プロローグ || 池袋ぐれんの恋 | 西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」

プロローグ || 池袋ぐれんの恋

小説 池袋ぐれんの恋

西 条 道 彦


絵・矢島勝昭


プロローグ

 おだやかな雲海の上をゆっくり進む。
 まぶしいほどの明るさの中に、若い男の張りのある声が響く。
「変わってないな……」
 上品な老女の楽しそうな声が答える。
「あなたはね? あのころのまんま……お逢いできてよかった」
「待たせたじゃないか」
「なが生きしろとおっしゃったから……でもゆっくりし過ぎたかしら……下界も満更でもなかったのよ。昭和は遠くなりましたけど……おかげさまで、いい人生でしたわ」
「まけ惜しみもありそうだ」
「やりたい放題に生きたあなたに比べれば、そうかも……」
「ハッハッハ……さっそくだが、会ったら最初に二人で行ってみたいと思っていた町がある」
「あら、天国の、銀座とか、六本木とか?」
 じょじょにスピードがあがる。航空機の離陸のように。
「ワアー、ゼロ戦のスピード?」
 しばし沈黙があって、男がひとり言をつぶやくようにいった。
「レイシキはこんなもんじゃない」
 その目前から、突然爆音をあげて急発進して行った物体がある。
 第2次世界大戦が始まるや、アメリカ艦隊を全滅寸前まで追い込んだ日本海軍の象徴的存在、米軍はじめ連合国軍がゼロファイターと呼んで畏怖いふした空の天才・零式れいしき>艦上戦闘機(通称ゼロ戦)21型だ。
 60キロ爆弾を翼下に抱え、天空で宙返りして──

小説「池袋ぐれんの恋」-宙返りをする零戦
 宙 返りするゼロ戦


 雲の下、海上をアメリカ国旗をかかげた航空母艦が行く。
 真っさかさまに降って襲いかかる。
 3機編隊の2番機、3番機がつづく。
 敵艦からの砲弾が炸裂するが、対空高角砲の構造上、真上は死角である。
 加えて、太陽を背にしてその光線の中に入って700キロを超える急降下速で落ちてくるゼロ戦特有の攻撃に、空母はお手上げだ。
 長機の狙いは正確に艦中央心臓部のエレベーター(艦上戦闘機の昇降用)に着弾、2番機3番機はそれぞれ飛行甲板を破壊する投弾に成功。
 ぐんと機首をあげてゼロ戦3機は上空へむかう。あざやかな操縦テクニックだ。
 誘導炎上によって甲板の艦上機にも燃えひろがり、空母はその機能を完全に失って炎と黒煙に包まれる。


 夏、黎明れいめいの東京北区の荒川──川面はまだ暗く、ゆったり流れている。
 しじまを破って上空に時ならぬ爆音が起こり、1機のゼロ戦が現れて着陸態勢にはいる。
 1945年8月21日、終戦から6日後のことだった。つい数日前まで首都防衛のエースとして、東京上空で敵機B29迎撃のために飛びまわっていた零式艦上戦闘機52丙型である。
 現代の護岸工事が施される以前の狭い土手の道に、考えられないほどの短距離で巧たくみに着地し、停止する。すぐれた艦上戦闘機搭乗員ならではの技量だ。
 開戦当時の華々しさはすでに夢──日本はいくさに破れ、無条件降伏していた。
 操縦席の風防が開いて航空服の男が一人飛びおりる。
 ふり向いて愛機を見上げ、号泣しながらいとおしそうに翼を愛撫する。袖で涙を拭って別れを惜しむ。
 手榴弾を取り出し、操縦席に放りこんでサッと身をひき、挙手の礼をする。筋金入りの洗練された日本帝国海軍士官の凛々しい姿である。
 手榴弾が爆発して風防とその周辺が吹っ飛ぶ。
 未練を振り切って逃れ、土手を民家側へ駆けくだる。
 ガソリンに引火して機体は爆裂。大きな火炎となって黒煙が空にのぼる。


 煙が去ると、わすれたようにもとの明るい静寂にもどり、雲海を行く。
 やがて雲がきれ、眼下に現代の池袋の町がひろがる。
「あら、ここ池袋じゃないですか……」
 車道に客待ちのタクシーが長蛇の列をつくり、歩道には人があふれて、車も人も24時間絶えることがない。ありふれた大都会の喧騒である。
「こうして見ると、懐かしいわ、昔がよみがえって。そう。今の池袋はビルの日かげの町だけど、あのころはこちらと同じように空がひろくて、どこからでも日の出や夕日がよく見えて、晴れた日には富士山も一望できて……おぼえていらっしゃる? あなたが暴れまわったころのこと」
「俺たちのヤミ市はどのあたりだったかな……」


ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-現在の池袋西口付近  現在の池袋西口付近
 [灰色線内は闇市があった部分]



「その二又交番の向かいがわの丸井のビルから駅のほうへ向かって細長くあったのが池袋復興商店街、その先が森田組西口マーケットだったでしょう? ゴミゴミしていたけどずいぶん広かったんですのねえ」
「西口最大のヤミ市だった……」
「あの大きなビルとビルのあいだが池袋駅よ。西側のビルが東武デパートで、東側が西武デパート……」
 1日の乗降客270万人という駅の混雑、デパート、地下商店街、量販店、スーパーなど、人が押し合いへし合いして浪費、飽食、奇抜な服装が目だち、すれ違う老人に若者がぶつかり、自転車がスピードを落とさず通行人の間をすり抜け、赤信号の横断歩道を平気で歩くなどマナー無視、ルール破りがまかり通っている。
「気に入らんな」
「でしょうね、あなたには……」

「こりゃ日本人じゃないな。日本人はどこにもいない」
「ええ、すっかり変りました」

「なんだあの穴のあいたズボンをはいてるのはルンペンかね」

「ああ、ジーパンね? はやっているんです。旧制高校生の弊衣破帽へいいはぼうみたいなものかしら」

「ヘンな奴らだ。醜いとは思わんのかね」

「あなたは、いえ海軍さんはみんなとびきりのオシャレでしたからね」

「あの5、6人のグループは男かね女かね」
「男だと思います。男性はやさしくなりました、顔も心も」
「なるほど……太平の世がつづくと男は女脈になるといった人がいたが、こういうことだったのか。まるでひな人形だ」
「ホホホ、葉隠はがくれですわね。たしかに町を歩いても、質実剛健、世界一勤勉で礼儀正しい……そんな日本人には、もうお目にかかれなくなりました」
「最近こっちへ来た年寄りたちもそういう。昭和から平成へと進んで、日本人はますます腑抜けになった。日本がアメリカの半植民地になった屈辱も忘れて、平和が第一、平和でさえあれば何でも我慢すると……」
「あら、私もそう思いますわ、アメリカに守ってもらって、とにかく戦後60年余り戦争をしないですんでいるんですもの。ずるいんでしょうか、賢いんでしょうか。とにかく、世界一平和な国になったんですのよ」
「……変わったなぁ、そんないいかたをするとは」

「はい、長生きしたおかげです」

 津波で破壊されつくした直後の東北の町々の上を行く。
「おお! ひどいもんだな。これが津波のあとか……」
「戦後の焼け野原に、ちょっと似ているでしょう?」 
「いや、戦争による破壊はまるでちがった。こんな材木なんぞ何も残らなかった……この残骸は手のつけようがないぞ」
「たしかに……でも被災した人たちの心の中は同じです。住いや肉親たち、いえ、生活すべてを奪われて、どう生きていったらいいか、希望というものをまったくなくしてしまって……昔は自衛隊もボランティアもなくて、誰も助けてくれなかったけれど、それでも立ち直りました……今度もきっと乗り越えます。日本人はたくましいし、平和をまもって他国を援助したりしたおかげで、東日本大震災では世界中から支援やご好意をいただいて……人類に大事なのはなにか、それを教えてくださったのはあなたでした」
「え?」

「昭和21年の3月でしたわね、あなたと初めてお会いしたのは……」

 雲海上は、どこまでも広く明るい。


 つづく


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