前回の続きですが、真珠庵を出て、雨の中を玉林院に向かいました。

 ここも以前、冬の旅で特別公開された折、私も見ているのですが、その時は特別な案内人がいるわけでもなく、勝手に順に見ていってくださいという感じでしたが、今回は副住職が懇切丁寧に説明されたので、随分新知識を得られました。

 まずは重要文化財の本堂に入り、お参り。ここの庭は撮影OKなので以下がその写真。

 本堂横には、戦争中の昭和19年に建てられた洞雲庵という茶室があり、現在は月釜が行われるそうです。かってこの寺の前の敷地にあった隠居坊にあったものを、古図面に基づき、表千家即中斎が再好みしたそうで、広間と小間があり、写真はその外形です。

本堂裏には南明庵という建物があります。大阪の豪商鴻池家四代了瑛が建てたもので、中央には六畳仏壇付きの位牌堂、向かって右に四畳半の霞床席、向かって左に三畳中板上げ台目切、下座床の蓑庵が連なっています。位牌堂には鴻池の先祖山中鹿之介(この人は尼子十勇士筆頭で、私の世代は講談などで有名でしたが、今は知る人ぞ知るのようです)を祀るので、よくここが鴻池の菩提寺と勘違いされるが、菩提寺は大阪に浄土宗の寺があるそうです。ちなみに玉林院は戦国時代の医者、曲直瀬家の菩提寺です。鴻池は位牌堂の名目で当局の建築許可を取ったのではないか。当時の住職大龍和尚は表千家如心斎の参禅の師であり、鴻池了瑛は如心斎の弟子で、三人相談の上、実行したものだろう、きっかけは、その頃、聚光院に如心斎が茶室を作ったのを了瑛が見て、自分も茶室を作りたいと発願したのでは、というご説明でした。建物は位牌堂は宮大工林久右衛門、茶室は数奇屋大工遠藤庄右衛門が手掛けたことが棟札から判明したそうで、二人で作りながら、その調和の見事さもさることながら、当時こんなことは、プライドの高い棟梁は嫌がったのを、やらせたという鴻池の権威、また位牌堂仏壇の輸入物らしい大きな螺鈿入り腰板や、部屋と接続する二畳分の板の間のあいだの鴨居代わりの長い赤松丸太(太さが一定で、現在どこにもない丸太だろうという)は鴻池の財力が示されているといいます。なお、赤松丸太の下に襖や障子はなく、法要の際など、番頭たちが板の間に並べるよう工夫されています。位牌堂から茶室への軒下には、有名な赤楽の瓦が敷き詰められ、最初は楽家の長入が作り、その後、旦入、弘入などが補修し、去年は直入が補修して、さまざまな色合いが並んでいます。

 さて茶室蓑庵は、灰黒色の土に長いスサを塗り込めた壁が蓑のように見えるところからの命名で、この壁は再現不可能だそうで、管理も厳重、中には入れません。点前口と、90度反対に設けられた給仕口から、交代で覗き込むだけ。点前座反対側に一間幅の窓、躙口の上にも窓があり、突き上げ窓(天窓)からの光で、かなり明るく感じます。また、点前口突き当たりで庭に面している水屋は、非常に古い様式だそうです。水屋の天板は、普通、水屋の幅一杯に造られますが、ここのは向かって右を切り落としています。これは、その下に水屋甕を置き、庭の井戸から汲んだ水を、水屋正面の窓から甕に落とし入れるための工夫だそうです。広間に当たる霞床席は、一間床に違い棚を設け、その向こうに軸を掛ける、席名にもなった有名な霞床があります。なんでこんな奇抜なことを考えたか不明です。今は、富士の絵の大横物が掛かり、富士に霞の風情ですが、昔はこんな大きな紙は作られなかったから三幅対でもかけたろうと副住職のお話。一体、何を掛けたんだろう?この部屋は、貴人口しかなく、天井を格天井にするとか、壁は土壁ではなく紙の張付け壁とか、真の格式を備えていますが、床の框は竹の蹴込にし、長押ではなく竹の棒を鴨居代わりに壁に付けるなど茶室らしい工夫も凝らされています。現在常什の富士の軸は、即中斎が描いた物で、実は失敗作とのこと、富士の裾に筆から零れた墨の丸い痕があるのです。描き直した正式の軸もあるそうですが、こちらの方が筆の勢いがあると表具屋に勧められて、こちらも表装し常什にしていると。当代家元が、これを見て、あの墨痕は「落石と思えばいい」と言われたとか。霞床席の裏の廊下の、位牌堂と茶室の接合部分の柱は、宮大工の造った柱と数奇屋大工の造った柱を半分づつ繋ぎ合わせ一本にして縄張りを守っているのも珍しい。見どころいっぱいの玉林院でした。

  萍亭主