真田幸村VS伊達政宗の戦い 道明寺の戦い2 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

改めて、明けましておめでとうございます。
本日の午後9時から、TVで新春時代劇「信長燃ゆ」があります。

さて、前々日の続きです。

2016年の今年はNHK大河ドラマ「真田丸」ですが、
今日の戦いは大阪夏の陣での戦いの話です。
前日の5月5日、真田幸村らは、後藤又兵衛と会合、
6日を期して道明寺で合流し、国分において徳川方を
迎え撃つことを約します。道明寺で合流とあったのに、
早く着いた後藤は、幕府軍がすでに国分にいることを
知り、合流せずに先に戦います。
薄田らは誉田八幡宮で合流を待っていたようです。

誉田八幡宮で陣を張っていた
薄田隼人正(約五百人)らは、


この誉田八幡宮で、合流待ちの陣を張っていました。


境内にある説明板です。



誉田八幡宮の境内にある、誉田の戦いの記念碑です。


誉田の戦い記念碑の拡大

この時、誉田八幡宮の拝殿が、秀頼により再建されて
完成まじかでした。

誉田八幡宮の拝殿です。



拝殿を横から見たところです。

薄田隼人正らの隊はこの誉田八幡宮で陣を張ります。


道明寺の戦い午後の布陣

先方隊が集まったので薄田(約五百人)隊は、道明寺に
出陣します。

道明寺で水野・堀隊と交戦しますが、薄田隼人正・井上
時利は討死
します。
明石隊は、徳川方の攻撃を防ぎつつ後退します。
毛利隊(約3千)は敗走して来た将兵を収容して、
戦いながら後退。後方隊の真田隊(約3千)らは、
味方諸隊の撤退援護のため誉田村に前進します。


誉田の戦い戦場地図です。


道明寺天満宮の拝殿です。
この天満宮の隣に道明寺があります。
江戸時代までは道明寺と天満宮は、
一体でしたが、明治の廃仏毀釈で分離しています。


江戸時代の道明寺天満宮


この戦場の写真は


誉田村の戦場です。田畑の平原です。後方左端の山が小松山です。
この山の下に幕府軍の総大将である松平忠輝隊がいました。

ここで、
松平忠輝の人物について
天正20年(1592年)1月4日、徳川家康の六男として
江戸城で誕生しました。幼名は辰千代(たつちよ)とい
います。
生年が辰年だったのがその由来と言われる。
生母・
茶阿局の身分が低かったため、家康は誕生したばかり
の辰千代を、下野栃木城主で3万5000石の大名であ
る皆川広照に預けて養育させます。そして、
慶長15年
(1610年)に忠輝は越後高田藩主に抜擢されます。な
ので、それまでの領地である川中島12万石と併合して
合計75万石の太守でした。本隊の
松平忠輝隊も1万人
規模の隊でした。
この軍の伊達政宗は、総大将松平忠輝の正室
五郎八
(いろは)姫の父で、
伊達政宗は
松平忠輝の義父に当
たります。この戦いでも政宗の意見に従い、大坂方を
追撃しなかったことなど、後日の謀反を心配した幕府は、
家康没後の元和2年(1616年)7月、兄の秀忠が忠輝
に改易を命じました。
そして天和3年(1683年)7月に、
幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去します。92
歳。息子である徳松は放免の際に同行が許されず、更
には岩槻藩主・阿部重次の預かりとなったものの、そこ
で冷遇され、寛永9年(1632年)に住居に火をつけて
自殺(享年18)しています。
忠輝にはこの戦いの後に、悲しい運命が待っていたのです。


話を誉田の戦いに戻します。


伊達勢の先方である片倉小十郎重長は、真田勢を見るとこれに攻め
寄せます。
片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させ攻撃します。
これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢(馬上鉄砲隊
もいたらしい)の接近を待って迎え撃ちます。片倉自身が馬上4騎を
切り伏せたり、渡辺糺が負傷するなど激戦が展開されます。真田勢
が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、自身は藤井寺まで後退し、
毛利勢と合流します。
幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺
から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、にらみ合いの状態に
なります。
午後2時頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令
が豊臣軍に伝えられます。豊臣軍は真田を殿軍とし、午後4時過ぎ
に順次天王寺方面へ撤退を開始します。水野勝成・松平忠輝・一柳
直盛・本多忠政などは追撃を主張したが、伊達政宗は「我が隊は朝
からの戦闘で疲れている。追撃は不可能だ」と断固として追撃拒否。
総大将の忠輝も賛同し、そのため追撃の話しは立ち消えします。
大坂城への着陣も遅参となります。
この時真田幸村は「関東勢百万と候え、男は一人もなく候」と、幕府
軍を嘲笑しながら撤退したといいます。
藤井寺の村は大坂方が焼き払いながら撤退したので、以前UPした
豪農の吉村家も炎上しています。
この真田幸村VS伊達政宗の戦いの様子の動画(去年の春の国際
合戦フェスティバル合戦編in橋本 
で撮影)もUPしておきます。(約8分です)




最後に
豊臣秀吉が健在だった頃に、大坂城下で真田家と片倉家が
近所だったために、知り合いであった真田幸村の子供2人が、
片倉小十郎に預けられています。なので幸村の子孫が仙台
で続きました。
後藤又兵衛の子供は、この戦いの後、大阪の淡輪村に隠れ
て百姓をしていましたが、幕府に捕縛されます。しかし、幕府
に反抗しない誓いをしますので、淡輪村から出ないことを条件
に許されます。そして、その子(又兵衛の孫)が、譜代大名に
仕官出来たので、子孫が武士として続きます。
近鉄道明寺の駅前に


近鉄道明寺駅前です。
右端に記念石碑があります。



この記念碑の左側にある説明石版には、
道明寺の住職が書いた文書があります。
これを現代語訳した説明板が下にあります。

次に道明寺合戦の説明板です



最後に


道明寺駅にあった掲示板です。左から片倉小十郎御子孫の片倉重信さん、
後藤又兵衛御子孫の後藤基保さん、真田幸村御子孫の真田徹さんです。


今日はここまでです。
去年は毎日UPをしていたのですが、仕事も忙しくなるので、
1月から隔日のUPにします。

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