歳暮の茶博士
歳暮に行う茶会は、やはり一種独特な雰囲気をもたらすものかも知れません。 大正昭和の数奇者の茶道界で、歳暮の茶事を行うことで知られた茶人がいました。根津美術館の創始者である根津青山(初代根津嘉一郎)です。毎年、青山の自邸の茶室で歳暮の茶事を催し、一種の定例名物行事になっていて、歳暮茶会といえば根津が連想されるほど、歳暮茶の博士とされました。その様子は、高橋箒庵の「大正茶道記」「昭和茶道記」に記されています。根津青山が歳暮の茶事を始めたのは、大正8年のようです。高橋箒庵の記述も少し曖昧なところがあって、混乱するのですが、どうも、これが正しいようです。箒庵が記録として最初に書いたのは、大正10年の歳暮茶会からで、この記事の中に「根津青山君は大正9年の歳暮に赤坂青山の自邸茶室で夜会を開かれたが、大正10年も12月26日より同様の催しがあって」とあります。更に「庵室は昨年同様、原叟好み三畳半太柱席で」とあります。これを見ると、箒庵は大正9年の茶会にも出席したように見えますが、「大正茶道記」には9年の茶会の記述はなく、しかも箒庵の日記「萬象録」の同年の記録にも、青山の茶会に行ったという記述が見えないので、これはどうもおかしく思え、実際は行かずに伝聞だったかとも思えますが。。ともあれ、それ以降、箒庵は、毎年の歳暮茶会に参加して、茶道記に記事を掲載します。大正15年(昭和元年)暮には、大正天皇の崩御の為、休会となりましたが、翌昭和2年には再開し、昭和6年には第12回を迎え、箒庵は「十二支一回りして、西洋式に言えば1ダース開いたのだから、この辺でやめたら」と進言したそうですが、青山はその後も催しをやめませんでした。箒庵も出席し続け、昭和7から9年は記事に残してはいないものの、昭和10年の会を記録しています。ちなみに、会は数日間連続して開かれるのですが、箒庵は毎年初日に招かれるのが通例で、この歳暮茶事に連続皆勤だったのは、箒庵と山澄宗澄の二人だけだったと回想しています。その後、高橋箒庵は昭和12年に死去し、根津青山も昭和15年に殁します。昭和11年から14年まで歳暮茶会が行われたのかどうかは、今の私にはわかりません。根津美術館の学芸課にでも問い合わせればすぐわかるんでしょうが。 さて、根津の歳暮茶会は、常に夜会。亭主の青山は、多忙を極める生活の中、仕事帰りのビジネスコートを十徳に着替えて、慌ただしく水屋に入るという状態。年末まで経営に追われる身ですから、夜会が都合が良かったのでしょう。勿論、準備万端は、お出入りの道具商や大勢の使用人がそつなく行ってはいるわけですが、気持ち的には気忙しくない筈はなかろうと、私などは思うのですが、そうでもなかったらしい。「百忙中、一閑を偸んで、胸中余裕綽々これを楽しむ態度に感服」と称賛されています。思うに、青山が歳暮の茶会に拘ったのは、忙しい日常のうちでも、特に世間全体が気忙しくなる歳暮に、茶会という非日常的な催しをすることが、己に真の閑を与え、そ境地を楽しむことが出来やすかったからではないでしょうか。青山の凄いところは、毎年の茶会の趣向が、我が家のように決まりきった定番の趣向ではなく、毎回が違う器物で、歳暮という同じ主題を描いて見せたところでしょう。同じ物で「ああ、今年もこの季節が来た」と思わせるのではなく、今年は何が出るのかという期待を抱かせるという方向でやり遂げたわけです。そこが侘び茶人と数奇者の違いかもわかりません。青山の道具組の実際については次回に。 萍亭主