津山城(日本100名城) 23 城東地区と箕作阮甫 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

加筆したので再UPしました。

昨日の続きです。

今回は城東地区の繁栄と

箕作阮甫(みつくりげんぽ)です。

 

宮川大橋を渡り城東地区に

入った所です。

右上に津山城跡が見えます。

 

宮川の東側が城東地区です。

出雲街道に沿って町人町(白色)

が形成されて、南側の吉井川の

水運も利用できることから繁栄し

て町は拡大していきました。

北側には武家地(黄緑色)があ

り、さらに北側には神社・仏閣

(橙色)がありました。北が高い

緩斜面です。森家初代の忠政

が築城時に計画したものです。

 

城東地区の解説板です。

 

津山観光センターのDVDビデオより

江戸時代の城東地区です。

 

 

津山観光センターのDVDビデオより

現在の城東地区です。

 

出雲街道東方向。

(グーグルストリートビューより)

 

 

 

城東地区の拡大図です。

 

上図①の所にあります。

 

上図②の所にあります。

作州城東屋敷はもともと出雲街道

に面した町家の跡地に建ち、明治

8年以降教育の場として長く親しま

れた地です。真横に復元されてい

る火の見櫓があります。

 

上図⑤の所にあります。

 

 

下図③にある箕作阮甫の家です。

箕作家は町医者でした。

 

 

 

箕作邸奥の間です。

 

箕作阮甫の写真です。

 

箕作阮甫は1799年に松平藩5代

康哉(やすちか)の時、西新町旧宅

で生まれ14歳まで過ごします。

箕作家の家業は町医者でした。

 

1810年(文化7)に12歳で兄豊順が

亡くなった為、家督を継ぎます。

 

1815(文化12)に藩儒永田桐陰に

漢学を学びます。

 

1816年(文化13)18歳で京都の

竹中文輔のもとで医学を修業。

 

1821年(文政4)21歳で津山藩

医の大村家のとゐと結婚します。

 

1823年(文政6)22歳で藩主の

松平斉孝(7代目)に従って江戸

へ出て、津山藩(江戸詰)の侍医

宇田川玄真の門に入って洋学を

学びます。

 

1839年(天保10)40歳で幕府

天文台に出仕し「蕃書和解御用」

に携わります。

 

1853(嘉永6)55歳でアメリカ

合衆国使節ペリーが浦賀に来

航します。外交文書の翻訳に

携わります。養子の箕作秋坪、

ジョン万次郎、村田歳六などと

共に翻訳で活躍します。

 

1856年(安政3)58歳で幕府

「蕃書調所」の教授となります。

蕃書調所は現在の東京大学の

前身です。

 

1858年(安政5)60歳で、

神田お玉が池に「種痘館」を

開設します。のち東京大学

医学部へと発展します。

現代の偏差値頂点に立つ

東大医学部を創設した人だ

ったのです。

 

1862年(文久2)64歳で、

洋学者として始めて幕臣に

列せられます。

 

1863年(文久3)65歳、明

治維新を見ることなく、湯島

天神中坂下で没します。

 

最後に5年前の梅の花と犬です。

 

今回はここまでで、明日が最終回です。

 

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