混在している私の3日間、今日・過去・未来。

 

今日は、7月18日。過去は、昨日。未来は、明日。

 

【17日(土)】

 

シマさんは、シマ唄に譜面がないので、このまま年が過ぎると口伝のような貴重な郷土の大きな文化の1つであるシマ唄が廃れるのではないだろうかと、危惧する。

 

そこで彼が乗り出したのが、奄美大島群島のシマ唄の譜面作りだった。三線と唄が微妙に重なり合い流れる。西洋音階のように、決められた形式の中で表す事が出来ない。少しでも、独特なシマ唄を表すのには独特な表記法を考え出さなければならない。彼の頭の中には、苦悶に満ちた方法が自分に課した責任感と共に渦巻いていた。

 

シマ唄は殆どが彼の言葉をして言わしむれば、起・承・転・結のようなものだと言う。そんな唄が沢山ある。それを演奏出来るように、工工四の基本的表記をベースにするにしても、彼が考えた表記法が取り敢えず完成した。その為に200頁にもなんなんとする本を書き終えた。提案のようなものだとも言った。それにしても、島の文化を残そうとした大いなる快挙である。  

 

長くなったが、その校正をしてくれないかとの申し出があった。このような明瞭な文章で書かれていて難しい内容のものは、私の及ぶところではない。だが、誤字脱字がどうだとか、句読点がどうだとか、その位のものだったら私でも出来そうである。その程度ならと、快諾した。早速送って来て、この日までに数日、目を皿のようにしてゆっくり読んでは気になった所にチェックを入れた。

 

校正と簡単に呼ぶが、これは大変な作業なのだ。鉛筆と赤ペンの2本立てで既に直してあったから、2人の目があったのか彼1人なのかは分からないが、私は更にその上に目を通すのだから、神経は使った。だが、200頁以上に目を通すのは難しかった。一生懸命に読みはしたが、何日かかけてたったの35頁位しか目を通せなかった。彼は凄い事をしたが、三線や唄は半世紀も続けたプロ級の腕と喉をしている。プロと言わないのは、彼がプロの仕事(それで生計を立てている)をしていないのと、師匠や会長として君臨しているのにも拘らずボランティアで指導しているからである。生計は関係ないとするなら、彼がプロである事は、多くの人が認めている事ではある。

 

夕方、メダカの水槽が寂しいので、カインズホームへメダカを3匹位買う為に出掛けた。今いるメダカ3匹は元気がいいが、昔田んぼ等にいた黒目高ではなくても地味なメダカだ。せめてヒメダカとかミユキとかオロチのような色目で惹き付ける様なメダカがいい。

 

大きなガラスのドアを開けると、先ず目を惹き付けたのが木くずの入った袋だった。カブトムシ用のもの、クワガタムシ用のものだ。壁の所に並べられている丸い小さなケースに入れられたカブトムシのつがいが目に入った。1人前のラーメンが売られている位のケースで小さかったが、10ケース位はあったと思う。

 

それよりも大きなケースに入ったものは、3,500円位の値段が付いていた。もうすぐ夏休みになるだろう小学生が、母親と一緒にそのケースのものを手にしていた。それを買う積もりだろう。私には、それは勿体なかった。しかし、小さな方は何と600円位だった。子供の頃、網で採ったりしていた者にしてみれば、お金で買うなど信じられなかった。が、この際孫にも見せたいので、買う事にした。

 

それだけで済む筈もなく、餌も要る。50個入ったゼリー状のものを買った。餌の台になるもの。木くずの袋。中型の飼育ケース。取りあえずそれを買って帰った。メダカどころではなかったのだ。可哀想な小さなケースのカブトムシが喜びそうな簡単な世界を作った。すると、木くずの中に元気に潜り込み、姿を見せなくなった。カブトムシは夜行性だから、夜部屋を暗くしたら出て来て餌を食べるだろうと思った。

 

ビールを飲んで、20時37分に外に出て西北西の方を見た。暫く見つからなかったが、ふっと見つかるものである。ゆっくり、家々の屋根の上、低い所を宇宙ステーションは星となって動いて行った。私は、満足だった。

 

【18日(日)】

 

シマさんの本はその次の頁から、唄と、その背景や説明と、三線で弾ける表記がしてある。ここからは専門分野だ。ここで、私はリタイアーして、今朝(18日)彼の元に、校正した原稿を入れたゆうパックをポストに入れた。校正の難しさの幾らかが分かった気がした。

 

そしてまだ7時前だったが、高速バスの明日の時刻をしっかり見て、家に戻った。明日は、2度目のワクチン接種の日だったからだった。1度目の時食べたカツ丼の味は落ちていたとは言え、やっぱり今度もカツ丼が食べたい。気が変わったら、すぐ斜交いにある金プラで、カツハイライを食べてもいいなと思っている。これは絶品だ。

 

7時を過ぎた。7時から20時まで、今日は兵庫県知事選があるので、出掛けた。それから暫くブログを書いていたが、久し振りの卓球だ。コープに出掛けた。10時から始まるのは同じでも、終わるのは通常の12時ではなく11時30分だ。手の消毒は変わらないが、まだマスクを着けてやるのは流石に息苦しい。

 

私の右手の人差し指はブシャール結節で、腫れも酷いが何より痛いのが困る。ペンホルダーで握ると痛い事極まりない。卓球台に、ラケットを投げ置く始末だ。「シェークハンドのラケットもあるよ」と気を遣ってくれる人もいたが、そのラケットでやった事は無いに等しい。ペンを握るように親指と人差し指で持つが、その痛さは飛んでもない痛さだ。親指と中指で握った。「そんなんでよくやれるねえ」と言われたが、スマッシュは違った方向に球が行くけれど、卓球としては何とか様になった。

 

指導者の先生が髪形を変えていたので、「髪形を変えましたね。沢口靖子にそっくりですよ」と言った。女性は反応が早い。「髪形が変わったのが分かったの」とか驚きの表情を見せながら言う者もいる。「そう言えば、沢口靖子によく似てる」と言って喜ぶ始末。コロナの所為で2ヶ月は行っていなかったのだから、新鮮な卓球教室だった。指の調子が良かったら、また行きたい。指の大切さを思い知らされた気がした。

 

カブトムシのメスが夜の間活動していたのだろう。朝潜っていた木くずから出て、ゼリーを少しずつ体を変え乍ら食べていた。オスの方は、少し食べた形跡はあるが、潜ったまま出て来ない。

 

今夜は19時50分から晴れていたら宇宙ステーションが見られる。これが見られなかったら、今度見えるのは29日と31日。28日と30日も見えるが、1分も見る事が出来ない。探しているうちに終わるだろう。やっぱり3分以上は見えなければと思うし、7分も見えたら最高だ。8月は1日から6日まで長さは区々だが見える。それを過ぎると20日までは見えない。1日に長さ約100メートルの宇宙ステーションは、見えても見えなくても16回地球の周りを回る。凄いとしか言いようがない。

 

【19日(月)】

 

昼過ぎの高速バスで三宮に行く。ワクチン接種で、サンパルの7階に上がる。要領は分かっているが、熱やめまいや吐き気など一切出ないように願いたいものだ。

 

もう1時間半もしたら出掛けるが、朝早くカブトムシのケースを覗くと、オスがゼリーを食べていた。メスより臆病な所があるのか、ガタッとケースを開ける音がするやいなや、木くずに潜ってしまった。

 

メスの姿はなく時間差みたいな現れ方だと思っていたが、やがてメスが現れ、ゼリーに食いついていた。首を突っ込んでいると、窒息をしないかと心配になる。食べているのか吸っているのか、位置を変える以外はずっと動かずに首を突っ込んだままだ。上の覗き窓がガタンと大きな音を上げても、微動だにしない。私も、こんな根性が欲しいと思った。もう1時間もしたら出かけるが、まだジェリーの上に乗っかっている。

 

この日の楽しみは、食に在り。だが、「働かざる者食うにあらず」と言う言葉もあるのが気にかかる。

ASAHIスーパードライ生ジョッキ缶

 

7月13日。それは獲得出来た。1ケースだが、24本入っている。次の限定販売日8月3日まで、家に残っている筈もない340mlの缶ビール。

 

私が聞くまで、イオンの係の人は分かっていなかった。私はないと諦めていたが、ビールは今日の販売を今か今かと待ち侘びていた。若いその係員は倉庫紛いの場所だろう所に行って、1ケース、籠に乗せて持って来た。私が聞かなかったら分からなかったと言いながら。それで、1ケースをゲットして家に戻った。

 

夜は、1缶をあてと共に飲んだ。すぐになくなった。それでは酔わないので、その後はヤエガキ酒造の純米大吟醸「無」を飲む事にした。1合以上残っていて、空っぽにしようとグラスに入れたら、略一杯になった。

 

横浜の妹からメールが来ていて、20時33分南西の方向に宇宙ステーションが見えると言うのだ。テレビを観ていたが、右下の時刻が気になっていた。33分になった。ビールと日本酒のお蔭でいい気分になっていたが、33分。

 

星は疎らだったが、晴れている事は分かった。南西は分かったが、ISSは分からない。少し高い方向に、それは動いていた。久し振りの空に星を見て感動し、ISSを見付けて思わず頬が綻んだ。消えるまで、進路を手を振って見送った。

 

 

神戸文化ホールでのオカリナフェスティバルは、7月10日(土)と11日(日)の2日間。第20回目のファイナルとなった。去年で20回目の筈だったが、コロナの為に已む無く中止となっていた。人数は縮小され、出場者は前面にその席は設えられ、その場所からステージに上がった。時々、換気の時間が設けられ、暫く休憩時間となった。そんな中で、兎に角お仕舞いとなった。

 

私は、10日の挨拶をした。4番目には演奏だ。S.Sさんのピアノ伴奏で、それは始まった。自作の曲だが、簡単なもので、最初の「幸せは夢の中」は特に簡単だった。2曲目は「夏が逝く」で少し長いが、これも難しくはない。どちらも暗譜して、皆さんにじっくり聴いて貰う筈だった。暗譜で始めた曲は、何処かで飛んでしまった。上がるとかそんなのではなく、何故か分からなかった。あれだけ練習して、自信があったのにだ。

 

楽譜は譜面台に乗せてはいるが、見る事はなかった。S.Sさんの言葉は考えさせられた。「暗譜で間違うより、楽譜を見ながら演奏する方がいいね」と。その通りで、楽譜を見ていたら、別の意味で完璧だったのだ。しかも、ファイナルのこの場で。

 

人も、私を避けるようだった。話し辛かったに違いない。きっと、どう言っていいか分からなかったのだ。称える言葉は準備していても、慰める言葉は考えていなかったのだろう。悔しい気持ちが体を覆った。全く、間違えるとか飛ぶとかは、1ミリも考えに無かったからだ。

 

2日目は、諦めはしていたが、悔しい気持ちは残っていた。これがトラウマになるだろうと思った。朝早く会場の部屋が開くのを係の者は待っていた。そんな時に限って、挨拶に感動したとか、何処かで教えているのかとか、間違った演奏をした私にそんな事を言うのが不思議だった。だが、気持ちは少しハイになった。

 

10日のゲスト演奏はオカリナが森下知子さんでピアノ伴奏が大島忠則さん。11日は茨木智博さんと山本奈央さんがオカリナで、ピアノ伴奏は森悠也さんだった。どちらも素晴らしい演奏で、流石プロと思わされた。それと共に、自分のレベルがはっきりと分かった。アマチュアは所詮それだけのものだと、やっと悟った気がした。

 

凄い演奏の真似は出来はしないが、それでもやるか止めるか。そう問われる。あんな演奏、出来る訳がない。オカリナは自分を楽しませてくれる。吹いていて、これだけ楽しいものはない。ならば、私は今の自分のレベルを認め、それをやって行くしかない。素晴らしい人の演奏を聴き、学習するしかない。

 

オカリナが自分のレベルをはっきり知らせてくれ、自分はどんな人間かを教えてくれる。止めるのは簡単だが、それは寂しい事だ。折角掴んだ生き方さえも捨てる事だからだ。だったらやろう。そう自分を励ましてやって行こうと思と思った。上手くならなければそれでもいい。毎日やって行く事が、その人を育てるのではないかと思ったのだ。

 

もう、悔しさなど何処にもない。ありのままの自分がいて、悔しさなどはオカリナ道の通る1部ではないかと思うことにした。オカリナをやる人の中にいて、きっと何かが起こるかも知れない。良い事があっても悪い事があっても、オカリナ道を歩こう。オカリナを通して、また色んな人に出会うだろうと思うからだ。

 

これを以て、21年携わったオカリナフェスティバルは、終わった。

 

 

 

※ 私の演奏は ①「幸せは夢の中」 ②「夏が逝く」でした。①はブログにも書いたように、大失敗をしました。   その動揺を引き摺って②を演奏しているので、これも恥ずかしい演奏になっています。ですが、そらの陽さんが②「夏が逝く」だけYouTubeに挙げて下さっています。美しい花などをあしらったとても綺麗な編集です。

 

※ 「そらの陽」で検索すれば視聴出来ます。良かったらご覧下さい。そらの陽さん、ありがとうございました。

先月(6月)の26日から、腰が痛く感じるようになった。それから、いい姿勢をすると左の腰や脚が痛くなった。

 

次の日は、家中を違和感のある歩き方をする男がいた。それは私です(笑)。笑っている場合ではない。びっこをひかないと歩けないし痛い。その度に、大きな音が響く。痛いの何の、子供の頃見た私の遠い大田舎のおばあちゃんのように、90度体を倒さないと歩けなかった。これを最敬礼と言うのだろうか。そんな姿勢を取った事は未だになかった。

 

まあ、次の日には治るだろう。そう思って寝るが、どんな形になっても痛い。脚を上げると良さそうだ。反対の脚に乗せて暫く痛さを凌いだ。それが分かると他の体位も考えて痛くない形を探した。何とか眠れるようになった。

 

朝起きると暫くはいいが、軈てあの痛さが巡って来た。家中に違和感のある音が響いた。遂に29日には垂水駅に近いレバンテの2階にある整形外科に行った。随分昔の診察券があった。表のマジックインキで書いてある番号も、何故かレトロのようにぼやけていた。

 

8時30分から始まるのを調べて、バスに乗って行った。10分位早く並んだ。もう十数人並んでいる。

 

呼ばれるまでに時間は掛かったが下はパンツだけの姿で、脚気か何かを調べる様な器具でコンコン叩かれた。診察室のベッドに横たわり、言われる通りに体位を変えた。別室でレントゲンも撮られ、まるでそれは撮影中の女優のように、言われるがままに姿を変えなければならなかった。

 

背骨の下部は正常ではなかった。何だったか忘れたが、狭まっていた。先生が診断した結果は「根性坐骨神経痛」。もう1つは「変形性脊椎症」。いやだいやだ、中学生の頃は陸上部で、走り幅跳び、走り高跳び、三段跳びなど跳躍ものは得意だった。それが、平家物語の「祇園精舎」は私に語り掛ける。「奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」。そうだろうな。今は走り高跳びも弾みを付けて走る事さえ儘ならず、3~40センチさえ跳べないのだ。「猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ」。空しいものだ。坐骨神経痛になるのも分かる気がする。

 

いたたた。薬も4種類も貰って帰る。鈍痛が起こるので、歩いては立ち止まり最敬礼をする。誰が見ていようがお構いなしである。痛いのだから仕様がない。寝る時は、体位を考えないと痛くて眠れない。先生は、

 

「1週間したらいらっしゃい。何かあったらその時は来て下さい。今度は立ち話するだけですから」

 

這って歩きそうな日は減って来た。真っすぐ立って歩く時間も増えた。だが、相変わらずパソコンの前に座っている。これが原因のような気がしているのにだ。

 

7月5日には整形外科に行こうと思った。薬だって、6日の朝までしかないから。家を早く出て、レバンテ2階の医院には8時30分にまだ15分もある状態で着いた。それでも、何と18人程が並んでいるではないか。

 

時間になる前に、並んだ人たちは中に招き入れられた。

 

「どうされました」

 

 

 

受付の人が聞いた。

 

「この前が初診で、1週間経ったら来るように言われていまして」

 

「そうですか。リハビリはどうされますか」

 

毎回バスに乗って10分だけ腰を温めるリハビリは、風呂の温度で十分な気がした。その上、積み重なると大変な料金になる。

 

「家では風呂に入っているので、温かくするリハビリは要らないと思います」

 

「分かりました」

 

また、違った人に確認された。

 

「今で14番目です。時間が随分あります。リハビリはどうですか」

 

つまりり待つ間リハビリで時間稼ぎをすると言うのだ。

 

「待つ時間は、1時間はあるんでしょうね」

 

その人は何にも言わなかった。そんな事、はっきりとは分からないから。

 

「先生が、立ち話で済むからと言っておられました」

 

そう言うと、ずっと奥に行くように指示された。すぐに済む人の並んでいる所だった。本当にすぐに順番が来た。

 

「どうですか」

 

先生が聞いた。

 

「この辺が痛くなりますが、大分良くなりました。止まって屈むような事は殆どなくなりました」

 

「良かったですね。薬はどうしますか」

 

今迄の薬を貰う事になった。神経の痛みを緩和する為の薬は、倍の量貰う事になった。2週間分要るかと言われたが、1週間分にして貰った。会計で待つ間壁を見ていた。京都大学の博士課程を終わった証が貼られており、ノーベル賞を貰った山中先生とのツーショットの写真も貼ってあった。とっても恰好良く見えた。

 

9時半には医院を出て、薬局に行った。薬剤師と色々喋った。何だか、何も考える事もなく構える事もなく話した。向こうから面白く話して来る人だったら、こちらもその気になって話す。つい前に郵便局に行ったが、とても接客に慣れた人がいた。ゆうパックを買いに行ったのだが、その人は話し好きの人のようだった。何かの拍子に、

 

「30代ではないですか」

 

と、私が言った。ちょっと間違ったかなと心配していると、

 

「私は52歳ですよ」

 

えらいあっさりと歳を言った。驚きながら帰ろうとしていた。

 

「上手いですねえ」

 

と言う言葉が背後に聞こえた。他に人もいるのにと思ったが、話が好きな人のようで、どうしてこんなに面白いのだろうと思ったりした。

 

さて、今日は寿しを買って帰ろうと思った。えびすと言う寿司屋さんで、開くのは10時半である。隣りがミスドだ。そこで時間を潰す事にした。パイとドーナツを選び、コーヒーを貰った。入口に近い場所に座った。大体女性が多い。

 

ゆっくり食べたり飲んだりしたが、それでも時間はすぐには経たなかった。コーヒーのお代わりは自由だと言うので、もう1杯貰いに行った。先に来ていた人達が1人だったり何人だったリかしたが、何故かチラッと私に視線を向ける人がいた。ほんのチラッとだから、ホンチラ(笑)。緑色のパンツに緑のTシャツを着ていたので目立ったのか、マスクをしているから全体の顔が分からないので10歳位若く見られたのか。うふっ。

 

外は疎らに人が往来しているのが見える。私と同じような、ポロシャツを着た男がこちらの方向に歩いている。やっぱりだ。お腹に西瓜が入っているかのようだ。まるで私の姿を観ているようだった。これぞ初老の悲哀。ホンチラだなんて言っている場合か。

 

そうこうしている内に、10時30分になった。返却口にトレイを持って行き、隣のゑびすへ行った。夫婦がいたが、まだ開いていなかった。暫く待っていると、暖簾を持った男が透明のドアを開けた。2人は手を消毒し、額の体温を測られた。私は持ち帰りだったので、体温の測定はなかった。

 

結構長く居たミスドでは、文化ホールでのオカリナフェスティバルの挨拶を考える事が出来た。いつも、これが厄介だ。何をどう言うのかは、そんなに私には簡単な事ではない。ミスドがなかったら、ギリギリにしか考えなかっただろう。尻に火が点かないと動かないのが、私の悪い癖なのだ。

 

いつもはスーパーで稲荷寿司を買ったり安い握り寿司を買ったりする。だが、稲荷はどれでも美味いが、握りはやっぱり違う。今日の昼食は久々の握り。流石に満足感に溢れた。

 

1時から韓国ドラマ「帝王の娘スベクヒャン」。3時からは中国ドラマ「瓔珞(エイラク)」だ。その間の1時間が唯一オカリナの練習時間となる。韓国ドラマは50回を超えたとは言え、まだまだ続く。108回が最終回だと分かっているからである。中国ドラマは70回で終わるので、後10回位となる。王朝の時代のドラマは、どちらも面白くて堪らない。その後は、「水戸黄門」が控えている。その後は大相撲。白鵬が帰って来たが、まだ行けるか、それとも引退か。

 

イレギュラーの1日を書いてみた。第20回オカリナフェステイバルin神戸ファイナルの日が、音無しで加速しで忍び寄って来る。先ずリハーサルの日まで、後3日。多分ズボンが小さくなっているに違いない。もう美味い日本酒を飲んで、寝ちゃえ(笑)。

 

私は、オカリナと名の付くもの全部入れれば、80個位持っている。それらの大手メーカーや工房の名称は伏せて置くが、30年位前から下手の横好き丸出しの私は、或るメーカーのオカリナを何個も買い続けた。これしかなかった所為か、これがオカリナの音だと思ってか、同じ種類のものでも尚もっといい音のものはないかと取り寄せた。

 

私のオカリナ歴を述べる積もりもないのだが、それから美しいカラフルなオカリナを紹介して貰い、オカリナの他の音や形に興味を持った私は、試奏も出来る筈もない遠くのそのオカリナ工房に電話をした。随分大胆な質問をしたものだと思う。

 

「一番得意なオカリナは何ですか」

 

「私は、ソプラノC管が得意かも知れません」

 

それを聞くとどんな音かも分からないのに、即座に4本注文した。何よりも早く手に取ってみたい衝動に駆られていた。何故かわくわくした気持ちが止まらない。SC、SG、SF、MCの4本は、今とは違って意外と早く送って来た。SCは黄土色、SGは赤色、SFは青色、MCは黄土色に赤や緑の色が模様のように塗られていた。この時の感動は今でも覚えているが、枕元に置き、1本は胸に抱いて寝ていた。

 

音より、その色の美しさと豊満な形に魅せられた。音も最初のメーカーの音とは、遥かに違っていた。良い悪いはない。人の好き好きだからである。私には、これこそ私に合ったオカリナだと思ったのである。その感動の所為で、東京都町田市まで会いに行ったのだ。それからこのオカリナで吹く事になり、その工房のオカリナも20個にはなったと思う。

 

吹く技術もなく下手は変わらないものの増えて行き、まるで骨董収集家のようだった。私の還暦は自分で祝った。この工房のオカリナを7本注文した。SC、SG、SF、MC、AG、AF、BC。最初の4本は赤色、後の3本は青色を指定してお願いした。

 

やっぱり美しいが、音は以前の同工房のものとそんなに変ってはいない。それでも音より色を求めてかAC管などは5本もある。これぞオカリナと信じて止まなかった。

 

最初はメーカーのオカリナが私の中心だと信じていたが、工房のオカリナと出会うと、早々に私のメインオカリナとなった。これが浮気と言われるものなのか。

 

その後少しずつ、点々とオカリナ工房を知ることになる。或る工房のものを注文する。オカリナと言うものは、或る人がこれが良いと言ってもそれが万人の好みとはならない。それを演奏している人が吹いているととても感動するオカリナであっても、自分に合うとは限らない。息の強さとかスピードでも変わるので、442ヘルツで気持ち良く吹けなければ、自分では上手いと思っていても、少し低い音になっていたり逆に高くなったりする。大抵442ヘルツで作られているから、442ヘルツのピアノとコラボする場合、ずれが生じ不協和音となってしまう。

 

その人に合うオカリナと出会う事が念頭になければならないと思っている。勿論、上手い人やプロはオカリナに自分を合わせて吹けるが、そんな訳で、もっと自分に合うオカリナはないのかと、オカリナ探しの深みに迷い込む旅が始まるのだ。

 

次から次へと違った工房のオカリナをフェスティバルなどの出店で試奏させて貰い、買ったり頭にインプットして置く事になる。浮気は止まらない。最初のメーカーのものは使っていない。がしかし、そのオカリナで演奏活動をしているプロもいる。美しい良い音だが、もう戻れない。

 

次(初出)の工房のオカリナは、今も愛し続けてはいるが、メインからは外れた。メインとは何か? それは今活用しているものの事だと私は思う。現実に幾つかの工房のものを使っていると、それらはメインだと言っても良さそうだ。その中で、とてもよく使うものをメインだと言うのもいいかも知れない。

 

何もオカリナのメインの定義を決める必要はないだろう。ただ、オカリナの基本的中心的なものはやはりアルトC管なので、それを使っていれば、幾つか違った工房のものがあってもメインと言っても良い気がする。又はその中でも特によく使うもの、私情を挟むが一番好きなものをメインと唱えても悪くはない気がしている。そんな事人其々だと言うのが、一番正解に近いかも知れない。ただ私にはもう、最初に書いたメーカーや工房のオカリナでの演奏はなくなった。

 

1つのオカリナで満足できなくなった私は、次々にオカリナが溜まって行った。それをオカリナ行脚と名付けたが、まだ吹きたい工房のオカリナはある。だが、これだけオカリナを集めた私は、流石に多くの散財をした事を認める。そして、宝くじでも当たらない限り、もう買う事はない。

 

指の穴の間隔や並びが私に合っているか。色や形を気に入っているか。息の強さに合っているか。音色に惚れ込んでいるか。音が遠くまでよく響くか。私のオカリナ行脚での選ぶ基準が固まった。だが、これ以上集める訳には行かない。まるで放蕩息子のようだった。

 

今更に考える事がある。ホールで演奏するチャンスがあった時、マイクなしの演奏となった時、その音は大きな音が出なければ感動も薄れる。自分の技術のなさを放置してこんな事を言えた義理ではないが、大きな音で遠くまでよく響いて欲しいのだ。そんなオカリナを求めている。プロ用の息を強く入れるオカリナも売れている。だがそれは、遠くまで大きく響くのは分かっているが、自分の息ではとても及ばない。ともあれ先にも言ったが、もう買うのはご法度なのだ。

 

数年前、日本オカリナコンクールシニアの部にエントリーしたが、初めて淡路島の工房を仲間と訪ねた。私は少しでも大きな音で響いてくれるオカリナを、試奏をしながら探していた。その中で、これだと言うAC管を見付けた。すぐに購入した。これなら先ず先ずホールで響いてくれるだろうと思ったのだ。コンクールから1週間前の事だった。

 

今回で20回目となるオカリナフェスティバルがファイナルとなる。2曲ともオリジナルの曲でピアノ伴奏をお願いしているが、この淡路島の工房で出会ったアルトC管と、私には指の感じが合わなくて人に譲り、たった1本残っている1,000度位で焼いているだろうソプラノF管を使う。余り吹いた事もない多くの人やプロも使用するこの本焼きのオカリナを使うのは、音が明瞭で良く響くからである。しかし、私にはまだ上手く吹けないでいる。もう1つは、台湾製でかなり有名なソプラノC管だ。やや音が小さく、出来たらもう1つの台湾製のオカリナだったらと思うが、これが手元にあれば私としては完璧に近い。残念だが、今の私にはご法度である。

 

これが私のオカリナ遍歴の浮気の顛末の粗筋であるが、浮気と言っても決して浮気とは言えないと思っている。その時は真実好きなオカリナだったし、これ以外私のオカリナはないと思っていた位だ。それからも出会うオカリナに対して皆そんな気持ちだった。だから、その時その時が、私の本心だったと言える。買う前に迷い悩み逡巡し、そのエネルギーは膨大なものだった。

 

以前のオカリナもたまには箪笥のような引き出しから出して吹いてみたりするが、このオカリナでなければだめだと言う拘りのオカリナもある。2度目の工房で買って、長く暫く吹き捲っていた色の美しい芸術的なオカリナの薄緑色のオカリナは、私の作っていた曲「モンゴルの少女」にはこのオカリナを使う。モンゴルの草原の色を想像しながら吹く。この工房の同じMC(アルトC)管でも、微妙に音が違い、またその草原色でなければ気持ちも開放出来ないのだ。

 

私が親しみを覚える「東京ららばい」には、数年前に目にする事になった工房の水色のオカリナを使う。息の使い方や強さが私や曲にはよく合うと思うからである。この曲にはこのオカリナだと決めて演奏する事だってあるのだ。

 

今まで集めたオカリナも、吹かなくなったからと言っても捨てがたい。オカリナを吹いて来たささやかな歴史だと思うと、捨てたり譲ったりが出来ない。断捨離出来ない人の気持ちが分かりそうだ。思い出もあるからだろうが、思い出や思い入れのない人に断捨離をお願いしたら、全部捨てられるに違いない。

 

また、自分で要らなくなったオカリナなど、誰も欲しいとは思わない。自分が好きだと思っているオカリナは、いとも簡単に人の手に落ちるだろう。オカリナはどんどん変わって行ったが、そのどれもが本気だった。

 

音への追求と好奇心に依って、心は弛まぬ次への憧れにときめく。

危険とも紙一重。万に幾つか、亡くなる人もいる。私もその1人に絶対にならないとは言い切れない。一瞬だが、不安も過ぎった。

 

シマさんは、電話で私の遅い予約を心配してくれた。もう決めていた日をキャンセルして、もう少し早い日に替えたらと言った。因みに、彼はとっくに、2回目も済ませている。

 

4月の21日から、毎日のように連続で予約の電話をして、繋がらない日が1週間続いた。8日目、諦めたように慢性的に期待せず電話を掛けていた。突然それが繋がった。慌て乍ら、早速予約をのやり取りをした。もう、近くでの予約は一杯で、須磨区や長田区や兵庫区では幾らかあった。しかし場所が夫々の駅から離れていて気が進まなかった。三宮には集団接種会場があると言う。オーパ2は、駅から1分位かな? 三宮に出てみたいと思う気もあって、即決した。6月24日と決まった。

 

シマさんから電話があったのは、それから少し経ってからだった。もっと早く出来るならと何度か予約電話をしてみた。だがそれは通じず、オーパ2をキープする事にした。後に、会場がサンパルの7階に変更になった知らせが来た。

 

予約の電話をし出して略2ヶ月。長かったが、やっとの事で6月24日が来た。4時が予約の時刻で、数少ない高速バス1時間半前の便で出かけた。どうしてもカツ丼が食べたくて、まだ1時間ある事をいい事に、地下のカツ丼店に足を向けた。普通盛りに溶き卵は2個の食券を購入。席に着いた。昼時は行列が出来るが、3時10分ともなるとがら透きで、10数席に2人しかいなかった。

 

カツ丼の結論を急ごう。沢庵は好きなほど食べられるのはいいが、値段が上がっている。揚げたてのトンカツを切るが音はサクサクと気持ち良くリズミカルだが、今までの切り幅より半分位は細くなっている。私は、今までの親指位の幅がいい。それに、揚げたり盛ったりする人が違っている。だからかどうかは分からないが、だし汁かトンカツそのものか、味が落ちている。1押しをしていたのだが、とても残念である。

 

20分に店を出て、会場に着くと3時35分だった。4時予約の人は既に25人は席に着いていて、私はその流れに乗った。予診票と接種券と本人確認書類の1つ運転免許証を見せるとそれら全部ファイルに入れて持たされた。

 

次の部屋では、入る前に手の消毒と顔を写して体温を測られた。そこではファイルに挟んだ上記の3種類を前の受付の人にスタッフが持って行き、何かスタンプを押していた。番号を印刷された紙を入れたパスケースのようなものを、赤か青かの紐に繋ぎ、首に掛けられた。私は青。順番の番号は「222」番だった。

 

数人ずつ廊下のような所の椅子に座らされ、接種の番を待った。その順番はすぐに来て、青い入り口から入った。そこで予診票の確認を受け、5つのブースが開いた順番に番号順に入って行く。私は2番目の医師のいるブースだった。

 

「今日は変わった事はありませんか」

 

「いいえ、ありません」

 

「アナキラフィシーなど起こした事はありませんか」

 

「ありません」

 

「利き腕はどちらですか」

 

一瞬戸惑った。箸を持つ手は右だが、トンカチは左手だし、トランプ等のシャッフルは左手だし、左手でも箸は使える。それでも利き腕と言えば、私は右腕だろう。

 

「右腕ですかね」

 

躊躇しながら言った。医師は、とても親切な人だった。

 

「明日、腕が痛くなった時、利き腕だったら箸で掴み辛くなると思うので、反対の腕にする方がいいと思いますので」

 

「では、壁に向かって下さい」

 

と言った。すぐには理解できず、耄碌したもんだと思った。椅子に座ったままだが、壁に向かうと医師には左腕が向かう。反応が悪くなったのかと、恥ずかしささえ感じられた。

 

「注射した後、しっかり手で2、3分押さえていて下さい」

 

血液をサラサラにする薬イグザレルトを飲んでいたからである。

 

「では、アルコール消毒をします。ちょっとちくっとしますが」

 

「どうでしたか」

 

ちくっとすると言われて構えると、却って感じないものだ。あれだけ長い針を押し込むのに痛くも何ともなく、あっと言う間に終わった。

 

「ありがとうございました」

 

「では、次の予約を取って下さい」

 

案内されて、次の部屋に移った。私は1回目だったのでそのオープンスペスになった部屋に行ったが、ここは3分の1も人がいなかった。2回目が今日の人には関係がないからである。5人の受付をする人の1人の所に行き、そして、次3週間先の日時が決まった。

 

接種後の何らかの副反応が見られるかも知れないからと、状態観察の30分、その場にいなければならない。4時58分まで待機しなければならなかった。反応のようなものは感じなかった。スタッフの1人が、

 

「大丈夫ですか」

 

と、4時58分とその前の2度聞いて来た。そうして、無罪放免と相成ったのだ。こんな冗談が言えるのも、副反応が現れなかったお陰だ。今はそうでも、明日は分からない。

 

三宮駅の周辺は、緊急事態宣言が解除されているからか、その前からかは分からないが、人出はやや賑やかな方かなと思った。三宮に来ていなかったら、何の変りも感じられず、家に籠る生活が続いていたかも知れなかった。若者の声が響いていたり、演説のスピーカーの音がけたたましく、信号を渡るまで煩かった。耳を塞ぎたかったが、そこまではと、辛抱した。

 

このまま帰るには耐えられない。折角の三宮だ。ビルの群れが青空を衝いている。三宮センター街の入り口の横にドトールがある。家にはもうなくなっているが1袋約20円のUCCコーヒーではなく、美味しいコーヒーを飲みたかった。ここのコーヒーは安い。バスは20分したら来るが、それではつまらないし勿体ない。その時間が過ぎても、次のバスは30分したら来る。随分時間があるではないか。私は、久し振りの三宮の空気を胸一杯吸っていた。

 

ベビーバウムクーヘンとコーヒーSを注文して、比較的空いている入り口近い席に座り、徐に口に付けた。これぞコーヒー。苦いのに爽やかだった。時間はまだある。沖縄県産パインヨーグルトが目に付き、これも飲みたくなった。ミックスジュースのように、少しドロッとした飲料だった。美味い。久し振りの三宮の空気の中だったからだろうか。今度は、ミラノサンドやジャーマンドックと一緒に。

 

引き籠りのストレスは、仲間や人と出会う事を阻止する。せめてもの安らぎは晩酌である。ワクチン接種では酒を禁じてはいなかったようだ。以前貰った日本酒(1升瓶)がもう少し残っている。それを飲みながら、ワクチンとアルコールが結合して、変な集合体ワクチンが体内で生まれはしないかと、気を揉む晩酌だった。