西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」
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6 ガンマン対さむらい (6) || 池袋ぐれんの恋

 (6 ) 

 庭の桜の苗木が真っ直ぐ三メートルほどの高さにのびて細い枝をのばし、朝日を横から浴びてまさに散りどきで、はなやかに花弁を舞わせている。
 人形づくりに精を出していた恭子は、ランプのあかりを消して早朝から縁側に出てその作業をつづけていたが、睡魔におそわれてウトウト夢と現の間をさまよっていた。眠気をはらってまた仕事にもどろうとして何やら気配を感じ、重い眉をあげた。
 降りかかる花の下に立った矢之倉が、にっこり笑いかけた。
「よう……」
 軽い挙手の礼は慣れたスマートな動きだが、顔色はさえないし痩せて無精ひげをはやし、セーターにズボン姿のやつれた様子で、いつもの精彩がない。
 恭子の表情にサッとよろこびが走ったが、同時に心配と不安もつきあげた。
「まぁ……」


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-さくら


 立って庭へおり、下駄をはいて歩みよった。
「退院なさったんですか?」
「いや、一時外出だ。これを見たくて」
 と桜を見あげた。
「咲きましたわ、見事に」
「うん……」
 矢之倉は陶製の太鼓型の椅子にしずかに腰をおろした。
「ソメイヨシノだ。大木になるぞ」
「成長が早いんですのね」
「寿命は人間とほぼ同じ四五十年。どんな生きかたをするのか、お恭に育てられて」
「大事にしますわ、あなたがくださった苗木ですもの」
「こんな風に散りたいもんだ……」
 矢之倉はほれぼれと見入っている。
 恭子も子どものころから馴染んできた大好きな光景だけに感慨をおぼえたが、同時に矢之倉の胸中を思いながら横顔を見て、彼に死がせまっているのを読みとっていた。
「山吹か……」
 矢之倉がつぶやいて、近い場所に咲いている八重山吹に目を移した。
「ええ、いつも桜が終るころに咲くのが楽しみで……」
「うん、これも美しい花だし黄金色おうごんいろは絶品だが、往生際が気にいらん。きたない。枯れて腐って灰色になっても、いつまでもしがみついている」
「ああ……」
 それは恭子も同感だった。
「そっちのあじさいもだ」
「ええ、咲き終わったら切り戻しをしないと……」
 うなずきながらいってしまってから、恭子は口をつぐんだ。郷里にいたころ父がそうするのを見て育ったので真似てきたのだが、切り戻しとは伸びた枝や花茎を切ることだ。今の彼にいうべき言葉ではなかった。
「見苦しいな、自分で散ることを知らん花は……」
 ふりむいて矢之倉が恭子を見た。
 その重い目の色に圧倒されて、眠りからさめた。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-人形


 作りかけの人形は手からはなれ、膝から転がり落ちていた。
 庭を見るが、そこに矢之倉はいない。陶製の椅子などこの庭にあるはずない。あれは恭子の育った家の庭にあったもので、父が愛用していた。
 現実の桜の苗木はまだ一メートルにも育っていないし、散る花びらはない。
 山吹やあじさいはまだ開花前で、夢にくらべたらはるかにさびしい庭である。
 ふっとため息をつき、人形を拾いあげて胸に抱き、不満をぶつけるようにポンと尻を強くたたいた。


 この年の春から初夏にかけては天皇陛下がGHQにマッカーサー元帥をご訪問になり、新憲法が施行されて、文部省が天皇陛下万歳や天皇の神格化的表現の停止を通達するなど、日本の歴史はまた大きく転換したのだが、首藤家にも大きな変化があった。
 まず、岳士と恭子が岳士の合格通知を報告しに行ったら、防空壕で寝たきりだった秀雄が久しぶりにうれしそうな満足顔を見せ、口元に笑みを浮かべたが、その夜ひっそり他界した。
 恭子は最後のお詫びの気持として、ヤミ市でびっくりするほど高値でしか買えない棺桶と薪を買い求め、メンソラのおばさんが隣組に通知してくれて、葬儀は高雲寺で簡素に行った。岩間が三輪トラックで乗り付け、大勢は乗れないので恭子と岳士だけが同乗して落合火葬場へむかった。すっかり岳士を長男あつかいして、心の底では頼るものさえあった。
 つづいて岳士の千葉への出発、初子の新制中学進学、真弓の幼稚園入園などと連日あわただしかった。母親としての役割に追われながらも、古着屋と人形づくりの手も抜けなかった。

 まだ近所の子どもたちのほとんどが着の身着のままという貧しさだから、初子や真弓もそれに合わせればよかったが、岳士は遠いところへ一人で旅立つのだから、最低限のことはしてやりたかった。今度はいつ会えるか声を聞けるかわからない。この時の恭子にとって、房総半島の最南端は遥か遠隔の地であり、心に穴があきそうな寂しさをおぼえていた。
 出かける数日前の朝、恭子は岳士を連れてヤミ市の中の鞄屋へ行き、通学用の肩かけ鞄と学帽代わりの戦闘帽を買った。桃子が転入試験の時安房農学校で訊いてメモしてきた通学スタイルにあわせた。中古品だが、岳士は上等すぎるよと大喜びだった。
「さ、じゃ店をあけるから手伝ってちょうだい。磯海さんも佐川さんも今頃は仕入れの時間だから」

「はい!」
 足をはずませていく岳士を恭子がうれしそうに追った。

 岳士に戸板をはずさせながら、台にしているミカン箱の中から恭子がつかみ出したのは、カーキ色だが金ボタンがついた学生服だった。
「岳士……」
 とひろげて見せると、何気なくふりむいた岳士の目がみるみる輝きをました。
「ええっ?」
 恭子はニンマリして、
「着てごらん、さ、そんなの脱いで」
「ホントなのお?」
 夢ではないかとばかり、岳士はその場で大急ぎでみすぼらしいセーターとズボンを脱ぎ捨て、大事そうに着替えて金ボタンを一つ一つ丁寧にはめた。
「よかった。さすが岩間さんだわ、ちょうどいいのを探してくれたわね」
 岳士は服を見るうつむいた姿勢のまま、急に動きをとめてベソをかきだした。
 この年は中学校に配給券がくばられ、抽選で当たった非常に幸運な者だけが指定された学生服専門店へ行って購入できたのだが、それすら生活苦のために手ばなす生徒の親たちがいて、岩間が手に入れたその服も中古であった。陸軍の残した物資の流用であろう。官給の学生服はすべてカーキ色で、帽子はほとんどの公立校が戦闘帽だった。
「どうしたのよ。ほら」
 恭子は苦笑しながら買ってきた鞄を肩にかけてやった。どうみても、もう浮浪児ではない。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-兵士


「ほら、こっち向いて……いいじゃない! 立派な中学生さんよ」
 恭子が背をそらせて見ながら大きくうなづくと、 岳士はポロポロッと大粒の涙を流し、裏返った声でやっといった。
「ありがとかあさん……」
「なによ。親として当たり前のことをしただけじゃない。あそうか! 運動靴もボロだったわねえ」
「ええ? いいよもう……」
 と二人で見おろしたズックが、破れて指が見えている。

 見合って、ふたりでニコッとなった。
「ついでよ、奮発するから靴屋さんへ行って買ってきなさい。ほらッ」
 と百円札をつかませた。
「すぐ行きなさい。靴屋さんにもその姿見てもらいなさい」
 と、かばんを取り、向こうをむかせて追い出すように尻をたたき、岳士はよろけながら道に出た。恭子は岳士を追いかけてきて力いっぱい殴ったあの靴屋に、意地でも見せたかった。
 涙の頬をを手でぬぐいながら走って行く岳士を見送ってから、彼が脱いだものを鞄に詰めこみ、人形と古着類をミカン箱から出して台の上にならべていると、
「おばさん……」
 と表に立ったのは、ひと目でそれとわかる不良少年三人だった。
「モグラどこいったの?」
 と一人がいきなりそう訊いた。
「え?」
 恭子は何のことかわからないでキョトンとなった。
「シラミっていったほうがわかるんじゃないの?」
 と次の少年がいい、三人目が、
「浮浪児だよ、田林……」
 と、にやついて斜めに恭子を見た。
 田林は岳士の姓だから、恭子はムカッとなった。
「何なのよあんたたち、同級生?」
「フン、いなくなってサッパリしたよ。教室でシラミうつされちゃたまんねえからな」
 と、わざとらしく手にしてきた孫の手で背中を掻いた。
「千葉へ行く、とか先生がいってたけど、上野じゃないの?」
「そうだよきっと、上野の浮浪児千人出戻りって新聞に出てたから、あっちだと思うぜ」
「行ってみようか」

「臭せぇんだよな、あそこ」

「汚ねえしよ、ゴロゴロしてやがって」

「死ねってんだよまったく!」
 悪態ついてあざ笑いながら、三人は去って行く。
 新しい運動靴をはいて走りもどってきた岳士が、三人の後姿を見て、あわてて数軒手前の店の看板に身をかくした。
(そうだったのか……)
 睨みつけておいてから、恭子は座りこんで思いめぐらした。
 岳士が千葉へ行きたいといいだしたのはあまりにも唐突だった。本当に農業を志したのだろうか。そこへ追い込み、転校を決意させたのは同級生たちのいじめだったにちがいない──あの調子でからかったのだろうと、くやしさがこみ上げていた。
 顔をあげると、岳士が気まずそうに店の前に立っていた。
「ああ、おかえり。買ってきたのね?」
「……ごめんね、ヘンな奴らが来て」
「見てたの? ううん、なんでもないわよ。本当にヘンな奴らね」
「気にしないで。僕には、いい仲間もいるんだから」
 岳士はサバサバした顔でいった。
「え? そう……」
 恭子はちょっと救われた気分になった。
「仲間は選ばなきゃあ……助け合える、信じあえる奴だけが仲間なんだ……」
 目を一方に落とし、自分にいい聞かせるようにつぶやく岳士に、恭子は心を揺さぶられた。浮浪児仲間と助け合って生きてきたにちがいない、そうでなければこの年の子がこんなことをいうはずない。
「農学校でも、大勢いい仲間をつくるんだ」
「えらい! そうしてちょうだい……たのしみね千葉が」
 挫けたりグレたりするのではなく、悔しさを希望に転換させるなんて、この子は立派だと、いとしさがこみ上げた。
 信じあえる仲間という言葉が頭にこびりつくと、反射的にハナちゃんが浮んだ。
 一昨年広島へ帰った直後に、何のもてなしもできなくて申し訳なかったと葉書を送り、去年の暮れにもお元気ですかという葉書を送ったが、一度も返事は来なかった。貧しい家に置いてもらえなかったかと心配したり、手紙を書くのが不得手だから寄越さないのかと想像したりしていたが、このころは手紙以外に連絡の方法はなかった。
「おおッ?」
 と表で声がして、今度は磯海と佐川がのぞきこんだ。
「どこの学生さんかと思ったら、岳士君じゃないの。なあ佐川」
「うん、すごいな……思ったより男前だぜ」
 二人とも、岳士が千葉の農学校へ行くことはすでに知っていた。
「そうよ。立派でしょ?」
 恭子がいうと、岳士がヘッとテレ笑いを浮かべ、おどけて胸をそらせて見せた。磯海と佐川がワッと笑いあい、暖かい目で岳士をつつんだ。恭子はもう二人の仲間を肉親同様に感じていた。家族や信じあえる仲間がふえればそれだけ心を豊かにしてくれる。

 この二人は岳士が千葉へ出発した朝も、恭子と同じように店を休んで池袋駅の改札口まで見送った。いよいよ別れの瞬間は岳士も恭子も目に涙を浮かべたが、二人ももらい泣きしながら、

「がんばって勉強しろよ」

 と思いっきり手を振っていた。

 六月になって豊島師範の焼跡の真ん中に、建築用の足場(長い丸太)が二本、数メートル離して立てられた。何だろうと人々が噂しあううち、二本のあいだに大きな白い布を張ってスクリーンが作られた。
 岸輝子主演の『わが生涯の輝ける日』は、日が暮れてから、その雑に地ならしされて凸凹の多い焼跡広場で上映されるのだった。戦争映画ばかりで、劇映画など何年も見ていない。恭子も興味はあったし磯海や佐川から誘われもしたが、見るのはやめた。千葉にいる岳士からのハガキが昨日届いたのだ。こまかい几帳面な字でびっしり書かれてあった
『拝啓 ごぶさたしましたが、僕はますます元気です。菜の花はまだ咲いています。池袋へ持って帰ったのは間引きしたもので、今は一本一本がもっと大きく太くなっています。もうじき田植えがはじまるので、菜の花はその前にタマネギや春ジャガなどと一緒に収穫しなければならないし、朝は暗いうちからおじさん(岩間さんのお兄さん)のお供で船に乗って漁にも出ています。学校の宿題もあるので、夏休みは池袋には帰れません。すごく忙しいんです。もう顔も体も真っ黒です。毎日いろんなことを教わってすごく楽しいので心配しないでください。おじいさん(岩間さんのお父さん)から聞きましたが、この辺りは冬でも暖かいし野生のミツバチが多いので、きれいな草花がいろいろと育つのだそうです。楽しみにしていてくださいね。母上様 岳士』
 菜の花は菜種油をしぼるため、米の裏作として古くからひろく栽培されていた。行灯をともすための必需品だったからで、戦後何年かたって電灯が普及したり安い外国産の油が入ってきたりで急速に衰えるのだが、このころはまだ首藤家をふくめて多くの家庭でランプに使っていた。 
 最初の文を読んだとき、恭子は眉をしかめた。「上海便り」という戦中の流行歌を思い出したのだ。それは、戦地にいる息子が親に送った手紙の内容だった。


 ♪拝啓ごぶさたしましたが 僕はますます元気です 上陸以来今日までの 鉄のカブトの弾のあと 自慢じゃないが見せたいな……


 大陸とは中国大陸のことで、鉄カブトに敵弾があたるほど危険な戦地にいる弟を思い浮かべてしまうので、恭子は唄わなかったが、当時誰もが知っている歌詞を引用したのは岳士の茶目っ気にすぎないのだとわかる。彼がやる気になって働いている様子を思い浮かべると、たのもしかった。

 映画を見て楽しんでいたら申し訳ないという思いで、恭子は日暮れとともに店をたたむと、広場の人だかりを横目に見ながらまっすぐ家へむかった。夏服姿の人形作りに励むつもりで、明るいうちに流行のファッションの載った雑誌を買い込んでおいた。
 映画鑑賞はもちろん全員立ち見で、人々は大写しにされる俳優の映像を、風が吹けばユラユラ波うってゆれるスクリーンの表側と裏側から見あげていた。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-映写会


 帰宅した恭子を、思わぬ贈り物が待っていた。
「榎田キクさんのお使いっていうおばさんが来たの……」
 と初子が風呂敷包を見せた。
「キクさんから? なにかしら」
 開いてみると浴衣と帯が出てきて、手紙もあった。
『今年の夏は西口で盆踊りがあるそうなので、子どもたちを連れて行けるよう、浴衣を送ります。楽しんでください。キクより』
「わあ初子、これあなたのよ。ほら……」
 ひろげてあてがうと、初子は大喜びしたが、首をかしげて、
「あのおばさん、たしか空襲前は、うちの近所の自転車屋の子だったと思うんだけど」
「日の出町の? そう……キクさん顔が広いからねえ、女学校は池袋だったそうだし」
 恭子もうれしくて舞い上がっていたが、浴衣は一目でわかる恭子、初子、真弓、誠一のものだった。
「岳士のがないわね」
「いいんじゃない? どうせ千葉なんだから」
 初子も岳士からの葉書を読んでいたからそんな風に受け流したが、恭子はキクが岳士がいなくなったこと知っているのがちょっと意外だった。

 手紙の情報は正しくて、盆踊りの噂はまもなくヤミ市のなかでもひろまった。
 そんなある朝だった。
「恭子さん、真弓ちゃんから聞いたけど、ヤミ市で盆踊りをやるんですって?」
 とうれしそうに目をキラキラ輝かせてやってきたのはメンソラのおばさんだった。
「そうなんですよ。実は子どもたちに浴衣をくださったかたがあって、困ってるんです」
「浴衣を? すごいじゃないこのご時世に……なんで困るの?」
「だって私盆踊りなんてやったことないし」
「ああまかしといて。私が教えてあげる」
「ええ? おばさんが踊りを?」
「バカにしないでよ。これでも若いころは日舞をならったこともあるのよ」
 一人で三人の子どもを連れて人ごみの中へ行くのは不安で引っ込み思案になっていたのだが、おばさんに勢いづけられて出かける気になった。ところがおばさんは近所の人たちも誘ったので家族総出で参加する家もあって、大人数にふくらんで顔なじみの人たちと楽しい時間をすごすことになった。


 櫓やぐらには裸電球がたくさんぶら下げられて、復興池袋のムードが盛り上がっていた。
 恭子はおばさんの踊りには期待したのだが、いつものモンペ姿のままで、櫓のまわりで踊る人たちの動きを見習ってついていくだけのように見えた。でもおばさんは面倒見がよかったし、初子、真弓、誠一が近所の人たちと楽しそうに踊ったりふざけあったりしているのがうれしかった。もちろん恭子自身は近所の人たちにあわせてモンペを着て出かけたが。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-80パーセント盆踊り


 笛や太鼓は見事な腕前だったし、踊る人々の顔は明るく、日本が平和をとりもどしたことを実感しているように見えた。ただ、こんなたのしい騒ぎは久しぶりだから、音につられて愚連隊の殴り込みなど、いつどんな騒動がおこるかわからないと思い、油断はできなかった。
 そこへ初子が走ってきた。
「お母さん、いたわよおばさん、浴衣をもってきてくれた人……」
 指さすほうを見た恭子は、その女性より、女性と一緒に楽しげに踊る男に目をとめた。ときわ通りで自転車屋をやっているはずの、あの飛田である。
「初子、あの人、自転車屋さんの娘さんだったっていってたわね」
「うん、間違いない。今ようく見てきたけど。お嫁にきたのね、あのおじさんのところへ」
「なるほど……」

 恭子は目を凝らして二人を観察した。

 翌日、恭子は店へ出る前に、自転車屋をさがしてときわ通りをあるいていた。飛田にあえば何かわかりそうな気がしていた。
 矢之倉がもう何か月も姿を見せない。商売の関係で関西へ行っていると岩間はいうが、なぜ連絡もないのか、病状が悪化して入院しているのではないかと気がもめている。
 岳士の件でも疑問をいだいていた。岩間は貧しい家の育ちで矢之倉商店に丁稚奉公していたと聞いているし、桃子も岩間さんの実家は裕福そうではなかったといっていた。三年間の学費は決して安いものではない。本当に岩間の父が出してくれているのだろうかと。
 そして今回の浴衣である。キクからのプレゼント、というのがいかにもデキスギに思えた。背後に矢之倉の影を感じていた。
 焼けあととに建てられた飛田自転車店のみすぼらしい住まい兼用の店と手製の看板はすぐ見つかった。
 女が一人で客の自転車のパンク修理をし、別にもう一人パンク修理の客が待っていた。
「奥さん……」
 声をかけると、女はキョトンとした顔をむけた。自転車を持っていないので客ではないと思ったらしく、
「いらっしゃいませ……」
 といっただけでパンク修理にもどった。
「昨日はありがとうございました」
 というと、怪訝そうな目になった。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-自転車屋


「え?」
「浴衣を届けてくださって」
「どちらさんですか」
「あなた、日の出町の自転車屋さんの娘さんだったでしょう?」
「はい……」
 素直にうなづいて、女は首をかしげて恭子を見た。見覚えがないという顔だ。
「飛田さんいらっしゃらないの?」
「あ、はい……ちょっとあんた」
 と、多少親しみをおぼえた様子で奥へ叫んだ。
「はいはい」
 飛田は例によって軽い調子で答えて、食事でもしていたらしく口をもぐもぐさせながら出てきたが、恭子を見るとギョッとなって立ちどまった。そして、
「ああ……」
 いつものように間のぬけた挨拶だった。
「お久しぶりです。キクさんからの浴衣、ありがとうございました」
「え? ああ……」
「キクさんにはよくお礼をいっておきますから」
「ああ、いや……」
 あわてて手をふり、飛田はあきらかに動揺していた。
「矢之倉さんにはお会いになってるんですか」
「はい、あ、いえ……近ごろは……」
 気が弱く人のいい飛田は、完全に馬脚をあらわしていた。
「そうですか、ちょっとお礼をいいに来ただけなので。それでは……」
 恭子は一礼してその場をはなれた。
 充分だった。読めた。ヤミ市の中で、ふとしたはずみに三度ほど飛田を見かけた。いつも話しかけようとしたのだが、飛田は姿をくらまして恭子と会おうとはしなかった。
(やはりコソコソ見張っていて、私の様子を報告していた)
 と腑に落ちた。
 一方飛田は考え込んでいた。ときどき恭子を観察して、どんな生活ぶりか、困っていないかを矢之倉に報告にいっていたのだが、恭子にはばれないようにしろと釘を刺されていた。まずいことになった。新妻に訊いた。
「君、浴衣わたすとき、まさか飛田ですっていわなかったろうね」
「いうわけないじゃない」
「だよなあ? 知らない人間の顔しろっていったんだからな」
「ところがあの人、私のこと知ってたらしいのよ。日の出町の店のことも」
「ええ!? そんなバカな。絶対知らないと思うから行かしたんだ」
「そんなこといわれたって……」
 西口の焼跡で盆踊りをやるらしいと報告したら、じゃお前の女房に浴衣を届けさせろといったのは矢之倉だった。自転車屋仲間の紹介で結婚相手をみつけたと矢之倉には報告してあった。矢之倉からということを隠したかっただけで、キクの名前を使えば恭子が受けとるという計算だった。
「おかしいなあ、なんで君のことを知ってるんだろう。不思議だなあ」
「なんだか気持のわるい話ねえ」
 飛田は矢之倉に叱りつけられるのが怖くて首を投げ出したが、気が弱いだけに、明日はあやまりに行かなければ自転車屋を取り上げられると、一晩なやむことになる。
 キクに電話した恭子は、
「浴衣? なんのこと?」
 というキクのひと言で目的をはたした。送り主として名乗りをあげないのは矢之倉らしいいたずらというか、愛情表現のようにも思えるが、ともかく生きてはいると確信できた。気取り屋、見栄っ張りの矢之倉だから、夢の中のように貧相な自分は見せたくない、元気になってからでなければ現れないにちがいないと思うことにした。

 が、八月になって、今度は飛田が盆提灯を持って恭子の家を訪ねてきた。
「先日は私が手違いをいたしまして、大変失礼をいたしました。まずこれをお読みください。矢之倉さんからのお手紙です」
 と封書をさしだした。
『亭主の新盆の供養だ。二等兵がヘマをしたが許してやってくれ。日本は粋な国で、新暦と旧暦、おまけにひと月遅れというのまであって融通が利く。前後したが悪気はない。だいぶ元気になったので、涼しくなったら迎えに行く。手伝ってもらいたいことがある』
 と、簡単な走り書きだった。
 恭子は嬉しさとおかしさが同時にこみあげて、にっこりした。
「飛田さん、ご苦労様でした。ありがとうございましたと、お伝えください」
「あ、そうですか。いやあこれで自分、ホッとしました。ありがとうございました」
 最敬礼して、飛田は腰の抜けたような足取りで去って行った。

 秋になって、ハナちゃんが突然やってきた。
 今年は暑中見舞いにかこつけて、ハナちゃんに手伝ってもらいたい仕事があると書き送ったのだった。何が何でも呼びたかったのだが、これもナシの礫だった。いよいよ気が気でなくなっていたところだった。迎えに行きたいが、そんな余裕はない。両親の墓参りにもいけないのだ。

 だから、大きなハナちゃんがいきなり風呂敷包みを背負って玄関に現れたときは、よく来てくれたと涙が噴き出るほど感激した。
「お嬢さん、ごめんなシャー……」
 ハナちゃん特有の大声だった。
「何回も手紙をいただきながら、ウチが字をよう書かんことはご存知じゃけえ思うて……」
「いいのよ。元気な顔を見たらもう……さあ、あがって。さあさあ」
 恭子は手を取って引っ張りあげるようにした。嬉しくてたまらず、ともに手を取り合ったまま腰を落とし、顔を見合って泣いた。
「元気でおってくれてありがとうハナちゃん」
 恭子はハナちゃんの手を拝むように頭の上にもちあげた。
「まあお嬢さんウチこそ」
 今度はハナちゃんが拝んだ。
「はよう来たかったんですが、ついでに刈入れまで手伝うてから行けいわれましてなあ」
「ああ、それはそうじゃろう」
「ウチがお手伝いするような仕事が、東京に本当にあるんでしょうか?」
 ハナちゃんは自信のなさそうな口ぶりでいった。
「大丈夫。なんだってあるから安心して」
 最悪でも人形づくりを手伝ってもらおうと思った。恭子の母の仕込みで、ハナちゃんはちょっとした繕いものぐらいはこなしていた。だが、もっともっと力持ちのハナちゃんに適した仕事がありそうで、かねがね岩間に打診していたのだが、もう直接矢之倉にたのもうと、またうれしくなった。矢之倉に会ったら最初に岳士の学費の礼をいおうと思った。
 だが、本当に元気な姿を見せてくれるのだろうか、という不安が大きくふくらんできた。


 つづく



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6 ガンマン対さむらい (5) || 池袋ぐれんの恋

 (5 ) 

 冬のやわらかい日ざしが、おだやかな東京湾のさざ波にキラキラ映えている。
 昭和二十二年の正月を迎えていた。

 ♪ 菜の花畑に 入日うすれ 見わたす山の端 霞ふかし……

 明るい歌声がきこえてくる。
 夏なら東京近郊の海水浴場としてにぎわう幕張に近いのどかな海辺の道を、オート三輪が走る。やがて到来する戦後の軽三輪トラックブームより数年前だから、戦前の無免許小型自動車規格の三輪だ。

 海浜ニュータウン計画によって昭和四十八年に埋め立てが始まるが、それまでは現在の国道14号線あたりが砂浜で、京成電鉄幕張駅から鄙ひなびた民家の建ちならぶ道をすこし歩くとすぐ漁船が並び、海苔の養殖場など、のどかな海辺の光景がひろがっていた。
 道といっても自動車ために作られた道路ではない。物資などの大量輸送は水上航路にまかせ、集落と集落をつなぐ人が歩くための道で、街中は右左折やカーブが多かったからスピードは出せない。
 現代人から見ればお粗末だが、当時オート三輪はすすんだ乗り物だから、運転する岩間は得意顔だし、荷台でガタガタゆられる桃子と岳士も気持よさそうに歌っている。
 二人のあいだには大きな一把の菜の花が置かれ、桃子も一輪手にしている。
 声をあわせて唄うそのはずみに、二人の目があった。
 岳士が肉親の姉にするようににんまりする。
 桃子も笑みをかえし、
「よかったね岳士君」
 岳士はうなずいて、
「♪ 春風そよ吹く空を見れば……」
 遠くに目をやり将来を夢見て胸ふくらませる様子の岳士に、桃子が急に涙ぐんで顔を手で覆った。
「え?」
 岳士がおどろいて歌をやめ、桃子をのぞき見る。
「お母ちゃんも喜んでくださってるだろうな、と思ったら急に……でもいいよね? うれし涙だもの」
「桃ねぇちゃんに手を合わせてるよきっと」


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-泣き出した桃子


 実際岳士は手を合わせる母の面影を思い浮かべていた。彼が入学したい学校へ、母のかわりに桃子が付きそって願書を提出してきた。
 岩間の実家、南房総の千倉の家にも寄ってきた。菜の花が咲き乱れ、太平洋の廣い海がひろがるすばらしい大自然につつまれた素朴で古いありふれた農家で、二人は岩間に案内され、潮風を胸いっぱい吸い込んできた。菜の花は岩間の父が摘み取ってくれた。
「あんなところで学校へ通えるなんて、しあわせよ」
「うん、ついてたしね、旧制最後の学年だなんて」
「ホント、幸運よ。お母ちゃんが守ってくれたんだわ」


 幸運とは学制改革、つまり6・3・3制への移行だった。
 千葉県立安房農学校は大正十一年創立の旧制(五年制)の中等学校だったが、この年から新制の農業高校(三年制──現・千葉県立安房拓心高等学校の前身)に格上げされるため、新一年生は募集しなかった。
 全国的に旧制学校と新制学校が混在した二年間の始まりで、旧制中学の三年生は新制高校一年生にそのまま進級したが、一年生と二年生は行き場をうしなった。そこで、すべての公立中学校と足並みをそろえて、安房農業高校併設中学校を仮設してその二年生と三年生になるのだった。つまり池袋で小学校高等科一年を終了する岳士は、その仮設校の二年生への転入試験を受けられる学年──という歴史の過渡期の幸運であった。

「よかったわね、6・3・3制になってどうなるのかと気をもんだけど」
 帰った二人を迎えて、恭子もよろこんだ。
 狭い店へは入りきれないから、持ってきた大きな菜の花の束を店の前に立てかけたまま、三人は立ち話だった。
「合格すれば義務教育の新制中学へは行かないで、ぎりぎり最初から農業の専門教育をうけられるんだよ。学力検査は二月の十二・十三日で結果の発表は十九日だって。千倉のつぎの南三原っていう駅から歩いて学校まで十分。定期券を買って、電車通学なんだ」
 岳士が悦びに興奮した早口で恭子に報告し、桃子が付け加える。
「そう、駅から太平洋に向かって歩くと学校は海の手前にあるのね? いいところよ。房総半島の南端だから、岳士君日に焼けて真っ黒にになるわよ」
「何よりだわ、まだ顔色の悪いのが気になっていたから」
 恭子が小さく拍手をおくり、
「初子も新制の池中、池袋中学というのができてその一期生になるし、真弓は来年から忠信幼稚園だし」
「みんなでお祝いしないとね」
 という桃子に恭子が、
「ありがとう。桃ちゃんがついて行ってくれてよかった」
「うん、やっぱり父兄がいないと、カッコつかないもんね」
 岳士がほこらしげに桃子を見る。
 保護者という言葉はあったが、当時は桃子のように女性であっても父兄と呼ばれ、こんにちの保護者会を父兄会といっていた。まだまだ男性中心社会のままだった。
「岩間さんのお父さんに感謝しなければね、学費を出してくださるなんて夢のようだわ」
「家は古いけどお金はあるのねきっと」
「桃ちゃん、今夜うちでご飯食べて行きなさいよ、 菜の花でおひたし作るから」
「そうね、せっかく仕事を休んだんだからゆっくりしたいし、笙子さんのお宅へもすこしおみやげに持って行きたいわ」
「それがいい。こんなにたくさんあるんだからご近所にも配って……」
 そのときだった。
「あら、菜の花。うわあ!」
 と、通りかかって奇声をあげたのは、紺のモンペに真っ赤な半襟が似合って初々しい十七・八歳の美少女で、パッとその場の空気がはなやいだ。
「あらヤッちゃん、あげるわよすこし」
 恭子がふり向いていうと、
「え? ホント? 私大好きなの。そうだおばさん! ねえ売ってこれ全部。おねがい!」
 と身をよじる姿は甘える幼女のようで愛らしい。
「ぜんぶ?」
 恭子は思いがけないたのみに一瞬絶句したが、すかさず横から口をはさんだのは岳士だった。
「いくらで買いますか? これ、電車賃かかってるんだけど」
「え? そうね……五百円でどう?」
「売ります」
 岳士はたたき売りの商人のようにポンと手をたたいて即答した。
「わあ、うれしい!」
 ヤッちゃんは三回飛び上がって喜び、さっそく懐から大きな財布を出して百円札をかぞえた。
 のけ者にされた感じで、恭子と桃子はポカンと顔を見合った。
「はい、ありがとうございます」
 と岳士は受け取った札を恭子に押しつけてから、菜の花の束を肩にかつぎ、
「運びます。汁粉屋のヤッちゃんの店はわかってるから」
「え? そうお。私も帰るところだから。じゃ、ありがとおばさん」
 と恭子に挨拶し、人ごみを抜けてスタスタ歩いていく岳士を追って、ヤッちゃんはあわてて小走りに帰って行く。
 見送った恭子と桃子は呆気にとられたままだ。
「おひたし、お預けね」
 桃子がいい、恭子は手にした札を見て、
「おみやげも、ご近所も……」
「電車なんか乗りもしないのに、あの子ったら……」
 と桃子がいったとき、
「いやぁ、やりますねえ……」
 磯海がおどろき顔で出てきた。
「岳士君、ヤミ商人見込みありですね。相手が金持ってるのにつけこんじゃって……」
「ただよあれ、おみやげですもの……」
「でしょ?」
 と桃子と恭子のやりとりを聞いた磯海が、団扇うちわを使うように手をふり、
「かまわないですよ。ヤッちゃんの店は一日の売り上げ八千円だっていうんだから。まったくコチトラみみっちい商売してるっていうのに……」

 佐山も客の応対をそこそこにすませてきて磯海の袖をひく。

「いやそれにしても……見てたよ。五百円っていえば、サラリーマンの月給なみだよ。すごいなあ」
「あんなに食べきれないでしょうに……」
「ねえ、お汁粉につけて売るつもりかしら」
 と恭子と桃子がうなずきあったとき、岳士が帰ってきた。
「ただいま……あの花、食べるんじゃないんだよ」
「ええ?」
「行ってごらん……」
 とニヤリとなった岳士に店番をまかせ、恭子と桃子は狐につままれたような顔でヤッちゃんの店へむかった。
[ヤッちゃんの店]──
 という看板を出した汁粉屋は、連鎖商店街の一坪の店を二つぶち抜いてつないだ間口二間、奥行一間の横長の店で、ヤッちゃんと母親、もう一人の若い娘の三人が、つめかけた大勢の客を相手に忙しく立ち働いていた。一杯十円の汁粉を一日八百杯売るとの評判だからもうてんてこ舞いだが、
彼女たちの後ろの壁面にはズラッと黄色い菜の花がならべられ、貧乏ったらしく何のかざりっけもないヤミ市の中で、ここだけはまるで春の花園のようである。
 だから三人の美貌がますます引き立ち、生き生きして見えるし、客も春の気分を満喫しながら気持よさそうに汁粉をすすっている。
 のぞき見て、恭子も桃子も舌を巻いて言葉がない。やっと桃子がつぶやく。
「なるほどねぇ、頭いいわあの子、この店だけ春がきて活気づいちゃって……古着屋さんとはちがうわね」
 と姉をからかうが、恭子はなにを考えるのか相手にせず、真剣な目で店を見つめていたが、ふと独り言のように、

「世の中どんどん変わりつつあるわね……」
 桃子はキョトンとなって姉をみつめた。

 ヤミ市の肉屋で恭子が肉を買い、ふり向いてはずむ様子で、
「お待ちどうさま」
 と、道で待っていた桃子と岳士のところへ来て、岳士のもつ買い物籠へ入れる。籠にはすでにネギなどがはいっている。
「やっぱりすきやきのほうがよかったでしょ、花よりは」
 と岳士がそっくりかえって得意げだ。
「そうだったわね。岳士の機転のおかげで今日は大ご馳走ね」
 恭子もうれしい。
 三人ならんで幸せそうに軽い足取りで帰って行く。 
 恭子が訊く。
「その三輪トラックって、たくさん荷物を運べるんでしょ?」
「え、そりゃ、荷物を運ぶためのトラックだもん」
 と岳士が答え、桃子が探る顔つきで、
「なに考えてるの?」
「花をたくさん運んできたら商売になるんじゃないかと思って」
「やっぱり……ムリムリ。あれは商売に使ってるのを、昨日一日だけっていう約束で岩間さん借りてきたそうだから」
「花なんか持ってきたって売れないよ。みんながヤッちゃんじゃあるまいし」
 と岳士が相槌うったが、桃子が思い出したように、
「そういえば、野菜や魚は地元のおばさんたちがかついで、電車に乗って東京へ売りに行ってるっていってたけど……」
「かついで?」
 何かがひらめいた様子で恭子が訊きかえしたとき、
「あ、米の配給だ!」
 岳士が叫んだ。
 角を曲がって家の近くの道にはいったところで、前方を、誠一の手をひいた初子が重そうなリュックをかついでヨタヨタ帰る後姿が見えたのだ。
「おうい、待て待て」
 初子と誠一がふり向いた。初子のあかるい顔がはじける。
「ああ、お帰んなさい!」
 誠一は走りもどって桃子に甘えてその手にぶらさがる。
 初子に追いついた岳士が、
「よこせ。俺がかつぐから、お前これ持て」
 と買い物籠を押し付けてリュックを奪おうとする。
「いい。もうすぐだし、これは私の仕事だもん」
 と強い調子で振り払って、初子は行く。
「ちぇっ、意地っ張りだからなあいつは」
 と苦笑するが、だから岳士は気に入っているのだ。
「ホントに働き者ね初子ちゃん」
 感心していう桃子に、恭子はうなずきながら目がウルッとなって、
「性格かしらねえ……」

「この家の家族になったのがうれしいのよ」

「それもあるのね、一生懸命だわ。この頃配給はほとんどあの子が取りに行ってくれるのよ。助かるわ、私が長い時間並んでたら仕事にならないもの……さあ、うんと栄養つけてやらないと」

 恭子は晴れ晴れとした顔つきで胸をはった。苦境のなかで二人の幼子を立派に育て上げようと悲壮な覚悟だったころから一変して、岳士と初子が生きる楽しさを持ち込んでくれた。焼け跡のなかのデコボコ道までが、美しい豊穣な世界に思えてくる。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-今夜はすきやき


 その夜の首藤家はすき焼きだった。すき焼きこそがご馳走の代名詞といえた時代である。
 子どもたちがうれしそうに見守る前で、七輪の上においた大きな鍋に恭子がどんどん肉や豆腐や野菜をつぎ足している。
「じゃおばあちゃん、すみません。そのへん、もう煮えていますから」
 という恭子に、ハイハイと答えて粂子が肉などを皿に取り、飯の茶碗と一緒に盆に載せて玄関から出て行くが、慣れている様子で誰もが気にもとめない。
 入れ違いに磯海と佐川がきた。
「こんばんは……お言葉にあまえまして」
「すきやきの匂い、やっぱりいいですねえ」
「あ、あがってあがって」
 と恭子が手招きする。


「初子ちゃん、配給のお米って、あれどのぐらいあったの」
 と桃子が訊いた。
 台所でネギを切っていた初子がふり向く。
「ああ、あれ、一斗九升五合いっときゅうしょうごんごうです」
「ええ? じゃあ二斗近いのお? 一俵いっぴょうの半分じゃない。初子ちゃんには重すぎるよね?」
「でも私が行かなきゃ……」
 初子は当たり前のようにいいながら包丁を使う。
 恭子がそうなのよ、とばかり桃子にうなずいて見せる。
 一俵は四斗である。一斗は18.039リットルだからかなりな重量だ。大家族の主婦にとって一か月分まとめての配給の場合は重労働であったが、当時の子どもは体格は貧弱でも労働を苦にしなかった。体に一本筋金が入っていた。
「さあ、初子もこっちへきて食べなさい。もう煮えたから」
 恭子が立って行って、初子に代わって切ったネギを皿に取る。
「いただきまあす」
 岳士の一声で、初子もくわわって真弓も誠一もうれしそうに箸をだす。
 ネギをはこんだ恭子がそれを桃子にまかせ、
「おばあちゃんどうなさったかしら」

 と立ち上がる。
 桃子はネギを鍋に入れながら隣の初子に、
「初子ちゃんがよく働いてくれるから助かるってよ」
 初子が微笑んで、
「私も嬉しいんです」
 と肩をすぼめる様子に、浮浪児時代の初子の生活を想像して、今度は桃子が目を潤ませた。
 磯海と佐山も桃子の気持をくみ、初子にやさしい目をむけてうなずきあう。この二人も家庭的な雰囲気には飢えていたから嬉しげだ。

 鍋からあがる湯気を中心に、あたたかく平和な空気が部屋をつつむ。


 恭子が玄関から出ると、秀雄の防空壕の前で粂子がションボリしゃがみ込んでいた。
「おばあちゃん……」
 声をかけると、粂子は顔だけむけて弱々しく首をふった。目の前の石の上に、手つかずの料理を載せた盆が置いてある。
「………」
 恭子は盆をとって防空壕へ降りて行く。
「あなた、全然召し上がれないんですか?」
 だが秀雄は向こうをむいて横たわったまま、ふりむきもしない。
 恭子は思わずためいきをつくと、怒りがこみあげてつぶやく。
「まったく、なんのための戦争だったのか……」
 
 轟音をあげて、ゼロ戦がつぎつぎ飛びたって行く。
 南太平洋の夜明けの空である。
「小隊長どの、一足お先にまいります」
 という部下たち大勢の声が重なりあってつづくのへ──
「おう、武運をいのる。俺もあとから行く……俺もいくぞ……俺も行く!……」
 矢之倉が叫び続ける。



西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-うなされる矢之倉


 病室のドアをあけて横田医師がかけつけ、ベッドでのたうちまわっている入院患者矢之倉を起こす。
「矢之倉君! 矢之倉君! 起きるんだ。目を覚ましなさい!」
 と頬をたたく。
 矢之倉はやっと目をさまし、横田を見る。
 二人、じっと見合う。矢之倉の呼吸ははげしい。
「また、同じ夢みていたね?」
「……お騒がせしました……恥ずかしいことで」
「いや……苦しんでいるんだね……さ、いったんはっきり目を覚ましなさい」
 横田は矢之倉をそっと助け起こしてベッドに腰かけさせ、並んで自分もすわる。
「部下はもう呼んでなんかいないさ……とっくに戦争は終わったんだ」
 矢之倉はうつむいたまま、だまっている。
「私はね……君と身近に接してみて、この度のような戦争をはじめた日本軍をけしからんと思うようになった。国のために役立とうという気持は誰にでもある。もちろん私にもあった。しかしそういう大勢の尊い愛国心を軍隊はじつに軽く扱ったということが、君の苦しみを見てきてわかったんだ」

 矢之倉はがっくりうなだれた。
「軽く扱った奴がいたのは確かです……しかし戦争を始めたこと、そのものは決してまちがいではないんですよ」
「いや、誰がなんといっても絶対まちがっていた。新聞でもいろいろな人たちがいっているじゃないか、日本は実にバカな戦争を始めた、特攻隊は犬死だったと……」
「今になってそんなことをいう奴らは卑怯です。それが信念だったら、彼らはなぜ戦争中黙っていたんでしょうか」
「君にはまだわからんのかね、まだ軍国思想に洗脳されっぱなしなのかね」
「洗脳じゃありません……やむにやまれぬ思いというのはあります」
「呆れたな。単純すぎるよ君は」
「ええ、単純です。それを誇りに思っています……戦争にはバカな戦争も正しい戦争もありません。どっちにも言い分があるから始めるんです」
「言い分なんかない! 国民をこんな目に合わせたのはバカだよ。悪だよ」
「……先生は、関ヶ原の合戦の東軍と西軍、どちらが正しかった、どちらが悪だったと思われますか」
「関ヶ原?……」
 予期せぬ質問に、横田医師は言葉を飲んだ。
「結果として、西軍は負けました。トップが無能だから負けたのであって、豊臣家を守ろうとした武将たちは、やむにやまれぬ思いで始めたんです。純粋な気持をののしることはできません」
「それは、そうだが……」
「勝てば官軍負ければ賊軍……勝ったほうは相手を悪ときめつけて自分たちを英雄として歴史にきざみ、負けたほうのいい分は葬られるのです」
「わかるが、それとこれとは……」、
「ちがいません。数千もの若い特攻隊員たちは、国のために命を捧げたのです。靖国神社に祭られている尊い御霊みたまたちを悪だと決めつける連中を私は許しません。そういう奴らが充満している今の日本を許せません。弱い劣等国と見下されてヘラヘラ笑っていられる奴らは日本人じゃない。腰抜けになって生きながらえるよりは、犬死といわれても腹を切るのが武士、さむらいというものです。自分の命という、最も大事なものをあえて軽視してみせたから潔いさぎよいのです。崇高なのです」
 困惑する横田を前に、矢之倉の目には涙がある。
「ううむ……ま、ま、今日のところは気をしずめて、静かに寝てくれ。いや、起きろといったり寝ろといったり……なんとかその夢から解放されないもんかなあ」
「今度はいつごろ外出できますか」
「……まだ出かけたいのかね」
 矢之倉の目に力がこもる。

 明るい朝日を浴びて、荒川にちかい天馬邸の前に岩間の運転するオート三輪が来る。荷台から大河原と柱谷が飛び降りた。
 古い木製の門はオート三輪を通すために、片方の門柱ごと動いて大きく開かれるように改造されている。大河原と柱谷がその門を開け、岩間は今日も大得意でエンジン音をあげてノンストップのまま玄関前へと進む。
 玄関脇の庇の下には、矢之倉が乗っていたラビットも置いてある。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-三輪バイクで乗りつける


 天馬が釣竿の手入れをしながら顔をあげた。
「どうだ、矢之倉の容体は……」
 彼の道楽のための釣り道具にかこまれた部屋で、岩間が暗い面持で答える。
「それが、外出許可がなかなか頂けないもんで……」
「フッフ、おとなしく医者のいうことを聞いているとは、あいつらしくないな」
「でも、やらなければならない大仕事があるとか……」
「大仕事? なんだそれは……」
「さあ……そろそろこちらの、つまり隠匿物資もなくなるころだからでしょうか」
「………」
 天馬は一抹の不安を覚えるが、竿磨きにうつる。

 岩間は遠慮がちに言葉をかける。
「物資の売り払いが終わったら、オート三輪はお返しになるんでしょうか?」
「返す? 誰に」
「いえ、もう用がすんだら、そうなるんじゃないかと……」
「冗談じゃない。これからは自動車の時代だ。敗戦で市場を失った航空機産業からの転入企業が乗り込んで、三輪も四輪ものびる。俺ももうあんなリヤカー代わりじゃなく、もっといい奴を買って乗りまわそうと思ってるんだ」
「もっといい奴……」

「うむ、進駐軍の将校が乗ってるだろう、ああいう奴だ」

「ホホウ……」
 岩間の目が輝いた。
「よろこぶな。今年三月に内務省管轄の自動車取締令が改正される。小型自動車の無免許優遇措置は廃止になるぞ」
「廃止……どういうことになるんですか」
「どうって、免許のない奴は運転できなくなる」
「ええ? それはこまります」
「だったら試験に合格するように勉強しろ」
「勉強、ですか……」
 岩間はしぶい顔になる。
「さてと、もう待てん。病院へ行ってみるか……矢之倉を連れ出さんと仕事にならん。案内してくれ」
 と天馬が膝をたてた。
「ちょっと待ってください。兄貴はかならず近いうちに来ますよ。天馬さんが行くと面倒なことになります」
 岩間はあわてた。

 矢之倉の病室へ、岩間が報告に来ていた。
「始末が悪いですよ。天馬さんはここの先生をやぶ医者と決めつけているんですから。もっといい病院へ連れて行くって……」
 ベッドにうつ伏せの矢之倉は、枕に顎をうずめた姿勢で苦笑する。
「あいつらしいな」
「親友とはいえ、兄貴にそっくりですね。あのかた、ここへきたら先生を怒鳴りまくりますよ」
「いや、ここの先生を俺は信じている。しばらくおとなしくしているさ。退院どき、外出どきは、俺が決める」
 体力が弱った様子の矢之倉を見て岩間は不安にかられているが、口には出しにくい。彼の頭には、岳士から『一生のおねがい』と頼まれたときのことが引っかかっていた。

 岩間は去年の暮、そのことを矢之倉に打ち明けている。
「一生のおねがいだあ?」
「困ってるんですよ」
「岳士って、お恭の家のとなりのガキか、根性がある、とかいってたな」
「ええ、浮浪児生活できたえられて、したたかなんです。百姓になっておふくろ、を助けたい、家族みんなに腹いっぱい飯をくわせたい。岩間さんのお父さんに、僕を使ってくれるようにたのんでくださいっていうんですよ」
「お前の実家、人を雇うほど裕福になったのか?」
 岩間の父正造も若いころは矢之倉商店の丁稚をやっていたから、今も矢之倉とは親しい間柄である。半農半漁で貧しいことを知っているだけに、矢之倉は意外だった。ただ、この年にはじまった農地改革の話題が彼の頭にあった。


 農地改革とは、大地主から政府が強制的に土地を安く買い上げて、それまで地主から借りて耕作していた貧しい小作人たちに安く売って自作農を増やそうという政策で、農地解放とも呼ばれ、何百年もつづいてきた農村の地主小作人制度を崩壊させた戦後史の大転換だった。昭和二十二年から二十五年までの三年間に小作農から自作農になった(裕福になった)人たちが続出したので、岩間の実家もそんなことになったかと矢之倉が考えたのは無理からぬことだったが──
「まさか……ウチは貧しいままですよ」
 岩間は手をふった。
「じゃ、ことわればいいじゃないか」
「ことわりましたよ。でも『一生のおねがい』って食い下がられましてね……泣けちゃったんですよ。真剣なんです。あいつの心根を聞いたら、可愛い奴だなって思っちゃって……」
 岩間はホロリとなる。
「小学校の高等科へ行っていると聞いたけど……中退する気か?」
「それが……一生懸命働くから、できたら農学校へ行かせてもらいたいって……」
「農学校へ? はっはっは、虫がいいな」
「いのちがけっていう顔で拝まれちゃって。もうちゃんと調べてるんですよ、千葉県立安房農学校へ行きたいって。ところがそんな学費、出してやる余裕なんてうちにあるはずないでしょう」
 岩間の顔をじっと見ていて、矢之倉には一つの考えがうかんだ。
「ううむ……成程したたかだ……よし、行かせてやれ。正造さんには俺が手紙を書く。学費は内緒で俺が出す」
「え? やっぱり!」
 岩間は涙ぐんで顔をクシャクシャにした。
「兄貴はそういう人だと思ったんですよ。こんなこといったら、お前はクビだって怒鳴られるかと思ったんですけど、でもあいつのために、お願いしてみようかと……」
 矢之倉は腹の底からわらいあげた。
「わかってるさ、お前もそういう奴だ。そのかわり、正造さん以外には秘密だぞ」
「もちろんです。早速つたえてやります」
 岩間は吹っ飛ぶようにして岳士の防空壕へ行き、こんな風に話した。
「学費は俺のオヤジが出してくれることになった。そのかわりいっとくけどな、ウチは本当は貧しい。俺の兄貴、長男が継いでるんだが、オヤジも働いている。真面目にやって仕事をおぼえろ。オヤジのいうことはよく聞くんだぞ」
「はい! 一生懸命やります」
 岳士は涙をながしてよろこんだ。

 ベッドの矢之倉も、そのことは忘れていなかった。
「学費のことだけどな、近いうち卒業までの分まとめて渡そう」
「ええ? ありがとうございます」
 岩間はホッとした。矢之倉の中には、岳士というより岩間に対する愛があった。こういう命がけになれる人間、他人の命がけの心情をくみとれる男を彼は好きだった。
 ただ、そのためにも、彼はこれから大きな勝負をしなければならなかった。病院にジッとしてはいられないのだ。 
 岩間はいいにくそうにしていたが、思い切った様子で、
「そうそう、お恭さんですけど……黙ってますけどね、兄貴のことを知りたいらしいんですよ、すごく心配しているようで」
「仕事で関西のほうへ行ってると……」
「いいましたよ。でも、自分も顔あわせるたびに、つらいんですよ……いいんじゃないですか、入院して療養中っていってあげても」
「いうなといったろう」
 矢之倉はきびしくいって顔をそむけた。     


 つづく



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6 ガンマン対さむらい (4) || 池袋ぐれんの恋

 ( 4 ) 

 窓からさし込む月明かりだけが、部屋の照明だった。
 ベッドにならんで横たわったまま、矢之倉も、恭子も、じっと天井をみつめていた。
 会話は、なかった。
 二人とも真剣なまなざしで、それぞれ思案にくれていた。
 矢之倉の脳裏には、数時間前に診察した白髪の老医師横田の沈痛な顔があった。
「ゼロ戦のエースを何としても救いたい、救うのが私の使命だと思っていたんだが……」
 立ってワイシャツのボタンをかけていた矢之倉が、手をとめて振りかえった。
 その目を見て、椅子に座って両膝に手を置いた姿勢で横田はつづけた。
「進行している」
「……あと、どれぐらいですか」
「一年、 持つか持たぬか……もっとまじめに通って来なければダメじゃないか」
 眉に皺よせていう横田に、矢之倉は落ち着いた表情でうなずいた。
「申し訳ありません。ご配慮には、感謝しております」
「治そうという気がないんじゃないかね」
「いやそんなことは……ただ、運命とあれば、甘んじて受けいれようと思うだけで……」
 医師はムッとなった。
「運命だって? 私は最善をつくそうと思っているんだよ……まったく……簡単に,生きることを放棄するのが日本男児だという考えかたは、私はきらいだ」
「申し訳ありません」
 頭をさげたが、くるべきときが来たかという、達観した様子がみえる。


 が、ベッドの矢之倉の顔には、ちょっと違うにがい後悔の色がある。
 ふと、何かにせきたてられたように恭子がつぶやいた。
「私、帰らなければ……」
「うん……」
 矢之倉がこたえ、半身をおこすと、ガウンをとって裸身を覆いながら立ち上がった。
「下で、待っている」
「はい……」
 そのほうを見て恭子はこたえたが、矢之倉がドアを押して出ていくと、ベッドわきのソファーに脱ぎちらかされているモンペや下着に目をおとした。すると急に涙がこみあげて夜具に顔をうずめた。

 矢之倉はスタンドの明りの下でブランデーグラスをあおってから、ふり向いて階段のほうを見やった。
 恭子は、降りてこない。
 病状をどう打明けるか、決断はついていない。
 もう一度ボトルをかたむけてグラスの底を染めると、テーブルにおいた揃いのグラスにそっと、いとしそうに自分のグラスを触れさせた。テーブルのグラスにもほんの少量の液体がはいっている。
 一人だけで乾杯すると、大事に、深く味わうように喉へ流しこむ。
 うまい──しみじみ思うと、あらためて人生に未練がわいた。命ある限り精いっぱい生きてみようという気になった。国籍も戸籍もない。名乗って出て米軍に裁かれるなんぞごめんだ。恭子に病状を打明けなければ無責任だが、どこか泣き言めいて、暗い。生をまっとうすることにはならない。常住死身になりて居るときは一生越度なく──葉隠の言葉がよみがえる。
 カチ……
 二階のドアがあく音がして、恭子が音もなく降りてくる気配を背中に感じていた。
 もとのモンペ姿にもどった恭子が、目を落としたままで来て向かいのソファーに浅く腰をおとし、矢之倉を見た。興奮からさめきらず、頬はまだ紅潮している。うるんだ目で卓上にならんだグラスに目をやり、手に取る。
 うなずき合って、そっとグラスを触れ合わせた。
 矢之倉は、ともすると深刻になりがちな自分を悟られまいとするように、グラスの中の液体をグルグルまわしながら、いたずらっぽい目になって、
「ばかばかしいから人にいったことはないが、中学時代によく見た夢がある……空を飛ぶんだ……」
「中学時代に?」
「家のあたりを、電線をさけながら、手を鳥の羽のようにばたつかせると結構飛ぶ……」
 と空いたほうの手でその真似をした。
「ああ……」
「面白くて、下界の景色をたのしんでいた。気づいたヤツはびっくりして、上を指さして大騒ぎする。その上をスーッと飛んで二階家のむこうへ消える……」
 恭子も想像して笑顔になり、たのしくなっていた。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-空飛ぶ矢之倉


「鳥科の人間ですのね?」
「ハッハッハ、先祖は鳥だったのかもしれん。人をおどろかせることが好きで……そこへ、国のためという大義名分も加わった」
「それで予科練を……」
「親父は、中学出たらすぐ店を継がせることに決めていた。その先の学問なんぞ商人には必要ない、一年でも早く商売をおぼえさせようと考えていた。反抗心を燃やした。もっと……要するに、もっと飛躍したかったんだな……」
 恭子は一つの疑問がとけた思いだった。正確にいうと彼女なりの理解、思い込みというべきだが。
「わかるような気がしますわ、弟がそうでしたから。花は桜木人は武士とかいって、平凡な勤め人にはなりたくないと……堅実な、父の生き方に反抗する気持もあったようです」
「………」
 矢之倉の胸の内を知らぬ恭子はすこしきつい調子になった。
「あなたらしくありませんわ。なんだか今日は様子がちがうというか、後悔なさっているような……いいじゃありませんか、今までのあなたは好きなようにすごした、これからも好きなようにおやりになれば」
「そうだな……」
 苦笑したが、恭子にはまだ煮え切らない様子とうつった。
「私はあなたを好きになった自分を許しました。私の、初恋ですもの」
「……お恭の人生を狂わせるのは本意でなかった」
「ご心配にはおよびません。あなたのおかげで私、つよくなりました」
 矢之倉の表情に、ほっとしたような色が浮んだ。
「その意気だ」
「はい……」
 笑顔でこたえた。
「あなたも、もっと明るいお顔をなさってください」
「そうだな。そうしょうと決めた。ところで……」
 といいながら矢之倉はじっと恭子の様子を見守った。
「何か、困ったことがあって来たんじゃないのか?」
「え? いえ……」
 恭子は否定したが、狼狽はかくせない。
「考えてみれば、今日ここへ来る気になったのは、なにか理由があるからにちがいない……お恭のわがままを聞いてやりたいんだ」
 聞きながら、恭子の脳裏を岳士と初子がかすめていた。真弓が、誠一が──今の幸せを守ってやりたい。
「実は……家の立ち退きを迫られているんです」
「……いくらいる」
「さあ、いくらといってくるかは……」
 恭子は、大家の若原夫人の境遇、闇成金丸橋のことなどを説明して、いくら吹っかけて来るかわからないと告げた。
「ううむ……」
 矢之倉は考え込んだ。
 相手がしたたかな闇商人となると、裁判に持ち込む可能性もある。となれば無国籍者の出る幕ではなくなる。
「一日二日考えさせてくれ」
「は?……」
 恭子はちょっと意外だった。矢之倉には即断即決が似合う。こういう反応は予期していなかった。
「いや……そういう交渉事は、キク婆に頼んだほうがいいかと思ってな」
「そんな……いやです」

 恭子はキッパリといった。
「いや? 俺が行けばまた乱闘になる」 
「それも困ります」
「俺のたのみだ。キク婆は俺の姉だ。正確には従姉だが……」
「え?……そうなんですか?」
 半信半疑で訊きかえした。
「俺がたのめば、相談にのってくれるはずだ」

 矢之倉は、翌朝滝野川のキクの店を訪ねた。
 キクは、焼けたキクの家榎田商店の跡地で細々と種や苗の商いを始めていた。矢之倉商店の番頭と結婚して二軒を合わせ継いでいたので敷地は五百坪近かったが、焼けて草が生え放題の原っぱとなった広い土地の一角に住まい兼用の店はあって、キクとしては仮住まいのつもりの小さな安普請の建物だった。
 母に店番をまかせて、奥の部屋のコタツで矢之倉から話を聞いたキクは、ちょっと呆れた様子で、
「健ちゃん、そこまで惚れたの、人妻に……」
「そう思ってくれていい」
「らしくないわね。遊び人にしては」
「いや、キク姉にはすまないと思ってる」
 キクはちょっと皮肉な笑みを浮かべた。
「すまない? ひょっとして健ちゃん、私が結婚しないであんたの帰りを待ってると思ってた?」
「………」
「訊いてみただけ……いまさらどうでもいいけど、それは聞いておきたかったな」
「ううむ……」
 思い返してから矢之倉はいった。
「待ってると思っていたのはたしかだ……幻想だな、伯父さんも、親父やおふくろも、店も……何もかもが昔のままだと……」
「じゃ、復員した時は浦島太郎の心境だったってわけ?」
「……そんなところかな」
「わかった。私は結婚して子どもまで生んでいたんだから、あんたの期待を裏切ったっていうわけね。いいわ、いうこと聞いてあげる」
「……たのむよ」
「まかせなさい。そんなことより、前にもいったけど、矢之倉の土地を返すから利用したら? あんた種苗問屋復活させる気はないの?」
「ま、いずれは考えるよ」
 矢之倉は、キクにも病気の進行、というより病気そのものを打明けていない。もちろん、自分が無国籍だということも。

 矢之倉が帰ると、キクはさっそく着替えをして出かけ、恭子の店をたずねた。小雨が降り出したので番傘をさし、途中、闇屋仲間の不動産屋で下調べをしてくる抜け目なさだった。
 うつむいて人形作りに打ちこんでいた恭子は、前に立った人の気配に顔をあげた。
「やってるわね、元気そうじゃない」
「あらお久しぶりです! なにごとですか、こんな雨のなかを……」
「なにごととはご挨拶ね、弟にたのまれて来たのよ、立ち退きの件で……」
「ああ、やっぱり……」
「なによ、なにごとって訊いといて、やっぱりとは……」
「あ、そうでしたわね、すみません。あんまりにも早かったもので……」
「せっかちなのよ私、大事な弟のためだしね」
 キクはことさら「弟」を強調した。恭子を信用させるためで、案の定恭子はキクのペースに乗せられた。
「ここじゃ話せないわね。ちょっと店たためない? あ、印鑑ある?」
「はい……はい」
 恭子は磯海に鍵をわたしてあとをたのんで、キクのさしかける番傘に入ってしたがった。
「へえ、もう子分作ったのね。やるじゃない」
「いえ、子分だなんて……」
 キクが連れ込んだのは「千佳」だった。
「あらキクちゃん……」
 千佳はよろこんだ。
 カウンターでは、カツギ屋と店売り商人らしい二人がヒソヒソ話をしていて、ほかに客はなかった。昼間は酒は出さずコーヒーだけで、ヤミ屋の商談の場として利用されていた。
 キクはその二人のうしろを通り、たたんだ番傘を奥の板壁に立てかけながら、
「コーヒー二つね。こちら、私の新しい妹。同級生の千佳ちゃん」
 と二人を紹介してから、すぐ話にはいった。
「新築するとき、地主の承諾書もらった? 借地契約書はちゃんとかわしたの?」
「え? いえ……まだ口約束だけで……」
「じゃそれをすますこと。それからあのあたりの地代は今坪月一円が相場だから、それかける坪数。期限は二十年。そうそう、その前に去年四月に焼けてから新築までの地代を計算しなきゃいけないんだったわね。何か月かしら? 坪数は?」
 とバッグから手帳をだして鉛筆を引き抜いた。
 速射砲のようにポンポンいわれて、恭子は圧倒されながらキクを見て答えた。
 要点を聞きだし、簡単に打ち合わせをしてからのキクも早かった。
「じゃ、すぐ行こう」
 恭子を急き立てて若原夫人宅へ行き、まず恭子を一足先に玄関にはいらせ、丸橋が来ていないことを確認してから、傘をたたみながらスルリとすべりこんだ。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-若原夫人と話合い


「恭子の従姉でございます。いつもお世話になっておりますそうで。早くご挨拶に来なければと思っておりましたんですのよ」
 と愛想よく若原夫人との話合いにはいり、不動産屋に用意させた書類を出して手際よく説明しながら必要箇所に署名押印させ、実にたくみに思い通りにことを運んで終わらせた。商売上手の本領発揮である。
 恭子自身がまきこまれて、まるで本当の従姉のように錯覚して思わず、
「お姉さんそんなに急かしたら大家さんお気の毒ですよ」
 と笑いながら口走ってしまったほどなごやかなムードを作り上げ、人のいい若原夫人もキクの計算した今まで通りの相場の金を受け取って、終始上機嫌だった。
 雨あがりの道を店へもどりながら、
「お姉さんっていってたわね。うんそれでいい、これからはそれで行こう」
 キクもちょっとはしゃいでみせた。
「本当にありがとうございました。こんなに急転直下、解決してくださるなんて……さすがですわ。あの、お金はいそいでおはらいしますから」
 恭子もはしゃいだ。
「いいのよ、いそがなくたって」
 キクとわかれてから恭子が公衆電話ボックスにはいって報告すると、矢之倉も、
「それ見ろ。キク婆はなにをやらせてもそつがないんだ」
 とよろこんだが、恭子はこのことを次にいそいでしらせるべきは岳士だと気がせいた。恭子の胸中をくみとって彼が心を痛めているのがわかっていたからだ。岳士は苦労したせいだろう、まるで一人前の男のようにたのもしい相談相手になっている。
 初子は天使のような子でやさしい。素晴らしい二人が自分の分身のように家族にくわわってから、外でどんなにいやなことがあっても、家という恭子の心を癒してくれる場ができた。ことに今日は朗報をもっているだけに、帰るのがたのしい。今年の暮と正月は久しぶりに楽しく過ごせそうな気がする。
 まっすぐ岳士の防空壕にむかった。雨を吸えばモクは使い物にならないから出かけないとわかっていた。
 が、声をかけようと入口に近づいたとき、岳士の声が耳に飛び込んできて、思わず足をとめた。老人のようにえらそうな口ぶりだ。
「いいか、義理を忘れたら日本人じゃねぇんだ」
「はい……」
「俺もいのちがけで頑張るから、おふくろのことはたのむ」
「はい……」
 岳士と初子のただならぬ会話に耳をうたがった。おふくろとは恭子のことだとわかった。
「みんなが腹いっぱい飯をくえるように、一日もはやく米を送るようにする。いいな?」
「わかった……でもお母さん、許してくれるかしら」
「おふくろは今、いろいろと追いつめられているんだ。すこしでも助けるのが義理だっていってるんだよ」
「そうね、まかしといて」
「よし……」


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-岳士と初子


 内容ははっきりとはわからないが、岳士がなにか悪事をたくらんでいるような気がして、恭子はじっとしていられなくなった。いそいで防空壕を覗きこんでいった。
「あんたたち、一体なんの話してるの?」
「アッ……」
 二人は同時に声をあげ、一瞬気まずそうに顔をみあったが、初子が顔をあげて訴えるようにこたえた。
「岳士さん、お百姓になるんですって……」
「………」
 恭子は絶句した。なんのことやら見当もつかない。
「私もまだ聞いたばかりなんですけど」
 初子がいうと、岳士は万年床に上がって正座して手をついた。
「一生のお願いです。千葉へ行かせてください」
「千葉……どういうことなの?」
 岳士が説明した。
 岩間の実家が千葉の農家だと知った岳士が、一生食うに困らない百姓になりたいと岩間にたのんだ。
 岩間は恭子の許しがあればという条件付きで、実家の父に打診してくれた。
 岩間の父はよろこんで引き受けてくれた。実家は半農半漁で岩間の長兄が継いでいるが、人手が足りないから岳士がくるなら農学校へも通わせてくれるというのだった。
「まあ、そんなところまで話がいってたの……」
 恭子は驚いたが、目頭があつくなってきた。心根がいじらしい。
「千葉県立安房農学校っていうところへ、一年から入学しなおそうと思うんです」
「学校まで決めたの?」
「入学試験に受からなければならないんだけど……」
「ちょっと待って。そんな大事なこと、私の一存で決めるわけには……」
 恭子が逡巡すると初子がいそいでいった。
「岳士さん、お父さんにもお願いしに行くっていってます」
「そう、まっさきに相談しないとね」
 と引き返そうとして、恭子がふりむいた。
「ああそうそう。家の立ち退きのことだけど、もう心配しないでちょうだい。ちゃんと大家さんと契約かわしてきたから」
「ええっ? 本当?」
 岳士が信じられないという顔になったが、
「その説明はあとまわし。ちょっと待っててね」
「はい、私は家へ帰っていますから」
 初子の声をうしろに聞きながら、恭子はすぐ秀雄の防空壕へ向かったのだが、思いがけず、今度は中から粂子の取り乱した声がきた。
「もう死んでしまいなさい! 毎朝ベロベロに酔って帰って……あれほどいったのに」 
 びっくりしてかけ込んだ恭子は、一瞬凍りついた。
 秀雄は布団にうつ伏せに倒れ、土間へ首をたれるようにして大量に血をはいて、その前で粂子が土間にすわりこんでいる。
「あなた!」
 恭子はとびかかるようにして、秀雄を抱き起した。
「おばあちゃん、お湯わかしてください!」
 激しい語気にあおられたように、粂子がサッと立った。
「はい……」


 つづく



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6 ガンマン対さむらい (3) || 池袋ぐれんの恋

( 3 )

 ビックリガードからの坂道をあがりきったとき、たまたま上の道を荷台がカラの三輪トラックが砂ぼこりをあげて通りすぎた。もともと舗装などして
ない道が空襲でボコボコになっていた。
 三人は石屋の「土金」「勝又材木店」という看板のある店を左に見て西口駅のほうへむかい、ヤミ市へいつもとは反対方角の飲み屋街から入っていった。
 偶然、目の前の飲み屋から出てきたのはスッピンでくわえタバコのトミちゃんだった。

「あらトミちゃん!」

 恭子が叫んだ。

 トミちゃんは手をつなぎあった三人を見てキョトンとなった。
「あらあんたたち、古着屋さんと知り合いなの?」
「あなたを探そうと思ってたのよ」
 恭子がトミちゃんの腕をつかんだ。
「え? なんかいいこと?」
「とんでもない。あなたが紹介してくれたヒガシさん、あの人に引っかかっちゃったのよ。私が渡した3000円、知らないってとぼけるのよ」
 非難めいた口調になった。
「ええ? ストレプトマイシンの?」
 とトミちゃんは小声になった。
「そうよ。なんとかしてよ」
「そんな人じゃないんだけどなあ、ホントにとぼけた?」
「そうだよ」
 脇で岳士が強くうなずいた。
「だってあの人沖縄にいるはずなんだけど……」
「東口で会ったのよ、たった今……」
 恭子はくやしさをぶちまけた。
「そうお。どうしたのかなあ……もちろん今度きたらちゃんと聞いておくけど……」
「………」
 恭子はそれ以上いっても無駄だとわかった。パン助とGIのつきあいなどその場限り。連絡方法などないに決まっている。
「そうね、お願いするわ」
 恭子はため息まじりにいって別れた。ますます悔しさがこみあげる。
「トミちゃんは悪い人じゃないよ」
 岳士が恭子について歩きながらいった。
「あたしたちにもやさしいしね」
 と初子もいった。
「うん、トミちゃんは知らないらしいわね」
 恭子もお人よしのトミちゃんを信用していたから頼ったのだった。古着を買ってくれるお得意さんでもある。突然、
「手入れだ」
 うしろで騒ぎが起こった。
「パンパン狩りだ」
 見ると、トミちゃんが慌てて店へ飛びこむところで、その向こうからの道を警察官たちが走ってくるのが見えた。

 駆け込んだトミちゃんは、垂直の梯子をいそいで昇った。慣れた早業だ。
 この店も、その狭い屋根裏がパンスケたちが米兵を連れ込む最低の売春宿なのだ。トミちゃんは屋根裏部屋の木製の小窓をつっかえ棒で押しあけて裏の焼跡を見まわした。
 大丈夫──と判断して足から小窓へ体をねじ込み、外へ出て両手でぶらさがった。
 スカートが安普請の窓枠からはみだした古釘にひっかかって、パンティー丸出しになった。
 警官たちの騒ぎ声に急き立てられ、やむなく飛び下りたから、
 キーッ
 スカートの生地が裂ける音がした。
 着地したトミちゃんは、焼跡の瓦礫で足をいためてうずくまった。

 表では、警官の一人が岳士に走り寄って肩をつかんだ。
 岳士も初子も、もう浮浪児ではないという油断があった。
「お前ここでなにしている。そっちもだ」
 と初子にも手をのばした。
「何するんです、うちの子たちに!」
 恭子がかばった。
「うちの子だあ? こいつらは浮浪児だ。何回もとっつかまえた」
「嘘だと思ったら区役所へ行って調べなさいよ。本当に何回もつかまえたの? 人権蹂躙じゃないの! 今は民主主義なのよ」
 恭子の激しさに、警官はひるんだ。
「だったらおばさんよ、ダメじゃないかモク拾いなんかさせちゃ……」
「モク拾いは犯罪なんですか? 生活のために私がやらせてるんです。ひもじいからですよ。いけませんか?」
 警官はつまった。
「ううむ……まあいい、今日は……」
「ありがとうございました」
 恭子はサッと二人の手をひいてその場をはなれた。
「おばちゃん……」
 岳士が感心したように、たのもしげに恭子を見上げた。
 初子もうれしそうに恭子の腕に頰をつけて歩きながら、
「おばちゃんじゃないわ、お母さんよ」
 とつぶやくようにいった。
 恭子はうれしくて、ニンマリしながら、
「そうよ、タケシ、もう浮浪児じゃないのよ」
 岳士はチラッと恭子を見上げてから、真面目な顔ではっきりとうなずいた。

 大通りに出ると、幌をかけたトラックが停まっていて、連行されたパンスケたちが押し上げられ、荷台に放り込まれている。
「あ、トミちゃんが!」
 岳士が叫んだ。
 ハダシのまま連れてこられたトミちゃんが、警官に突き飛ばされてころがった。
「ダメッ」
 行こうとする岳士の手を恭子がつかんだ。
「立てこらッ、仮病使ったってダメだ。歩け!」
 トミちゃんはやっと立ち上がったが、痛めた足を引きずり、やぶれたスカートのまま追い立てられて行き、トラックに押し上げられて荷台に転がり込んだ。
 三人はたたずんだまま、憎悪の目で走り去るトラックを見送った。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-パンスケとトラック


 終戦直後、近衛内閣は進駐軍兵士のためにRAA(特殊慰安施設協会)を各地に作り、希望する女性を募集した。兵士たちの旺盛な欲望は、慰安婦をあてがわないと一般の婦女子に向けられる。軍隊とはそういう側面をもつ組織である。

 ところがGIが海外から持ち込む性病が免疫力のない日本人の間にたちまち蔓延して、RAA所属慰安婦の90パーセントが罹患し、米海兵隊の保菌者が70パーセントになったため、この21年の3月にRAAは急遽廃止された。そこで不自由を嘆いたのは米軍の下級兵士たちだった。
 日本の赤線(公許の遊廓)はGIオフリミット地域であったため、それ以後、彼らの性の処理はモグリ(非公認)の売春宿や街角に立つパンスケしかなくなった。アオカン(屋外での性交)を少年が見かける機会もあったし、使用済みのコンドームが道端に捨てられているのはザラで、風船と勘違いしてふくらます子どももいた。
 ますます性病はふえつづけたから、警察の「パンスケ狩り」は徹底して行われ、完治するまで病院から出さなかったが、パンスケが根絶やしになることはなかった。女が金を得るための最低限の仕事だからである。
       
 店に着いた恭子は、岳士と初子をあらためて磯海と佐川に紹介した。
「二人ともうちの子として区役所に届けたので、よろしくね。もう学校へ行き始めているのよ」
「そりゃよかったなあお前……」
 佐川が本心からいい、磯海も声をかけた。
「よろしくな。おれたちはこの人の弟みたいなもんなんだ。だから叔父さんだ」
 岳士はむっつり二人を見たが、恭子からちゃんと挨拶するようにといい含められていたのでしかたなく、
「よろしくお願いします」
 と頭をさげた。
 初子は誰からも好感をもたれる笑顔の可愛い子だったから、磯海も佐川もニコニコして、身内がふえたような幸せな気分になっていた。
 恭子は今日は仕事は午後からと決め、昼食のために帰ることにした。
 磯海が太鼓焼きを、佐川がモツ焼きを初子に持たせたので、岳士がこっそり恭子に、
「おでんのかわりにモツ焼きをもっと買っておみやげにしようかな、この匂いも実はたまらないんだ」
 とささやいたが、
(やめておきなさい)
 恭子は目できつくいい、岳士は疑問を残したまま口をとがらせてあきらめた。

 三人が家へ帰りついた時、玄関の中から大声が聞えた。
「だから払えねぇんなら立ち退けっていってるんだよ」


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-丸橋と秀雄


「そういわれましても……」
 恭子がのぞくと、秀雄が畳に手をついて弁解していた。
 その前でふんぞりかえっていたのは鼻の下にちょび髭をはやした男だった。闇成り金の丸橋である。
「甘ったれるんじゃねえ! 出て行かねえんだったらこの家は叩き壊すからな。その時になって慌てるなよ」
 恭子は秀雄のみじめな姿が悲しく、大きく深呼吸して心をしずめてから丸橋のうしろに立って声を荒げた。
「どちらさんですか?」
 丸橋はふり向いて恭子を見た。
「おう、お前がこいつの女房か」
 見下した態度でいった。
 恭子は毅然としていた。
「叩き壊すとおっしゃいましたね?」
「ああそうだ」
「やってごらんなさい。すぐ警察を呼んできますから」
「なんだとお?」
「当然でしょ? 他人の家を壊せば犯罪だということぐらい子どもでも知っていますよ」

「だったら地代を払えっていうんだ。すぐ払ってもらおうじゃねえか。家を建ててからは払ってるけど、それ以前の分、一年以上貰っちゃいねえんだ」
 と丸橋は立ち上がって恭子の前に仁王立ちになった。
 岳士が恭子をかばって間に入った。
「おう、お前はとなりのガキじゃねえか。丁度いい。舞い戻ってるそうだな。これから行ってたたっ殺してやろうと思ってたんだ」
 と突き倒した。
「何するんです!」
 恭子は激しい勢いで叫んだ。
「タケシ、交番へ行ってきなさい。強盗だからすぐ来てくださいって」
「強盗だあ?」
 丸橋はさすがに首をひっこめた。
「当然でしょう? たたっ殺すだの家をこわすだのって乱暴をはたらいて……どこのどなたか知りませんけど、うちも田林さんもあなたなんかにお借りしたおぼえはありません。若原さんという大家さんからお借りしているんです」
「おう、だからその若原の代理人としてきたんだ」
「代理人なんか私は認めていません。何してるの! 早く行きなさい。強盗が逃げないうちに」
 恭子は岳士を叱り飛ばした。
「はいッ」
 岳士が走った。
 丸橋は舌打ちしながら、走り去る岳士を見やってあわてた。
「何でぇこのばばぁは……第一、戦前の家賃のままじゃ引き合わねぇんだ。米の値段だって百倍以上になったんだからな。よし、新しい家賃を決めて、出直して来よう」
 いいながら、肩を怒らせたまま、それでも急ぎ足の大股になって去っていった。
 恭子は肩で息をし、初子に目配せをした。
 初子は機敏に察し、うなずいて太鼓焼きとモツ焼きの包みを恭子に渡し、岳士を追って走った。
 秀雄は座ったまま、ポカンとした顔で恭子を見ていた。
「あなた……」
 恭子は威厳と自信を失った夫をみつめ、やさしくうなずきながら玄関に入り、ガラス戸をしめた。
「かわったなぁお前は……」
 秀雄は感心した様子でいった。
「はい。闇商人として生きてきましたから」
 秀雄は深々とうなずいた。
「すまん……」
「いいんですのよ。早く元気になって昔のあなたにもどってください。たのもしいあなたに……」
 いいながら涙がこみあげた。
「うん……うん……」
 秀雄は弱々しくうなずいた。
「真弓と誠一は?」
「おふくろが預かってくれている」
 と秀雄が答えたとき、
「ただ今あッ」
 ガラス戸があいて、岳士と初子が帰って来た。二人とも思い切り走った様子で、息を弾ませている。
「あ、岳士交番へ行ったの?」 
「ううん、どうしようかと途中で迷ってたら……こいつ足が早いんだよ。だから帰って来た」
 恭子はうれしそうに初子を見た。本当に警察に届けなかったことにホッとしていた。
「そうお、初子は足が早いの?」
「まあ……運動会ではいつも一等だったから……」
 初子はちょっと得意そうにいった。
「いいなあ、それは……」
 秀雄もつぶやくようにいった。
「そうだ! モツ焼き食べようよ」
 岳士がいった
「あ、あれはダメ。太鼓焼き食べなさい」
「何で?」
「あれはね、もしかしたら、犬の肉かもしれないの」
「ええ? いいじゃない、ノガミじゃ犬の肉も食べてたよ」
「ええ? あのモツ焼き、犬?」
 初子が顔をしかめ、岳士を責める目で見た。
「ああ、この間一緒に食ったろ? そうかもしれないんだよ、お前にいうと食わないと思って……」
「ああいや、私はいやよもう……」
 初子は喉をおさえた。
「はっきりしたことはまだ分からないのよ、うわさを聞いただけ。でもあれは捨てます」
 恭子がはっきりいうと、 岳士は不満だった。
「ちえッ、もったいないよお……」

 小麦粉で作ったパンとイモ餡の太鼓焼きで昼食をすますと、恭子はさっそく若原夫人の新築の家を訪ね、丸橋の件を話して泣きついた。
「まあ、そんなことを……」
 若原夫人はびっくりして顔に怒りをあらわし、
「私からいってみますけど……」
 といったが、その弱々しい様子からはとても丸橋を抑えられそうもないと感じて、恭子は家を立ち退かざるを得なくなる不安におそわれた。たしかに戦前のままの地代がまかり通る道理はない。
 焼跡の道を思案しながらとぼとぼ歩いてくると、左手の道からくる復員兵から声がかかった。
「ああ、お恭さん……」
「あら岩間さん……」
「今お宅へ行こうと思って……」
「まあ、何ごと?」
「これです。薬、兄貴から……もう切れるころでしょ?」
「ええ? まあッ」
 思わず涙ぐんだほどうれしかった。秀雄のためのストレプトマイシンを喜んだのはもちろんだが、矢之倉から忘れられたわけではないという胸の鼓動だった。
「矢之倉さん、どちらにいらっしゃるの?」
「今夜は目白の家に泊まるそうです」
「今夜はって、どこかへいらしてたの?」
 岩間はちょっと口ごもって、
「ええ……ま、いろいろと……」
 激しく迷う様子だったが、
「商売で、あっちこっち……あの、これ」
 と紙袋を渡した。
「ありがとう。助かるわ」
 と受け取ったものの、恭子は岩間を見つめていた。が、岩間はこれ以上訊かれるのを恐れるように、
「じゃ、自分はこれで……」
 と、そそくさと去って行った。
 恭子は呼び止めようと思ったが、袋の中に手紙があるにちがいないと、声を飲んだ。
 でも袋の中に手紙のようなものはなく、前と同じ薬だけだった。
 感謝した。薬が切れたらもう秀雄はダメになるような気がしていた。
 急いで家へ帰り、防空壕にいた秀雄に薬をわたした。
「すまないな、これでまだ生きられる……」
 秀雄はささげ持つようにして頭をさげた。
 部屋に入ると、四人が一度に叫んだ。
「お帰りなさい!」
 岳士と初子が協力して一升瓶に入れた米を棒で突き、そばで真弓と誠一が遊んでいた。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-米を突く初子


 配給の米が黒いので、どこの家庭でもこうして少し白くして食べるのだった。
「ただ今……」
 四人仲がいいのを見るのがうれしい。この幸せを守り抜こうという気になる。いつものみすぼらしいモンペからこざっぱりした綿のモンペに着替えてから声をかけた。
「初子ちゃん、じゃそれで今夜お願いね」
「はいわかりました」
 初子は役にたつ子だった。出かける恭子を道まで見送った。
「あれが終ったら、おばあちゃんのお米も突いておきます」
「助かるわ、あんたが来てくれて……」
 恭子は心からいった。
「あなたのお母さん、立派なかただったのね、あなたをこんなによく教育なさって……」
 初子はうれしそうに肩をすぼめた。
「やさしかったんでしょ?」
 初子は感慨深げにうなずいて、
「今度のおかあさんと似ている……」
 といったかと思うと、うつむいてベソをかき、
「仕事が忙しくて……いつも働いていました」
 じっと見下ろす恭子の目にも、にじみ出るものがあった。
「だからよくわかってくれるのね……本当の、本当の親子になろうね?」
「はい……」
 両手をひざに当てて頭をさげる初子を、恭子はそっと抱きしめた。
 岳士たち三人が、どうしたんだろうという顔で見ている。
「あ、みんなが見ているわよ。さ、涙なんか拭いて。笑って……」
 初子は素直にその通りにし、ニッと笑顔を見せた。
「そう……いいお顔だわ、美人よ。たのむわね」
「はい。家のことはおまかせください」
「うん……」
 恭子はヤミ市へ向かった。
 店に着くとすぐいつもの汚い日本手拭いで頰かむりしたが、手袋はしないで早速人形造りにとりかかった。
 作りたての人形一つと綿入れのちゃんちゃんこが一つ売れた時、顔を出したのは黒江だった。
「やあ、やってるね」
「はい、おかげさまでなんとか……」
 黒江は声をひそめて、
「明日の朝10時ごろ……わかったね?」
 手入れがあるのを報せてくれた。
「午前中も来たんだ。いなかったね」
 黒江は矢之倉が来なくなってからは足しげくくるようになっていた。
「すみません、ちょっとうちのほうが……」
「ご主人の具合はどう?」
「ええ、結核ですからね……」
 不治の病だけに、恭子は弱々しくいった。
「いや、あれはストレプトマイシンという薬が効くんだけど……矢之倉にたのんでみたらどう?」
 黒江は探るようにいう。
「あのかたはもう全然いらしてないんです」
「ほう、どうして?」
「さあ……ですからもう、警察に咎められるような品物は置いていませんから」
 来てくれなくてもいいという意味だったが、
「ほう……亭主が帰って来たから来ないのかな? ご立派なことで……」
 まるで信用していない様子で、チラチラとなめるような目で恭子を観察し、あたりを見回したりしながら、来年も餅のない正月になるとか、闇屋がますます巧妙化してきた、警察としても徹底的に取り締まりを強化しなければならないなどと世間話をして帰っていった。
 冬の日は、5時にはもう真っ暗だった。
 恭子はいつものように共同水道へ行って顔を洗い、さっぱりしてから帰り支度をした。水が冷たかった。
「もうお帰りですか?」
 顔を洗うとさすがに美しく、佐川が目を輝かせて出てきて、戸板をはめるのを手伝った。
 礼をいって帰っていく恭子の、どこか物思いに沈む様子を気にして見送ってから、佐川は磯海の店をのぞいた。
「はい、毎度」
 焼いた太鼓焼きを客に渡すのを待ってから、
「おいやっぱりおかしいよ、あっちへ行ったし……」
 佐川がいうと、
「俺もそう思っていた。考え込んでいたし、着るものが違った。あいつのところかな」
 磯海も恭子が去ったほうに目をやって、苦い顔になった。

 恭子がむかった先は矢之倉邸だった。
 家立ち退きの危機を、とても自分の力だけでは回避できないというおののきがあった。立ち退くとなったら、せっかく幸せを実感していた岳士や初子との生活をふくめて、一家全員路頭に迷うことになる。
 玄関に立ったがノックへの反応はなく、鍵もロックされていたが、奥からピアノの音が聞こえる。
 木戸を押して庭へまわってみた。
 植木越しに見えたのは、スタンドの明かりの下でウィスキーをあおりながら片手でピアノを弾く──というよりは、自分を慰める様子で鍵盤を叩いている矢之倉だった。
 ガラス戸に顔を近づけると、ふと気づいた矢之倉が目を丸くした。
 暗闇の中の恭子を幻覚かと思ったらしく目をこすり、半信半疑でじっと見つめたまま立って近づいてきた。
 恭子が頭をさげると、
「おッ」
 と声をあげ、鍵をはずしてガラス戸を引いた。
「どうかしたのか?」
 恭子はすがるような目で見上げ、一瞬言葉をさがしてから、
「……お会いしたくて……」
 借金の相談をするつもりだったが、思わず本音が出た。
 強い男の力を本能が渇望していた。恭子にはまだ、両親に大事に育てられた女の子の弱さ脆さがあった。良き時代に住み心地のよい家庭で完全に保護されていた。父は強くたのもしく、どんな外敵からも守ってくれるという安堵感に包まれていた。
「夢か……」
 矢之倉はまだ信じられない様子でいきなり腕をのばして恭子を抱きあげた。
「下駄を」
「かまわん」
 そのままソファーに腰をおろし、恭子を横抱きにして頰擦りをした。
「会いたかった……」
「しあわせ……」
 恭子はつぶやいて目を閉じ、顔をのけぞらせて彼の唇を待った。
 矢之倉の唇はやさしく軽く触れたが、つぎの瞬間、恭子の体はふわっと持ち上げられた。
 そのまま階段を上がっていくのがわかった。
 階段の絨毯の上に下駄が片方落ちてコロコロところがったが気づかなかった。
 求める心は理屈ではなかった。これからいざなわれるであろう陶酔の世界への予感で、体はじっとり汗ばんでいく。
 矢之倉の愛撫はたちまち恭子を絶頂へと導き、飢渇をすべて癒し、埋めつくしていく。

「お恭の体の中にはなにか生き物がいてうごめいている」
 女の五感の働きに精通しているかのごとく、彼女の鋭敏な触覚をすべてといっていいほど刺激し、恭子の思いもよらなかった感覚器官までも目覚めさせる。
 二人はむさぼりあった。矢之倉のしなやかでたくましい体が野獣のことく襲いかかって果てさせ、果てさせて、前後不覚におとしいれた。

 恭子の店へ岳士が来たが、戸が閉まっているので首をかしげ、佐川の店をのぞいた。
「佐川さん、おふくろ、帰ったんですか?」
 佐川は、店の中で仕事をしないで、思案投げ首で座っていた。
 焼き上がったモツヤキは積み上げられたまま客のくる気配はない。力なく顔をあげて、
「え? ああ、首藤さんならもうとっくに帰ったけど……」
「じゃ行き違いかなあ」
「いや、6時ごろだったよ」
「ええ? おかしいなあ……どうかしたのかなあ」
「まだ帰っていないの?」
 と出てきて思わず、
「畜生……」
 うなるようにいうのを、岳士はじっと見た。
 磯海が出てきながら佐川に<いうな>と目配せするのに気づいて、岳士が疑惑を深めた。


 つづく


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6 ガンマン対さむらい (2) || 池袋ぐれんの恋

 ( 2 )

 そのころ、池袋駅西口にちかい〔三笠食堂〕で、矢之倉とボブ、桃子の三人がビールで乾杯していた。


 焼跡の決闘では、二人の男の間へ桃子が捨身で踊りこんだ。矢之倉が刀をとめ、ボブが銃弾をそらしたのはいうまでもない。
「姉の恩人とは知らず、大変失礼をいたしました」
 と手をつく桃子に、
「姉?」
「はい、私首藤恭子の妹です」
「そうだったのか……」
 矢之倉は刀を鞘におさめた。
 ボブが桃子の手をとって立たせた。
「どのようなご恩をいただいたのかはまだ聞いておりませんが……」
「恩というほどのものじゃない」
 矢之倉はにが笑いした。

 桃子が手短に英語で説明すると、

「オー……」 
 ボブは両手をひろげて非礼をわびた。彼はすぐれた拳銃の遣い手だし、学生時代にフェンシングもやっていただけに、矢之倉の構えを見て腕のたしかさを察知し、その気迫に惚れ込んだ。拳銃を手早く腰に収めて、
「ワンダフルサムライ」
 八双のかまえを真似てからにっこりし、握手をもとめた。
 矢之倉も苦笑して握手をかえし、機嫌をなおして、
「プレゼントだ」
 日本刀を白木の鞘ごと突き出した。
「オオー……」
 ボブは目を丸くしてよろこび、桃子に通訳をたのんだ。
「ぜひお話をしたいそうですが、ビールをおつきあいいただけますか」
「ああ……」
 武人と武人は目で興味をしめしあった。
 当時進駐軍に接収され、米兵のためのビアホールになっていた三笠食堂(現・三菱銀行脇を入ったあたりの突き当たりにあった)へ矢之倉を招いた。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-矢之倉とボブ


 矢之倉は浮浪者の風体ゆえに米兵たちの奇異の目にかこまれ、最初は油断のない目つきだったが、ボブが親しい友人扱いで陽気にふるまったので、兵隊たちもしだいに打ちとけて矢之倉に覚えたての日本語で声をかけるようになった。
 あいだに入った桃子の通訳もたくみだった。もともと社交的な性格だし、PXで客扱いに慣れていただけに、気難しい矢之倉をも笑いの中に誘い込んだ。
 ボブは30前、矢之倉とほぼ同年齢であり、矢之倉よりは表情が明るいが目の底には矢之倉に劣らぬ鋭さがあり、態度にも将校としての重みがあって、周囲の兵たちを威圧していた。
 ボブはおおらか、矢之倉は寡黙で沈着だが、矢之倉の元日本軍将校の骨のすわった姿勢にボブが好感をもったし、矢之倉もボブに親友天馬に通じる豪快さ奔放さをおぼえて親近感をいだき
、桃子が国境を越えた友情の芽生えのようなムードを感じるまでに、さほど時間はかからなかった。
 ビールがはかどったが、それを恭子が知るよしもない。

 翌朝恭子が防空壕をのぞくと、秀雄はすでに起きていて、入り口の明かりが差し込むところで注射をすませたあとだった。
「筋肉注射と書いてあるから、早速やってみた。揉むんだろうな」
 と、矢之倉のメモに目をやったまま腕を揉んでいた。
「まあお一人で……さあ、やっぱり揉むんでしょうね」
 といったが恭子もまるで自信はない。
「よかった、さすがですわ。私は怖くて……」
「顔洗おうか……」
 秀雄がタオルを手に、二日酔いのこめかみを揉みながら出てきた。
「昨日はご苦労様でした。私はまだ復学のことまで気がまわらなくて……」
 やはり岳士や真弓、そして誠一の教育のためにも夫はかけがえのない人だと思いながら井戸端までついて行き、ついでに足をのばして岳士を起こそうと、防空壕をのぞいた。
 岳士はまだ寝ていたが、恭子が物音をたてぬようそっと戸板をあけてのぞくと、気配を察してパッと跳ね起きて警戒の目をむけた。
「ああ、おばちゃんか……」
 まぶしそうな、ホッとした様子の頰が涙でぬれている。
「岳士ちゃん……」
 どうしたのかと訊こうとしたが、言葉が出なかった。
 幸せだったころを夢に見ていたのだろうか、浮浪児生活のあいだは寝ていても油断ができなかったに違いないと、恭子はいたわしかった。
「寒いでしょう? 今朝はすいとんよ。起きていらっしゃい。学校へ行くんだから」

 やさしく声をかけ、母の心になっていた。

 朝食をすますと、岳士は秀雄が、初子には恭子がつき添ってそれぞれの学校へ出かけて行ったが、恭子は一人で帰ってきたところでメンソラのおばさんに出会って、
「ああ恭子さん、ちょっとちょっと……」
 とびっくり顔で彼女の家(といっても小屋なみだが)に引っ張り込まれた。一間きりの四畳半の部屋に向かい合って座らせられると、おばさんはいきなり説教する態度できりだした。
「あなたヤミ市でご商売なさってるんですって?」
「あ……」
 突然のことに、恭子はすぐ反応できなかった。
「ダメよダメダメ……あなたそんなことできる方ではないじゃありませんか。ご近所では評判なのよ。いえ、実は私信じられなくてね、昨日のぞきに行ったのよ。もうびっくりしたわ」
「あの、いずれおばさんにはお話ししようと思ってたんですけど……」
「そうよ水臭い、何で相談してくれなかったの? いってくだされば私が最初からピシャリと止めたのに……」
「お金が必要だったんです。背に腹かえられなかったんです。子どもたちをちゃんと育てたいし、主人が実は、結核で……」
「え!? ケ……」
 おばさんはのけぞって驚いた。
「はい、おばさん内緒にしてくださいね」
「……道理で、お顔の色がお悪いとは思っていましたけど……」
「薬代がかかるんです」
「結核は直らないけど」
 とおばさんは声をひそめて、
「ストレプト……」
「はい」
「まあ……それはお高いって聞いてるわ」

「そうなんです。でもせっかく生き残って帰ったんですから、何とか助けたくて……」

「……わかりました!」
 おばさんはポンと膝を叩いた。
「いってくだされば最初から協力したのに。水臭い!」
 と、今度は恭子の膝を力いっぱい叩いた。真実腹を立てていた。
 しびれが走るほど痛かった。が、それ以上にうれしさがこみあげて、恭子は両手で顔を覆って泣いた。涙が止まらなかった。この病を患えば命はない。しかも伝染病である。近所から爪はじきにされるから隠してきた。おばさんの声は神の声に聞こえた。
「わかりました。誰にもいいません……あなた命を張ってらっしゃるのね? えらい! 私がついてるわ。何よ、民主主義じゃないですか。個人の自由じゃないですか。何をしょうと勝手です」
 おばさんが民主主義をどれほど理解していたかわからないが、良きにつけ悪しきにつけ、この言葉は便利によく使われる時代だった。

「まあ可哀相に……この手でヤミの商売なんて……」

 別れ際に、おばさんは恭子の手を取ってさすってくれた。
 礼をいい、涙を拭ってから恭子が家に帰ると、防空壕の入り口で秀雄がみかん箱に腰をおろしてうなだれていた。
「ただ今帰りました」
 お互いの学校での話が交わせると楽しみだったのだが、声をかけると秀雄は力なく顔をあげ、
「ああ……吉井君が見舞いにきてくれた。ついさっき帰っていった……」
 昔、日曜日というとちょくちよく一緒に釣りに行っていた役所の同僚の名である。
「あら吉井さんが……お会いしたかったわ」
 恭子は懐かしかったのだが、
「辞表を出したそうだ」
「ええ? どういうことですの? お元気で勤めていらっしゃるとお聞きしていたのに」
「うむ……行政整理ということで、大幅人員削減をはかっているんだ……俺の場合も、たとえ健康になっても絶望的らしい。吉井君の話では、戦犯に似たような制裁の意味もあるらしいというんだ」
「そんな……」
 恭子は言葉がなかった。
 国のためにまじめに働いた役人が整理されるなんて、と思うが、国鉄の大量人員削減の例もあり、文句をいってもどうにもならないのだろう。

「すまんなあお前を楽にしてやれなくて……苦労させるだけなら帰らんほうがよかった」
「なにをおっしゃいます!」
「いや……家族にひと目あえれば死んでもいいと思って帰ったんだったが……」
 と、またうつむいた。
(この人を守ろう……)
 恭子は腹立ちの涙を飲み込んで、喉をつまらせた。

 その年の暮が押し詰まるころ、秀雄の衰弱はいちだんとすすんだ。
 その後都庁に呼び出されてはっきり行政整理による退職を告げられ、辞表提出を勧告されて受け入れざるを得なかった。そのショックが、徹底的に彼を打ちのめした。
 恭子は、子どもたちのためにも絶対生きていてもらわなければと、そのためにはストレプトマイシンしかないとあせり、客が売りにくる古着を買いたたくようになった。
「ちょっとひどいよな、あれじゃあくどい農家と同じじゃないか」
「ここんところ、人が変わっちゃったよなあ」
 と磯海と佐川が陰口をいい合うのも知らず、恭子は生活苦にあえぐ売り手の弱みにつけ込んだ。
 矢之倉のくれたストレプトマイシンが残り少なくなったが、効き目はあらわれないばかりか、秀雄ははげしく血を吐いて恭子はますますあせった。パンスケのトミちゃんにたのんで二世のGIヒガシを紹介してもらい、ためた3000円をわたしてストレプトマイシンをたのんだ。
 ヒガシは、明日沖縄へ行って来月もどるから、手に入れてくると約束した。
「ヒガシさんねえ、私をオンリーにしてくれるんですって。誠実でとってもいい人なのよ」
 トミちゃんは幸せそうだった。

 冷たい雨が上がって寒風が吹きすさぶ昼下がりだった。
「おいババア……」
 恭子の店に愚連隊が乗り込んできた。
 顔に見覚えがあった。この三白眼は矢之倉と決闘したときの一人だと気づいたが、相手は恭子の変装に気づかない。矢之倉のことをいおうと思ったが間に合わなかった。
「これだよこれ」
 ついてきた中年の女が、台の上の着物をつかみあげた。
「ほら、いくら何でもひど過ぎるだろ。あたしから買った値段の三倍以上だよこれ。もとの値段払うから返してよ」
 恭子も内心まずいと思った。だが返すほどの金は財布になかった。
「そんなこといったって……こっちは商売なんだから、買った金額より高く売るのは当然でしょ」
「なんだとこのババアッ、そういうのをアコギってんだよ」
 愚連隊が大声あげて突き飛ばし、恭子は店の一番奥まで転がり込んで倒れた。
 女は着物を抱えたまま逃げた。
 店の前には人がたかり始めていたが、愚連隊は睨みをきかせながら去っていく。
 磯海と佐川が人をかきわけてきて恭子を助け起そうとしたが、恭子はすぐには立ち上がれないほど膝を強く打っていた。
 逃げていく愚連隊とすれ違うようにして来たのは桃子だった。ネッカチーフも口紅もつけていない。清楚な学生姿にもどっている。
 一軒一軒たしかめるようにのぞき込み、探しながら来て、恭子の店の前に立った。
「おねえちゃん! そうなのね?」
 土間にうずくまって膝を抱え込んでいる恭子を見て目を疑った。
 振り返って驚いたのは磯海と佐川だった。
「ああ、妹よ……こちら、磯海さんと佐川さん、お世話になってるの」
 恭子が紹介した。
「あ、桃子と申します。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ……」
 桃子の美貌に見とれていた二人はあわてて身をひいた。
「そうだ、ちょっと、店おねがいできる?」
 と恭子がいうと、二人はいそいでどうぞどうぞと答えた。
 恭子は桃子に肩を借りて、足を引きずりながら裏の焼跡へ行った。
「どうしたの?」
 桃子が案じたが、
「うん、ちょっところんだだけ。それよりもどうしたの? こんなところへ来ちゃダメじゃない、物騒なのよ」
「おねえちゃん、そんな格好して商売しているの?」
「どうお? すれっからしの闇商人に見えるでしょ?」
 桃子はそれには答えず、困った様子を見せたので恭子が訊いた。
「どうしたの? 仕事は?」
「休んできたの。大事なお話があって……」
「大事な?」
「あの、矢之倉さんってどんなかた? おねえちゃん恩人だっていったけど……愚連隊?」
「まさか……どうして?」
「かなり大きな闇行為をしていることはたしかでしょ?」


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-恭子と桃子


「それは……私もそのお蔭で働かせていただいてるわけだし……でもどうして桃子がそんなこと……」
「私、困るんです。ボブが矢之倉さんに利用されてヘンなことしているようだから」
「ボブ……」
 恭子は不快な顔をして、
「だってあの二人は……」
 殴り合いをしたはずである。利用したりされたりというところに、恭子の中で結びつかない。
「おねえちゃんにはまだいってなかったけど、実はあのあと大変なことがあったの」
 桃子はその後の二人の交友ぶりをかいつまんで説明した。
 三笠食堂で矢之倉に惚れ込んだボブは、サムライ、ゼロ・ファイターと、得意になって自分の仲間たちに紹介したのだが、矢之倉は交友関係を深めたボブの友人たちと結んで、進駐軍の物資を大量に横流ししているという。
「その人たちも遊ぶ金がほしいから喜んでいるようだけど、あまりあからさまにやるとボブがまずい立場になると思って……」
 というのが桃子の悩みだったが、恭子の関心はほかへ流れた。
「利用されるって……桃ちゃんも矢之倉さんと会っているの?」
「ああ、あれから何度かあったわ」
「どこで?」
「米軍の将校クラブなんかでで……」
「将校クラブ……あの人、矢之倉さん今どこに住んでいるの?」
「さあ……お姉ちゃん、そんなことも知らないの?」
 問い返されて、恭子は反応に迷った。
「あなたの気持がわからない。どうしてそんなGIなんかのことを心配するのよ」
 冷たくいいはなった。
「お化粧したりネッカチーフをかぶったりしなければ、あなたはそんなに美人じゃないの。気がしれないわ」
「おねえちゃん……」
 桃子は悲しげにうつむいて、
「私……」
「あの男を、好きなのね……」
 と恭子は憎らしげにいった。何もかも思うようにならない鬱憤が、桃子に捌け口を求めていた。
 だがそこまでいわれて、桃子も爆発した。
「お姉ちゃん、我慢してきたけど、どうして私を束縛しょうとするの?」
「束縛?」
「もちろんそれがお姉ちゃんの愛情、私を心配してくださるお気持だとわかっているわ。でもお姉ちゃんだって子どものためにそんな身なりをして、怪我をしてまで危険な商売をしているじゃないですか。闇商人でございますって、女学校時代の同級生たちの前に堂々と出られる? 出られないでしょう?」
「桃ちゃん……」
 恭子は桃子の逆襲に面喰った。
「私だって精一杯生きているのよ。これでももう一人前の女よ」
 桃子はめずらしくいいつのった。
「ううん、私、お姉ちゃんを立派だと思っているのよ。よく世の中の変化を先取りして、そこまで変身してくださったと、心配しながらも尊敬しています。でも私も真剣に自分の信じる道を生きています。お互いに相手を認め合って信じあわなかったらこれからは生きていけないと思うの。お姉ちゃんだって金髪のお人形作ってるじゃないですか、いいアイディアだって感心したわ」
「………」
 恭子は、桃子をしあわせにしょうとする気持が空振りばかりで、逆に束縛していたことに初めて気付いた。これもそそっかしさだと気づき、素直になろうと自分をおさえた。
「わかったわ桃ちゃん……すこし冷静になって考える」
「ごめんなさい、生意気いって……」
 桃子は、傷ついた姉に打撃をあたえたことに深く心を痛めている様子だった。

 この年の収穫があってから食糧事情はやや好転したが、それは餓死者が多少減ったという程度のものだった。
 12月1日は小雨が降ったりやんだりの日曜日だった。
「初子ちゃん、岳士ちゃん呼んできなさい。お10時にカルメ焼き作るからって」
 午前10時と午後3時がおやつの時間、というのが戦前からの一般家庭のならわしだった。大半が専業主婦で一日家にいたからできたことだが、そういえば、この子たちが以前の生活に戻ったような気分になってくれるだろうととのねらいだった。配給のザラメで作るカルメ焼きは、甘いものに飢えていた子どもによろこばれたものである。
 一緒に食べてから仕事に出かけるつもりだったのだが、初子はちょっと顔色を変えてうつむいた。
「え? どうしたの? いるんでしょ岳士ちゃん、防空壕に」
 初子は首を横にふった。
「いないの? どこへ行ったの?」
「わからないんです……金曜日から学校へも行ってないし」
「ええ? 何でいわなかったの」
「ご心配おかけすると思って……」
「いわなければもっと心配じゃないの……」

 恭子は初子の手をひいて東口へ急いだ。
 一緒に食事をするようにと何度いっても、岳士は素直には応じていない。
 自分で稼いで食うからと、モク拾いなどで金を得て、一人で食べているようだ。
 浮浪児時代の仲間から誘われるらしいと、初子から聞いていた。
 初子の心当たりのその仲間たちを探して東口のヤミ市を歩きまわったが見つからず、西口を探そうかとガードまでもどってきたとき、思いがけず岳士を発見した。
 靴磨きが並んでいた。
 日本人の闇成り金がみじかい足を、GIが長い足を台にのせて靴を磨かせていたが、その近くで岳士はじっとGIを見張っている。
 なりは浮浪児よりはましだが、恭子が着せた服は大きさもあわず、継ぎを当てた粗末なものだから、大して浮浪児と変わらない。
 そのほうへ急ごうとする恭子の袖を初子が引っぱった。
「え?」
 恭子はなぜとめるのかと初子を見た。
 靴を磨き終って、GIが金を払ってたばこに火をつけて行くのを、岳士が尾けはじめた。
「どうしたのよ初子ちゃん」
 と訊く恭子の手をとって、初子はゆっくり岳士を追いはじめた。
 GIは2、3回吸ったたばこをポイと捨てた。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-岳士のモクヒロイ


 すると岳士がさっと行ってそれを拾い、急いで火を消して袋に入れた。
 初子が恭子を見上げてニコッとしたが、恭子にその意味は通じない。
 初子が走って行って岳士の腕を取って恭子を振り返った。
 岳士も気づいて気まずそうに笑顔をみせた。

 日本人はギリギリまで吸って捨てるからシケモク(小さい吸殻)だが、GIのはでかいのだと説明されて、恭子はやっと納得がいった。
 仲間に誘われて浮浪児生活にもどったのかと気づかったが、そうではなく、丸橋に防空壕から追い出されたのだという。
 丸橋とは、例の大家の若原夫人一家の生活の面倒をみている闇成り金である。
「金も払わないでただで住んでるなんてとんでもない奴だっていうんだもの。あそこの土地売るんだって」
 と岳士は説明した。
「なにいってるのよ。そんな闇成金に借りたわけじゃないのよ」
 とにかく帰りなさいと、恭子はつれ帰ることにした。
「ちょっと待って。帰る時にはボク、おばちゃんたちにおみやげ買って帰ろうと思ってたんだ。おいしいおでんがあるの」
「なにいってるの。そんなお金ないでしょ?」
「え? バカにしないでよ。昨日は1日でズカジュウ稼いだんだよ」
「ええ? そんなに?」
 ズカジュウとは彼らが使う隠語で50円のことである。
 GIを追いかけてたばこやチューインガムのモライをやると1日300円になるけど、仲間たちに会っちゃうからと、岳士は説明した。
 岳士はあたりを警戒しながらヤミ市の中を進んだ。仲間に見つかるのをおそれながら、かくれてモクヒロイをしているらしいと恭子は察した。
「ほらあそこ。GIも食べにくるんだよ。うまいんだ」
 岳士が指さした先を見て、恭子は眉をひそめた。
 おでん屋でパンスケと二人でおでんを食べているGIは二世のヒガシではないか。
 恭子は歩み寄って声をかけた。
「ヒガシさん……」
 振り向いたヒガシは、恭子の顔を見て一瞬ギョッとなった。
「あなた、沖縄じゃなかったんですか? もうお帰りになったの?」
「え? ナニよ沖縄って……」 
 ヒガシはうろたえながら、とぼけた。
「え? あなた……」
 と恭子は声をひそめて、
「ストレプトマイシンはどうなったんですの?」
「ええ? なんのことよ。ミー、ユーなんか知らないよ」
 開き直って、
「ストレプトマイシンだなんて……そんなもの扱ったらブタバコ行きよ。ヘンなこというと警察へいうよ」
「ちょっと……だったら3000円返してください。私有り金全部お渡ししたんですから」
「ちょっと……オマワリサン……」
 いいながらヒガシは走った。
「オマワリサン……」
 と叫びつづけるのに、恭子はうろたえた。
「おいで!」
 岳士と初子の手をひいて急いだ。
 パンスケがびっくりして見ている。
「なにおばちゃん、ヤバイことしたの?」
 走りながら岳士が訊く。
「そうなの。だから……」
「だったらそっちじゃなくてビックリガードがいいよ、交番ないから」
「そう……」
 三人は走った。
 ガーッ
 坂をくだってガード下へ駆け込んだ時、まるで低空で来たB29のような轟音を頭の上に聞いて、恭子は思わずしゃがみ込んだ。

 池袋は、駅の入場券を買わずに東口から西口へ行くガードは二つしかなく、ションベンガード(今のウィ・ロード)のほうが駅や繁華街に近いため、ビックリガードよりはるかに利用者が多かった。
 ビックリガードは、恭子などその存在も知らなかったほどで、昭和38年の拡張工事以前は線路ぞいのせまいホコリっぽい坂道を北から南へむかってくだり、直角にまがって線路の下を通り、また直角に北へむかって坂道をあがるというコの字型のガードだった。ガードの幅はウィ・ロードと同じぐらいだが、坂道はもっと狭く急で、石ころ混じりの歩きにくいガタガタ道だった。舗装してあったのが爆撃で破壊されたのかもしれないが、岳士も昔のことは知らなかった。

 自転車などでいきおいよくくだっていくと、ガードから出て来た人と出あってビックリ。ガードといっても大人が跳びつけば手がとどく高さで、西武線・貨物線・山手線とつづくからとてつもなく長く、下から線路や枕木、その隙間からは空も見える簡易鉄橋で、電車がその底を見せて通過する時は、遠くから近づいてきた雷が真上に落ちたようなもので、不用意に歩いていればビックリどころかはじめての人はぶったまげた。
 そんなところから子どもたちが呼んだ名が通称となり、大拡張して立派になった現代のガードには、まるで正式名称のように「ビックリガード」というプレートが貼られている。

 岳士は恭子の手をしっかり握っていたわるようにして走り、初子が追った。
 西口への坂道をあがりかけた時、恭子は息が切れ、石につまずいてころびそうになったが、初子もあわてて走り寄り、二人ががっちり抱えるようにして支えてくれた。
「ああ、ありがとう……」
 恭子は思わず二人を抱きしめた。
「だまされてくやしいけど、あんな奴を信用した私がいけなかった」
「おばちゃん……」
 恭子の腕の中で初子がいい、
「おばちゃんだまされたの? あの二世に」

 恭子が力なくうなずくのを見た岳士は、怒ったような顔で視線をななめに投げた。
「くやしいこと……だらけだよ。世間なんて」
 初子が腕の中で強くうなずくのがわかって、恭子はハッと胸をつかれた思いで二人を頭の上から見おろした。
 こんな小さな子たちが散々修羅場を潜って生きてきたのに、大の大人が、しかも自分がまいた種なのに、泣き言をいうなんて恥ずかしい。
「あなたたちこそ、くやしいことがもっともっとたくさんあったんでしょうね……でも、もううちの子なんだから、私が、このお母さんがついているからね」
 二人は、恭子をみつめて強くうなずいた。
 恭子は二人がいとおしくてならなかった。
「さあ……お母さんは商売だ」
 恭子は顔をあげた。
「うちの店へ行こう。いずれ二人には手伝ってもらうんだから」


 つづく


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