287話 キラキラ電気のお店があったなんて |  荒磯に立つ一竿子

287話 キラキラ電気のお店があったなんて

 

 

 

 

 

 

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

光明丸の船長が早朝、キンメ漁に出漁し、夕刻、沖の漁場の船上で倒れているのが発見されて、はや三年が経とうとしている。享年は88歳と10カ月であった。
思い起こせば、わいが船長に出会ったのは47年前のことである。

その頃、船長は45才の働き盛りで、御蔵島の離れ磯に渡す瀬渡し船の上では、不動明王さながらに釣り客の我儘は許さなかった。また、筋骨隆々として短気で気が荒かったので、憤怒の仁王像を髣髴させるような屈強の漁師だった。
船長の家は極めて貧しい漁師だったので、中学校を卒業するとすぐに漁師の手伝いを始めたというから、学問とか高等教育には無縁であったようだ。しかし、生来の勘の良さと旺盛なチャレンジ精神で、折からの離島ブームや磯釣りブームを追い風にして離島でできる事業を模索したという。

その事業は、三宅島ではまだ誰も手掛けていなかった瀬渡し船で、それは無謀だ、うまくいかねえ、という雑音にも惑わされることなく、船長は三宅島でいの一番に取り組んだのだ。
「22才の時、同い年のかかあと一緒になったけれど、その頃は船も持たねえ貧しい漁師だった。かかあと二人素潜りをして、テングサを採って採って採りまくったよ。
その金で最初の船を買ったんだよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

30才も半ばを過ぎた頃、瀬渡し船を始めようと本格的に着手した時、「そんなばかなことはするな。商売になる訳がねえ。絶対に失敗するから、やめろ。」と漁師仲間や周囲から散々反対されたけれど、怖がっていたら何にも出来ねえ。一生、貧乏漁師で終わってしまう。たとえ失敗しても挑戦した方がいいと反対を押し切って始めたそうだ。
それが大成功を収めるや、猛反対していた漁師仲間が手のひらを返して、我も我もと瀬渡し船を始めたというから笑ってしまう。船長のそんな苦労話は何度聞いても痛快だった。

船長は瀬渡し船を皮切りに釣り宿も併設して成功を収め、光明丸は三宅島で一番人気のある瀬渡し船&釣り宿となったのである。

わいが九州の任地から東京の本社に戻ったのがその頃だった。九州では3年半を過ごしたが、その間、わいは磯釣りを知り、磯釣りを覚えて、ヘボではあったがすっかり磯釣りに魅了されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


47年前、わいが初めて渡島した頃の船長は、憎たらしいほどタフで逞しかった。また、その頃の三宅島は、離島ブームの追い風を受けて空前の好景気に沸いていた。
日曜日の早朝5時、連絡船のタラップから岸壁に乗船客が吐き出されると、三池港の岸壁は、たちまち、釣り客や観光客で溢れ返り、身動きできないほどに混雑した。
そこからだらだら坂を上がって一周道路までの数百メートルの区間に、まるで蟻の大群が移動するかのような長蛇の列が出現した。
また、坂の取っ付きの道脇には、サザエのツボ焼きやクサヤを売って商売をする、漁師のかみさんの屋台が10台20台と並んで下船客を呼び込んでいた。その先の道の両側には食堂、喫茶店、土産物屋が延々と軒を連ねていた。


あの賑わいはいったいどこに行ってしまったのか。夢まぼろしのように消え果てて、今は影も形も、痕跡すらも残っていない。むかしを惜しみ懐かしむのは、三宅島挽歌のノスタルジアに過ぎないのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

話変わって先日のことである。
船長が死んで、娘のむつみは「もう釣り宿は続けられねえ。」と宿を畳んでしまった。

暫くの間、わいは途方に暮れてしまったが、気を取り直して薄木荘に宿替わりした。それから1年余りが経過していた。

宿替わりして気づいたのは、薄木荘では夜釣りでも何でも制約なしのフリーなのだ。

光明丸では船長が、「朝は足元が明るくなってから出ろ。暗くなる前にけえって来い。危ねえことは絶対すんな。」加えて「夕飯の前に風呂にへえって、汗とオキアミの臭いを流しておけ。夕飯はおれと一緒に食うんだ。」これが船長の掟だった。

わいは三宅島に来ると、常に船長の掟に従おうと心掛けていた。夕食時、船長とのおしゃべりは捨てがたかった。しかし、夜釣りが封じられていたのは痛かった。


一方、薄木荘にはそんなタイトな掟はない。しいて言えば、宿への出入りの際、ドアの開閉に注意すること。これくらいだろうか。ドアを開けた途端、外猫が飛び込んでくるから、ドアを開ける時は注意してと奥さんに厳命されていた。

というのは、薄木荘では10匹ほどの外猫の面倒を見ているので、油断していると、ドアの隙間からすぐに入り込まれてしまうのだ。外猫たちは中に入りたくて、いつも入り口でウロウロしているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

という訳で、その日は早朝から昼過ぎまで釣ったけれど、外道のイスズミばっかりで音を上げてしまった。既にご主人には告げてあったが、今夜は午後7時過ぎから夜釣りをしたいので、早めに夕食をお願いしますと頼んでおいた。
ほぼ予定通りに夕食を摂り、天気予報の風速、風向から釣りやすい釣り場を選択して、南部のカドヤシキから南東部のベンケネ辺りを有力候補に予定していたが、念のため、荷物を車に置いたまま、手ぶらで釣り場を偵察したらカドヤシキは予想外に風が強かった。

あちこち釣り場を偵察しながら5キロほど走って釜方(カマカタ)までくると、更に風が強まってまるでダメだった。仕方がないので15キロほど離れた島の反対側に行って釣ることにした。

 


話は少々脱線するが、この釜方(カマカタ)という名の磯、聞きなれない呼称なので不思議に思っていたが、ある日、三宅島にまつわる文献を読んでいたら、偶然、釜方の由来が書かれていた。
江戸時代、三宅島は幕府直轄の天領だったが、三宅島には川もなければ田んぼもないので米はとれない。島民の主食は麦とか粟とか稗が主食で、それすらもわずかしか穫れないので、いつも島民は飢餓に怯えていた。
しかし、米が穫れないからと言って年貢が容赦されるほど甘くはない。米がダメなら塩で納めろと塩年貢となったが、三宅島には塩田となる砂浜がない。そこで、山から薪を伐ってきて海岸に大釜を据え、薪を燃やして水分を飛ばす釜焚き製法で塩を作っていたとあった。

その塩焚き釜を据えた場所が釜方と呼ばれるようになったのだそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



逸れた話を元に戻そう。南側の磯がダメだから、15キロほど離れた裏側に向かって一周道路を走っていると、まだ、8時を回ったばかりの宵の口だというのに、1台の対向車にも出会わなかった。途中、小さな集落をいくつか通り過ぎたが、そこにも人っ子1人、猫の子1匹歩いていなかった。ただ、ただ、外灯の白い灯だけが点々と灯っていた。
これまでわいは深夜の2時3時に走っていたので、人がいないのは当たり前だと思っていたが、宵の口のこんな時刻に人も車も途絶えてしまうとは、それは、衰退する三宅島を象徴するような景色であまりにも淋しかった


30分ほど走って、神着(カミツキ)という江戸時代に島役所が置かれていた集落に入ると、家並の数はいくらか増えたが、やはり人にも車にも出会わなかった。

ひょっとして冥途に向かう道もこんな風に静かなのかもしれないと思いながら走っていると、薄暗いカーブの木立を曲がったあたりで、突然、前方にキラキラ輝くまぶしい光が見えてきた。三宅島の夜にこんな眩しい光に遭遇したのは初めてである。

いったい何があるのだろうか。数秒でその正体に接近すると、それは古い倉庫のような建物のガラス窓から漏れ出る透明電球の光だった。

ヘッドライトに浮かんだ倉庫の壁には〇〇ストアーと白いペンキで大書されていた。ガラス戸を透して陳列棚が見えた。もしかしたら、新設されたスーパーマーケットかもしれない。ただ、店の中にも外にも人の気配はまるでなかった。空き地には車も駐まっていなかった。それでも、それは三宅島で久しぶりに見た心に灯りが点るようなほっとする景色だった。