3月26日、東京に開花宣言が出た。

 今日は東京は篠突く雨が降り注いでいる。

 買い物のため、スーパーに行った。

 重い荷物をぶら下げて、帰りは桜並木を通ってきた。

なんと、2本のさくらの木に、さくらの花びらが開花しているではないか。

 もう、その木は三分咲きである。

 ほかの木はまだ咲いていない。

 春を告げる木はそれぞれの個性の赴くままに今日開いたり、明日以降開いたりする。

 感動のまま、

 「春になったんだねー」

 と、見上げてさくらに話しかけた。

 今年も会えた喜びが大きい。


 それにしても、今年わが街での花見を約束した人間に昨日メールをしたが返事がまだない。

 わたしが言い出したのではないのにこの反応の遅さは何なのだと思ってしまう。

 春を告げるさくらはすぐに去ってしまうというのに。

 掲題の言葉をわたしはまったく知らなかった。

 しかし、姉は今回の自宅建設では二番目に重要な間取りとしていた。

 しかし、当初の計画ではその間取りでは自由に歩けないことが判明したので、その問題を解決するために今日は現場監督と検討することになった。

 以前の計画を姉から建築現場で聞いたときはウォーキングクローゼットの中で動きようのない設計だったので、考え直した方がいいとアドヴァイスし他ので、今日も付き合う羽目になったのである。

 姉の希望をどう技術が実現するかが今日のテーマであり、1時間以上かけてなんとか姉の希望と技術が折り合った。

 わたしは大まかな性格なので、あまり細部にはこだわらないのだが、そこで住む姉を想像して使い勝手、住みやすさを考えて考えた。

 なるほど、希望とその希望を叶える技術はマッチングしなければならない。

 使い勝手を考え、技術的に可能な状態を念頭に置き、考える現場監督は好ましかった。

まだまだ、このような話し合いは持たなければならないと思ったが、観念して付き合おうと思った。

 電車に乗りたくなった。

 乗ってビックリ。

 わたしと同年代のシルバーがやたら目についた。

 電車は当然、シルバーシートを目指す。

 乗った車両のシルバーシートにはすでに5人が座っていた。

 わたしが座ると、シルバーの男が席を占めることになった。

 初めての経験である。

 シルバーの外出日なのであるのか。

 銀座に出かけたのだが、シルバーはザックを担いでいるのである。

 もちろん、わたしも同じ格好である。

 銀座四丁目で、シルバーのおしゃれが目につく。

 洒落たセーターを着たり、ブレザーを着こなしている。

 ともかく同世代に目が行く。

 服の善し悪しには疎いわたしだが、うまい着こなしのシルバーが多い。

 わたしと一緒のザックを担ぐシルバーはわたし同様おしゃれではない。

 手ぶらのシルバーは軽快なのだ。

 次回はわたしも軽快な服装で決めてやろうと、妙な決意をした。

 本日、東京都下は快晴。

 なので、久しぶりに玉川上水サイクリングをしてみた。

 自転車で玉川上水の道を通るのは、歩行者に申し訳ないのだが、自転車を勘弁してもらうしかない。

 小平市から武蔵村山市まで10Kの道のりである。

 しばらく走っていると、桜の木は結構上水べりにあるのに気がついた。

 とつぜん、開花予想をしてみたくなった。

 そこで、写真を撮ることにしたが、20点ほど撮ったのだが、わたしの意図と反した写真ばかりであった。

 写真で意図したのはつぼみの膨らみ具合と、いままさに咲こうとしているつぼみの桜色加減を記録したかったのだが、枝とつぼみしか映っていなかった。

 歳を経るごとに写真の腕前は凋落している。

 撮影している時は、本日の明るさで被写体を正確にとらえたわけではないが、2,3枚はまともな写真があると思っていたのである。

 いずれにしろ、28日には東京の桜は開花すると予想してみた。したがって、4月4、5日が桜満開になるだろう。

 終日晴れマークの日となった。

 気温は少し低いが、春めく日となった。

 昨日まで家に閉じこもる状態だったので、早々と外に出た。

 野球の試合に興じる人たち、テニスのダブルスを楽しむ人など身体を動かしていた。

 動作に切れを感じるので、見ていても気持ちがいい。

 桜の木の下に来て見あげると、つぼみの膨らみが目立つ。

 1週間もすれば、わが街の桜も開花するのかもしれない。

 春が来ているのである。

 携帯が鳴った。

 友人からである。

 花見をしようと昨年から約束をしている。

 4月の1周目に会おうと約束した。

 マンションの前を通りかかった。

 前面に駐車場がある。

 ナンバープレートをざっと眺めまわした。

 えっ、徳島ナンバーが1台あった。他はすべて三多摩ナンバーである。

 これも季節が関係しているのではないか、と思った。

 転勤で突然東京勤務になったのでこちらに自動車のナンバーを代える暇なしに着任したのかもしれない。

 自然も、人も変化しているのだ。

 本書は2000年5月30日に新潮社から刊行された。

 1988年4月6日から1999年3月29日の1年間に西日本新聞社に連載していた作品に補筆したものである。

 図書館の藤原新也コーナーを見たら、多くの著作物の中から本書のタイトルに引かれ、突然読みたくなったのである。

 本書はこの世の中の表と裏を読み解くことに力点を置き、書かれたものである。

 筆者のふるさとは門司港である。このふるさとではホテルについて書いている。

 外観、内装のよさに引かれ筆者は泊まったらしい。ところが、バイキングの朝食には辟易したらしく、せっかくの秀でたホテルにするためには食事にも命を吹き込んだ方がいいと御節介している。

 わたしは筆者の考え方、行動、写真そして生き方が好きである。

 『印度放浪』『全東洋街道』『東京漂流』『メメントモリ』には生きる人間としての強さがあり、フィクションの処女作『ディングルの入江』には人間の奥深さを感じた。

 いま筆者はウェブマガジン『CATWALK』で社会の表を裏からも見ている。

 昨年11月25日に、筆者は特定秘密保護法案と前猪瀬都知事の5千万円受領事件について権力側が特定秘密保護法案から国民の目をくらますために東京地検特捜部が朝日新聞に猪瀬問題をリークしたのだとわたしに教えてくれた。

 わたしはすぐにツイッターでリツイートした。

 最近は年4回、日本野鳥の会のフリーペイパー『Toriino』で筆者にお目にかかっている。

 カレンダーを見てみたら、今日は祝日であるらしい。赤い数字になっていた。

 春分の日であった。昼と夜の長さが同じ、程度しか思いつかなかったので、広辞苑を引いて見た。「太陽の中心が春分点上に来た時の称」と書いてあった。

 さて、本書はワイド版岩波文庫298として2008年6月17日に刊行された。

 漱石はなぜか「修善寺大患」と言われる仮死状態に陥った体験がる。

 1910(明治43)年8月7日ごろから8月下旬までの修善寺菊屋旅館での胃潰瘍悪化による大病とその後を文学者漱石は思い出の記として我々に残してくれたのである。

 漱石は8月6日に九九や旅館に着き、10月11日に帰京するが、状態が悪く、そのまま長与胃腸病院に入院する。退院は1911年2月26日である。

 したがって、本書は入院後、手が動かせるようになってから書かれたものだろう。

 漱石は、快方に向かっていたとはいえ、修善寺大患の吐血の様子、自分の手足であっても自由に動かすことができないさま、死と向き合わざるを得ないさまをドストエフスキーを例に挙げて書き進めている。

 漱石危篤と断ぜざるを得なくなり、娘3人を茅ヶ崎から呼び寄せる。

 その様子や見舞後の娘たちの手紙を紹介する漱石の優しさがわたしには一番胸を打たれたところであった。

 瀕死の病人であっても、本人はこのとき死ぬとは思っていない。

 この執念がある限り、人間は生き抜けるのではないかと教えてくれているようであった。

 『明暗』を完結できなかったことが漱石の無念であったろうと本書を読んで感じた。

 昨晩から東京は雨である。

 ついこの前降った雨から比べると、雨音が聞こえ、春を告げているようである。

 冬の雨は霧雨、春の雨は春雨、夏の雨は豪雨、秋の雨は秋雨と降り具合、雨音で季節を映し出している。

 こんな日に外出しない幸せを感じているわけだが、考えると約束のない、寂しい日と言ってもさしつかいない。

 幸せと寂しさを同時に感じることもあってもいいと思うのだが、こんな日が毎日続いたらたまらなくなるであろう。

 それにしても、自然は人間に何らかなりの感情の起伏を呼び起こしてくれる。

 雨は感情を沈ませてくれるし、風は感情を軽やかにしてくれる。

 太陽光、月光はと延々と感情との対比を考えてしまうが、人間の今の気持ちが平成であれば穏やかに、不安であればざわめきのだろう。

 この雨寒を越せば、春はまちがいなくやってくると、待ち望むのである。

 わたしには朝のメールと電話、夜中のメールと電話はなかった。

 メールは仕事で落合う人から用事ができたので約束の日を変えたいとの連絡であった。

 ラッキーと思わずつぶやいた。

 約束の日には雨が降るからである。

 レインコートを着て行くしかないと覚悟していたのだったが、順延の日の天気予報は曇りのち晴れ。

 了解メールを出した。

 間髪をいれずに電話がかかってきた。

 姉からである。

 「悪いけど、建築現場に何日の何時に同行して欲しい」

 用件はわかっているのでこちらも了解した。

 相手の都合に合わせるだけの時間を持つわたしは相手に合せることができる。

 漱石は修善寺大患の3か月後に東京の病院に入院する。

 世間に対して肩ひじを張って生きてきた漱石は初めてくつろぎ、俳句を作り漢詩を作る。

 そこにえも言えない自由を感じる。

 いまのところわたしはブログを書くことしかできていない。

 いま何のために生きているのかと自分に問うと、

 生があるからとしか言いようがないのである。

 秘かに、人のためにとつぶやくのだが。

 わたしたちが使っている日本語に何の疑問を持つことなしに、いまも使っている。

 しかし、明治に入り、話し言葉の全国統一に向けた事業がなされ、今日に至っている。

 作者の井上は本書の時代背景を明治5年8月の学生の発布から明治8年の末までとし、さらに絞って明治7年初夏からその年の秋までとしている。

 本書は中公文庫として2002年4月25日に刊行されている。

 わたしは、この才人を敬して遠ざけていたが、タイトルに引かれて読んでみた。

 主人公、南郷清之輔氏が文部省学務局付として共通口語の発明の実務責任者として数か月間任務を全うしようと奮戦するわけである。

 この愛すべき南郷氏は長州出身で、薩摩の南郷氏に養子に入り、

東京在住である。

 この東京の屋敷には、清之輔(長州弁)、義理の父、南郷重左衛門(薩摩弁)、妻、光(薩摩弁)、息子重太郎(ごちゃごちゃ弁)、女中頭、秋山加津(江戸山の手言葉)、飯炊き、高橋たね(江戸下町方言)、御田ちよ(江戸下町方言)、下男、江本太吉(津軽弁)、車夫、築館弥平(遠野弁)、書生、広沢修一郎(名古屋弁)、女中、大竹ふみ(山形弁)、居候、裏辻芝亭公民(京都言葉)、居候、若林虎三郎(会津弁)

と13人が同居している。

 清之輔は、恵まれた屋敷の環境から、まず、地域言葉を直すには五十音の発音をすればお国ことばが直るのではないかと考える。

 しかし、同音でもお国により、意味が違う。

 そのうち、出身地の言葉こそ共通口語の基礎にならなければならないと同居人は考える。

 さてこの難事業はどうなるのか。

 わたしは、鹿児島出身の学友の家をベースに九州を回ったことを思い出した。

 学友の家を訪問した時に、突然学友が薩摩弁で両親と話し出した。

共通口語でわたしとは話をしていたにもかかわらず、唐突に薩摩弁である。

 お国言葉とは永久に生き残ってもらいたい。