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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

占いですから、外れるときもあれば、
当たるときもあります。
とはいえ、
慣れてくるとだんだん当たるようになってきます。
びっくりするぐらい当たることも時にはあります。

なんで当たるんでしょう。

「そのときの問いに対応した
卦のかたちやイミが、
得卦に現れるからでえす!」

じゃ、なんで、
問いに対応した卦がでるんでしょうか。

「う~ん、わかんない」

それは……
意味づけを「あなたが」しているからです。
(なんだよ、この小芝居は。)

卦のカタチや、意味リストにある語句は、
実は、あなたが自分で、自分の忘れた感覚を
ひきだすきっかけなのです。
ここがいわゆる「オミクジ」との大きな違いです。

昔、易システムに接し始めたころは、

「これ、おみくじとどう違うのぉのぉのぉ」

と、ずいぶん悩みました。
やがてその言葉は、

「これ、おみくじと一緒やんけやんけやんけ」

となり、
しばらくシステムから遠ざかっていたこともありました。
(なんだよ、このエコーは。)

オミクジには、
いい・悪いは、紙に書いてあります。
ハッキリと。
易システム~易経にも、実は、
吉だの凶だの咎なしだのと書いてはあるんですが、
そもそも、いい・わるいは表裏一体です。
そしてそもそも、なにがよくてなにがわるいのかは、
本人が決めることです。
というわけで、このブログでの64卦の説明では、
「吉、凶、悔、吝」というコトバは慎重に外してあるわけです。

つまり、答えは、
意識している・していないにかかわらず、
はなから問いを出した人の内にあり、
販売機から出てきた紙の上にあるのではなく、
ましてや、誰か他の人の口からでてくるはずもなく
(ヒントが出てくる場合はあります)、
自分自身の内を読む作業が必要で、
易システムの場合は、それが、
得た卦のカタチと意味による判断、
ということになるわけです。

そう、

卦のカタチと、
このブログでの説明を含む一般的な解釈は
自分の内なる声を聞くきっかけです。
そして、ぼくが占い師なのではなく、
あなたがあなた自身の占い師、
ということになるわけです。


むぼう

コスモスの法則を理解した上で、自然体でいることにしましょう。
つまり、できることはやって、それ以上そのことにとらわれないことです。
「自然体でいる」とは手を抜いたり、怠惰に流れることではありません。
自分でできることはせいいっぱいやっておくことが必要です。
ここで手を抜くと思わぬ災害や事故にみまわれるかもしれません。
せいいっぱいやった上で手放すということです。

さて、適当なお話をはさみながら、
各六四卦について
その全体の意味をご紹介しております。
 
この内容は、
ぼくが自分の(乏しい!)
経験と知識から独自に解釈した内容で、
どちらかといえば
ニューエイジ的な解釈になっています。
 
従来のシステムそのものは融通無碍であり、
いかようにも解釈できますので、
当然、他の解釈もありえます。
 
「誕生日事典 
ゲイリー ゴールドシュナイダー (著),
ユースト エルファーズ (著),
牧人舎 (翻訳) 角川書店」
 
という本がありますが、本屋で立ち読みして、
 
『ほー、なかなか当たってるな(参考になるな)~』
 
と思ったことがあります。
 
これの易システム版ともいえる本があります。
97年の本なので今は絶版かもしれませんが、
王永平という人が書いた、
「奇跡の八卦(テラ・コーポーレーション)」
という本です。
 
旧暦と十二支にもとづき、
生年月日から上卦を出し、
生まれた時間の十二支から下卦を出して、
できあがった大成卦が、その人の性格や、
基本的な運命などを示す、とするものです。
 
これなどは易システムの誕生日占いへの応用であり、
各六四卦の解説はそのまま、
各大成卦の新しい解釈といえるでしょう。
 
まあ、軽くためしてみる分には
おもしろいかと思います。
 
ちなみにぼくの卦は
コード番号14:无妄(むぼう)で……
あ、これは次回紹介予定になっている
大成卦です!
 
お楽しみに!
(誰も待ってねえってばよ)

街中の本屋なんて、
どこへいってもオンナジ・オンナジの
キンキン金太郎飴だと思っていたら、
いつも学校帰りによる本屋は、
ちょびっとそうでないところもあって、
おもしろそうな本が、ふいに目に飛び込んでくることがある。
やっぱりなんだか相性というか、
タイミングみたいなもんがあるんだろうか。
 
「まわりにいっぱい奇跡が起こる本」
デイビッド・シュパングラー著
高橋裕子訳
日本教文社
1429円税抜き
 
なんてちゃらけたタイトルだ、
まあ、よくある願望実現本だろう……ケッ。
と思いつつ、手に取ったのだが
(それでもいちおー手に取るのだ)、
チラチラ見てみると、どうもちがう。
買って読んでみたが、
ナカナカにおもしろかった。
 
願望実現というとお決まりのように出てくるのは、
祈りを含むアファメーション、
ビジュアライゼーション、
そして、
 
「この宇宙のリソースは無限さ、
マジに願えば、なんでも思いのままだよ~ん!」
 
といったノーテンキなコンセプト
(またはそのバリエーション)だが、
この本に書いてあることは、
まあ、たしかにそんな側面も含んでいるが、
もっと現実的である。
 
「なんでも思いのまま」は少し違ううんじゃないか。
ネガティブはいけない、なんでもかんでも、
とにかくポジティブにっていうのも、少し違うんじゃないか。
努力しなくて(何もしなくて)いいってのはゼンゼンちがう。
アファメーション、ビジュアライゼーションの手法も、
限定された条件では有効だが、
そもそも、願望がどう実現されるかは予測できないので、
ある願望に対して宇宙が与えてくれる可能性(コタエ)を、
かえって、限定することになりはしないか。
 
……というところから始まっている。
 
願望が最終的に結実するフィールドはこの物質世界であり、
その意味では、境界も制限も歴然とある。
また同時に、私たちは全体であり個人であり、
あらゆるものは、想像をはるかに超えた
相互依存によって成り立っている。
これらすべての条件下で願望は実現される……
他の願望実現本に比べて、スピリチュアルな考察が深いのである。
 
それを踏まえたうえで組み立てられているメソッドは、
従来の願望実現プログラムとはずいぶん様相が違う。
なんとなくうまくいきそうな感じではある。
ぼくはまだ試していないが、
ひょっとしたら、こういうやり方なら、
自分がいつもやってることに似ているな~、
と思う方もいるかもしれない。
あるいは、
過去、うまくいった場合には似たようなプロセスを
踏んでいたことを思い出すかも。
具体的なステップは本を参照してもらうとして、
惜しむらくはそのステップが、
ちょいと煩雑過ぎることだ(少なくともぼくにとっては)。
 
とはいえ、原理さえしっかり理解すれば、
自分なりにアレンジしてもかまわないということなので、
もっとシンプルにできるし、
是非そうして欲しい、と著者は言う。
最終的には、ことさら、
 
「ようし!『願望実現プロジェクト』を、
立ち上げるそぉぉっ!」
 
などと、アツクルシイことをしなくても、
軽やかに生きてゆけるようになること、
これが究極的な目標であることが示される。
 
思えば、ぼくが易システムに興味を持ったのも、
その目標に辿り着かんがためだったような……
上述の状態になって、自然体で生きることを、
ぼくは勝手に、HPの中 などで、
「フローに乗る」
といっているが……
いっているだけじゃダメなんである。
 
フローに乗れれば、
その段階でツール(システム)は、手放される。
子供のころにはいていたパンツは、
大人になってからははけないのと同じことだ。
 
上の本は、
願望実現(本の中では「実現化」といわれている)
の本ではあるが、
実際は、
そのテーマとするところは、
内的にも外的にも理想的な生き方の、
それとない指南であるような気がする。

 
 場所はある種
 力をもっていて
 身体と呼応する。
 
 どこにでもある
 限りのない場所。
 
holga06
Harinezumi-Camera 晴/屋外
 
 この世を去ることは
 こみあってきた
 コーヒーショップで
 席を空けるようなことで
 席はスペースであり場所で
 みんなは
 コーヒーショップという
 フィールドを楽しみ
 楽しむという経験を
 DBに1レコード追加して
 再び帰っていく。
 
 排ガスと曇り空の表通りに。

holga05
Harinezumi-Camera 晴/屋外
 
 レコードは消えない。
 
 消えたように見えても、
 アタマに削除フラグが立つだけ。
 
 そうしたレコードの集積は
 単に「セントラル」と呼ばれ
 「セントラル」は他のどこよりも
 大きくも小さくもない場所で。
 
 それはどこにでもある
 限りのない場所。
 


めいい

明かなもの、明晰な智慧などが、
いまは地中深く埋もれている様な状況です。
あるいはまた、太陽が昇ってくる夜明け前、
とみることもできます。
ものごとが明らかになったり、
埋もれていた才能があらわれてくるには、
いまはまだ、早すぎます。
一見したところ、
表面的には悪いことばかりおこっているように思えるかもしれませんが、
それらはすべて必要だから起こっているのです。
いずれそのプロセスが過ぎ去ってゆけば、ふたたび大地は明るく照らされるでしょう。
才能も智慧も、そのときまで、ゆっくりみがいておくとよいでしょう。

易システムがもつ、64のパターン。
各パターンは様々なプロセスを経て、
他のすべてのパターンに変化する可能性を
常にはらんでいます。
 
各卦(パターン)には、いろいろな意味があります。
いいかえるとそれぞれのパターンは
玉虫色をしているということです。
 
「どうとでもとれる」側面が、
おおいにあるということ。
にもかかわらず、
正しい答えをつかんだときは、
 
『これだ。』
 
という感覚があるものなのです。
 
「これだ」感覚は、
「電話が鳴ったときに誰からか判る」感覚に似ています。
だれだれチャンのことを考えていたら本人から電話がかかってきた……
というケースではなくて、
電話がなった瞬間に、かかってきた電話の向こうに誰がいるか判り、
それが当たってもあまり不思議に思わない。
 
やっぱりね。
 
という感じ。
 
こういうのを「腑に落ちる」といいます。
なんかこう、下腹部のあたりの空洞に、
 
ぽとん。
 
と、なにかが落ちる。
それも落ちるだけではなくて、
落ちた瞬間にそこにしっくりとハマる。
 
まあでも、ケータイはもちろん、
固定電話も発信者番号通知が当たり前になりつつありますので、
このたとえも、あまり適切でなくなりつつあるのかもしれません。
うちの電話なんかも、鳴ると同時に
「○○さんからお電話です」と、わめいております。
 
かくて人は、ヤセーのカンを失ってゆくのでありました。
 
クルマ降り、
タマには徒歩にてまいろうぞ。
 
やせ細ったヤセーのカンは、
易システムを利用して再トレーニングしましょう。

決して余裕があるわけではないが、 
ぼくの家には、
洋服が一着も入っていない
クローゼットがある。
代わりに上から下まで、
ビッシリとプラモが詰っている。
 
いや、詰っていた。
 
ヒコーキ?クルマ?
戦車?
それらも多少はあったが、
ほとんどが映画やアニメや小説に登場するメカである。
それも全部SFがらみ。
無論、つくろうと思って買ったのである。
決して集めようとしていたわけではない。
結果として集まってしまっただけで。
 
思えば10代のころからプラモ作りを始めて、
20で会社に入るとともにプラモ作りの熱はピークを迎え、
自分でゼロから造る(いわゆるスクラッチ)ことも始め、
雑誌に載ったりなんかして(いわゆるMG、1985 vol6)、
オリジナルキット(いわゆるガレージキット)を造って
イベント(いわゆるワンダーフェスティバル)で、
売ったりもしたんだが、
9、10年ほど前に、
出たばっかりのハイグレードのザク
(いわゆるガンプラ…ってシツコイか)を、
ポツンと造ったきり、やめてしまった。
 
ぱったり。
 
自分でもよくわからないが、
やめてしまったのである。
20で就職してから、
神奈川、大阪、また神奈川、千葉、と、
あっちこっちに壁一面のプラモを
ひきつれて引っ越した。
だけど、
もう処分しようと思った。

「あれなんとかしないと、
おこづかいあげないわよ」

とかなんとか、
かみさんに脅されたからではない。
なんだかこのままでは
前へ進まないような気がしたからだ。
 
で、処分を始めた。
 
まだ終わっていないが、近々終わる。
 
易システムの基本原則にもあるが、
「変化する」ことは自然の法則である。
人間の身体も、
とどこおりなく気血水が流れることで
陰陽のバランスが取れる。
心も。心身をとりまく環境も。
マクロからミクロ、
目に見えるものから見えないものに至るまで
凡そすべてが、流れ、変化し、循環し続ける。
新しいものを迎え入れるには、
スペースが必要、ということらしい。
 
もし、友人のうちにい行って、
悩み事の相談を受けるようなことがあったら、
あたりを見回してみるといい。
そこには問題の答えが……
いや、近すぎて、
はっきりし過ぎていて、
目の前にありすぎて、
あたりまえすぎて、
本人が気付いていない問題そのものが、
山積みになっているかもしれない。

どっさりと。



ひ

ふだんは地味に見える山でも、紅葉の季節にはあざやかに色づきます。
適度なデコレーションは、見る者を楽しませ、コミュニケーションをスムースにします。
ただそれは、あくまでも、「適度な」範囲において、です。
あまり飾り気がないのもさびしいものですが、
過度な飾りは、「装飾」をとおりこして「見せかけ」や、「いつわり」になってしまいます。
それでは、本来の「かざり」の意味がなくなってしまい、
自分にも他の人にもかえって害になってしまいかねません。
いずれにしても、極端におちいることなく、
積極的にバランスをとるように心がけてください。

精神世界関連の本などを読むと、
「戦士」というコトバを目にすることがあります。
広辞苑をひくと、
「戦場でたたかう兵士。比喩的にも使う」
とあります。
 
私たちの普段の生活では、
「戦場で戦う」ことは、あまりありませんから、
本でみた戦士というコトバは、比喩的な意味での戦士ということになるでしょう。
戦場で戦う戦士と区別するために、「魂の戦士」など言ったりもします。
そうそう「企業戦士」なんていう言葉もありました。
 
いろいろな解釈があると思いますが、
ぼくが一番気に入っている解釈は、
 
「戦士=意志を持って選択する者」
 
という解釈です。
 
朝、なぜ決まった時間に起きるのでしょうか。
決まった時間に会社に出るためです。
出社時間はあなたが決めたものでしょうか。
たいていはそうじゃないと思います。
会社で決められた時間なわけです。
つまりあなたの意志でなく、
外的な要因で決められているわけです。
 
これは、これだけでは問題になることはないささいな例ですが、
こういった「こうせねばならない」ことで、
時間が埋め尽くされてくると、
そのうち「自分の意志」というものでさえ、
本当にあるのかどうなのか、疑わしくなってきます。
 
ピンボールかビリヤードの玉のように、
あっちから突かれたらこっちへ転がり、
こっちから突かれたらあっちへ転がり、
ただそれを繰りかえしているだけ、のような。
 
最後はゴトンという音とともに、深いポケットに入り、
テーブルという舞台から、見えなくなってしまいます。
 
この悲しいイメージが、
自ら道を切り開いていく「戦士」とは、
対極のプロセスであることは明らかですが、
こういうプロセスには、易システムは必要ありません。
 
易システムは選択を支援する道具だからです。
 
「戦士」の武器、なわけです。