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Ty Hassyの敢えてwokeなブログ

弱い者いじめ、差別主義、排他主義、民族主義、排外主義的愛国主義、独善主義に断固反対し、今の社会の在り方や世界観や生き方に、ちょっとだけ新たな視点を提示するブログです。

幽霊、見たことある?

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 誰が決めたのかは知りませんが、今日は幽霊の日だそうです。
 幽霊と言うと怖いものと相場が決まっているようですが、よく考えればおかしな話で、幽霊に殺された人など殆ど聞いたことはありませんが、生きている人間に殺された人は毎日のように報道されています。
 そう考えると、やっぱり幽霊よりも何よりも、生きている人間が一番怖い訳で、幽霊など怖がる必要は全くないことが良く分かります。
 ただ、幽霊がいるという事自体のなんとく訳アリ感が不気味なのだと思います。
 僕は何故かいわゆるシンクロ体質のようで、姿自体は見たことはありませんが、思いを残して亡くなられた方の気持ちと共鳴してしまうので、そういう方が頼ってこられると、納得してご満足頂けるまでのしばらくの間、心の中で同居してしまうことがしばしばあります。
 ある時などは、初めての所に行った後のこと、夜夢を見て、何故だか自分は道端の地面の中に埋もれているのですが、沢山の人が通っていくのにもかかわらず誰も自分の事を気付いてくれず、何とか誰かに助けてほしいのに、その望みも空しく、とてつもない孤独感と絶望感で苦しんでいる夢を見ました。
 あの孤独感と絶望感は目が覚めてもはっきり覚えているほど鮮明で、自分自身の人生でもあのような感覚は味わったことはもちろんなく、そのような日頃自分が味わっている喜怒哀楽の感覚とは、全く次元が違うというか、けた違いに絶望的な感覚なのでありました。
 この世の中にあれほどの孤独感や絶望感が存在していること自体に愕然としましたし、もし万が一あのような孤独感や絶望感を実際に味わっている人がいる、あるいは、いたとしたら、そのこと自体が僕にとっては同じ人として耐えがたいほどでした。
 しかし、実際にあの夢を見て、あのような想像を絶する孤独感や絶望感を僕自身が体験してしまったということは、誰かが実際にそのような思いしておられたということであり、その思いに僕が共鳴してしまったとしか考えられなかったわけであります。
 よく言われる地縛霊という人々は、おそらくこのような気持ちで居られるのかもしれないと思うと、本当に気の毒で気の毒で、彼らの気持ちを考えただけで涙が溢れてくるのでした。
 その後、その僕に頼ってこられた方に関しては、もうお気持ちは良く分かりましたし、お一人ではありませんので、大丈夫ですとお慰めして、思い残すことがなくなるまで応援させて頂いた結果、すっかり気も晴れて行くべきところに行かれたようです。
 生きている間であれば、誰かに助けを求めることもできますが、何らかの事情でそのような状況で死んでしまった人にとっては、自分ではどうすることも出来ず、かといって誰かが助けてくれるわけでもないので、その状況自体が絶望的であるし、ただひたすらに絶望感と孤独感が増していくばかりなのだとおもいます。そして、何とか誰かに気づいてもらいたくて姿を見てもらおうとすると、幽霊だと言って、怖がられるだけで、中には面白半分に見に来る奴も居たりで、ますます絶望的になっていくのだと思います。
 たまに居る僕のような彼らの気持ちとシンクロする人間を頼りにするしかないのだと思います。
 ということで、今日は幽霊の日という事ですが、今後は皆さんも幽霊を見ても、やたら怖がったり嫌がったりすることなく、思いやりのある気持ちで、早く行くべきところに行けるようになりますように!と冥福を祈ってあげて頂きたいと思います。
 あのトランプ氏がついに共和党の大統領候補に指名されました。
 しかも、新たに提示されたトランプ氏の政策綱領は、従来のトランプ氏の政策に加えて、共和党右派の徹底した小さな政府政策やキリスト教原理主義に基づく政策を大幅に取り入れたものになっています。
 元々トランプ氏は、グローバル経済によって海外へ労働拠点がシフトし、アメリカ本土での労働条件の悪化による賃金の低下と、それに加えて、移民の増加による雇用機会の減少でダブルパンチを受けたアメリカの白人労働者階級の不満と鬱憤を汲み取って過激な表現で彼らの気持ちを代弁することによって圧倒的な支持を得て来た人です。
 それに対して、共和党右派のいわゆるティーパーティーと言われる運動を支持している人達は、中流以上のいわゆる勝ち組の白人たちが中心で「俺たちの払っている税金を落ちこぼれの連中を救済するために使うな!」というのが主な主張です。
 彼らは「落ちこぼれの連中は怠け者だから落ちこぼれるのだから、そんな自分で保険にも入れないような怠け者達の為に、なんで俺たちが払った税金を使う必要があるのか?」と、オバマ政権の国民皆保険制度にも断固として反対しています。
 元々、共和党は社会福祉など国家が国民の福祉の為にお金をつかうことには消極的で「国の福祉などに頼らずに、皆自分でなんとかすればいい!」といういわゆる勝ち組の発想を党の方針としています。
 そして1980年代の共和党のレーガン政権から始まった社会福祉や労働者の保護の為の法律を徹底的に撤廃し、企業活動の自由度を最優先した政策によって、企業は生産拠点を安い労働力が得られる所に移し、企業の収益は、国内の労働者には還元されずに、企業の株主のみに還元されると言う現在のシステムを作り上げるに至った訳です。
 その結果、世界中の労働者の給料は下がり続け、それに反して、世界の富の半分をわずか1%の人々が独占する現在のゆがんだ状況が生まれてしまったわけです。つまり、一部の人達にのみ富が集中する経済的独裁主義のシステムが出来上がってしまったという事です。
 そのような状況に不満を募らせたアメリカの白人労働者階級の人達が、グローバル経済に反対し、アメリカの企業はアメリカで生産することを訴え、しかも、その仕事は移民にさせるのではなく、自分たちにさせろ!と主張し始め、その思いを代弁してきたのが他ならぬトランプ氏だったわけです。つまり、経済的独裁主義に反対して、経済的民主主義を主張し始めたわけです。
 ということは、共和党右派のティーパーティの支持者たちである勝ち組の白人達からみると、トランプ氏の支持者たちは言わば落ちこぼれであり、彼ら勝ち組白人達はグローバル企業の膨大な収益の恩恵を受けている人達も多いため、その活動に不利になるような一国主義や高い労働力雇用の強制には、反対の人達が多いはずです。
 そのような、全く違う主義主張をもった人達が大統領と副大統領候補としてタッグを組むこと自体が本質的に無理があり、しかも政策綱領自体が互いに矛盾した要素を含んでいるため必ず破たんすると思います。
 さらに、先のトルコ編でも触れましたように、イスラム教の原理主義というものがあるのと同様に、キリスト教にも原理主義というものがあり、彼らキリスト教原理主義の人々が共和党の大きな支持母体となってきました。
 彼らキリスト教原理主義者の人々はキリスト教の教えが政府の政策にも反映されるべきであると考えており、具体的には堕胎と同性愛には絶対反対であり、その方針は今度のトランプ氏の政策綱領にも色濃く反映されています。もしトランプ氏が大統領になると、アメリカでの堕胎は違法となり、同性愛同志の結婚もすべて違法となる可能性もあります。
 本来、トランプ氏本人は原理主義者でないはずでしたが、アメリカのキリスト教原理主義者の数は膨大であり、今でもアメリカの中南部に行くと人類が猿から進化したなどと言おうものならたちまちに村八分にされるほど影響力が絶大なので、トランプ氏も彼らの意見を取り入れる方が得策であると考えたものと思われます。
 このように従来のアメリカの大統領選挙では、共和党が、勝ち組で経済的自由主義(独裁主義)者とキリスト教原理主義者が支持母体で、民主党が、経済的民主主義者と政教分離の世俗主義者が支持母体という構図がここしばらく続いてきたのでありますが、今回は共和党にねじれ現象が生じており、負け組の経済的民主主義者で排他主義者達と勝ち組で経済的自由主義(独裁主義)者とキリスト教原理主義者が混在する非常に無理のある組み合わせとなっている訳であります。
 いずれにしても、もしトランプ政権が誕生すると、色んなことがしっちゃかめっちゃかになっていくことは目に見えています。
 また、トランプ氏はあまり物事を深く考えずに思いつきで発言することが多いため、彼の口から出まかせがひょんなことから多くの人に支持されて、彼自身もコントロールできないまま独り歩きし始めることも十分にあり得るように思われます。
 ヒットラーの狂気があれほどまでにドイツ国民に熱狂的に支持されたのは、当時のドイツ国民に、とてつもない鬱憤と不満が溜まっていたからです。それは、今日のトランプ氏を支持している白人労働者階級の人達の状況と酷似しています。
 一時的な勢いで選ばれてしまった国家の指導者が世界中を恐怖のどん底に陥れる歴史は既に見てきたはずですが、その教訓から何も学んでいない人類はもう一度同じ道を歩もうとしているのかもしれません。
 先日、トルコでクーデター未遂事件が起こりました。
 トルコと言えば国民の99%がイスラム教徒なのに政治体制は世俗主義を貫いてきたことで知られています。
 イスラム教は、基本的に個人の生き方を教えるだけでなく、社会制度の在り方まで規定しているため、本来なら政治経済もイスラム法に則ったものでなければ完結しないという特徴を持っています。
 そのような個人の生き方から社会制度の全てにわったってイスラム法に基づくべきであるという考え方は本来のイスラム教そのものなのですが、個人の生き方はイスラム教に基づくにしても社会制度は宗教的理念とは切り離した制度にしようというのが世俗主義と言われ、これまでのトルコ政府はその路線を踏襲していました。
 それに対してイスラム教の原理原則に従うことを徹底すべきであるという考え方をイスラム教原理主義と言いますが、今のイランやサウジアラビアなどはイスラム教の原理主義で政教一致政策をとっている国です。
 従って、イランやサウジアラビアでは今でも犯罪を犯したらイスラム法によって裁かれ、刑罰もイスラム法で定められた刑が処せられることに成っています。
 ただ、同じイスラム教でもイランはシーア派ですが、サウジアラビアはスンニ派で、その宗派対立を表向きの理由として、両国は覇権争いをしており、それに欧米・ロシアのなどの大国の思惑が絡んで、その代理戦争をシリアやイラクでしているうちに、その空きにイスラム国が台頭して来て、もう誰が味方で誰が敵か分からないような混乱状態に陥ったのが今の現状であると言えます。
 そういう中でトルコは、ムスタファ・ケマル・アタテュルク以来半ば独裁的に世俗主義政策をとってきたわけであり、以来、軍が世俗主義の番人として、民主的な選挙でイスラム系の政党が勢力を伸ばすとクーデターを起こして、抑え込み、1982年には憲法で世俗主義を標榜するようにもなりました。
 その後も、選挙の度にイスラム教政党が力を付けると軍が横やりを入れてきたと言う経緯がありました。
 しかし、トルコにおけるイスラム教政党と言うのは上記のイランやサウジアラビアのような原理主義政策を訴えている訳ではなく、イスラム教精神に則った福祉政策や貧しい人々の救済措置を訴えるなど基本的に穏健派で、民衆の要望に沿った政策を標榜しており、特に貧しい人々に人気があって、選挙をする度に多数派を占めると言う傾向が続きました。
 そして、ついに2010年9月には、1982年に制定された憲法が、軍や司法当局に強大な力を与えすぎているとして、もっと国会や大統領の権限を強化することを主眼とした憲法改正の国民投票が行われ、賛成多数で可決されました。
 当時、首相であったエルドアン氏は、その後2014年8月には大統領に就任し、今度は逆にエルドアン大統領の権限が大幅に強化されるようになり、反対派からみれば独裁的であるとして、今回のクーデターへと繋がっていったのだと思われます。
 つまり、今回のクーデターは、2010年の憲法改正によって大幅に権限が縮小された軍や司法当局の不満分子が結束して巻き返しを図ったのと、イスラム教政党内部での主導権争いも絡んで起こされたように思われます。
 今回の事件では様々な情報が飛び交っており、何が真実なのかよ良く分からない面もありますが、大きな流れで見れば、世俗主義政策を始めたアタテュルク以来の政権は半ば独裁的に政治を推し進めてきたわけですが、民主主義的な選挙をする度に、イスラム教政党が伸長し、それを軍部が抑え込んできたのを、ついに抑えきれなくなって、民主主義的に憲法が改正され、軍と司法の力が縮小されて、その後、現エルドアン大統領の権限が大幅に強化されたのを機に、反エルドアン派と権限が縮小された軍と司法の不満分子が反旗を翻すに至ったと見るのが無理のない解釈だと思います。
 ということで、今後、エルドアン大統領がこの機に乗じて反対派を一掃して、逆に独裁的になっていくのか、あくまで従来通り、EU加盟を目指して、民主化政策を推し進めていくのかが見極めどころであると思います。
 フランスのニースで、またもやISのシンパを自称する半ばやけくそになった移民フランス人による無差別テロが行われ100名近い尊い人命が奪われました。
 やはり、こうなってくると、イスラム教徒達自身が言っているように、彼らはイスラム教徒では無くイスラム教のイメージを損ねる為の国際的な陰謀の手先なのだと言う話が信憑性を帯びてくると思います。
 今の彼らのやり方は、どんな手を使ってでもいいから、とくかく沢山の人を殺せばいいというだけであり、そんな悪魔のような所業を重ねれば重ねるほど、世界中のまともなイスラム教徒は支持する訳もなく、支持するのは世界中の心の闇を抱えたとてもイスラム教徒とも呼べない連中ばかりであり、そういう連中を使って、あえて大多数のまともなイスラム教徒の支持を失うような所業を重ねるという事は、彼らの動機がイスラム教の発展の為にあるのではないことが徐々に明かになってきていると思われます。
 あるいは、ISの幹部達自身が元々敬虔なイスラム教徒では無く、フセイン政権の秘密警察の生き残り分子を中心に結成されたため、始めから政治戦略しか頭に無く、イスラム教は名目に使っているのに過ぎないのかも知れません。
 いずれにしても、意図的であれ、結果的にであれ、今のISのやっている事が徹底的にイスラム教の名を汚していることは確かであり、もし本当にそうすることを目論んでいる勢力が居るとすれば、ISは知ってか知らずか完全にその片棒を担いで居ると言えそうです。
 ISのせいで、世界中の敬虔なイスラム教徒達が世界中の非イスラム教徒達からの偏見にさらされて肩身の狭い思いを強いられる事になるのであり、そう言う意味では、ISは一見欧米の敵であるかのように見えていますが、実は世界中の敬虔なイスラム教徒にとっての最大の敵なのかも知れません。
 来月ブラジルのリオでオリンピックが開催されます。日本からも観光を兼ねて見に行く人は少なくないと思います。
 ただ、リオの治安の悪さは大変問題になっており、テレビなどでも良く報道されているのでご存知の方も多いかと思います。
 しかし、一体どれ程治安が悪いのか、安全な日本から想像するのには限界があると思います。
 例えば、日本で強盗に襲われたりひったくりに会った事がある人は100人に1人も居ないと思いますし、ひょっとすると1000人に1人も居ないかもしれません。
 それがアメリカなら恐らく50人に1人ぐらいかもしれません。アメリカは危ない地域と安全な地域がはっきりと分かれているので、危ない地域にさえ行かなければとても安全です。
 所が、ブラジルは、僕の知り合い50人位に聞いただけでも、そういう目に会った事がない人が1人も居ません。誰でも最低2~3回はそういう経験が有るということです。そういうことは日常的に有って当たり前の世界なのです。
 ブラジルに住んでなくても、僕などは仕事で10回ほど行っただけですが、やっぱり一度そういう目にきっちりと会ってます。事務所のワゴン車が空港に迎えに来てくれて、他の同僚達と一緒に空港から事務所に向かっているときに、バイクに乗った警察官の格好をした二人組が車を止めて、荷物検査をすると言って車に乗り込んできました。僕は嫌な予感がしたので彼らが乗り込んでくる前にバックから現金を取り出して、ズボンのお腹の所に即座に隠しました。
 彼らは我々の手荷物を車から降ろして中身を検査したうえで全部返してくれましたが、案の定、荷物の中のお金は全部消えていました。僕の隠した現金だけが無事だったわけです。
彼らは警察官の恰好をした強盗だったのです。本物の拳銃を腰に持っているので、逆らうこともできません。そんなことは、日常茶飯事に起こっているのです。
 また、ある時は、リオで国際会議があって中日に市内観光があったので全員バスで移動しました。そのバスに、夏なのにスーツを着た強面のお兄さん方が4人も乗り込んできたので、何事かと思ったら全員背広の下に拳銃を2丁ずつ携帯したガードマンだったわけです。
 そして、バスが止まって僕らが下りる前に、先ずは彼ら4人が先に降りて、バスの4隅を固めて四方八方を安全確認したうえで僕らが下りる許可がでるという具合でした。そうでもしないと、観光客は真っ先に強盗やひったくりの餌食になるので銃を持ったガードマンが警護しないと安全を保証できないということでした。

 ということで、リオに行く場合の注意点を以下に列挙しておきます。
 1. 空港からホテルまでが一番狙われやすいので、そもそもブラジルには現金は持って行かない方が良い。サインが無いと使えないトラベラーズチャックがお勧めです。また、クレジットカードは盗難の際の対応が早いアメックスがお勧めです。
 2. 無事ホテルにチャックインできたら、ホテルの部屋のセキュリティーボックスに金目のものは全部入れる。安宿などはフロントにセイフティーボックスがある所もあるが、あれは従業員が開けられるので避けた方が良い。
 3. 外を出歩くときは、貴金属はもちろん時計も外して、50ドル~100ドル(又は同額の現地リアル通貨)ぐらいのお金だけをそのまま持ち歩くこと。財布は必ず盗られるのは持ち歩かないこと。強盗に会った時に一銭も持っていないと腹いせにナイフで刺されたり銃で撃たれたりするので、100ドル(又は現地通貨)ぐらいは持ち歩いて、いざというときにはそれを上げるようにする。
 4. スニーカーも良いものは必ず盗られるので、履物はとことんどうでも良いようなものを履いて歩くこと。
 5. タクシーに乗っていても、信号で止まった時に、窓の外から銃を突き付けてきて、金を出せと言われるので、その時は100ドル(又は現地通貨)をすぐに差し出すこと。
 6. 偽警官がいたる所にいて本物との見分けがつかないので、絶対に信用しないこと。彼らが近づいて来たら金目のものは隠すこと。
 7. カメラもスマホも全部盗られるので、盗られても良いカメラを使うこと。
 8. とにかく、外出したら必ずひったくりや強盗にあうという前提で、持ち物や服装を考える。
 上記のようなことを一切知らない、普通の日本人観光客が1人でリオの高級ホテルからコパカバーナの海岸を見に行こうとしたら、先ずはヒッタクリに大金の入ったバックを盗られて、慌てて警察を探しているうちに、次の強盗が来て、時計とカメラを盗られて、怖くなってホテルに帰ろうとしている途中にもう一組の強盗に襲われて、靴とブランド物の上着とズボンまで脱がされて、ホテルに帰ったときはパンツ一枚で帰ってきたという笑い話のような話が現実にしょっちゅうあるのです。
 皆さんもくれぐれも気を付けてください。このような情報が少しでも皆さんの被害を事前に防ぐことに繋がれば幸いです。
 イスラム過激派のテロが激化するのと、憲法を改正することは一見何の関係もないように思えます。
 しかし、実は、人間の集団心理とその影響という観点から見れば、同じ原理がその背景で働いていることが分かります。
 過激派がどんどん過激化していくプロセスをまずは見てみます。最初はどの集団にも過激な意見を持った人達と穏健な意見を持った人達がいるものです。しかし、少しでもその集団に敵対する勢力が目立つようになると、その集団を守るために過激な意見を言う人達の方が影響力を持ち始めます。
 本当は双方の集団とも穏健な意見を言う人達が主導権を握れば、双方の利益を模索すべく互いに交渉し、お互いの妥協点を探りながら平和共存する道は幾らでもあるものです。
 しかし、どちらか一方でも過激なことを言うグループが主導権を握ると、それに対抗するために、もう一方のグループも必ず過激なことを言うグループが主導権を握るようになります。
 それを見たもう一方のグループは脅威を感じて、更に過激なことを言う人達が力を持ち始めます。
 この穏健派が排除されて強硬派が主導権を握るようになるプロセスで必ず使われる言葉が、穏健派に対する「腰抜け!」であり「相手に甘く見られる」であり、「理想論的で非現実的」というものです。そして「相手のやる気を挫くにはこちらが毅然とした態度を示すべき!」というのが強硬派の言い分になります。
 所が、実際は「こちらが毅然とした態度を示す」と相手側はそれに脅威を感じて更なる過激な態度を示してくるのが現実です。
 相手に毅然とした態度を示されて、やる気が挫かれるのは相手方の穏健派だけであり、強硬派は更に過激化していくのが現実です。
 この強硬派の、現実を知らない楽観主義があらゆる惨劇を生み出すのです。
「こちらが、毅然とした態度を示せば相手はひるむはず」というのは、全くの見当違いで人間心理というものを知らない幼稚な発想なのです。
 そういう事を言う強硬派の人たちは自分に照らし合わせて考えれば、すぐにわかるはずです。 「もし相手側が毅然とした態度を示したら、貴方はひるむのですか?」と自問自答してみるべきです。強硬なことを言う人間は、相手が毅然とすると、ひるむどころか、更に虚勢を張るものです。そうやって、双方とも互いにどんどん強硬な意見が主導権を握るようになって、もう正面衝突するしか道はなくなってしまうのです。もう、双方とも引っ込みがつかなくなるからです。
 いろんな地域の民族紛争や内戦はすべてこうやって起こってきた訳ですし、イスラムの過激派もこうやって穏健派はどんどん排除されて、最終的に最悪の悪魔のような過激派が主導権を握るようになってしまったのです。
 その悪魔のようなイスラム過激派を相手に「毅然とした態度を示せば相手はひるむはず」という幼稚な発想しかもたない安倍首相はわざわざ過激派の本拠地に乗り込んでいって、誰に頼まれてもいないのに「我々はISISの拡大を断固として阻止する!」と出来もしないことを宣言したのです。
 実際には出来ないことを、する!というのは嘘つきか、ほら吹きがすることで、誰がどう見ても虚勢を張っているとしか見えませんでした。しかし、あの時点で、安倍首相はイスラム過激派に対して公然と宣戦布告したわけです。
 それまでは、イスラム過激派にとっても、日本は中立的な国だったので、テロのターゲットにはなっていませんでした。しかし、あの時点で名指しで挑発されたので、彼らは挑発に乗ることにしたわけです。
 毅然とした態度にひるむどころか「生意気にも我々を挑発した奴らがどうなるか一応思いしらせておくべきである」と考えるのが彼らです。あの時点で彼らは「安倍よお前は後悔することになる。」と宣告していました。
 今回のバングラデシュのテロは初めから外国人を狙ったものであり、日本人は真っ先に殺されたそうです。彼らにとっては安倍に思い知らせるのに丁度よかったのかもしれません。
 もし、安倍首相があの時にあのような形で不要に過激派を挑発していなければ、過激派としてもあまり関係のない日本人を殺す大義名分もないため、ひょっとしたら見逃してくれたかもしれません。
 そういう意味では、今回の7人の犠牲者は、安倍首相の幼稚な虚栄心と虚勢の犠牲者になったとさえ言えるのかも知れません。
 そして、本題に戻ると、今度の参院選挙で改憲勢力が3分の2以上を占めるようになると、平和憲法という歯止めはなくなり、今後、中国が少しでも強硬な態度を示すようなことがあれば、国内世論は一気に強硬派が勢いを増して「ここでこちらも毅然とした態度を示しておかないと、相手がつけあがると」ということで、強硬手段をとるようになり、それを見て中国側も「ここで更に強硬な手段をとらないと、日本になめられる」ということで、更に強硬な態度をとり、それを見て日本の国内世論も「もっと強硬手段をとらないと相手になめられる」ということで、最後は正面衝突することになり、双方共に多数の犠牲者を出して、結果的に双方とも大きな損害を出し、結局誰も得しない結果になるのです。
 このようなあさはかな行為を人類は昔から繰り返してきたのですが、未だに人類は何も学んではおらす、必ず「話し合おうなんて腰抜けの態度で、非現実的な理想論で、相手になめられるだけで、国益を守るためにも、国家の威信にかけても毅然とした態度をとるべきである」という幼稚な楽観主義があたかも正論であるかのように双方の国で支持され、最終的に正面衝突するまで引っ込みがつかなくなるというわけです。
 明日の参院選挙は、そうなるかならないかの運命の分かれ道の日になるかもしれません。
 よ~く考えて投票しましょう!
 七夕と言えば愛し合う牽牛と織女が年に一度この日にしか会えないという悲しくもロマンチックなお話というイメージがあります。そして、この牽牛と織女は恋人同士だと何となく思っている人も多いと思います。
 しかし!実は、この二人は夫婦なのであります。夫婦なのに年に一度しか会えないのであります。そもそもは、とても働き者であった織女の上司である天帝が、年頃なのに働きづめの織女をみて気の毒に思い、牽牛との縁談を紹介して二人を結婚させたのでありますが、結婚したとたん、あれほど働き者であった織女が夫婦生活にうつつを抜かして、あまり仕事をしなくなり業績が悪化したのであります。
 その事に激怒した天帝社長が、織女を遠く離れた海外に単身赴任させて、年に一回の一時帰国しか認めなくなったというお話であります。
 ということで、古来、7月7日はこの織女が一時帰国して牽牛と再会できる日としてめでたい日になった訳ですが、逆に言うと残りの364日はとても理不尽な、めでたくない日になってしまったわけです。
 これは幸いお伽噺だけど、これほどではないにしても、これに限りなく近い話が、現実にも沢山あり、この七夕の日に他人事ならぬ気持になっている人も少なくないと思います。

To the friends of fake Muslims in Bangladesh who murdered innocent people acting against the Islamic Law.  (バングラデシュでのイスラム法に反して、無実の人々を殺害した偽イスラム教徒の友人達へ) (日本語の要約は最後にあります。)

 

   You must be well aware that as Muslims following the teaching of Koran and Islamic Law is the absolute requirement. Otherwise you can't call yourselves as Muslims. As Muslims if you act against the teaching of Koran almost knowingly then you shall be definitely condemned by Allah.

   Whatever you do or whatever you decide must be based on the teaching of Koran and in accordance with Islamic Law. If you do something because of your personal anger, hatred, sorrow or revenge and then such actions of yours cannot be justifiable according to the teaching of Koran or any of the Islamic Laws, you must know that you are acting against Allah and defaming his name.

   This time, some group of people in Bangladesh who claim to be the follower of ISIS murdered 20 innocent people. These innocent people had no reason to be killed and there are no Islamic Laws to authenticate the validity of such unjustifiable murders of totally innocent people. It means these self-claimed ISIS in Bangladesh acted against Islamic Law and thereby they are destined to fall into the Hell of Jahannam.

   They are just criminals even in the view of Koran. If anyone in the world who is planning to imitate those criminals, please remember that you are also defaming the name of Allah and thereby destined to fall into the Hell of Jahannam. Please do not disdain yourself acting so stupidly like them.

 

<日本語の要約>

 皆さんご存知のように、イスラム教徒にとってはコーランの教えとイスラム法にしがうことは絶対に守らなけらばならないことです。個人的な思いや憎しみよる勝手な行動は許されません。すべての行動はコーランの教えとイスラム法に基づいていなければなりません。

 この度、ISISを自称する者達がバングラデシュにおいて無実の人々を20人も殺害しました。彼らは殺されるべき理由は全くありませんでしたし、そのような無実の人々を殺害することを正当化するいかなるイスラム法も存在しません。ということは、このバングラデシュのISISを自称する者たちは、イスラム法に反した行いをしたことになり、従って彼らはジャハナムの地獄に落ちることを自ら運命づけたのです。

 彼らはコーランの教えから見てもただの犯罪者達です。もし、この世のどこかに彼らのやったことの真似をしようと思う者がいるとしたら、覚えておいてください。あなたも、アラーの名前を貶めて、自らジャハナムの地獄に堕ちようとしていることを。彼らのような馬鹿げた行動をして自らを貶めないでください。

 今日はアインシュタイン記念日だそうです。記念日というからには普通は誕生日を記念するものですが、アインシュタインの誕生日は3月14日なので、この場合はご本人の誕生日ではなく、ご本人が考え付いた「相対性理論」の誕生日として6月30日が選ばれたようです。

 より厳密に言うと、1905年の6月30日にアインシュタインが投稿した「動いている物体の電気力学」という論文の中で、史上初めてthe same laws of electrodynamics and optics will be valid for all frames of reference for which the equations of mechanics hold good. We will raise this conjecture (the purport of which will hereafter be called the “Principle of Relativity”) つまり、誰がどのような状態で観測しようが同じ法則が成り立つのであり、それを相対性原理と言います。という事と、light is always propagated in empty space with a definite velocity c、つまり「光速度不変」の原理という仮説を提言したわけです。

 それまでは、時間や空間というものは絶対的で不変なものであると思われていましたが、不変なのは光の速度の方であるということを史上初めてここで宣言したわけです。しかし、もし光の速度が不変であるとすると、今度は時間や空間が絶対的なものでは無くなり伸びたり縮んだりするものであるという話になることを意味していました。

 今まで絶対的に威張っているように思われた時間様や空間様は、突然「光」殿が天下を取ってしまい「元々この宇宙の中で一番偉いのは俺様であって、君らなんぞは、本当は中身のない錯覚見たいなもんで、少なくとも俺の眼中には君らは存在しない!せいぜい、俺様より身分の低いものたちにくっ付いて長くなったり短くなったりしてりゃ良いんだよ!」という事で、時間様と空間様の地位が一気に下がってしまったわけです。

 確かに「光」殿の仰る通り、「光」殿の眼中には時間も空間も存在しないのであります。なぜなら相対性理論によれば、光速においては時間は止まり、光速で移動する長さはゼロになりますので、光は、宇宙のどこへでも瞬時に一ミリも動くことなく到達できるのであります。ただ、これはあくまで光の視点での話でありまして、光の視点には立てない我々の視点からみると、光には御存知の通り秒速30万キロという速度があり、太陽から地球まででも8分間かかり北極星からだと400年もかかるのであります。しかし、注意しなければならないのはこの8分や400年というのは我々人間の運動状態で観測したときの時間や距離であって、それらは決して客観的で絶対的なものではないのということです。

 我々の視点からみて400年もかかるほどの膨大な距離も、当の光自体の運動状態では長さは無限に縮むので0mになり、時間も止まるので0秒になり、結局、瞬時に一ミリも動くことなく到達している訳です。

 アインシュタインの相対性理論が意味するところはこれほどまでに奇妙なもので、一体全体、我々が知覚している時間や空間とは一体何なんだろう?と根源的な疑念を呼び起こすような内容だったのであります。

 今でこそ、相対性理論の正しさは様々な実験で検証されており、実用的にも相対性理論を前提にして様々な計算が行われるようになっていますが、発表当初は「そんなことたあないやろ~??」と疑問に思う人が多く、一部に支持する人がいても「そんな奴はおらんやろ~」という感じで、長い間冷遇されたのであります。

 ということで、世紀の大発見であったにも関わらず、結局この相対性理論はノーベル賞の対象になることもなかったのであります。アインシュタインがノーベル賞を貰ったのは、この相対性理論と同時期に発表した「光量子仮説」という波であると考えられていた光に粒子のような性質もあることを証明した理論に対してでありました。

 皮肉なことに、このアインシュタインの「光量子仮説」がその後に発展する量子力学の基礎にもなるのですが、この量子力学は、時間と空間の絶対性を否定したアインシュタインでも納得しがたいような世界観を示し始めたことから、晩年のアインシュタインはこの量子力学の間違いを証明するために専心しました。しかし、結局、アインシュタインの意に反して、あらゆる実験は量子力学の正しさを証明し続け、アインシュタインは失意のうちに他界したと言われています。

 結局、アインシュタインという人は、時間・空間の絶対性を否定するという世界観がひっくり返るようなことをやってのけましたが、客観的な物質世界の実在性は信じて疑いませんでした。

 しかし、アインシュタイン自身が発見した「光量子仮説」を基礎として発展したその後の量子力学が示唆する世界観は、人間の観測行為以前に確定してしまっている客観的な物質世界などというものはあり得ないというものでした。つまり、素粒子の状態というのは、人間が観測するまでは、その状態は確定しておらず、あらゆる状態の可能性を示す様々な確率が波動方程式(シュレンディンガー方程式)で表される共存度確率の波として示され、人間の観測行為によって、その中の一つが実在化し、その他の可能性はその瞬間に雲散霧消するか、別の世界へと分岐していくというものでした。

 つまり、素粒子というものは人間が観測するまでは、その状態は確定しておらず、状態が確定していないということは、まだ実在以前の段階にあるという事で、人間の観測行為によって始めて状態が確定するということが量子力学によって分かった訳です。従って、それら素粒子から構成されているあらゆる物も、人間の観測行為以前に既に状態が確定しているとは言えないという話になる訳であります。

 アインシュタインは人間が見ていようがいまいが月は初めから月としてあるはずだ!と主張しましたが、その後の量子力学の発展により、人間の観測行為が原初の宇宙の在り方までをも規定するという見方まで登場し、今やそのような見方を回避するには、この世界はあらゆる可能性の数だけ存在していて、シュレンディンガー方程式の共存度確率の波であらわされるそれぞれの可能性は毎瞬それぞれ違う世界として分岐しながら実在化していると考えるしかないというのが大方の見方になりつつあります。

 いずれにしても、我々人間は、毎瞬毎瞬、無数に分岐していく無数の世界の中の一つを選択しているのであり、従って未来は一つではなく、ありとあらゆる可能性の未来があり得る訳であり、その中のどの未来を自分が選択するかは、自分次第だという事です。

 ただ、何もせずにボーとして状況に流されるままの受け身な人生を送っていると、共存度確率の中の一番高い確率の未来をそのまま選択することに成るはずですが、毎瞬毎瞬、気合を入れて自分が目指す未来の方向を選択するようにしていけば、少しずつではあっても確実にその方向を選択していくようになると思います。

 つまり、未来がどうなるかは完全に今の自分の毎瞬の選択次第であるということです。

 ということで、信じるか信じないかはあなた次第です!

 

*アインシュタイン記念日の話をしていたら、いつの間にやら、これまでここで書いてきたことの繰り返しのようになってしまいましたが、これまでの総まとめ的復習とでも思っておいてください。

 先に、今回のイギリスのEU離脱とアメリカでのトランプ支持の盛り上がりは、移民排斥と、労働力の安い所に仕事が奪われてしまうグローバル経済に反対して一国主義に回帰しようとする同じ世界的潮流の表れであると申し上げました。
 そして、その原因は世界中の富の半分が1%の富裕層(株主・投資家)に独占され、残りの99%の労働者の賃金がコスト削減の名の元に下降の一途をたどり、先進諸国においても貧困が蔓延し始めていることにあることも見てきました。
 そのような富の一極集中と貧困の蔓延がどのようにして引き起こされたのか、これまでの説明では多少舌足らずな所もありましたので、繰り返しになるとも思いますが、もう一度、具体的に詳しく振り返っておきたいと思います。
 結論から先に言っておくと、それは、先進各国政府によるグローバル経済と新自由主義政策の推進によって、あらゆる経済政策が、グローバル企業とその株主にとってのみ都合の良いように優遇されてきた結果であると言えます。
 日本を例にとれば、戦後からの数十年間の日本の労働者は様々な法律によって手厚く保護されていました。いわゆる、終身雇用制度に代表されるように、一度就職すればその企業に一生を捧げると言う人々がほとんどでした。
 そのお陰で、戦後から1980年代にまでは一億総中流階級と言われるほど、貧富の格差は限りなく縮小し、人々の生活はどんどん豊かになっていきました。
 その時代までは、アメリカも含めて世界中の企業の経営者たちも、企業の利益を充分に従業員に還元することが企業としての社会的責務であるという企業倫理感を持っていました。
 ところが、1980年代ごろよりレーガン大統領らによって始められた、市場原理主義最優先政策と小さな政府の名の元に、国民の為の福祉や公共サービスをとことん削減して、公営事業の民営化、経済の対外開放、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などの、国民や労働者よりも、企業活動の利便性を最優先する政策が、あたかも最善の政策であるかのごとく、先進各国の政府によっても取り入れられるようになったのです。
 日本においても、小泉政権の時に、規制緩和の名の元に、それまでの労働者を保護するための様々な法律や規制はことごとく撤廃され、その時から、派遣社員という何時でも首を切れる企業にとっては極めて都合が良いが、労働者にとっては極めて不利な雇用形態が認められるようになりました。
 その理由は、企業が国際競争に勝ち残っていくためには、労働者の賃金を含むコストをできる限り削減して、価格競争力と収益率を維持するためというものでした。
 折しも、中国が世界の一大生産拠点として台頭してきたために、中国の安い労働力を使った企業が価格競争でも収益率でも生き残るという構図が出来上がってしまい、各国の企業も自国の従業員に充分な賃金を払いつづけると、国際競争に生き残っていけないという状況に追い込まれてしまったわけです。それ以来、従業員に高い賃金を払いつづける企業は世界中から消えて行きました。
 というよりも、従業員の賃金はできる限り削減すべき「コスト」であると言う考え方が半ば常識化してしまったわけです。
 このようにして、世界中の労働者の賃金はどんどん削減され、貧富の格差はどんどん広がっていったのです。
 日本においても、企業の人件費削減のために生み出された派遣労働というシステムによって、正社員の数は減り、派遣労働者の数は増えるばかりでその平均賃金は大幅に下がっています。そして、今や6人に1人の子供は貧困家庭にいると言われています。
 イギリスやアメリカでも特に地方都市では失業率も高く、皆、ぎりぎりの生活を強いられており、鬱憤や不満は募るばかりになっています。
 その一方で、世界中の安い労働力を使って収益力の上がったグローバル企業だけが膨大な利益を上げるようになり、その株主達にその大部分の利益は還元されていき、結果的に世界中の富の半分が1%の富裕層に独占されるという今日の状況が生まれてしまったわけです。
 本来なら、そのような富の一極集中と貧困の蔓延は、グローバル企業だけが優遇される、いわゆる新自由主義とグローバリズム政策によって引き起こされたわけですから、各国政府はその過ちを直ちに反省し、各国政府が協調して、企業や投資家よりも、まずは労働者の賃金を第一優先することを義務付ける国際労働協定を定め、投資に対する配当の上昇率と労働者の賃金上昇率を必ず同等にすることを国際法で義務付ければ良いのであります。
 そうすれば富の一極集中は解消され、世界中の労働者の賃金は上昇し、世界中の労働者の購買力が上昇するために、景気はどんどん良くなり、売り上げも上がり、それがまた労働者の賃金上昇につながるという好循環が生まれます。
 当然、物価も上がりますが、賃金が上昇すればそれは相殺されます。また、安い労働力を雇った企業や国が有利にならないように、関税障壁もうけるなどして、無用な国際競争がなくなるような国際法を整備する必要もあります。
 そして、世界中の企業が同じ国際法を守り、収益の一定率を必ず従業員に還元するという同じ義務を守りながら、自由競争を続けることで生産性も維持できるということです。
 このような方法以外で、現在の危機的状況を回避することは不可能であると思います。
 トランプ氏や今回のイギリス国民の選択のような、問題の本質を放置したまま、すべてを移民のせいにしたり、自国だけ一国主義に戻ろうとするだけでは、反って世界経済を混乱させ、結果的に自国経済をも破滅に追いやるだけだと思います。