁制を破って、当代人気随一の歌舞伎役者・生島新五郎と遊興し、密会の嫌疑をかけられて処罰された大事件である。江島は本来なら死罪となるべきところを、将軍家ご母堂の命乞いで一等死罪を免れ、信州高遠の座敷牢に幽閉されて生涯を閉じたという。
一方、片割れである歌舞伎役者の生島新五郎は三宅島に流されて生涯を閉じたそうだ。三宅島の神着(かみつき)という集落には今なお生島新五郎の墓があるそうだ。
*なお、大奥お年寄りとは、老人とか高齢者を指すのではなく、幕府の老中に匹敵する重職を指す。ちなみに、老中とは今で言う大臣、大老といえば総理大臣に相当する。
いずれにせよ、友好都市になったきっかけが、300年も昔の流刑人のつながりというのだから面白い。

話は少しそれるが、同じ神着の集落には、元日本社会党の委員長・浅沼稲次郎の墓と銅像がある。浅沼稲次郎は日本社会党の全盛期の委員長で、60年ほど前、日比谷公会堂で演説中、山口二也という右翼青年のテロで暗殺された三宅島出身の政治家である。
 

流刑の地三宅島には、そんじょそこらの町や村にはない、好奇心をそそられる悲劇や恩讐の歴史が残っているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

                                                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、一周道路を30分ほど走って薄木荘に到着すると、ご主人が戻ったことに気づいた外猫たちが軽ワゴンの周りに集まって来た。外猫たちはご主人の足に頭や身体を盛んにこすりつけていた。これは猫の愛情表現のひとつである。
ご主人も外猫たちの頭や首筋を撫でている。その儀式が一段落すると、乗って来た軽ワゴンを指さして、この車を使ってくださいと言って姿を消すと、暫くしてオキアミの入ったビニール袋をぶら下げて戻ってきた。
それから1時間ほどして、釣り装束に着替えて、すべての仕度と準備を整えたわいは、カドヤシキに向けて軽ワゴンのエンジンを噴かした。カドヤシキまでは5キロほどの距離だから目と鼻の先である。
前々日のデータでは水温が21.6℃と22℃を割っていたし、予報では強風や荒波も島の北側に限定されているはずだから、久しぶりにいい釣りが出来そうだ。また、釣果にも恵まれそうなので、ルンルン気分で知らぬ間に笑みがこぼれていた。

 

 

 

 

 

 

 

                            

 

 

 

 

 

 

ロッドケースを片手に背負子を背負って林の中の枯れ沢に沿って歩き始めると、冬枯れたススキやカヤがわいの前進を妨げた。しばらく歩くと瓦礫と岩石の荒磯に出たが、そこは思いのほか風が強かった。更に歩いて溶岩の突き出した荒磯に出ると沖は白く毛羽立っていた。いつも入る低い岩場には間歇的にうねりがなだれ込んでいた。

先端の岩場から20~30メートル後方の岩場までびっしょり濡れていて、潮だまりがあちこちに出現していた。直近まで波に洗われていたのだ。天気予報に寄れば、大しけは夜中までのはずだが、それがまだ残っているのだ。いわゆる時化残りだ。
竿を伸ばしたり、仕掛けを作ってスタンバイしておこうとその作業を始めると、ドッ、ドッーンと腹に堪える轟音がして先端でうねりが炸裂した。と同時に滝のような波しぶきが頭上から降り注いできた。足元に置いていたバッカンやロッドケースが吹き飛ばされた。

これはヤバイ。命も惜しい。わいは更に後方に下がって時化の収まるのをじっくり待つことにした。しかし、御蔵島方向から打ち寄せるうねりは、目前の岩場から数百メートル先の荒磯まで、次々に襲い掛かっては水柱を噴き上げ炸裂していた。

これではいつまで待っても竿は出せそうもない。わいは更に後方に下がって2時間半ほど、うねりの跳梁跋扈を眺めていたが、ついに結論を出した。今日はや~めたと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                            

 

 

 

 

 

 

 

薄木荘に戻ると、ビニールハウスから戻ったご主人が日差しの下で一服していた。

食堂の軒下のコンクリートに直に腰を下ろして、外猫の頭を撫でながら、

「どうでした。何か釣れましたか。」と聞くので、風裏だと思っていたら、風とうねりが強くなって、うねりがドッカ~ン、ドッカ~ンと炸裂して、下手をしたら命を落としかねなかったので竿は出しませんでした。
夕べは大しけだったので船が動揺して目が覚めてしまったし、寒くて眠れなかったから、ゆっくり昼寝して体力を回復させます。

明日は午前1時に起床して、2時半から磯に立つつもりです。しけが収まっていれば期待できそうですね。ご主人とそんな会話をして、その日は釣りもせずに終わった。
























 

282話 のんきなおっさんギャンブラー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三宅島航路の橘丸の船内で流れるイメージソングが、いつの間にか変わっていた。
新型コロナのパンデミックは3年余り続いたが、その後、インフルエンザ並みの弱毒性になって更に1年が経とうとしている。

新型コロナの渦中、三宅村は島内での感染拡大を極度に恐れて、しばしばロックダウンした。来島者はイコール感染者と見なされて、厳格な制約が課されたので宿泊はおろか上陸すら難しかった。そのため橘丸を利用する機会は激減していた。そんなわけで、東海汽船のイメージソングがいつ変わったのか、まったく気づかなかった。
 

1年ほど前、東京港を出港した夜行船で、軽快なポップ調の歌が流れていることに気付いたが、その時はあくまで一過性で流していて、そのうち元の曲に戻ると思っていた。

しかしその後、その歌しか流れて来ないので、やっと切り替わったことに気付かされた。
そして半年前の6月、新型コロナもようやく下火になって、乗船客のマスク着用の義務も終了し解放された気分になっていたので、橘丸の案内所に出向いてそこにいた船員さんに尋ねてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ちょっと教えてください。今、船内放送で流れているこの歌、明るくて溌溂としていて気持ちがいいですねえ。いったい誰が歌っているんですかと尋ねたら、

そうですね。ちょっと待ってくださいと言って奥に引っ込んだ船員さんは、暫くしてCDを手に現れた。そして、この人です。この人が歌っています。藤井恵というシンガーソングライターで、「アイランドブルー」っていう歌です。

3年ほど前、東海汽船が新造船を就航させたのを機に、新しいイメージソングをこの人に依頼して作ってもらったんです。

じゃあ、これまで流れていたニニロッソの「夜空のトランペット」は完全に終了してしまったんですねと口を挟むと、
そうなんです。3年前のコロナの真っ最中にこの歌に切り変わりました。まだ、馴染みはないかもしれませんが、お客様からは、なかなかいい歌だねってよく言われるんですよと嬉しそうに説明してくれた。

歌詞については、ポップ調の歌をその女性歌手が早口で歌っているので、なにを言っているのかさっぱり分からなかったが、曲やフィーリングはなかなかの出来栄えなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                          

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、3週間前の11月中旬、半年ぶりに三宅島に渡島して磯釣りを楽しんだが、帰路13:40発の上り東京行きの連絡船に乗り込んだ時には猛烈にくたびれていた。
その日は深夜2時に目覚ましをセットしておいたが、1時間も早く目が覚めてしまった。

荒磯に出て8時ごろまで釣って、釣り宿に戻って10時ごろ遅い朝食を取ったが、それ以降はなにも口にしていない。しかし、連絡船に乗船してからは、空腹より睡魔が勝っていたので、わいは貸し毛布を借りると、船室でアイマスクをして泥のように眠りに眠った。


果たしてどれくらい寝たのだろうか。身体の節々にまだ痛みは残っていたが、たらふく寝たので疲労だけは回復していた。ふと気づくと、わいが一人で寝ていた8人部屋の船室に、例の「アイランドブルー」の歌が流れ始めた。この歌が流れ始めると、あと30分少々で東京港に入港なのである。

わいは貸し毛布を畳み、リュックに荷物をまとめて、船の荷物置き場からクーラーやロッドケースを引き出して、下船口に向かった。

まだ、30分も前だから誰も来ていないだろうと思ったら、下船口の鎖の前に、キャリーバッグがひとつ置かれていた。すでに先客がいたのだ。わいもそのキャリーバッグの隣にクーラーやロッドケースを置いて所在なく佇んでいると、背後から声が掛かった。

振り向くと、キャリーバッグの持ち主らしい齢の頃70才前後のおっさんが立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                     

 

 

 

 

 

 

 

「なにか釣れましたか。」と訊くので、水温が高すぎてダツやイスズミばかりでした。

メジナは全然でしたね。今朝、明け方近くにフエフキが来ましたが、夜が明けたらサメが出て来てジ・エンドです。水温が高すぎてメジナは全滅してしまいましたかねと笑いながら応じると、
そんなことはないよ。メジナはまだいっぱいいるよとおっさん。
漁師に聞くと、沖にはメジナのナブラが湧いていると言うし、浅い所でも釣れるんだよ。要は釣り方次第だね。

おれは三宅島に年間200日は来ているから、メジナ釣りについては研究しているんだよ。

神着(かみつき)のペンションつくばという釣り宿でガイドもしているけれど、湯ノ浜とか砲台でメジナを半日で40匹も50匹も釣ったことがあるよ。

今日は蒲田の家に帰るんだけど、1年の内、ほとんどは三宅島にいるんだ。

かかあは今、八丈島に行っているけど、夫婦してギャンブルが大好きで、ギャンブルには目がない。夫婦ふたりでビル三つ分取られたかな。

 

 

 

 

 

 

 

                                                                 

 

 

 

 

 

 

 

 

奥さんが八丈島に行っているとか、ギャンブルでビルを三つ取られたとか、そんなことは聞いてもいないのに勝手に話してくれる。まったく話好きなおっさんである。

このおっさん、ペンションつくばという宿で、ガイドなどをして宿泊費をタダにしてもらっているのかもしれない。

 

ところで、お宅はどこの釣り宿に泊まっているのと聞くから、

最近、薄木荘という宿に移ったけれど、それ以前は光明丸という釣り宿でしたね。三宅島には50年近く通っていますよと答えると、
噂では、光明丸のじいさんはキンメ漁に出たまま帰らないので、仲間の漁師が探しに行ったら、船はうんと遠くまで流されていて、その船の上でじいさんが倒れていたと聞いたことがあるけどねえ。
そう、そのとおりです。よく知っていますね。船長はキンメ漁の最中に脳溢血で倒れて、漁師仲間に発見されて救急ヘリで東京に運ばれて手術はしたけれど、意識不明のまま
1カ月後に他界しました。船長が死んで、光明丸は釣り宿を畳んでしまったんです。           

 

それで、薄木荘に宿替わりしたってわけか。

いつもはどの辺で釣っているのと訊くので、島の南部の磯で釣ることが多いですね。

あなたのペンションつくばは北部にあるけれど、北部の磯だとイズシタとかタイネあたりに入るかな。
ああ、タイネねえ、あそこは危ねえよ。以前、うちのお客さんがタイネに入る途中の崖から岩場に落ちて死んだよ。
そうですか。私も最近は行かないですね。特に真夜中は危ない。あの崖っぷちをトラバースしたり、壊れ掛かった仮橋を渡るのが怖いですからね。


*254話「運のいい男」に登場する京都から来るマツモトさんという釣り師も、タイネの崖っぷちに掛かる仮橋から落っこちて大けがをしたと言うが、あえてそのことには言及しなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいとおっさんが四方山話をしている内に、二人の後ろにはすでに30人以上の下船客が並んでいた。あと10分か15分で橘丸は竹芝桟橋に接岸するのだ。数分前に船長が下船口に降りて来て水密扉を開けようと操作していた。
すると、今の今まで弾んでいたおっさんのおしゃべりがぷっつり途絶えてしまった。

そればかりか、キャリーバックを持ち直したり、背中のナップザックを背負い直したりして、急にそわそわしだしたのだ。まるで、おしっこを我慢している幼児のようだった。

見かねたわいが、どうかしましたかと聞いてみると、

 

これから平和島に行くんですよ。連絡船がちょっと遅れているから、最終レースに間に合うかどうか。ギリギリなんですよ。

えっ、平和島って、競艇の平和島ですかと尋ねると、

そうです。ギャンブルは何でも好きですが、ボートレースは格別です。
へえ~、競艇なんて勝てないでしょうと言ったら、数年前、3連単で50万円取ったことがある。ナイターの最終レースに間に合えば、また、万舟券が取れるかもしれない。と言って気もそぞろなのだ。
まもなく橘丸は岸壁に接岸し、下船口にタラップが掛かって、船長がお疲れさまでしたと言いながら通路の鎖を外すと、おっさんは脱兎のごとく駆け出して、いの一番にタラップを駆け下りて、すぐに見えなくなってしまった。その姿を追いながら、おっさん、最終レースで万舟券を取れよ、とわいは心の中でエールを送った。


























 

281話 三宅の海はパラダイス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たぶん、地球温暖化のせいだろう。今夏、6月下旬以降の三宅島の海水温は28℃~29℃という異常な高水温が続いていたが、それでも10月になれば何とかなるだろうと能天気に構えていた。しかし、11月に入っても平年値を大幅に上回る水温が続いていた。
これでは熱帯系の魚は喜ぶかもしれないが、メジナの登場は望むべくもない。一体全体どうなってしまったのか。わいはしびれを切らして、見切り発車で出撃することにした。

低水温を好むメジナの中に、高水温好きがいてもおかしくないだろう。そんな理屈が通用するかどうかは微妙だが、奇跡とか変事はしばしば起こるものだ。今回は神頼みと奇跡との遭遇を期待して半年ぶりの三宅島釣行と相成った。

しかし、初日の釣りでは奇跡の起こる気配など微塵もなく、神頼みとか奇跡との遭遇は空振りに終わってしまった。

その顛末を辿れば、まず天候は決して悪くはなかった。北西風が3~4mの微風で、朝から晴れのち曇りで昼前に時々雨という天気予報であったが、その雨も1ミリ程度というから、これはいけると考えて、伊豆岬の崖下イズシタに入ってみた。海は滅法穏やかでそこそこ潮も動いていていたが、ただ、釣れて来るのはイスズミとダツばかりなのだ。


ここで、ダツについて言及しておくが、ダツはサヨリと相似形、瓜二つである。違うところを探せば、サヨリの2倍も3倍も太くて細長いことだ。それにくちばしにのこぎり状の歯がついていて、付け餌のオキアミに食らいつくと、すぐ呑み込んで猛ダッシュする。

呑み込まれたら最後、絶対に針を外せない。すなわち、1匹釣ると1本針を取られてしまう厄介者なのである。

魚体こそ、吉永サヨリを太らせたように見えるが、吉永サヨリとは似ても似つかぬバケモノである。という訳で、本命のメジナは顔も見せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 


その上、10時ごろから降り出した雨は、たちまちザーザー降りとなって釣り辛いこと夥しかった。ザーザー降りの雨の中、雑魚や外道を相手に気合が入るわけがない。

お手上げである。わいはイズシタを諦めてさっさと釣り宿に戻ることにした。


薄木荘に戻ってみると、ご主人が母屋の軒下でタバコを吹かしていた。その足元で、10匹ほどの外猫がご主人に構ってもらいたくて、押し合いへし合い場所取り合戦を演じていた。濡れネズミのわいが、ただ今、と言いながら外猫の前を通りすぎると、

「どうでしたか。なにか釣れましたか。」とご主人が声を掛けてきた。
ダツとイスズミばかりでしたと答えて離れに向かおうとすると、
「寒かったでしょう。今、お湯を入れますから、すぐにお風呂に入ってください。」と心配してくれた。

その後「一休みしたら、また出かけますか。」と訊かれたので、今日はもう止めときますと答えて、明日は風が変わって季節風が強くなりそうだからカドヤシキに入ります。

午前2時に起きて、3時から釣り始めますとスケジュールを伝えて部屋に入った。

薄木荘では、真夜中に出ようが、未明に戻ろうが文句ひとつ言わないからこの上なくありがたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


初日はメジナに出遭えず空振りに終わってしまったが、二日連続三振するつもりはなかった。翌朝の目覚ましは午前2時にセットしたが、1時間早く目が覚めた。

予定では午前3時から竿を出そうと考えていたが、その日の潮廻りは中潮で、午前0時が干潮で、満潮が午前7時30分だったので、潮が動き始めて時合が来るのは5時を過ぎるだろうと予想した。


まだ夜明けには程遠い午前2時、釣り道具やコマセを軽ワゴンに載せ終わると、カドヤシキの磯に向けて出発である。倉庫前の狭い空き地からバックで方向転換をするのだが、車の後ろを見たら、後方で外猫がウロウロしていた。あぶないっ、どけっ、どけっ、と怒鳴ったが、外猫はどこ吹く風である。仕方なく車を降りて追い払った。
薄木荘を出て一周道路を走り始めると、沿道にポツンポツンと背の高い白い外灯がともっていた。それが何ともうら寂しかった。

しばらく一周道路を走ってから、草茫々の細い坂道を下り、林近くの草むらに軽ワゴンを駐めると、ヘッドランプを点灯し、背負子を背負ってカドヤシキに向かう真っ暗な林に踏み込んで行った。

枯れ沢の小径にはカヤやススキが丈高く伸びて進路を塞いでいた。そればかりか木々の間に小枝が無数に伸びていて、その小枝に蔓草が絡まってジャングル状になっていた。

最近、釣り人が来ていないのだろう。まさか、真夜中に藪漕ぎをするとは思わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                   

 

 

 

 

 

 

 

 


予定通り、午前3時ごろ入磯したが、潮はまったく動いていなかった。電気ウキを引き込んでいくのは雑魚のキントキやオジサンばかりだ。

暗い海を見つめながら、潮が動き出すまで時間つぶしをしていると、一瞬、頭上が真昼のように明るくなった。ぎょっとして顔を上げると、更に、すぐまた明るくなった。

10キロか20キロ先の海上で雷雲が発達して放電現象が起きているのだ。放電現象は刻一刻と激しさを増し、活発化してわいが釣っている荒磯に近づいて来る。

漆黒の夜空の一角で、幾百千のフラッシュが一斉に焚かれたように、青白い稲光りが間歇的に夜空を染め上げていた。雷鳴こそ聞こえなかったが、更に接近して来たら尻をからげて逃げるしかない。どの時点でどこへ逃げようかとびくびくしながら釣っていると、1時間ほどすると、夜空を染めていた放電現象はいつの間にか遠ざかっていた。

 

落雷への緊張と不安が溶けたころ、彼方の黒い岬の影から滑るように白銀の城が躍り出てきた。まばゆいばかりに光り輝く橘丸の船体が数キロ先の暗い海に忽然と姿を現わしたのだ。ついさっきまで、落雷の恐怖と向き合っていたのに、いつの間にかわいはメルヘンの世界に紛れ込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                       

 

 

 

 

 

 

 

 


わいは夢見心地で、闇夜の海で繰り広げられる光のページェントに目を奪われていた。

無数のダイヤモンドで彩られた光り輝く船体は、白銀の光芒を放ちながら進路を南にとっていた。おそらく御蔵島は時化ているのだろう。御蔵島には寄港せず、100キロ先の八丈島に向かっているのだ。


ふと、我に返って赤い電気ウキの動きを追っていると、突如、電気ウキの赤い灯がユラユラユラと消し込まれた。そのアタリは大物のアタリだった。一呼吸おいて、竿を煽ると竿先が強烈に引き込まれた。しばしやり取りを重ねながら玉網に取り込むと、40センチオーバーのフエフキダイだった。

ただ、魚体が淡いピンク色をしていた。わいの知る限り、フエフキダイば薄茶色で、魚体に太い縦じま模様があるのだが、ピンク色なんて見たことがない。とは言え、捨てずに持ち帰ることにした。
獲物をスカりに入れてタイドプールに放り込み、暗い海に目をやると、光り輝く船体はすでに視野から消えていた。輝く船体が消えた海は漆黒の闇に包まれていた。
さもありなん、遠目には静止しているように見える橘丸だが、巡航速度は20ノット、時速35キロで航行しているのだから、見えなくなって当たり前なのだ。


























 

280話 運が良かっただけなのさ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先週の土曜の夜、何気なくつけたNHKのテレビニュースで、防波堤で釣りをしていた男性3人が大波に呑まれて海に転落、30分後に救出されたが、20代と30代の青年二人が亡くなって、一人だけが助かったというニュースが流れていた。
その防波堤は福井県の三国港の防波堤だという。事故当時、波の高さは3メートル、北寄りの風が10メートルというから、荒天で海は大しけだったようだ。

そんな荒天の日に、なんでまたという疑問があったので、詳報や続報を探していると、転落した3人は名古屋から福井県の三国港まで、6人のグループで釣りに来たのだと言う。

メンバーは男性5人と女性1人の総勢6人だったので、このメンバーを見ると、むしろ釣りより、TDKとかUSJの遊園地かアトラクションに向いていたのかもしれない。
名古屋から三国港までの距離はおよそ200キロだから、6人はワンボックスカーに同乗し、ピクニック気分でワイワイおにぎりを食べながらやってきたに違いない。もしかしたら、同じ会社の社員だったのかもしれない。
ところで、わいは三宅島や大島をホームグラウンドにしているので、日本海側については全くの無知である。また、その釣り場についても興味も関心もなかった。ましてや、福井の三国港なんて知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、名古屋や大阪などの大都市から、大挙して釣り人が訪れるという防波堤だから、魚影が特別濃いとか大物が釣れるとか、大漁が期待できるとか、魅力的な釣り場なのだろう。
早速、三国港の防波堤と釣況についてネットで調べてみると、三国港の防波堤は九頭竜川の河口にあって、日本海の荒波から三国港を護るために、防波堤がなんと1キロ近くも沖に突き出しているというではないか。

日本一長い茨城県鹿島港の南防波堤は全長4キロにも及ぶが、鹿島港まではいかないまでも、日本海側としてはトップクラスの長さではないか。
予想通り、ここで釣れる魚種はすこぶる多彩で、魚影も濃いとあったが、波の静かな休日には、1キロほどの長い防波堤に釣り人が鈴なりになっているのではないだろうか。


ともかく、遠路名古屋からきたこの6人のグループは、海釣りについては全員ビギナーレベルの素人だったに違いない。もし、一人でもベテランがいれば、風速10メートル、波高3メートルという大荒れの海で、竿を出すようなバカなまねはしなかったはずだ。或いは、出発前に天気予報をチェックした時、今日は無理だと断念していたことだろう。

ところが、全員がビギナーか素人だったりすると、なにが危険か危険でないか、まるっきり分からないから、「折角、来たんだから釣りをしようよ。」なんて誰かが言い出したら、それに異を唱える者は誰もいない。そーだそーだと全員が同調してしまったのだろう。

これはよくある話なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                     

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

グループがこの防波堤で釣りを始めて何時間かして、昼頃から雨が降って来たそうだ。

そうでなくても大荒れの海、強風の下で波しぶきを浴びながら釣っているのだから、雨まで降ってきたら寒さが倍加して体の芯まで凍えてしまう。しかも、こんなにしけたら絶対に釣れはしない。というより、強風に煽られて仕掛けはまともに飛ばないし、飛んだとしても、糸ふけが酷くて、まともに竿が振れないのだ。
意気消沈して、もう、撤収して帰ろうよと誰ともなく言い出して、みんなが釣り道具を片付け出していると、一人が、離れた場所に釣り道具を置き忘れてきたことに気づいたそうだ。

慌てて取りに戻ったところに巨大なうねりが襲ってきて、防波堤から叩き落されてしまったのだ。その仲間を助けようと駆け寄った二人も、あえなく荒波にさらわれてしまった。


この続報を書いた記者も、関係者に聞いただけで現場を目撃したわけではないから、遭難についての経緯やディテールなど分ろうはずがない。それをわいの想像力と推測で補ってみたが、全容はおそらくこんなところではないだろうか。


名古屋からワイワイガヤガヤやってきたこの6人グループも、仲間二人が波に呑まれてしまっては地獄を見るしかないだろう。ここで、亡くなったお二人のご冥福をお祈りするとともに、生き残ったメンバーにはお気の毒と申し上げたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この海難事故についてヤフコメを見ると、こんな日に釣りをするなんて非常識、余程のばかか間抜けである。自業自得。はた迷惑もいいところ。社会に迷惑を掛けないでくれ。また、捜索に税金は使うなとか、捜索費を遺族に請求しろなどという厳しい意見が散見された。

それはいちいちご尤もではあるが、非業の死を遂げた青年たちをそんなに責めないでやってくれ。ほどほどにしておかないと、この二人、三途の川の手前から引き返してくるかもしれないぞ。人を殺したわけではないし、誰しもミスや過ちはあるものなのだ。
 

わいに言わせれば、亡くなったお二人を含めて、グループのメンバーは誰一人、自然の猛威や海の恐ろしさを知らなかったようだ。何が危険で何が安全か、また、どこまでなら安全で、どこからが危険かという境界を全く知らなかったようだ。
要は、幼な子が平気で焼け火箸に手を出して、やけどをするようなものなのだ。熱さや痛さを経験すれば、それを学習して経験値ができるが、知らないことにはどうしようもない。
幼稚園児が車道に飛び出したりするのも同様で、それは無茶や無謀ではなく、単に危険を知らなかっただけである。

 

人間、経験を通して危険を知り、危険を避けることを学んでいくが、経験のないことや知らないことにはそれができないのだ。かく言うわいも、めくら蛇に怖じずで、海の恐ろしさや危険について、本当の意味で何にも知らなかった。だから、20年ほど前までは危険を危険と思わず、平然と危険を冒していた。そのせいで、何度、死にかけたか分からない。

危機一髪を生き延びられたのは、ただ単に、運が良かっただけなのだ。























 

279話 供養塔ゆかりの人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三宅島は徳川幕府の時代には幕府の直轄領、いわゆる天領であった。だから、たとえ生活環境が厳しくて不便だとしても、軽い年貢が救いになっていたかもしれない。

その後、明治維新後の一時期、行政区は静岡県に属したこともあったが、現在は行政区・経済圏ともにすべて東京都に帰属している。
 

ところで、三宅島の住人に年賀状を書くとき、必ず戸惑ってしまうことがある。それは、伊豆諸島の町村には所属する郡がないので、宛先が東京都三宅村となって、都と村が直結してしまうことだ。村の上に郡がないと、書き損じたような気がしてならないのだ。
また、三宅島は流刑の島としても広く知られている。江戸市中を騒がせた大奥のスキャンダル「江島・生島騒動」の片割れで、当代一の人気歌舞伎役者、生島新五郎はこの三宅島の地に流されたのである。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて話変わって、三宅島には初夏のころ釣行して以来、その後、複数の条件が芳しくなかったので暫くご無沙汰していたが、そのため、ブログのエッセイも三宅島をテーマにすることはできなかった。苦肉の策で、伊豆大島や近所の田園風景で凌いでいたが、一週間ほど前、三宅島にまつわる最後の記事に対して、とある三宅島出身者からこんなコメントの便りが寄せられた。



両親が亡くなり、三宅島の実家を管理する様になってから、三宅島に関わるブログを読むようになりました。
274話の「供養塔からの使者」に出て来る風雪に晒された供養塔は、200年近く前、私の先祖が建てたものです。以前は大久保浜を見下ろす旧道にありましたが、今は亡き両親の代に現在地、伊豆岬の先端モハナに移しました。

海難に遭われた方々の御霊が安らかでありますように、また、海難事故が限りなく零になるようにとの願いが込められております。私は三宅島に帰省するたびにお参りしておりますが、一竿子様の釣行も見守っていることと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


また今回、光明丸から宿変わりした民宿薄木荘の御主人は、私の高校の先輩で優しくて気骨のある方です。御実家の商売を引き継がれ、三宅島を盛り立ててくださり感謝しかありません。
また、釣り宿を畳んでしまった光明丸が、以前、三池地区にあった40年ほど前、その頃、私の女友達は光明丸の民宿でアルバイトをしていました。ですから、その女友達は光明丸のことはよく知っています。

むつみさんと私はひとつ違いですが、お互いの住んでいる場所が島の反対側だったので、同じ高校ではありましたが、私のことは覚えていないと思います。

むつみさんは、2000年の噴火から5年余りして全島避難が解除された時、そのまま帰島せずに、内地に留まって別の人生を歩むことも出来たはずですが、ご両親とともにゼロから再度釣り宿を建ちあげ、計り知れないご苦労があったはずです。

また、亡くなった船長さんが大切にしていた光明丸は、私の知り合いが譲り受けて大切に使っております。


 

伊豆岬には、帰省すると必ず行きます。伊ケ谷港に連絡船橘丸が入港するときボーッと汽笛を鳴らしますが、その汽笛が聞こえると、草取りをしていた鍬を放り出し、自転車を飛ばしてお見送りに行きます。伊豆岬の高台で必死に手を振っているおばちゃんがいたら、それはきっと私です。

伊豆岬は潮流も急で、ましてや、あの崖を降りるのは一苦労です。くれぐれも気を付けてくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多少の省略や手直しはあるにしても、大雑把に言えばこんな文面であった。
三宅島の全盛期、その頃、週末になれば釣り客や観光客が津波のように押し寄せて、まるで祭りのように賑わった。あの黄金時代を知る者にとって、寂れきった昨今の三宅島は見るに耐えないかもしれない。しかし、この便りからは、あのころの賑わいを少しでも取り戻したいという心情が強く伝わって来る。


恐らく、この女性のご先祖は200年前のその頃、村落の運営をつかさどる名主(庄屋)を任じられていたに違いない。その伝統を引き継いで、三村が合併して三宅村が成立するまで、たぶん大久保浜界隈の村落、伊豆村の長を務めていたのかもしれない。そんな伝統を引き継ぐ旧家であれば、なお更、家系や家屋敷を絶やすことは出来ないだろう。

とは言え、人の住まなくなった無人の家屋を維持管理して行くことは想像以上に困難を伴う。この女性の双肩にかかった重荷は並大抵ではなさそうである。

 

 

 

 

 

 

 

 

                               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、ほんの一週間前まで、わいとこの女性とはまったくの見ず知らずの間柄であった。

しかし、寄せられた便りをきっかけにして、いくつもの接点が見えてきた。そして、光明丸を始め、島民は島民同士の堅いきずなで結ばれていることも改めて知ることができた。
おかげで200年になんなんとする供養塔の由来まで知ることが出来た。ご縁を紡いでくれたのはあの供養塔なのかもしれない。因縁といえば抹香臭くなるが、世の中広いようで狭いものだ。

また、船長が日夜手入れを欠かさなかった光明丸だが、むつみさんから、人手に渡ったと聞かされた時、船長の魂が売り払われたような気がして、心底落胆していたが、この女性の知り合いが譲り受けたと聞いて、なんとなく安堵してしまった。









             



















 

278話 道中は暑かったですか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえ泣いても笑っても、また、どんなに愚痴ってみてもどうにもならない。
秋の彼岸が過ぎたというのに、三宅島周辺の海水温はメジナやイサキが茹ってしまうくらい煮えたぎっている。昨日現在の海水温は、平年値を遥かに上回る28.5℃という異常値を示している。おまけに、ひんやり冷たい親潮が差す伊豆大島でさえ26℃という高水温になってしまった。これでは磯釣りなど如何ともしがたい。海水温が低下するまで釣りどころではない。恐らく、季節風が吹き始める晩秋まで水温は低下しないだろう。それまで釣行はお預けになってしまった。








                    








というわけで、良く晴れたカンカン照りのその日、わいが堤防沿いの農道をカフェCOMODOに向かって急いでいると、先週まで黄金色に展がっていた左手の田んぼが、ものの見事に刈り取られ、切り株だけの貧相な田んぼに変身していた。

ありゃ~、来週あたりが稲刈りかなと構えていたら、コンバインが稼働する今どきの農業は油断も隙もありゃしない。と感慨に打たれながら、麦わら帽子を被り直して行き過ぎたわいだったが、刈り取り後の景色がなんだかうら寂しくて物足らないことに気が付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そーだっ、10年くらい前まで、刈り取り後の田んぼには、刈り取った稲を天日で干す稲架掛け(はさかけ)という田園風景があったはずだ。うっかり忘れていたが、コンバインの普及とともに稲架掛け作業は省略されてしまったのだろうか。

確か、天日で干した米は一味違うと聞いたことがあるが、今どきの米はそんな手間暇掛けない分、一味まずくなっているのかもしれない。

ところで、あの稲架掛け風景はいつなくなったのだろう。まったく記憶にないほど、いつの間にかなくなっていた。そんなどうでもいいことで、ノスタルジアに浸けるなんてわいも齢とったもんだなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田んぼ道を暫く行くと、小さな橋の袂から堤防天端の小道に入るが、アスファルトの小道には両側から夏草が丈高く生い茂って小道を塞いでいた。夏草をかき分けるようにして踏み込むと、足元のアスファルトと両側の草藪から耐えがたいほどの熱気が湧き上がってきた。その刺激で首から顎そして目の粘膜がヒリヒリと痛んだ。それでも、ハワイマウイ島で起きた山火事の火災旋風よりはましだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

この炎熱地獄から早く抜け出したいと急ぎ足で歩を進めていると、その足元になにやら蠢いているものがあった。歩みを止めてよく見ると、それは毛むくじゃらのカラフルな毛虫だった。体長は7~8センチほど、太さは結構あって大人の親指ほどもあった。その毛虫は右側の草藪から左側の草藪に渡ろうとしていたが、渡る小道は焼き付いた鉄板のようにガンガンに熱せられているのだ。ワイから見れば自殺行為である。

まるで、サハラ砂漠を帽子も被らず歩いて横断しようとしている冒険者のようだ。毛虫とは言え無謀である。おいおい、やめとけよと声を掛けてやりたいけれど、わいには毛虫のことばが話せない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

わい自身が熱気に音を上げているのに、毛虫の面倒までは見切れない。それでも熱気に耐えながら見ていると、その毛虫は、なんと1分足らずで焼き付いた小道を渡り切ってしまった。毛虫とは言え、たいしたものである。褒めてあげたい。あとで昆虫図鑑を調べてみたら、あまたいる毛虫の中で、この毛虫はチャドクガという毒のある毛虫らしかった。
そんな出会いや大汗をかきながら、3キロほどの炎熱の道を歩き切ってやっとカフェCOMODOにたどり着き、テーブルに座って流れ落ちる汗を拭いていると、冷水のコップを持ってきてくれたマスターは開口一番 「道中は暑かったですか。」だってさ・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

277話 先生に脱帽

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

市兵衛からの撤収では、タフな急斜面の藪漕ぎに耐えて、這う這うの体でおくやま荘に戻ってきたが、ひと風呂浴びてすぐに眠りたかったが、それより何より、先にやっておかねばならないことがあった。釣ったイサキ20匹余りの鮮度を保つために、洗い場で水洗いしてこびりついた血や汚れを洗い流し、それをクーラーボックスに収めて、氷と水で氷温保存しておかなければならない。
潮を被ったロッドや玉網、バッカンもざっと水洗いしておかねばならなかった。薄暗い玄関灯の下でそれらの作業が終了したのは深夜2時を回っていた。あと1時間もすれば東雲の空は白んでくるだろう。上りの高速ジェット船の岡田港出港は午前10時30分である。

雑用から解放されたわいは、すぐに風呂場に急行して頭から残り湯をかぶって、汗と油と生臭い魚臭をきれいさっぱり洗い流した。やっと床に入って安眠ができる。わいは薄暗い階段を踏み外さないようにして二階に上がると、押し入れから布団を引っ張り出して死んだように眠りについた。
どれほど寝たろうか。朝方、余りの暑さに目が覚めた。全身汗ぐっしょりである。

気が付けば、窓のカーテンを通して夏の日差しが明々と射しかけていた。4畳半の狭い部屋がまるで温室かサウナになったように、熱中症アラートが点滅していた。これは起きるしかない。このまま寝ていれば干物かミイラになるしかない。

 

 

 

 

  

    

            

 

 

 

 

 

 

 

                                            

 

 

 


わいは洗顔を済ませて着替えると階下の食堂に降りていった。食堂の年季の入った細長いテーブルには5人分の皿や茶碗が並べられていた。おやじさんは調理場で盛んに料理を作っていた。配膳していたおばさんに、おはようございますと声を掛けると、おやじさんも顔を出して、「どうでした。釣れましたか。」と訊いてきた。

イサキが20匹ほど釣れたけれど、どれも小ぶりでしたねと答えると、「小さくてもそんなに釣れたの。それはよかった。」と喜んでくれた。
朝食をすませて世間話をしていると、おばさんが、「ナカムラさんは朝のジェット船で帰るって言ってたよね。」岡田港まで早めに送ってく?それともぎりぎりで行く?と訊くので、早めがいいねと答えると、「じゃあ、9時半にここを出ようか。」ということになった。

 

 

港まで送ってくれたおばさんに、「おせわになりました。また来ます。」と言って別れたが、ジェット船の出港までにはまだ大分時間があったので、岸壁の日陰に腰を下ろして、わいは中学3年時の担任だった先生にメールを打つことにした。60年も昔の担任だから、齢はすでに80歳を越している。
先生の家はわいの家から20キロほど離れた飯能市の郊外にあるが、中学校卒業以来60年ほど行き来が続いている。ただ、コロナ禍で磯釣りができなかったここ数年、魚を届けることも出来なかったので3年余りご無沙汰していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 


「先生、いかがお過ごしですか。相変わらず元気に卓球などやっていますか。ところで、昨夜、夜釣りでイサキを釣りました。小ぶりですがいかがですか。」という電文を打ち終わって、暫くするとサイケデリックカラーのジェット船が入港してきた。
さて、先生にメールを送ったが、その返事がすぐ来ることは滅多にない。それに、返事はメールではなく、いつも電話で掛かって来る。メールを打つのが面倒なのだろう。

わいがジェット船や電車を乗り継いで帰宅したのは午後の3時を回っていた。帰宅してから数時間して、案の定、件の先生から電話が掛かって来た。
「メールを見たよ。おまえ、今どこにいるんだい。三宅島かい?」

「お元気ですかってメールにあったけれど、おまえには言ってなかったけど、おれは昨年、レベル4の膀胱がんが見つかって、丁度1年前にオペをしたんだよ。」

幸い、順調に回復して、今週から卓球にも復帰したところなんだ。復帰っていっても、まだ1日2時間、週3回以内に限定しているけどね。ところで、イサキが釣れたんだって。イサキはうまいから食いたいなあという電話だったが、レベル4の膀胱がんだったなんて、電話があるまで知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

                         

 

 

 

 

 

 


ただ、命も取られず、口も聞けるし、卓球にも復帰しているというなら、バンバンザイではないか。また、先生が卓球にご執心なのは、県央の社会人卓球協会の会長をしているからで、元気な頃には、その立場上、毎日数時間の練習は欠かさなかった。


「先生が膀胱ガンのオペをしたなんて初耳だよ。でも、卓球が出来るほど快復しているなら、いい機会だから、快気祝いをしてあげるよ。」

確か、高麗川の巾着田の近くにお洒落なカフェがあったと思うよ。そのカフェでコーヒー&ケーキと洒落込みませんかと提案すると、

「それは嬉しいけれど、巾着田のカフェはなんでも高いよ。」

おれたち卓球仲間はガストという日高のファミレスに行くんだよ。そこなら安上がりで時間は無制限だから、明日11時頃そこでどうだい。とガストで落ち合うことになった。


コロナ禍以前の釣れた時には、わいと先生の家の中間点、JRのローカル線、高萩駅の駅前で落ち合って、立ち話をして別れるのがいつもの習いだったが、今回は快気祝いも兼ねているからスペシャルイベントと成ったのだ。この先生を恩師と呼ぶべきかもしれないが、尊称なんかお邪魔虫でしかない。すでにガキ大将とその子分みたいな関係になっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 

わいが中学3年に進級時、福島大を卒業したばかりの先生が、新任教師として市立中学校に配属されて、偶然、わいのクラス担任になったのだ。
ある時、なんで埼玉県なんかに来たの?と訊いたら、福島県は採用人員が少なくて狭き門だったけれど、埼玉県は教師不足で採用されやすかったからさという単純な理由だった。専攻は体育だったが、英語も教えたりしていた。当時、福島訛りが強かったから、ふぐすま弁で英語かよとからかったりしたから、未だにそれを憶えていて、「おまえは新任のおれをバカにしたろう。」なんていうから、記憶力はいいのかもしれない。


先生は管内の中学校をあちこち渡り歩いて、55才のとき早期退職に応募して退職した。退職金で自宅二階の屋根の上に屋上露天風呂を作ったという変わり者である。それは30年も昔のことだが、「おまえもうちの屋上露天風呂に入りに来いよ。星がきれいに見えていい眺めだぞう。」と誘われたが、まだ行ったことはない。

翌日、ガストの駐車場で待っていると、11時少し前、それらしき人物の車が現れた。それらしきというのは、先生かもしれない人物が運転しているということで、3年前の先生には似ても似つかない人物の車が進入してきたのだ。
わいが下車すべきかどうか迷っていると、その人物が片手を上げてサインを出してくれたので、やっと先生だと確信できた。しかし、3年という歳月が流れたり、がんのオペをしたとはいえ、余りの変貌ぶりに愕然としてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 


3年前には、絶対に80代には見えないくらい、若々しくて健康的で溌溂としていたが、その日の姿は、あばただらけで生気のない高齢者だった。寄る年波には抗えないのだ。

わいは車を降りると、「急に老け込みましたねえ。」とは言えないので、相変わらずお元気なようですねと白々しいセリフを吐いてしまった。


何はともあれ、持参した5匹のイサキをクーラーを開けて差し上げると、先生が持参したクーラーには氷がまったく入っていなかった。まさか、炎天下の車のトランクに氷なしのクーラーを置いたらどうなるかだ。たちまち魚は傷んでしまうだろうと忠告すると、
「大丈夫。ガストにはたくさん氷があるから、それを貰えばいいんだよ。」とけろっとしている。入店して着席するやいなや先生は、やってきたウエイトレスに、このクーラーに入れる氷が欲しいんだけどと頼んでいた。ガストには時々来ると言っていたから、ウエイトレスとも顔なじみなのかもしれない。ウエイトレスはすぐにダイヤアイスを山盛りにした器を持ってきてくれた。
わいはファミレスにはほとんど来たことがなかったので、ガストがどんな店なのか想像もつかなかったが、オーダーはタブレットでするし、料理の配膳はロボットがしていた。これにはほんとうに驚いた。


 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

快復してよかったですね。快気祝いなのでここの会計は任せてください。ただ、ガストは初めてなので、オーダーは先生にお願いします。と役割分担をしてから、フリードリンクを飲みながら話し始めると、意外や意外、先生は見てくれよりずっと元気が良かった。

暫くすると、ロボットの給仕がポテトフライと〇〇サラダを持ってやって来た。それをつまみながら話し始めたが、先生とのやり取りのあちこちに、「おまえはそんなに危険でタフなことをしているのか。」それはおれにも出来そうだなとか、ジェット船とか民宿はどのくらいの出費になるのかなどと磯釣り願望の質問が頻繁になってきた。

わいが先手を打って、離島の磯釣りは金もかかるし、80を過ぎた高齢者には体力的にも無理だと思うよ。先生は車で伊豆半島に行ってアラカブを釣ったり、西湖でワカサギを釣ったりしているんだから、それ以上やると、年寄りの冷や水だと笑われるよとたしなめてやると、

「おまえなあ、おれはな、何十年も前から四駆で山奥に入ってヤマメやイワナを釣ってるんだぞ。金はないけど、体力はお前よりあるかもしれないぞ。」と言って、日ごろの鍛錬を話し始めた。

おれは日ごろ、飯能周辺の低山に登っては足腰を鍛えている。それに、5年前に定年退職した後輩の教師が、先生の弟子になって渓流釣りを是非習いたいので教えてくださいと頼まれて、弟子の指導を兼ねてあちこちの山奥に入ってイワナを釣っているんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                            

 

 

 


 

 

 

 

 

「あれっ、先生は渓流釣りもやってたの。それはぜんぜん知らなかったよ。」


福島の兄貴が元気な頃は、山奥に入って、兄弟三人でビバークしながらイワナを釣っていたよ。三宅島にはいかないけれど、行く気になればいつでも行けるんだよ。
「先生にはまだ体力があるんだね。だけど、最近、あっちこっちでクマが出没して、北海道では釣り人がクマに食い殺されたりしているよね。」と忠告すると、



そういえば数年前、奥鬼怒の源流を弟子と二人で釣り上がっていたら、良型イワナがたくさん釣れたんで、途中でイワナの腹を裂いて、腸(はらわた)を取り出して渓流で洗って、また釣り上がっていたら、弟子がちょっと遅れたので振り返ったら、弟子の後方数メートルのところをクマが跡をつけてきていた。たぶん、イワナの腸の臭いにつられて出てきたのかもしれない。
弟子に向かって「クマだっ、クマだっ、クマだーっ、」と必死に叫んだら、弟子はびっくりして転んでしまったが、クマも驚いて、渓流沿いの絶壁をするするっと登って消えてしまった。
その一件以後、渓流釣りをするときには、必ず刃渡り30センチのサバイバルナイフとクマ除けスプレーを携行し、それにホイッスルと爆竹を持って入ることにしている。

爆竹はクマを寄せ付けないために30分間隔で鳴らすようにしている。

なるほど、84才とは思えないな。先生には脱帽だね。荒磯より渓流釣りの方が余程危険なようだ。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

276話 やっぱり市兵衛はきつかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

降り口が見つからず右往左往して探しあぐねた市兵衛磯だったが、わいはついに捜すのを諦めて道路脇に停めていた軽ワゴンに戻ってエンジンをかけると、泣きっ面に蜂とはよく言ったものである。今度は、メーターパネルのオイル警告ランプがチカチカと点滅しているではないか。気が付けば、エンジンが焼き付いたように排気ガスが異常にこげ臭かった。降り口が見つからないばかりか、人里離れたこんな森の中で、エンコでもしようものならニッチモサッチモいかなくなる。わいは大事を取っておくやま荘に取って返すことにした。


 

食堂に居合わせたおばさんに、あの車、オイルが漏れているか不足しているかして、警告ランプが点滅しているよ。エンジンがすごく焦げ臭い。それに、市兵衛への降り口がいくら探しても見つからないんだよね。他の磯に行くしかなさそうだねと状況を告げると、

おばさんは、「おとうさんっ、ナカムラさんの車、オイル漏れかもしれないよーっ。それに、市兵衛に降りる入り口が分からないんだってーっ。」と二階に向かって叫んでくれた。
すぐに降りて来てくれたおやじさんは、「あの辺はおれの縄張りだから、おれが案内してやる。おれの車のあとに付いて来てください。」とすぐに軽トラに乗り込んでくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一周道路の丘陵地帯を上り降りして拡幅工事の黄色いランプが点滅している辺りに来ると、おやじさんは軽トラから下車して、確か、この辺りだったと思うけどなあと言いながら、夏草の生い茂った道脇と森の境界線付近を一生懸命探し始めた。しかし、降り口はなかなか見つからない。20分ほど探し廻った挙句、やっと繁茂する夏草に埋もれて、市兵衛と書かれた細長い標識が見つかった。
探し当ててほっとしたのか、「ここだ、ここだ。薄暗くなってきたから、気を付けて。」と言い残すとおやじさんは軽トラをUターンして行ってしまった。
この辺りは標高700mほどの三原山東斜面の裾野にあたり、三原山の山陰になっているので、島の西側に較べて日没は1時間ほど早く訪れる。そして、いち早く夕闇に包まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

通りゃんせ通りゃんせの唄ではないが、行きはよいよい帰りはこわい~。やはり体力に自信がないと市兵衛への入磯はきついんだよなあ。気力だけではどうにもならない。

 

わいはロッドケースを片手に、背負子を背にして、背丈ほどの笹藪が生い茂る斜面を藪漕ぎしながら降って行った。足元は全く見えない。顔面にべったりと蜘蛛の巣が貼り付いてくる。足元が山路かどうかも定かではない。ただただ、笹藪や夏草の密度の薄いところを
狙って歩を進めていた。
たった1mでも余分に足を踏み出せば、その先には絶壁が口を開けて待っている。

だから、絶対、踏み間違う訳には行かない。しかも、夕闇に閉ざされる前の、わずかでも森の中に白明がある内に降ってしまいたいのだ。
冷や汗をかきながら、30分ほどで市兵衛の磯先端までたどり着いた。荒磯の形状は13年前とは異なり、先端から2メートルほど鼻先を突き出していた馬の背状の岩塊は影も形もなくなっていた。風があったのでやぶ蚊用の蚊取り線香ホルダーは必要なさそうである。帽子にヘッドランプを装着し、釣り座を定め、仕掛けを作ってコマセを打ち始めたのは午後8時に近かった。既に市兵衛の周辺は闇に包まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


それから約5時間半、赤い電気ウキを潮に滲ませてイサキのアタリが出るには出たが、釣れてくるのは25センチ前後のチビイサキばかりだった。それでも数は20匹以上出たので退屈はしなかったが、これ以上釣っても荷になるだけだ。その日は長潮前日の小潮だったので潮も動かず、イサキの活性も乏しかった。
真夜中の0時半を廻った所で、雲間から下弦の白い月が顔を出した。わいはこの三日月を契機に見切りをつけて撤収することにした。

疲れ切って消耗した帰りの登りは地獄の行軍である。腕時計は0時半を指していた。
急斜面のけもの路を、眼前に立ちはだかる篠竹や木蔓などを払いながら一歩一歩慎重に登って行く。背中の荷物がばかに重たい。時折、魔物の手が伸びて背負子を後ろに引っ張るのだ。ぎょっとして振り返ると背負子に蔓が絡んでいる。暗闇を照らすヘッドランプの光に濛々と湯気が立ち昇ってくる。まるで急斜面を喘ぎながら登るSLのようだ。人間機関車ザトペックを思い出した。
足が重たい。息が切れる。心臓破りの斜面である。身体中から汗が噴き出して、ヘッドランプの光の中に立ち昇る。わいはとうとう途中で顎を出してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

275話 あっちがダメならこっちがあるさ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あぁぁぁ~、暑い、暑い、暑い、暑いのは夏だから仕方ないか。こんなとき三宅島に行っ
ても、じりじり照り付ける太陽に荒磯は鉄板焼の鉄板ように灼きついて、灼熱の太陽と
炎熱地獄に焙られて人間はたちまち干物になってしまうだろう。
それでも、磯釣りには行きたいのだ。そーだ、干物にならなければいいんだな。すなわ
ち、炎熱地獄を避けて、太陽が隠れてから釣りをすればいいのだ。幸か不幸か、光明丸
は船長の他界とともに宿を畳んでしまったが、今度移った釣り宿には何の制約も縛りも
ない。真夜中に出ようが夜明け前に帰ってこようが、文句ひとつ言わないのだ。勝手気
ままに釣りができる、こんな釣り宿もあるんだなあ。という訳で、今回は日没後から真夜中まで、三宅島の伊豆岬でジャンボイサキを狙うことにした。
とは言え、今更、夜釣りを持ち出すなんて遅すぎる。寝ぼけているのかと笑われそうだ
が、アイデア自体はわるくない。窮すれば通ずというが、思案を巡らせれば打開策は出
てくるものだ。

 

 

 

 

 

 

 

                     

 

 

 

 

 

 

 

 

よしっ、三宅島の真夜中イサキに賭けてみよう。今回はこの線で行こうと決めた途端、
待てよ、待て待て、ちょっと待て、よく考えてみろ。三宅島まで片道10時間、連絡船が
三宅島に接岸するのは朝の5時だよ。ところが、夜釣りを始めるのは夕刻7時。それまで
の14時間、一体全体どうやって時間つぶしをすればいいんだ。宿でゴロゴロすると言っ
ても14時間は長すぎる。野良猫と遊ぶにしても限界がある。という訳で、このアイデア
はグッドでないことが判明した。

 

しからば、少々格は落ちるが大島がある。大島は13年前まで20年近く足繁く通った島である。だから、釣り場ばかりか船便にも熟知している。

真夏の夜釣りなら東京発14:15の高速ジェット船がある。時速70キロで翼走するから大島まで2時間足らずですっ飛んで行く。ジェット船を使えば夕方から荒磯に入って真夜中まで釣り、翌朝10:30の上りのジェット船で帰れるのだ。それこそパフォーマンスの高い1日半の行程で釣りが出来てしまうのだ。これが三宅島だと、距離も長いし高速船もないから二泊三日の行程になってしまう。利便性から見れば圧倒的に大島なのだが、惜しむらくは釣れる魚のサイズが違うのだ。イサキを例に取れば三宅島のレギュラーサイズが40センチ、大島ではその半分にも満たないチイサキしか釣れないのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、大島に行くなら、大島で投宿する宿を探さなければならないが、かつてお世話になった「おくやま荘」はまだやっているだろうか。13年前に、おやじさん、おばさんは70才前後だったから、既に他界しているかもしれない。東京で暮らす長男は、大島には戻りたくないし釣り宿も継ぎたくないと言っているそうだから、釣り宿fは畳んでしまったかもしれない。

ともかく、ネガティブなことしか思い浮かばないが、明朝一番に電話して訊いてみよう。


翌朝、早速、電話を掛けると、小さく呼び出し音が鳴っていたが、その後、どこかに転送されているようなのだ。しかも、いつまで待っても電話には誰も出ない。番号を間違えたのかもしれないと再度確かめてから、続けて5回掛け直したが、うんともすんとも応答はない。
風雨に晒された木造二階建てのおくやま荘、築60年の傾きかかった建物を思い出しながら、1時間後に再び掛け直したが、やはり誰も出なかった。
悪い予感がズバリ当たって、二人とも寿命が尽きてしまったのだろうか。或いは、入院とか老人ホームに入ってしまったとか。この分だと釣り宿は完全に畳んでしまったんだろうなと考えながら、もう一度、昼頃に電話して、それでダメだったら諦めることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NHKの正午のニュースが流れ始めたので、最後通告を受ける死刑囚の心境で電話を掛けると、暫く呼び出し音が鳴っていたが、突然、「ハ~イ、どちらさん、」と元気な声が返って来た。応答は絶対ないと思い込んでいたわいにとって、突然、棺桶の蓋が開いて、死者が立ち上がって来たかと思うほどびっくりした。
わいはしどろもどろになって、「あ、あ、あの、おくやま荘さんですか。」と尋ねるのが精いっぱいだった。「そーですよ、どちらさん、」と再び相手が尋ねて来た。
「ナカムラと申しますが、以前、10年以上も前ですが、よくお世話になっていたものですが、釣り宿はまだやっているんでしょうか。」と訊いてみると、
「うん、やってるよー、なんでぇー、」と逆に質問されてしまった。
実は、今朝から何度も電話していたんですが、全然、応答がなかったんで、釣り宿は止めてしまったのかなと思ったんです。
「そーなの、それはごめんねー。今朝は朝から用事があって、外出してたんだよー。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

相変わらず、おばさんは元気なようですね。卓球はまだやってるんですかと訊いてみると、
「足が痛くなって、ここんとこやってないよー。」

「たまにはやるけど、足がぜんぜん動かないんだよー。だから手だけで打ってんだよー。卓球仲間には、接着剤で足が床にくっついちゃって離れないーって、笑ってんだよー。」

「ところで、ナカムラさんて言われても、すぐに顔が思い浮かばないんだよー。」

そりゃあ、10年以上もご無沙汰していますから、憶えている方がおかしいよね。それより、まだ、おくやま荘さんがやっててくれて助かりましたよ。
明日、大島16時着のジェット船で行きたいんだけど、いいですか。
宿に着いたら、トンボ返りですぐに出かけますから、夕食はいりません。オキアミを1個溶かして
おいてください。じゃあ、よろしくお願いします。」と伝えて電話を切ったが、おばさんが元気だったのでほっとした。ともかく、顔見知りのおくやま荘がまだ残っていてくれたことが無性に嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



翌日の午後2時15分、竹芝桟橋を離れたジェット船は東京湾を高速で翼走しはじめた。
天気晴朗にして波おだやかな湾内には、大小の船が無数に行き交っていた。ジェット船はそれらの船を瞬く間に追い越して行く。しかし、浦賀水道を過ぎた辺りから南西風が強くなり、海には白波が立って毛羽立ってきた。この分では大島は強風が吹いているかもしれないし、海は荒れ模様になっていることだろう。
島の西側の磯、ヨコブチとかニツンバではアゲンストの風では釣りにならない。東側でも風が廻って釣り辛そうだ。となれば、今夜の釣りは市兵衛磯に絞られる。
そうこうしている内に、午後4時、ジェット船は大島は岡田港の岸壁に接岸した。タラップを降りて歩き始めると、暫く見ないうちに岡田港は大きく変貌していた。待合所のターミナルビルは立派なビルに建て替えられていたし、通路の屋根や駐車場の位置も大きく変更されていた。わいは戸惑ってしまった。
暫く待っていると、おくやま荘のおばさんらしき人の軽ワゴンが現れたが、姿形が激変していたので、おばさんだと確信できなかった。一応、手を振ってみたら、向こうもわいを見て手を振ってくれたのでおばさんだと分かったが、13年という歳月はこんなにも人の姿を変えてしまうものなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

車は一周道路を10分ほど走って、泉津集落の外れにある林の小道に入って釣り宿の入り口で停まった。わいは釣り支度に着替えてから、オキアミと氷を貰いに出て来るから、20分ぐらい掛かるかなと言いながら2階の小部屋に上がって行った。

まだ、日没までには時間はあったので、三原山の山陰となるこの辺りでも明るさは残っていた。あと1時間もすれば夕べの帳が降りて荒磯は漆黒の闇に包まれるだろう。

わいは長袖のシャツに着替えて、腰に蚊取り線香ホルダーをぶら下げ、帽子には180ルーメンのキャップランプを装着した。夕飯はセブンイレブンのおにぎりとペットボトルの麦茶である。

1階の食堂に降りると、おやじさんとおばさんが一息ついて茶を飲んでいるところだった。わいがおやじさんに、またお世話になりますと挨拶して、おやじさんはまだゴルフをやっているのと訊いてみると、「最近は腰が痛くて、この半年やってないよ。齢だからなあ。」
というので、いくつになったのと訊いてみると、83才になったという。おばさんは80才というから、80を過ぎたら誰でも身体が言うことを聞かなくなるって言う
から、のんびりやったらいいですよと言ってやった。

暗くなる前に磯に入りたいから、オキアミと氷を用意したいんだけどと言うと、おばさんが離れにあるからついて来てとサンダルを履いて歩き出した。
おやじさんは、車のキーを取って来るからと言って自室に戻って行った。50メートルほど
離れた離れの冷凍庫から氷を出してもらい、オキアミはここだよと指さすところには発泡スチロールの蓋が被せてあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


食堂に戻ると、おやじさんが、車は離れの車庫の〇番目にある軽ワゴンだよ。これがその車のキーです。それに乗ってくださいと言うと、更に「まだ、明るいし慌てることはないよ。お茶でも飲んでから出かけたら。」と言うので、三人で茶飲み話に興じることとなった。


ところで、以前、天井に貼ってあった模造紙の【有森裕子さん感動をありがとう?】という寄せ書きとか写真、もう貼ってないんだね。捨てちゃったのと訊いてみると、「小出監督がこの民宿をマラソンの強化合宿に使ってくれていた頃だから30年も40年も前だよ。」「もう、模造紙も写真も変色してボロボロになってしまったんで外すことにしたんだよ。」
有森裕子はたまにおくやま荘に遊びに来てくれる。あの頃は大学や高校、社会人なんかのマラソンや陸上部の強化合宿の基地になってたんで、夏休みはいつもお客さんで一杯だったなあ。なんて、そんな話を聞いている内に6時を回ってしまった。
わいがそろそろ出かけますね。南西風が強そうだから今夜は市兵衛に入りますと告げると、あそこは山道がきついし分かりづらいから気を付けてねと二人して忠告してくれた。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 


市兵衛磯は一周道路を2キロほど南下した、三原山のふもとの標高100mほどの辺りを走る道路脇から険しい山道を下り、獣道のような藪をかき分けて降って行く荒磯である。

大島でもタフな釣り場のひとつに数えられるかもしれない。
わいは13年以上前の記憶を頼りに降り口がある辺りに到着したら、その辺りは数百メートルにわたって道路の拡幅工事をしていた。作業員は誰もいなかったが、道路脇の草木は切り倒され、工事用の虎ロープが張りめぐらされて、点々と黄色い警告ランプが点滅していた。わいは車を道路脇に停めて、市兵衛への降り口を探してみたが、いくら探しても見つからない。30分ほど探したが、やはり見つからないので諦めることにした。

車に戻ってエンジンをかけヘッドライトを点灯すると、計器盤の中で赤いランプか点滅し始めた。ガス欠ではなさそうだし、シートベルトかなと思ったが、シートベルトはきちんとしていた。薄暗いので、メガネをかけてよく見たら、なんとオイルの警告ランプだった。

そういえば排気ガスが妙に焦げ臭かった。オイルが漏れているのか不足しているのか。

こんな人里離れたところで、もし、エンコしたらどうしようもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おくやま荘に舞い戻ってオイルの警告ランプが点滅していて焦げ臭いよとおやじさんに伝えると、「そういえば、三日前に使ったお客さんもそんなことを言ってたなあ。」まあ、大丈夫だろうけど、俺の軽トラに乗っていけよ。離れの一番奥に駐めてある。これがそのキーだとキーを持ってきてくれた。
その頃になると、離れや林の木々に夕闇が降りかけていた。わいは少々焦りながら、軽
トラをバックさせようとしたが、チェンジレバーのリバースの位置がどこなのか分からない。黒いグリップには阿弥陀くじのように白い折れ線がいくつも書き込まれていたが、車内は暗いし掠れてしまって判読できない。しかたがないので、この辺と思われる位置にギアを入れてエンジンを噴かすと、急発進して建物に衝突しそうになった。
これはヤバイ。わいは食堂に取って返して、「おやじさん、リバースの位置がわからないからバックできないよ。」と伝えると、ああ、あの軽トラはギアが浅いし分かりづらいよな。

ハハハハ、ハ だってさ。ほんと、のんきなのんきなおやじさんでした。






















 

 

274話 供養塔からの使者

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいは夢うつつの中でアラームの単調なメロディーを聴いていた。その日は半年ぶりに荒磯に立った肉体疲労で泥のように眠っていたが、その昏睡を妨げるかのようにアラームは鳴り続けていた。ともかく、アラームを停めなくてはならない。わいは夢遊病者のように枕元の携帯を手探りで探した。
その時、わいははっと気付いた。わいが寝込んでいたのは光明丸ではなく、今回からお世話になる薄木荘という釣り宿だったのだ。また、アラームは勝手に鳴っていたのではなくて、昨夜、床に就く前、午前0時にセットしていたのだ。

前日の釣りは、昨年11月以来の釣りだったので、期待と喜びに満ち溢れていた。しかし、いざふたを開けてみたら現実はシビア―だった。南西の風が滅法強く、海は大荒れに荒れて目的の磯には近づくことすら出来なかった。
やむなく、島の反対側の磯に入ったが、そこで掛かって来たのは外道のダツとイスズミばかり、メジナには一匹も出会うことができず、ダツとイスズミの猛攻に遭ってへとへとになって、とうとう匙を投げてしまった。せめてもの救いは、荒磯で竿が振れたことだったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなわけで、初日はギブアップして翌日未明の釣りに賭けることにした。

改めてスマホで気象情報をチェックしてみると、明日未明には風が落ちそうである。

折から、南方海上を通過した台風の時化残りも収まってきたし、翌日の満潮は午前3時、潮廻りは大潮と絶好の条件が出揃ってきた。
というわけで、午前0時にアラームに叩き起こされ、ボーッとして眠気の残る頭と疲れた身体に鞭打って遮二無二飛び起きると、わいは機械的に顔を洗って釣り装束に着替え終えた。
表に出ると、釣り宿を囲む周囲の林や木立は黒々と静まり返っていた。夜空に向かってそそり立つ木立の梢はほとんど揺れていない。やっと強風が収まってきたのだ。
帽子のヘッドランプに左手をかざし、赤外線センサーの感知で点灯すると、一道の光が前方を切り開いた。わいは30分ほどかけて出発の準備を整えると、早速、軽ワゴンのエンジンを始動させた。
時計の針は午前1時を指していた。これから向かう伊豆岬のイズシタの磯は、釣り宿から見て正反対の北部に位置する。一周道路をくねくねと曲がりくねって30分ほどかかる行程である。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

                            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊豆岬は数万年前の大噴火で形成された全長2キロほどの大きな岬で、牛の舌のようにベロ~ンと幅広く海にせり出している。イズシタはその西岸の中ほどにあって、高さ10メートルほどの崖下にある。風やうねりに左右されやすい場所なので、余程条件が整わないと入れないが、その夜は入れそうであった。

 

わいはエンジンを噴かして真夜中の一周道路に走り出したが、曲がりくねった山腹の道路を上ったり下ったりして走り続けて15キロほど、その間、1台の対向車にも出会うことはなかった。

また、一周道路は都道なので、森の中でも山腹でも、人家があろうがなかろうが、背の高い街路灯が点々と白く灯っているが、人家があってもひっそりと静まり返って人の気配など全くしない。道路には人っ子一人、猫の子一匹歩いていないのだ。ただただ軽ワゴンのエンジン音だけが高く鳴り響いていた。まるで、冥界に入り込んで行くような寂寥感と錯覚にとらわれてしまうのだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軽ワゴンを走らせて30分、目指すイズシタの崖の上に到着した。

崖下の海は漆黒の闇に包まれて荒磯を噛む波音だけが聞こえてくる。たぶん竿は出せるだろうが予断は許さない。崖の上から目指す崖下の磯を見下ろして様子をみることにした。直線距離で40mほど離れた眼下のイズシタの岩場をヘッドランプで照射してみると、な、な、なんと、目指す岩場には釣り人が入っていたのだ。
ヘッドランプで照らされたイズシタの岩場から、わいを目掛けて青白い光が照射されて来たのだから、びっくりした。時刻は深夜1時過ぎ、丑三つ時のこの時刻に、まさか魚を釣っている物好きか狂人がおるとは信じられないことだった。わいは呆れかえるとともにがっかりしたが、今更、イズシタを諦めるわけにはいかない。
ともかくこの崖を降り、その釣り人に会って、その近くで竿を出していいか了解をとるしか道はない。早速、ヘッドランプの光を頼りに溶岩の崖を降っていくと、中ほどまで降りたところで、ぎょっとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7,8m前方の岩の上から、突然、青白い光がピカリとわいに向けられたのだ。わいは腰を抜かさんばかりに驚いた。一瞬、何事が起ったのかと思ったが、釣り人が崖を上って来たのだろう。しかし、青白い光の向こう側に、釣り人の影が見えないのが不思議だった。

よくよく観察してみると、それは人間ではなかった。野良猫が岩の上からじっとわいを見ていたのだ。ライトだと思ったのは、わいのヘッドランプが野良猫の目に反射して青白く光っていたのだ。青白い光は暫くわいを見ていたが、まもなくどこかに立ち去って行った。


釣り人ではなく野良猫だったので、わいは安堵してイズシタの磯に入ることができた。
30分ほどかけて夜釣りの支度が整のえ終えたので、まっ暗な海に仕掛けを投げ込み赤い電気ウキを潮に乗せて流していたが、ふと背後を振り返ってみると、なんと、崖の上の草むらから青白い光がまたわいを見ていたのだ。野良猫がわいを凝視していたのだ。まだいたのかと思った途端、背筋に冷たいものが走った。

 

そういえば、崖上の岬の道を500mほど下った岬先端の草むらに、いつ建てられたか分からない風化して黒ずんだ石塔があった。石塔に刻まれた消えかけた文字を丹念に読んで行くと、溺死者供養塔と刻んであった。

人里離れた荒涼とした荒磯に、野良猫がただ一匹で棲みつけるわけがない。この野良猫、供養塔からの使者だとすれば、なんとなく腑に落ちる。