5 生きていた英霊 (5) || 池袋ぐれんの恋 | 西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」
2012年02月06日(月) 23時00分10秒

5 生きていた英霊 (5) || 池袋ぐれんの恋

テーマ:5 生きていた英霊 (5)

 ( 5 )

 翌日、合田は朝早く起きて完成した家のまわりを箒で掃き、切り落とした木片などをひろいあつめて炭俵にいれていた。
「おはようございます。今日は随分お早いんですのね」
 恭子が米を入れた釜を持って防空壕から出てきて、井戸端へ向かう。
「昨夜は掃除しなかったもんで、これ、拾っておかないと持って行かれると思いましてね」
 と、俵をかまどの脇まで運んだ。
「ああ、助かりますわ。ありがとうございます」
 米を洗った恭子がその木切れを入れてかまどに火をつけ、防空壕へ戻りかけたときだった。
 粂子がいそいそと防空壕から出てきて恭子にいった。
「私……あっちへ移ってもいいかしら?」
 と四畳半を見る姿勢で、思いがけないことをいった。
「あ、はい、どうぞ……」
 恭子はキョトンとなった。この日は合田に手伝ってもらって、いよいよ引っ越しをすることになっていた。恭子たち
が引っ越しを終わった後に秀雄が帰ってきて、粂子が防空壕に住んでいたのでは恭子の立場がないと困っていた。移ってくれるのはありがたい。
「お手伝いいたしますわ」
 恭子はすぐ粂子の防空壕に入ってみて、粂子の持物が少ないのにおどろいた。衣裳持ちだけに、もっと沢山衣類を防空壕に避難させてあるものと思っていた。
 焼けなかった着物のほとんどを、恭子があずかって農家へ運んでしまったのだとわかった。かわりに何の役にもたたない穴のあいた洗面器や空き瓶などをひろってきていた。解しかねる老人心理に、恭子は胸が痛んだ。物があった場所に何もなくなればさびしい、ガラクタでもいいから穴埋めしておけばまぎれる──そんな心境なのだろうかと思うと哀れを感じた。
 だが、昨日までのあわれな老女は、もう幸せの頂点にいた。目に命がやどった。手伝おうとする合田にも、上機嫌で、
「ああ、よろしいですわよ。力仕事は秀雄が帰ってやってくれますから……」
 足が地につかぬ様子で動きまわり、私ちょっと出かけてきますからと、近所の家によろこびを伝えたり、闇たばこを買ってきたりと、忙しく出はいりしていた。あきらめていた一人息子が生きて帰ってくるのだ。母の心がはずむのはよくわかる。

 秀雄が帰ってきたのは、引っ越しが終わって合田が帰って行き、日がかげり始めたころだった。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-秀雄の帰還


 カラにちかいリュックを背負い、フラフラとおぼつかない足取り、無精ひげをはやした青い顔で、見るかげもなくやせ衰えていた。
「お帰りなさい。ご苦労さまでした」
 門まで走りよった恭子が一礼し、肩からリュックをはずし取ると、
「お帰り……」
 粂子が気丈に、懸命に涙をこらえながら出迎えて、あとは無言のまま秀雄の手をとって導いた。
 現代のように、人目のあるところで抱き合ったりしないのが当時の日本人だった。もし秀雄が健康だったら、粂子が手を取ることさえなかったはずだ。
 メンソラのおばさんが門の前まで走ってきて、
「お帰りなさいまし。おめでとうございます」
 と丁寧に腰を折るのへ、秀雄は家の者がお世話になりましたと、両手をつっかえ棒のように膝に置いてきちんと頭を下げた。
 疎開からもどってきたばかりの小笠原さんや吉本さんら、近所の主婦たちも駆けつけて祝福の言葉をかけたが、秀雄は挨拶をするのさえつらい様子で、主婦たちも疲れを察してそこそこに引き上げて行った。
 その一部始終を、隣の田林家の防空壕から覗き見ていた岳士が、悲しく複雑な目つきを残して防空壕の中へ消えるのを誰も気づかなかった。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-防空壕の兵士


 秀雄は変りはてた周囲を見わたし、新しい家を見あげたりしながら玄関の前に立ったが、入ろうとしない。
「どうしたん?」
 粂子が不審そうにしたが、
「うん……真弓か……」
 中から出ようとした真弓が口をあけたまま、玄関で立ちすくんで見上げている。
 奥から走り出てきた誠一は、秀雄を見ると顔をゆがめ、ベソをかきはじめた。 
「真弓と誠一です」
 と恭子が秀雄にいい、
「どうしたの? お父ちゃんよ」
 やさしくいったが、目ばかりギョロギョロさせている浮浪者にも似た秀雄を怖れて、真弓は不思議なものを見る目つきである。兵隊さんのお父ちゃん、のイメージとあまりにもかけはなれていたのだろう。
「さ、ともかく……」
 恭子が玄関の中へいざなおうとすると、秀雄は二人の子をいとおしそうに見てから、逆に一歩引いた。
「実は……」
「え?」
 恭子が怪訝顔を向けると、秀雄は玄関から離れながら小声で、
「肺病を病んでいる」
「まあ……」
 恭子は驚いたが、粂子はまったく動じなかった。
「わかった。こっちへ来なさい」
 と冷静に四畳半の縁側のほうへ導きながら聞いた。
「一体いつから……」
「栄養失調と脚気を患いまして……米軍の病院で、肺結核を告げられたんです」
 一人で防空壕で寝泊まりするといって、恭子の手からリュックをとって行きかけたが、粂子は許さなかった。
「いいから私の部屋へ……仏壇にご報告しなさい」
 二人に迷う隙をあたえぬ強引さで四畳半へひっぱりあげた。
 秀雄は粂子の手製の簡単な仏壇のロウソクに火をともし、手を合わせてから向き直った。
「お母さん、ただ今もどりました。ご心配おかけしました」
 粂子の前に手をついた。
「おかえり……よう戻った……よう戻ってくれました……」
 きちんと正座して挨拶を受けてから、粂子は堰を切ったように畳に泣きふした。悲鳴に近い声だった。
 恭子も手をついた。
「お帰りなさいませ」
「うん、今かえった」
 秀雄はうなずいてから、母の背中をさすった。
 恭子はそっと立った。
 六畳と四畳半の間の襖は、合田にたのんで釘付けしてふさいであったので、いったん外へ出て、玄関からはいって六畳間から台所へ行った。
 電熱器のスイッチを入れてから、汲み置きの甕の水を少量ヤカンに入れ、電熱器の上に置こうとしたが、手をかざしてみると電熱が冷たい。電灯のスイッチを入れてみる。やはり停電だ。

 あらためて付木つけぎ(杉の薄片の一端に硫黄のついたもの)にマッチで火をつけて七輪の炭にうつし、団扇であおってからヤカンを乗せる作業を始めながら、耳をすました。
 隣室で泣きながら訴えるようにひそひそ話す粂子の声が気になったが、それは聞きとれないほど小さく、ウン、ハイという秀雄の低い声だけがよく聞こえた。
 何を告げているのか気になったが、もう覚悟をきめるほかなかった。ひょっとしたら、近所を歩き回ってきただけに、矢之倉のことを告げた人がいるかもしれないという不安がつきあげてくる。やましさを覚えているだけに、どこで誰に見られたかわからないと思う。
 団扇をつかいながら湯が湧くまでの時間は長く、怒りをみなぎらせる粂子の表情を思い浮かべていた。
 とっておきの配給の茶をいれて運んで行き、四畳半の廊下からそっとあがると、ふり向いた秀雄が突然手をついた。粂子は泣き顔だった。
「ありがとう。よく留守を守ってくれた」
 秀雄は心から感謝をあらわす態度だった。
「………」
 恭子は意外だったが、粂子も恭子のそばへいざり寄って畳に手をつく。
「ありがとう……私が生きて秀雄に会うことができたんは、恭子さんのおかげです」
「そんな、おばあちゃん……」
 恭子はびっくりして粂子の手をとった。
「いやあホンマよ。空襲のときもそれ以後も、恭子さんがおらなんだら、ワタシは生きとらなんだ。まちがいのう死んどりました」
 粂子は泣きながら息子に訴えた。真情を吐露する様子に、恭子の心は揺さぶられた。
「私こそ、おばあちゃんがいてくださらなんだら……」
 二人とも感極まると、秀雄の前だけに広島弁になり、粂子がひとしきり声をつまらせて泣いた。
 その声に、隣の部屋の誠一が泣き出して、三人は顔を見合った。粂子もシマッタという笑顔になる。
「おばあちゃん、今日はおめでたい日ですから……」

 恭子が言うと、
「おう、そうじゃったなあ」
 粂子は涙をふき、
「何はともあれ、まずは銭湯へ。な?」
 粂子がすすめ、恭子が六畳間へ手拭いと石鹸入れ、銭湯の料金2円をとりにいった。
「結核、嫌われるんでは……」
 秀雄がためらったが、
「黙っとりゃ誰にも分りゃせんよ。第一結核の人はざらにおるじゃろうしな」
「そうかもしれませんね」
秀雄はもどってきた恭子に要求した。
「着替えの着物を……」
「いやいや、ええ物を着ていきゃあ板の間かせぎにやられる」
 粂子が手を横にふった。
 板の間かせぎとは、銭湯で他人の服を盗んだり着て帰ったりする泥棒のことで、衣服が足りないこのころ大はやりだった。だから人々は粗末なものをできるだけすくなく着て行くようにしていた。秀雄の出征前からそういうことはあったが、
「ますますひどうなってのう」
 粂子ははしゃいで多弁になっていた。もう広島弁丸出しだった。


西条道彦の連載ブログ小説「池袋ぐれんの恋」-秀雄、風呂屋へ


 夫婦がふたりきりになったのは、恭子がリンゴ箱にしまいこんだ酒器をとりだそうとして防空壕に入っている時だった。祝杯をあげるつもりで闇の酒を買ってきていた。
「ここだったのか……」
 風呂上がりのさっぱりした顔の秀雄が、恭子が用意しておいた浴衣に着替えて降りてきた。
「やあ、ここだけはあの頃のままだな」
 と、古ゴザの上に坐って天井を見上げ、感慨にひたる面持ちである。
「お帰りなさいませ。ながい間本当にご苦労さまでした」
 さっき門のところでいい、仏壇の前でいったのと同じ言葉だが、ふたりきりだと恭子の表情にはじらいがあった。
 同時に、矢之倉のことをすでに秀雄は粂子から聞いているのかどうかという不安もおさえられない。
 秀雄は恭子の両肩に手をおいて、
「苦労をかけたな。東京の空襲のひどさは聞いていたが……おふくろは心からお前に感謝している」
 恭子は思わず涙ぐんだ。
 痩せたため夫の目はくぼんで大きくなったが、なつかしい温かい色をたたえて見守ってくれている。
「いえ、当然のことをしたまでです」
「これから、なにかと嫌なこともあるかもしれんが、恭子を粗末にしたら罰があたるともいわれた……」
 瞬間、恭子の胸は早鐘をうったが、秀雄はすぐつづけた。
「どんなことがあったかしらんが……俺も死にものぐるいだった。決してきれいごとではなかった。明日を考える余裕がない、とにかくその日をどう生きるかというくらしの中では、人間なんでもする。そうでなければ帰ってはこられなかったし、ここでこうして逢うこともできなかった……おたがい余計なことは聞かんことにしよう。大事なのはこれからの生活だ」
「はい……」
 秀雄は、何があっても許そうとする姿勢らしいが、恭子の気がかりはつのる一方だった。ヤミ市のことをいっているのだろうか、それとも矢之倉のことか。
「いやあ……夢のようだ」
 秀雄は防空壕を見まわして、感慨深げに大きく息をはいて、
「サイパンからグアムという島へまわされたんだ。日本では大宮島といっていた島だ」
 日本人ならラジオのニュースで連日聞かされて知らぬもののない島の名で、占領して日本名がつけられていた。
「だから玉砕しないですんだ。グアムで終戦になって、投降した。ハワイへ連れて行かれたが、偽名をつかったんだ。本当の部隊名をいえば戦争犯罪人になると思った。でも結果としては、偽名をつかった者だけがそのために帰国がおくれた。人間あとから考えると、いかにバカなことをやって生きているものか……」
 その夜、秀雄はさっそく恭子をもとめた。
「子どもたちを寝かせてからきなさい」
 と、防空壕へ夕食の膳をさげにきた恭子にいった。
 矢之倉によって汚されたというべき体を夫はどう感じるだろうか──恭子に不安はあったが、秀雄ははやばやとすませて苦しそうに果てた。お膳立ても後の気づかいもない味気ないセックスだった。そして、
「さ、行って寝なさい」
 と背中をむけた。
 病気をうつすまいとの配慮もあるのだろうが、もともとこういう人だったのだと、矢之倉を知った今の恭子にはわかる。
 やさしく、人格的には立派だが、女に性欲があるなどとは考えもしない、色の道に関してはまったく無粋な男というべきなのだ。

 翌日の昼前、合田が訪ねてきた。
 恭子がぜひ主人に会ってほしいと前日いってあったからだが、秀雄は心から合田に感謝し、二人はたちまち親しくなった。
 粂子も手をついて素直に謝った。
「年寄りのひがみ根性というのでしょうか。失礼なことばかり申し上げまして……」
「いえいえ、お気持は重々理解申し上げておりました」
 と合田は母の心がわかる男だった。
 が、秀雄は役所へも復帰できぬほどの病状で、栄養をとって安静にしているようにと医者から宣告されたことまで話した。
 戦前はそなえていた男の威厳をまったく失っていた。言葉づかいも不自然なほど馬鹿丁寧で、合田との会話にもどこか自信のない卑屈さが感じられて、恭子は悲しかった。新兵という軍隊生活、そして捕虜生活で味わった屈辱感、不治の病にとりつかれた者の喪失感などがかさなりあったものらしい。
 合田が帰ったあとまで、合田の健康をうらやましがって、はたらけないのが情けないと涙を流してなげく夫を、こんな人ではなかったのにと思いながら、恭子ははげますしかなかった。この人を救うのは自分しかいない、健康と自信をとりもどさせるのは自分のつとめだと心にちかった。矢之倉との別れも決心した。


 翌日は、秀雄が着て帰った衣類などの洗濯に時間をとられ、家を出たのは夕方近かった。出がけに秀雄に栄養のある料理を作っていただきたいといって粂子に金を渡すと、粂子は快くうなずいて引き受けた。一夜で昔とかわらぬやさしく物わかりのいい姑にもどっていた。
 久しぶりにブラウスにスカートというなりに着替えて出かけた。 
 矢之倉邸の門をくぐる胸の内は、先日とはまったく違うものだった。彼が家にいることを祈ったが、会うことには罪の意識があった。
 まだ姦通罪というものが厳然と存在していた。夫を持つ身の女が他の男と契れば犯罪だし、やがてそんな罪名が世の中から無くなるなど、恭子には想像もつかないことだった。
 老婆に顔を合わせるのさえ気が咎めたが、幸い彼女は不在で矢之倉はいた。
 玄関に出迎えた矢之倉は気さくだった。
「おう、来たか、あがれ。今日は家で仕事をしていた。出かけなくても能率的に仕事がこなせる」
 電話を使っての商売で、上機嫌だった。
 が、入ってソファーに腰をおろす恭子の態度が異常に硬いのに気づいて、
「どうかしたのか」
 訝った。
 恭子は泣き出しそうな顔になった。
「主人が……復員してきたんです」
 矢之倉は絶句した。 しばらくしてから口をひらき、斜めに目をおとした。
「よかったな……」
 義理のようにいってからひと息ついて、
「別れるためにきたのか」
「……そうしなければ、いけないと……」
 恭子はうつむいていった。
 ふたりの間に凍りついたような沈黙が流れた。
 恭子には、別れて生きていく自信はなかった。ソファーに沈み込む思いで、矢之倉がどう応えるかとじっと待った。死の宣告をうけるような気分だ。東上線の暴れん坊を思い出して、荒い言葉も予想した。
 が、矢之倉は冷静に、はっきりといった。
「わかった。俺にかまうな。相手は亭主だ。いさぎよく身を引く」
「?……」
 あまりにもあっけない返事だった。恭子は言葉をうしなった。、
「お店もやめなければ……」
「そうだな」
「……?」
「……亭主が帰ったんなら、稼ぐ必要もなくなったろう」
「無収入なんです。結核で弱って、職場へも復帰できないので……」
 矢之倉はじっとみつめてから、
「そんなにひどいのか……」
 その深刻ないいかたに、恭子は自分の置かれている立場が心に落ちて、冷静さを取り戻した。
「不治の病ですが、何とか回復するように全力をつくさないと……」
 矢之倉はみつめたままだったが、
「さすがはお恭だ」
 深くうなずいてから目をそらし、苦しげにためいきをついたが、怪訝顔の恭子に気付き、やさしい視線でつつんだ。
「後悔のないように、大事にしてやれ」
 そういってから、次の言葉をさがすようにうつむいていたが、立って、ブランデーグラスを二つとり、一つにはほんの一口分、もう一つにはたっぷりついで、少ないほうを恭子に差し出した。
「別れの杯だ……」
 恭子は受け取ったが、彼をみつめたままそっと卓上に置いた。急に悲しくなって涙がこみあげた。
「あなたは別れたいのね?」
 思ってもいなかった言葉が口をついて出た。
 矢之倉は無言でじっと見返した。内心の懊悩に耐え切れず嗚咽を漏らす恭子に、彼は凄絶な色気を感じた。いとしいと思った。同時に、
(これ以上苦しめたくない)
 情がこみあげ、迷う手つきでブランデーをあおり、うつむいた。一瞬考えてから、
「弟が戦死したこと、妹がいることは聞いたが、両親、実家はどこなんだ」
「亡くなりました、広島です」
 矢之倉は一瞬目を丸くして、
「ピカか……」
「いえ、福山ですから……」
 と答えて恭子は不思議そうな目になったが、矢之倉は気付かなかった。
 ピカという言葉は、母からの最後の手紙で知った。原爆という言葉もその正体もわからずに投下の翌7日に母はその手紙を書いて投函し、8日の福山空襲で亡くなったのだった。その後、桃子から広島では皆がピカといっていたと聞いたが、新聞でも、東京の人の口からも、原爆、原子爆弾とは聞いてもピカという表現は聞かなかった気がする。なぜ矢之倉がその言葉を知っているのか不思議だった。

「瀬戸内海には、戦国時代村上水軍という海賊がいたのを知っているか?」
 矢之倉の唐突な質問に、恭子は面食らったが、
「ええ……能島来島因島のしまくるしまいんのしま……」
「うむ……三つのちっぽけな島だが、滅法強かった。瀬戸内を支配していた。なぜ強かったか知ってるか」
「さあ……」
 こんな時になぜそんな話を持ち出すのかまるでわからない。
「三島さんとうにはすばらしい哲学があった」
「海賊に哲学?」
「村上水軍の兵士は、いくさに出かける時は命を捨てていた。捨て身の兵ほど強いものはない。その、命を捨てる覚悟はどうやって身につけたか……平素自分のいとしい者を力の限りいつくしんでおけと教えた。そうすれば、やることはやったと満足して死ねる。ああしておけばよかった、こうしておけばよかったという後悔がなくなる」
「……どうして今そんな……」
「尊敬していた上官からの受け売りだ。やがては死んでいく部下たちにもよくそういった。いざというとき無様な死に方をしないよう、両親や大事な人を思いっきりいつくしんでおけと……それなのに、俺自身は……」
 苦しさをあざ笑うように、
「亭主を思う存分大事にしておくことだ。そうしないと後悔することになる」
「………」
 恭子はやっと彼がいわんとしていることが飲み込め、ひんやり胸に落ちた。
「大敵に囲まれた小島で、島民の幸せを守るためには、命を捨てる兵が必要だった」
 怒りをこめた目を庭に向ける矢之倉を、恭子はまじまじと見た。
 小さな島国日本のために命を捨てた海軍魂、特攻隊の精神を重ねていると、わかった。
 矢之倉はグラスを一気にあおってから、きっぱりいった。
「店は、やめるな」
「え?……」
「あの店の権利はやる。だから自分でやれ。手は打っておくから、今後のショバ代は自分ではらえ。品物は供給させる。これからは給料ではない。俺との取引だ。もちろんもう直接は逢わん。亭主第一に生きろ」
 苦しい別れだった。


 恭子は心を残しながら立ち上がった。
「お世話になりました。どうかお達者で……」
 そっと消えるように去ったが、矢之倉は送らなかった。
 恭子が出ていった玄関の音を聞くと、彼は苦しげに何かに追い立てられるように立ち上がった。


つづく


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