不況になると口紅が売れる -3ページ目

不況になると口紅が売れる

~遊びゴコロで、世界を救おう!~

 3月16日に青梅市の市民大学で、「マーケティング発想力」というテーマで一般向けに講演をすることになった。

 ビジネスマン向けは何度も経験しているが、地元の高齢者や主婦の方たちが対象なので、果たして自分の話なんかで大丈夫か?と、却って緊張した。

 しかし参加者の意欲が高く、こちらの意図を全て汲み取ってくれたようで成功裡に終わった。

 青梅市とはその後も何かと縁が深く、毎年のように森下九段や中川八段とともに御嶽神社に行ったり、温泉に入ったり、小澤酒造(澤乃井)でひたすら飲んだくれたりするイベントを繰り返すことになる。

 特に、河辺駅前にある港亭さんには毎度お邪魔させてもらっている。「日本で一番うまいカキフライ」(森下九段)の庶民的なお店だ。

 そして青梅市の、梅の里の早期復活を祈る。


 スマホの普及で、「スマホ詰パラ」と名称をあっさり変えた同サイトは、この年に作品数2000超えを果たし、そこそこ知名度も高まってくる。

 本誌で活躍されている著名作家も、遅ればせながら参戦してきた時期である。

 しかしユーザーが増えるとサーバーの負荷もかかるだろうし、何より投稿作の増加によるチェック作業の時間が膨大なものになる。

 昼間はエンジニアをやって、夜はスマパラ作業に邁進する(たぶん)管理人の健康が心配ではあった。

 かといって作業を手伝えるわけでもなければガールフレンドを紹介できるわけでもないので、ちょっとはリラックスしてという意味を込めて入浴剤をこっそり送ったのもこの頃だったかも知れない。


 9月に「山川悟の詰将棋②オール清涼詰」、11月には「山川悟の詰将棋③オール曲詰」をリリースする。

 清涼詰はまあ、逆算で創作するので狙ってなくともそうなるのだが、たぶん若い頃に岡田敏氏の作品をさんざん解いた影響もあるのだろう。

 岡田氏に「さわやかな詰将棋」という名の作品集があるが、そのタイトルを見た友人が、「詰将棋そのものがさわやかとは思えないのだが…(苦笑)」と見事なツッコミを入れてくれたこともあったっけ。

 確かにその通りだ。知らない人から見たら、これほど「さわやかさ」と対極に位置するものはない。


 のちのち知ったのだが、私が投稿を開始した頃にはちょうど中だるみが起き、作品の質は上がらないわユーザー数は伸びないわで、サイト閉鎖の危機にあったらしい。

 そこに「世阿弥さんが彗星の如く現れてくれた」(エモン氏談)ことがサイト活性化に繋がったという。お世辞でも嬉しい。

 また野々村さんも、スマホ詰パラにおける作品評価が変わったのは「世阿弥さん参戦が本質的な節目」と言ってくれていて、そういう意味では革新したのか、平和な世界を荒らしたのか?


 本業ではこの年に、アンソロジー『社会心理学における説得と交渉』という本を出した。

 

 


▲NO.1537「裏切り者の活躍」2012.4.9掲載

 

 北海道の北村憲一さんという人から突然手紙が来て、『四百人一局集 古今詰将棋作家名鑑』というアンソロジーを出すので、おまえも代表作を載せて原稿を書けという。

 むむむ…。

 正直、「詰将棋作家」を名乗るほどの実績もなく、宗看・看寿と並んで掲載されるなど400年早い。

 当初は断わるつもりだったが、では『五百人一局集』を出す頃にちゃんと活躍(生きている?)できている自信は全くないのて゛、お言葉に甘えて引き受けさせてもらうことに。

 同書は7月に刊行され、P403を自筆で汚すこととなった。お恥ずかしい限りである。

 しかしこの本を読んでひとつ感じたのは、詰将棋作家は皆「顔が面白い」である。

 あるいは個性的と言い換えてもいい。

 「他人と同じこと」で安心する大半の日本国民と異なり、「他人と違うこと」をよしとする変態集団?なのがよくわかった。


 携帯アプリ「山川悟の詰将棋」や、「コンテンツがブランドを創る」(同文館出版)の話も進んでいた。

 そんな矢先に大変な出来事が起きた。

 あの東日本大震災である。

 忘れもしない、うすら寒い3月11日、教授会のさなかに半端ない揺れを幾度か感じた。

 その日は結局帰宅できず、研究室で一夜を過ごした。

 

 そしてこのあと、東京電力という会社は、原発の必要性を思い知らせるだけのために、計画停電という天下の愚策を導入する。

 その際、首相の菅直人が住む武蔵野市は対象外とするなど、忖度だらけの施策であったのはご存知の通りである。

 その被害額たるや相当なものだと思うが、現在それについて指摘する人がほとんど見られないのはどうかと思う。


 だがこの数日間の暗闇のお蔭で、静かに考えるところもあった。

 詰将棋には何もできないのだろうか、ということだ。

 恐慌や戦争、震災など、社会が暗い雰囲気で落ち込んでいる時こそ、人々はエンタテインメントを求める。

 それは『不況になると口紅が売れる』で、自ら書いたことである。

 こうした中で一番楽しんでもらえる詰将棋とは…と思いを巡らせたときに浮んだのが「曲詰」であった。
 暗闇の中、脳内であぶり出し作をいくつか創作したのも良い思い出だ。

 この時作ったものをベースとして、のちにスマホアプリ「山川悟の詰将棋③オール曲詰」につながっていく。


 ただしスマホ詰パラへの掲載は、この年わずか4作であった。 

 


▲「山川悟の詰将棋」③より 詰め上り「K」
 

 『詰将棋ファン』創刊号にも書いたのだが、この当時の携帯電話ユーザーには、従量制で料金を払う人がかなりいたはずである。

 だから詰将棋サイトでつなぎっぱなしで長時間考えるというのはそれだけで多大な通信料金が発生してしまう。

 かつて NTT 系の広告会社にいたのでそういうことには必要以上にナーバスなのかもしれないが、それを考えると、あまり変化紛れの多い作品よりも、一直線で気持ちよく解ける作品の方がこのサイトには適しているはずと考えた。

 しかしこの勝手な意気込みがどうも作風に悪影響を与えているようで、いまだに「一直線」だの「一本道」だのとコメントされる。


 だからややこしい作品は、ちゃんと「詰パラ」本誌に投稿するのが筋ってもんだ。

 そこでようやくというか今さらというか、「詰将棋パラダイス」への投稿を開始し、2010年2月号の「新人コンクール」で初入選となる。

 たまたま、変化に偽作為を紛れ込ますことができて、「新人離れ」などとお褒めの言葉も頂いたが、恐らく前年の作品集の広告で知名度が生じていたためであろう。

 しかしながら、50歳で名人位に就いた米長先生の気概に見習って、詰将棋に励もうと考える新人のおっさんなのであった。


 怖いもの知らずで毎日パカパカと新作を作っていたので、この年にはストックは300くらいになっていたと思う。

 ただ、「500」もそうなのだが、デビュー作も変同作である。

 当時は勢いだけでつくっていたので、今なら絶対投稿しないが、こういう微妙な作図も多かった。

 そしてこうした原案を一度作成してしまい、しばらくしたらそれを引っ張り出してごちゃごちゃ改造するのが最高の楽しみであった。

 むろん夜半に、一杯飲みながらで、これを「月下酔考」(谷川作品集にちなんで)と勝手に名づけていた。
 

 この年、詰パラモバイルの方は何と、1000作掲載を迎えることになった。

 そこで記念曲詰(998)を送ったところ、図らずも、がもうの氏・RedFive氏との競作となった。

 特に募集しなくとも、こうした投稿が同時多発的に起きるところに、スマホ詰パラの面白さを感じた。

 ついでにだが、「ア」「ラ」「イ」のあぶりだしも掲載された。

 

▲NO.998「記念曲詰 千2」 2010.12.12掲載


 2010年は、本業の方で東京富士大学総合研究所の所長を任命されるとともに、慶應義塾大学での非常勤講師も引き受けるハメに。

 まあ、いずれも偉そうな肩書だが、実は単なる空席の穴埋め人事である。

 さらには毎日コミュニケーションズ(現マイナビ)から、新書の執筆依頼が来た。これも断れる立場ではない。薄い本ながら、秋に発刊となった。

 これが本ブログのタイトルにもなっている『不況になると口紅が売れる』である。


 

 スマホ詰パラと自分自身の10年を少し振り返ってみたい。

 

 学生時代には将棋部に所属し、見よう見まねで詰将棋創作も手がけたこともあったっけ。

 1982年以降何度か、『将棋ジャーナル』誌には入選している。

 多分デビューは、小泉潔さんあたりとほぼ同期であろう。

 もちろん詰パラの存在は知っていたが、あの独特の身内だけで通用するようなジャーゴンが苦手(「キルケバカ詰」って何よ?)で、定期購入したいとは思わなかった。その後、広告代理店に入ってからは詰将棋どころか駒に触る機会も薄れ、20年数年の歳月が流れていた。
 

 2008年12月にスマホ詰パラは誕生したが、この年は自分自身にとっても大きな転機であった。

 25年ほど続けてきたサラリーマン生活から大学教員という立場に移ったのである。

 大学教員は一見ヒマそうだが、実は初年度は講義資料を死ぬほど作成しなければならないため、えらく大変なのである。

 そんな中で出会ったのが「詰パラモバイル」(当時)であった。2009年の暑い夏の日だったと思う。

 

 最初は、あの「詰将棋パラダイス」がこのような軽薄なノリの携帯サイトを開設するわけがないのでメチャ胡散臭いと思ったのだが、試しに簡単な作品を投稿してみると、すぐに掲載され、解答者からのリアクションも心地よい。

 で、いつの間にやら、毎日この胡散臭いサイトにアクセスするのが楽しみになってきた。管理人も比較的私を持ち上げてくれて、500のキリ番にこの作品を選んでくれたりもした。
 

 

 ▲NO.500「得意技で決めろ」 2009.11.25

 

 

 そうこうするうちにわかったのだが、管理人のエモン(新井)氏は、なんと私の大学将棋部の後輩だった。

 なんだそれなら先輩の言うことをちょっと聞いてもらおうじゃないかということで、いきなり「作品集を出したいんだけど…」とお願いしたところ、快く引き受けてくれた。

 これは当時、詰パラモバイル普及のためのプロモーションツールとして活用される。

 しかも管理人は「詰パラ」にこの作品集の広告まで掲載してくれたものだから冷や汗ものだ。

 本誌に入選経験もない山川某の作品集が無用な物議(誰だこいつ?的な)を醸したかも知れない。

 ともあれサイトでのデビューが2009年7月(作品NO.272)で、作品集の発行が10月だから、この間の急展開は今考えても凄まじいものがある。
 

 なお2009年は、台湾と韓国で過去の著作が翻訳された年でもあった。

 改めてコンテンツホルダーであることの大切さを思い知る。
 

 12/7は「スマホ詰パラ」が開設されて10年という記念日でした。

 

 そこで12/15(土)13:30~16:30、高田馬場にて「世阿弥・ムネトキが振り返るスマホ詰パラの10年史」というさささやかなトークイベントを開催しました。

 

 参加者は、利波さん、松本さん、大西さん、野々村さん、高城さん、宗時さん、そして山川でした。

 

 なおこの日は、宗時さんの作品集がkindleでリリースされた記念日ともなりました。

 皆さま、こちらもぜひお買い求めください。 

 盤駒の美しい写真で問題を提示する、ムネトキさんならではの趣向も素敵ですよ。

 

 

 

 またツイッターにも書きましたが、利波さんがご編著「ヤング・デ・詰将棋」を持参してくれました。

 同コーナーを創設し、初心者や子供向けに詰将棋創作の楽しさを広めた田宮克哉氏の業績をまとめた貴重な資料です。

 そのお人柄の温かさと几帳面さとが滲み出る手書きの記録も素晴しい。

 こちらもたま研などで販売する予定とのことですので、ぜひ一家に一冊。

 お子様や初心者向けに詰将棋を教えたいと少しでもお考えの方には、ヒントが満載です。


 一応われわれ二人で自作を解説する資料を用意していたのですが、当然の紛れで話は勝手に盛り上がり、スマホ詰パラに限ることなく、詰将棋話が展開されました。

 

 

 

 途中、高城さんが新作を披露。中合が入る難解作です。本誌入選も近々だと思います。

 

 

 

 管理人のエモン氏は欠席でしたが、ひとつ提案をもらいました。

 「管理人の作業を一部体験するコーナー」です。
 ある1日にスマホ詰パラに投稿された111作を、「完全作か不完全か、フェス採用なのか通常採用なのか、通常ならLVがいくつなのかを割り振る作業をしてみてください」ということでした。

 それを7人で取り組みましたが、玉成混交で長手数あり、難解作あり、余詰あり…。

 あまり時間がなかったのですが、気分は全員、ほぼギブアップでした。

 これを毎日やってる管理人さんに頭が下がる思いです。

 サイトの継続を考えると、こういう部分を誰か数人で手分けして作業するような形になっていかないといけないのかも知れませんね。

 

 詰将棋の技術的な話はほぼなかったのですが、こんなテーマが次々と語られていきました。

  • フェステボに命を懸ける人は意外と多い
  • 「削除作品特集」をやってほしい
  • 詰コインの流通、ビットコイン化
  • 詰ドルを誕生させよう
  • 「詰スポーツ」イベント
  • 簡素図式の定義とは
  • 旧パラは書店売りで15,000部販売されていた
  • 「詰む将棋パラダイス」
  • 田宮克哉さんの指導で誕生した詰将棋作家(女性もいた)
  • 「トライアルモード100問に挑戦」とか
  • 「創作を始めたきっかけ」エッセイ
  • スマホ詰パラ珍作選
  • 詰将棋本DTP職人が欲しい
  • 「詰将棋沼」
  • 理科系だけではない詰将棋脳
  • 詰将棋作家に電機系が多いのはパズル好きだから
  • Kindleもいいけど、やっぱり書籍はいいな
  • 山川さんだったら管理人に依頼できるのか
  • 加藤徹さんの仕事を引き継げる人はいるのか
  • 定義のないことをツイッターで議論すべきじゃない
  • プロ棋士が詰将棋ファンを減らすようなことをしちゃいかん
  • 管理人の仕事はやっぱり大変だ

…まあ、なんだかわからないでしょうけど(笑)。

 

 二次会は藤井さんにあやかって名古屋飯、更に三次会まで進み、話は尽きることなくという感じでした。

 また何か、いいがかりをつけて(?)集まりましょう。

 

 なお個人的な「10年史」は、これからブログでぼちぼちと振り返っていきたいと思います。