今回から武田氏館(日本100名城)
の紹介です。躑躅ヶ崎(つつじがさき)
館と言われます。
第1回目はその歴史です。
甲斐源氏の流れをくむ、武田氏一族の
武田信昌・信縄の時代に(1466年頃~
1518年)には、守護代の跡部氏が排除
されて。『甲斐国志』によれば信昌は、
甲府盆地東部の甲府市川田町の川田館
に居館を構え、家臣団を集住させます。
信昌は嫡男の信縄に家督を譲り、落合
(山梨市落合)に隠居しますが、何故
か信昌は次男の信恵(油川氏)の方を、
後継者とすることを望みました。
守護:信縄と信恵の間で内訌が発生し
ます。信縄の子の信虎(初名は信直)
は永正5年(1508年)に信恵を敗死
させると、信虎による甲斐統一がな
されます。
1519年に武田氏館跡は武田信玄の
父である、武田信虎が築城した武田
氏館です。
1520年には館を守備する、支城の
築城も行われ、『高白斎記』によれ
ば、背後の積翠寺丸山に詰城要害山
城が築かれました。
築城した武田信虎肖像画です。
要害山に詰城が築かれました。
信玄が人は石垣、人は城と言った
そうですが、攻められた時に逃げ
る山城を持つのは、他の豪族の城
と同じ構造でした。
現地の解説板にある本丸内部の
戦国時代配置図です。
武田信玄肖像画です。
昔の肖像画とは違い
やさしい感じの顔です。
武田勝頼肖像画です。
信虎、信玄、勝頼の武田氏三
代が居住し、政務を執り行っ
たのが下図の本丸です。
現在地にある古絵図です。
本丸天守は1590年以降の徳川支配時代
に築かれました。
大正7年に古府之図として出版された、
「甲府略志」にある図です。
赤①・②は下図と同じ位置です。
本丸西隣には1551年に信玄の嫡男である
義信の館として築かれた西曲輪(二の丸)
があります。
本丸北側には食糧庫とされる味噌曲輪や、
大井夫人の隠居所と伝わる御隠居曲輪が
あります。(下図)
現在地の解説板にある絵図です。(上が北)
大手は本丸西側にあります。
①の参道は大正8年(1919)に
武田神社が創建されたときに造
られた道です。下図の①・②は
同じ位置です。
Google地図です。(上が北)
右端の躑躅が峰の尾根が西に
延びた先に、武田氏館が造ら
れています。
本丸東側の大手門跡です。
大手門付近の堀は深くなって
います。
(大手門東史跡公園より撮影)
大正8年に造られた武田神社の
参道です。それまでここに入口
はありませんでした。堀と土塁
がありました。
躑躅が峰の尾根が延びた先なの
で本丸部分は少し高くなってい
ます。
橋を渡ると
武田神社の参道です。
参道の土塁発掘調査図です。
武田神社の全景です。
戦国時代の武田氏館と城下町の想像図
武田氏館は武田勝頼が家臣団の反対
もありましたが、新たに新府城
(韮崎市中田町中條)を築城して、
1582年(天正10年)には躑躅ヶ崎
館から移動しました。新府城へ移転
して直ぐ、織田氏の甲州征伐の結果、
1582年に武田氏は滅亡しました。
武田氏滅亡後は甲斐国の統治拠点と
して館が(穴山氏の河内領を除く)
甲斐一国・信濃諏訪郡を統治した、
織田家臣の河尻秀隆は躑躅ヶ崎館
で政務をとったとされます。
河尻秀隆肖像画です。
1582年の本能寺の変後に、川尻は
混乱の中で亡くなります。
その後に入府した徳川家康によって、
改めて甲斐支配の主城とされ、館域
は拡張されて天守も築かれました。
1590年(天正18年)に徳川家臣の
平岩親吉によって甲府城が築城され
ると統治機能は、甲府城に移転しま
した。
平岩親吉肖像画です。
本丸(主郭)の北西に天守台があり
ます。
天守台の高石垣です。
徳川家康により築造されました。
天守台の高石垣は、甲府城築城が
一応の完成を見る1590年まで
使用されたと考えられます。
1705年(宝永2年)に甲府に入封
した柳沢吉保は、それまで「古城」
と呼ばれていた躑躅ヶ崎館跡を、
「御館跡」と呼ぶよう甲府市中
に発しました。吉保は自らを甲斐
源氏の後裔と称していました。
2006年(平成18年)4月6日に、
「武田氏館」として日本100名城
に選定されました。
5年前にUPした堺市大仙公園の紅葉です。
今回はここまでで、次回につづく
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