国民はこぞって命を投げ出して戦争に協力するというのが当時の国論であり正論だった。異を唱える者は官憲から厳しく罰せられた。だから親も世の風潮に染まったツッパリ息子を言葉を荒げて叱り飛ばしてまで引き留めることはできなかったが、腹の中は煮えくり返っていたのだろうと、今の矢之倉にはわかる。
彼に理解をしめしたのは、隣で同じ種苗問屋を営む父の従兄(キクの父親)で、両親を説得してくれた。
「俺にとっても跡取りだし、キクとのこともあるから行かせたくはない。でも止めたところでこのご時世じゃいずれ赤紙(召集令状)で持っていかれる。赤紙の一兵卒だって死ぬ奴は死ぬ。飛行機野郎でも必ず死ぬとはかぎらない。誰がなんといっても曲げない強情があいつの気性だ。死ぬにしても生きるにしても、親子の喧嘩別れはいかん。おたがい後悔する。気持よく行かせてやって、無事生きて帰るよう、みんなで祈ろうじゃないか」
涙こらえての痛切な言葉に押し切られて父が折れたと、立ち聞きしたキクからあとで聞かされた。
「健ちゃんの気持もわかるけど、叔父さんも叔母さんもお気の毒だったわ」
告げながらキクも泣いていたが、矢之倉は聞く耳をもたなかった。誰にも負けない俺の運動神経を国のために役立てたい、パッと男をあげたい、目立たない平凡な人生を送るんじゃ生まれてきた意味がない――そう思いつづける少年だった。日本が戦争に負けるとは夢にも考えなかった。口には出さなかったが、空の勇士として志を遂げて帰って両親や周囲を喜ばせてやろうと腹をかためていた。若いうちでなければならないと。
熱血の塊だった彼が、海軍予科練習生に合格し、横須賀海軍航空隊追浜基地へ入隊したのは昭和10年、16歳のときだった。3年の教育期間と1年間の飛行戦技教育を経て20歳で海軍二等飛行兵となり、翌年には当時の最新型戦闘機零戦のテストパイロットに抜擢されるという抜群の成績で、零戦21型乙(当時世界最速の時速533.4キロ)、32型、22型、22型甲と次々試乗した。思い通り、身体能力を高く評価されて無我夢中になり、世間をアッといわせる日が近づきつつあることに胸おどらせる毎日だった。
翌昭和16年が太平洋戦争開戦の年で23歳。すでにえりすぐりのベテランパイロットだった。18年には零戦の戦技研究担当となり、19年の6月、「あ」号作戦発動に参加してマリアナ方面の後詰として硫黄島に飛んだ。
だがラバウルでの惨敗で、日本軍は海軍6000機、陸軍2000機の航空機を失い、陸軍9万人、海軍4万人の犠牲者を出すことになった。
玉砕する彼ら守備隊、飛行機整備員たちを島に残して飛び立つとき、零戦隊員はみな泣いた。送るほうも送られるほうも涙の別れだったが、戦闘意欲を失うものはなかった。あったとしても、国に殉じるのは国民の義務というあきらめがあった。
その劣勢を一気に挽回しようとしたのが「ア」号作戦で、日本海軍艦艇・航空機の総力をあげて、マリアナ群島のサイパン島に上陸するアメリカ機動部隊を叩こうという作戦だった。が、この「弔とむらい合戦」も無残な敗北に終り、海軍の航空兵力は致命的な打撃を食らって、サイパン島も7月7日に米軍の手に落ちた。
このとき矢之倉の戦友の90%が戦死し、矢之倉自身も負傷して倒れ、輸送機で横須賀に運ばれて不本意な帰還となったのだった。
その後少尉になって、九州方面で特攻攻撃の援護をしていたが、11月1日にB29偵察機がはじめて関東上空にあらわれた直後、矢之倉は命令によって第302海軍航空隊厚木基地に転じた。
この通称「302空」は首都防衛のために編成された部隊で、彼はゼロ戦のエースとしてその補強のため急遽加わったのである。
同月5日、7日にも続いてB29は偵察のため本土に飛来し、迎撃のために矢之倉が初めて乗ったのは零戦52型甲(時速564.9キロ、急降下速740.8キロ)だった。「302空」にはほかに零戦21型、局地戦闘機雷電、紫電改、夜間戦闘機月光などの名機が配備されていた。
以後、B29の編隊が関東上空に来るたびに迎撃したが、同月24日にはマリアナ諸島から飛んできた70機のB29が武蔵野の中島飛行機工場を爆撃して、ついに東京空襲がはじまった。このとき矢之倉は当時最新式のロケット弾(3式6番27号爆弾――現代でいうミサイル)を装備した零戦52型丙に乗り替えて戦ったが、302空の戦果は敵撃墜3機にとどまった。すでに敵の圧倒的な物量作戦に対抗できる戦力ではなくなっていた。
昭和20年に入ると、米軍は貧しい木造民家の密集地帯への爆撃に方針を転換し、いよいよ押し寄せる大量のB29による日本全土空襲が日常のものとなった。昼間でも伊豆大島から富士山を目標に10000メートルを超える上空を飛んでくるB29を要撃する零戦は、酸素ボンベを使用しなければならなかった。量だけでなく質においても彼我の戦力はけた違いになっていたのだ。
数々の迎撃の中でも矢之倉が忘れられないのは自分の郷里上空での死闘で、2月25日と3月4日はまさに滝野川の自宅の真上を飛んだ。3月10日の東京大空襲では荒川上空で12機撃墜、42機撃破(大本営発表)。4月12~13日未明の城北大空襲のときも荒川上空を飛んでいた。5月25日にはまた滝野川上空での迎撃で、このときの大本営発表では26機撃墜、86機撃破という最大の戦果をあげた。
矢之倉自身は敵の戦闘機爆撃機あわせて生涯で50機ほど撃墜したつもりだが、敵味方入り乱れての空中戦で、個々人の戦績を見届けることなど不可能だった。
撃墜撃破した米空軍の機種は、陸軍戦闘機ノースアメリカンP51Dムスタング、海軍戦闘機グラマンF6Fヘルキャット、爆撃機はB25GミッチェルとB29スーパーフォートレスで、巨大なB29を襲う零戦はカラスに群がる蜂のように見えた。
いかに名機として世界に名をはせたとはいえ、零戦の働きで最も効率の良い高度は6~7000メートルまでだから、昼は12500メートルを飛ぶB29には届かない。夜はB29の高度が2~3000メートルに落ちるので、必然的に夜の攻撃が中心になり、夜間攻撃用の零夜戦れいやせんが威力を発揮した。
零夜戦とは──
「特攻作戦(体当たり自爆攻撃)はせっかく大切に育てた搭乗員の無駄遣い。即刻中止すべき」
と主張した302空司令官小園安名大佐の考案で、一部の52型機の操縦席の風防後方に金属板を取り付けて20ミリ機銃(斜銃)を装備したものであり、通常の零戦が真上からB29に襲いかかったのに反して、下から接近して狙撃した。
自身中国戦線のエースパイロットとして名を轟かした小園司令だけに、優秀な搭乗員の命を惜しみ、体当たりを命じて神風特別攻撃隊を編成させた第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将ら上層部への不満、怒りをつのらせていた。腕に自信のあるパイロットなら、零戦1機で敵複数機を落せる。特攻ではうまく当ったとしても1機しか落せないのだから、矢之倉も小園司令の主張を当然至極と受け止めていた。
「俺たちは国のために命をささげているんだ。1機で10機も20機も落とさなければ物量作戦のアメリカには勝てっこない。そのために開発されたせっかくの零戦だし、俺たちもそのために訓練を積んできた。1発の鉄砲玉なみに扱われてたまるか」
というのがエースパイロットたちの本音だった。最後の最後まで生きて敵を撃ち落す気でいた。
東京上空での壮絶な空中戦で、もちろん火だるまになって空に散った零戦も数知れない。海没したのも空中分解したのもある。最新鋭機だった零戦は、その性能を盗まれたくないから敵の手に渡すことが許されず、不時着の際は破壊もしくは自爆するよう搭乗員には義務付けていた。
地上に落ちた破片すら、地元の消防団員が埋めかくした。B29による無数の着弾跡は、埋めるための充分な大きさのの穴をこしらえていた。
戦後、国内の道路や建築現場でたびたび零戦の残骸が発掘されている。昭和20年代は鉄くずとして民間人にひそかに処分され、30年代は新聞の記事にもなってマニアの間で高値で取引された。中にはそれらを集めて1機を再生した者もいた。
米空軍は日本の対空高射砲やその弾薬庫を真っ先に破壊した。北区は川崎市と並んで陸軍の兵器庫や弾薬庫が密集していた町で、しかもそれぞれが戦後は大学などの敷地になったほど広大だったから恰好の標的にされ、爆撃による破壊、火災のすさまじさは群を抜いていた。
矢之倉は愛する国土が、滝野川が、矢之倉商店近辺が猛火に包まれて人々が逃げ惑う姿を敵機を追いながら上空から垣間見て、泣きながら歯ぎしりしながら必死に操縦し、発射しつづけた。愛機の日の丸には矢之倉の矢の字を書き、矢のごとく飛んで敵機をとらえるという祈りを込めていた。むろん官給品だから後で消せるように石灰で書いた。
終戦を迎えた8月15日の小園司令官の言葉が残っている。
「今まで1億特攻だ、必勝の信念だといって兵たちを死地に送ってきた者どもが、今さらポツダム宣言を受託するとか無条件降伏するとはなんだ! 恥を知れ! 俺は降伏を拒否する!」
そして302空には徹底抗戦の訓示をした。世にいう厚木事件である。
翌16日、米内海軍大臣は寺岡中将に小園司令の説得を命じたが決裂。
17日、昭和天皇が軍人にあて隠忍自重の詔勅を発したことで、米内海軍大臣は横須賀鎮守府に厚木基地の制圧を命じたが、寺岡中将が猛反対して実行されなかった。
20日には菅原中佐、吉野少佐の2名が高松宮殿下から「陛下の御心」を伝えるため302空の説得に行ったがこれも実らず、ついに21日、「302空」解散の命がくだって、小園司令は憲兵隊に鎮静剤を打たれて強制連行され、海軍野比病院精神科に監禁された。
小園に心服する厚木基地の士官、下士官たちは納得できず、零戦や彗星等で厚木を脱出。零戦52型丙、零戦52型甲、零戦62型の22機が陸軍狭山飛行場へむかった。彗星13機は陸軍児玉飛行場へ降りたが、狭山に着陸した零戦は18機で、4機が消えた。
他は知らず、その1機――矢之倉はすでに「ア」号作戦などを経験して、このころのアメリカの空軍力を熟知していた。
小園を日本武士道の鑑と神のように尊敬していた彼は、命をかけて上司に正道を説いた姿を葉隠の精神とうけとめて感動していた。それだけに扇の要小園を失った302空がもはや無力となったことを悟り、狭山での抗戦など意味なしと断じた。
死ぬ前に両親の安否を確認したかった。国のために働くと大口を叩いて出かけながら、国を守るどころか両親を火の海に投じてしまったのだ。
(俺は俺らしい意味のある死に方を選ぶ、すべては両親の骨を拾い供養をしてからだ)
彼は少年時代の遊び場で勝手知った荒川土手に着陸すると、そこから近い親友天馬の家へ真っ直ぐ走った。天馬の家あたりが焼けなかったことは空から確認ずみだった。
中学の同級生天馬征四郎は陸軍士官学校を出て騎兵連隊に所属していたが、昭和16年騎兵部隊が全面的に機甲部隊となり、馬が好きだった彼も戦車に乗り換えて、翌年10月に戦車第3師団に編入された――というところまでは矢之倉も文通で知っていたが、その後の消息はわからなかった。
矢之倉や天馬たちが通っていた都立中学(旧制)は板橋にあって、二人はそこの4期生だったが、のちの記録によると、4期(卒業は昭和12年)は250人中30人が戦死し、群を抜いている。そういう宿命の年齢だったのだろうか。
探し当てると、天馬は早々と復員して、戦前からの古い家で母親との二人暮らしを始めていた。
「おーお、矢之倉が帰って来たとは天の恵みだ」
天馬は大手を広げてよろこんだ。
「復員して真っ先に滝野川のお前の家へ行ってみたが、残念ながら店は丸焼けで、ご両親も空襲で亡くなっていた。でもキク姉さんがいた。会ってきた。お前の家の番頭と結婚して両方の店をあわせ継いで子どもも二人いるけど、亭主は戦地から帰らず、防空壕生活で苦労しているらしかった」
と告げ、矢之倉の身の上を聞くと、
「そりゃ思い切ったことをしたなあ」
とあきれてから、ここを当面の隠れ家にしながら、ゆっくりその後のことを考えろという。
「ゆっくりとはいかないが、そのつもりで来た。ところでお前はこれからどうするんだ」
「む? どうとは……」
「決まっているだろう。まさかこのままアメリカに屈従する気じゃないだろうってことさ」
「ああ……」
天馬は苦笑して、ゆっくりタバコをとって火をつけ、上目づかいに矢之倉を見て、
「お前はなにかをする気なのか」
「当然さ」
矢之倉は決めつけるようにいった。
「仲間がいるんだろ。何人だ」
「何十人になるか……おいおい集まってくるはずだ」
「……来ない」
天馬は矢之倉をまっすぐ見つめてから、きっぱりといい切った。
「え?」
「来ないっていってるのさ。そいつらは来ない」
矢之倉はムッとなって天馬を見た。
「どういう意味だ」
「俺のまわりにもそういうムードはあった。いや、具体的に連合軍総司令部に突入すると本気で企てる奴らもいた……俺はちがったがな」
「違ったとは」
「終戦の詔勅を聞いたときから、そんなばかばかしいことは頭の中から拭い捨てた」
矢之倉はポカンと口をあけて天馬を見た。
「仲間たちもひとりふたりと脱落して、結局計画は流れたそうだ。いや、立ち消えになった。誰だって、国よりは家族が大事なのさ。そうだろうが……」
「………」
「戦場にいたときとちがって、肉親と再会すれば人間はかわる」
「………」
「お前のように空中戦ばかりやってりゃ敵を撃ち落すのは面白かろう。相手が軍人ならいくさだ。だが、俺は敵の民間人と身近に接しているうちに、戦うのは殺人行為だと思うようになった」
「あたりまえだ。いくさとは殺し合いだ」
「お前も、これまでやってきたことをこれから後悔するだろう」
「ふん……」
矢之倉は鼻先でわらった。
「俺のこれまでの生きかたには満足している。自分のしてきたことを否定する気はない」
「そうか……俺はなあ、これから俺を裏切った国に仕返しをする」
「国に仕返し?」
声を荒げる矢之倉を手で制して、
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらずだ……日本はもう、もとの日本にあらず。お前の生きる場所もなくなったということがわからんのか」
天馬はタバコを灰皿に押し付けてゆっくり火を消してから、
「じっくり考えろといったろうが……」
「生きるつもりで帰ってきたわけじゃない」
かみつくようにいう矢之倉をまあまあとなだめた天馬は、
「おちつけ……実はな……」
と、天馬は今、習志野の倉庫に隠した旧日本陸軍の物資を、ポンポン蒸気の漁船で荒川をさかのぼって運んで来て売っぱらっていると打ち明けて、矢之倉を驚ろかした。信じられない矢之倉は、ポカンと口をあけて、
「習志野といえば、騎兵の町だったな」
「そうだ、だから俺に協力する地元の人間も何人もいてな、ほとんど丸儲けだ。そりゃそうだろう、カッパライみたいなもんだからな。ガソリンもせしめてある」
矢之倉は心底あきれた。海軍はガソリンの欠乏に苦しんできた。
「悪党になったもんだな」
典型的な謹厳な陸軍将校で、尊敬もしていた親友の豹変ぶりにとまどった。彼からそんな話を聞くつもりできたわけではない。だが天馬はつづけた。
「今生きている日本人はみな悪党さ。正直者はみんな餓死した。それが敗戦国の姿だ。誰のものでもなくなった物資をアメリカに手渡すわけにはいかん。そう思うだろう」
「それはまあ……」
「ただ俺は役人の息子で馬と戦車のことしかわからん。商売には向かん。大店の若旦那ならうまく手をまわして売りさばけるだろう。一緒にやろう。いや、お前は必ずやる。わかってるさお前のことは。お前も俺を知りつくしている。だからお前はこれから俺と一緒に羽目を外すにきまっているとわかる」
矢之倉は天馬をみつめて黙り込んでしまった。
「見せたいものがある」
天馬は顎で矢之倉を誘って、彼の家に持ち込んで隠匿している陸軍の物資を見せて歩いた。それは矢之倉が唸ったほどの量で、父が高級官僚だった広い邸内は、部屋という部屋が大きな布袋や木箱で埋めつくされていた。衣服もある。米も酒もある。あらゆる食品類があるという。
「死に方ばかり考えながら帰ってきたんだろうが、あせることはない。真っ先に悪友を訪ねたのが運の尽き、あるいは運の付きだ。もう少し生きる気になれ……闇屋、という生き方がある」
「やみや?」
矢之倉は初耳だった。
「世を捨てたやくざ、いや、世をすねた渡世人といおうか」
「渡世人……」
「そうだ。今のお前は、届け出て米軍の裁きを受けない限り日本人ではない。戸籍を取りもどすことはできない。矢之倉ではなく偽名を使って生きるしかない」
「この世に未練があるなら……そうだろうな」
腕組みして思案する矢之倉に、
「何かを取り戻したい、このままじゃ引き合わない……そう思わないか」
「何かとは……」
「いろいろある。まずは国に捧げたわが青春を国から取り戻す。習志野にはまだまだある。米軍の手がまわらん内にどんどん運んでくる」
「もう置き場がないだろう」
矢之倉が屋敷を見まわすと、
「心配ない、タイミングよくお前が来たからな。商売仲間がいるだろう、明日からまわれ、といってもお前自身が歩き回ってはまずい。キク姉さんをたずねろ。空襲でやられるまでは店を切り盛りしていたそうだからな。高く売ってくれ」
運命の横滑りで、帰国の日が大型闇屋、ブローカー矢之倉誕生の日となった。さしあたって、ほかにやることはない。
人生どう生きたかはどう死んだかで決まる。急ぐことはない。天馬のいうとおりゆっくり考えるのもいい。納得いく死にかたを見つけるまでとりあえず生きてみようか、という気になっていた。
昼間は人の目があるという天馬の忠告で、夜になってからキクを訪ねた。矢之倉商店の焼け跡に防空壕を掘って、母親と幼い男の子、女の子の4人で暮らしていた。キクも母親も、突然の矢之倉の訪問を夢かとばかり驚いた。
キクは買い出しのため母親の実家の深谷へ行っていた。一夜泊まったその晩が空襲で、一人家に残った父は矢之倉の両親とともに焼死体になっていた。埋葬もすませたということで、寺には内緒でこっそり案内してくれた。
キクは生活のため昼間は友人の世話で新宿のヤミ市で働いているという。すでに日本は飢饉状態だったから種苗では商いにならないという。
「よしキク姉、大きな商売がある。手伝ってくれ。種苗問屋を再開する資金ぐらいすぐにも稼げる。食糧難だそうだから、種は今に商売になるようになるさ」
ざっと今後のことを説明して、天馬から預かってきた1万円の札束を渡すと、
「まったくあんたって子は人を驚かすことばかりやるのね、いきなり地獄から帰ってきたと思ったら大変なお土産つきで」
目を丸くしたキクは、ヤミ市をやめて早速翌日から販路を求めて奔走しはじめた。
(命は国に捧げた。亡霊はしばらくさまようか。捉えるなら捉えてみろ)
矢之倉は肚を決めた。いざという時の自爆用に、手榴弾も天馬からもらってポケットにいれていた。
その月の30日にマッカーサー司令官が厚木に降り立つと、身辺に危険が迫ったはずだが、亡霊は顔色一つ変えなかった。肚はすわっていたが用心して、しばらくは天馬の家に潜んでいた。
販路拡大をはかるキクとの連絡と品物を運ぶ役は、もと矢之倉商店の丁稚でっちで召集され、復員してキクを頼ってきた岩間だった。岩間が軍隊仲間で真面目ひとすじの大河原と柱谷を誘った。三人とも失業者だから大喜びで闇事業に忠誠を誓った。
天馬は闇屋と直接取引するなど不得手なことからは手を引いた。人に頭を下げることがきらいな彼は、すれっからしのブローカーとの取引では、二言目には腹を立てて怒鳴りとばしてしまう。自分自身むいていないと思っていたから、これ幸いと、
「俺は習志野から運びこむ役目に専念する」
と告げた。
いざその体制で動き始めると、キクの才覚を得て矢之倉の仕事ははかどった。やはり商人の血が流れているとキクが感心したほど駆け引きにたけていて、迫力ある商談ぶりで、まちがっても闇ブローカーにつけ込む隙をあたえるようなことはなかった。
天馬は天馬で、矢之倉からたんまり報酬が入るのでご機嫌で、暇ができれば好きな釣りをしてきて、刺身や天ぷらを母親に作らせ、
「ポンポン蒸気も呑気でいいぞ。今日はキスが大漁だ。馬や戦車もいいけど、何といっても江戸前の魚は最高だからな」
笑い飛ばして毎晩矢之倉と酒を酌み交わして母親を心配させた。
その年の10月末のある夜の酒盛りは軍隊小唄だった。
♪七つボタンを脱ぎ捨てて 粋なマフラーの特攻服 飛行機枕に見る夢は 可愛いスーちゃんの泣きぼくろ……
例によって二人が飲み、手を打ち、箸で茶碗を叩いてどら声あげていた。
♪大佐中佐少佐は老いぼれで といって大尉にゃ妻がある 若い少尉さんにゃ金がない 女泣かせの中尉どの……
少尉さんと矢之倉を、中尉どので天馬を指した時だった。
天馬の母が顔色をかえて駆け込んできた。
「ちょっと……さっきから家の前をうろうろしている男がいるんだけど」
「警察かな」
矢之倉が眉をひそめた。
「なあにかまわん、追い返してくる。警察なんぞ叱り飛ばしてやる」
まだ将校気分そのままの天馬が胸をはり、玄関から門まで出て行ったが、笑いながら戻ってきた。うしろからついてきたのは、矢之倉のもと腹心の部下、源場辰五郎下士官だった。
「おう源場きたか……無事だったか」
矢之倉が目を丸くした。
源場は、もしもの場合は天馬の家にこいと矢之倉からいわれていた。
「表札は燃料代わりに持っていかれてな、だから探してうろついていたそうだ」
と天馬が苦笑いした。
源場の報告によると――
零戦で狭山へ脱出した18機の戦友たちは翌22日に厚木へ連れ戻され、抗命罪によって捕らえられた。陸軍の彗星13機も同じ運命だった。
26日には米軍先遣隊の輸送機13機が、続いて30日には連合軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木に降り立った。
その後10月15、16日に、巣鴨拘置所で日本最後の軍法会議、横須賀鎮守府臨時軍法会議が開かれ、小園司令は抗命罪により無期禁固刑が言い渡され、即日官位が剥奪されて横浜刑務所に収監された。士官は禁固刑が確定して横浜刑務所と横須賀刑務所に収容されたが、下士官と兵は執行猶予で釈放になったという。
小園司令の処遇は、矢之倉にとって大きなショックだった。腕組みしながら聞いていたが、
「めちゃくちゃになったな、日本人のやることが……」
腹立たしげにうなって、コップ酒をあおった。
「お前こそめちゃくちゃだ。つかまったら禁固刑じゃすまん。敵前逃亡だからな」
天馬がいいながら酒を注ぎ足してやる。、
「極刑だな、でも亡霊はつかまらん」
と矢之倉が受ける。
「いえ……」
源場が手をふった。
「少尉殿は厚木脱出のときに機体もろとも自爆したということで処理されました。自分も聞かれて、間違いないと答えておきました。敗戦のどさくさで、日本兵は消息不明だらけらしいです」
「ああ、俺もどさくさのおかげで稼いでいる。いくさに負けるとはそういうものだ。結構結構!」
酒の勢いで天馬は得意になり、矢之倉も、
「俺は死人か……それはいい。亡霊は死なず、ただ消え去るのみ。ハッハ、死んだ人間としてすこし生きることにするか」
と支離滅裂になると、天馬が上機嫌で膝を叩き、
「地下に潜ってな。ハッハッハ。武士道といふは、死ぬ事と見つけたり、だ」
矢之倉が引き継ぐ。
「毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身しにみになりているときは、武道に自由を得、一生越度をちどなく、家職を仕果しおほすべきなり」
「だいぶお酔いになってますね」
源場はあきらかに異常な二人のやりとりに呆れながらも、この時の彼は自身も死を覚悟していたので、笑顔でいちいちうなずいていた。
「名を惜しむ武士は偽名なんぞ使わんぞ。米軍にとっつかまったら奴らを巻き添えにして木端微塵だ。そうすりゃ多少はスカッとするだろう」
矢之倉が吐き捨てるようにいうと、天馬が頷いて手を叩く。
「ようし、前祝いだ。母さん、すみませんが酒を追加してください。おい源場、貴様も飲め」
「はい、シラフじゃお話についていけませんから」
と酌をうけてあおり、天馬は茶碗を叩く。
矢之倉も手をたたき、今度は海軍小唄で、
♪花は桜木 人は武士 語ってくれた人よりも……
源場も手を打ち始めた時だった。玄関のガラス戸を激しくたたく者があった。
「天馬さん、警察の者ですが……」
「まずいですね、私がここにいては」
源場ははじかれたように立ち上がった。猫のように動きが俊敏な男だ。
「おおう、今行く」
天馬が大声で叫んで玄関へむかった。
「自分は裏口から消えます」
源場が天馬の母とうなずきあい、母が気を利かせて裏口へ案内する。
「少尉殿、自分はどうせ命を捨てた男です。郷里へ帰っておふくろや兄貴たちに顔を見せたらすぐ戻ってきます。必ず!」
「待ってる」
矢之倉も短く伝え、源場は去った。
天馬の大笑いする声が聞えたのは、しばらくたってからだった。
「ご苦労!」
もうひと声叫んでから戻ってきた。
「怪しい男がうろうろしていると、隣の奥さんが電話したんだそうだ。源場のことだよ。ハッハッハ……あれ? 源場は?」
荒川べりの矢之倉の寝顔に、思い出しわらいが浮かんだ。
かすかにポンポンという音がきこえはじめ、矢之倉は回想を中断されて跳ね上がるように身軽に立って大きく伸びをした。
下流に姿をあらわしたのは、スクリューの船外機ではなく焼玉エンジンで動く<ポンポン蒸気>と呼ばれる小舟である。
一見したところ漁から帰る貧しい漁船で、貧しいナリの漁師が一人乗っている。日本手ぬぐいで包んでいる顔は天馬だ。積荷はもちろん魚ではなく習志野から運んできた陸軍の隠匿物資である。
矢之倉がふり向くと、土手のほうからはリヤカーが下ってくる。電柱のようにひょろ長い復員兵が腰を曲げてひくリヤカーの両側を、二人のずんぐり復員兵がころがるように駆け下りてくる。
つづく