荒磯に立つ一竿子 -3ページ目

275話 あっちがダメならこっちがあるさ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あぁぁぁ~、暑い、暑い、暑い、暑いのは夏だから仕方ないか。こんなとき三宅島に行っ
ても、じりじり照り付ける太陽に荒磯は鉄板焼の鉄板ように灼きついて、灼熱の太陽と
炎熱地獄に焙られて人間はたちまち干物になってしまうだろう。
それでも、磯釣りには行きたいのだ。そーだ、干物にならなければいいんだな。すなわ
ち、炎熱地獄を避けて、太陽が隠れてから釣りをすればいいのだ。幸か不幸か、光明丸
は船長の他界とともに宿を畳んでしまったが、今度移った釣り宿には何の制約も縛りも
ない。真夜中に出ようが夜明け前に帰ってこようが、文句ひとつ言わないのだ。勝手気
ままに釣りができる、こんな釣り宿もあるんだなあ。という訳で、今回は日没後から真夜中まで、三宅島の伊豆岬でジャンボイサキを狙うことにした。
とは言え、今更、夜釣りを持ち出すなんて遅すぎる。寝ぼけているのかと笑われそうだ
が、アイデア自体はわるくない。窮すれば通ずというが、思案を巡らせれば打開策は出
てくるものだ。

 

 

 

 

 

 

 

                     

 

 

 

 

 

 

 

 

よしっ、三宅島の真夜中イサキに賭けてみよう。今回はこの線で行こうと決めた途端、
待てよ、待て待て、ちょっと待て、よく考えてみろ。三宅島まで片道10時間、連絡船が
三宅島に接岸するのは朝の5時だよ。ところが、夜釣りを始めるのは夕刻7時。それまで
の14時間、一体全体どうやって時間つぶしをすればいいんだ。宿でゴロゴロすると言っ
ても14時間は長すぎる。野良猫と遊ぶにしても限界がある。という訳で、このアイデア
はグッドでないことが判明した。

 

しからば、少々格は落ちるが大島がある。大島は13年前まで20年近く足繁く通った島である。だから、釣り場ばかりか船便にも熟知している。

真夏の夜釣りなら東京発14:15の高速ジェット船がある。時速70キロで翼走するから大島まで2時間足らずですっ飛んで行く。ジェット船を使えば夕方から荒磯に入って真夜中まで釣り、翌朝10:30の上りのジェット船で帰れるのだ。それこそパフォーマンスの高い1日半の行程で釣りが出来てしまうのだ。これが三宅島だと、距離も長いし高速船もないから二泊三日の行程になってしまう。利便性から見れば圧倒的に大島なのだが、惜しむらくは釣れる魚のサイズが違うのだ。イサキを例に取れば三宅島のレギュラーサイズが40センチ、大島ではその半分にも満たないチイサキしか釣れないのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、大島に行くなら、大島で投宿する宿を探さなければならないが、かつてお世話になった「おくやま荘」はまだやっているだろうか。13年前に、おやじさん、おばさんは70才前後だったから、既に他界しているかもしれない。東京で暮らす長男は、大島には戻りたくないし釣り宿も継ぎたくないと言っているそうだから、釣り宿fは畳んでしまったかもしれない。

ともかく、ネガティブなことしか思い浮かばないが、明朝一番に電話して訊いてみよう。


翌朝、早速、電話を掛けると、小さく呼び出し音が鳴っていたが、その後、どこかに転送されているようなのだ。しかも、いつまで待っても電話には誰も出ない。番号を間違えたのかもしれないと再度確かめてから、続けて5回掛け直したが、うんともすんとも応答はない。
風雨に晒された木造二階建てのおくやま荘、築60年の傾きかかった建物を思い出しながら、1時間後に再び掛け直したが、やはり誰も出なかった。
悪い予感がズバリ当たって、二人とも寿命が尽きてしまったのだろうか。或いは、入院とか老人ホームに入ってしまったとか。この分だと釣り宿は完全に畳んでしまったんだろうなと考えながら、もう一度、昼頃に電話して、それでダメだったら諦めることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NHKの正午のニュースが流れ始めたので、最後通告を受ける死刑囚の心境で電話を掛けると、暫く呼び出し音が鳴っていたが、突然、「ハ~イ、どちらさん、」と元気な声が返って来た。応答は絶対ないと思い込んでいたわいにとって、突然、棺桶の蓋が開いて、死者が立ち上がって来たかと思うほどびっくりした。
わいはしどろもどろになって、「あ、あ、あの、おくやま荘さんですか。」と尋ねるのが精いっぱいだった。「そーですよ、どちらさん、」と再び相手が尋ねて来た。
「ナカムラと申しますが、以前、10年以上も前ですが、よくお世話になっていたものですが、釣り宿はまだやっているんでしょうか。」と訊いてみると、
「うん、やってるよー、なんでぇー、」と逆に質問されてしまった。
実は、今朝から何度も電話していたんですが、全然、応答がなかったんで、釣り宿は止めてしまったのかなと思ったんです。
「そーなの、それはごめんねー。今朝は朝から用事があって、外出してたんだよー。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

相変わらず、おばさんは元気なようですね。卓球はまだやってるんですかと訊いてみると、
「足が痛くなって、ここんとこやってないよー。」

「たまにはやるけど、足がぜんぜん動かないんだよー。だから手だけで打ってんだよー。卓球仲間には、接着剤で足が床にくっついちゃって離れないーって、笑ってんだよー。」

「ところで、ナカムラさんて言われても、すぐに顔が思い浮かばないんだよー。」

そりゃあ、10年以上もご無沙汰していますから、憶えている方がおかしいよね。それより、まだ、おくやま荘さんがやっててくれて助かりましたよ。
明日、大島16時着のジェット船で行きたいんだけど、いいですか。
宿に着いたら、トンボ返りですぐに出かけますから、夕食はいりません。オキアミを1個溶かして
おいてください。じゃあ、よろしくお願いします。」と伝えて電話を切ったが、おばさんが元気だったのでほっとした。ともかく、顔見知りのおくやま荘がまだ残っていてくれたことが無性に嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



翌日の午後2時15分、竹芝桟橋を離れたジェット船は東京湾を高速で翼走しはじめた。
天気晴朗にして波おだやかな湾内には、大小の船が無数に行き交っていた。ジェット船はそれらの船を瞬く間に追い越して行く。しかし、浦賀水道を過ぎた辺りから南西風が強くなり、海には白波が立って毛羽立ってきた。この分では大島は強風が吹いているかもしれないし、海は荒れ模様になっていることだろう。
島の西側の磯、ヨコブチとかニツンバではアゲンストの風では釣りにならない。東側でも風が廻って釣り辛そうだ。となれば、今夜の釣りは市兵衛磯に絞られる。
そうこうしている内に、午後4時、ジェット船は大島は岡田港の岸壁に接岸した。タラップを降りて歩き始めると、暫く見ないうちに岡田港は大きく変貌していた。待合所のターミナルビルは立派なビルに建て替えられていたし、通路の屋根や駐車場の位置も大きく変更されていた。わいは戸惑ってしまった。
暫く待っていると、おくやま荘のおばさんらしき人の軽ワゴンが現れたが、姿形が激変していたので、おばさんだと確信できなかった。一応、手を振ってみたら、向こうもわいを見て手を振ってくれたのでおばさんだと分かったが、13年という歳月はこんなにも人の姿を変えてしまうものなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

車は一周道路を10分ほど走って、泉津集落の外れにある林の小道に入って釣り宿の入り口で停まった。わいは釣り支度に着替えてから、オキアミと氷を貰いに出て来るから、20分ぐらい掛かるかなと言いながら2階の小部屋に上がって行った。

まだ、日没までには時間はあったので、三原山の山陰となるこの辺りでも明るさは残っていた。あと1時間もすれば夕べの帳が降りて荒磯は漆黒の闇に包まれるだろう。

わいは長袖のシャツに着替えて、腰に蚊取り線香ホルダーをぶら下げ、帽子には180ルーメンのキャップランプを装着した。夕飯はセブンイレブンのおにぎりとペットボトルの麦茶である。

1階の食堂に降りると、おやじさんとおばさんが一息ついて茶を飲んでいるところだった。わいがおやじさんに、またお世話になりますと挨拶して、おやじさんはまだゴルフをやっているのと訊いてみると、「最近は腰が痛くて、この半年やってないよ。齢だからなあ。」
というので、いくつになったのと訊いてみると、83才になったという。おばさんは80才というから、80を過ぎたら誰でも身体が言うことを聞かなくなるって言う
から、のんびりやったらいいですよと言ってやった。

暗くなる前に磯に入りたいから、オキアミと氷を用意したいんだけどと言うと、おばさんが離れにあるからついて来てとサンダルを履いて歩き出した。
おやじさんは、車のキーを取って来るからと言って自室に戻って行った。50メートルほど
離れた離れの冷凍庫から氷を出してもらい、オキアミはここだよと指さすところには発泡スチロールの蓋が被せてあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


食堂に戻ると、おやじさんが、車は離れの車庫の〇番目にある軽ワゴンだよ。これがその車のキーです。それに乗ってくださいと言うと、更に「まだ、明るいし慌てることはないよ。お茶でも飲んでから出かけたら。」と言うので、三人で茶飲み話に興じることとなった。


ところで、以前、天井に貼ってあった模造紙の【有森裕子さん感動をありがとう?】という寄せ書きとか写真、もう貼ってないんだね。捨てちゃったのと訊いてみると、「小出監督がこの民宿をマラソンの強化合宿に使ってくれていた頃だから30年も40年も前だよ。」「もう、模造紙も写真も変色してボロボロになってしまったんで外すことにしたんだよ。」
有森裕子はたまにおくやま荘に遊びに来てくれる。あの頃は大学や高校、社会人なんかのマラソンや陸上部の強化合宿の基地になってたんで、夏休みはいつもお客さんで一杯だったなあ。なんて、そんな話を聞いている内に6時を回ってしまった。
わいがそろそろ出かけますね。南西風が強そうだから今夜は市兵衛に入りますと告げると、あそこは山道がきついし分かりづらいから気を付けてねと二人して忠告してくれた。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 


市兵衛磯は一周道路を2キロほど南下した、三原山のふもとの標高100mほどの辺りを走る道路脇から険しい山道を下り、獣道のような藪をかき分けて降って行く荒磯である。

大島でもタフな釣り場のひとつに数えられるかもしれない。
わいは13年以上前の記憶を頼りに降り口がある辺りに到着したら、その辺りは数百メートルにわたって道路の拡幅工事をしていた。作業員は誰もいなかったが、道路脇の草木は切り倒され、工事用の虎ロープが張りめぐらされて、点々と黄色い警告ランプが点滅していた。わいは車を道路脇に停めて、市兵衛への降り口を探してみたが、いくら探しても見つからない。30分ほど探したが、やはり見つからないので諦めることにした。

車に戻ってエンジンをかけヘッドライトを点灯すると、計器盤の中で赤いランプか点滅し始めた。ガス欠ではなさそうだし、シートベルトかなと思ったが、シートベルトはきちんとしていた。薄暗いので、メガネをかけてよく見たら、なんとオイルの警告ランプだった。

そういえば排気ガスが妙に焦げ臭かった。オイルが漏れているのか不足しているのか。

こんな人里離れたところで、もし、エンコしたらどうしようもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おくやま荘に舞い戻ってオイルの警告ランプが点滅していて焦げ臭いよとおやじさんに伝えると、「そういえば、三日前に使ったお客さんもそんなことを言ってたなあ。」まあ、大丈夫だろうけど、俺の軽トラに乗っていけよ。離れの一番奥に駐めてある。これがそのキーだとキーを持ってきてくれた。
その頃になると、離れや林の木々に夕闇が降りかけていた。わいは少々焦りながら、軽
トラをバックさせようとしたが、チェンジレバーのリバースの位置がどこなのか分からない。黒いグリップには阿弥陀くじのように白い折れ線がいくつも書き込まれていたが、車内は暗いし掠れてしまって判読できない。しかたがないので、この辺と思われる位置にギアを入れてエンジンを噴かすと、急発進して建物に衝突しそうになった。
これはヤバイ。わいは食堂に取って返して、「おやじさん、リバースの位置がわからないからバックできないよ。」と伝えると、ああ、あの軽トラはギアが浅いし分かりづらいよな。

ハハハハ、ハ だってさ。ほんと、のんきなのんきなおやじさんでした。






















 

 

274話 供養塔からの使者

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいは夢うつつの中でアラームの単調なメロディーを聴いていた。その日は半年ぶりに荒磯に立った肉体疲労で泥のように眠っていたが、その昏睡を妨げるかのようにアラームは鳴り続けていた。ともかく、アラームを停めなくてはならない。わいは夢遊病者のように枕元の携帯を手探りで探した。
その時、わいははっと気付いた。わいが寝込んでいたのは光明丸ではなく、今回からお世話になる薄木荘という釣り宿だったのだ。また、アラームは勝手に鳴っていたのではなくて、昨夜、床に就く前、午前0時にセットしていたのだ。

前日の釣りは、昨年11月以来の釣りだったので、期待と喜びに満ち溢れていた。しかし、いざふたを開けてみたら現実はシビア―だった。南西の風が滅法強く、海は大荒れに荒れて目的の磯には近づくことすら出来なかった。
やむなく、島の反対側の磯に入ったが、そこで掛かって来たのは外道のダツとイスズミばかり、メジナには一匹も出会うことができず、ダツとイスズミの猛攻に遭ってへとへとになって、とうとう匙を投げてしまった。せめてもの救いは、荒磯で竿が振れたことだったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなわけで、初日はギブアップして翌日未明の釣りに賭けることにした。

改めてスマホで気象情報をチェックしてみると、明日未明には風が落ちそうである。

折から、南方海上を通過した台風の時化残りも収まってきたし、翌日の満潮は午前3時、潮廻りは大潮と絶好の条件が出揃ってきた。
というわけで、午前0時にアラームに叩き起こされ、ボーッとして眠気の残る頭と疲れた身体に鞭打って遮二無二飛び起きると、わいは機械的に顔を洗って釣り装束に着替え終えた。
表に出ると、釣り宿を囲む周囲の林や木立は黒々と静まり返っていた。夜空に向かってそそり立つ木立の梢はほとんど揺れていない。やっと強風が収まってきたのだ。
帽子のヘッドランプに左手をかざし、赤外線センサーの感知で点灯すると、一道の光が前方を切り開いた。わいは30分ほどかけて出発の準備を整えると、早速、軽ワゴンのエンジンを始動させた。
時計の針は午前1時を指していた。これから向かう伊豆岬のイズシタの磯は、釣り宿から見て正反対の北部に位置する。一周道路をくねくねと曲がりくねって30分ほどかかる行程である。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

                            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊豆岬は数万年前の大噴火で形成された全長2キロほどの大きな岬で、牛の舌のようにベロ~ンと幅広く海にせり出している。イズシタはその西岸の中ほどにあって、高さ10メートルほどの崖下にある。風やうねりに左右されやすい場所なので、余程条件が整わないと入れないが、その夜は入れそうであった。

 

わいはエンジンを噴かして真夜中の一周道路に走り出したが、曲がりくねった山腹の道路を上ったり下ったりして走り続けて15キロほど、その間、1台の対向車にも出会うことはなかった。

また、一周道路は都道なので、森の中でも山腹でも、人家があろうがなかろうが、背の高い街路灯が点々と白く灯っているが、人家があってもひっそりと静まり返って人の気配など全くしない。道路には人っ子一人、猫の子一匹歩いていないのだ。ただただ軽ワゴンのエンジン音だけが高く鳴り響いていた。まるで、冥界に入り込んで行くような寂寥感と錯覚にとらわれてしまうのだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軽ワゴンを走らせて30分、目指すイズシタの崖の上に到着した。

崖下の海は漆黒の闇に包まれて荒磯を噛む波音だけが聞こえてくる。たぶん竿は出せるだろうが予断は許さない。崖の上から目指す崖下の磯を見下ろして様子をみることにした。直線距離で40mほど離れた眼下のイズシタの岩場をヘッドランプで照射してみると、な、な、なんと、目指す岩場には釣り人が入っていたのだ。
ヘッドランプで照らされたイズシタの岩場から、わいを目掛けて青白い光が照射されて来たのだから、びっくりした。時刻は深夜1時過ぎ、丑三つ時のこの時刻に、まさか魚を釣っている物好きか狂人がおるとは信じられないことだった。わいは呆れかえるとともにがっかりしたが、今更、イズシタを諦めるわけにはいかない。
ともかくこの崖を降り、その釣り人に会って、その近くで竿を出していいか了解をとるしか道はない。早速、ヘッドランプの光を頼りに溶岩の崖を降っていくと、中ほどまで降りたところで、ぎょっとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7,8m前方の岩の上から、突然、青白い光がピカリとわいに向けられたのだ。わいは腰を抜かさんばかりに驚いた。一瞬、何事が起ったのかと思ったが、釣り人が崖を上って来たのだろう。しかし、青白い光の向こう側に、釣り人の影が見えないのが不思議だった。

よくよく観察してみると、それは人間ではなかった。野良猫が岩の上からじっとわいを見ていたのだ。ライトだと思ったのは、わいのヘッドランプが野良猫の目に反射して青白く光っていたのだ。青白い光は暫くわいを見ていたが、まもなくどこかに立ち去って行った。


釣り人ではなく野良猫だったので、わいは安堵してイズシタの磯に入ることができた。
30分ほどかけて夜釣りの支度が整のえ終えたので、まっ暗な海に仕掛けを投げ込み赤い電気ウキを潮に乗せて流していたが、ふと背後を振り返ってみると、なんと、崖の上の草むらから青白い光がまたわいを見ていたのだ。野良猫がわいを凝視していたのだ。まだいたのかと思った途端、背筋に冷たいものが走った。

 

そういえば、崖上の岬の道を500mほど下った岬先端の草むらに、いつ建てられたか分からない風化して黒ずんだ石塔があった。石塔に刻まれた消えかけた文字を丹念に読んで行くと、溺死者供養塔と刻んであった。

人里離れた荒涼とした荒磯に、野良猫がただ一匹で棲みつけるわけがない。この野良猫、供養塔からの使者だとすれば、なんとなく腑に落ちる。



















 

273話 とうとうその日が来てしまった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

漸く、コロナの感染拡大も下火になって、ロックダウンに匹敵する三宅島の防疫体制も緩和されてきた。三宅島周辺の海もなんとなく落ち着きを見せてきた。
わいが4月初頭に予定していた半年ぶりの釣行計画は、ムツミがノラ猫に噛まれるアクシデントでご破算になってしまったが、あれから1か月半が経過している。そろそろ、ムツミのケガも治りかけているに違いない。現時点ではすべての問題が解決してノープロブレムに近づいている。条件は整った。タイミングを見計らってわいはムツミにメールを送った。
「ムツミさん、木々の緑が濃くなってきたね。あっという間に5月になってしまった。ノラ猫に噛まれたケガの方は快方に向かっていると思いますが、後遺症も残らず、命も落とさず、大事に至らずによかったね。
ところで、そちらの都合が良かったら、来週あたり、前回ご破算になった釣りに行きたいのだけれど、そちらの都合はいかがですか。勿論、面倒な手間が掛からないよう、食事なしの素泊まりで結構です。」
と快よい返事が返って来るのを期待していた。

ところが、午後になって返って来た返信は、わいにとって脳天に鉄槌を食らわされたような惨い返事だった。たちまちわいは奈落の底に突き落とされてしまった。









                                           








 

 

 

 

 

「先月の初め、ノラ猫に噛まれた右手はまだ腫れが引かず痛みます。自由に動かすことも出来ません。運転も出来ないし家事もまともにできません。完治するかどうかも分かりません。この先釣り宿を再開できるかどうかも分かりません。その上、認知症のばあさんの介護に専念しなければならないので、この際、釣り宿は畳むことにしました。
数人残っていた白浪会の常連さんも、ほかの釣り宿に移ってもらいました。残っているのはナカムラさんだけです。ナカムラさんもどこかに移ってもらえませんか。」

 

えっ、えっ、なんだって、釣り宿をやめるんだって・・・ それは青天の霹靂、寝耳に水ではないか。死刑宣告にも等しい通告にわいは愕然としてしまった。

しかし、いずれその日が来ることは分っていた。だが、こんなにも早く、足元から鳥が飛び立つように訪れるとは思わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                               

 

 


 

 

 

 

 

 


遡ること2年前、キンメ漁に出た船長が船の上で倒れて意識不明で発見された時、即座にムツミは、「じいさんが倒れて死にかけているから、もう釣り宿は畳みます。」と何の躊躇もなく廃業を通告してきたのだ。元々ムツミは釣り宿や民宿には興味も関心もなかったと思う。ただ、親の稼業が漁師と釣り宿だったから、娘としては嫌が応でも手伝わざるを得なかったのだろう。わいの知る限り、ムツミは17、8の高校生の頃から61歳になる今日まで、結婚もせずに身を賭して船長の稼業を支えてきたのだ。ある意味、稼業に縛られてきたので、稼業から解放されたい、自由になりたいという願望を以前から持っていたのだ。


だからと言って、ムツミが稼業の犠牲になっていたかというとそうでもない。末娘のムツ
ミは気が強くて自我が強く、そのうえ内弁慶だったから、都会で就職したり結婚したりするには不向きだったかもしれない。また、ムツミに稼業を手伝わせ、手足のように使っていた船長も、嫁にも行かず家も出ないムツミのことをひどく心配していた。
民宿が新築されてまもない頃、船長と茶を飲みながら、「雄山の噴火や有毒ガスも収まってきたし、立派な釣り宿も出来たので、もう、何の悩みも心配もないねえ。」と何気なく言ったら、船長は暫く黙りこくっていたが、
「ナカムラッ、50を過ぎて、嫁にもいかねぇ娘がいて、しんぺえねえわけねえだろう。」と怒気を含んで言い返してきた。

釣り宿を新築したのも、おれが死んでからムツミが困らねえようにしておきたかったんだよぉと述懐したのだ。ムツミはまさに「親の心、子知らず。」を地で行っていたのだ。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2年前、船長が倒れると同時に、ムツミは光明丸の廃業を宣言し、釣り宿を畳むと言い出した。その時、わいは文句ひとつ言えずに諦めたが、船長が永い間世話になった釣りクラブ、白浪会の古参メンバーは、続けてくれとムツミに強く迫ったと言う。

白浪会は三宅島が賑わった40~50年前、メンバー100人を擁する釣りクラブであった。大挙して三宅島に来島しては光明丸に宿泊し、船長の瀬渡しで御蔵島に渡っていた。光明丸にとっては大のお得意様であったから、ムツミもそんな恩義を無視できず、古参の説得を拒めなかったのだろう。説得を聞き入れて、「釣り宿を続けることにしました。」と翻意してくれたけれど、本心は、その時きっぱりと辞めたかったに違いない。


話が逸れてしまったが、いくら稼業から解放されたくても、船長の目の黒いうち、またおばさんの元気だった頃には、そんな我が儘は許されなかった。不運にも船長が船上で倒れ、おばさんが認知症になってから、初めてその機会が到来したのだ。

釣り宿にしろ民宿にしろ漁船にしろ、ムツミにとっては無用の長物だから、残す必要も護っていく理由もなかったのだ。








                    








 

 

 

 

 

余談ではあるが、かつて船長は船も持たない貧しい漁師の家に生まれ、中学を出るとすぐに漁師になって家計を助け、裸一貫、徒手空拳、自らの才覚ひとつで釣り宿や渡船、瀬渡しを立ち上げ、三宅島の成功した漁師として島一番の事業を築き上げて来た。ここに至るまでの船長の苦節を聞き知る者にとっては、いずれ忘れ去られるにしても、その足跡をひとつでも残しておいて欲しかったのだ。


10年ほど前、船長とおばさん、わいの三人で世間話をしていた時のことだった。

おばさんの話では、船長(忍三さん)が22才のとき下田の須崎漁港を訪れて、居合わせたおばさんと知り合って意気投合したそうだ。海女をしていたやり手でヤンキーなおばさんはそのまま三宅島にくっついて来て船長の嫁になったそうだが、そのおばさん曰く、「ジジイは腕のいい漁師だと聞いていたのによぉ、おれが三宅島に嫁に来た時は、一銭の貯金もなかったんだよぉ。びっくりしたよぉ。」
あとで分かったことだけど、忍三さんの姉さんはその頃結核を患っていて、忍三さんは稼いだ金をぜんぶはたいて高い薬を買っていたんだとよぉ。病気の姉さんは20代半ばで死んじまったけどよぉ。それから先はジジイと二人、死に物狂いで働いて働いて働いて、テングサ漁でうんと稼いで、60年ぐらい前、やっと自前の船を持てるようになったんだよぉ。そんときゃあ嬉しかったよぉ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                      

 

 

 

 

 

 

 

 


船長とおばさんが幾多の苦労を積み重ねて築き上げた釣り宿なのだ。それを知っていれば、残して欲しい続けて欲しいと思うのは自然なことだろう。






                  







先月、ムツミから釣り宿光明丸の閉鎖を告げられたその翌週、わいは三宅島の北の港伊ケ谷港の岸壁に降り立った。連絡船橘丸からここ伊ケ谷港で下船した船客はわずかに40人ほど、その中で釣り人らしい下船客はわいのほかにたったの3人。下船客も釣り客も少なすぎる。これでは釣り宿も民宿も東海汽船もやっていくのは困難だろう。

 

岸壁の根元にある防波堤に護られた駐車場には10数台の車が停車していた。

今回からお世話になる釣り宿の車はどこに来ているのだろうとわいが迷っていると、黒っぽい軽ワゴンの傍らに立っていた中年男から、「光明丸さんから移って来るナカムラさんですか。」と声を掛けられた。
ご主人ですか。よろしくお願いしますと挨拶を交わして、これからお世話になる釣り宿の話などしながら乗っていると、20分ほどでその釣り宿に到着した。

車はこれを使ってください。溶かしたオキアミはここですとご主人から説明を受けて、

ではこれから、光明丸の物置きに置いてある救命胴衣や磯足袋などを引き取ってきますと軽ワゴンに乗り込むと、「こんなに朝早くて大丈夫ですか。」とご主人が心配してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光明丸の庭先に軽ワゴンを乗り入れると、ムツミが玄関扉を開けて出てきてくれた。

宿の周囲や庭先を見回すと、いつもあちこちに雑然と置かれていたロープや鉄筋オモリなどの漁師道具や釣り客のクーラーや道具類がきれいさっぱりなくなっていた。漁師の家、釣り宿の面影が完全になくなって普通の民家になり果てていた。物置きに入ると、かつては足の踏み場もないほど乱雑に置いてあった釣り道具も数えるほどになっていた。釣り宿の面影はなくなってしまったねとわいが呟くと、ムツミは、

「ここに残っている釣り道具はもう釣りに来られなくなった人とか、亡くなった人の道具だから全部捨てて処分するしかないんだよ。」

更に、庭先に駐めてあった大型ワンボックスカーを指さして、「これだってもう使わないから処分するよぉ。」とドライに割り切っていた。
そして、「ナカムラさん、宿を畳むなんて我儘言ってごめんね。今度行った釣り宿で精一杯磯釣りを楽しんでね。」とムツミは最後にエールを送ってくれた。


ありがとう。これで最後だね。最後に、船長の仏壇に線香を上げさせてくれと言って、仏壇に手を合わせ、船長、45年もの間、ほんとうにお世話になりました。ありがとう船長、ありがとうムツミさんと言って光明丸に別れを告げた朝であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

272話 三宅島を血に染めたムツミさんの奮闘記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日は穏やかに晴れ上がってのどかな春の日差しが心地よかった。わいは川面におどる銀箔の煌めきに目を奪われながら、小畔川の堤防天端(てんば)の道をのんびりと下っていた。堤防の斜面を金色に染め上げていた菜の花はすでに盛りを過ぎて、ほとんどの枝には細いサヤ状の実が無数に結ばれていた。
3キロほど歩いて閉店した古い八百屋の前まで来ると、道路向かいの畑地の隅に、白いハナミズキの花が今を盛りと咲き誇っていた。その先を曲がると、コーヒータイムに訪れるカフェコモドの店である。
カフェコモドは民家の一室を改造した喫茶店で、お客さんが4人も入ればすぐ一杯になってしまうほど小さい店で、午前11時~午後4時までが営業時間で、火水土日の週4日開店する趣味と道楽の店である。
マスターは元々勤め人で、会社を定年になった5年ほど前に開店したそうで、定年してからバリスタの講習を受けたり、カフェ経営についても学んだりして開店に至ったようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     

 

 

 

 

 

 

 

 


わいのコーヒータイムは火曜と土曜の週2回がルーティンで、いつも11時~12時頃まで居座っている。居座ると言っても営業妨害ではなく、お客さんがほとんど来ないので、マスターとわいで話しに花を咲かせているのだ。
その日もいつものように、おはようございますと言いながら、わいの指定席である二人掛けテーブルに着席すると、マスターがお冷を運んで来ながら、「ナカムラさん、行かなくて良かったですね。」と話し掛けてきた。
何のことかと面食らっていると、「昨日の金曜日から二日間、三宅島に行く予定だったですよね。」ネットで調べてみたら、昨日は朝から大雨と強風でしたね。しかも、今朝の連絡船は三宅島には入港したものの、御蔵島や八丈島が大しけなので朝の6時に、トンボ返りして東京に引き返したみたいですよ。
えーっ、そんなことぜんぜん知らなかったよ。釣り師でもないのに、よくまあ調べてくれたね。
4日前、もし、むつみが不慮の事故に遭わなかったら、もし、来島NGの電話がなかったら、わいは悪天候でも目をつぶって渡島していたはずだ。
もし渡島していたら、昨日も今日もまったく釣りにならなかった。しかも、その日の午後に乗船するはずだった上り連絡船はすでに出港しているので、もう一泊せざるを得ないのだ。
うわーぁ、運が良かったなー。あはや、5万円をドブに捨てるところだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【昨年の12月以降、コロナの感染と急拡大を受けて休止していた三宅村のデイサービスが4月から再開することになった。4月以降は厳しい規制が緩和されるものと考えて、光明丸に宿泊予約の電話を入れると、

「都会からの来島者と接触した場合、その後3日間はデイサービスが利用出来なくなる。」という新たな規制が設けられ、それがばあさんに引っかかるから、わるいけどうちには泊められないよと断られてしまった。がっかりしていると、気の毒に思ったムツミからメールが入り、下記のような抜け道を考え出してくれた。】

 


    ※以下の短文はほぼわいとムツミさんのメールのやり取りです


 

ばあさんのデイサービスは火曜日・水曜日・金曜日ですので、金曜日の一泊だけならどうにかなります。4月半ばにじいさんの三回忌をします。他の宿だったらいつでも泊まれますよ。阿古の海楽なら餌も氷も常備してあって釣り用の貸し車もあります。
                                               ムツミ


 

 

 

                   

 

 

 

 

抜け道を考え出してくれてありがとう。また、マコおばさんのデイサービスが再開されて良かったね。
船長の三回忌ですか。船長が沖の船上で倒れたのが2年前、そして5月4日に死去したね。その日は絶対に忘れないよ。船長にはいろいろ面倒をかけたしお世話になった。 八十才過ぎても少年のようにいたずら好きで、まさにガキ大将だったが、おれはそんな船長が大好きで、いまだに船長の子分だと思っている。

 

船長からよく自宅に電話が掛かって来たけれど、電話をとった妻が船長と話した後おれに、「船長さんが、ナカムラ君におれの船に乗って欲しい。」と言ってたよと聞かされたが、そういえば、2000年の噴火以降、一度も船長の船には乗っていなかった。
その訳は、乗り合いだった瀬渡し船がつり客の激減で、一船5万円の仕立て船になってしまった。一人で5万円の出費は痛いし、渡礁するには二人以上でなければ荷物の受け渡しができないから、一人では無理なんだよね。船長もそれを承知しているから、直接おれに言わなかったんだろうね。
でも、こんなに早く亡くなってしまうなら、なんとかして船長の船で御蔵島の磯に渡礁しておけば良かった。船長のことを思い出すたびにこみ上げてくるよ。


追伸 提案していただいた来週の金曜日については、雨風次第なので、改めて連絡します。                                                                               
                                              一竿子

                                         

 

 

 

 

 

 

 

                                               


 


 

 

 

 

 

 

さて、先日のムツミさんの提案に甘えて、今週金曜日の渡島を決行します。終日雨だった天気予報も曇りになってきたし、風も比較的弱そうなので大きく天候が崩れない限り渡島します。また、手が掛からないよう夕食はつちや商店の弁当で済ませます。
                                            一竿子                                          

 

 

 晩御飯は明日葉うどんでよろしいですか? それとも無しでもよいのですか?                          

                                             ムツミ

                                               

サンキュー、サンキュー ♪♪
ムツミさんが作ってくれるならそれが一番なんだよ。冷たい弁当より、あしたばの天ぷらうどんなら温かいからね。
お礼に、にゃんこにもイスズミをいっぱい釣ってきてやるよ。         

                                             一竿子
                                                

 

 

 

 

                    

 

 

 

 

 

 

4月3日(月) 

この日、わいが外出から帰宅すると、携帯にムツミから不在着信が何本も入っていた。

何かあったらしいな。マコおばさんが亡くなったのかもしれない。おばさんは当年91才だし、他界した船長と同い年だからいつ逝ってもおかしくない。


すぐにムツミに電話をすると、

「昨日、坪田漁港で捕まえたノラ猫をケージに入れてエサを与え、今朝、去勢するために軽トラで運んでいたら、ケージの扉が開いて逃げ出してしまった。必死に追いかけて捕まえたら、右手をガブリとやられてしまった。

それでも絶対放さず、5分ぐらい噛まれたままだったけれど、ケージに収容して右手を見たら、右手は血だらけ、噛まれた箇所の骨や白い肉が見えるほどだった。

すぐに激痛が走って腫れあがり、グローブみたいにパンパンになってしまいました。

これでは物が掴めないし運転も出来ません。今週の来島は中止してください。」という悲痛な電話だった。






                                                







ムツミの負傷から3週間ほどたったので、もう治癒したかなとメールしたら・・・ 】

 

 

ところで、ノラねこの抵抗と逆襲を素手で受け止めた傷は治りましたか。稀に、ノラねこの唾液が傷口から侵入し、ノラねこのDNAが細胞に作用して、トカゲとかネズミを見ると突然、食べたくなったりするかもしれないから、要注意だよ。

もう、船長の三回忌は無事に済ませたのかな。さて、4月も残りわずかとなってきたので、月末の28日金曜日と土曜日に行きたいのだけれど、そちらの都合はいかがですか。もし、よかったら無条件で渡島します。
                                              一竿子                                                 

 

 

おはようございます。野良子に噛まれた右手は思ったより酷くて、まだ物が掴めない状態が続いています。三回忌に合わせて来島した姉が、ばあさんの世話をしてくれています。

私は元々左利きだったので、右手が使えなくても自分の世話は自分でできるのでホットしています。今現在、少しづつですが中指まで動く様になりました。

そういう訳で、4月中の来島は無理です。
                                               ムツミ

                                      
 

 

 

 

 

 

 

 

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

相当深く噛まれたんだね。骨まで達しなくて良かったよ。
たまたま、昨日のwebニュースに、フロリダの男性がワニに片足を食いちぎられたって話が載っていたけれど、野生動物の凶暴さは半端じゃないからね。

数年前、フロリダのディズニーランドでは、園内のため池に近づいた少年がワニに引きずり込まれて食われてしまったという恐ろしい事故があったね。

 余計なお世話だけれど、ノラねこを捕獲する時、怪我をしないようにプロテクターを買っておいたよ。なお、大ケガから回復したらメールで報せてくれませんか。
                                              一竿子                                                

 

 

 

逃したくない一心で、噛まれながらも絶対に離さなかった。薄手の手袋に空気を入れた時のようにパンパンに腫れあがってしまいました。三日間、抗生剤入り点滴通いと14日間、抗生剤を飲んでいました。

三回忌で来島した姉達は1番酷い状態の手を見ているので、のらねこのために手を切断するか、命まで落しかねなかったと散々説教されました。それ程酷いケガだったと認識しました。今はやっと2本の指の関節のシワが見える様になりました。今後は野良子との関わりは持たなくなると思います。
                                               ムツミ                                                  


 

 

   今回はさすがに懲りたみたいだね。                       一竿子



 

 

 

猫は大好きですが、流石に今回の大怪我と完治まで先の見えない生活が不安になりました。姉が居てくれる幸せに自分勝手の生活を改めないといけないと思いました。
                                               ムツミ                                                  


 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

271話 浦島太郎よどこへ行く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2月も残すところあと三日となったその晩、わいは背中にとり憑いた疫病神を振り払おうと、やけのやんぱち日焼けのなすびで、三宅島行きの夜行船に乗り込んだ。

ここ暫く、とり憑いていた疫病神のせいで、わいは2カ月近くも腰痛に悩まされてきたが、いまだ回復には至っていない。腰の違和感や突然襲ってくる電撃のビリビリ感には恐怖すら覚えていた。だから、三宅島に渡島してもふつうに荒磯に立てるかどうか危ぶまれたが、腰痛ごときに怯えていたら、さっさと磯釣りなど辞めてしまった方がいいだろう。
1年ぶりとなる光明丸での投宿も、食事なしの素泊まりならいいとムツミの温情サインが示されたから、この機会を逃すわけにはいかない。
新型コロナや船長の突然の他界と、この3年余り、三宅島への渡島には次から次へと災難や不幸が降りかかってきたから、今回のこのチャンスを逃せば、次のチャンスはいつ巡って来るか分からない。という訳で、今回はリスクを覚悟で見切り発車することにしたのだ。

翌朝未明4:50 連絡船さるびあ丸は三宅島北部の伊ケ谷港に入港接岸した。

下船口に集合した下船客はわずか40人ほど、まもなく岸壁からタラップが掛かると5分とたたない内にすべての下船が完了した。あとは船の甲板で行われている荷役作業の終了を待つだけである。荷役作業といってもコンテナを4個か5個積み下ろせば終わる作業だ。それが済めば次の寄港地に向けて出港である。接岸から出港までの所要時間はたったの10分ほどである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


連絡船のタラップを降りて岸壁に降り立ってみると、予期に反して寒くはなかった。昨日まで吹き荒れていた北西風も、今朝は風が落ちて波もそれほど高くはない。この分なら今朝の連絡船は、欠航で名高い次の寄港地・御蔵島にも就航できるかもしれない。
タラップを降りて薄暗い岸壁を歩き出したわいは、この程度の風なら、タフな伊豆岬の崖下でも竿が出せるかもしれないと考えていた。もし、伊豆岬で竿が振れたら、それは僥倖であり望外の喜びである。と考えながら斜め後ろを振り返ると、無数の電飾や照明で白銀に輝く連絡船が、まるで不夜城のように明々と夜空を染めていた。連絡船の向こう側は墨を流したような深い闇に包まれていて、伊豆岬の姿は白銀の輝きに遮られて影も形も見えなかった。


岸壁を300mほど歩き、カギ型に折れて防波堤の内側を100mほど進むと、漁船の船溜まりがあってその側に駐車場がある。そこに迎えの車が20台ほど駐まっていた。

背の高い街灯がポツンと灯っているその下で、迎えの車を探したが見当たらなかった。

目を凝らしてよく見ると、わいの迎えの車は駐車場の外れにひっそりと停まっていた。

ムツミは車の外に出て、うす闇の中で手を振っていた。
ムツミさん、朝早くからありがとう。とわいが初っ端に礼を言うと、ムツミはそれには答えず、軽ワゴンのハッチを開けて、早く荷物を載せろとばかりに手招きをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坪田集落から伊ケ谷港までの15キロほどの道のりは、雄山の山腹を縫うように上り下りした道路をくねくねと走って30分から40分はかかる、だからムツミは今朝4時前に起きてわい一人のために来てくれたのだ。
船長が元気だった頃は、ムツミは午前1時か2時ごろに起きて、船長の弁当を作り、船長に朝飯を食わしてから漁に送り出していた。送り出したあと二度寝するから、寝坊することがよくあった。その寝坊で、迎えが1時間近く遅れたこともあった。
ありがたいことに、今回は早めに来てくれたようだ。認知症の母親が目を覚まして、ムツミの姿が見えないと家中探し回るから、早く帰ってやらないと心配なんだよぉと精一杯スピードを出すが、沿道にはほとんど人家もなく対向車も走って来ないので、まるでプライベートロードを走るようなものだ。だからその間、ニャンコやおばさんの話、または昔話に盛り上がるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今回は、たまたま2週間ほど前、さいたま市で首や手足をバラバラにされたノラ猫の死骸が何匹も発見されたというニュースが流れたあとだったので、猫好きのムツミは黙ってはいられない。
「悪さもしないでおとなしく生きているノラ猫を、虐待して殺すなんて絶対ゆるせねえ。」

その上「首や手足をバラバラにして、わざと公園や路上に捨てたらしいから、警察は犯人を絶対逮捕して厳罰にして欲しいよー。」と憤慨していた。
そして、「ノラ猫や弱いものを苛めたり殺したりする奴は、絶対、エスカレートして人間を殺したりするようになるんだよー。」とも言っていたが、それから1週間もたたぬうちに、ムツミの言ったとおりの事件が起きてしまったので唖然としてしまった。
それは三宅島から戻って数日後のことである。刃物を持った男が、川口市の中学校の男性教諭を殺そうとしたというセンセーショナルなニュースがテレビに流れた。

まもなく犯人の男子高校生が逮捕されたが、その高校生は誰でもいいから人を殺したかったと自供したという。しかも、ノラ猫を殺してバラバラにしたのも自分だと自供したそうだから、ムツミの予言は見事に的中したのだ。
ムツミの動物好きは天下一品である。かつては30匹近いノラ猫の面倒を見ていた。最近は少し減って10数匹になってしまったが、そんなムツミにとって、この事件は耐えがたいほど残酷な事件であったに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時の流れは速いもので、思い出は瞬く間に消し去られていく。
軽ワゴンが光明丸に到着すると、わいはすぐに磯釣り仕度に着替えて、物置きに置いてあった磯足袋に履きかえ、救命胴衣などを軽トラックに積み込んだ。コマセのオキアミや配合エサをバッカンに納めて一段落したので、庭先や周囲を見まわしてみると、1年前の景色と景色が一変して寒々としていた。

食堂でおにぎりを食べながらムツミに、物置きや庭先にあった釣り道具がきれいさっぱり無くなっているねえ。釣り宿の雰囲気や思い出がすっかり無くなってしまったようだねと久しぶりに見た感想を述べると、
「あたりめえだよぉ。じいさんが死んで、漁師も釣り宿もみんな止めちまったんだから。

じいさんの使っていた漁師道具はみんな漁師仲間に上げちまったし、いらねえものは全部捨てて処分しちまったんだよぉ。」

まだ、お客さんの釣り道具がいくらか残っているけど、その処分も時間の問題かもしれねえよぉとムツミはドライに割り切っていた。
元々、ムツミは磯釣りとか遊漁船にはなんの興味も持っていなかった。船長が漁師で、家業が釣り宿であったから、黙ってそれを手伝っていたに過ぎないのだ。

わいのように、感傷的に思い出を引き摺っているより、ムツミのようにさっさと割り切っってしまった方がいいのかもしれない。


食堂でお茶を飲みほしたわいは、「ムツミさん、じゃあ、行ってくるね。」と軽トラに乗り込んでエンジンを噴かした。この軽トラは船長が漁に出る時、いつも乗っていた車である。

坪田漁港に係留した光明丸との往復にいつも使っていた船長専用の車で、ひとつだけ残された形見のようなものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日、風は若干あったが天気は快晴で、南寄りの風だったので伊豆岬の崖下にも入れそうであった。わいは迷わず伊豆岬に向かって直行した。

一周道路を30分ほど走って、伊豆岬入り口の標識のある三叉路から伊豆岬一周道路に入り、崖の上を2キロほど走ると、眼下の崖下に伊豆岬の荒磯が広がっている。

路肩に車を止めて、眼下の荒磯を眺め渡すと、打ち寄せるうねりや波が激しい波しぶきを上げていた。これは入れるかどうか微妙である。わいは手ぶらで崖下まで降りて、波やうねりの状態を観察し、その上で入磯の可否を判断することにした。手ぶらだったら、突然の大波にも逃げることができる。もはや船長はいないのだから、誰も助けにきてはくれないのだ。
というわけで、崖下の荒磯まで降りてじっと観察していると、間歇的に大きなうねりが荒磯を襲っている。もし、ここで釣るとしたら、波しぶきを被るか、うねりの直撃を受ける覚悟で入るしかない。場合によってはバッカンや付け餌が流されてしまうだろう。
うねりが収まってくれと祈りながら、30分ほど様子を見ていたが、やはり、リスクが高そうなので断念することにした。その代わりに、50mほど離れた穏やかな岩場で釣ることにした。その磯は波やうねりのリスクは小さいものの、引き換えに、まったく期待できない岩場なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで15分ほどコマセを打って、いよいよ釣り始めると、すぐにアタリがあって小気味よく竿先が絞られていく。クンクン首を振って激しく引き込んでいくからイスズミである。30センチ前後のイスズミが次々に掛かって来た。光明丸に持ち帰ればムツミが大喜びでノラ猫の刺身にするだろう。また、内臓を取り除いて血抜きしておけば、煮ても焼いてもおいしく食えるという話だ。多くの釣り人はイスズミを外道と呼んでばかにするが、島の人はむしろメジナより珍重している。
イスズミ釣りに疲れたわいが、小休止してペットボトルの茶を飲みながらふと斜め後ろを振り返ると、50mほど離れた朝一番に偵察したリスキーな岩場に、頭からフードを被った黒カッパの釣り人が入っていた。たぶん、この辺の磯に慣れた地元の釣り人だろうと気にも留めずに釣っていると、1時間ほどして背後から呼び声が聞こえたので振り返っ
てみると、10mほど後方の岩場に、さっきの黒カッパが仁王立ちしていた。黒カッパは何か叫んでいたが、風や波音にかき消されてよく聞こえない。わいの方から近づいて、なにか御用ですかと訊いてみると、

「いや~、すみません。」「朝からあっちの磯で波をかぶりながら釣っていたんですが、うねりが大きくなって危険になって来たので、この辺で釣らせてもらってもいいですか。」

それに、「あっちは荒れ過ぎていて、しょっちゅう仕掛けを岩に取られてしまうんですよ。」

とわいの了解を求めてきたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


わいにとってはお安い御用。どうぞどうぞ、遠慮なくどこで釣っても結構ですよ。

だけど、ここではイスズミしか釣れませんよと答えると、
「イスズミでいいんです。」「昨日もあそこでイスズミをたくさん釣って帰りました。この時期はメジナよりイスズミですよ。色々な野菜を入れてイスズミと煮込むんですが、これが格別うまいんですよ。」

たくさん釣った時には、近所のじいさん、ばあさんに分けて上げるんですが、みんな泣いて喜びますよ、と良くしゃべる面白いじいさんだったので、この近くにお住まいなんですかと訊いてみると、1キロほど離れた伊豆岬東側集落の住人で、ひとり暮らしの老人らしい。
じいさんと話していたら昼近くになったので、昼めしにしようとおにぎりとウインナー、それにペットボトルを取り出して、じいさんに、おにぎりはいかがですかと差し出すと、いやいや、私も弁当を持ってきていますので結構です。ご自分で食べてくださいと恐縮していた。
食べ終わってまた釣り始めると、20センチから30センチのイスズミが次から次へと掛かって来た。黒カッパのじいさんは遠投しているが全然釣れない。わいの方を見て、「また釣れたんですか。よく釣れますね。」などと言っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのうち、わいの竿に大型のイスズミが掛かって竿が満月に絞られていると、それを見たじいさんはあわてて飛んで来ると、わいの玉網を使って取り込みを手伝ってくれた。

わいが、そのイスズミの針を外そうとしていると、じいさんが覗き込んで「ええっ、そんな小さい針で釣っていたんですか。」とびっくり仰天しているのだ。
わいはそうですよと言って、じいさんの仕掛けを見せてもらったが、まるで、ヒラマサ釣りでもするような太くて大きい針を使っていた。竿はイシダイ竿で、それにこぶし大の大きなウキを付け、思いっきり遠くに飛ばす大雑把な釣りをしていたのだ。むしろこっちの方がびっくりした。

暫くすると、じいさんもナップザックから弁当を取り出して昼飯の仕度を始めた。最後に缶コーヒーを取り出すと、わいに、どうぞどうぞと持ってきてくれたが、わいが遠慮していると、2本持ってきたので遠慮なくどうぞとすすめてくれたので、それならいただきますと頂戴した。
コーヒーを飲みながらじいさん曰く、「私は天気が良い日には畑をやるか、釣りをやるかなので、この辺の荒磯には弁当持参でしょっちゅう来てるんですよ。ところで、お宅は東京から来たんですか。」と訊かれたので、
片道10時間ほどかけて、川越というところから来るんですよ。三宅島にはもう45年も通っていますと答えると、「そんなに遠くから来てるんですか。それは大変ですね。」「それなら、三宅村の村営住宅はガラ空きに空いてますから、移住して来たらいかがですか。いつでも釣りが出来ますよ。」と勧められた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


じいさんと話していたら、イスズミを釣るのが面倒臭くになってしまった。それに、不安定な岩場で滑ったり転んだりせぬよう緊張して踏ん張っていたので、またしても腰の疫病神が騒ぎ出してしまった。岩の裂け目や凹凸に立ちつづけた筋肉が、その負担に耐えかねて悲鳴を上げているのだ。
じいさんに、イスズミを釣りすぎて腰が痛くなったので、今日はこれで引き揚げます。

明日は午前3時ごろから、あなたがさっき釣っていた磯で釣るつもりです。よかったら、ご一緒しませんかと誘ったら、

「えーー、午前3時ですか、3時といえばまだ真っ暗ですよ。」「私はふつう10時ごろから釣り始めます。10時ごろに、また一緒に釣りますか。」と逆提案されたので、残念ですが、明日は8時ごろに納竿します。そして、午後の連絡船で帰りますから、一緒に釣ることはできません。

でも、またどこかの磯でお会いするかもしれませんね。どうぞお元気で、またの機会にお会いしましょうと、カッパのじいさんに別れを告げた太郎であった。
























 

 


 

270話 死神が目を覚ましたか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

待ちに待った2月がきた。やっと2月になったのである。三宅島の水温もメジナ釣りの適水温に近づいてきた。荒波の中に寒グレが乱舞してもおかしくない季節になったのだ。


遡ること2カ月前、昨年の12月初め、そろそろ竿納めの釣りに行きたいんだけれど、そちらの都合はいかがですかとメールでムツミに訊いてみると、
「11月の終わりに、村役場から急な通達が出て、その通達に従って、1月末までの2カ月間休業することになりました。コロナの感染者が急に増えたので、東京から来た人と接触すると丸4日間の経過観察となります。また、デイサービスの感染対策も厳しくなって、婆さんのデイサービスも受けられなくなりました。第8波が落ち着いたら来て下さい」とNGメールが返って来た。


さもありなん、三宅島には村営の診療所があるにはあるが、高齢の医師が一人と看護師が一人いるだけというから、もし、コロナが蔓延したら手の施しようがない。
というわけで、村役場はコロナ第8波の流行に戦々恐々として、島内の民宿や釣り宿に対して、来島者は基本的に受け入れるなというお触れを出した。

違反者には、公共施設への立ち入りを禁止するというペナルティーまで付けていた。









                                     








 

 

 

 

思い起こせば3年前もそうだった。

船長が脊柱管狭窄の手術を受けて退院し、しばらくたった4月のことだった。その1年後に他界してしまった船長だが、その頃はまだ憎まれ口が叩けるほど元気だった。

わいが電話口で、術後の経過はどうですかと尋ねてから、併せて、近日釣行したい旨を伝えると、
「折角手術したけどよぉ、ダメだったみてえだな。足腰の痛みやしびれは全然取れねえし、右腕だってまともに上がんねえよぉ。」と答えてから、おめえ、釣りに来たいってか。
「だめだっ、来るんじゃねえ。」「東京から来る奴はバイキンだらけだから、三宅の年寄りはみんなコロナにかかって死んじまうよぉ。」

村役場もギャーギャーうるせえから、コロナが落ち着くまで、光明丸は当分閉めることにしたよぉといかにも船長らしい言い草だった。


 

とは言え、あれほど凄まじかった新型コロナも、現在は下火になって収束する気配すら見せている。コロナが流行り始めてこの3年、ほとんど釣りらしい釣りは出来なかった。

しかし、状況は好転しつつある。昨年の5月以来、9カ月ぶりに渡島できそうである。
やっと片目は開いたが、両目が開かぬことには埒が明かない。残すところは天候の回復と光明丸の都合次第だ。それさえ適えば、いよいよわいの出番なのだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2月1日、ムツミに問い合わせのメールを送ると、こんな返事が返って来た。
「こんにちは。三宅島にも睡蓮鉢に氷が張りました。

残念な事に母ちゃんのデイサービスは3月いっぱい休止になり、一月は膵臓と尿道感染で抗生剤を飲む騒ぎになりました。村役場もコロナ対策は国と同じですが、介護関係は難しいですね。
多分、ナカムラさんが来島しても、食事無しの素泊まりでお願いすることになりますね。
まだまだ風も強く天気も悪いので、まったりのんびりお待ち下さい。

今、三宅島はキンメも釣れなくなって、マグロが釣れているそうです。時代の流れは速いって感じですね。」


なんだって、食事なしの素泊まりにしてくれって。そんなことならへのカッパだよ。

これで宿の準備は整った。あとは風と天気だ。風の強さと風向き、それに強雨でなければ釣りは出来る。と、安心して床に就くと、好事魔多しとはこのことか。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝、布団から起き上がろうとして、腰に違和感があるのに気が付いた。洗面の後、毎朝1時間のルーティンワーク。ストレッチ体操から始めて、腕立てに背筋など。そして、身支度を整えようとズボンを履こうとしたら、腰が痛くて左足が上がらない。靴下もまともに履けないのだ。これでは釣りどころではない。

でも、2,3日したら治っているだろうと高をくくっていたら、1週間しても10日たっても良くならない。むしろ痛みは増すばかりだ。

 

そして、半月ほどたったある日、わいははっと気づいた。これは、48年前、九州壱岐の瀬渡しで、雨の夜中に渡礁した時、岩礁に飛び移った際に痛めた古傷なのだ。あの古傷が目を覚ましてしまったのだ。永い間痛み続けた古傷だったが、20年ほど前、やっと封印できたと思っていたが、まだ、死神はひっついていたのだ。その死神が悪さを始めたのだ。

今さら、騒ぎ立ててもどうにもならない。さわらぬ神に祟りなしというから、ムツミの言うように、まったりのんびりと待つしかなさそうだ。
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

269話 水さんの、またもやドタキャン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

50年ほど前に遡るが、わいが永らく勤めたその会社に入社した時、水さんは15才年長の総務係長だった。
水さんは当初営業で採用されたそうだが、営業ではまったく使い物にならなかったので編集部に回され、そこでも芽が出ず、たまたま欠員がでた総務部に回されたという。
使い物にならないとは、決して不真面目とか怠け者、無能ということではなく、水さんの血筋や育ちが高貴すぎて、地べたを這いずり回る営業や御用聞きのような記者には馴染めず、相容れなかったということなのだ。

水さんの生家は九州は伊万里の名家で、江戸時代から続く一目置かれる医家の次男坊として生まれたという。ところが、同じ町の子供のいない分家から、本家の次男をぜひうちの養子にと懇願されて、水さんは幼少の時、養子に出されたという。その分家の資産家は幼い水さんを宝物のように扱って大事に大事に育てたそうだ。また、水さんの少年時代、その家の使用人とか近所の人は「貞坊ちゃん、貞坊ちゃん、」と呼んで可愛がってくれたそうだ。しかし、水さん自身は養子に出されたことに強い不満を抱いていたようだ。
この辺りは、養子縁組のありふれたパターンであるかもしれない。しかし、人のこころは一筋縄ではいかないものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


水さんは東京の大学に進み、宇宙物理学という高尚な学問を専攻し、東大大学院の修士課程を修めたというから、恐らくアインシュタインのような物理学者に憧れていたのかもしれない。
その頃、東京生活を謳歌していた水さんは、大学院を卒業する時分には、養家の跡継ぎなんて真っ平御免という心境になっていたようだ。家名を守り家業を継ぐなんて、ばかばかしくてやってられないと思う
ようになっていたのだ。

 

その頃、伊万里の田舎では、卒業を機に水さんを帰郷させ、帰郷と同時に、見合い結婚をさせる段取りになっていたらしい。それを知った水さんは、先制パンチを繰り出した。親御さんの猛反対を押し切って、東京で知り合った水商売の年上女と一緒になってしまったのだ。
水さんの反抗に手を焼いて怒り心頭の親たちは、「どこの馬の骨とも分からん女と手を切らない限り、二度と家の敷居は跨がせない。」と宣言して、以後、毎月の仕送りを停めてしまったという。
東大大学院を卒業したと言っても、肩書だけでは飯は食えない。しかも、宇宙物理学なんて学問は、実利や実用性とは無縁なのだ。しばらくは奥さんの稼ぎで紐のような生活をしていたらしいが、ずっと紐生活を続けるわけにはいかないので、就職をしようと応募したのが当社の営業だったというわけだ。









                                          









わいが水さんと親しくなったのは、それから数年後、わいが営業課長になってノルマに追われていた頃だった。ストレスの多い営業部門でイライラしている時、水さんがひょっこり現れては喫茶店に誘ってくれた。まさに地獄に仏であった。
喫茶店で水さんとコーヒーを飲んでいると、なによりほっとするのだ。金にも地位にも無頓着で、話すことと言えば浮世離れした夢のようなことばかりだが、無類のお人好しで人の悪口は言わないし、何よりノー天気で楽天的だった。
まさに、不毛の炎熱砂漠で、喉をうるおす冷たい水と涼しい木陰に出遭ったような安らぎがあった。

水さんを表すこんなエピソードがある。
それから数年たった正月休み明けのある日、営業部隊が出払ってわいが一息ついていた時、水さんから内線電話がかかってきた。
駅前のルノアールで待っているとのお誘いであった。まさか、新年初打ちの麻雀の面子を考えているのではあるまいかと、ルノアールに出向くと、その日はもうひとつおまけがついていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


水さんが胸のポケットから取り出したのは一枚の名刺、「ナカムラくん、これ見てよ。」というのである。見ると、何の変哲もない本人の名刺である。それがどうしたの?と尋ねると、ここ、ここ、と指さすのだ。

よく見ると肩書きに「取締役総務係長」と余分に取締役がついていた。新年早々、水さんの大好きなお遊びに付き合わされたのか。半年ほど前にも、「ナカムラくん、これ見てよ。」があったけれど、その時は、宝くじの当選券と新聞を持ってきて、応接室に呼び入れられた。
まず、新聞の1等1億円の当選番号を見せられて、宝くじの番号と照合すると、完全に一致している。
わいは思わず息を呑んだ。水さんは「ほっほっほっほっ、」と嬉しそうに笑っている。

元々、水さんは競馬馬のように面長で、ちょんまげをつければお殿様に見えるほどの宇宙人である。金の苦労などまったくしらないお殿様に1億円の大金が舞い込むなんてと、つくづく羨ましく思ったものだ。

ただ、手の内を明かせば、この当選券は、別の外れくじの番号を切り取って、精巧に張り合わせた偽造品だった。水さんに担がれたのだ。
そんな過去があったので、また、いたずらだろうと本気にしなかったら、それを察したのか、「ナカムラくん、嘘じゃあないよ。年末に社長室に呼び出されて、おいミズノ、役員に欠員が出たから、とりあえずお前やっとけ。」と言われて名刺を作ったんだよとのたまうのだ。
それにしても「取締役総務係長」なんて前代未聞である。日本中どこを探しても見つからないし、お笑いとしか思えなかった。









                                                









それから数年後、わいが九州で務めを果たして東京に呼び戻された時である。本社営業部に着任すると、早速、水さんからコロラドに呼び出された。その時は水さん、社長に気に入られて総務部長になっていた。二人でコーヒーを飲み始めると、水さんが立ち上がって、店の隅に置いてあったスポニチとか東スポなどのスポーツ新聞をいくつか持ってきた。
「ナカムラくんは九州で、磯釣りに凝ってたみたいだけど、実はぼくも磯釣りは大好きなんだよ。伊万里は目の前が伊万里湾という海だし、ぼくも小さいころはよく釣りに行ったもんだよ。」と言い出して、「ナカムラくんは知らないだろうが、実は、東京でも磯釣りは出来るんだよ。」とスポーツ新聞の釣り案内欄を見せてくれた。

すると、伊豆七島から房総半島、伊豆半島、相模湾と、磯釣りから船づり、河川まで、様々な釣り場や釣り宿、釣果などが溢れるほどの記事になっていた。わいは東京に戻るとき、これで磯釣りも釣り納めか、今生の別れとばかりに諦めていたが、水さんの話を聞いたら、たちまち視界が開けてきた。それはなによりの福音だった。

それから数年間は、年に4~5回は水さんと一緒に伊豆七島のどこかに釣行したような気がする。わいはその頃、年20回ぐらいは釣行しないと気が済まなかったが、水さんは立場上ゴルフや麻雀が断れず、わいの釣行前後の予定や結果報告を喫茶店で聞くのを楽しみにしていた。わいの話を聞くたびに「今度はぼくも行くからね。予定が立ったら教えてよ。」と毎回念を押されていた。
(※水さんとの釣行のひとつ、252話 虹の彼方はなつかしい をご参照ください。)










                                 










それから3年ほど後のある真冬日、わいと水さんは連絡船で神津島に向かっていた。神津島遠征には船中一泊、現地一泊の最低二泊三日の行程が必要だから、たぶん、なにかの祝日と日曜日が繋がった日である。当時はまだ週休2日なんてまだ夢で、土曜日が休みではなかったのだ。
だから、海が大しけ大荒れでも、連絡船が運航している限り、目をつぶって乗船したものである。一度チャンスを逃したら、次のチャンスはいつ来るか分からなかったからだ。
連絡船は大しけの海を乗り越えてなんとか神津島港に接岸した。しかし、岸壁に立っただけで吹き飛ばされそうな猛烈な風と波が襲ってきた。それでも、漁船の船溜まりまで行くと、白いペンキの瀬渡し船が待っていてくれた。

その船の船頭曰く、今日は大しけだから港の近くにしか渡せねえよ。と言って、港から数百メートルの引廻鼻(ヒンマワシバナ)という出っ張りに乗せてくれた。釣り始めて1時間ほどすると、更に風と波が強まって、釣りどころではなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

                                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すると、さっきの瀬渡し船が波間に現れて、「危ねえから撤収するぞーっ、撤収だぞーっ、」と漁船の拡声器で怒鳴るのだ。
慌てて竿を畳み、道具をしまい込み、撤収準備は整ったが、そのわずか15分ほどの間に、海は大荒れの様相を呈していた。まずわいが風浪に翻弄される舳先に飛び乗って、その先端から水さんが差しだす荷物を受け取るのだが、船体に大波が当たると、その衝撃で身体が吹っ飛びそうになる。落水したら、生還できる保証はない。

それでも、やっと船上に荷物を上げ終わり、あとは水さんが飛び移るだけだとほっとしていると、瀬渡し船は風浪に上下左右前後と木の葉のように翻弄されていた。

水さんも飛び移るタイミングがなかなか掴めない。何度も見送り、やり直している内に、とうとう焦って無理矢理飛び移ろうとした。舳先の鉄パイプを掴んだまではよかったが、舳先に掛けた足が滑って宙ぶらりんになってしまった。わいも船頭も助ける手段がまったくない。本人も命がけだから必死だった。2分ほど掛かってやっと舳先に這い上がった。








                                          










帰りの連絡船の船室で、水さん、よかったねえ。命拾いだったねと語り掛けると、

「いやあ、ナカムラくん、あんなこと大したことないよ。」「ぼくは高校の時、体操の選手で鉄棒は得意だったからね。」と蛙の面に小便なのだ。

そればかりか、その後、喫茶店でも会社でも、磯釣りの話になると、決まって、自分は技と体力があったから、危機一髪でも命を落とさず瀬渡し船に這い上がったと、あの一件を手柄話や自慢話として吹聴するのだ。


しかし、神津島の一件以降、「今度は絶対ぼくも行くからね。」と喫茶店で水さんが約束しても、出発当夜になると、必ず、ドタキャンの電話が入るようになった。その10回目ぐらいのドタキャンは、水さん本人からではなく、真打ちの奥さんからだった。
「ナカムラさん、うちの人を危険なところに連れて行かないでっ。もし、死んだらどうしてくれるのよっ。」という物凄い剣幕の電話だった。
たぶん、水さんは神津島の一件を自慢話として奥さんにも聞かせていたのだ。

それを聞いた奥さんは震えあがって、何があっても二度と釣りには行かせるものかと決意していたのだ。あれを聞いたら、誰でもそんな気になるよな。
































 

268話 あんときゃ土砂降り ♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思い起こせば2年前の年の瀬、それも、限りなく大みそかに近づいた頃だった。
そのひと月前の11月の半ば、新型コロナの猛威が一段落しかけた頃だった。それまで厳戒態勢を敷いていた三宅村の緊張も少し緩んだように見えたので、早速、光明丸の船長に電話をしてみた。
「船長、いつまで釣り宿を閉めているんだよぉ。臨時休業してから、そろそろ1年になるんだよ。」と問いかけると、

「おめえにはまだ連絡してなかったけどよぉ、来月から再開しようと思ってたとこだよぉ。」と前向きな答えが返って来た。
「それはよかった。じゃあ、12月になったらまた電話するからね。」と渡島の仕度に取りかかったが、12月に入ると西高東低の気圧配置が急激に強まって、連日のように季節風が吹き荒れ、海は大しけ、連絡船は二日と待たずに欠航を繰り返していた。
しかし、のんきに天候の回復など待ってはいられない。もたもたしていたら年が明けてしまう。こんな時はダメ元の見切り発車しかなさそうだ。

大みそかを目前にして、わいは竹芝桟橋から三宅島行きの夜行船に乗り込んだ。

案の定、竹芝桟橋の出札所では、「本日の連絡船は各島とも条件付き出航となっております。」と何度もアナウンスを繰り返していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

                            

 

 

 

 

 

 


条件付き出航とは、現地の海の荒れ方次第で、入港接岸の可否が判断され、就航するか否かの決定は現地に到着した時点で判断される。まさに出たとこ勝負の丁半博打のようなもので、ダメ元の五分五分勝負だ。

この40年余り、わいもリスキーな渡島を何度となく繰り返してきたが、毎回とは言わないまでも、何回かに一度は必ず欠航の憂き目に遭っていた。と言っても、船が転覆したり溺れ死んだりした訳ではないから、じっと耐えていれば済むことだが、大荒れの海での船中一昼夜は疲れ切ってしまうのだ。
最悪のパターンは、下りの船便が三宅島に寄港出来ず、八丈島から折り返した上りの船便も寄港できない場合である。そうなると、22時間余りを2等船室で過ごすことになる。船体が激しく動揺して転げ回るような狭い船室ではおちおち寝てもいられない。

腹も減ってくるし退屈だし、息抜きをしたくても、甲板への扉は堅く閉ざされていて、まるで、牢獄に閉じ込められているようなものなのだ。

 

ただ、その日の連絡船は幸運にも欠航を免れて、衝立のような岬に護られた伊ケ谷港に入港することになった。伊ケ谷港の岸壁に降り立つと、真っ暗闇の夜陰の中に船の照明だけが明々と輝いて、星ひとつない未明の空には強風が唸りを上げて吹き抜けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

その日の下船客はわずかに30人余り、岸壁を300mほど歩くと、防波堤の陰に小さな駐車場が設けてあり、連絡船を降りた下船客はそれぞれ、そこに駐車していた10台弱の軽自動車か村営バスに吸い込まれてたちまち消えて行った。

振り返ると、今しがた降りたった船のマストや煙突が、防波堤の上端をかすめて静かに動いて行くのが目についたが、その姿もまもなく見えなくなった。連絡船の停泊時間はわずか20分かそこらで、すぐに出港してしまうのだ。

下船客の消えた岸壁には人の気配はなくなってしまったが、迎えの車はまだ来ていない。わいは見捨てられたように外灯の下に佇んでいたが、20分ほどすると、黒々とした島影を背に、木の間隠れに急坂を下る車のヘッドライトが見え隠れした。暫く待っていると、わいの傍らに軽ワゴンが停車して、おはようと言いながらムツミが降りてきた。
わいはすぐ、軽ワゴンに荷物を積み込んで助手席に乗り込むと、船長は、今朝は暗いうちから漁に出ているのとムツミに聞いてみた。
すると、「じいさんはうちで寝てるよぉ。体調がよくねえみてえだし、こんな大しけに漁には出ねえよぉ。」と言うから、半年以上前の2月、脊柱管狭窄の手術をした船長のその後の経過はどうなのと訊いてみると、
「相変わらず腕はぜんぜん上がらねえし、よくねえみてえだよぉ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それよりナカムラさん、聞いてよ、聞いて、おれはこないだジジイに勝ったんだよぉ。と鬼の首を取ったように話し始めた。

いつものように、ジジイが無理なこと言ってきたから、言い合いになったんだけどよぉ、おれが一歩も引かなかったら、ジジイ、何にも言わなくなって黙り込んじゃったんだよぉ。生まれて初めてジジイに勝ったんだよぉと胸を張っているのだ。
船長も、もう齢だからねえ、丸くなったんじゃないかい。それとも、疲れていたのかもしれないよと言ってやると、運転席のムツミは、ジジイに勝った、勝ったと顔を紅潮させていた。
ムツミが船長に逆らったりした時、いつもなら、「おめぇは親に口答えすんのかーっ。」と一喝されて、ムツミがシュンッとなって終わるのだが、今回は一体どうしたことか。

ムツミの言う独裁者の船長が突然、「優しいとうちゃんに変身したのかなあ。」と言ったら、ムツミはもう聞いていなかった。後から気づいたのだが、八十八才の船長には、その時、ムツミと言い争う気力も体力もなくなっていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


軽ワゴンが光明丸に到着すると、ムツミは「じゃあ、ナカムラさん、今日はこの車を使って。」と言いながら車を降りると、「オキアミはクーラーの中にあるよ。」と言って宿に入ってしまった。
時計はすでに6時を回っていたが、空には分厚い雲が垂れこめて、周囲はまだ真っ暗で朝の気配は全くない。宿を囲む木立の梢が激しく揺れ騒いでいるから、荒磯には強風が吹き荒れているかもしれない。わいはキャップランプに点灯し、物置きからバッカンや磯足袋、ライフジャケットを引っ張り出して軽ワゴンに積み込んだ。
出発前におにぎりで腹ごしらえしておこうと食堂に入ると、奥の台所でおばさんがポツンと椅子に座っていた。「おばさん、また、来たよっ、元気だったあ?」と声を掛けると、
「わりゃあ、いつ来たんだよぉ。」「このさぶいのによくきたなあ。なんか釣れたかよぉ。」と聞くので、マグロとクジラしか釣れなかったよと答えると、すぐに冗談と分かって、ウヒャヒャヒャヒャと大笑いしてくれたが、認知症でも分かる時と分らない時があるらしい。

その判別はかなり難しい。

 

 






                     

 

 

 

 

 

 

 

さて、そろそろ出発しようと、表に出ると暗い雲間からぽつりぽつりと雨粒が落ちて車のフロントガラスを濡らしていた。風ばかりか雨まで降ってのお出迎えか。きょうはタフな釣りになるぞと気を引き締めた。

わいは車に乗り込むと、勇躍、エンジンを吹かして5キロ先のカドヤシキ磯に向かって走り出した。一周道路に出て暫く行くと、道の両側から木立が迫る森の中に入るが、その辺りから急に雨脚が激しくなって、フロントガラスに雨粒が叩きつけてきた。

そのまましばらく走って、カドヤシキ磯に入る森の入り口に車を駐めると、運転席から降り立って、外に出ただけでずぶ濡れになるほどの雨だった。あわてて荷物室のハッチを開けてカッパを着たが、時すでに遅く、すでに下着までびしょ濡れになっていた。それにしても、冬の雨、師走の雨は冷たい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



意を決して、背負子を背にして森の中に立ち込むと、普段は水のない枯れ沢に濁り水が勢いよく流れていた。果たして、カドヤシキの先端で竿が出せるだろうか。それにしても初っ端からタフな天気になったものだ。
15分ほど歩いてカドヤシキ磯に50mほどの距離に近づくと、御蔵島方向から打ち寄せるうねりが、荒磯の先端を直撃して大音響を上げて水柱を吹き上げていた。水柱は強風に吹き流されて、風下の岩に滝のような水しぶきを浴びせていた。
それを見た瞬間、さすがに腰が引けてしまった。もし、このまま荒磯に立てば、たちまち波間に叩き落とされ海の藻屑になってしまう。それでは命がいくつあっても足りはしない。わいはその日の釣りは断念し翌朝に賭けることにした。        
濡れネズミになって震えながら車に乗り込むと、やっとの思いで光明丸にたどり着き、庭先に車を停めると、玄関前の軒下で腰の曲がった船長が、大雨を避けながら庭先を睨んでいた。
恐らく、この強風と大雨、大しけの海で、あのバカ野郎どこで釣っているのか。早くけえって来い、と待っていてくれたのだろう。
すぐに車を降りて、「船長、大しけで釣りどころじゃあなかったよ。」と報告すると、「そんなことはどうでもいい。すぐ風呂にへえれっ。」と怒鳴られた。

 

時は過ぎてあれから2年、明るい空色をした光明丸は人手に渡り、怒鳴りつけてくれた船長は遠いところに行ってしまった。























 

267話 誰のせいでもありゃしない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三宅島の海水温が漸く22℃台まで低下してきたのと、大しけが一時的に収まりそうな気配を見せてきたので、すぐさま光明丸のムツミにこんなメールを送ってみた。
お待たせしました。にゃんこにムツミさん、それにおばさん、みなさん元気ですか♪ 

海水温の異常な高止まりと天候不順や大しけなどで半年以上も待たされたけれど、やっと釣りができそうな気配が見えてきたので、12月8日~9日にかけて泊まりたいのだけれどOKですか。
2週間予報によれば、1週間後のその辺は雨も上がりそうだし風も弱まりそうなので、ムツミさんの都合が良ければこの日程ですすめます。と二つ返事のOKが返って来ることを予想してメールを送ったところ、すぐさま、こんな返事が返って来た。


「絶対に、来ないでください。」

「今、三宅島はコロナの感染者が急増したため、村役場の感染対策が急に厳しくなって、先月の下旬、村役場から突然通達が出て、12月1日以降の2カ月間、東京からの外来者と接触した場合、丸4日間の経過観察が必要となりました。」
その間、公共施設への立ち入りが禁止され、もし、来島客を泊めたら婆さんのデイサービスも受けられなくなります。村役場からの通達なので従うしかありません。

1月末までお休みします。申し訳ありませんとあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


レレレレのレ、こりゃあ、チャイナのロックダウン並みになってしまったな。三宅村の村長は習近平の回し者なのかもしれないぞ。
この事案の前に、既に先月、二度ほどムツミからNGを食らっていた。

一度目は先月上旬、ムツミが骨休みで東京に出るから、暫く三宅島を留守にするのでNGと言われた。二度目は先月の下旬、わいが予定していた日に、たまたま先約が入っていて、貸し車がないからダメと断られた。

ただし、二度目に関しては、断られたことが幸いした。断られた日の連絡船は、東京港を出港したものの、途中の海域、たぶん大島沖あたりを低気圧が通過したため、大しけにしけて、途中からトンボ返りで東京港に引き返してしまった。

もし、その船に乗っていたら、連絡船は大荒れの海で、荒波にもまれて前後左右、上下に木の葉のように翻弄されて、船体は軋み、傾き、転覆寸前の恐怖に晒されていただろう。船室では観念した船客が南無阿弥陀仏を唱えていたかもしれない。
そこまで酷くなくても、無駄足を踏むことになるのは必定だった。先約客がいたおかげで、そんな恐怖と無駄足を免れたのだから、その客には感謝感謝である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


連絡船が欠航したことについては、その日の昼頃、ムツミがメールで報せてくれた。
「ナカムラさん、今日は来なくてよかったね。海は大しけでうねりがあって、連絡船は三宅島に入港できなくて、そのまま東京へ戻ったらしいよ。」とわざわざ報せてくれたのだ。

 

そして三度目の正直は、コロナの感染増による村役場からのきついお達しである。この一手でとうとうとどめを刺されてしまった。このところ、わいにはツキがなくなってしまったようである。
そんなこんなで、がっくりしているところに、ワールドカップで日本がドイツに競り勝ったという朗報が飛び込んできた。ええっ、ほんまかいな。ほんまなら、本間千代子並みの大金星である。(ただの語呂合わせで:昔、本間千代子という芸能人がいたんだよ。)
ともかく、下馬評では九分九厘勝ち目はなかったのだから、幕下力士が横綱をけたぐりで破ったようなものである。次の対戦相手はコスタリカという中米の小国である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

その日、わいとコモドのマスターはワールドカップで盛り上がっていた。カフェコモドは商売っ気がないので、いつも11時の開店から正午までの時間帯はわい一人である。

だから、気兼ねなくおしゃべりが出来るのだが、その日に限って、余分なお客が一人割り込んできた。

次の対戦相手コスタリカについて、マスターに講釈を垂れていたところである。コスタリカの人口は凡そ500万人、埼玉県は730万人だから、埼玉県よりうんと少ないのだ。
マスター、人口比がほぼ似ている浦和レッズと日本代表が戦ったとしたら、どっちが勝つと思うと訊いてみると、「そりゃあ、日本代表でしょうね。」と答えたので、

コスタリカ500万人:日本1億3000万人ということは、コスタリカが日本の26分の一ということだから、間違いなく日本がコスタリカを圧倒するってことだよね。
とそこまで言ったところで、時々来店する顔見知りの青年が話に割りこんで来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コモドはお客が三人入れば一杯になってしまうくらい小さな店である。

青年はお喋りの輪に入りながら、ナポリタンとコーヒーを注文したが、コーヒーはコロンビアでお願いしますと生意気に銘柄を指定した。それを聞いて、これはマズイとわいは気付いた。
「青年よ、次の日本の対戦相手はどこだっけ? それを考えれば、コロンビアではないよね。」青年は素直に「コスタリカでしたね。」と答えた。そうだろう。コスタリカを一気に呑み干してしてしまえば、日本が圧倒できるんだよと忠告すると、

それを聞いていたマスターが、「残念ですが、うちにはコスタリカはありません。」とチャチャを入れた。

青年が「コスタリカって、いったいどの辺にあるんですか。」と聞くので、確か、中米のパナマの隣りあたりだったと思うよ。

スペインには7-0でぼろ負けしたけれど、中南米の国は小さくてもみんな強いからね。油断してると負けちゃうよとその時は言ったが、ほんとに負けるとは思わなかった。たぶん、青年がコスタリカを呑まなかったせいではないだろう。


ちなみに、コスタリカという銘柄はあるにはあったが、生産量が極めて少ないので、ほとんど出回っていないらしい。生産量で行くと、1位がブラジル、2位ベトナム、3位コロンビア、4位インドネシアの順で、この4か国が世界の主要生産地と言われているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

266話 タヌキとキツネが来るお店

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不思議なことに、その店のシャッターはいつも閉まっていた。
ただ1か所、一番端のシャッターだけが半分ほど上がっていた。シャッターの内側はガラス戸になっていて、人ひとり出入りできるだけの通用口になっていた。
店内は夕方のように暗かったが、いつ見ても電灯は点いていなかった。だから、通りすがりに覗いても、中に人がいるのかいないのか全く分からなかったし、店頭の看板には雑貨・総合食品と書いてあるが、実際、なにを扱っているのかさえ、さっぱり分からなかった。
わいがこの店の前を通って、その先のカフェコモドに通うようになって3年余り、その間、お客さんの姿はおろか、店の人の姿すらただの一度も見たことはなかった。
とっくの昔に廃業してしまったお店なのだろうと勝手に思い込んでいたが、店の脇にある洗い場やその周辺には、段ボール箱や発泡スチロールが積み上げられていて、それが増えたり減ったりしていたから、満更、廃業したわけでもなさそうだった。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道路向かいには倉庫と思しきバラックがあって、時々、軽ワゴンがハッチを上げて駐まっていた。この古い店を挟むように、道路沿いに3軒の家が並んでいるが、片方は石塀に囲まれた大きな農家と反対側はふつうの民家で、その裏には冬枯れた畑が広がっていた。
今でこそ、新興住宅が近隣に迫ってきているが、かつてこの辺りは、わずかな農家が点在しているだけの山林と荒れ地の原野だったと聞いている。現在、店の前を通る舗装道路も、時々車が通る程度で、人の姿を見かけることは滅多になかった。

わいが週2回、ルーティンワークで訪れるカフェコモドは、この店の前を通り、農家の石塀を曲がればほどなく見えてくるが、肩寄せて建つ十数戸ほどの木造家屋のひとつにすぎない。

ところで、わいが何故、3キロも歩いてコーヒーに行くのかと問われれば、マスターの淹れてくれるコーヒーの味がうまいのと、マスターと交わす会話がおもしろいからである。
以前、コーヒーを飲みながら、この店のことをマスターに訊いたことがある。

この先の裏道に食料品・雑貨と看板があるあのお店、電灯も点けずに、いつも真っ暗でシャッターが閉まっているんだけど、まだ、やっているんだろうか?」と尋ねてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

すると、「わたしは一度も行ったことはないですが、噂では、周辺の保育園とか幼稚園に食材を供給しているみたいですよ。」ですから、お店での販売はほとんどしていないみたいですねと答えてくれた。
数日後、コモドで時々顔を合わせる老婦人に問いかけてみた。

裏道にあるあのお店行ったことありますか。近所の人が買ってあげないと潰れちゃうかもしれないよと言ったら、
「ご近所だから、なにか買ってやろうと思って行ってみたけど、バナナは真っ黒くなっているし、買いたいもの欲しいものが何もないんですよ。仕方なく、駅の方のスーパーへ買い直しに行ったことがありますよ。」と笑い話を聞かせてくれた。


 

そして、それは丁度1年前のことだった。
いつものように小畔川の堤防を2キロほど下り、更に1キロほど歩いて、この店の前に差し掛かって、店の方に目をやると、錆だらけのシャッターに見慣れぬ貼り紙がしてあった。
まさか、大売り出しでもあるまいにと思いながら近づいてみると、A4判の用紙に、ミミズののたくったような文字で、「10月31日を以て閉店します。」と書かれていた。
その下に、小さな文字で何か書かれていたが、気にも留めずにコモドに向かった。

その帰り道、貼り紙の小さな文字が気になっていたので、改めて読み直してみると、

「75年の長きにわたりお世話になりました。 店主 」と書かれていた。

それを見た瞬間、こころに突き上げてくるものがあって、脳天をハンマーで叩かれたような衝撃を覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それにしても、75年とは気が遠くなるような歳月である。よくまあ、こんな場所でそんなに長い間耐えられたものだ。

75年前と言えば、この辺りは霞が関村という草深い田舎だった。おそらく、人間の数より狐や狸の方が多かったに違いない。夕方、店を訪れたお客さんが大根とニンジンを買ってくれたが、翌朝見ると、いつの間にかお札が木の葉に変わっていたなんてこともあったかもしれない。

閉店の貼り紙から半年ほどたったある日、カフェコモドでコーヒーを飲んだ帰り道、件の店の前を通りかかると、店脇の洗い場で腰の曲がった老人が葉物野菜を洗っていた。その老人が不意に顔を上げてわいと目が合ったので、こんにちはと挨拶すると、老人も笑顔を作って挨拶を返してくれた。
初めてこの店の住人に出遭ったが、おそらく店主だった人だろう。すると、半年前の衝撃が再び脳裏に蘇って来た。しかし、これはあの日からの疑問を解くチャンスなのだ。
「ご主人、長い間おつかれさまでした。お店を畳んで、はや半年になりますね。」

しかし、よくまあ75年も続けましたねと本音で話しかけると、
この店は、私が小学生の時、大工をしていた祖父が始めた八百屋なんです。その頃、学校に行くと、先生や友達から、「お前んところ、なんであんなところに店を出したんだ。」とみんなにからかわれました。
それでも、この店は祖父から父へと引き継がれ、私の代で3代目になりますが、私の代で畳むことになりました。私ももう齢だし、身体が効かなくなってしまったので、ちょうど潮時だと思っています。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

失礼ですが、こんな場所でよく商売になりましたねとぶしつけな質問を畳みかけると、
「そうですね。誰が見てもこの場所ではねえ。」と笑いながら、品数でも価格でもスーパーには到底太刀打ちできませんし、立地条件も最悪なので、私は近隣の幼稚園や保育園、老人ホームなどをお得意にして、そこから委託された食材をまとめて納める便利屋みたいなことをしていたんです。公設市場の仲卸しから直接買って、お得意様に納めていたんで、なんとか商売になったんです。
だけど、これを見てください。左足はぶらぶらしているだけなんです。脳梗塞で左足が効かなくなって、いつ運転ができなくなるか分からないんで、お客様に迷惑が掛かる前に辞めたんです。あと半年、公設市場の会員ですが、また、会費の15万円を払って更新するかどうか、今、迷ってるんです。



その出会いから半年が過ぎ、店の前でまたご主人に出会ったので聞いてみた。
ところで、公設市場の会員資格は更新したんですかと尋ねたら、今更、更新しても、年寄りが市場でふらふらするだけ、みっともないからやめましたと元気に答えてくれた。