289話 ばかにつける薬はないよ ♪♪ |  荒磯に立つ一竿子

289話 ばかにつける薬はないよ ♪♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月の下旬、三宅島は連日のように強風や降雨に見舞われていた。いくら何でも大時化では釣りにならない。ジリジリしながら時化の収まるのを待っていたら、大連休直前になって、たった一日だけ、風が落ちて海が凪ぎそうな予報が発表された。これは幸いだった。待てば海路の日よりとはよく言ったものである。

          
しかし、いつもなら船中一泊、釣り宿に一泊で、二日間釣りが出来るのだが、今回は一日だけしか出来そうにない。二日目にはまた天気が崩れて時化模様になりそうなのだ。ドンブラコ、ドンブラコと海がしければ連絡船さえ欠航するし、帰京さえままならない。

そんな訳で、コスパは良くないが、竿が出せれば満足と考えて渡島することにした。磯釣りに100点満点を期待してはいけないのだ。
早朝4:50 連絡船はかつて三宅島の玄関口と言われた三池港に入港し接岸した。
すでに夜は白々と明けて、彼方にぽっかりと浮かぶ御蔵島の中天に、白いクラゲのような半透明の残月が掛かっていた。連絡船のタラップを降りると岸壁には風はなく、三池浜の沖からサタドー岬まで、一面湖のようになぎていた。大連休直前ということもあって、桟橋を歩む下船客は100人を超えていた。                                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

100メートルほど歩いて、だだっ広い駐車場のどこで待っていようかと立ち止まると、駐車中の車の影から声が掛かった。振り返ると、薄木荘のご主人だった。ご主人には珍しく、その日は早めに来ていたのだ。
ご主人の運転する軽ワゴンは20分ほどで薄木荘に到着した。三池港では空の色にまだ夜明けの青さが残っていたが、わずか30分ほどで、空の色はもはや日の出前の明るい色に変わっていた。軽ワゴンを降りたご主人の足元には、外猫たちがすり寄って頭をすりつけていた。ご主人は軽ワゴンを指さして「車はこれを使ってください。今日はどこへ入りますか。」と尋ねて来た。先月入ったミチナシのテラスに入ります。断崖の昇り降りに冷や冷やさせられて怖かったので、今回はザイル代わりのロープを用意してきました。10メートルのロープですが、要所要所に滑り止めを打ってあります。それを危険な岩場に張って釣ります。
「ミチナシのテラスですか。気を抜くと危険ですよ。気を付けてくださいね。でも、ロープを張って釣るなんてロッククライマーみたいですね。」と言ってご主人は笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいは30分ほどかけて諸々の釣り支度を整えると、準備万端、ミチナシのテラスに向けて軽ワゴンを発進させた。
ミチナシは薄木溶岩流が山腹から溢れ出て、海に落ち込んで形成された断崖の一角にある。薄木溶岩流とは三宅島の火山雄山が数百年に渡って何度も割れ目噴火を起こして、山腹から大量の溶岩を噴出して、海に達するまでの数キロに渡る溶岩原のことである。
直近の割れ目噴火は40年前で、雄山の山腹に突如、4.5kmの亀裂が生じ、亀裂の周辺90か所から一斉に噴火が起こって溶岩を噴出した凄まじい噴火であった。
薄木荘からミチナシの断崖までは、距離にして1km程度だから、車で下れば5分とかからない。途中、鬱蒼とした灌木や篠竹の林が続き、それが途切れるとカヤやススキの草むらに変わり、次に、背の低いイソギクの群落に変わって、最後に赤茶けた溶岩が露出した熔岩原となる。        
軽ワゴンは断崖の手前100m辺りで乗り捨てて、ロープを肩に断崖に向かったが、しばらく進むと行く先が分からなくなった。前回、ラッカースプレーでマークしたのに、そのマークのほとんどが消えかけていた。よく見れば溶岩の溝や隙間にスプレー跡が残っていたが、余程注意しないと分からなかった。 改めて新品のスプレーで目印をつけることにした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、テラスへの昇り降りの危険を回避するためにロープを張り、リュックを始めとするアイテムは途中の岩場に下ろして、テラスには竿、バッカン、玉網などの必要最小限のものだけ持ち込こむことにした。それらの作業に2時間余りを費やした。              
釣り座のテラスは畳半畳ほどの広さで、岩棚はデコボコで傾斜していた。背後の断崖は猿しか登れない絶壁で、道具を置くスペースもわずかしかなかった。油断したら、たちまち転落しそうだった。
眼下の海中を覗くと水深は極めて浅く、キノコ状をした岩塊や巨岩がゴロゴロした沈み根を作っていた。岩塊や巨岩の間隔はわずか1メートルかそこらで、その隘路を荒波や速い潮が通っていた。仕掛けを落とせばすぐにも釣れそうな荒磯で、巨岩の陰や隙間にはいかにも大物が潜んでいそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕掛けを造りオキアミのコマセを打っているうちに既に9時を回っていた。2時間半かけて釣り支度を整えたわけである。いざ、眼下の狭い水路に仕掛けを打ち込むと、一瞬でウキが消し込んだ。瞬時に竿を煽ると、獲物は強烈なパワーとスピードで沈み根に飛び込んだ。その瞬間ハリスが破断した。その間、わずか2秒か3秒である。ハリスはシーガーグランドマックス6号だから、よほどの大物が潜んでいたのだ。
こいつを逃してなるものか。心急かしてポケットから釣り針を取り出すと、改めてハリスに新しい釣り針を結んだ。その釣り針を左手指でつまみ、右手で竿を持って、狭いテラスで立ち上がろうとしたその途端、アッ、タ、タ、タ、タ、釣り針が親指に突き刺さってしまった。

立ち上がろうとした瞬間、たるんだハリスが溶岩の突起に引っ掛かって、自分で自分の親指を釣ってしまったのだ。釣り針が刺さったままでは釣りは出来ない。

すぐさまハリスを切って、釣り針を抜き取ろうとしたが、いくら引っ張っても抜けそうもない。
当たり前である。釣り針には返しというフックが付いていて簡単には外れないのだ。仕方がないから、返しの深さまでナイフで切開して外そうとしたが、鋭利なナイフではないから、親指まで切り落としかねなかった。

 

 

釣り針と格闘して数分、ついに音を上げて観念した。わいは断崖の上に上がってご主人に電話を掛けることにした。
「もしもし、ご主人、」  「どうしました。なにか釣れましたか。」
「親指を釣っちゃいました。」  「えっ、えっ、なにを釣ったんですか?」
「魚でなくて親指です。すぐ薄木荘に戻るから、診療所の場所を教えてください。」
薄木荘に舞い戻ると、ご主人はビニールハウスの農作業を中断して待っていてくれた。

すぐにスマホを取り出すと、「薄木荘ですが、うちのお客さんが釣り針を指に刺してしまったんですが、すぐ、診てもらえますか。」と電話で了解を取ってくれた。

すぐ診てくれるそうだから行きましょう。診療所は神着にあります。釣り針が刺さったままでは運転しづらいでしょうから、ぼくが運転していきますと連れて行ってくれた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10年くらい前だが、光明丸のむつみと三宅村の医療について話していたら、三宅の診療所なんてよぉ、年寄りの医者が一人いるだけでよぉ。赤チンつけるか風邪薬出すぐらいしかできねえよぉ。と言って嘆いていたのを思い出した。
木造の古い汚い建物に年配の医者が一人と看護婦が一人いるだけの淋しい施設を想像していた。しかし、40分ほど走ってその診療所に到着すると、想像とは正反対だった。建物は立派な鉄筋の二階建てで大きくて清潔そうだった。
入り口のドアを開けるとそこに看護師さんが待機していた。釣り針の方ですねと言って、簡単に必要事項を書かされたが、待合室には来診者が10人近く待っていたのに、その人たちを飛び越して、すぐに診察室に案内された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


汚れた手袋は脱いでください。そして、きれいに手を洗ってください。それから、ベッドに仰向けに寝て、左腕を腕置き台に置いて右手でしっかり抑えてください。と看護師さんから次々に指示が出された。そこに、30代の青年医師が笑いながら現れた。魚でなくて自分の指を釣ってしまった釣り師なんて、そりゃあ、おかしいよな。
青年医師はヤットコのようなピカピカの機具を手にしていた。「麻酔をすると痛いし、しばらく釣りが出来なくなるから、麻酔なんかしませんよ。」「腕をしっかり抑えて動かさないでください。」と言うから、これからメスで切開するのかと身構えていると、ヤットコみたいな機具で釣り針を掴むと、強引に引っ張り始めた。えっ、釣り針には返しがあるから、そりゃ無理だよと言いたかったがじっと耐えていると、30秒ほどで,「はい、取れました。」と抜けた釣り
針を見せてくれた。取れないはずの釣り針がきれいに取れて、代わりに血がどっと噴き出していた。地獄に仏だった。先生、ありがとうございました。
釣り針の抜去後、看護師さんが、「温水でよく手を洗ってください。」と言うから、これから消毒したり化膿止めを処方してくれるんだろうと考えて、はい、洗いましたと答えると、

今度は「タオルで拭きとってください。」と指示された。拭き取ってから治療するのだと思ったら、その後は、救急バンをペタッと貼って、「はい、これで終わりです。」だとさ・・・