昨日の続きで今回が最終回です。
今回は森忠政が美作に領地を得た
時に、名古屋九右衛門という家臣
がいました。
名古屋九右衛門は戦国三大美少年
の1人と言われた、名古屋山三郎(
さんさぶろう)です。
元禄風俗絵巻の名古屋山三郎
これは後世に描かれたものです。
肖像画が無いのですが、
Web上での画像はいろいろありました。
歌川国芳の浮世絵
現代美少女風
津山では名古屋山三郎のイラスト
コンテストも過去に行われました。
母方が織田家の縁戚だったため、
織田九右衛門とも称しました。
歌舞伎の元祖とされる出雲の阿国
とのロマンスでも有名です。
阿国歌舞伎図屏風にある
出雲の阿国です。
大河「明智光秀」でも準主役でした。
その美貌から蒲生氏郷に最初女性
と間違われ、美少女として嫁にとら
れそうになり、蒲生氏郷に小姓とし
て仕えました。1591年の九戸政実
の乱で一番槍の功を立て2000石
に加増されました。氏郷から寵愛さ
れていましたが、1595年に氏郷が
亡くなると蒲生家を離れます。
京都四条河原で出雲の阿国と恋仲
になります。その後出家して宗円と
名乗り大徳寺に入ります。
細川藤孝は宗円(山三郎)について
「かしこくも身をかへてける薄衣、
にしきにまさる墨染めのそで」と歌
を詠み、粗末な薄衣ですら宗円が
身に着けていれば錦にも勝る墨染
めのそでに見紛うようであると賞賛
しました。
細川藤孝肖像画です。
NHK大河「明智光秀」でも活躍
細川藤孝とも男色関係にあったと
も書かれています。
その後還俗して名古屋九右衛門と
名乗り、彼の妹の於岩が側室とな
っていたコネから、森忠政(蘭丸の
弟)の家臣として仕えました。
森忠政木造です。
森忠政からも寵愛されて、森家の
重臣となります。肖像などは残って
いませんが「森家家臣各務氏覚書」
に、「名護屋山三郎殿 御かたち美
男にて之れ有り」の記録があります。
忠政の側近として、発言力が高ま
ると、森家の重臣で親戚でもあっ
た井戸宇右衛門と対立します。
井戸宇右衛門は武功で知られた
森家譜代の重臣でした。
井戸は何の武功も無いのに、殿
に寵愛された軟弱者に腹が立っ
ていたのでしょう。
2人の相関図です。
名古屋城下が開かれた頃から名古屋
と名護屋が併用されていました。
2人は津山に来る以前から仲が悪く、
度々口喧嘩などをしていました。
名古屋は忠政と男色関係の側近で
あることを利用して、宇右衛門討伐
の命を忠政に請います。慶長8年
(1603年5月3日)に、忠政から
宇右衛門を殺すように命を受け刀
を賜ります。数人の武士を引き連
れて、院庄の城普請現場に行き
ました。
グーグルより院庄です。
構城跡です。
喧嘩口論の末に抜刀して襲い掛
かかるも、逆に宇右衛門に切り伏
せられて亡くなります。口喧嘩で
興奮して自分で切りかかったのが
間違いでした、手下に先にかかれ
と命じれば良かったですね。
宇右衛門も名古屋が引き連れて
きた武士に殺されます。
また、名古屋が放った刺客により、
宇右衛門の2人の弟も打ち取られ
ました。
その後、井戸兄弟の遺体は院庄
往還南側に、名古屋山三郎は北
側に葬られました。ともに墓上に
松が植えられます。
何代目かの「にらみ合いの松」です。
一方が盛んになると、他方が衰える
ことを繰り返したと言われます。
名古屋九右衛門の死後、子孫は森
家を去り前田家に仕え姓を「名古屋」
から「名越」としています。
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