290話 返す返すも不覚であった |  荒磯に立つ一竿子

290話 返す返すも不覚であった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全く以てみっともない話である。

あわてて作り直した仕掛けの釣り針を、左手親指と人差し指でつまんで、右手で竿を持って狭いテラスで立ち上がろうとした時、中腰になった途端、弛んだハリスが足元のトゲトゲ岩に引っかかってピンと張り詰め、その反動で釣り針が親指にグサッと刺さってしまった。

背後は絶壁。立ち上がる時、少し尻を突き出さないとバランスが取れないが、そんな余裕は全くない。もし、突き出せばつんのめって、眼下の海に転落するだろう。

しかも、テラスの岩は凸凹が激しくその上傾斜している。立ち上がるだけでも容易ではない。そんな悪条件を割り引いても不覚であった。この釣り針事件はビギナーレベルの注意力と幼稚な所作から引き起こされてしまったのだ。50年も無駄飯を食ってきて、その程度の危険がなぜ予測できなかったのだろう。

 

その上、刺さった釣り針はがっつり食い込んでいて、押そうが引こうが抜けなかった。

手に負えなくなって、釣り宿のご主人に電話をしたら、診療所に連れて行ってくれた。

ドクターや看護師さんは「磯釣りにはよくあることです。」と言ってくれたが、腹の中では、なんてへまな人と笑っていたかもしれない。まったく、恥ずかしいったらありゃしない。穴があったら入りたいくらいだ。今後は磯釣り歴50年なんて口が裂けても言えやしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄木荘に戻る車中で、「どうでした。痛くないですか。」とご主人が訊くので、

ヤットコで無理矢理引っこ抜かれた時は痛かったけれど、引っこ抜かれた後はほとんど痛みませんね。事前にご主人が電話してくれたので、待合室にいた10人ぐらいを飛び越して診察してくれました。ありがとうございました。さすが、三宅村の農業部会長ですね。

 


わいは再びミチナシのテラスに入ると、急いで仕掛けを作り直した。時刻は既に11時を回って干潮の底まであと1時間余り、さっきまで海中に没していた沈み根があちこちで頭を出して、その周りで大波が白いさらしを作っていた。
タイムアウトか最後のチャンスか。コマセを入念に打ってから、「南無八幡大菩薩、日光の権現、願わくは、大魚釣らせたまえ。」と那須与一さながらに神仏に願をかけると,願が神仏に通じたか、わずか数投後に突然ウキが消し込まれた。

瞬時に竿を合わせると猛烈なパワーで沈み根に潜ろうとする。潜られたら最期、ハリスはもたない。竿は4号の剛竿、ハリスはシーガーグランドマックスの6号、こうなったら力較べだ。

全力で振り切ろうとする獲物と5分ほど格闘していると、遂に疲れた獲物が水面下に姿を現した。50センチはあろうかと言うオキナメジナである。わいも疲れていたが、獲物も疲れて平を打っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この状態ならなんとか抜き上げられると、ジリジリとリールを巻いて行くと、海水面を切ろうとすると重すぎて上がらない。剛竿といえども無理をすれば折れてしまう。手間はかかるが玉網で取り込むしかない。

テラスから海面までは4mほどあるので、玉網の柄6m長ではギリギリである。案の定、玉網を伸ばすと打ち寄せる波と風、潮の流れで、逃げ回る魚が捉えられない。玉網の柄はダイワのトーナメント60、強靭にして機能的な最高峰の玉網ではあるが長さ不足なのだ。

しかし、手間暇かかったが10分ほどかけてなんとか玉網に取り込んだ。玉網に取り込んでも、それをテラスまで引き上げないことには取り込んだことにはならない。

獲物を入れた重い玉網が途中のトゲトゲ岩に引っ掛かったら、これまたすべてが終了してしまう。だから、トゲトゲ岩に触れないで、岩から離して引き上げなければならない。従って玉網の柄は畳まず、伸ばしたまま引き上げることにした。これは難工事である。その難工事を突破して、やっとテラスまで引き上げて玉網の首を掴んでほっと一息ついていた時、バッキーンと乾いた破裂音が断崖に響き渡った。玉網の柄の首の部分が破断したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左手には釣り竿、右手には獲物の入った玉網、もう一本手がないことには玉網の柄本体まで確保できない。足元に獲物の入った玉網を置いてからと考える暇があらばこそ、数秒後に玉網の柄は、カランカランと岩に当たりながら落下してしまった。玉網の柄はしばらく海面を漂っていたが、まもなく海中に没して姿を消してしまった。高価な玉網の柄と引き換えにオキナメジナが釣れたのだ。神仏は大物を釣りたいという願いは聞いてくれたが、その見返りに玉網の柄を持っていってしまった。神仏といえども決して甘くはないのだ。

というわけで、その日だけでアクシデントが2連発。そんな厄日に釣りを続けていたら、災厄3連発となりかねない。わいは竿を畳んでさっさと納竿することにした。