大滝秀治さんが亡くなられた。
 映画を観ても、テレビを眺めていても、
 大滝さんがシーンに出てくると、なぜかそのシーンが締まり、ドラマが精彩を帯びてくる。
 わたしは、映画『不毛地帯』で初めて、大滝さんを見かけた。
 政府の高官役で出ていたのだが、様になり、存在感があふれ、憎たらしい感じだった。
 主役でもないのに、なんなんだ、この存在感は。人間の実存感があったんですね。

 「脇が甘い」と人間はボロを出す。
 したがって、名作をつくる映画監督は、名脇役で主役を生かそうとする。
 山田洋次監督作の『寅さん』シリーズには、多くの名脇役がいた。おいちゃん、おばちゃん、さくら、ひろし、社長。脇役だが、この役を演じる俳優がいなければ、寅さんは単なる極道にしかなかったであろう。マドンナもこの名脇役がいたからこそマドンナになれたのだと思う。

 名脇役として、さまざまな人間を演じ続けた大滝秀治さんの後継者が現れることを祈る。
 10月5日のテレビで放映した。 
 高齢者が主役になると、どうしてもいかに死ぬかがテーマになる。
 6か月後に死ぬと宣告された高齢者が、期せずして、病室を一緒にしたことで、物語が始まる。
 大金持ちの男エドワード(ジャック・ニコルソン)と、大学を中退し、家族のためだけに働いてきた自動車整備工カーター(モーガン・フリーマン)である。
 余命を宣告された二人は、自動車整備工が書いたメモをきっかけに、やりたいことをやろうと。

 スカイダイビング、ムスタングの運転から始まり、パリ、アフリカ、アジアを喧嘩をしながらも旅行する。
 しかし、カーターは体調を崩し、愛する妻がいる家に帰る。
 エドワードは経営に復帰する。
 
 病状が悪化し、手術が必要になったカーターを、エドワードが見舞う。
 カーターは、妻を通してエドワードに手紙を残す。
 「人生に喜びを見出してくれ」
 と。
 それは、旅行の最中にカーターがわかった、エドワードとエドワードの娘との和解を勧めるものだった。エドワードはカーターの勧めに従い、娘と和解する。孫がいた。

 人生の終わりにこそ、最高の人生を体験したいと思う。われもまたと思うが、お金がない。
 
 たまらなく好きな石川さゆりさんと美空ひばりさんの名歌である。

 二つの歌の共通点は、女が男を愛する激しい情念であると思う。

 『天城越え』の作詞は、吉岡治さん。1985年に、作曲家弦哲さんらと当時の天城湯ヶ島町に泊まり込んで詩を考えたそうな。
 かたや、 『みだれ髪』は星野哲郎さんの作詞。星野さんが塩屋埼灯台(いわき市平字薄磯字宿崎3)に行き、詩の想を練ったかどうかは不明だそうだ。

 作詞には、まず場所があり、その場所を舞台にして、物語が始まる。

 『天城越え』は、現在進行形の愛を描いている。
 川端康成の『伊豆の踊り子』に、たぶん題材をとったと思うが、天城峠を越えて下田までの踊り子と一高生との交情は、一高性の一方的な想いで終わる。
 しかし、『天城越え』はいまは、揺れ動いている男の心も、天城峠さえ越えれば、
 きっと、女のわたしにひたと向くにちがいない、そうなってもらいたい、と強く願う女の気持ちが
ある。
 女の愛は、肉体関係を超えたところのあるのだと、伊豆の名所を舞台にせつせつと、歌っている。
 
 『みだれ髪』は、春まではつきあっていた男女が、たぶん夏の初めごろに、男が女を捨てた状況からできたのであろう。
 春は二重で巻くことができた帯が三重に巻いても余るとは。いかに別れてからの数か月、そし塩屋岬灯台に来たいまも、この女を苦しめている。
 その苦しみは、ひとりぽっちになったからではないかと、胸が痛む。

 この二つの詩に、女の情念が感じられ、男のわたしは、涙を流すのである。
 
 わたしの仕事は、対人援助である。
 判断能力が十分でなくなり、売買契約などの法律行為で不利益を被る恐れのある人を、援助する仕事である。
 さらに、その人の心身の状態が現状維持か悪くならないように見守り、適切な手配をする義務がわたしにはある。

 今日は、わたしたちの援助を必要としている親子の親に問題が生じたので、
 その親子、援助者のわれわれが集まり、今後の解決策を話し合った。

 一番大切なことは、その親子の意志である。
 問題をどうしたいのか、じっくり本人らの話を聞くことから始める。 

 そして、本人らの意志の解決策の結論を、われわれ四人が共有するのである。
 
 せんだって、鳴らない南部風鈴と書き、
 お詫びの文章も書いた。
 
 今日は、また台風19号の影響か、風が吹いていた。
 しまわずに、ベランダに出しっぱなしの南部風鈴が、
 快く、音を響かせてくれているんです。
 りん・・・りん・・・・ちりん、と 
 わたしが、あいつどうしているかな、便りを出そうと思っている。
 すると、思いは通じる。
 秋で、人恋しくなるからかな。

 彼とは、4年前に札幌に住む元上司を訪ねた。
 以前、ブログで書いたが、
 「君たちは、シンクタンクになれ」
 と言ってくれた上司である。

 友人は、社内報の編集とコンピュータ研修の企画運営とわれわれ二人に提示された
 担当業務で、わたしに社内報編集を譲ってくれた。
 独身寮も隣部屋であった。

 それから、すでに33年たつ。

 彼は、人間が好きで、いまでもわたしが知っている人間と、いまでも交流している。
 
 手紙には、彼の近況が書かれ、わたしの近況を知らせよ、と書かれていた。

 わたしは、12月には関西を訪れる、と返信する。
 随筆を書き続けることに、何が必要か、考えてみた。
 まず、人間関係がなければ、書けない。
 わたしのいままでの書いたことのなかの、ほとんどは、友人、知人に関すること。
 人間関係がなければ、70パーセントは書けていない。
 次に、自分が動いていなければ、書けない。
 仕事、趣味、通院で動いて、感じたことを書いている。
 これが30パーセント。

 つまり、人とのつながり、自分の行動が書くことにつながる。

 一人では生きられない。
 二人でいられれば、楽しい。
 三人以上の知り人がいれば、もっと楽しい。

 わたしは、人を大切にしようと、改めて考える秋である。
 友人が、イタリア、フランスの旅を終えて、成田に着いたと、メールをくれた。
 「いろいろあったけれども、無事に」と。
 四姉妹恒例海外旅行なので、無事に帰ってくるとは思っていたが、
 なんせ、経済危機のイタリア、人心はいいのかと思うと、 
 臆病なわたしは結構心配していたのです。
 
 友人とは8年前に知り合い、幾度もわたしの仕事上のピンチを救ってもらった。
 安定した人柄、優しさ、行動力には、いつもあきれていた。

 お土産を期待して、とメールの最後に書いてあったので、期待しよう。

 この異性の友人は、期待を裏切らないんだから。
 仕事をして、さぼるのではない状態で映画を見る。
 今日はそれができた。
 自宅を自転車で午前9時30分に出て、約1時間の仕事先に行き、12時に仕事を済ます。
 午後1時からの「最強のふたり」を観るために、自転車を漕いで、映画館を目指す。
 開演20分前に着き、チケットを購入。
 午後3時までの幸せの時間。

 謝罪。
 昨日、南部風鈴が鳴らないと書いた。
 わたしはやはり、頭が回らない人間でした。
 ブログを書いた後、しばし、鳴らない風鈴を見つめていました。
 閃いたんです。
 風鈴の形を。
 つまり、風鈴から1本のひもが垂れている。
 そのひもには、見慣れた風鈴には細長い四角形の何かがついていた。
 それがきちんと風を受け、鈴を揺らすんではないか。
 本のしおりを付けてみた。
 
 鳴りました。いまも、弱い風ですが、いい音で、心を和ませてくれています。
 さて、フィリップは、なぜ、ドリスを雇い続けるのかの問いに、
 「私を対等に扱うから」 
 と答える。
 貴族の血を引き、エリートとして育ってきたフィリップ。
 ドリスはそれなりの才能はあるが、才能発揮に至らず、しかし自分の複雑な家族事情を、他人のせいにしないといった、まっすぐな性格。
 
 介護者、被介護者の関係は強者、弱者の関係だが、、これはうまくいくはずはない。介護者、被介護者には、優者、劣者の関係があればうまくいかない。ドリスは素人だが、、フィリップを対等な人間、男として扱う。フィリップはその関係を愛する。

 この作品は、人間の「相性」を考えてしまった。
 フィリップは、クラッシック、詩を愛す。
 ドリスは、ロック、女を愛す。
 人間の持つ自然な本能で動くドリスはその間性ゆえに、
 フィリップの結婚相手との仲を取り持つ。
  ブラボー。

 泣かないで観られた映画もいいものである。