昨日(11日)は、岸和田へ行った。初めてだった。ブログには書くまいと思っていた。だが、他の事をYouTubeで観ていたら、そちらの事を書きたいと思った。私にはまだまだ遠い、人間のあり方に関わる事だったから。

メインになる筈の昨日の事が、決してそうではないのだが、まるで序でのようになってしまった。

岸和田と言えばだんじりが有名で、テレビではその勇壮な姿をよく見かけたものだった。最近になって、だんじり祭のだんじりは9月と10月に2度繰り出される事を知った。

この日、岸和田地域のFMラジオに出演する為に出掛けたのだった。シマさんは相方と2人6月2日に出演済みで、私の助っ人役でやって来た。

三宮から私とシマさんは迎えの車に乗った。そこには唯一女性のパーソナリティーと運転をしてくれるエンジニアがいた。

車は、1時間位掛かって、岸和田に着いた。カフェで打ち合わせをした。緻密なものではなかったが、大まかな話があった。その後6時までには少し時間があったので、車で岸和田のお城の周りをぐるっと回ってくれた。結構立派なお城だったが、その周りにはお濠がある。こじんまりした様相を呈していた。

柳が揺れ、夾竹桃が咲いていた。PCでは観ていたものの、実物とは違った。掌に乗るようなお城と、雄大な実際のものとは、周りの景色や匂いからして異なものに思われた。

岸和田に初めて来た事に感動しながら、目的地の「ラヂオきしわだ」(79.7MHz)のあるビルに入って行った。2階にあった。周りの人に挨拶したりして過ごした。5時から1時間出演していた人達が出て来て、すぐに我々が入って行った。

どこにでもあるスタジオで、TVなどでもよく見るものだった。パーソナリティーのKuさんと、シマさんと私とは向かい合った。それを底辺とした三角形の頂点の辺りに、エンジニアのOさんはいた。CDはすでに預けてある。

シマさんは今回は演奏しないので、三線の事を聞かれるがままに話し、何か相談が来たら答える役回りだった。

1時間の出演で、最初のオカリナを吹いた。伴奏が聞こえないほどに小さい。音を上げて欲しいと言った合図をしたが、それは全く無理だった。もう本番は始まり、伴奏が流れている。私はまるで勘を頼りに演奏した。

伴奏とずれている事も、瞬間何となく分かった。これが岸和田中に流れている。私には聴こえなくても、伴奏とオカリナの音はバランスよく流れているので、そのちぐはぐした音はそのまま明瞭なのだ。途中から私が演奏を止める訳には行かず、そのまま最後まで吹いた。最後の何小節かは吹けなかった。

始まったばかりである。ここで意気消沈しては何のために来たのか分からない。話も半分はあるではないか。次の曲に移った。シマさんが、私の耳にイヤホンを突っ込んでくれた。すると、何とか伴奏が聞こえて来た。音が爆発しそうに大きく鳴っている。この曲が終わってから、音量調節する抓みの説明をしてくれた。

彼は全く助っ人としての働きをしてくれた。私は、お蔭で、慌てる事もなく生き返った。リクエストの曲を流す時はカフのレバーが下され、私達の喋る声は流れない。そこでそんな話を含め、ちょっとした雑談が出来た。私はここで買っていたお茶を飲んだ。

演奏のための5曲を用意し、時間が余ればと更に5曲を用意していた。だが、結果は4曲でぎりぎりだった。喋るのは楽しかったが、初めの曲ががたがただった事と、予定の5曲目が出来なかった事を話したら、「次に来た時その曲を演奏すればいいし、ここから演奏すればいいじゃない」と、予備に入れていた曲を指さした。

終わって皆で写真を撮ったが、パーソナリテイーのKuさんはとっても気を配ってくれた。やさしい心の持ち主で、きっとファンも多いだろうと思った。リアルタイムでメールが入って来ている。素晴らしいパーソナリティー振りで、その言葉遣い、間の取り方、内容、引き出し方に至るまで、勉強になった。

最初の曲の時も、心の中で葛藤しながらも、こんな事もあるのだと言う事が勉強になったし、実際にライブで進行していても慌ててはいけないと思ったし、演奏しながら解決策を考えていた事までもが勉強になった。

後からも、近くの居酒屋でごちそうになったし、再び家まで送って貰ったりもした。三宮まででいいと言ったのだが、甘えてしまった。その後、シマさんも送って貰っている。

先ず書きたかった事は、麻雀の事だ。いつもやっているのではなく、月に1回位かな。勝つ事もあれば負ける事もある。負けが多いかも知れない。だが、YouTubeで桜井章一さんの打ち方を観て、そこに人間の生き方みたいなものを見た思いがした。知る人ぞ知る、代打ちを20年間も続け、現在は雀鬼会を開いている人で、負ける事を知らない所か自在に自分の順位に持って行ける人でもある。

例えば、地域の麻雀大会に自分の孫だったかを連れて出掛けた。孫は10位の商品のおもちゃを見て、それが欲しいと言った。桜井章一さんは、孫の為に優勝などではなくちゃんと10位になって、この商品、ガンダムのようなおもちゃをゲットしたのである。

彼の打ち方には流れがある。決して止まらない。大局観を見極めるのに優れている。これだ、と決めたり拘ったりしない。途中で周りを読みながら流動的に打つ。自分だけが上がろうとしていない。人が上がっても如何に自分の手が良かったかなど関係なかったかの如く、さっさと手牌を崩す。

こんな打ち方をしていると、どんどんいい牌が吸い寄せられて来る。私などとはケタ違いも甚だしいが、これが桜井流の自然体かと思った。勿論技術などは卓越し、超越したレベルにあるが、その上に生き方さえも垣間見える。シンプルであるが変幻自在であり、勝ち負けを通り越した所に住んでいる仙人のような麻雀だ。

今度やる時は、気負いや拘りを持たずに淡々と打ってみたい。ちょっとだけ観たそれを癖と言っていいかどうか分からないが、彼の打ち方から観た事を参考に、私も実践してみたい。

「例えば5筒2枚と6萬2枚で待つより、筒子なら筒子の2枚ずつ、それも並んでいる2枚ずつで待つ方が出易いです。3筒と4筒の2枚ずつとか7筒と8筒の2枚ずつとかの様に。これは両面待ちと同じような感じで待てます」

と言っていた。言ったそのままではないが、そんなような事を言っていた。技術と経験がなみなみと、止まる事を知らずに溢れ出すのであろう。更に、

「この人は体が少しずつ揺れているでしょう。今はせっかちになっていますね。きっと慌てたり、鳴き麻雀になるでしょう」

と言い、どんな小さな動きも見逃さない。人間観察にも、その読みが深かった。

こうして、私には学ぶ事があった。拘らずに心を柔軟にすれば、どんな事からでも学べると思った。


ペルセウス座流星群は今宵がピークらしい。1時間に数十個は観られると言う。月明りもなく、よく見えるそうである。今、見えるだろうか。ちょっくら南東の方角を見てから寝よう。流れ星には、何だか夢がある。
私は帰る、出雲へ、故郷へ。

「一枝の椿を見むと故郷に」。原石鼎はそう詠んだ。それは、「故郷へ」ではなく、「故郷に」だった。今は、出雲の一の谷公園に、それは形のいい石に刻まれている。昭和10年の作で、ご母堂が危篤で出雲に帰った時の句だ。私はその10年後、終戦の年に生まれ、明治生まれの祖母は、原石鼎に師事した。

7月23日の午後3時に、私が運転する車は285キロの道を、出雲に着いた。上の妹(K)に会い、スーパーで買い物を付き合った。それから暫くして、羽田空港から出雲縁結び空港に着く、横浜の下の妹(T)家族を迎えに行った。6時30分着が25分に早まっていた。

この日から4泊5日の滞在がKの家で始まり、私は1人、Tの家族は4人だった。それで、6人での生活が始まった。

23日夜は、誰かが出題し他の者は紙片にそれに関する文章を作ったりして遊んだ。いつもそうだが、2時までは皆起きて、それに加わった。

24日は、私の日だった。小学1年から3年まで担任をして頂いた男先生は、皆が尊敬する島根を代表する書家でもあった。今、多伎町には、もう80歳にもなろうとする娘さんが1人住んでいる先生のお宅を訪ねた。その時の同級生だったU君と奥さんとの3人だが、数年前からお邪魔して飲んだり食べたり歓談したりしている。奥さんは、帰りには運転して貰う為にも、100パーセント大切な人だ。

11時に出雲の商工会館で待ち合わせ、最初はU君が運転する車に乗った。

もう、散らし寿司やあて、またビールなどが用意されていた。私とU君は、早速アサヒスーパードライを飲んだ。U君は蕎麦を打つ。出雲蕎麦は帰ると必ず食べるが、今回は彼の打った蕎麦を食べた。大した腕前である。三段重ねのそれと散らし寿司で、お腹は一杯になった。

話が途絶える事はなかった。先生の書が残されている。素晴らしい書である。

私は先生の娘さんのピアノで数曲童謡や唱歌をオカリナで吹いた。所謂コラボである。それが済むと、いつもだが私がオカリナを演奏する。ジャズは殆ど吹いた事もなく造詣もなく、テンポも無茶苦茶で失敗した。

美しいメロディーの曲を吹いた。それは「My memory」だった。15年以上前の「冬のソナタ」の曲なのだが、今頃になって古く新しい。U君の奥さんは、当時は冬ソナにはまっていたみたいで、懐かしく聴いて貰った。

アカペラでは、松尾和子の歌う「再会」を吹いた。娘さんは口遊んでいたが、カラオケでも歌うそうだ。

そうこうしている内に5時が過ぎた。5時間もいたが、何故か気の置けない4人だった。帰る頃もクマゼミが鳴いていた。

6時に別の3人と会う約束をしていたが、私は結局30分遅れてしまった。それでもD君は、高校生の時親しくなった男だ。Ko君と3人で7時に閉まってしまう喫茶店で会った。店主は、よく利用するD君を知るよしみで、7時半前でも何も言わなかった。

D君の車で、Ko君と私はスナック輝子まで送って貰った。彼は体の調子が悪く、そのまま帰った。

魔女会を立ち上げていて、女性は2月に1度は会っているそうだ。その女性はママも入れて今日は7人が来ていた。男は付け足しみたいなものだが、それでも歓迎してくれる。毎年、必ずここに来る。皆、小学校時代の同窓生だ。ママはいつも帰ってくると、「おかえり」とと言ってくれる。

11時までいたが、誰だったか覚えのない男が2人いた。その中の1人が、自分が酔う前にオカリナを吹いて欲しいと言った。ラジカセも持って来ていたので、伴奏付きで吹く事にした。アカペラも含めて3曲吹いたが、アンコールがあった。ないより嬉しい事ではあるので、それにも応じた。彼は、とても喜んでくれた。暫くして、余りよく知らないその男2人から、CDが欲しいと言われた。普段の演奏では中々求めてくれないが、今回は、自ら要望されたのだ。

こんな時に限って持って来ていない。今度、と言ったが、それは1年先の事になる。彼らはそれでも欲しいと言ってくれるだろうか。喋ったり、カラオケを歌ったりして私は帰る事にした。妹達やその家族が待っているし。

カラオケは下手糞で、もう歌いたくなかったが、何曲か曲を予約されていた。「昴」や「横浜たそがれ」が。最後にもう1曲歌った。「江梨子」・・。

25日は、大田の近くの「AQUASしまね海洋館」に行った。片道80キロはある。

観るべきメインは、白いイルカとペンギンだ。親イルカは怪我をしていて、イルカの子供たちが代打。あんまり言う事を聞かなかったが、何とかバブルリングを観る事が出来た。ペンギンは種類も多かったが、箱の中で卵を育てているのもいた。暑いのか、皆じっとしていて、哀愁を感じた。すぐに携帯に収めた。

後は海に行ったが、暑くて皆泳ぐ気がなかった。駐車場も浜に面していて、おじさんが、泳ぐかどうか聞いて来た。泳ぐのなら、駐車代は1,000円との事だった。泳がなかったら駐車料は要らないと言った。暫く海を見て、そこを出た。

帰ると私がうどんを用意した。出汁を入れるのと入れないののどちらかを聞いて、それに合わせて違ううどんにした。昨日の横浜の妹Tが作ったカレーのルーが残っていて、皆はそれも食べた。私は貰って帰っていたビールも飲んだ。

寝不足が続き、早く寝る事にした。それでも0時は回った。悠介は朝まで起きていた。エレキベースのプロだが、仕事でスペインに行くので、その準備をしていた。車では、ずっと眠っていた。男たちが起きて来るのは10時は必ず回っていた。私は6時には起きていた。

26日は、墓参りと墓掃除をした。と言っても草抜きだが、なんと燃えるような暑さが実感された。堪らない。数分も持たない事を感じ、素早く草を抜いて、お参りの後退却した。

それから、出雲大社にお参りした。本殿の後ろもぐるっと回り、6月17日に6年ぶりに付け替えられた注連縄を見に行った。長さ13メートルを越え、重さ5トンを超えた。新しく、美しく、稲の匂いがした。

それから、日御碕神社へ向かった。天照大神と素戔嗚尊が祀られている。朱にぬられた神社は美しく、軽いショックを与えてくれる。暑いので、すぐそこにある日御碕灯台には行かなかった。

島根ワイナリーへ行き、試飲の葡萄酒は止め、運転する私は、葡萄汁を飲んだ。その後、皆お土産を買っていた。私はその日飲む為の赤ワインを買った。

もう寝不足は限界だったので、夜はほんの少し遊んで、寝た。私が最初出題した。文章を作る問題だ。

「トンネルを抜けると、そこは・・・」

と言うと、その後を自分の思うように続ける。私だったら、

「トンネルを抜けると、そこはトンネルの外だった」

と書いただろう。

次の日は最終日。妹のTは、盛んにジェット機が飛ぶか心配をしている。台風12号が、東海地方から西日本に上陸する予定なので、27日に飛んでも、羽田空港に着陸出来るか分からない事を心配していた。出雲は、台風らしい風はなかった。

27日は、何もしないで過ごした。朝昼兼用の食事をした。私が食べたいのは3種の神器と呼んでいる、牛肉の甘辛煮、玉子焼き、茄子のみそ炒めだ。24日の朝、それは3種とも食べる事が出来た。私はそれでもう満足だった。

27日は肉こそなかったが、茄子のみそ炒めは、これ以上食べられない程の量を食べた。また、来年を楽しみにしている。

夕方5時半に家を出た。出雲縁結び空港に横浜組を送りに行った。2階の土産物店で、それぞれが好きなものを買っていた。暫くすると、横浜の4人は、搭乗待合室へと入って行った。私と妹Kは、離陸がそこに見えるデッキに行って、飛ぶのを待った。ジャヤンボのように大きなジェット機が待機している。7時20分の離陸だが、5分遅れると言う。

直接ジェットに繋がる通路で、爪先立つ私とKに見える所で手を振っていた。滑走路を右の方にゆっくり進むと踵を返し、左側に向かってスピードを上げた。私達の目の前を通過すると、すぐに機体を空に向けた。あっと言う間に空を旋回し、軈て見えなくなった。

妹Kと回転ずしを食べに行って、帰ると11時までいた。そして、暗い夜中の道を、神戸へと走った。SAで少し眠っては走った。勝央では、外に出てプラスティックの白い椅子に座り、空を見た。あれだけ綺麗でくっきりした真ん丸な月が雲に隠れ、朧月のように見えた。3時半から観ていたが、ぼやけた中でも半分になった事が分かった。4時30分には、皆既月食になる筈で、月の影は何処にもなかった。

4時頃になっても、月は姿を現さなかった。仕方なく車を動かし、そこからは、神戸はより近くなった。

28日はもう明るい朝になり、神戸の家に着いたのは6時40分だった。出雲への行き帰りとアッシー君で、体がぐったりしている。横浜組は、SAに居る時にメールをよこし、無事に飛行場に着いたと知らせて来ていた。

今日はグダグダしている間に、すぐに夕方がやって来た。U君から貰った日本酒「七冠馬」を飲んで見た。純米酒だが、何て口当たりがよく飲み易いのだろう。

それにしても七冠馬とは。


酒名「七冠馬」の由来

日本の競馬史上で二十世紀最強の牡馬と称される七冠馬「シンボリルドルフ号」。昭和五十九年、四歳クラシックレースの皐月賞、日本ダービー、菊花賞と史上初無敗での三冠を達成。同年のグランプリ有馬記念を制覇し四冠(年度代表馬)。翌年、六十年には天皇賞(春)、ジャパンカップ、二年連続有馬記念制覇(二年連続年度代表馬)と、G I(グレードワン)七冠を達成した名馬。この名馬のオーナーブリーダーであるシンボリ牧場主と蔵元が親戚になった縁により、銘酒「七冠馬」が誕生しました。 蔵主

島根県仁多郡奥出雲町横田1222  簸上清酒合名会社


出雲大社には第1回日本遺産「日が沈む聖地出雲」として、出雲の歴史、文化、自然景観を詠んだ俳句の募集の用紙があった。1人2句までだが、後で写真をみて驚いた。選者がプレバトの夏井いつきさんだったからだ。ならば、考えてから出せばよかった。その場で、即興的に考えたから、そんなものは入賞する訳がない。

もう忘れてしまおう。ずっと頭にしまい込んで思い出していても、来年の3月下旬まで頭が重いだけだ。妹Tがすぐに書き出したので、私もつられてしまった。賞は特選3句、入選10句。商品は日御碕の特産品なのだ。まあいいさ。参加するのに意義があるのだと、かのクーベルタン男爵は仰っていたのだから。

5日間なんて、すぐに終わった。
中学2・3年生程度の英語なので何とか分かるのですが、皆さんは楽々でしょうね。何の英語か察しがつくと思います。先ずは、読んでみて下さい。

This is for Denis...This is the only things I could do...As a skater, as a friend, to not forget him...You will live in our heart forever...Miss you and love you...And thank you for everything what you done and showed us your passion, heart, fight, smile...I am really lucky to had you in my life. Rest in Peace...

スケーターとしてできること...これしかない...デニスへ想いをのせ...同じ空の下...ありがとう...デニスに出会えた事は本当に幸せです! 安らかに...

スケーター安藤美姫の言葉だ。これだけで込み上げて来るものがあった。やさしい英語だったから、英語からも感動した。しかし、彼女は上下黒の衣装に身を包み、リンクに立った。アメイジング・グレイスに合わせて、現役さながらに滑った。涙が溢れて来た。

デニス・テンは、サイドミラーを盗もうとしていた2人組に注意して、太腿を刺された。病院に運ばれたが出血が多く、遂に帰らぬ人となった。25歳は余りにも若過ぎる。ソチ五輪では銅メダルを獲った世界的なスケーターだった。

安藤美姫の直向きな追悼のスケート。自分の気持ちを一番示せる行動を取った。何と素敵な滑りだろう。デニス・テンへの最高のパフォーマンスだった。私は涙が流れた。泣けて仕方がなかった。涙脆くなったと言うのとは、少し違った気がするのだが。

サイドミラーと命との重さは比べようもない。まさかの事件だった。


別件を付記するが、哀しい出来事に反して、御嶽海の14日目での優勝は感動的だった。

「どんな事が頭を巡りましたか」

そこで、彼は目頭を押さえ、暫く無言で必死に涙を堪え、そして泣いた。

「緊張したんですけど、優勝しなければと言う感じになって・・。何とか勝てました」

感極まって泣いた御嶽海には、色んな思いが巡ったのだろう。

私はインタビューの受け答えや優勝が決定してからの彼の微妙な動きから、優しくて、謙虚な人柄を感じた。自分の事のようにドキドキしていた彼の優勝を喜びたいが、明日は、豊山に勝って、有終の美を飾って欲しい。


送って来た木の箱の中には、地味な金色の布に丁寧に寝かされた焼酎が紫の紙に包まれ、それは赤い紐で結ばれていた。

最高級本格芋焼酎。紫色に銀色で印刷された文字は動かすと不規則に光り、とても読み取り難い。すっぽりと焼酎の瓶を抜き出して、あちこちに角度を頻繁に変えながら、読み取ってみる。

特別限定品。杜氏蔵座幸一作。黒麹初垂れ。細かい文字は肝心な所だけ書き写す。使用米:熊本県産米。使用水:球磨川伏流水。蒸留:常圧蒸留。アルコール分:42度。内容量:720ml。醸造元:常楽酒造株式会社。

この初垂れ(ハナタレ)は醪を蒸留する過程で最初に取り出されるもので60度を越えていて、それを水を加えて42度にしてある。以前は杜氏などが飲む希少なものだった。今は、これを市販されたものを、私は受け取った。

720mlだから飲み出せばすぐに空っぽになってしまう危惧があった。何と言っても初垂れは気楽に飲める程安価なものではない。少なくとも、自分で買って飲める事能わぬ代物だ。

すぐになくなると言ってしまったが、それはとんでもない。同量の日本酒ならすぐになくなるとは思う。今温存している「出羽桜」はまだ飲まないでいる。アルコール分17度だから、すぐになくなるのが勿体ないからである。だが、さっき飲んだこの「黒麹初垂れ」は42度。途轍もない度数だ。

元来少ししか飲めない、私は所謂下戸なのだ。小さなグラスに注いで、口を付けた。口の中で、交響曲が響いた。今までの芋焼酎にはない、刺激的な味わいで、喉を過ぎる時に喉が焼けそうな感覚もある。独特な香りがあり、それは口の中でも、喉を通る時も、はっきりした濃さがある。飲んだ後、すぐに水を流し込んだ。

沢山飲めるものではない。これなら、きっと長く飲めると確信した。もう少し飲めるとは思ったが、昔の事が蘇った。あれは仲間と三宮に沖縄読谷村の姉弟が出した沖縄料理を食べさせてくれる店に行った時の事。少し値段が高かったが、10年ものの泡盛の古酒を飲んだ。初めての事だが、それは43度だった。フルーティーなものだから、私の飲酒能力を超えたのだろう。立とうとしたが、足がよろけて立ち上がれなかった。

ウインブルドン準決勝がナダルとジョコビッチの間で戦われている。拮抗している。が、もう少しで、決着が付く。それが終わると、今度は女子、アンゲリク・ケルバとセリーナ・ウィリアムズとの決勝戦が行われる。観るべきか観ざるべきか。寝る方が得策だろう。時間が微妙だし。明日は眠くては拙い。

ちょっとだけ、女子の戦いも観たい気もする。そして、もうちょっとだけ、この偉大な味の初垂れを口に含んでみようかと思う。そして、時間を見計らって、酔いの中で床に入ろう。「初垂れ」と道連れも良いではないだろうか。


先週の日曜日は卓球をしに出かけた。いつものようにね。10時から12時までなんだ。コープは色んな教室を運営しているが、僕は卓球教室を選んだ。

30年は経つが、その頃が立ち上げの頃で、4、5人いたかな、新入会生が。僕は下手でなかなか上手くならない。教室と言っても狭い部屋に卓球台が2台。これ以上狭かったら事故続発だろう。でも、選手権を争うような選手を養成するようなものとはま反対で、指導者はいたが自分に取っては楽しむか健康の為かと思えるものだった。

入会するまで、10年位は職場でやっていた。でも、それはピンポンだった。ピンポンと言うのがレベルが低いと言う事ではないが、卓球と言う方が、何だか響きがいいし上手い気するし比較し易い。

まあ卓球と言うものを始めてから、僕は42年位が経ってしまった。未だに上手くならないが、もういいや。市や県の大会なんかには当然エントリーなんてしないんだから。仕事の現役の頃は、月に1度も通っただろうか。でも今は、殆ど毎週、せっせと通っている。そりゃあ暇だしね。先生は上手いし、一生懸命指導してくれる。

大事なのは、先生と気が合うかどうかが問題なんだ。最近先生が交替したが、半分真剣に、半分楽しみながら練習出来る。1人10分で交替になる。指導には1台が丸々使われる事が殆どで、それ以外の者はもう1つの卓球台を斜めに使いながら4人が練習する。出席が多い時は、先生の指導の台で、2人が斜めに使って練習する。

教室生は現在14人いる。そして、先週1人が体験教室に入って来ていた。僕より早く来ていて、誰だろうと思っていた。その日は7、8人位の出席だったと思う。余りにも若い男性で、僕は普通に接していた。この日でもう来ないだろうと思ったから。真剣に強くなろうと思ったら、きっと僕だって卓球ジムに通うだろう。事実30年くらい前に三宮の東、二宮のジムに通った事がある。

そこは、何回か通って止めた。指導者は兵庫県のチャンピオンだった。月とミミズだ。絶対上手くなるだろうと思った。だが、数十分外を走り、縄跳びを500回以上は跳び、それから練習と言う本格的なものだったから、僕はいっぺんにダウンしてしまった。上手くなりたい癖に、実力はピンポンだったからね。

この日、おばちゃん達はテンションが上がった。この男の子は、とっても可愛らしかったからだ。皆中学生か高校生に思っている。僕もそれ位に思った。だが、それは違った。大学を卒業して、入社1年目のフレッシュマンだったのだ。年齢は22歳だ。即座に僕は、テニスの錦織圭を想像した。まるで兄弟ではないか。そんな気がした。

最後までおばちゃん達のテンションは下がらなかった。私は最初に彼と10分間打ち合いをした。ドライブが上手い。Ta君は形が出来ている。フォームも美しい。私は出来るだけ綺麗に打ち返すように努力した。最初から癖のある汚い卓球をする爺さんだと思われるのも問題だからだ。自分ではそんな事ちっとも思わないが、私の球が上手く受けられないとすぐに「汚いわ」と言う。でも、それは愛情表現だろうと、割り切っている。

卓球は学校時代にやっているなと容易に思われた。体験教室に来たのだが、この日で終わるだろうと思った。私のような遊びには付き合っておれないだろうと感じていたからだ。兎に角、先週の2時間はそんな風にして過ぎた。

錦織圭の顔が過ぎて、それから1週間消えてしまっていた。


今日は後半の最初の日を迎えた。7月1日の日曜日だった。何事もなかったかのように普通に卓球の練習に出かけた。数人が来ていて、華奢な若い女性が後ろ向きに、先生と何か話し合ったり、卓球台の上で書類に記入したりしていた。誰だろうと思ったくらいだから、女性だと思っていた。

それが何と先週来ていたTa君ではないか。今日からこの教室に入る事になったと、先生が言った。これは信じがたかったが、何を基準に彼は決定したのかは分からない。僕たちの年齢は高かったからだ。始まる前に彼は来ていて、今日も1番だった。つまり、張り切っているのがよく分かった。

4、5人は来ていたが、「今日は少ないね」と誰かが言った。最初はいつもこんな状態だから特別でも何でもない。準備体操は先生と一緒にするのが常だが、Ta君とは話が続いているので、自分達で号令をかけながらラジオ体操を始めた。終わってから、少しずつ出席者が増えて、最後には全員が集まった。1人の70代後半の男性は体の調子が悪く休んでいたが、それを除くと全員が集まり、こんな事は前代未聞だった。

それで、会員は15人となった。おばちゃん達は見る見るテンションが上がり、明るい笑顔に変身した。平均年齢もうんと下がり、若返り、歓声で華やぐ。今になって予測するのだが、きっとこの22歳の好青年が今日来てくれるかどうかが気がかりだったのだろう。僕はそんな事考えていなかったのに、おばちゃんはやっぱり若さに反応する。次から、1桁の出席率は2桁への昇格を見せるのではないかと、僕は思った。

Ta君がどんな基準でここに来ることにしたかは聞いていないが、聞く事もない。大学ではやっていないとは聞いた。戦型の事もラバーの種類の事も聞いた。彼は、小学3年生から始め、高校3年までやったと言った。もう会社員であれば、ひょっとして楽しむ程度を求めて来たかも知れない。

最後は先生が、彼の正式入会を紹介した。皆拍手をした。何だか、喜びと安堵との歓迎の拍手だった。僕も、心から歓迎した。錦織圭に似ているのがとっても楽しく不思議である事も、大きな理由だった。

「僕と彼とは50歳も違うよ」

と僕は言った。かなり年齢の高い孫とも言えるし、若過ぎる息子だとも言えた。

「私はもっとよ」

と僕より年齢の上の婦人が言った。

「恐れ入りました」

と言うほかはなかった。これも「水戸黄門」の悪代官の台詞そのものだったのだ。

遊びプラス、次からは本気度が増していく予感がした。どうせやるなら、強い者とやるのも大切だし、生活への変化も大切だ。僕はそんな事を思いながら、卓球のユニホームを着たまま、少し違った気持ちで家へと向かった。

たった2台の狭い部屋の卓球台。1台に4人。先生のいる卓球台は2人。今日のような日には4人。多くて8人が練習する。奇跡的に全員出席となれば16人だ。残る8人は球拾いをして歩き回るかその辺に立ったり座ったりしている事になる。球はどんどんあちこちに広がって行くから、球は魚掬いの網を床に走らせて拾う。この網の事、昔はたもと言ってたっけ。

掬った球を先生の横の箱に入れる。沢山あるようだったら、もう1台の横の箱にも入れる。それよりも何よりも、遊ぶ人が多くなる。6、7人位が理想だが、疲れた時が困る人も出て来よう。こんなに多い時は11時前からダブルスの試合をして楽しまなければ面白くない。

まさかこれから、15人全部が集まる事はないとは思うが、それでも生協の1室に集まるおばちゃん達は当分張り切って盛況な事だろう。若さがこれだけ人の心を惹き付けるものだとは。今頃気付く僕ではある。爺ちゃんの僕でも若さを保ちながら、この本物の若さに肖ろう。そう思う僕だったんだ。