6 ガンマン対さむらい (3) || 池袋ぐれんの恋 | 西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」
2012年05月03日(木) 16時54分23秒

6 ガンマン対さむらい (3) || 池袋ぐれんの恋

テーマ:6 ガンマン対さむらい (3)

( 3 )

 ビックリガードからの坂道をあがりきったとき、たまたま上の道を荷台がカラの三輪トラックが砂ぼこりをあげて通りすぎた。もともと舗装などして
ない道が空襲でボコボコになっていた。
 三人は石屋の「土金」「勝又材木店」という看板のある店を左に見て西口駅のほうへむかい、ヤミ市へいつもとは反対方角の飲み屋街から入っていった。
 偶然、目の前の飲み屋から出てきたのはスッピンでくわえタバコのトミちゃんだった。

「あらトミちゃん!」

 恭子が叫んだ。

 トミちゃんは手をつなぎあった三人を見てキョトンとなった。
「あらあんたたち、古着屋さんと知り合いなの?」
「あなたを探そうと思ってたのよ」
 恭子がトミちゃんの腕をつかんだ。
「え? なんかいいこと?」
「とんでもない。あなたが紹介してくれたヒガシさん、あの人に引っかかっちゃったのよ。私が渡した3000円、知らないってとぼけるのよ」
 非難めいた口調になった。
「ええ? ストレプトマイシンの?」
 とトミちゃんは小声になった。
「そうよ。なんとかしてよ」
「そんな人じゃないんだけどなあ、ホントにとぼけた?」
「そうだよ」
 脇で岳士が強くうなずいた。
「だってあの人沖縄にいるはずなんだけど……」
「東口で会ったのよ、たった今……」
 恭子はくやしさをぶちまけた。
「そうお。どうしたのかなあ……もちろん今度きたらちゃんと聞いておくけど……」
「………」
 恭子はそれ以上いっても無駄だとわかった。パン助とGIのつきあいなどその場限り。連絡方法などないに決まっている。
「そうね、お願いするわ」
 恭子はため息まじりにいって別れた。ますます悔しさがこみあげる。
「トミちゃんは悪い人じゃないよ」
 岳士が恭子について歩きながらいった。
「あたしたちにもやさしいしね」
 と初子もいった。
「うん、トミちゃんは知らないらしいわね」
 恭子もお人よしのトミちゃんを信用していたから頼ったのだった。古着を買ってくれるお得意さんでもある。突然、
「手入れだ」
 うしろで騒ぎが起こった。
「パンパン狩りだ」
 見ると、トミちゃんが慌てて店へ飛びこむところで、その向こうからの道を警察官たちが走ってくるのが見えた。

 駆け込んだトミちゃんは、垂直の梯子をいそいで昇った。慣れた早業だ。
 この店も、その狭い屋根裏がパンスケたちが米兵を連れ込む最低の売春宿なのだ。トミちゃんは屋根裏部屋の木製の小窓をつっかえ棒で押しあけて裏の焼跡を見まわした。
 大丈夫──と判断して足から小窓へ体をねじ込み、外へ出て両手でぶらさがった。
 スカートが安普請の窓枠からはみだした古釘にひっかかって、パンティー丸出しになった。
 警官たちの騒ぎ声に急き立てられ、やむなく飛び下りたから、
 キーッ
 スカートの生地が裂ける音がした。
 着地したトミちゃんは、焼跡の瓦礫で足をいためてうずくまった。

 表では、警官の一人が岳士に走り寄って肩をつかんだ。
 岳士も初子も、もう浮浪児ではないという油断があった。
「お前ここでなにしている。そっちもだ」
 と初子にも手をのばした。
「何するんです、うちの子たちに!」
 恭子がかばった。
「うちの子だあ? こいつらは浮浪児だ。何回もとっつかまえた」
「嘘だと思ったら区役所へ行って調べなさいよ。本当に何回もつかまえたの? 人権蹂躙じゃないの! 今は民主主義なのよ」
 恭子の激しさに、警官はひるんだ。
「だったらおばさんよ、ダメじゃないかモク拾いなんかさせちゃ……」
「モク拾いは犯罪なんですか? 生活のために私がやらせてるんです。ひもじいからですよ。いけませんか?」
 警官はつまった。
「ううむ……まあいい、今日は……」
「ありがとうございました」
 恭子はサッと二人の手をひいてその場をはなれた。
「おばちゃん……」
 岳士が感心したように、たのもしげに恭子を見上げた。
 初子もうれしそうに恭子の腕に頰をつけて歩きながら、
「おばちゃんじゃないわ、お母さんよ」
 とつぶやくようにいった。
 恭子はうれしくて、ニンマリしながら、
「そうよ、タケシ、もう浮浪児じゃないのよ」
 岳士はチラッと恭子を見上げてから、真面目な顔ではっきりとうなずいた。

 大通りに出ると、幌をかけたトラックが停まっていて、連行されたパンスケたちが押し上げられ、荷台に放り込まれている。
「あ、トミちゃんが!」
 岳士が叫んだ。
 ハダシのまま連れてこられたトミちゃんが、警官に突き飛ばされてころがった。
「ダメッ」
 行こうとする岳士の手を恭子がつかんだ。
「立てこらッ、仮病使ったってダメだ。歩け!」
 トミちゃんはやっと立ち上がったが、痛めた足を引きずり、やぶれたスカートのまま追い立てられて行き、トラックに押し上げられて荷台に転がり込んだ。
 三人はたたずんだまま、憎悪の目で走り去るトラックを見送った。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-パンスケとトラック


 終戦直後、近衛内閣は進駐軍兵士のためにRAA(特殊慰安施設協会)を各地に作り、希望する女性を募集した。兵士たちの旺盛な欲望は、慰安婦をあてがわないと一般の婦女子に向けられる。軍隊とはそういう側面をもつ組織である。

 ところがGIが海外から持ち込む性病が免疫力のない日本人の間にたちまち蔓延して、RAA所属慰安婦の90パーセントが罹患し、米海兵隊の保菌者が70パーセントになったため、この21年の3月にRAAは急遽廃止された。そこで不自由を嘆いたのは米軍の下級兵士たちだった。
 日本の赤線(公許の遊廓)はGIオフリミット地域であったため、それ以後、彼らの性の処理はモグリ(非公認)の売春宿や街角に立つパンスケしかなくなった。アオカン(屋外での性交)を少年が見かける機会もあったし、使用済みのコンドームが道端に捨てられているのはザラで、風船と勘違いしてふくらます子どももいた。
 ますます性病はふえつづけたから、警察の「パンスケ狩り」は徹底して行われ、完治するまで病院から出さなかったが、パンスケが根絶やしになることはなかった。女が金を得るための最低限の仕事だからである。
       
 店に着いた恭子は、岳士と初子をあらためて磯海と佐川に紹介した。
「二人ともうちの子として区役所に届けたので、よろしくね。もう学校へ行き始めているのよ」
「そりゃよかったなあお前……」
 佐川が本心からいい、磯海も声をかけた。
「よろしくな。おれたちはこの人の弟みたいなもんなんだ。だから叔父さんだ」
 岳士はむっつり二人を見たが、恭子からちゃんと挨拶するようにといい含められていたのでしかたなく、
「よろしくお願いします」
 と頭をさげた。
 初子は誰からも好感をもたれる笑顔の可愛い子だったから、磯海も佐川もニコニコして、身内がふえたような幸せな気分になっていた。
 恭子は今日は仕事は午後からと決め、昼食のために帰ることにした。
 磯海が太鼓焼きを、佐川がモツ焼きを初子に持たせたので、岳士がこっそり恭子に、
「おでんのかわりにモツ焼きをもっと買っておみやげにしようかな、この匂いも実はたまらないんだ」
 とささやいたが、
(やめておきなさい)
 恭子は目できつくいい、岳士は疑問を残したまま口をとがらせてあきらめた。

 三人が家へ帰りついた時、玄関の中から大声が聞えた。
「だから払えねぇんなら立ち退けっていってるんだよ」


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-丸橋と秀雄


「そういわれましても……」
 恭子がのぞくと、秀雄が畳に手をついて弁解していた。
 その前でふんぞりかえっていたのは鼻の下にちょび髭をはやした男だった。闇成り金の丸橋である。
「甘ったれるんじゃねえ! 出て行かねえんだったらこの家は叩き壊すからな。その時になって慌てるなよ」
 恭子は秀雄のみじめな姿が悲しく、大きく深呼吸して心をしずめてから丸橋のうしろに立って声を荒げた。
「どちらさんですか?」
 丸橋はふり向いて恭子を見た。
「おう、お前がこいつの女房か」
 見下した態度でいった。
 恭子は毅然としていた。
「叩き壊すとおっしゃいましたね?」
「ああそうだ」
「やってごらんなさい。すぐ警察を呼んできますから」
「なんだとお?」
「当然でしょ? 他人の家を壊せば犯罪だということぐらい子どもでも知っていますよ」

「だったら地代を払えっていうんだ。すぐ払ってもらおうじゃねえか。家を建ててからは払ってるけど、それ以前の分、一年以上貰っちゃいねえんだ」
 と丸橋は立ち上がって恭子の前に仁王立ちになった。
 岳士が恭子をかばって間に入った。
「おう、お前はとなりのガキじゃねえか。丁度いい。舞い戻ってるそうだな。これから行ってたたっ殺してやろうと思ってたんだ」
 と突き倒した。
「何するんです!」
 恭子は激しい勢いで叫んだ。
「タケシ、交番へ行ってきなさい。強盗だからすぐ来てくださいって」
「強盗だあ?」
 丸橋はさすがに首をひっこめた。
「当然でしょう? たたっ殺すだの家をこわすだのって乱暴をはたらいて……どこのどなたか知りませんけど、うちも田林さんもあなたなんかにお借りしたおぼえはありません。若原さんという大家さんからお借りしているんです」
「おう、だからその若原の代理人としてきたんだ」
「代理人なんか私は認めていません。何してるの! 早く行きなさい。強盗が逃げないうちに」
 恭子は岳士を叱り飛ばした。
「はいッ」
 岳士が走った。
 丸橋は舌打ちしながら、走り去る岳士を見やってあわてた。
「何でぇこのばばぁは……第一、戦前の家賃のままじゃ引き合わねぇんだ。米の値段だって百倍以上になったんだからな。よし、新しい家賃を決めて、出直して来よう」
 いいながら、肩を怒らせたまま、それでも急ぎ足の大股になって去っていった。
 恭子は肩で息をし、初子に目配せをした。
 初子は機敏に察し、うなずいて太鼓焼きとモツ焼きの包みを恭子に渡し、岳士を追って走った。
 秀雄は座ったまま、ポカンとした顔で恭子を見ていた。
「あなた……」
 恭子は威厳と自信を失った夫をみつめ、やさしくうなずきながら玄関に入り、ガラス戸をしめた。
「かわったなぁお前は……」
 秀雄は感心した様子でいった。
「はい。闇商人として生きてきましたから」
 秀雄は深々とうなずいた。
「すまん……」
「いいんですのよ。早く元気になって昔のあなたにもどってください。たのもしいあなたに……」
 いいながら涙がこみあげた。
「うん……うん……」
 秀雄は弱々しくうなずいた。
「真弓と誠一は?」
「おふくろが預かってくれている」
 と秀雄が答えたとき、
「ただ今あッ」
 ガラス戸があいて、岳士と初子が帰って来た。二人とも思い切り走った様子で、息を弾ませている。
「あ、岳士交番へ行ったの?」 
「ううん、どうしようかと途中で迷ってたら……こいつ足が早いんだよ。だから帰って来た」
 恭子はうれしそうに初子を見た。本当に警察に届けなかったことにホッとしていた。
「そうお、初子は足が早いの?」
「まあ……運動会ではいつも一等だったから……」
 初子はちょっと得意そうにいった。
「いいなあ、それは……」
 秀雄もつぶやくようにいった。
「そうだ! モツ焼き食べようよ」
 岳士がいった
「あ、あれはダメ。太鼓焼き食べなさい」
「何で?」
「あれはね、もしかしたら、犬の肉かもしれないの」
「ええ? いいじゃない、ノガミじゃ犬の肉も食べてたよ」
「ええ? あのモツ焼き、犬?」
 初子が顔をしかめ、岳士を責める目で見た。
「ああ、この間一緒に食ったろ? そうかもしれないんだよ、お前にいうと食わないと思って……」
「ああいや、私はいやよもう……」
 初子は喉をおさえた。
「はっきりしたことはまだ分からないのよ、うわさを聞いただけ。でもあれは捨てます」
 恭子がはっきりいうと、 岳士は不満だった。
「ちえッ、もったいないよお……」

 小麦粉で作ったパンとイモ餡の太鼓焼きで昼食をすますと、恭子はさっそく若原夫人の新築の家を訪ね、丸橋の件を話して泣きついた。
「まあ、そんなことを……」
 若原夫人はびっくりして顔に怒りをあらわし、
「私からいってみますけど……」
 といったが、その弱々しい様子からはとても丸橋を抑えられそうもないと感じて、恭子は家を立ち退かざるを得なくなる不安におそわれた。たしかに戦前のままの地代がまかり通る道理はない。
 焼跡の道を思案しながらとぼとぼ歩いてくると、左手の道からくる復員兵から声がかかった。
「ああ、お恭さん……」
「あら岩間さん……」
「今お宅へ行こうと思って……」
「まあ、何ごと?」
「これです。薬、兄貴から……もう切れるころでしょ?」
「ええ? まあッ」
 思わず涙ぐんだほどうれしかった。秀雄のためのストレプトマイシンを喜んだのはもちろんだが、矢之倉から忘れられたわけではないという胸の鼓動だった。
「矢之倉さん、どちらにいらっしゃるの?」
「今夜は目白の家に泊まるそうです」
「今夜はって、どこかへいらしてたの?」
 岩間はちょっと口ごもって、
「ええ……ま、いろいろと……」
 激しく迷う様子だったが、
「商売で、あっちこっち……あの、これ」
 と紙袋を渡した。
「ありがとう。助かるわ」
 と受け取ったものの、恭子は岩間を見つめていた。が、岩間はこれ以上訊かれるのを恐れるように、
「じゃ、自分はこれで……」
 と、そそくさと去って行った。
 恭子は呼び止めようと思ったが、袋の中に手紙があるにちがいないと、声を飲んだ。
 でも袋の中に手紙のようなものはなく、前と同じ薬だけだった。
 感謝した。薬が切れたらもう秀雄はダメになるような気がしていた。
 急いで家へ帰り、防空壕にいた秀雄に薬をわたした。
「すまないな、これでまだ生きられる……」
 秀雄はささげ持つようにして頭をさげた。
 部屋に入ると、四人が一度に叫んだ。
「お帰りなさい!」
 岳士と初子が協力して一升瓶に入れた米を棒で突き、そばで真弓と誠一が遊んでいた。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-米を突く初子


 配給の米が黒いので、どこの家庭でもこうして少し白くして食べるのだった。
「ただ今……」
 四人仲がいいのを見るのがうれしい。この幸せを守り抜こうという気になる。いつものみすぼらしいモンペからこざっぱりした綿のモンペに着替えてから声をかけた。
「初子ちゃん、じゃそれで今夜お願いね」
「はいわかりました」
 初子は役にたつ子だった。出かける恭子を道まで見送った。
「あれが終ったら、おばあちゃんのお米も突いておきます」
「助かるわ、あんたが来てくれて……」
 恭子は心からいった。
「あなたのお母さん、立派なかただったのね、あなたをこんなによく教育なさって……」
 初子はうれしそうに肩をすぼめた。
「やさしかったんでしょ?」
 初子は感慨深げにうなずいて、
「今度のおかあさんと似ている……」
 といったかと思うと、うつむいてベソをかき、
「仕事が忙しくて……いつも働いていました」
 じっと見下ろす恭子の目にも、にじみ出るものがあった。
「だからよくわかってくれるのね……本当の、本当の親子になろうね?」
「はい……」
 両手をひざに当てて頭をさげる初子を、恭子はそっと抱きしめた。
 岳士たち三人が、どうしたんだろうという顔で見ている。
「あ、みんなが見ているわよ。さ、涙なんか拭いて。笑って……」
 初子は素直にその通りにし、ニッと笑顔を見せた。
「そう……いいお顔だわ、美人よ。たのむわね」
「はい。家のことはおまかせください」
「うん……」
 恭子はヤミ市へ向かった。
 店に着くとすぐいつもの汚い日本手拭いで頰かむりしたが、手袋はしないで早速人形造りにとりかかった。
 作りたての人形一つと綿入れのちゃんちゃんこが一つ売れた時、顔を出したのは黒江だった。
「やあ、やってるね」
「はい、おかげさまでなんとか……」
 黒江は声をひそめて、
「明日の朝10時ごろ……わかったね?」
 手入れがあるのを報せてくれた。
「午前中も来たんだ。いなかったね」
 黒江は矢之倉が来なくなってからは足しげくくるようになっていた。
「すみません、ちょっとうちのほうが……」
「ご主人の具合はどう?」
「ええ、結核ですからね……」
 不治の病だけに、恭子は弱々しくいった。
「いや、あれはストレプトマイシンという薬が効くんだけど……矢之倉にたのんでみたらどう?」
 黒江は探るようにいう。
「あのかたはもう全然いらしてないんです」
「ほう、どうして?」
「さあ……ですからもう、警察に咎められるような品物は置いていませんから」
 来てくれなくてもいいという意味だったが、
「ほう……亭主が帰って来たから来ないのかな? ご立派なことで……」
 まるで信用していない様子で、チラチラとなめるような目で恭子を観察し、あたりを見回したりしながら、来年も餅のない正月になるとか、闇屋がますます巧妙化してきた、警察としても徹底的に取り締まりを強化しなければならないなどと世間話をして帰っていった。
 冬の日は、5時にはもう真っ暗だった。
 恭子はいつものように共同水道へ行って顔を洗い、さっぱりしてから帰り支度をした。水が冷たかった。
「もうお帰りですか?」
 顔を洗うとさすがに美しく、佐川が目を輝かせて出てきて、戸板をはめるのを手伝った。
 礼をいって帰っていく恭子の、どこか物思いに沈む様子を気にして見送ってから、佐川は磯海の店をのぞいた。
「はい、毎度」
 焼いた太鼓焼きを客に渡すのを待ってから、
「おいやっぱりおかしいよ、あっちへ行ったし……」
 佐川がいうと、
「俺もそう思っていた。考え込んでいたし、着るものが違った。あいつのところかな」
 磯海も恭子が去ったほうに目をやって、苦い顔になった。

 恭子がむかった先は矢之倉邸だった。
 家立ち退きの危機を、とても自分の力だけでは回避できないというおののきがあった。立ち退くとなったら、せっかく幸せを実感していた岳士や初子との生活をふくめて、一家全員路頭に迷うことになる。
 玄関に立ったがノックへの反応はなく、鍵もロックされていたが、奥からピアノの音が聞こえる。
 木戸を押して庭へまわってみた。
 植木越しに見えたのは、スタンドの明かりの下でウィスキーをあおりながら片手でピアノを弾く──というよりは、自分を慰める様子で鍵盤を叩いている矢之倉だった。
 ガラス戸に顔を近づけると、ふと気づいた矢之倉が目を丸くした。
 暗闇の中の恭子を幻覚かと思ったらしく目をこすり、半信半疑でじっと見つめたまま立って近づいてきた。
 恭子が頭をさげると、
「おッ」
 と声をあげ、鍵をはずしてガラス戸を引いた。
「どうかしたのか?」
 恭子はすがるような目で見上げ、一瞬言葉をさがしてから、
「……お会いしたくて……」
 借金の相談をするつもりだったが、思わず本音が出た。
 強い男の力を本能が渇望していた。恭子にはまだ、両親に大事に育てられた女の子の弱さ脆さがあった。良き時代に住み心地のよい家庭で完全に保護されていた。父は強くたのもしく、どんな外敵からも守ってくれるという安堵感に包まれていた。
「夢か……」
 矢之倉はまだ信じられない様子でいきなり腕をのばして恭子を抱きあげた。
「下駄を」
「かまわん」
 そのままソファーに腰をおろし、恭子を横抱きにして頰擦りをした。
「会いたかった……」
「しあわせ……」
 恭子はつぶやいて目を閉じ、顔をのけぞらせて彼の唇を待った。
 矢之倉の唇はやさしく軽く触れたが、つぎの瞬間、恭子の体はふわっと持ち上げられた。
 そのまま階段を上がっていくのがわかった。
 階段の絨毯の上に下駄が片方落ちてコロコロところがったが気づかなかった。
 求める心は理屈ではなかった。これからいざなわれるであろう陶酔の世界への予感で、体はじっとり汗ばんでいく。
 矢之倉の愛撫はたちまち恭子を絶頂へと導き、飢渇をすべて癒し、埋めつくしていく。

「お恭の体の中にはなにか生き物がいてうごめいている」
 女の五感の働きに精通しているかのごとく、彼女の鋭敏な触覚をすべてといっていいほど刺激し、恭子の思いもよらなかった感覚器官までも目覚めさせる。
 二人はむさぼりあった。矢之倉のしなやかでたくましい体が野獣のことく襲いかかって果てさせ、果てさせて、前後不覚におとしいれた。

 恭子の店へ岳士が来たが、戸が閉まっているので首をかしげ、佐川の店をのぞいた。
「佐川さん、おふくろ、帰ったんですか?」
 佐川は、店の中で仕事をしないで、思案投げ首で座っていた。
 焼き上がったモツヤキは積み上げられたまま客のくる気配はない。力なく顔をあげて、
「え? ああ、首藤さんならもうとっくに帰ったけど……」
「じゃ行き違いかなあ」
「いや、6時ごろだったよ」
「ええ? おかしいなあ……どうかしたのかなあ」
「まだ帰っていないの?」
 と出てきて思わず、
「畜生……」
 うなるようにいうのを、岳士はじっと見た。
 磯海が出てきながら佐川に<いうな>と目配せするのに気づいて、岳士が疑惑を深めた。


 つづく


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