棚物の話の続きですが、前に書いたように、流儀独自の棚で、独自性をアピール(?)する棚が多い中で、どの流儀でも皆、使う棚も、そう数多くはありませんが存在します。

 台子系は、勿論、各流儀使いますが、その流儀の家元が多少変化を付けたバージョンは、やはりその流儀だけしか使用されません。台子以外の棚で各流儀共通使用のものは、利休と、武野紹鴎の好んだものと言っていいでしょう。現在ある茶の湯の流派は、源流を辿ると、99%利休になります。どんな流祖も、その先生から先生と辿れば、利休に行き着きます。つまり、利休の好みなら、その流儀の好みと認め得るのでしょう。武野紹鴎は、利休の先生ですから、これも文句の出ないところのわけです。利休の好みの棚として、現在伝えられているものは、志野棚(利休袋棚とも言います)、山里棚、三重棚、丸卓、角棚、四方棚、葭棚、旅箪笥、冠台、烏帽子棚の十種です。これは今でも作り続けられていて、茶道具屋に行けば、この型のものが売られているわけです。ただし、三重棚、角棚、冠台、烏帽子棚の四つは、殆ど見かけたことがありません。つまり、現在は、あんまり需要も人気もないのでしょう。武野紹鴎の好んだ棚では、紹鷗棚と紹鷗水指棚の二つが伝えられています。三千家及び千家系統の流派で共通に使われるものは、宗旦好みのものです。宗旦は三千家の父ですから、大切にされるわけです。代表的な棚に「高麗卓」があります。

 近代のものですが、三千家で共通して使う棚に「三友棚」があります。明治初期に、当時の大徳寺管長牧宗宗寿が、三千家の家元に声をかけ、共同で好ませた棚です。円形の天板と方形の地板は松の摺り漆で、表千家碌々斎好み、一部に小枝を生かした竹の二本柱は、裏千家の又玅斎好み、天板の縁に施されたこぼれ梅の蒔絵は武者小路千家一指斎の好みで、本歌は四つ作られて大徳寺と三千家にあるそうですが、写しは今もよく作られて見かけます。ついでですが、表千家の江岑好み「江岑棚(三木町棚)」と、裏千家仙叟好み「桑小卓」は、相互乗り入れで、表裏、両方の千家で使われます。

 ところで、伝承によると、「昔は四畳半で、畳に道具を置くということはなかった(つまり棚に置いた)、畳の上に道具を直に置くということ(今で言う運び点前)は、利休が紹鴎を招いた茶事で行ったのが最初だ」という話があります。台子以外に、いろいろな棚があったのでしょう。南方録に「袋棚は、紹鴎が初めて作った、その後、置棚は沢山出来たけれど『袋棚に過ぎたる棚なし』、袋棚にまさる棚はなかった」と書かれていて、おそらく当時の茶人が好んだ棚はもっとあったのでしょうが、流行せず、淘汰されて、紹鴎と利休の好んだ棚だけが伝わったのでしょう。なお、南方録に書かれていることでは、利休の兄弟弟子である津田宗及が好んだ城楼棚(せいろうたな)という、袋棚を半分の大きさにしたので半切棚とも、宗及棚とも呼ばれた棚があったと書かれています。これは、現在千家では使われないようですが、武家流派には残っているようです。また、同じく利休の先輩の今井宗久が好んだ洞棚(ほらたな)というものもあったと書かれています。これはどうも、現在伝わらないのか、辞書や解説書にも記載がありません。南方録には更に、銭屋宗納という茶人が、唐物の組み物の箪笥を持っていて、これを炉の茶の湯に使って名物だった、後に宗久や宗及も、唐物の塗りの箪笥を同じように使った、利休の旅箪笥もこれからヒントを得たと暗示しています。これも棚のルーツの一つと言えるのかも知れません。

 さて、珠光以降、紹鴎以前に、台子系以外の棚があったのか、どうも、他に記録もないので、紹鴎がいわゆる棚物の創始者としていいのかも知れません。

      話がごちゃごちゃと退屈になってすみません。今回はこの辺で。

  萍亭主