玄々斎の棚
また小棚の無駄話ですが、前にも書いたように、小棚の種類が急に増えるのは、近代以降の現象です。 裏千家で言えば、その先鞭をつけたのは、十一代玄々斎でしょう。それまでの裏千家の家元では、四代と八代が一種づつ小棚を好んだだけで、他は再好みさえなかったようです。玄々斎は、大棚を二つ、小棚を四つ好んでいますから、それまでの家元に比べれば、ぐっと多い。玄々斎は茶箱の点前だの、大炉だの、和巾点だの、点前にいろいろ新基軸を出し、他流にないやり方を案出し、裏千家の独自性を高めた人ですが、その好んだだ棚も、紹鷗、利休から仙叟までの先人が作った基本形以外の棚の形を、初めて作ったと言っていいよいのではないでしょうか。 まず、五行棚は、風炉釜だけを載せる棚として、恐らく唯一の棚でしょう。水指と風炉釜両方を載せる棚は、他の流儀にもありますが、この形式は他にはない筈です。 裏千家の人には、10月頃の名残の時期に、中置点前で使われる見慣れた光景となっていますが、他流の人から見たら「何、あの変な棚?」となるのだろうと思います。五行という名前のいわれは、五行すなわち木火土金水を、一つの棚で表しているということで、棚の素材が木、釜の資材が金属、釜の中に水が入り、風炉の素材が土風炉なので土、そして炭の火が加わって五行完成のわけです。ですから風炉は、土風炉でなければいけないわけで、小ぶりのものが必要なのですが、丁度よい小ぶりの土風炉がないからと、唐銅切り合わせの風炉釜が大きさがぴったりなので、それで済ませてしまうという稽古場もあるようですが、これは本当は駄目なわけです。 更好棚は、利休の三重棚の上の段を切り取って二重にした形です。三重棚は人気があって元は桐木地なのを、一閑張り、桑、真塗り、爪紅など、江戸時代には幾つかの再好みもありますが、高さが68センチくらいですけれど、更好棚は、それより17センチほど低く、あまり威圧感のない丁度よい高さです。 名前は、この棚を玄々斎が最初に好んだ時は木地だったのを、後にこれを宮中に献上した折、今のかき合わせ爪紅の形に好み直したので、更に好んだという意味で付けられたと言います。単純に、三重棚を更に改めたという意味だという説もあるようです。二重棚の初めは紹鷗棚ですが、側面が透かしで完全には抜けていないのに、これは、四方が開放された最初の二重棚です。単純な造形が、どんな水指とも似合いやすく、使いよい棚として、裏千家のでは、よく使われる棚の一つです。 杉棚は、地板から天板までの側面の大半を脚代わりの板で塞ぎ、中板から上にだけ香狭間透かしを入れた、閉鎖的な二重棚で、これも千家流には、それまでにない形です。名前の由来は、家具用の薩摩杉を素材としたかららしい。 円融卓は、裏千家では最初の運び棚です。玄々斎自身が好んだ大棚の円融棚を縮めたもので、天板のみで、側面を藤の木賊張りにし、円相が開けてある棚だとされます。ただ、この棚は、私は見かけたことがなく、あまり使われている様子がないように思えます。素材の問題で写しが作りにくいのか、後に好まれた寒雲卓などの方が使いいいのか、理由は分かりません。 ともあれ、玄々斎の好んだ棚は、いずれも一つの祖型として、後々の棚の好みに影響を与えたのは確かだろうと思います。 萍亭主