3 ぶくろの鼓動 (6) || 池袋ぐれんの恋
( 6 )
物凄い地響きだった。
固いコンクリートの歩道に立っているのに、乱打される大太鼓の上にいるようで、はじき飛ばされそうな震動が足から伝わってきて五臓六腑ごぞうろっぷをはげしく揺さぶられる。
隊列をくんで移動する米軍部隊や輸送隊を<カンボイ>といった。直径が大人の背丈以上、日本人が想像もできなかった巨大で太いタイヤの上にふんぞり返った迷彩色や濃緑の鉄の怪物たちの行列が、川越街道せましと大いばりで通る。反対車線の走行などもちろん許さない。
買い出し帰りに下板橋で下車した恭子は、熊野神社のそばの横断歩道(現熊野町交差点)をわたろうとしてこの隊列に出あった。通り過ぎるまで待つしかない。ほかの買い出し客たちと一緒に池袋への最短コースを通ると警察の臨検に引っかかりそうな気がしたので少しまわり道したのだったが、ここで足止めをくらってしまった。リュックいっぱいのサツマイモが重い。
雪がちらつき始めたのが気になっていた。当時の池袋では20センチ30センチの積雪は珍しくなかった。
「おばちゃん、30センチつもると長靴の上から雪が入ってくるんだよ」
と岳士ちゃんがいっていたのを思い出す。ことに恭子のようにいつも下駄履きの者にとって雪はやっかいものだった。下駄の歯と歯の間につまった雪が固まった上に雪だるま式にくっついてふくらむので歩くのが困難になる。ましてやリュックいっぱいのサツマイモを背負っている。
先導のトラックには、MPたちのほかに道案内の日本人警察官たちも乗って、すべてがM3マシンガンをかまえている。一体誰に対して──不測の事態にそなえているのだろうが、標的にされているのは同胞である焼け出された日本人のほかにはいない。やはり旧日本軍の叛乱を予期しているのだろう。
雪が舞う中、昼間なのに煌々とライトを照らし、ものものしく赤色灯までともしてサイレンを鳴らしっぱなしで、極端にスピードを落としてまさに威風堂々の進軍だ。
長さ20メートル近くももあろうかと思われるトレーラーなど、機甲部隊の超大型輸送車輛がえんえん何十台もつづく。各種の銃砲や戦車、その他の武器や弾薬箱などを積んで、ハイテク兵器のオンパレードである。
だが観兵式とはちがう。占領した敵地へのりこんだ実戦部隊だから、なんの変哲もない装甲車や赤十字のマークのはいった車なども混じる。ごうごうとエンジン音を轟かせて、次から次からやってくる。
信号はまだなかったが、あっても無視したに決まっている。下に下に──の大名行列のように声をあげる必要もなければ警笛もいらない。轟音は遮蔽物のない広い焼跡に轟きわたって、住民たちを睥睨へいげい、恫喝どうかつしながら行く。アスファルトの道路が今にもこわれるかと思わせる重量が地鳴りを生じているのだ。
実際この重量を日本の橋は支えきれないとの判断から、橋は交通を遮断して一台ずつわたった。どこから来たのか、朝霞の駐屯地へむかうのだろう。
被占領国の民たちを畏怖させ、反抗の意欲を削ぐ目的もあるのかもしれない。実際、目のあたりにした日本人罹災者たちは圧倒され、アメリカの強大さを思いしらされ、大がかりな殺人道具の列に恐怖をおぼえて、敗戦国民の屈辱にうちのめされた。細々とローソクの明かりも節約している者たちに、豊かな彼らの軍用車は照明の浪費を見せつける。
川越街道の道幅はすでに現在と変わりなかった(この交差点から池袋東口方面への道はその後拡幅された)が、両側の風景はまるでちがって焼け野原だ。防空壕生活に疲弊した人々が、あちこちで口をあけて見ている。沿道の住民にとっては珍しい光景ではない。
もう慣れた。見たいわけではない。震動で防空壕がくずれ落ちるのが怖くてとび出した。昼間ならまだしも、夜中だろうと明け方だろうと、征服者たちはおかまいなしである。空襲よりはまし、とあきらめるほかない。
恭子は縮み上がって体が震え通しだった。こんなすごい連中と、鉄砲一丁持った秀雄はどうやって戦い、どんな風に殺されたのだろうと想像した。まさに蟷螂の斧ではないか。夫が鉄砲を持った姿は彼女の脳裏にしっかりしみついている。それはたった一度だけ戦地から送られてきた写真で、遺影として防空壕の茶箱の上にある。出征以来一度も逢っていないのだから、実際にそんな姿の秀雄を見たことはない。その姿でサイパン──といっても恭子の空想の世界だが──の山の中を逃げまわる夫が時々夢に出てくる。腹をすかせ、水を探している。夢からさめると、彼女の枕はいつもぬれていた。
軍隊を失った日本はもう永遠にアメリカの支配から逃れられないのだろう。子どもたちは、南方の国々のように白人の植民地で奴隷のように生きていかなければならないのかと、その将来を想像して慄然としながら、怖いもの見たさで見ていた。
歩道に立っているのは怖ろしくなって、熊野神社の焼け跡あたりまでさがって身を縮めた。荒涼とした枯草の原をわたってくる冷たい風は、背を向けていないと雪や砂やゴミを顔に叩きつける。寒さがますます惨めな気分へと追いやる。待っている間にも、次第に雪が周囲を白く化粧していく。足袋はすでに川越の雪道でぬれてつめたい。小石や瓦のカケラなどでゴロゴロしている道は、立っているのも楽ではない。
買い出し電車で、頭のはげた老人がいっていた言葉を思い出した。
「かなうわけないさ。原爆相手に竹やりけずって本土決戦だなんていってたんだからな。まったくバカな戦争をしたもんだよ」
恭子がニュース映画で見た日本軍の車輌といえば、戦車や兵隊を乗せたトラックで、その時は立派に見えたが、今目の前を行く車輌群とl比べれば提灯に釣鐘、形に類似性はあっても比べものにならぬ貧弱さだった。
ふと気配を感じて後方を見たとき、本降りになった雪の中を、航空服に身を固め、鉄棒をふりかざした矢之倉が突進してくるのが目に入った。
アッと恭子は息をのんだ。何をするのかはわかりきっている。
彼のうしろからはリヤカーを引っぱる電柱、その両側に岩間と大河原がいて、猛スピードでくる。リヤカーには例の唐草模様の風呂敷が積まれている。
この米軍の隊列に殴り込みをかけるのだ。
「やめて!」
恭子は叫んでそのほうへ走った。
「やめて矢之倉さん、かなうはずがない。無謀なことはしないで!」
走る。
「そんなことをしてもらいたくてあんなことをいったんじゃありません!」
でもそれを期待していたのはたしかだった。
彼女の出現に気づいて、矢之倉はびっくりした。
「どけ。帝国軍人としてやるべきことがあるはずといったろう。これがやるべきことなんだ」
とりすがる恭子を矢之倉はふり払おうとしたが、恭子は彼の航空服をつかんだ手をはなさず引きずられ、矢之倉も重心を失って二人は雪の上にもんどりうって倒れ込んだ。
三人の引っぱるリヤカーが追い越していく。。
三人はひとつの防空壕を楯にしてかまえ、リヤカーに積んだ箱の中から銃や手榴弾を取り出して隊列に向かっていく。マシンガンにくらべると実に旧式でオモチャのような銃だ。
恭子は三人を追う。下駄の雪がふくらんで高下駄のようになる。
転びそうになり、かろうじて踏みとどまってなお走る。
「やめろ、もう戦争は終ったんだ!」
「バカな真似するな!」
マシンガンかまえた日本人警察官たちが鉄の化け物の上から叫ぶ。
が、3人の突進は止まらない。
岩間の投げた手榴弾が鉄の化け物の側面にあたって破裂する。
大河原の銃が火を噴き、鉄の化け物の上からアメリカ兵が逆さまに落ちてくる。
ついに警察官たちのマシンガンが火をふいた。圧倒的な性能だ。
岩間が倒れる。大河原がつんのめってひっくり返る。そして電柱も体を二つに折ってうずくまる。
走り寄った恭子も敵弾にあたって転がり込んだ。
痛みをこらえて岩間たちを見る。
「しっかりしろ」
助けおこしてくれたのは矢之倉だった。
「大丈夫か」
叫ぶ矢之倉に抱かれて、恭子はガックリと首をたれて息をひき取る。
ふたりの上に雪が降り積もる。
「おい首藤! 死ぬな。死ぬんじゃない、おい……」
矢之倉の声が遠のいていく。
アーン……
かわりに誠一の泣き声が急接近して夢から醒めた。
「あ、誠ちゃん……」
あわてて誠一を抱き上げながら体をおこした。防空壕の万年床だった。
ぶら下がっている裸電球の電灯のスィッチをひねった。
真弓は寝入っている。
自身の動悸がはげしく苦しく、おさまらない。じっとり汗をかいている。暑い。
体のおののきがとまらない。
誠一を抱いたままふるえる足で下駄をつっかけ、防空壕から出た。
あやしながらふらふらと歩いた。
ここにいては真弓や粂子が目を覚ますという思いにせかされた。
誠一は泣き止もうとしない。
「左手でうしろ頭を支えて親指と人指し指で風池ふうちというツボをおさえて、右掌で尻をつつんで人指し指と中指でしずかに背中を叩いてやるとおとなしくなる」
了典や桃子をあやすとき母がいっていた言葉は頭にこびりついている。、誠一もそうすることによってたいがいの場合泣きやむのだが、今日ばかりはまるで通じない。いやあせって、背中を強く叩きすぎていた。
恭子の呼吸はますますあらくなる。
東の空がしらじらとあけ始めている。
あけがたの夢は正夢──という言葉が浮かんで強烈な不安がつきあげてくる。
私がいいすぎた。
まさかあんな無茶をするとは思わなかった。
誠一は、異常なほど激しく泣きつづける。
夢のさなか誠一の体を圧迫してどこかを痛めたか──
手足をさすってみたが、そんな様子はない。
胸騒ぎはふくらみつづける。
「よしよし、誠ちゃん、どうしたの?」
泣くことをやめない誠一と矢之倉が、彼女の中でごっちゃになった。
弟の了典も、時として桃子よりも精神的には子どもっぽいところがあった。
矢之倉も子どもなのだ。
年下の自分よりはるかに単純な思考で不満をかかえて泣いている。
誠一を、いや矢之倉を懸命にあやしながら恭子はふらふらと道に出た。人けのない夜道が物騒であることはわかりきっているのに、彼女はそれを忘れた。夢中で歩いた。
常磐通りを歩くころには、物欲しげな復員兵の尾行が二人になり、三人になり……
あかずの踏み切りがあいていた。足元のまだ暗い石畳の上をよろけながら行く。
五つ又を左折する。
泣く誠一に心がはやる。
夢かうつつか……急ぎ足になる。
矢之倉の土蔵が見えた。
ころがるように急ぐ。
入り口の扉の前にたどり着き、叩く。
固い扉はにぶい音を返すだけで、反応はない。
叩きつづけるが、むなしい。
とうとうあきらめて、がっくりしゃがみ込んだ。
後ろから、足音を消した男が近づく。
ハッとなってふり向いた。
「矢之倉はいない」
といった男は黒江刑事だ。
「刑事さん……」
「何しに来たんだ」
とがめた。
「え?……」
「何しに来たかと聞いているんだ」
「この子が泣きやまないもので」
黒江は眉をひそめた。
「泣きやまない……矢之倉に会わせれば泣きやむのかね?」
「あ、いえ……」
恭子はやっと自分をとりもどさなければいけないという気になった。
「どうしたんだね、こんな時間に」
黒江も恭子の異常を察し、態度や口調をやわらげる。
「何かあったのかね」
「ええ……あの、ちょっと、お伝えしたいことがありまして」
「伝えたい……何を……」
「いえ……あの、お恥ずかしいことで……すみません、なんでもないんです」
困った様子の恭子をじっと見て、
「夕べから張り込んでいるけど、矢之倉はほかへ移ったらしい」
「……そうですか」
ここにはいないと知って、覚醒にむかう。
黒江はあたりに目をくばった。
尾けてきた男たちの黒い影が動く。
「さ、お宅まで送りましょう。こんな時間に赤ちゃんを抱いてうろつくなんてどうかしている。物騒きわまる。さ」
「はい、申し訳ありません」
恭子は頭をさげ、黒江について歩き始めた。
小柄な黒江をなめたのか、男たちが取り巻き始めた。
ピュー
黒江が指を口に当てて鋭い音をたてると、土蔵の向こうから大柄の若い刑事があらわれて、大股でポーンポーンと走り寄った。
「池袋署のものだ。お前らなんか用か」
復員兵たちは肩をすぼめて散っていく。
「ハハハ、用心棒つきの刑事とはなさけねぇな」
黒江が苦笑すると、
「いえ……」
大柄の若い刑事は真面目な顔で恐縮した。笑顔を見せれば上司を辱しめることになると考える生真面目な男である。
「行きますか、恭子さん」
「は? はい」
恭子は親しげに名を呼ぶのにとまどったが、黒江のあとにしたがった。そのあとをすこし離れて部下の刑事もついてくる。
「なにを伝えたいのか知らないけど……」
黒江は歩をゆるめて恭子と肩をならべ、
「困った人だ……どうしてそんなに矢之倉のことを心配するのかね」
「は? だって……あのかたは恩人ですから」
「恩人?」
「はい、刑事さんと同じで、私にとっては恩人なのです」
「私と同じで……」
自分の鼻を指さした黒江の顔が、うれしそうにゆるむ。
「私の場合は……ま、わかるけど、矢之倉はどうして……聞きたいなあ」
「あのシモイタの家で、ご飯をいただいたんです」
「ゴハンを……」
黒江は思い出すしぐさをしてから、
「それだけ?」
「はい……」
それ以上は口にしなかった。
「そうだったのか……なあるほど。一宿一飯の恩義か……渡世人なみだなあ。でも、好きなんだなあそういう心意気って……あんたはいい人なんだ」
愛の告白五合目あたりをさまよう黒江は、はればれとした表情になってあけ始めた空を見上げた。
「そういう人だろうと思ったんだ……」
職務に忠実な部下は、真面目に律儀に間隔を保ってついて行く。
つづく
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3 ぶくろの鼓動 (5) || 池袋ぐれんの恋
( 5 )
恭子は東口から西口へのガード下を歩いていた。
現在の<ウィ・ロード(正式名称は雑司が谷隧道)>だが、このころは<ションベンガード>が通称だった。
利用者は多かったが、照明がないから混みあうと中は真っ暗になって物騒だし、汚くて臭気がたちこめていた。こっそり立ち小便をする者もいたし、堂々とやる酔っぱらいもいた。掃除などする者はいないから、何が落ちているかわからない。
急ぎ足で通り抜けて、夕明りの西口に出た。坂の道端に靴磨きが並んで大きな体のG Iが磨かせている後ろを通りながら、やっと冷静さをとりもどしていた。
矢之倉は猪突猛進型だが、軽率をわびる素直さを持ち合わせていた。
いいすぎたかしら、誠一の命の恩人なのにと思うと、しばしば口癖のようにたしなめてくれた母の言葉がよみがえった。
「人を責めちゃいけんよ。責めて得をすることは何もありゃせんのじゃけぇ。ことに目下を責めるのはいけん。目下は褒めてやりんさい。褒めてやりゃ素直についてくるもんよ」
桃子と喧嘩すると必ずいわれた。
矢之倉の言動には子どものような単純さを感じる。別ないい方があったかもしれない。
恭子も米兵は憎い。彼らは凶悪な犯罪をくりかえしている。通行中の娘をつかまえて数寄屋橋の上から川へ投げこんで溺死させるなど傍若無人で、敗戦国の日本人をなめきっている。むろん紳士的な米兵も多いのだが、目立つ不良米兵に対する怒りは日本人共通のものだった。
昭和20年9月3日の新聞各紙は進駐直後の占領軍の犯罪をいっせいにとりあげた。
8月30日は206件、8月31日は209件、9月1日は133件と、3日間の殺人強姦傷害事件を報道したのだが、この記事に慌てたGHQはプレスコードを命じ、これに基づいて検閲が実施されて、それは昭和49年までつづいた。
<進駐軍の車を追いこすものがあれば射殺する>
など、さまざま侮蔑的なGHQ布告というのが新聞に載り、実際、連合軍兵士の停止命令を無視したということで農林大臣が撃たれたりしたのだが、これらの事件もすべてGHQの検閲による報道規制で新聞記事にはならなかった。そのため口コミで尾ひれがついてひろがり、人々を怒りと不安におとしいれた。ちょっとした違反者も沖縄へ連行されて重労働させられる、という噂は嘘か誠か一般に信じられ、恐怖がひろがっていた。
矢之倉の前で父の声を真似て怒鳴ったのを思い出して、恭子はちょっと首をかしげた。軽々しい自分自身を叱りつけたい衝動が高じて父が乗り移った。卑しさを叱りつけたのだと思う。
『特攻くずれの犯罪の巻き添えにされるなどとんでもない奴だ。お前には子どもたちがいるじゃないか』
両親の小言が交互に耳の底に響き、とにかくもう矢之倉とは絶対会うまいという結論に達した。が、惜しいという気持も強かった。
(私に似合った仕事とは何だったのだろう……)
米1俵もいずれすぐなくなる。その前になんとかいい内職を見つけなければならない。
家の近くに最近できた仁栄マーケットというヤミ市で、思い切って一つ20円もする鮭の缶詰を二つ買った。米が1俵あるという心強さに押され、身分不相応な散財でスカッと心が晴れた。多少怒りも癒された。
家へ帰ると、まっすぐ粂子の防空壕へむかった。外出が長くなれば、姑はいつも子どもたちを自分の住まいに連れて行くからである。
「ただ今かえりました」
声をかけると待っていたように戸板があいて、誠一をおぶった粂子が顔を出した。
「お帰り。遅かったのね、心配したわ」
「すみません。内職口を探してたもんですから……」
「見つかった?」
「いえ、まだどうなりますか……真弓は?」
「さっき遊びに行くといってね。もうそろそろ呼びもどしに行こうと思ってたところなの」
「すみません。これ、お一つどうぞ……」
モンペのポケットから缶詰をとり出した。
「あらまあ大ご馳走……」
よいしょっ、と粂子は誠一をおぶった帯をゆるめて恭子に抱き取らせた。
50代だが、当時のこの年齢は現代の70代後半といった老けかたで、赤ん坊を背負うのも楽ではなかった。
粂子は缶詰を押しいただいてから、心配でならないというように、恭子に抱かれた誠一をのぞきこんだ。
「さっきお粥をつぶして飲ませたらまたすぐ眠って……この子育つのかしら」
「……育てます」
はっきり答える恭子に、粂子はゆっくり大きくうなずいて、
「秀雄が帰るまではなんとしてもねえ……」
息子は帰ってくると確信している姑である。
恭子は自分の防空壕へむかいながら、
「よかったわね誠ちゃん……たくさんオッパイ飲みましょうね」
粂子にいわれるまでもない。生後1年半というのに体重も増えず、満足に歩けない子が不憫でならない。生れ落ちてからずっと空腹で栄養失調なのだ。
頬ずりしながら階段をおりかけて、ハッとなった。米粒が落ちている。気をつけて運んだのにこんなに落ちているのはおかしい。壕への入り口の戸板がはぐられたままだ。恭子の顔色が変った。
転がりこむように防空壕に入ると、坐りこんでしまった。あたりに米が散らばり、開けたままの茶箱の中はきれいにカラッポだった。着物や炭、大根は無事で、米だけが盗まれている。
かっぱらいや空き巣が横行しているのはわかりきっているのに夢中でとびだして行った自分のそそっかしさがくやまれ、泣くに泣けない思いだった。
『あんたはよう考えもせずに行動するけえ……』
これも母に何度もいわれた言葉で、くやしくてならない。俵を運び込むのを見ていた者の仕業だろうかと、防空壕を出て近所を見まわしたが、夕空はむなしく恭子を包み込むだけだった。隣近所からも丸見えだし、姑も気付かぬように持ち去るとはよほど慣れた者のしわざにちがいない。
遠くで子どもたちが遊び騒ぐ声が聞こえ、真弓の声もまじるのがわかった。
夕闇のかなたの防空壕の脇だった。連れ戻しに行こうと、誠一を抱いたまま歩きかけた。
「第一課、屁の種類……」
聞こえてきたのは、教科書朗読の調子だった。真弓の声もまじっている。まだ3歳の子どものすることではないが、小学生についていっているのだ。
「屁にはブースーピーの三種あり。ブーは音高くして臭い低し。スーは音低くして臭い高し。ピーは実の出るおそれあり」
キャハハッとはじけ笑う。真弓も体を丸め、しゃがみ込んで笑っている。
恭子は眉をひそめながら苦笑した。 誠一と違って健康なのがありがたい。幼いながらも世の中について行こうとする真弓の勢いを感じて、救われる思いがした。だが、今夜の食べ物は大根と缶詰だけだ。
はたと立ち止まった。あわてて防空壕にもどり、座り込んだ時に何気なく置いてしまった缶詰をふたたびポケットに入れて外へ出た。
急速に空腹がつき上げ、誠一の寝顔を見た。
(今夜は落ちている米粒を拾い集めてなんとかこの子のお粥を……)
真弓のところまで行って連れて帰ろうとしたが、真弓はまだ遊びたいとぐずって素直には帰ろうとしない。
♪オットサンガヨンデモオッカサンガヨンデモイキッコナーシヨ
という歌があって、このころの子どもにはそんな心理があった。当人はもちろんだが、一緒に遊んでいる仲間は、遊び相手たちがポツリポツリと欠けていって一人取り残されるのをとても寂しがった。それほど子どもたちは外での遊びに夢中になったのだった。
やっと手を引いて引き返してきた恭子は、自宅の防空壕を及び腰で覗きこんでいる人影に気づいて、ギクっとなった。
(米泥棒!)
また来た、と思った。
暗がりの中だが、相手は小柄な女性とわかった。だから意を決し、腹立ちまぎれに誠一を抱きしめ、真弓の手をしっかりつかんでツカツカ近づいた。
足音に気づいて相手がふり向いた。
「ああ、首藤さんの奥さん……」
と親しげに頭をさげた。
「まあ、折笠さん……」
知人とわかって恭子はホッとしたが、何しにきたかという不信感はぬぐえない。米を盗まれた衝撃は大きい。
「あの、お世話になりっぱなしでまだ何のご恩返しもできませんで……あのこれ、新潟の実家から送ってきましたもんで、少しですけど……」
と差し出したのは、粗末な布袋だった。
「え? あの……」
「実家でとれた米なんですの」
「え?……」
恭子は絶句した。
「召し上がっていただけますか?」
「もちろんですとも……」
恭子は受け取った袋を目の高さまであげて拝むようにした。思わず涙ぐんでいた。
「よかった……じゃ、暗くなりますから今日は私これで……」
折笠と名乗った主婦ははにかんで一礼して帰っていった。どこかうれしげな早足だった。
「よかったねお母ちゃん」
見上げる真弓にうなづいたが、すぐには言葉が出なかった。疑った自分が恥ずかしかった。情けなくて泣いた。
折笠さんは空襲の翌朝赤ん坊を生んだ若い戦争未亡人だった。、恭子は湯を沸かすのを手伝っただけだが、その後隣家の主婦と一緒に赤子を抱いて礼をいいに来たし、配給などで顔を合わせるたびに親しげに最敬礼するのだった。
貧しい暮らしぶりということはその服装でわかる。恩返しできないことを苦にしている様子はこっちが恐縮するほどだった。真弓にせかされて袋から釡へ米をうつしながら、袋の貧しさにも恭子は泣けた。その一升ほどの米は彼女にとってどれほど貴重なものだったか。生活苦にあえぐ娘を思う新潟の親にも申し訳なかった。
かまどに木切れを入れて火を焚きながら、恭子は父母を思い起こして回想にふけっていた。 雨の降った翌日のことだった。
朝からカラッと晴れた初夏の日曜日で、女学校1年生の恭子も気持ちのいい目覚めだった。 いつものように父が座敷で新聞を読んでいた。
「おはようございます」
恭子は廊下にきちんと座って手を付き、台所で朝食の支度をしている母に向かって声をかけた。
「お母さんおはよう」
「あ、おはよう。恭子ちょっと卵を買ってきなさい。五つ」
「はい」
母が用意した手提げの籠を持って、恭子は嬉しげに玄関からとびだした。彼女は卵が大好物だが、当時はめったに食べられないぜいたく品だった。いつも行く家の裏手の百姓家までは一走りで、帰りは籠の卵をこわすてはいけないので、慎重に歩いて帰った。
「はい、じゃすぐ昨日お世話になったお宅へそれを持っていきなさい。そのお宅、調べたら高木さんいうんよ。ようお礼を申し上げなさい」
「これを?」
「当然でしょう」
春に女学校に入ったばかりの恭子は、やっと慣れた自転車通学だったが、前日の帰りは雨でぬかった道で滑ってころんだ。すると近くの家から走り出た主婦がまあまあ可哀相にと庭に連れて入り、泥だらけになった足を洗い、老婆は自転車の泥を拭ってくれた。おかげで無事帰ることができたのだった。
卵を食べられると思っていた恭子は、ふくれっ面になった。
「こんなに高いものもっていかなくたって……」
と身を引いた。
「馬鹿モン!」
父の罵声がとんで,恭子は首をすくめた。
「いただいたご好意以上のものをお返しするのが恩返しというもんじゃ」
母がなだめた。
「いえばよかったなあ……あんた食べたかったんじゃねえ」
「卑しい考えは許さん。」
父は腹を立てた。
「きちんと返しておけばまた助けていただける。それが人間のつきあいじゃ。まわりの人たちのおかげで生かされとるいうことを忘れちゃならん」
母が押さえつける目で、
「我慢できるでしょう?」
「はい……ごめんなさい。すぐ行ってきます」
恭子は素直に頭をさげて自転車にまたがったのだった。
母は卵が割れぬよう籠にもみ殻をいれて新聞紙で覆ってくれた。
高木家でも恭子が村長さんのお嬢さんとわかって恐縮し、それ以後はおたがい親戚同様の付き合いがはじまったのだった。
恭子は折笠さんとも親しくしたいとしみじみ思い、父の面影を浮かべて報告した。選挙などない時代、若いころから亡くなるまで村長をつづけ、誰からも好かれていた父は、彼女の自慢だった。だから私たちは貧しくても周囲から大事にされて幸せだったと思う。
そのころ、矢之倉はヤミ市の安飲み屋<千佳>でウィスキーのボトルを傾けていた。恭子の言葉が耳の底に残り、かみしめている。
「女将、もう1本出してくれ」
「ええ? 矢之倉さん大丈夫? ボトルのおかわりなんて……」
女将はあきれ顔で、新しいボトルをカウンターともいえない粗末な飯台に置きながら、
「悪いわね。お宅から安く仕入れさせてもらって、ちゃんとお代をいただくなんて。しかもこんな高級なウィスキー……」
矢之倉は黙って新しいボトルの栓をひねってグラスに注ぐ。
「それにしても強いわねえ、全然乱れないんだもん」
女将はもう一度あきれ顔で見てから、背をむけて料理に取りかかった。
突如、女の下卑たけたたましい笑い声が入り口のほうで聞こえ、
「あいけばくろう……」
はずむような調子でいいながら男が一緒に入ってきた。女はパンスケだ。
矢之倉がギロリとそのほうへ目を向けた。
男はチンピラ風で、米軍の略式帽と野戦服を着てジャズマンのように気取って指を鳴らし、それに合わせて顎を左右に振っている。
「こんばんはあ……」
女が派手な声をあげた。
「あらトミちゃん……」
「何だ、あいけばくろうとは……」
矢之倉がうめくようにきつい調子でいった。目がすわっている。
「ええ?」
チンピラ風が気色ばんで見たが、矢之倉の鋭い目とぶつかって黙った。
「やめて!」
女将がチンピラを叱りつける調子でいった。
「こちら、うちの上得意さんなんだから」
「あ、それは失礼しました」
と、あっけらかんとした調子でいったのは、トミちゃんと呼ばれたパンスケだった。
「矢之倉さん、この人ビーバップのルーヤンっていうの。ポン引きなのよ」
と女将が取り繕うようにいった。
「ポン引き……」
と不機嫌そうな矢之倉の顔色をうかがって、トミちゃんが、
「あ、私たちね、アメちゃんのお客を一人二人じゃなくて、一本二本って数えるんです。一本ずつ引っぱって連れて来るから、ね、ポン引きって……」
饒舌で気のいい小太りで色白のトミちゃんは、一息つくとすぐ、
「それから、あいけばくろうってね、池袋のことです。アメちゃんたちがそういうんです。カッコイイでしょ?」
と気取って、
「あいけばくろう……」
「やめろ……」
矢之倉がどなった。
「おいポン引き……」
「なんやねん……」
ビーバップのルーヤンが鼻白んだ。
「アメ公がどういおうと、日本人は日本人らしくしろ」
といいざま矢之倉は空になったまま置いてあったボトルをつかんで叩きつけ、ボトルは安普請の土台石を直撃して派手に砕け散った。
ルーヤンはムッとなって拳を握りしめた。
女将が目でおさえ、ルーヤンは怒りをのみこんで目をそらした。
その時入ってきたのは掃き溜めに鶴──上物のモンペを粋に着こなしたキクだった。
「あ、キクちゃん……」
女将の目がすがりついた。
キクはチラッとボトルの破片を見て、ひと目で状況をさとったらしい。
「毎度ね、千佳ちゃん……」
とキクは女将にいって、まかせてほしいという目でそっと胸をたたいた。
女将はコクッとうなずき、トミちゃんとルーヤンに出て行けと顎をしゃくった。 商売がら女将に弱い立場の二人は、素直にうなずいて出て行く。
同時に、奥の壁に張りつけたような直立の梯子から、別のパンスケが降りてきた。
「びっくりした。何かあったの?」
「何でもないよ」
女将はすげなく答えた。
パンスケの後から長身のG Iが体をくねらせるようにして狭いところから降りてくる。粗末な天井裏が簡易売春宿なのだ。
「じゃ……」
とパンスケは百円札を1枚置いて、
「行こう」
G Iの手をとって出て行く。
「イコー」
とG Iが真似て女将にあいそ笑いしながらバイバイと手をふる。
「どうもね、また来てね……」
と女将は二人を見送って、銚子をあたためる。
「ドーモネ、マテキテネエ」
G Iの声だけがかえってきた。
「さっき岩間さんが届けてくれて……」
と女将がいい、矢之倉の隣に座ったキクとひそひそ話す。
「アメ公がパンスケ言葉で、パンスケがアメ公の片言日本語か……情けねえ奴らだ」
矢之倉が吐き捨てるように呟くのを二人は気にしていない。
「ぬるめでよかったわよね」
と女将はキクが手にした盃に酒をつぐ。
「じゃこれね、たしかめて……」
と、女将はふところから新聞紙で作った手製の封筒をとりだした。
「たしかめるだなんて。同級生が信用できなくなったら、やってられないじゃない」
とキクは受け取った封筒から1万円はありそうな百円札を取り出し、10枚勘定して残りを封筒にもどした。
「これ、掃除代もふくめて…」
と飛び散ったボトルの破片に目をやってから、数えた札を女将にさしだした。
「あ、すまないわね、助かるわ……」
女将は遠慮なく受け取った。
千佳から出てきた矢之倉が少しふらつきながら行くのにキクが追いついて、
「はい、これ……」
受け取った封筒を矢之倉のポケットにねじ込み、並んで歩きはじめた。数軒ならんだ建築中の店はすぐ途切れ、道の両側は焼け跡で人通りはほとんどなかった。
「……ふられたのね?」
キクは前方を見たままいった。
「……俺の女になれっていったんでしょ?」
矢之倉はにがい顔になって答えない。
「それしかないんだから……」
微笑をもらしたキクは矢之倉の横顔へやさしいまなざしを送った。
「もてる男ってくどきかた知らないんだ……女のほうから寄ってくるから」
「………」
「お女郎さんはくどきかたは教えてくれないもんね、そこから先ばっかりで……」
その言葉にひっかかって、矢之倉は内心ギクッとなった様子でキクを見た。
「知ってたわよ。中学2年からだっけ? 吉原通い……」
矢之倉の足がとまった。
終戦直後は、金のある者は国家公認の遊廓吉原や新宿2丁目へ行き、金のない学生やG Iは池袋で女を買うといわれていた。池袋の場合はむろん非公認のもぐりである。後に、地図の公認の部分を警察が赤線でかこったためその地域が赤線と呼ばれ、非公認を青線と呼ぶようになる。
「今のルーヤンね、G I引っぱってくる腕は抜群らしいわ。猿みたいな顔してるけど、ああいうのはくどき上手なのよ」
「……おじさんから聞いたの?」
矢之倉は吉原のことを訊くが、キクははぐらかす。
「英語は下手でも、どうすれば女にもてるかって、子どものころからそればっかり考えてたのよあの手合いは……だから人の気持、読めるのね」
「機嫌なんかとれるか……」
「機嫌とりじゃないのよ健ちゃん、女を落とすのは情よ。真心」
矢之倉は顔をゆがめた。
「キザな……」
今度はキクが足をとめた。
「キザ? お宅のおじさんやうちの父、キザだった?」
「?……なんの話だい」
「あんた好きだったわね、二人を……ことにうちの父のことを大好きだっていってたじゃない」
「……なんの話かって聞いてるんだよ」
たがいに相手の父をおじさんと呼んでいた。矢之倉の祖母がキクの家から嫁いできたということで、二人はふたいとこの関係である。
「おじさんね、よく父のところへこっそり相談にきてたわ、あんたのことで……店の金を持ち出して悪所通いしている、感化院にでも入れないと今に社会に害をおよぼす人間にならないだろうか、なんて、すごく悩んでたのよ」
「………」
「真面目だったもんねおじさん、浮世絵なんか集めて静かに楽しんでただけで」
「おじさんは何て……」
「ほっとけって……あいつはいい跡取りになる、大物だって……父は私にもよくいってたわ、健は見どころがあるって……」
矢之倉は急に天をあおいだ。目尻で涙が光った。
「男は女を知って成長するとか、男を男にするのは女だ、ともいってたわね……あれは自分への弁解だったのね、父はよく遊んだらしいから……」
「生きていて、ほしかった……」
矢之倉は空に向かっていい、大きくため息をついた。
「空襲でもなかったら死ぬような人じゃなかったわ……ほんとは長生きしたんだろうな、あの人は……」
と答え、キクはチラッと矢之倉を見てから目を落とした。
「あんたは今ごろ大店おおだなの若旦那だったろうし……」
「……おたがい様じゃないか」
「父は、一人娘の私より、あんたを可愛がってたもん……」
矢之倉は通行人から顔をそむけて涙をかくした。
「おばさんも、あんた一人が生き甲斐だったのに……よりによって特攻隊なんかって、泣き通しだったのよ」
二人はしばらく前方の空を見たまま歩いた。
「父もおじさんも、すごくあんたの将来を楽しみにしてた。だからあんたも二人を好きだったんでしょ? 情よ。真心よ……女も同じだっていうの。真心をつくせば真心が返ってくるのよ。お女郎さんは金だけだろうけどね」
トゲのある思い出ばなしに、矢之倉は終始にがい顔でムスッとしている。
「これ、大事なんだけど、あげる」
キクはモンペの懐から古い封筒を取り出して矢之倉に渡した。
中から一枚の写真を出し、月明かりに照らして見た矢之倉が目を丸くし、思わず驚きの声をあげた。
「これ、うちの庭で……」
富裕な商家の庭の築山を背景に撮った記念写真である。和服の大人たちが並ぶ真ん中に、少年と少女が写っている。少年より少女のほうが少し大きい。端にいる番頭の染め抜き半纏には<創業二百年、種苗問屋矢之倉>の文字がある。
「何かっていうと、親戚が大勢集まったわね……昭和のはじめは<種屋の元禄>なんていわれて全盛期で、しかも<練馬大根の種なら矢之倉>って、全国から買い付けに来て……あんたも私も乳母日傘おんばひがさ(大事に育てられること)だった。おばあちゃんはあんたを連れて剣道だのピアノだのに通って……」
矢之倉が感慨にひたる様子を、キクはチラッと見てから、
「おぼえてる? この時のこと。みんな健ちゃんと私を夫婦めおとにして二つの店を継がせるつもりだった。年上女房のほうが幸せだとかっていわれて……私も思ってた。そうなるんだろうなって……」
悲しげにいってから、もう一度矢之倉の横顔をぬすみ見た。
矢之倉は空をあおいで涙をうかべている。
「もう、そのおじさんたちもおばさんたちも、みーんな死んだりちりぢりばらばらになっちゃって……遠いむかしのことね、何がなんでも飛行機乗りになるんだって、聞かなかったもんね健ちゃん……」
矢之倉は写真に目を落としてじっとみつめた。
「あの頃、どこにでもいるガキの一人だったのさ」
「そうね……男の子って、時代の花形の仕事に夢中になるから……今さらいってもはじまらないか……」
「ま、そういうことだな……」
キクは、こらえていたものを吐き出すように、
「気安くいうんじゃないわよ。あんたが生きて帰れますようにって、みんなでホント! 一生懸命祈ったのよ。だからあんた生きて帰れたんだわ。絶対そうよ、私そう信じてる。神様って本当にいるのよ」
「………」
「少しは感謝しなさいよ……さよなら……」
静かにいって顔をそむけ、左に曲がってまっすぐ歩いて行く。気丈なキクの目にも涙がある。
広い闇の焼跡へ消えていくキクを見送って、矢之倉はうつむいた。
つづく
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3 ぶくろの鼓動 (4) || 池袋ぐれんの恋
( 4 )
恭子は別の話題をさがした。
「矢之倉さん、ご家族は?」
「全滅だ。ぶくろと同じ4月13日」
「どちらだったんですか、お宅は……」
「滝野川……」
ちょうどそこへ銚子を運んできた仲居に会話が中断され、矢之倉はその銚子をとってコップにうつし、一気にあおってフーッと天井に向かって息を吐き出したまま、それ以上を語ろうとはしない。
「特攻隊に、いらしたんですね?」
探るように訊くと、チラッと恭子を見た矢之倉は、吐き出すようにいった。
「その話はよせ。死に損ないの話なんかつまらん」
「………」
唐草模様の風呂敷包みが頭をよぎったが、その目的やなりゆきを考えるのは空おそろしいことで、口にできない。
こんなに混沌として大きく変わりつつある世の中では、誰が何を考えているのか、まるでわからない。反面、自分のまるで知らない過去を体験してきた人々がこれからどう生きようとしているのか、興味はつきないのだが。
もう1本銚子の酒をコップにうつしてあおると、
「行こう」
矢之倉はいきなり立ちあがった。
「どこへ……」
「いいから」
と恭子をせかして大江戸を出ると、矢之倉は恭子をふたたびラビットにのせて突っ走った。酒の勢いで運転が荒っぽくなったと感じた。酒酔い運転が罪になるのはずっと後世のことである。
「怖いからおろしてください」
恭子はすぐ後悔した。
矢之倉が急ブレーキをかけ、恭子の顔は矢之倉の背中に押しつけられた。が、恭子をおろそうとするのではなかった。
「しっかりつかまって顔かくしていろ」
彼は腰にさげていた日本手拭いをとり、ひろげて目から下をかくして後ろで結んだ。
「目ざわりな奴……」
舌打ちする矢之倉の視線を追って見ると、前方を横切る道を無蓋のリンタクがノロノロ走っている。乗っているのはぬいぐるみの白熊のように肥った大きなGIで、体重は百キロもありそうだ。ヒザに乗せたパンスケを抱いてむさぼるように口を吸い、苦しそうにもがくパンスケのスカートのなかへ手を入れている。
その前で、骨と皮の復員兵のリンタク屋が、立った姿勢で両手足をつっぱって、あえぎながら懸命にペタルを踏んでいる。通常の漕ぎ方では、彼の体力では動かないのだとわかる。荷は重くリンタクはオンボロなのだ。
スピードをあげた矢之倉は、たちまちリンタクに追いついて横に並んだ。
「おい二等兵、しっかり漕げッ」
恭子はあわてて顔をそむけた。あまりにも予想外のなりゆきだ。
ふりむいたリンタク屋はカッとなった。とがった頬骨の上にころがり落ちるかと思うほど大きな目をむきだした。
「何だとこのヤローッ」
二等兵よりは上の階級だったのかもしれない。
「くやしかったらついてこい」
矢之倉はエンジンをふかし、追いこしざまリンタクの前輪を長い足で力いっぱい押すようにして蹴った。
「あ、バカヤロッ」
リンタク屋は叫んだが、ハンドルを90度に取られたのだからたまらない。ハンドルより前へ体を泳がせてから道に落ちて這いつくばる。その上へパンスケと白熊が覆い重なる。
3人の悲鳴を後ろに聞いた。
矢之倉がバックミラーを見て、声はたてぬが腹をゆすらせて笑っているのが恭子にはわかった。
しばらく行ってから、矢之倉はブレーキを踏んでふりむいた。
リンタク屋はもちろん、GIもパンスケも路上に投げだされてうずくまっている。
「まったく何ていう人なの?」
怒りがこみあげ、恭子はスクーターからとび降りた。やることが目茶苦茶すぎる。
「あんなのは見たくない。日本人なら恥を知れっていうんだ」
矢之倉はびっくりするほど真剣なきつい目つきでにらむ。
恭子も米兵を見たときは不愉快だった。白昼路上で女と戯れるにもほどがある。日本人には考えられない醜態だ。だから矢之倉の気持もわかる。
でもリンタク屋に罪はない。彼も懸命に生きているのだ。乗ったことを後悔した。
顔をそむけ、歩いて帰りかけた。
「はやく乗れ。どこからMPが追いかけてくるかわからないぞ。急げッ」
恭子の顔色が変わった。あわてて荷台にもどった。あの太ったGIは確実に怪我をしている。許される行為ではない。MPにつかまったら沖縄へ送られる。
このころの沖縄は、占領したアメリカが、ソ連・中国・北朝鮮など社会主義国に対する戦略的位置として重視し、長期的支配への基盤を築いて軍司令部が実権を握っていた。
米軍上陸以来米兵による強姦事件が多発していたが、本土と同じくアメリカに不利な問題は一切報道されなかったし、昭和47年の祖国復帰までは事実上日本であって日本ではなく、テレビのない時代、ほとんどの本土の人間にとってはイメージがわかない想像上の離れ小島で、そこへ送られるということは「島流し」で、米軍によって重労働に従事させられるものと信じられていた。
矢之倉はスピードをあげた。
だが間もなく大踏切の遮断機がおりていて、行く手をさえぎられた。
大勢の人たちで混み合い、大八車や自転車、自転車に引かれたリヤカーなどにまじって、GIたちが乗った米軍のジープも停まって遮断機があがるのを待っていた。この大踏み切りは昭和41年陸橋<池袋大橋>に生まれかわるまで、悪名高き<あかずの踏切>だった。
恭子は気が気でなかった。白熊が追ってきてこのGIたちに報せたら大変なことになる。事件を知ったMPのジープが追ってくればもちろん助からない。すぐ拳銃を突きつけられる。
踏み切りは手前から東上線・赤羽線(現埼京線)、そしてひくい所を通る山手線の上は橋で、その先にもう一つ貨物線の踏切がつづいていた。電車庫が近いためここを右に左に電車や貨車が走り、機関車は気が遠くなるほど何十台もの貨車をひっぱってノロノロゴトゴト通るのだから、通行する車や人はさんざん待たされてから、それッとばかりに大いそぎで渡り、渡るか渡らぬかの内にすぐしまってしまう。
下手すると二つの踏切の間の橋にとじこめられるという人泣かせの踏切で、西口と東口をつなぐ自動車や馬車の道はここだけだった。
昭和31年2月の調べだが──午前8時から午後8時の12時間のうち、遮断時間は7時間29分、それとは別に貨物線の遮断時間が5時間19分、ここを車輛のみの通行量1日1万6700台とある。通れる時間より通れない時間のほうがはるかに長い。
21年当時はトラックや自動車の数はそれよりずっとすくなかったが、そのかわりの馬車や大八車、リンタク、リヤカーなどが、バカ長くしかも線路と線路の間に敷かれた不揃いでガタガタの石ダタミの狭隘きょうあいな踏切路をわれ先にと突っ走ったのだから危険この上なく、歩行の女や子どもは時には大袈裟でなく命がけだった。
電車が右左に行き交うあいだ恭子は気を揉みつづけたが、やっとの思いで遮断機があがってスクーターが西口から東口へ走りぬけると、すぐうしろで遮断器がおりた。
「停めてください。帰ります」
恭子はホッとすると同時に憤然といったが、
「ついでに俺の新居を見せてやる」
矢之倉は走りつづけた。
「結構です。停めて」
矢之倉はスピードをゆるめない。
五ツ又(現在の東口六ツ又)のロータリーをまわった。それは王子へむかう道だと恭子はわかった。見おぼえがあった。赤ん坊の真弓を背負った秀雄とともに、桜の名所<飛鳥山>へ行ったときの想い出が脳裏をよぎる。そのときは両側に古い家屋、小さな商店がならんでいたが、今は焼け野原になっている。
「停めないのならとび降りますッ」
叫んで矢之倉の背中を押した。道に転がってもかまわないと、本当にとび降りる気で身がまえた。
「あれだ……」
スクーターは左折して脇の小道に乗りいれた。
矢之倉が指さしたのは、焼け野原の中にとり残された土蔵だった。くずれかけたその土蔵には観音開きの大きな黒い扉があって、焼ける前はまわりに質屋の建物があったのだと一目でわかる。
「入れよ、うまいコーヒーをいれる」
スクーターのエンジンを切った矢之倉は、顔の日本手拭いをとりながら歩いて行って、大きな鍵を鍵穴にさしこんで重そうな扉をあけた。
「いえ、帰ります」
恭子はきっぱりいった。怒りはおさまっていない。
「お金はお返しします」
と百円紙幣をラビットの荷台に置いた。
「なんだそれ……」
「下板橋の家から逃げるとき、落ちていたのを1枚拝借したんです」
「ああ……」
矢之倉はどうでもいいという顔でもどってくる。
夕闇があたりを支配しはじめていた。
「とにかく入れよ」
『バカモン!』
恭子が腰に両手をあてていきなり一喝した。
矢之倉はさすがにたまげて足をとめた。男の声色だった。まさかといわんばかりの顔で恭子をみつめた。恭子も戸惑っていた。古武士の風貌の父が自分に乗り移って怒鳴ったのだった。
我にかえって、
「と……私の父は子どもを叱りました」
「……ああ……」
そういうことだったのかと、矢之倉は逆立ちを思い出し、茶目っ気のある女なのだと納得したが、男の声が腑に落ちず、複雑な表情に笑みをうかべた。
が、恭子はニコリともしなかった。
「常識にはずれたことをしたり行儀が悪かったりすると、とても厳しかったんです」
「……あそう」
「もうお会いしません。私の家にもいらっしゃらないでください」
「まあそういわずに……」
「もっと骨のあるかたかと思っていました」
ピシリと決めつけられて、矢之倉は息をのんだ。
「GI一人に仕返しして喜ぶなんて、子どもじみています……私の主人も弟も、行きたくない戦争にかりだされて戦死したんです」
涙がこみあげてきた。
「GIに仕返し?」
矢之倉はきょとんとなってから苦笑した。
「そんな風に見たのか。違う。俺はあのリンタク野郎のヘッピリ腰が情けなかったんだ」
だが恭子な聞いていなかった。頭の中はすでに突っ走っていた。
「死にそこなったのは幸運じゃないですか。アメリカに負けたのがくやしいなら、最後の一人になるまで戦うといっていた日本帝国軍人として、ほかにすることがあるんじゃないんですか……小さすぎます」
「………」
矢之倉は衝撃を受けた。怒気を含んだ目で恭子をみつめた。
「私には分かりせん。教えてください。大勢の軍人が残っているのに無条件降伏するなんて、どういうことなんですか。話が違うじゃありませんか。天皇陛下のご詔勅があったからといって……逆に口惜しい思いをなさっている陛下に申し訳ないとは思わないのですか」
無謀な行為につきあわされた腹立ちが、自分でも思っていなかった方角に暴発した。
「……顔に似合わずきついな」
じっとこらえる様子だった矢之倉が口をひらいたが、恭子の勢いはとまらない。
「おこるのが当たり前でしょう」
すると、意外にも矢之倉は悄然となってうなずいた。
「……お前のいう通りだ」
「………」
恭子も逆に出鼻をくじかれて口をとざした。
「送ろう。その前に大事な話をしようじゃないか」
「大事な?」
「お前に似合った仕事をしないか?」
「お前と呼ばれる覚えはありません」
まだ古武士が片足のこしていた。
「……じゃ、名前は」
「首藤といいます」
「シュトウ……何だ」
「首藤と呼んでいただけば結構です。バァなんていわれたくありません」
矢之倉は一瞬ポカンとしてから、
「ああ、キク婆のことか……」
「失礼じゃないですか、あのかたまだお若いのに」
「いや、ありゃあれでいい」
「何がいいんですか」
「そうからむな……」
矢之倉は腕組みをしてちょっと考えていたが、
「おもしろいこと教えてやろう」
恭子は気がせいた。早く家へ帰りたい。が、自分に似合った仕事というのは聞きたかった。キクを話題にしたのは時間の無駄だったと後悔した。
「ほとんどのGIのしゃべる日本語がパンスケ言葉なのを、首藤知ってるか?」
「え? さあ……知り合いにそんな人いませんもの」
「奴ら、パンスケとの寝物語で日本語をおぼえるからな。ウワタシィ、ユーとオハナーシィ、シタイデッシュ、とか」
「………」
「GIと話すと、そいつがどの程度の女とつきあっているかが一発でわかる。バカな野郎はな、アタイモットオカネクレナキャイヤーヨ、なあんていうんだ」
矢之倉は白い歯をみせたが、恭子の不快はおさまらない。
その顔色を見て、矢之倉はいいかたを改めた。
「ちゃんとした男の言葉を使う奴がいると、こいつは上等な女とつきあっているなとわかる」
「ちっとも面白いお話だとは思いませんけど」
腹を立てている恭子にはどうでもいい話題だった。
「言葉づかいで人間がわかる……首藤は上等な女だといいたかったのさ」
虚をつかれ、ちょっぴりプライドをくすぐられた。
「……なにもパンパンをひきあいに出さなくたって……」
「すまん。軽率だった。たしかにMPにつかまったら首藤にも迷惑をかけるところだった。すまん」
矢之倉があまりにも真面目な顔になって挙手の礼をしたので、
「どうも……」
思わずつられて恭子も頭をさげてしまった。米軍に捕らえられなかったことには正直ホッとしていた。
「あなただって、つかまったら大変なことになるじゃありませんか」
恭子の表情がやっとゆるむのを見て、矢之倉が真剣な顔になった。
「あらためてくどく。俺の女になれ」
意表をつかれどおしで、恭子はどぎまぎした。
「ご冗談ばっかり……」
「本気だ」
「どういう意味ですか」
「単純明快じゃないか……いや、結婚はしない」
「おことわりします。人をなめるのもいい加減になさい」
恭子はサッと背中をむけて歩き出していた。どうにも許せなかった。貧ひんしても鈍どんするなといった父がよみがえる。
『貧しいのは恥ではない。心までさもしく愚かになるな。気位は保て』
わざわざこんな男に会いに来た自分を恥じた。
矢之倉が送るといって追ってきたが、
「こんな世の中に産み落とされた子どもは哀れだとおっしゃいましたけど、哀れでないように私がちゃんと育てます。ご心配なく」
もうふり向かず、いそぎ足で立ち去った。
土蔵に入ってきた矢之倉が腰を落としたのは、先日キクを迎えた座卓の前だった。
(小娘と思っていたが……)
新鮮な驚きに、彼ははっきりと恭子を見直していた。日頃胸の底にどす黒く淀んでいたあせりの塊をかき乱し、その一部をはっきり言葉にして正面からぶつけられたような気がした。
「小さすぎる……」
つぶやくようにいってホッとため息をつくと、マッチを擦って油皿の灯心に明かりを灯し、立ち上がって扉を締めて錠をおろした。
ポケットの鍵を取り出しながら歩いて行って、質屋の大きな備えつけの金庫を開け、唐草模様の風呂敷包みを一つ引っぱりだした。
ほどいて木箱のふたを開けると、中には手榴弾がぎっしり詰まっている。
矢之倉はその一つをつかみ出し、握りしめた。その手がぶるぶるとふるえた。
つづく
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3 ぶくろの鼓動 (3) || 池袋ぐれんの恋
( 3 )
(売上金も天ぷらも、何もかも押収されるのだろうか……)
気をもんだが、当然だとも思った。農家からかついできた米を没収しておきながら、堂々とこんな商売するのを見逃すなんて──キクが慌てている様子が浮かんで、チラッと痛快な風が流れた。
が、キクは間もなく何ごともなかったような顔でもどってきた。
「大丈夫なんですか?」
「え? うん……」
キクは腰をおろして煙草に火をつけた。あまりにも平然としているので、恭子は言葉の接ぎ穂をうしなった。わけがわからなかった。
キクは何かを考えている様子だったが、ふと恭子を見て、
「あら、まだいたの? 行かないの東口」
「あ、はい、行きます……」
恭子は慌てていってから、
「あ、ちょっとすみません」
とキクの割烹着の裾で油のついた手をふかせてもらった。
その時裏の戸がパッとあいた。顔を出したのはあのオニギリで、4斗樽をかついでフーフーいいながら入ってきた。全身から汗がふきだしている。
「ああ……」
恭子を見てペコリと頭をさげ、恭子も腰を折って挨拶した。
「おそかったわねえ」
キクがなじるようにいった。
「すみません。魚ひらくのに時間かかっちゃって……」
とペタッと地面にすわりこむようにして樽をおろした。
「何いってんのよ岩間さん……それでも漁師の5男坊なの?」
キクは手きびしい。
ふたがわりにかぶせただけの風呂敷を取ると、樽の底は炊きたての銀シャリだった。
樽と背中の間に座布団をあてがっていたが、よほど樽が熱いらしく、オニギリの頭も負けじと湯気を発している。どれほどの米を炊けばこれだけの銀シャリになるのか見当もつかない。樽の半分も銀シャリがあるのだから、かなりな重量だろう。
オニギリを追うように両手に大きなバケツを二つさげて入ってきたのは、動作がぎこちない謹厳実直だった。
これも重そうにバケツをおろすと、ドカッとせまい土間に尻を落として大きく息を吐いた。どこからどれほどの距離を運んできたのだろう。
「大河原さんもだらしないわね。二人とも大食いなのに」
いいながらキクがバケツにかぶせた雑巾のような布をとった。ひらいたイワシがびっしりはいっている。
恭子は初めて二人の名を知った。オニギリが岩間で、謹厳実直が大河原だ。
「よしッ、一休みしたらはじめようか。火おとさなくてよかった」
とキクが吸っていた煙草を足元の土間に押しつけて消し、立ち上がってカマドに炭を継ぎ足す。細い体なのにあきれるほどエネルギッシュな女だ。
「いそがないと電車の時間……」
大河原が腕の古時計を見た。
「うん」
岩間が答えたが、
「ああ、今日は仕入れに行かなくていいわ。明日は店休む」
二人の怪訝顔へ小声で、
「サツの手入れがあるの」
「え? どうしてそんなことがわかるんですか」
とさらに岩間が訝った時、
バタバタッ……
エンジン音が近づいて、
ザーッ!
店の前の小石まじりの道で、後輪のタイヤをすべらせて砂ぼこりをあげたものがある。急ブレーキをかけて停まったのは、売り出されたばかりの初の国産スクーター<ラビット>だった。
いや、ラビットより先に恭子の目にとびこんだのは、それに乗ってきた黒い革ジャンに派手な縞柄シャツの矢之倉だ。
不精髭もなく、剃りあとがさっぱりしている。
「よう、きたか……」
矢之倉はのぞきこむようにして恭子を見た。
「きたかじゃないでしょ、あんたに逢いたくて来てるのよ」
キクがいうのへ恭子はいそいで、
「いえ……私はただ……」
あわてて、思ってもいなかった言葉が出た。
「この間の百円をお返ししたいと思っただけで……」
その時矢之倉がエンジンをふかしたので彼には聞こえなかったが、
「いいのよそんなこと」
キクが恭子に眉をしかめてから矢之倉へ、
「ああそれね? ラビットっていうの」
話をそらした。
「これからは原動機の時代だそうだ。フン、最高時速60キロ」
矢之倉は吐き出すようにいいながらピッカピカのハンドルを叩き、嘲笑ぎみに、
「ミミズ並のスピードだけど、自転車よりはマシだ」
時速600キロのゼロ戦と比較しているのかもしれぬが、そんなことは彼以外のものには通じない。
矢之倉は恭子を手招きして後ろの荷台を叩いた。
「え?」
乗れという意味だとわかると、恭子は苦笑でまぎらわした。当時の日本では、自転車でも大人の男女が一緒に乗って走るということは絶対ないことだった。
ちなみに、石坂洋次郎原作の「青い山脈」が映画化されて、若い男女が自転車で走るシーンが新鮮だと話題になったのは三年後の昭和24年である。
「さあさあ、新しい時代の乗物よ。乗ってみたら?」
キクは恭子を肩で押してうながした。
「まさか……」
「何がまさかよ。帰るんでしょ? 近所まで送ってもらいなさいよ」
「………」
意地の悪い言葉を無視して、恭子はうしろの戸を押した。
「百円のことなんか黙ってればいいのよ」
と小声で送り出してからキクは大声でいった。
「また来て手伝ってよ。待ってるわよ」
恭子の中には、キクに対する闘争心が湧きあがっていた。不愉快だった。百円を返そう、結婚していることをかくしているなんて、第一亡くなった夫に失礼だ。
だが恭子には、乗ってみたいという衝動もあった。ラビットは当時の日本人の好奇心をあおるものだった。焼け跡の東京では自転車すら贅沢品という時代である。さっそうと風をきって走る姿がいい。
表へまわってきた恭子を見てキクがいった。
「こわいらしいわ。無理に乗せないほうがいいかも……」
その声を聞くと逆に反発するように恭子はラビットに近づき、その心を読んでキクは苦笑した。
矢之倉は尻込みする恭子の腕をつかんで荷台にまたがらせると、
「俺につかまってろ」
と急発進させ、恭子はあわてて彼の革ジャンにしがみついた。
大通りに出るとすこしスピードをおとした。知人に会うのを怖れて顔を隠してうつむいた恭子は、後部座席にもつかまるところがあるのに気づいてしっかりつかんだ。
「なんだい、また来て手伝えって……」
「ええ、キクさんのお店で働かせていただこうかと……あ、うちのほうへは行かないで下さい。ご近所の目がうるさいから……」
「テンプラ食いたいからか?」
恭子は答えない。この男の調子に合わせたくなかった。
矢之倉はニヤッとわらってスクーターをUターンさせると、エンジンをふかした。
割烹旅館「大江戸」の玄関。
昭和60年の区画整理で三業地はなくなり、大江戸は「ホテル大江戸」(劇場通り)として生まれ変わった。
彼が乗りつけたのは、ときわ通りの三業地だった。池袋西口には、昭和のはじめから料理屋と芸者屋の混在する二業地があったのだが、その後待合を加えて三業地になっていた。むろん戦災で全焼したのだが、この頃ぼちぼちトタン屋根で営業を始める店があらわれていた。
その三業入り口に早くもこの年、人の目を驚かす本格的な建築の割烹旅館「大江戸」が開業した。
江戸川乱歩町会副会長と小笠原三九郎町会長(もと大蔵大臣)
──西矢亥津子氏提供
池袋の再建を願う地元の名士や大地主たちが出資して開業した株式会社で、現代に置きかえるならサンシャイン60やホテル・メトロポリタンのように、当時の池袋にあっては群を抜く存在だった。
広大な敷地の本館の1階には結婚式場があり、2階には50畳の大広間もあって旅館も兼ね、江戸川乱歩氏も文人らと集って語らい、団体の宴会や集会の場として繁盛していた。
矢之倉と恭子が通されたのは、8畳・10畳といった離れが6間あるその奥の間だった。
田舎育ちで質素な家庭に育った恭子は、こういう場所に来たことはなかったので、部屋に入ってしまってから戸惑った。新婚旅行などというものもない時代で、はじめて味わう雰囲気だったのだが、世間知らずで免疫がないだけに怖れがない、という面もあった。
(時代に取り残されまい、世間に慣れよう)
という前向きな気持が高まっていたせいもある。夫をうしない家をうしなったことは昆虫類が脱皮したのと同じだから、急いで新しい強い衣で身をかためなければいけないと、まるで背伸びする少年のような心境になっていた。
(そう。新しいコロモ……)
自分をはげました。消失した家を懐かしんでいるようでは脱皮もできないことになる。脱皮できない幼虫は死ぬしかないのだと。
まず銚子がはこばれ、矢之倉の注文でつぎつぎ料理が出される。
「さ、どうだ」
酒をすすめられたが、恭子は盃をふせて受けなかった。酒など飲んだことはないし飲みたくもない。
「じゃあ食え」
何年も食べていなかった刺身を目にすると、子どものころなじんでいた瀬戸内の鯛を思い出した。つながりで、平和で仲むつまじく暮らしていた両親や弟妹との去りし日も浮かんで、急に涙が出そうになった。
矢之倉が片っ端から口へ放り込むのにつられ、恭子も天菊での空腹をとりかえそうと箸をつけたが、思いのほかすぐ腹がいっぱいになった。
「おい、どんどん食えよ。てんぷら冷めるぞ」
「ええ、でも……」
恭子は残念だったが、やはり縮小した胃はなんともならない。天菊で匂いを吸い込みすぎたせいもある。
「なんだ、もっと食べると思ったのに……痩せてるけど、胃下垂なんだろ」
恭子はちょっと驚いたように素直にこたえた。
「ええ……昔お医者さんでそういわれたことが……」
「あれは逆立ちをすりゃあいいんだけどな」
「まさか……」
笑ってすませたが矢之倉は、
「いや、まじめにそうなんだ。食えるようになる」
「本当ですかあ?」
恭子は半信半疑で訊いた。
「ああ、俺は毎朝やっている」
彼は酒をはこばせて豪快にあおり、大変な食欲で料理をたいらげていく。
その様子を見ながら、恭子は意を決した。
「私、結婚しておりました」
「ええ?」
あまりにも唐突だったので、矢之倉はびっくりした。
「結婚……?」
「はい。主人はサイパンで玉砕して……いま主人の母と娘と息子の4人ぐらしです」
「ははあ、そういうことだったのか……大変なんだな」
「ええ、大変なんです」
「サラリというな」
「え?」
「こんな世の中に産み落とされた子どもはあわれだよ」
矢之倉は深刻な顔で恭子を見ながら酒をあおった。
「ええ、そう思います。でももう平和になったんですから、これからは……」
「平和?」
「でしょ? 戦争は終りましたし」
「終わったんじゃない負けたんだ……戦争は永遠につづく」
「どこと、どこが……」
「マッカーサーがいったろう。日本は1等国から4等国に転落したって……大きい戦争は1等国同士がやるのさ。日本はその力をそぎとられた」
「でも、今度戦争がおこったら、地球は原爆でおしまいだとか、ラジオで……」
「そう。おしまいになるまで終わらない……」
「でも原爆は……」
「原爆は進歩するし、いや原爆以上の兵器が作られるかもしれん。人類の歴史は殺人兵器の歴史だ。石ツブテから弓矢、鉄砲、大砲、航空機爆撃、そして原爆。進歩はあっても退歩は絶対ない」
「………」
「自分が天下を平定して平和な世の中をつくる……英雄はみんなそういった。そして英雄になりたい奴はあとからあとから湧いて出る。だからいくさは終わらない。個人も国家も民族も宗教も、自分が頂点に立たなければ気がすまない。負けて自分が死ぬときは地球なんか滅びたってかまわない。それが人間さ」
恭子は絶句した。
反論したかった。否定したかったが、あまりにも突然でうまい言葉が見つからない。
「ちょっと……」
と矢之倉は立って廊下へ出て行った。かなり飲んだのに足どりは変わらない。 トイレだろうと恭子は思った。
だから立っていそいで壁ぎわへ行き、逆立ちをする気になった。子どものころ親からかくれて弟と競ってやったのを思い出し、壁へもたれるようにして逆立ちした。
1回、2回と試みて、やっと3回目にうまく立てた。立てたからうしろが見えた。矢之倉がびっくりしているのが目にはいった。
「なあにしてるんだ……」
彼は酒がなくなって催促に行ったのだった。
「あら……」
腕の力が抜けて、肩から落ちた。
「大丈夫か? 首ひねらなかったか」
「ええ……ごめんなさい。いやですわ」
恭子は赤くなって席にいそいでもどった。
矢之倉は手をたたいてわらった。
「そうかそうか、どんどん逆立ちして胃下垂治してどんどん食べてくれ。ハッハッハ」
つづく
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3 ぶくろの鼓動 (2) || 池袋ぐれんの恋
( 2 )
ひろい青空のもと、焼け残りの池袋駅のホームに立って東を見れば、遠く護国寺の青い屋根がよく見えた。
東口も西口も、何もなくなった駅前の空き地には、はじけるような解放感がみなぎっていた。建築の槌音はまさに新生池袋が歩きはじめた足音だ。占領国アメリカ軍の監視と被占領国日本の政府による物資統制の下で、それをはねかえそうとする貧しい者たちのエネルギーが爆発していた。
小屋掛けのような二又交番で巡査に訊くと、
「テンギク? ああ、あのてんぷら屋かな?」
粗悪な紙にガリ版刷りされた地図でしめしてくれた場所は、西口青空市場のメインストリートの左側、位置としては現在のバス通りからバスターミナルにかけてのあたりである。
巡査のいった通り、<森田組西口マーケット建設予定地>の看板はすぐみつかった。
雑に整地された空き地の奥で、完成したバラックはまだほんの一部で、建築中かその準備中という段階のものが多く、屋台や路面商いがその間にわり込んで、ここも殺気だった混乱の中で、あらゆる生活必需品が売られていた。
何を争うのか殴り合いの喧嘩で相手を追いやってから大きな風呂敷包を開いて真新しい日本軍軍服の山を前にして、
「さあどうだ。やばい品だからたたき売りだ。早いとこ持ってってくれ」
浪花節語りのようなだみ声で手を叩く刺青男がいる。
何本かの洋傘を手早く売り切ってさっさとひきあげる痩せガエルのような中年男もいれば、すかさずそのあとへ手製の晒し飴をひろげる女もいる。
露店商といってもピンからキリまでいた。サラリーマンの月給が500~600円の時代、売り上げ1日8000円の汁粉売りの看板娘から、1日の儲けが10円にもならない落花生売りなどもいて、厳しくなる取り締まりのため、運わるく窮地に追い込まれて浮浪者に転落する者もすくなくなかった。
ごはん茶碗、素焼き七輪、下駄、醤油樽、手桶、ベークライト製食器、シガレットケース、キセル、タイヤ、たばこ、酒、にぎり飯、卵、鰹節、サツマイモ、ジャガイモ、大根、白菜、お好み焼き、おでん、肉類、乾燥イモなどなど、ショバをめぐっての小競り合いは腕力次第、睨みのきく男が勝ちとる。
高価な品は米兵や中国人など外国人ルート、ブローカーやかつぎ屋からの物、密輸品、盗品などだが、もっとも多かったのは、旧日本陸海軍の軍需物資の横流しだった。
敗戦のどさくさにまぎれて各地の造兵厰、被服厰、燃料厰から不法にかつぎ出された食品、油、衣服、軍用車輛など、当時の金で8億円もの物資が闇の世界 へ流れた。
闇商人には生半可なハングリー精神とはちがって、文字通り裸一貫からのし上がろうとする人間の、腰のすわった迫力と物凄いバイタリティーがあって、
「こちとらあ命張ってんだ」
とばかり、警察を尻目に片っぱしから品物を送りこんだ。
恭子は、物騒だから昼間でもこのほうまで入ってきたことはなかった。だから冒険気分でさがしていた。
<天菊>は完成したばかりのバラックの中にあった。餓えた者には下腹までしみこんでくるごま油の匂いがあたりに充満しているのだから、天ぷら屋の所在はすぐわかった。トントン葺きの低い屋根がそのまま天井という食べ物屋が5、6軒並ぶ長屋建ての手前から2軒目で、中が見えぬほど客がたかって順番待ちの行列を作っていた。
なにしろてんぷらなどこの頃の人々にとっては夢のまた夢である。こんなところに天ぷら屋がと、びっくりして口をあけて見ている通行人もいる。
<てんどん1杯20円 材料はすべて本物>の貼り紙に目を丸くする。
1坪ずつに作られた店を、天菊だけは二つぶち抜いて使っているので、間口2間、奥行き1間(180センチ)──4畳ほどの広さの横に長い店で、店内のすべてがてんぷら造りの作業場だった。
通路に面した側を横に飯台でしきり、満員の客は庇ひさしの下の急ごしらえの木製の長椅子にすわって道に背をむけ、店に顔をつっこむようにして、肩よせあってギンシャリの天どんをフーフー吹きながらガツガツ食べている。
実際どんぶりに噛みつくのか箸の音か、カツカツという音が聞こえてくる。店内でてんぷらを揚げる煙があがっているが、座りきれずに立ったままかきこむ客もいるから、うしろに立っても恭子は中を見ることができなかった。
「あらッ」
目ざとく客の肩ごしに首をのばしたのは、てんぷらを揚げていたキクだった。
「あ、ちょっとあんた、こっちから裏へまわって」
と長い箸を持ったまま、あいたほうの手で自分のうしろをさした。
「あ、はい……」
まるで古くからのつきあいのような調子に、恭子はついつりこまれた。
隣の店の横を通って裏口へまわると、あたり一帯は未整理で瓦礫だらけゴミだらけの広い汚い焼け跡だった。店の裏の戸はあけてあって、店内の土間でキクが一人でてんてこ舞いしていた。
「あ、はいってはいって。戸はちゃんと閉めてね。猫の手も借りたいんだからさ。そこのどんぶりにどんどんシャリ盛って。それからそっちのを洗って」
「はい……」
いやも応もなかった。恭子は渓流を流れてきた木の葉が渦にまきこまれたように、テキパキとんでくるキクの指示でくるくる働きはじめていた。
恭子がどんぶりにめしをよそう。キクが揚げたてんぷらをのせてツユをかける。天どんといってもネタはイワシだけだったが、本物は本物だ。
イワシといえども池袋の住人には配給でたまにしかお目にかかれない贅沢品である。シャリは驚いたことに4斗樽にはいっていた。
それをのぞきこむようにしてシャモジですくい取る。
「ダメよそんなに押さえつけちゃ。フワッと盛るのよフワッと」
耳打ちされた。
底のほうになるほどメシ粒がつぶれているから、フワッと盛るのはむずかしい。
恭子の徹底したスキッ腹に、ギンシャリの匂いはたまらない。そこへ顔をつっこむのだから口の中は唾液でいっぱいで、気が遠くなりそうだ。
てんぷら鍋をのせたカマドに炭をつぎたす役も受けもたされた。
カマドをウチワであおいで油の温度を調節するのはキクだ。
二人ともコマネズミのように動きまわった。
使用済みのどんぶりと竹箸を洗う。でも拭くひまはないし、そのための布巾も用意していない。拭くことなどはじめから考えていないのだ。
食べるほうもそんなことはどうでもいいのだと、恭子にもわかった。
(気取るガラじゃない……)
キクの横顔がそう語りながら、米軍用の缶詰の小麦粉を洗面器にうつし、手早く水をいれてかき回す。
恭子の洗いかたもだんだんザツになる。水道などないから2斗樽に入れた水はすでに油だらけでベトベトしている。
キクはエプロンで時々手を拭くが、恭子は自分のモンペで拭く気にはなれない。
手もどんぶりもベトついたが、使いおわったどんぶりなど客は見ない。天どんのできあがりをひたすら待っている。どんぶりを受けとればもうわき目もふらずにかぶりつく。
食べ終わったどんぶりや箸は洗う必要がないほどキレイに舐めてくれる。
(洗ったふりして、ほとんど洗ってはいなかったらしい……)
とわかった。舐めおわった客はさっさと帰っていくし、来た客は天丼目当てでどんぶりを洗ったかどうかなど見ていない。
洗うより大事なことがある。食い逃げされてはたまらないから現金と天どんの交換だし、どんぶりを持ち逃げされぬよう、キクはつねに油断のない目を走らせる。その目は血走っているといっても過言ではない。
1杯20円──学生アルバイトの日当の3分の2の天どんがとぶように売れる。客はいくらでもある。
それでもキクは外をのぞいて行列が途絶えそうになると、
「さあさあ、メリケン粉のついた本物のてんぷらですよ。てんツユのダシはカツオブシ。醤油はキッコーマンですよキッコーマン! 砂糖もつかってますよ」
大声をはりあげる。
耳にした通りすがりの金のない栄養失調たちの目の色がかわる。
わざとらしく棚にま新しいレッテルのキッコーマンの一升瓶を置いている。飢えた人々にとっては死んだおふくろに出会ったようなもので、涙が出るほどなつかしい瓶だ。レッテルだ。あるところは何でもある。
隣の店のラジオはガーガーピーピー雑音をたてながら選挙の結果をつげている。婦人代議士誕生のニュースでもちきりである。
番組のくぎりごとに「エヌ・エイチ・ケー」とアナウンサーが気取ったフシをつけていうのもこの年の3月に始まったばかりで、どこかおしゃれな感じで人々に時代の変化を強烈に印象づけ、子どもまでがイヌ・アッチ・ケーと意味も分からず真似ている。
「J0AK、日本放送協会……」
という棒読み調はえらく生真面目でダサかった。後のNTT、JR、JAなど氾濫する略称の第1号だから新鮮だった。
(よくまあ、今まで一人でこの作業をこなしていたものだ)
感心した。キクはその顔色を見ぬいて、
「あんたのおかげで二倍のお客こなせるわ」
ひたいに流れる汗を袖でぬぐいながらいった。さすがに先日とはガラリとかわり、木綿のモンペに白いエプロンをつけて、かいがいしくいきいきしている。
恭子はわいて出るツバを飲みこみながら、世の中がギッコンガッコン音をたてて変りつつあるのを肌身に感じていた。
目の前に入れかわり立ちかわり現れる客たちの食欲の旺盛さ。それにこたえるだけの天どんがこんなにある。未曾有の大飢饉などどこ吹く風である。
なん杯も平らげる者もいる。食べなければ元気は出ない。食べればガソリンとなってエンジンがかかる。
圧倒的に男が多いが女もまじる。
キクだけではない。客の中にも男まさりの女闇商人という新しいタイプの女性たちがあらわれたことを恭子は知った。しとやかな女などここにはいない。
満腹の腹をたたき、目をかがやかせて去っていくたくましい女たちは、何をやりにどこへ行くのだろう。
(これからすごい世の中になる……)
わけもわからずそう思った。
具体的な希望というのはおのずからスケールが限定されるが、まったく計りしれない可能性は、人にとんでもないバラ色の夢をいだかせる。
女が代議士になる世の中など、つい何ヵ月か前まで想像もできなかった。おまけにバイオリンひいて「ハハのんきだね」とラジオで歌っていた<ノンキ節>の石田一松も当選した。タレント議員の第1号だ。
「石田一松って、あの映画に出てた奴か」
「政治なんかわかるのかねえ」
「へへのんきな政治だね、か」
噂している声も聞こえる。
今の人間には違和感ないが、代議士といえばモーニングを着てシャッチョコばった老人しかイメージできなかった恭子の感覚では、 威厳ある日本帝国から戦国乱世に逆もどりした気分だ。
代議士につづいて女のお巡りさんが62人も誕生するとラジオは告げる。
(女のお巡りさん? 一体どうなってる……どんなふうにどこまで変わる……)
そんな予感が恭子をわくわくさせた。
その象徴のような女闇商人たちが、目の前で男を押しのけてどんぶりにかみついている。
後から後から、エネルギーにあふれた男や女がやってくる。矢之倉やキクをふくめて、恭子が今まで出あったことのないタイプの人間ばかりである。これからはこういう人間にならなければ生きては行けないのかとさえ思える。役所勤めのサラリーマンの妻として、のんびりと何も生活のことなど考えていなかったが、裸一貫となったからにはこれまで通りの生きかたではいけない──そんな思いがつきあげてくる。
暇になったのは、4斗樽のめしとバケツの底まであったてんぷらのネタが底をついたときだった。
「ちょっと少なめに盛って」
残っためしとネタを見比べて耳打ちし、キクはうまい具合に同時に売り切った。
3時間あまり働かされて、恭子の食べる分はなかった。
キクは売上金をいれているザルを通行人からかくすようにして飯台の下にしゃがみ、
「やれやれご苦労さま。はいこれお礼……」
百円紙幣を1枚とって恭子の手につかませた。
「え? こんなに……」
「いいから取っときなさいよ。ちゃんと働いてかせぐほうが気持いいでしょ?」
といってから、意味ありげにニッと笑った。
「え?……」
恭子は心が凍った。
(見られていた……)
*当時旧円に証紙を貼り付けて新円として通用させた
下板橋で百円札をポケットにいれた時がよみがえり、キクを見つめた。
キクはケロリと忘れたような顔でマッチをこすって煙草に火をつけ、くわえ煙草のままザルの中の札をそろえていたが、ふと何かを思いついたように、
「はい、追加……特別にお祝儀だわ」
と今度は百円札を2枚恭子のモンペの懐にねじこんでおどろかせ、
「あんた役にたつわ。ずっと来てくれない? 日当はずむからさ」
「え? でも……」
とびつくような態度はとりたくなかった。弱みをつかんで楽しむようなキクの口ぶりに、一瞬の躊躇があった。するとチラッと見て、
「子どもいるから?」
ズバリと斬りこみながらも、キクは札を数える手はやすめない。そろえ終わった札を無造作にふところにつっこむ。
恭子はキクの言葉の真意をつかみかねた。
(本気で誘っているのだろうか)
フフフと笑いながらキクは裏の戸をあけて外をのぞき、表の人通りにも警戒の目をむけてから、
「健ちゃんね、あんたのこと生娘きむすめだと思ってるわよ」
「………」
「ま、いいじゃない、年のはなれた妹や弟ってことにしておけば……ね?」
いいながら、用意した袋にザルの硬貨をながしこむ。
恭子は言葉がない。なにもかも見ぬいている。健ちゃんとは矢之倉のこととしか考えられない。
(よほど親しい仲なのだろう)
雁字搦めがんじがらめにされた自分を感じた。下板橋で刑事の尋問を聞いていたのだ。住所を矢之倉に告げたのもキクだとわかった。
「ね? 無理なら時々でもいいわ。働いてよ」
「あの……」
「なに?」
「矢之倉さんに家へこられると困るんです」
「あそう……」
「どこにいったら逢えますか、矢之倉さんに」
「さあ、どこかしらねえ……」
ちょっと考えてから、
「ひょっとしたら今ごろは東口にいるかも……」
「東口のどこですか」
「しるこ屋」
「なんていう……」
「店の名前? そんなものないわよ。屋台。駅の正面よ。行けばわかるわ」
「はい。でも……もし逢えなかったら……」
どうしたらいいかと目で訴えた。
「ちょっと……甘ったれるんじゃないわよ。私だって戦争未亡人よ。子持ちよ。人のことどころじゃないわ」
急にきびしい口調で切りこまれて、恭子は面食らった。
「あんたに惚れてるのよ。利用したら?」
「………」
キクの表情の中に、あきらかな女の嫉妬、敵意を見た。
なにげなく外へ目をやって、恭子はギクッとなった。
向こうの焼跡の道を曲がって黒江刑事がくる。
(取締り!)
あわててキクに目くばせした。
「え?」
キクは首をめぐらせて黒江を見た。黒江と目が合ったらしい。
「ああ……」
おちついた様子で裏の戸をあけて出ていく。
黒江は人の目を避けるようにうつむき加減で店の前まで来たが、恭子を見ると複雑で残念そうな目をむけた。
(矢之倉に近づくなといったのに!)
という怒りをこめた顔をしてから、いそぎ足になった。
裏へまわったのだと、恭子にもわかった。
つづく
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