東加古川駅で下りて自治会長 Iさんに言われたようにタクシーで団地の集会所前に行った。加西市のいこいの村への小さな送迎バス2台に約35人が分乗した。ここから40分位かかるが、うんと田舎の自然と山の渋い紅葉が感動を呼ぶ程美しかった。

 

5日(日)と6日(月)は、自治会の住人が参加する所謂お楽しみ会で、2日共12時から45分位オカリナの演奏を依頼されていた。会長以外は2日間同じ人はいない。どちらも大広間に35人が集まって、ランチとビールでオカリナを聴こうとお招きを頂いたのだ。

 

私の演奏の後は2時半頃までカラオケで歌を楽しむ会で、歌える人は夫々の独壇場と言えた。

 

黙食と言う言葉が行き届いていたのか、何と言う静けさかと思う程で、こちらが途中で皆さんに笑って貰おうと喋った事の1つがこれだ。

 

「あるおばあさんがゆっくりとした足取りで、コンビニにペットボトルのお茶を買いに入って来ました。店員さんが気を利かせて奥まで取りに行きました。『この【お~いお茶】でいいですか』と聞いたら、『私は少ないお茶がいい』と言ったんです」

 

笑った人とそうでない人が半々くらいだっただろうか。私が演奏した曲は7曲で、曲名は次の通り。

 

1.故郷の原風景

2.エーデルワイス

3.津軽海峡・冬景色

4.崖の上のポニョ

5.ウイスキーが、お好きでしょ

6.コンドルは飛んでいく

7.かあさんの歌

 

アンコールがあったので、事前に聞いていた皆さんの好きな歌「神田川」を吹いた。全曲控え目な拍手を頂いたが、少しは喜んで貰えたのではないかと思っている。ただ、大きな問題があった。CDの伴奏を流して貰う人がぶっつけ本番。リハーサルなど出来なかった私もぶっつけ本番。マイクは通さない生音で演奏する事にしていたが、大きな伴奏の音にしたのにも拘らず全体に浮遊して流れる音ははっきり掴み難かったのだ。

 

これが私には一番困った事だった。演奏するのに音がずれたりする事は致命的だからだ。リズムもはっきりし合わなかったら、恐怖である。こんな事は経験から想像出来ても、初めて観る大広間だ。兎に角楽しそうに演奏しながら、いつもより集中しなければならないと思った。ずれているなと感じた時もあったが、それでも楽しんで貰えたことには感謝しかない。

 

加古川の友達が2人、車で迎えに来てくれていて、演奏を聴いて弁当を食べた後は、その車に乗って帰る事にした。車がなかったら、2時半まで待って送迎バスに乗る事になっていた。加古川駅の近くのカフェで、暫くコーヒーを飲みながら気の置けない者同士で談笑した。オカリナ演奏に就いては、オカリナの音は後ろまでよく聞こえたと言った。それと、伴奏の音はもう少し小さくした方がいいと言って、それが次の日に大いに参考になった。

 

次の日(6日)も同じパターンだが、この日はいつもCDを動かしたり止めたりしてくれるKi君が来てくれた。前日はどうしても避けられない用事で、来れなかったのは初めての事だった。

 

12時までに時間が20分位あり、後ろの機器をしっかり動かして、昨日のように1曲が終わって止めてもその曲が流れたり次の曲が流れたりしないように2人で研究した。試行錯誤で何とかKi君が上手くやってくれた。

 

この日は5番目の曲を入れ替えて「太陽がいっぱい」にした。昨日の事があってか、自分に余裕が生まれた気がした。それに、Ki君と東加古川駅で会って彼がくれた、以前は演奏の時は事前に飲んでいた「リポビタンD」を飲んだ。1時間半もすると顔が火照り体中が熱くなる。そんな効果もあって、自由に演奏出来たようだ。

 

今日は送迎バスに乗らなければならないから、頂いた弁当を2人で食べた後自治会長の Iさんのバナナのたたき売りの口上を見せて貰った。仕入れた上等のバナナが、飛ぶように売れた。沢山の房でもかなり安く、何人かが前に出て買った。最後に6、7本は付いていただろうか、それは100円と言った途端、沢山の人が前に出て買い、すっかりなくなってしまった。

 

後にKi君と座っていたからか、全てが終わり皆が後ろから出て行く時に、「ありがとう」の言葉を沢山貰った。昨日は車で帰って最後まで残っていなかったからだとしても、何だかほっとして力が抜けたようになった。1日目の反省から改善が出来た所為もあり、慣れた所為もあるのだろう。

 

バスに乗って再び来た道を戻って行く。集会所で下りると、家に帰る人達からまたまた「ありがとう」などの声をかけて貰った。I さんは、家が目の前の人にタクシーの電話番号を聞いて、呼んでくれた。

 

Ki君も神戸の住人だ。一緒にJRの電車に乗り、私は垂水駅で下りた。彼はそのまま乗り、地下鉄に乗り換えて、幾つか駅を戻らなければならない。いつも手伝ってくれて有り難い事だ。言葉は悪いが、とても重宝している。今年はもう1度だけ、加古川で10数人の仲間と、勿論彼も一緒の飲み会がある。コロナの中の忘年会だが、皆の親切や出会った事は忘れてはならないと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出雲駅伝が1時、出雲大社の大鳥居前を出発した。正式には「(第33回)出雲全日本大学選抜駅伝」と言うのだが。まさか出雲で駅伝が開催されるとは思わなかったあの時から33回目となった。出雲は私の生まれ育った故郷で、どうしても気合いを入れて見てしまう。いま出雲に帰っていたら、きっとどこかで、リアルタイムで実物が走るのを実感していた事だろう。

 

東京国際大が優勝。初出場で初優勝。最後まで、結果は分からないのだ。誰でも自分のアンテナで予測はするけれど。青山学院大は2位。これは悔しい何物でもなかっただろう。返り咲くチャンスだったのだ。3位が東洋大。4位は国学院大。5位は駒澤大。早稲田大が6位となった。後は省略するが、これらの大学は、東京国際大以外、何処が優勝しても誰も驚かなかっただろう。

 

私は、爽やかな秋の日の空の青さに見入っている。

 

3日前(7日)17時48分から55分迄、久し振りに宇宙ステーションの進路が見られると、何か空の事に関係があると知ると出掛ける観測基地に、歩いて出掛けた。2階側の駐車場に上がると、車の上り下りをする道のすぐ端っこに立って、開けた景観を眺めた。

 

山や建物の上の方は空が覗いていたが、ぐるっと360度、鼠色の幅広の雲が空を隠していた。ISS(宇宙ステーション)が見られない事を悟った。西の方面の低い所から見え始めるとは、目から15度位上を差している。それでもどこかに見えないかと、55分まで粘った。だが、何処にも見る事は出来なかった。7分間も見えていただろう残念な気持ちと共に、車の下りて行く道の側を、歩いて下りた。後で分かった事だが、時間を間違えて記憶していたみたいだ。それなら、私の過失である。見える筈もなかろうと苦い納得をした。

 

2日前(8日)も観られる。朝から空は晴れて、雲が見られなかった。これは大チャンスである。18時59分に西北西の低い所から見え始め、南西の低い位置から南の低い所で消えるそうだ。雲1つない爽やかな空気の中を、今度は車で行った。

 

どこを見ても、夕暮れではあるが全く1点の曇りもなかった。ぼんやり見ていても、これなら動く星紛いのISSを捉える事は出来るだろう。磁石を出して、もう分かっている方角を何遍も見た。幸先がいいと言うのか、微妙に動いている星を見つけた。と言うのも、1等星や2等星の星のように見えるなら何の問題もない。こんなに広い所でも、多分5~6等星の星のようにしか見えない。それに、チカチカしている星と同じような大きさだ。先ず、しっかり捉える事がどうしても必要になる。

 

最初からずっと追っていた。19時04分に消えると言うから5分間は見られるのだ。1~2分しか見えない時は、見る事はない。やっと見つけても、すぐに消えるのが落ちであるからだ。清々しい気持ちで車の道を下りた。

 

昨日(9日)も観る事が出来る予定になっている。1日に16回も地球を回っているISSも、明るい時には滅多に見られないから、明け方か夕方、又はもう少し夜になった頃しか見る事が出来ない。

 

朝、雲は多かったが、それでも隙間を考えると、又観られると思った。その前に朝、7時半過ぎに皮膚科に予約を入れた。1週間前頃から上瞼の鼻に近い方が赤く腫れ、痒くて堪らない。掻くといけないと思い何もしないと、その痒さは放って置けなくなる。或る日はメンソレータムを塗る。目の直ぐ上だから沁みる沁みる。我慢して朝になっても治らない時は、そこらへんにあるオロナインを塗った。治らない。その繰り返しだった。良くなったと思える時もあった。

 

だが昨日は腫れが前より色付き赤くなった。電話からは無機質な声が跳ね返って来た。「あなたの予約は156番目で、5〇〇分の待ち時間です」。5百までは覚えているが、その次と次の数字は覚えていない。どちらにしても、覚えていたからと言って、何らの恩恵もない。この日は土曜日だから、午前中までだ。このまま信じるなら、約8時間は待つ事になる。待っても3時半頃になる。だが、確かにこの無機質な声は言った。「これで、受け付けました」と、確かに言った。

 

受診の近くになったら連絡すると言うので、それを待つ事にした。でも、妙に親切である。何処へ行くにも携帯は傍から放さなかった。どのくらいの順番になっているのか何度か電話した。少しずつ動いているようだった。とっくに昼は過ぎたが、受け付けた以上はその日に受け入れるようである。2時過ぎたら、車は使えない。3時前になって、まだ待ち時間はあるが、クリニックに行って待つ事にした。行きは送って貰った。

 

受付をして、通路のベンチで待った。表示される予約番号を見た。諦めた人もいるようで、番号が少しずつ飛んだ。電話が掛かって来て、私の番号と現在の番号を教えてくれた。勿論無機質な声でだ。そして、4時頃に名前が呼ばれた。

 

怖い病気か何かかと思っていたが、乾燥している所為もあってこのような状態になっていると、優しそうで親切な先生はそんな事を言った。1日に2回軟膏を塗る事と、塗る前に保湿の為の水分の入った薬で浸す事を指示した。先生はその両方の薬の入った容器を見せながら説明をした。私が診察室に入ったら、既にその薬があったようだ。3週間は塗り続けるように言われて、部屋を出た。ははあ、私のような症状の人が案外いるのでは、と思った。

 

帰りはバスに乗った。ほっとしたが、早く帰って薬を塗りたかった。痒くて堪らない。塗り薬は、目に入っても大丈夫だと言われたが、態々目に入れたくはない。先生も、目とギリギリの所まで塗るように言っていた。

 

この9日は、18時11分ISSがに見える事が分かっている。車はまだない。歩いて行った。雲はあるにはあったが、気になる程ではなかった。山や建物の端に小さい幅の夕焼けは薄く褪せて伸び、ISSの見える時間が近付いた。8日と大体同じような進路だったが、やや高く、針のような三日月と金星の上を通って南南東に消える筈だった。暫く小さな安定して動く星を追っていたが、半分も進んだ頃か、大きな雲が立ちはだかった。4分位は見えていたが、一端雲に飲まれたISSは、再び見る事は出来なかった。消える予定が18時18分だったから、7分は見えていただろう。

 

8日は5分しっかり見えたが、5分もあれば十分満足の出来るものだった。長い間見て来た私には、もう慣れもあって慌てなくなっているのだろう。昼に100メートルはあると言う翼が小さくても見えるのなら、まだまだ見ていたい。毎日観られるのなら、それは流石に見ないけれど、半月とかひと月とかしないと観られないなら、その時又気が変わるかも知れない。

 

明後日は午前中に人と会わなければならないので、目の腫れは何としても治っていて欲しいと思い、昨日(9日)クリニックニ行ったのは、クリニック(苦肉)の策だったと思う。今痒くないのが不思議である。メンソレータムやオロナインで勝手な治療は一時凌ぎにもならない事を知った。不安感を残すだけである。

 

あのISS、毎日何人かの人が乗って、地球の上を回っている。1時間半で1周している。そう言う事実を知るだけでも凄い事である。

日本で開催されたオリンピックが2021年8月8日に閉会式を終えた。それは、異例尽くめの17日間だった。7月23日に行われた開会式は、兎に角開催を告げた。

 

コロナ禍とオリンピックが、相乗効果を齎す訳のない状況の中でだった。私の頭の中には、そんな真反対の対立を含んだ走馬燈が、様々な煮え切らない現実や思いを乗せて、ゆっくりゆっくり動いている。お盆で何度でも回っている小さなものではなく、もう2度と巡って来ない大きな走馬燈だ。

 

まだコロナ禍がどんなものかがはっきりしない頃、日本で人が亡くなった事は大きな衝撃だった。有名人が亡くなった知らせは、もっと身近にその驚きと恐怖を齎し、有無を言わせなかった。ここには特別扱いも何もなく、志村けんさんだけ名前を載せさせて頂き申し訳ないが、亡くなった方と同じ1人に過ぎない尊い命であった。2020年3月29日の事だったから、彼是1年半になろうとしている。

 

オリンピック閉会式(8月8日午後8時)現在の新型コロナウイルス感染者は国内の確認で103万2444人と膨れ上がり、1万5285人が亡くなっている。今は、何度かの緊急事態宣言が出されている最中の都道府県があり、兵庫県は蔓延防止等重点措置の中にある。

 

しかし、オリンピックは基本的に無観客の中で行われ、テレビはLIVEで放映された。只部屋に籠っている私に取っては、2、3メートル先に目に入る戦う競技者達の全身全霊を上げての姿には、釘付けになってしまったと言ってもいい。しかも、全世界から集まった、最高の技が観られるのだ。どうしても、応援してしまう自分を払い除ける事は出来なかった。

 

私は色々な戦いを観て感動を貰ったり、残念な気持ちになったり、色んな競技を知ったりもした。もう誰にも結果は分かっている事だし、観たもの全てを書く事は流石に憚られる。これが書きたいとかは特になく、それは時ある毎に思い出せば済む事だし、その方が自分の心に全て共有出来ると思うからだ。

 

ソフトボール、野球、空手の型、卓球、バスケットボール・・。上げれば切がないし、だらだら長くなるばかりだ。

 

ゴルフは長時間だがずっと観ていたので、これは載せて置くのも自分の思い出ともなると思う。

 

稲見萌寧の4日目の後半の追い上げが素晴らしかった。12番ホールから連続4バーディーは並ではない。実力があると心から思った。

 

アメリカのネリー・コルダは、単独1位だった。だが、矢張りゴルフにも思わぬ事が起きる。単独ではなくなったのだ。しかし余裕があるのだろうか、動作にはちょっとした所に苛立ちは感じたものの、表情は淡々としていた。

 

台風10号の影響で、4日目は中止になるかも知れないと言われていた。それが、4日目最終日を迎えていた。最後まで行くだろうと思っていた矢先、最終ホールの1つ前で雷の警報音が鳴り、選手達はクラブハウスなどに避難した。17番ホールの5メートルほど残したバーディーは、18番ホールへの金メダルの為のウイナーズカーペットではないかと思わせられた。

 

ゴルフと言えど自然の中でやるのだから、大雨や強風や雷での一時休止や中止はないとは限らない。今回は黒雲や雷だけなので、解説者は暫くしたら再開出来ると言っていた。それが、全くそのようになったのだ。ドラマチックだなと思わずにはいられなかった。意外と早く再開となった。

 

ネリー・コルダとリディア・コと稲見萌寧の三つ巴の様相を呈して来た最終ホール。稲見萌寧は最終組の1つ前で、先に18番ホールを済ませなければならなかった。2日間は、このホールはバーディーで上がっていた。

 

ティーショットはフェアウエーに運んだ。これなら、2打目がツーオンすれば悪くてもパーで上がれると思っていた。流石に頑張っている。これなら、念願の金メダルは手に届くかも知れない。だが、クラブ選択に迷いがあったのだろうか。グリーン手前のバンカーに入れてしまった。このホールはパー4だから、3打目がカップインすればバーディーだ。だが、グリーンには乗ったものの、カップまでのかなりの距離を残した。パーには僅かに惜しかった。

 

ネリー・コルダーは、いいショットを決め、2打目をグリーンオンとした。これでパーでも後2打ある。それで金メダル確定だ。3打目を、カップ直ぐに転がした。これは楽に入る距離を余裕で残した。最後のカップインでパーとなった。流石の金メダルである。

 

稲見萌寧はリディア・コと同スコアとなり、銀メダルをかけてのプレーオフとなったが、最初の18番コースで早くも稲見萌寧が銀メダル、リディア・コが銅メダルとなった。因みに、5歳からゴルフを始めたリディア・コは6歳でニュージーランドに移住し、ニュージーランド国籍を持している。日本人にも似た所があると思っていたが、韓国系ニュージーランド人で、ゴルフの天才少女と言われていたと言う。1997年生まれで、稲見萌寧は1999年生まれ。とても親しみの持てる、これから益々活躍をするだろう2人であると思った。

 

チャンネルを替えると、女子の体操をしていた。いきなり跳馬を跳んだ女性がいた。何だか少し年配である気がした。案の定、現在46歳だと言う。10代か20代の女子がやるものだとばかり思っていた。年齢の事は納得したが、いきなりで吃驚したのだ。1992年のバルセロナ五輪女子金メダリストだそうだ。ウズベキスタン出身1975年生まれ。チュリビチナと言う。何よりも、その年齢で頑張っていると言う事に感動した。オリンピックは8回目だそうだが、これを機に、隠退意向を表明するそうだ。

 

1人ひとりには、まだまだ色々な驚くような事が一杯あるだろうが、それを聞くためのオリンピックではない。しかし、零れ話として聞かせて貰えると、またその人の事がより分かるのではないか。世界レベルの競技を観るのも凄い事だが、その人を見るのも、人として勉強になる事だろう。

 

競技を観るだけでも、今回のオリンピックでは凄いものを見せて貰ったと思う。今の日本の状況下でなかったら、ここまで応援しながら観たかどうか分からない。少なくともレベルは比べられる筈もないしそんな事をした所で何の足しにもならない。ただ、自分自身に課して今迄自分を作って来た訓練や努力は並大抵のものではない。そのハイレベルの選手の在り方や語り口や人生は、尊敬に値すると思っている。素晴らしい世界を見せて貰っただけでも、うんと得をしたような気になった。

 

同じ地球に生を受けている人間1人ひとりに敬意を捧げたいほど、人1人には、それだけの素晴らしさがある事を思い知らされる。

 

私の大きな走馬燈は、ゆっくり回りはするが、もう反対に回る事はないだろう。終わった。17日間が、あっと思う間もなく、終わってしまった。

 

少し数も減っているようだが、真夏のクマゼミ達の声を残して・・。そして、オリンピックの霞が関カンツリー倶楽部のゴルフコース上では、懐かしいミンミンゼミの声が聞こえていた。こんなに暑い気温の中で、女子選手達は4日間も歩き回っていたのだ。ミンミンゼミの声がどのように聞こえていただろうか。

 

日本でのコロナ禍でのオリンピックが終わった。

横浜の妹から、メールがあった。私は、ビールを飲みながら女子のバスケットボールを観ていた。もう20分もしたら、宇宙ステーションが見られると言うメールだった。久しく観ていないから、外に出て見る事に決めた。午後7時25分から北西に見えると言う。そうして、南東に消えると書いてあった。

 

バスケットは今まで余り関心がなかった。男子のスロヴェニアとの戦いを真剣に観た。それからまた他の競技もあって観る事はなくなっていた。

 

3クオーターになると、差は10点前後に広がった。それでも、まだ逆転は可能な差ではある。3ポイントショットがどちらも良く決まった。あの距離でよく決まるものだと感心する。最大13ポイント差を付けられていた。愈々4クオーターとなって、同点になっては数点離された。85対83となって、時間は後16秒となった。万事休すかと思った時、日本は3ポイントショットを決めた。そして85対86で勝利を得た。こんなスリリングな事があるのだ、と興奮を隠せなかった。

 

24分には外に出た。7時半と言ってもまだ明るい感じだ。北西の方に目を向けた。いい天気だ。空に邪魔をするものはない。雲1つなかったのだ。周りは家で囲まれているが、それでも空は広く見えている。最高の天体ショー日和ではないかと思われた。だが、見えても良い筈のISSは、目に入らない。目がやっと慣れたのだろう。するとポッと動く小さな星を目にした。それからは、ずっと目で追っていた。弧を描くかのように、ゆっくり進んで行った。

 

こんなに長く、家の前で見られる事はなかった。家の陰に隠れるまで、4分は観る事が出来た。体は右に回転し、見えなくなった時それは90度も回っていた。ビールのほろ酔いも、一気に消えた気がした。美しい空への憧れが、また芽生え始めたようだった。

 

卓球男子団体準決勝は始まっていて、ドイツとの最初のダブルスは、惜しくも負けた。後4つシングルマッチが続くが、張本は自分のリズムを取り戻し、勝利した。今9時を過ぎているが、水谷がボルと闘っている。1セットを11対8で取った所だった。

 

NHKで日本と韓国が準決勝を戦っている。卓球を観たり、ちらっと野球を観たりしていたが、野球は2対0でリードしていた。今NHKに戻ったが、ニュースをやっていてチャンネルは替わっていた。6回の裏だが、2対2になっている。韓国とはいつも接戦だ。後3イニングだが、どうなるか分からない。卓球を観たり野球を観たりしなくてはならない。日本が勝てば、決勝戦に進む事が出来る。何とか、金メダルを獲って欲しいと思っている。

 

無職の私でも、やらなくてはならない事があるのだが、なかなか気持ちがそこに入って行かない。やっぱり日本に勝って欲しいと思っているのは、私だけではないだろう。

 

家に籠っている毎日ではあるが、今日は昼前に床屋さんに行って来た。やっぱり、ちょっとはスッキリするものだ。カブトムシのゼリーの餌を交換しているが、中々腐葉土に潜り込んだ2匹は、出て来ない。私が眠っている間にゴソゴソ体を現し、朝が来るまでじっとして餌にしがみ付いている事だろう。成虫になってから2、3カ月が寿命だと言う。まさか、カブトムシの寿命がそんんなに短いとは知らなかった。そう言えば、朝になると元気に鳴いているセミの命は凡そ7日だと教えられたのは、ずっと昔の子供の頃の事だった。

 

野球は8回裏2アウトで満塁になり、山田哲人の3ベースヒットなのだろう、3点が入り5対2となっていた。そうして、そのまま日本は優勝戦に進んで行く事になった。卓球は、2対2となり、最後に惜敗を喫し、3位決定戦が韓国と行われる。今の時刻は、11時20分とTVが表示している。

あと5分で、TOKYO2020開会式をNHKが放映する。もうすぐ、午後8時。

 

オリンピックの開会式が、始まる。1年遅れの・・。

 

色々、言われて来た。コロナのこの時期、止めろ、とか、やれ、とか。皆は、どんな思いを抱いていただろうか。1億2千万の日本人は、どんな思いで迎えただろうか。さあ、NHKは始まった。

 

私は、止めるべきではないかと思っていた。だが、始まった。始まれば、後には引けない。このコロナ禍の中で、よくぞやったと思えるか、何故やったのだと言わずもがなのTOKYO2020。それぞれの立場で、肯定否定が渦巻く。

 

始まると、無観客の中のTVにしがみ付いている私がいた。遣る瀬無い感情でありながら、それは日本で開催されていた。

 

最高の開会式が出来る筈もない。だけど、コロナ禍の中でやれるだけの事をやろうとしていたのだろう。

 

バッハ会長も、天皇も、首相も起立した。ミーシャが君が代を歌い始めた。世界の苦難が、そこに凝集されていた。

 

人々は、立ったまま黙祷をした。パフォーマンスが始まる。こんなパフォーマンスは、今までに誰も見る事のなかった、日本の歴史の一部。華やかな、豪華な望みを絶たれたパフォーマンスは、他に何が出来ただろう。

 

極めて日本の、日本的な伝統。こんな中で、日本の伝統を示したパフォーマンスを、褒め称えている人もいたのではないだろうか。

 

今後のオリンピック・パラリンピックでは、多分このような開催はないだろうと思う。そんな日本がやらなければならない憂き目に出会ったこの世界的な祭典を、誇りを持って次に繋いで欲しい。

 

ギリシャが入って来た。アイルランド、アフガニスタン・・・と続く。イタリアが。インディアが。爽やかな色彩のユニフォーム、ウクライナ。マスクをしていない者は誰1人いない。少数だが、ウルグアイ。遠くから、ようこそ。

エジプトからも。エチオピアは2人。486人は、オーストラリア。バッハと天皇の目は、キラキラしているように思われた。

 

行進は、まだまだ続く。会場が埋め尽くされていたら、随分と盛り上がっていた事だろう。ギリギリまで不祥事等のあったこの瞬間。地味な行進ではあるが、兎に角、開会式が行われる為の行進の入場。50番目が終わり、日本は206番目の入場。まだまだ続く入場行進だ。日本はホスト国。如何に諸国のアスリートを迎えるか。それが、日本の「お・も・て・な・し」である。

 

ケニア、マラソンは強い。コロンビア、三段跳びの女子の強さは金メダルだった。

 

日本での開催は、もう私が日本に生を受けている間にはないとはっきりしているこの祭典。1人ひとりを本当に慈しみたい気持ちにさせられる。生きるとは、こんなに美しく見える事なのか。世界中が1国に集まる事は、更に美しいのだと思う。

 

韓国、台北と続く。タンザニア、右足が義足の女性アスリート。その姿に打たれる。420人の、中国が入場して来る。これだけ多いと、メダルを幾つ持って行くのだろう。24回目出場のチリ。無観客の中、進む入場者。それでも、観客のいない会場は寂しさを感じさせない。ドイツが入場すると、バッハ会長は立って手を振っていた。

 

トルクメニスタンではないが、薄緑色は本当に良く似合う。今年のラッキーカラーではないかと思えるが如く、鮮やかである。私は、何故かこの色で落ち着く。ニュージーランド、216人が続く。バハマは、女子400メートルでは金メダルを獲っている。

 

ブータンが。フランスの後、日本。22時33分。旗手、八村塁。あの、周囲の赤い部分。本来なら観衆で埋まっていた場所。長い長い入場だった。映像の老婆の姿。あの若さで輝いていた頃の姿わ手繰って見る。時はとっくに流れていた。

 

華やいだカラフルな箱が倒され、上空にエンブレムが写り、白色が青色に変わり、真ん丸な地球が・・。地味と言えば地味な、コロナ禍の中で、様々な醜聞もあった中で、開会式は行われた。橋本聖子さんの挨拶が始まった。

 

何が正しかったのか、何が間違っていたのか。そう簡単に答えは出そうにない。始まったばかりだ、コロナ禍の中で。トーマス・バッハ氏の心の中を覗いて見たいのだが、ただ1つ言える事は、彼はその信条を持ち続けた事に尽きる。良否は誰が自信をもって言えるだろうか。話が長い事を除いて。

 

11時14分、天皇のTOKYO2020開会宣言が、ここになされた。日本の国旗の横に、オリンピックの旗が掲揚されて行った。日本で行われる、1年遅れのオリンピック・パラリンピック。鳩の紙飛行機が、会場を舞った。1964年の東京大会から、半世紀が流れていた。

 

3時間半見続けているが、聖火はどこに。競技会場が、次々にライトアップされて行く。上原ひろみさんのピアノ。こんな根性でオカリナを演奏してみたい。無理な事は分かっているけれど・・。

 

ギリシャから宮城県に届いた聖火は今・・。

 

(呼び捨てで申し訳ないが、ブランド名だと思ってご容赦を)。野村忠宏、吉田沙保里が受け取り、長嶋茂雄、王貞治、松井秀喜が受ける。ボレロの曲に乗り、歩む。長嶋茂雄氏は、支えられないと歩けない。医師と看護師が受け継ぎ、パラリンピックの女性アスリートへと渡される。6人の子供が受け、大坂なおみに繋ぎ、彼女は聖火台への階段を上る。11時47分、点火。燃え上がる炎。

 

17日間に渡る競技が始まる前触れである。東京2020は止めるべきだ。そう思っている人も多かっただろう。だが、始まってみると、この世界的イヴェントを是非見たいと思ってしまう。早速昨日も観た。日本とメキシコのソフトボール。3対2で日本が勝利した。だが、最後まで、気が抜けなかった。また、日本対南アフリカのサッカーも観た。久保建英が後半26分にゴールに蹴り込んだ。1対0で、勝利をものにした。凄い闘いを見た。

 

これは、混沌とした世情の中の不謹慎,と言われるのだろうか。