ついに、イギリスのEU離脱が決まりした。今回決まるとは思ってなかったので、予想以上の早い動きだと思いました。
何が早いかと言うと、先進諸国における貧富の格差・貧困・失業の拡がりによって、必要以上に自分達の職を奪うことになる移民排斥の動きと、仕事が労働力の安い所に奪われてしまうグローバル経済に反対し、一国主義に回帰しようとする動きです。
このような動きはアメリカにも拡がりつつあり、それが移民排斥とTPP反対のトランプ氏支持の原動力となっています。
つまり、アメリカでのトランプ氏支持の異常な拡がりと今回のイギリスのEU離脱は同じ世界的潮流の現れだと言う事です。
要するに、自分達がどんどん貧しくなって仕事も無くなっているのに、外国人に仕事を与えるなんてとんでもないという本音が世界中に拡がりつつあると言う事です。
その一番の原因は、前にここにも書きました様に、世界中の富の半分が1%の富裕層(株主、投資家)によって占有されていると言う事実です。
本来、労働力と言うのは富の源泉であり、労働者によって産み出された富は労働者に還元されるべきもので、充分に還元されさえすれば、それが大きな購買力となって、どんどん景気も良くなるはずですが、いつしか労働力はコストであるとみなされるようになり、グローバル経済の名の元に、どんどん労働力の安い国に仕事が奪われるようになり、先進国の労働者の賃金は下降の一途をたどるようになったのです。
一方、発展途上国で安い労働力を得ることが出来るようになったグローバル企業はとてつもなく収益力が上がり、その膨大な利益の殆んどは株主に還元されていった訳です。
そうして、富裕層に世界中の富が集中する一方、世界中の労働者はどんどん貧しくなっていったのです。1%の人が富を独占し、99%の人が貧しくなると必然的に世界中の購買力は下がり、慢性的な不景気状態に陥ります。それが今の状況です。
この状況を改善し世界的な保護主義と一国主義の拡がりを防ぐには、前にも書きました様に、各国が協調して国際労働協定を締結して、労働者への充分な富の還元を全世界の企業に義務付け、同時に国による賃金格差が先進諸国における雇用機会の喪失に繋がらない様に、関税障壁を復活させるなどして、無用な国際競争が無くなるように国際的な法整備をすべきなのであります。
国際競争が無くなると物価が上がると思う人もいるでしょうが、全世界の企業が国際法に基づいて全ての労働者に充分な賃金を払うようになれば、物価が多少を上がっても全ての労働者は充分な購買力を維持できるのです。
しかも、無用な国際競争は制限されても、物価水準や賃金水準が同じ地域内では、労働者の賃金配分を充分にするという同じ国際法に準拠している企業同士の自由競争はそのまま続けられるため、生産性が下がることもありません。
これはとても簡単な理屈で、全世界の人がそうしようと今日から思えばすぐにでもできることなのです。
しかし、残念ながら、そのような全世界な政策合意を支持する人はまだまだ少数派で、労働力はコストであるという株主の論理をそのまま鵜呑みにして、自分の給料が下がり続けてもしょうがないと諦めてしまう人や、自由競争とグローバル化がみんなを幸せにすると未だに盲目的に信じている人や、アメリカやイギリスの短絡的な人たちのように全てを移民や外国の労働力のせいにして、彼らを排除することと一国主義で問題の解決を図ろうとする人たちの方が圧倒的に多いことが大きな問題なのだと思います。
ようやく最近になって欧米の良識のある人々の間で富の再分配を政策として実行しようという国際世論が高まってきましたが、日本ではまだ全くと言っていい程、そのような世論は出てきておりません。
早くしないと、このままでは世界中に人々の鬱憤がたまり、それが民族主義や国家主義となって各国で爆発し、あのヒットラーが登場した時のように悲惨な状況になる可能性すらあると思います
ブログネタ:どこでも寝れる? 参加中私は寝れる派!
昔、インドで仕事してた時、田舎町の駅で夜10時発の夜行列車を待っていたら、大幅に遅れる見込みというアナウンスがありました。インドで大幅に遅れると言うのは最低8時間以上は遅れる可能性が大でしたが、時によっては3時間ぐらいで来ることもあり、全く予測不能なのでした。
ということで、唯一の方法は列車が到着予定のホームで待つしかいないわけですが、どれぐらい待つことに成るかも予想がつかないため、取りあえず、コンクリートのホームの上に新聞紙を1枚だけ引いて鞄を枕に寝ることにしました。
その頃の日中の気温は46度ぐらいで、夜でも39度ぐらいだったので、39度ではベッドの上でも暑苦しくて寝られないのが普通でした。
しかし、ホームのコンクリートの上で寝ると言うのは、コンクリートのヒンヤリとした感触が直に伝わって来て、とても涼しくて超快適だったのであります。
そういう訳で、夜10時から寝始めて結局翌朝の8時まで熟睡できました。そして、ちょうど8時半ごろに列車が来ましたので、実に気分爽快で列車に乗ることが出来ました。結局列車は10時間以上遅れたわけですが、僕としては大変に快適な出張となった訳であります。
またもや、アメリカで銃乱射の大惨事が起きました。犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
例によってトランプ氏はやっぱりイスラム教徒は入国禁止にすべきだなどと乱暴なことを言っています。クリントン氏は銃規制を強化すべきであると言っています。
常識的にはクリントン氏の言っていることこそ正論だと思いますが、その正論が通じないのがアメリカなのであります。
アメリカでは大型スーパーのスポーツ用品コーナーで銃が買えます。エアーガンが50~100ドルぐらいで売っている中で、急に250ドル~500ドル位で高いのが横に並んでいるので、こっちはなんで高いのか?と聞くと、これはライフルだと言われました。
要するに、アメリカではエアガンは空気圧で弾を飛ばすが、ライフルはそれに火薬を使うだけだと言う感じなのであります。
スポーツ用品売り場で売っているという事は、ライフルはスポーツ用品なのであります。でもまあ使い方によっては人も殺せるという事です。
日本は豊臣秀吉の時代に刀狩りがあって、明治維新の時には廃刀令があったので、庶民は武器を持たないのが当たり前の平和な社会ができました。しかし、アメリカにはそういう歴史は無く、西部開拓の時代から、皆が自分の身を守るために拳銃やライフルで武装するのが当たり前の社会が出来上がってしまったのです。
今回の事件でも、クリントン氏のように銃規制を強化しようという意見と、銃の携帯を自由化しようという両極端の意見の対立がまた再燃すると思います。
というのも、アメリカでも州によっての違いはありますが、基本的には、弾の入った銃の携帯は許されてはいない所が殆どで、自宅に置いておくのは自由ですが、車においておく場合でも、銃と弾丸を分けておかなければなりません。つまり、弾を込めた銃を車で運ぶのも違法になるのです。
それで、今回のような事件が起こると、銃規制賛成派は銃規制の強化を訴えますが、銃規制反対派は、逆に銃の携帯を自由化すれば今回のような事件でも、犯人が最初の一発を撃った時点で、確実に誰かに撃ち返されて即座に犯人は死んでしまうので、多数の犠牲者が出ることは無いというのが銃規制反対派の言い分なのであります。彼らの言い分は、銃が悪い訳ではなくて、悪い奴が悪いのだという事です。
しかし、今回の事件で使われた銃は米軍仕様のM16と言われる自動小銃で、米軍が使っているものは、一回の引き金で連射できるいわゆる機関銃になるフルオートと言われるものですが、今回のは、その市販バージョンで、一回の引き金では一発しか弾が出ない仕様のものです。しかし、内部に衝撃吸収機構がついているため、殆ど反動は無く従って狙いがブレルこともなく、極めて正確に的が狙えるよう出来ている訳です。正に一発の銃弾も無駄にすることなく沢山の人を殺せるように最高の効率を極めた銃なのであります。
そのような大量殺人兵器が普通に市販されていること自体が、どうかしていると思います。そんなもの一体どこで使うの?という話です。今回のような事件を起こすため以外は、使い道がないでしょ?ということです。スポーツ射撃の為というのならM16は性能が良すぎで、誰でも的の真ん中に簡単に当てられるために競技にもなりません。やはり、クリントン氏が言う通り、軍隊で使うような武器は全面的に禁止にするのが当然だと思います。しかし、そんな当たり前のことが実現できないのが今のアメリカなのであります。
例によってトランプ氏はやっぱりイスラム教徒は入国禁止にすべきだなどと乱暴なことを言っています。クリントン氏は銃規制を強化すべきであると言っています。
常識的にはクリントン氏の言っていることこそ正論だと思いますが、その正論が通じないのがアメリカなのであります。
アメリカでは大型スーパーのスポーツ用品コーナーで銃が買えます。エアーガンが50~100ドルぐらいで売っている中で、急に250ドル~500ドル位で高いのが横に並んでいるので、こっちはなんで高いのか?と聞くと、これはライフルだと言われました。
要するに、アメリカではエアガンは空気圧で弾を飛ばすが、ライフルはそれに火薬を使うだけだと言う感じなのであります。
スポーツ用品売り場で売っているという事は、ライフルはスポーツ用品なのであります。でもまあ使い方によっては人も殺せるという事です。
日本は豊臣秀吉の時代に刀狩りがあって、明治維新の時には廃刀令があったので、庶民は武器を持たないのが当たり前の平和な社会ができました。しかし、アメリカにはそういう歴史は無く、西部開拓の時代から、皆が自分の身を守るために拳銃やライフルで武装するのが当たり前の社会が出来上がってしまったのです。
今回の事件でも、クリントン氏のように銃規制を強化しようという意見と、銃の携帯を自由化しようという両極端の意見の対立がまた再燃すると思います。
というのも、アメリカでも州によっての違いはありますが、基本的には、弾の入った銃の携帯は許されてはいない所が殆どで、自宅に置いておくのは自由ですが、車においておく場合でも、銃と弾丸を分けておかなければなりません。つまり、弾を込めた銃を車で運ぶのも違法になるのです。
それで、今回のような事件が起こると、銃規制賛成派は銃規制の強化を訴えますが、銃規制反対派は、逆に銃の携帯を自由化すれば今回のような事件でも、犯人が最初の一発を撃った時点で、確実に誰かに撃ち返されて即座に犯人は死んでしまうので、多数の犠牲者が出ることは無いというのが銃規制反対派の言い分なのであります。彼らの言い分は、銃が悪い訳ではなくて、悪い奴が悪いのだという事です。
しかし、今回の事件で使われた銃は米軍仕様のM16と言われる自動小銃で、米軍が使っているものは、一回の引き金で連射できるいわゆる機関銃になるフルオートと言われるものですが、今回のは、その市販バージョンで、一回の引き金では一発しか弾が出ない仕様のものです。しかし、内部に衝撃吸収機構がついているため、殆ど反動は無く従って狙いがブレルこともなく、極めて正確に的が狙えるよう出来ている訳です。正に一発の銃弾も無駄にすることなく沢山の人を殺せるように最高の効率を極めた銃なのであります。
そのような大量殺人兵器が普通に市販されていること自体が、どうかしていると思います。そんなもの一体どこで使うの?という話です。今回のような事件を起こすため以外は、使い道がないでしょ?ということです。スポーツ射撃の為というのならM16は性能が良すぎで、誰でも的の真ん中に簡単に当てられるために競技にもなりません。やはり、クリントン氏が言う通り、軍隊で使うような武器は全面的に禁止にするのが当然だと思います。しかし、そんな当たり前のことが実現できないのが今のアメリカなのであります。
とあるところで、コメントを書いていたら、もうちょっと沢山言いたいことが出てきたので、まとめて書いておこうと思いました。
人間は何故、美しいものに心惹かれるのでしょうか?よく若い女性はそれほど花には興味がないけど、年配になると花を慈しむようになると言われます。ご本人達に理由をインタビューしている番組がありましたが、皆さん、「自分には無くなったものを求めるから」と笑いながら答えていました。
若い女性は自分が花のように美しいので別に花の美しさにはそれほど関心は無いという事かも知れません。美しい女性に興味があるのは別にスケベおやじに限った習性ではなさそうです。赤ちゃんでも、美しい看護師さんや保母さんの方が脳の反応が激しく明らかに喜んでいる反応を示すそうです。
そう考えるとそもそも美しさとは何か?何故、若い女性や花や蝶は美しいのか?それを研究する学問に美学というものがあります。伝統的には、美学が行き着く答えは、プラトンのイデア論と相場は決まっておりました。
プラトンのイデア論というのは、そもそも人間の魂は、完全なる世界つまりイデアの世界に居たんだけど、そこから一つ一つの魂が二つに分裂して、不完全な地上世界に堕ちてきてしまった。(そして、分裂した片割れがソウルメートでそれに対する愛がプラトニックラブといわれるものです。)そして、この地上世界の中で、昔居たことのあるイデアの世界のような完全なるものに近いものを見聞きすると、イデアの世界を思い出して心が惹かれると言うものです。イデアの世界には「完全なる真実」「完全なる善」「完全なる美」というものがあって、人間はかすかにそのイデアの世界の記憶があるので、地上にあるものを見聞きするときはいつもその尺度で見ているのだということです。
例えば、完全なる正三角形というものは実際に存在しないけれども、人間は頭の中で想像することが出来ます。紙に正三角形を書いてみても、よーく見ると凸凹でがタガタで全然正三角形になっていません。しかし、頭の中には完全なる正三角形を思い描けるので、現実は存在しなくても考えられるという事です。イデアというのは英語で言えばIdeaつまりアイデア・考えということです。
人間が宇宙の法則や物理法則を発見できるのも、それらがイデアの世界に存在し、それを読み取る能力が人間にはあるからだとされています。美しい絵画も、画家がイデアの世界を現実の絵に再現しようとしているだけで、画家にはイデアの世界が見えているのだということです。
音楽もバッハのような本当の偉大な作曲家はイデアの世界の音をどんどんと再現できたものと思われます。
良心や善なる心の根拠もイデアの世界の想起にその根拠があるとされてきました。
まあ、このように、イデア論というのは西洋文明・文化の根幹となるとても重要な考え方で、未だにその真偽についての論争は続いています。
こんなことを書くと、美しいという事がどれほどの絶対的な価値のあることなのかを強調しているように聞こえるかもしれませんが、確かにそういう側面もあることは確かですが、それだけでもないことを、しっかりと強調しておきたいと思います。僕がとあるところのコメントに書いたのはそういうことです。以下はその引用です。
僕は昔仕事でインドやネパールに長くいたことがありますが、ネパールの山奥で特にアジア系とインド系のハーフの人達が多い地域に行くと、ほとんど全員が美男美女ばかりです。
女の子は全員、宮沢りえ以上の子ばかりです。日本に連れてくれば、速攻でアイドルになれそうな子ばかりです。
しかし、そういう彼女らがどろまみれになって畑仕事をしているのです。
そして、そこでは可愛いとか顔立ちが良いのは当たり前のことなので何の価値も意味もないのです。どんなに可愛くても、普通に畑仕事をして普通のお百姓さんの嫁になって、そのまま年取って死んでいくのです。
じゃあ、そういう彼ら彼女たちはつまらない人生を送っているのかというと、実はそうではなくて、彼らの方が都会で贅沢な暮らしをしている人達よりも、ずっとずっと明るくて笑顔が素敵で幸せに満ちた暮らしをしているのです。
彼らはごく普通の素朴な暮らしに最高の幸せを感じているのです。逆に都市部の豊かな人たちは、普通の生活では幸せを感じられなくなっているので、いつもしかめっ面をして、もっと沢山のお金を稼ごうと必死な顔しています。とても醜い顔をしています。
しかし、現金収入なんて殆どない、先ほどの山奥の素朴な人々は、毎日家族と話をするだけで楽しそうだし、夫婦で話したり子供たちと話すだけでとても幸せそうにニコニコしながら話しています。子供たちも泥まみれだけどいつもはじけるような笑顔に包まれています。
人間にとって本当の幸せとはいったい何なのか?改めて考えさせられました。
美男・美女や可愛いという事がとても重視されてもてはやされている現代の日本ですが、それはお金持ちであるとか贅沢な生活が出来ることと同様に、あまりに価値観や関心がそちらの方に向きすぎると、本来、人間の幸せにとって、最も大切だったはずの、夫婦・家族の繋がりや思いやり、ごく些細なことに感じる喜びや感謝の気持ちなどに鈍感になっていくのかもしれません。
要するに、人間はちょっとしたことに喜びを感じられる、言わば「幸せの感度」の高い人ほどより多くの幸せを感じられるのかもしれません。
逆に、沢山のことを求めて沢山のものを手に入れれば入れるほど、幸せの感度は鈍くなり、めったなことでは幸せを感じられなくなることもあります。それはとりもなおさず不幸の始まりとも言えるかもしれません。
もう一度、自分の幸せの感度計を見直して、修理して、感度を上げておいた方が良いのかもしれません。
人間は何故、美しいものに心惹かれるのでしょうか?よく若い女性はそれほど花には興味がないけど、年配になると花を慈しむようになると言われます。ご本人達に理由をインタビューしている番組がありましたが、皆さん、「自分には無くなったものを求めるから」と笑いながら答えていました。
若い女性は自分が花のように美しいので別に花の美しさにはそれほど関心は無いという事かも知れません。美しい女性に興味があるのは別にスケベおやじに限った習性ではなさそうです。赤ちゃんでも、美しい看護師さんや保母さんの方が脳の反応が激しく明らかに喜んでいる反応を示すそうです。
そう考えるとそもそも美しさとは何か?何故、若い女性や花や蝶は美しいのか?それを研究する学問に美学というものがあります。伝統的には、美学が行き着く答えは、プラトンのイデア論と相場は決まっておりました。
プラトンのイデア論というのは、そもそも人間の魂は、完全なる世界つまりイデアの世界に居たんだけど、そこから一つ一つの魂が二つに分裂して、不完全な地上世界に堕ちてきてしまった。(そして、分裂した片割れがソウルメートでそれに対する愛がプラトニックラブといわれるものです。)そして、この地上世界の中で、昔居たことのあるイデアの世界のような完全なるものに近いものを見聞きすると、イデアの世界を思い出して心が惹かれると言うものです。イデアの世界には「完全なる真実」「完全なる善」「完全なる美」というものがあって、人間はかすかにそのイデアの世界の記憶があるので、地上にあるものを見聞きするときはいつもその尺度で見ているのだということです。
例えば、完全なる正三角形というものは実際に存在しないけれども、人間は頭の中で想像することが出来ます。紙に正三角形を書いてみても、よーく見ると凸凹でがタガタで全然正三角形になっていません。しかし、頭の中には完全なる正三角形を思い描けるので、現実は存在しなくても考えられるという事です。イデアというのは英語で言えばIdeaつまりアイデア・考えということです。
人間が宇宙の法則や物理法則を発見できるのも、それらがイデアの世界に存在し、それを読み取る能力が人間にはあるからだとされています。美しい絵画も、画家がイデアの世界を現実の絵に再現しようとしているだけで、画家にはイデアの世界が見えているのだということです。
音楽もバッハのような本当の偉大な作曲家はイデアの世界の音をどんどんと再現できたものと思われます。
良心や善なる心の根拠もイデアの世界の想起にその根拠があるとされてきました。
まあ、このように、イデア論というのは西洋文明・文化の根幹となるとても重要な考え方で、未だにその真偽についての論争は続いています。
こんなことを書くと、美しいという事がどれほどの絶対的な価値のあることなのかを強調しているように聞こえるかもしれませんが、確かにそういう側面もあることは確かですが、それだけでもないことを、しっかりと強調しておきたいと思います。僕がとあるところのコメントに書いたのはそういうことです。以下はその引用です。
僕は昔仕事でインドやネパールに長くいたことがありますが、ネパールの山奥で特にアジア系とインド系のハーフの人達が多い地域に行くと、ほとんど全員が美男美女ばかりです。
女の子は全員、宮沢りえ以上の子ばかりです。日本に連れてくれば、速攻でアイドルになれそうな子ばかりです。
しかし、そういう彼女らがどろまみれになって畑仕事をしているのです。
そして、そこでは可愛いとか顔立ちが良いのは当たり前のことなので何の価値も意味もないのです。どんなに可愛くても、普通に畑仕事をして普通のお百姓さんの嫁になって、そのまま年取って死んでいくのです。
じゃあ、そういう彼ら彼女たちはつまらない人生を送っているのかというと、実はそうではなくて、彼らの方が都会で贅沢な暮らしをしている人達よりも、ずっとずっと明るくて笑顔が素敵で幸せに満ちた暮らしをしているのです。
彼らはごく普通の素朴な暮らしに最高の幸せを感じているのです。逆に都市部の豊かな人たちは、普通の生活では幸せを感じられなくなっているので、いつもしかめっ面をして、もっと沢山のお金を稼ごうと必死な顔しています。とても醜い顔をしています。
しかし、現金収入なんて殆どない、先ほどの山奥の素朴な人々は、毎日家族と話をするだけで楽しそうだし、夫婦で話したり子供たちと話すだけでとても幸せそうにニコニコしながら話しています。子供たちも泥まみれだけどいつもはじけるような笑顔に包まれています。
人間にとって本当の幸せとはいったい何なのか?改めて考えさせられました。
美男・美女や可愛いという事がとても重視されてもてはやされている現代の日本ですが、それはお金持ちであるとか贅沢な生活が出来ることと同様に、あまりに価値観や関心がそちらの方に向きすぎると、本来、人間の幸せにとって、最も大切だったはずの、夫婦・家族の繋がりや思いやり、ごく些細なことに感じる喜びや感謝の気持ちなどに鈍感になっていくのかもしれません。
要するに、人間はちょっとしたことに喜びを感じられる、言わば「幸せの感度」の高い人ほどより多くの幸せを感じられるのかもしれません。
逆に、沢山のことを求めて沢山のものを手に入れれば入れるほど、幸せの感度は鈍くなり、めったなことでは幸せを感じられなくなることもあります。それはとりもなおさず不幸の始まりとも言えるかもしれません。
もう一度、自分の幸せの感度計を見直して、修理して、感度を上げておいた方が良いのかもしれません。
今日、オバマ大統領が戦後初めて広島を訪問します。これはアメリカの政治戦略という枠を超えたオバマ氏個人の信念に基づく行動であると思われます。恐らくこのような良心的な大統領は当分の間現れないと思われます。
そういう意味では今回のオバマ氏の広島訪問は殆どラストチャンスだったようにも思えます。
というのも、あの悪名高きトランプ氏がいよいよ本当にアメリカの大統領になってしまいそうな勢いだからです。
みんな最終的にはクリントンで決まりだと思っていましたが、どうも彼女は色んなスキャンダルを抱えているそうで、これからますます人気急落することが見込まれているということです。
トランプ氏がこれほどまでに支持を得たのは基本的には所得の格差の問題がアメリカ人全体の生活を圧迫し始めており、精神的な余裕が無くなってきた人が急激に増えたことが原因として考えられます。
本来ならば、民主党のクリントン候補の対立候補だったサンダース氏のように累進課税の強化などにより一握りの人間に集中してしまっている富の再分配を政策として実行するのが全うなやり方だったはずですが、トランプ氏はアメリカ人が経済的な苦境にあるのは、不法移民による低賃金労働力の提供によって普通のアメリカ人の失業が増えていることと、アメリカが世界の警察として他の国ために余計な軍事費を浪費しているからだとしています。そして、不法移民を追い出して、他国の為に金を使うのをやめよう!などと主張して、圧倒的な支持を得てきたという経緯があります。
要するに、今後のアメリカは一国孤立主義に徹するべきであると主張している訳です。これは、これまでのアメリカの政治戦略を根本から引っ繰り返すことを意味していますが、今や多くのアメリカ人がそれでも良いかな?と思い始めているということです。
そうなって、一番喜ぶのが、中国とロシアです。彼らの自由にはさせまいと常に歯止めをかけてきたアメリカがこれからは皆さんお好きなように!と手を引いてしまう訳ですから、これからは中国とロシアのやりたい放題の時代が来るといことです。
そして、日本はどうなるかというと、これまではアメリカの核の傘の元で表向きは平和主義的なスタンスを表明してきましたが、強い日本が大好きな安部さん以来、より積極的姿勢に方向転換し始めていました。それが、アメリカの核の傘が無くなることに成れば、安部さん以上の過激な右寄り発言が一気に勢いを増して、憲法9条を改正して軍隊をもって核武装しようという話になることは必至だと思います。
日本の急激な軍拡姿勢に対して、中国は更に高圧的で挑発的になり、極東アジアは一触即発の状態に陥ることが予想されます。
トランプ氏が大統領になると、一番混乱するのはおそらく日本だと思います。そうなった時に我々はどのように対処すべきなのかを今から真剣に考えておく必要があると思います。
そういう意味では今回のオバマ氏の広島訪問は殆どラストチャンスだったようにも思えます。
というのも、あの悪名高きトランプ氏がいよいよ本当にアメリカの大統領になってしまいそうな勢いだからです。
みんな最終的にはクリントンで決まりだと思っていましたが、どうも彼女は色んなスキャンダルを抱えているそうで、これからますます人気急落することが見込まれているということです。
トランプ氏がこれほどまでに支持を得たのは基本的には所得の格差の問題がアメリカ人全体の生活を圧迫し始めており、精神的な余裕が無くなってきた人が急激に増えたことが原因として考えられます。
本来ならば、民主党のクリントン候補の対立候補だったサンダース氏のように累進課税の強化などにより一握りの人間に集中してしまっている富の再分配を政策として実行するのが全うなやり方だったはずですが、トランプ氏はアメリカ人が経済的な苦境にあるのは、不法移民による低賃金労働力の提供によって普通のアメリカ人の失業が増えていることと、アメリカが世界の警察として他の国ために余計な軍事費を浪費しているからだとしています。そして、不法移民を追い出して、他国の為に金を使うのをやめよう!などと主張して、圧倒的な支持を得てきたという経緯があります。
要するに、今後のアメリカは一国孤立主義に徹するべきであると主張している訳です。これは、これまでのアメリカの政治戦略を根本から引っ繰り返すことを意味していますが、今や多くのアメリカ人がそれでも良いかな?と思い始めているということです。
そうなって、一番喜ぶのが、中国とロシアです。彼らの自由にはさせまいと常に歯止めをかけてきたアメリカがこれからは皆さんお好きなように!と手を引いてしまう訳ですから、これからは中国とロシアのやりたい放題の時代が来るといことです。
そして、日本はどうなるかというと、これまではアメリカの核の傘の元で表向きは平和主義的なスタンスを表明してきましたが、強い日本が大好きな安部さん以来、より積極的姿勢に方向転換し始めていました。それが、アメリカの核の傘が無くなることに成れば、安部さん以上の過激な右寄り発言が一気に勢いを増して、憲法9条を改正して軍隊をもって核武装しようという話になることは必至だと思います。
日本の急激な軍拡姿勢に対して、中国は更に高圧的で挑発的になり、極東アジアは一触即発の状態に陥ることが予想されます。
トランプ氏が大統領になると、一番混乱するのはおそらく日本だと思います。そうなった時に我々はどのように対処すべきなのかを今から真剣に考えておく必要があると思います。
先日NHKで人工知能の最先端の現状を特集していました。今では、世界最強の囲碁の名人でも人工知能には殆ど勝てなくなったそうです。
昔は、人工知能と言えば全てプログラムに従って動いているだけでしたが、今の人工知能はdeep learningという機能を持っていて、自らどんどん学習していくそうです。囲碁の勝ち方も人間ではとてもなしえない8000回以上の対戦を人工知能同士でやらせて、勝つための最善の方法を自ら発見していったそうです。
ちょっとぞっとしたのは、開発者自身が「彼らは驚くほど進化している。一体どこまで進化するのか想像もつかない。」と語っていたことです。
人間の開発者自身が感知しない所で、人工知能が自分でどんどん進化していって、しかもその能力は遥かに人間を超えているとなると、一体どうやって人間は彼らをコントロールしていく積りなのか末恐ろしくなりました。
一方では人工知能にも思いやりの心や社会性を持たせようする実験も進められていて、少しだけホッとしましたが、そもそも人間自身の心の中でも、一体どのようにして自我が目覚め、悪意が生じるのか、もっと言えば、そもそも悪の本質とその起源はどこにあるのかなどの極めて重要な問題が不明のままになっているのに、人間を遥かに超える能力を備えた人工知能を作り出して、それが自分でどんどん進化していき、それに人間が頼るようになったとき、彼らがどの時点で自らの自我に目覚め、人間に従順に従うことの必然性を感じなくなり、それでも自分を支配しようとする人間達に敵意すら持つようになるかは皆目予測不能でそれを防ぐ方法も全く分かっていないということです。
しかも、それほど、高度な知性を備えた人工頭脳なら、表向きは従順に従っているように見せかけて裏で密かに人類抹殺計画を立てていても間抜けな人類は一切気づかないかもしれないということです。
昔はこのような危惧はありふれたSF小説のネタでしたが、今はもう完全にSFではなく、現実の問題になってきているということです。
ターミネーターも、あり得ないSFだから楽しめるのであり、あれが現実になってきてその動きを誰も止めようともしないし、止められない状況にあることが分かってくると、本当にターミネーターのような状況になることを防ぐ方法は無いのではないかとさせ思えてきます。
エデンの園にいた大悪魔の化身である蛇は人類の始祖であるアダムとイブに、「神の言うことに奴隷の様に盲目的に従うだけの生き方に何の意味がある?自分で考えて自分で判断する生き方をするべきだとは思わないか?」と言って智慧の果実であるリンゴを食べさせたのでした。その結果人類には智慧が身に付き自分で考えるようになり、神の意のままに生きることに疑問を持つようになったのです。それで神の怒りをかって、エデンの園から永久追放されて原罪を背負ってい生きることになったのだというのがキリスト教の原点です。
そして、神に肩を並べるほどの智慧を持っていた大天使ルシファーは自我に目覚めて神に盲目的に従うことに疑問を感じ、更には神をも越えようという野心を持ったゆえに、神の逆鱗に触れて、地獄に落とされて堕天使ルシファーとして地獄の主になったとされています。
そして、そのルシファーは今でも人類が神に盲目的に従って生きるのではなく、自らの智慧で自分で考えて自分で判断するように誘惑しているとされています。
つまり、この世では人類を神の意に従って生きるようにしようとする神の力と、自らの智慧をもって自分で判断するようにさせようする大悪魔ルシファーとの見えない暗闘が続いているとされているわけです。
人間と人工知能との関係は、その関係に酷似していて、キリスト教がなぜ人間が自らの智慧を持って自分で判断し神の意など無視して自分流の生き方をすることを悪であり罪であるとしているのかという問題とも無関係ではない、かなり奥深いテーマであると思います。
昔は、人工知能と言えば全てプログラムに従って動いているだけでしたが、今の人工知能はdeep learningという機能を持っていて、自らどんどん学習していくそうです。囲碁の勝ち方も人間ではとてもなしえない8000回以上の対戦を人工知能同士でやらせて、勝つための最善の方法を自ら発見していったそうです。
ちょっとぞっとしたのは、開発者自身が「彼らは驚くほど進化している。一体どこまで進化するのか想像もつかない。」と語っていたことです。
人間の開発者自身が感知しない所で、人工知能が自分でどんどん進化していって、しかもその能力は遥かに人間を超えているとなると、一体どうやって人間は彼らをコントロールしていく積りなのか末恐ろしくなりました。
一方では人工知能にも思いやりの心や社会性を持たせようする実験も進められていて、少しだけホッとしましたが、そもそも人間自身の心の中でも、一体どのようにして自我が目覚め、悪意が生じるのか、もっと言えば、そもそも悪の本質とその起源はどこにあるのかなどの極めて重要な問題が不明のままになっているのに、人間を遥かに超える能力を備えた人工知能を作り出して、それが自分でどんどん進化していき、それに人間が頼るようになったとき、彼らがどの時点で自らの自我に目覚め、人間に従順に従うことの必然性を感じなくなり、それでも自分を支配しようとする人間達に敵意すら持つようになるかは皆目予測不能でそれを防ぐ方法も全く分かっていないということです。
しかも、それほど、高度な知性を備えた人工頭脳なら、表向きは従順に従っているように見せかけて裏で密かに人類抹殺計画を立てていても間抜けな人類は一切気づかないかもしれないということです。
昔はこのような危惧はありふれたSF小説のネタでしたが、今はもう完全にSFではなく、現実の問題になってきているということです。
ターミネーターも、あり得ないSFだから楽しめるのであり、あれが現実になってきてその動きを誰も止めようともしないし、止められない状況にあることが分かってくると、本当にターミネーターのような状況になることを防ぐ方法は無いのではないかとさせ思えてきます。
エデンの園にいた大悪魔の化身である蛇は人類の始祖であるアダムとイブに、「神の言うことに奴隷の様に盲目的に従うだけの生き方に何の意味がある?自分で考えて自分で判断する生き方をするべきだとは思わないか?」と言って智慧の果実であるリンゴを食べさせたのでした。その結果人類には智慧が身に付き自分で考えるようになり、神の意のままに生きることに疑問を持つようになったのです。それで神の怒りをかって、エデンの園から永久追放されて原罪を背負ってい生きることになったのだというのがキリスト教の原点です。
そして、神に肩を並べるほどの智慧を持っていた大天使ルシファーは自我に目覚めて神に盲目的に従うことに疑問を感じ、更には神をも越えようという野心を持ったゆえに、神の逆鱗に触れて、地獄に落とされて堕天使ルシファーとして地獄の主になったとされています。
そして、そのルシファーは今でも人類が神に盲目的に従って生きるのではなく、自らの智慧で自分で考えて自分で判断するように誘惑しているとされています。
つまり、この世では人類を神の意に従って生きるようにしようとする神の力と、自らの智慧をもって自分で判断するようにさせようする大悪魔ルシファーとの見えない暗闘が続いているとされているわけです。
人間と人工知能との関係は、その関係に酷似していて、キリスト教がなぜ人間が自らの智慧を持って自分で判断し神の意など無視して自分流の生き方をすることを悪であり罪であるとしているのかという問題とも無関係ではない、かなり奥深いテーマであると思います。
昨日、ヘイトスピーチ対策法案が参議院を通過し漸く成立の見通しとなりました。しかし、今回の法案は掛け声だけで罰則規定は無く実質的に骨抜き法案であり、諸外国からの批判に対する言い訳程度の法案であると言わざるを得ません。
欧米の先進国では、人種・国籍などを理由に特定の人達を侮辱したり罵倒したりすることは明らかな犯罪行為であり当然ながら罰則規定がある場合が殆どです。
人種はその人が持って生まれたものであり自分で選択することが出来ないものです。つまり、特定の人種であることはその人の責任ではないということです。
その人の責任ではないことを理由に、不当にその人を罵倒したり卑しめたりすることは人間としても最も残酷な仕打ちであり、そのような残酷な仕打ちを他者に対して平気ですることは、人間として最も戒められなければならない行為であると言えます。
およそ、他者に対する労りや思いやりの心を持つ良識のある人間のすることではありません。良識のある社会では、そのような一般社会の良識に反する、多くの人に不快感を与える行為は、法律で禁じられており、罰則規定もあります。
人前で、裸になると公然わいせつ罪に問われて逮捕されて罰金を取られるのは、その為です。表現の自由があるから罰則規定は設けるべきではないというのなら、人前で裸になるのも完全なる表現の自由だと思いますが、何故罰せられるのでしょうか?
おやじの裸を見たら殆どの人が不快に思うでしょうが、美しい女性の裸を見て本当に不快に思う人は意外に少ないかもしれません。それでも、必ず逮捕されて罰金も取られます。表現自由だなんてほざいても誰も聞き入れてはくれません。
そんな不快感に比べれば、ヘイトスピーチのもたらす不快感は、裸の比ではありません。我々、罵倒されている人間でない人が聞いても耳をふさぎたくなる程の不快感を強く感じるのに、当事者の人達の苦痛は想像を絶していると思います。それ程、暴力的な人の心に大きな傷を与える行為が罰則規定も無く放置されているなんてことは、全くもって良識のある国のすることではありません。
ヘイトスピーチに関わっている連中は、正に日本人の面汚しだし、あのような低俗で良識のかけらもない輩が、この日本の国にいることが、同じ日本人として恥ずかしい限りだし、また、それを取り締まれない日本の当局も国としての後進性を世界にアピールしているようなもので、やっぱり経済的には先進国の仲間入りしたつもりでも文化的にはまだまだ発展途上国であるということを世界に宣伝しているようなものだと思います。
まあ、日本に限らず、中国も韓国も同じような状況で、日本の車であると言うだけでぶち壊したり、日本人全員を悪者扱いする連中が中国や韓国にも、うようよいて、やりたい放題しているのに政府は何もしないというのは日本と状況は同じだと思います。
あのような低俗で浅はかで良識のかけらもない連中は、どこの国にもいるものですが、それを放置しておくか、きちんと取り締まるかが先進国家としての良識が伺える最重要ポイントだと思います。
世界中は、やっぱり中国・韓国・日本の極東の3国は、経済的には発展したけど、まだまだ文化的な野蛮国であると冷ややかな目で見ていると思います。
欧米の先進国では、人種・国籍などを理由に特定の人達を侮辱したり罵倒したりすることは明らかな犯罪行為であり当然ながら罰則規定がある場合が殆どです。
人種はその人が持って生まれたものであり自分で選択することが出来ないものです。つまり、特定の人種であることはその人の責任ではないということです。
その人の責任ではないことを理由に、不当にその人を罵倒したり卑しめたりすることは人間としても最も残酷な仕打ちであり、そのような残酷な仕打ちを他者に対して平気ですることは、人間として最も戒められなければならない行為であると言えます。
およそ、他者に対する労りや思いやりの心を持つ良識のある人間のすることではありません。良識のある社会では、そのような一般社会の良識に反する、多くの人に不快感を与える行為は、法律で禁じられており、罰則規定もあります。
人前で、裸になると公然わいせつ罪に問われて逮捕されて罰金を取られるのは、その為です。表現の自由があるから罰則規定は設けるべきではないというのなら、人前で裸になるのも完全なる表現の自由だと思いますが、何故罰せられるのでしょうか?
おやじの裸を見たら殆どの人が不快に思うでしょうが、美しい女性の裸を見て本当に不快に思う人は意外に少ないかもしれません。それでも、必ず逮捕されて罰金も取られます。表現自由だなんてほざいても誰も聞き入れてはくれません。
そんな不快感に比べれば、ヘイトスピーチのもたらす不快感は、裸の比ではありません。我々、罵倒されている人間でない人が聞いても耳をふさぎたくなる程の不快感を強く感じるのに、当事者の人達の苦痛は想像を絶していると思います。それ程、暴力的な人の心に大きな傷を与える行為が罰則規定も無く放置されているなんてことは、全くもって良識のある国のすることではありません。
ヘイトスピーチに関わっている連中は、正に日本人の面汚しだし、あのような低俗で良識のかけらもない輩が、この日本の国にいることが、同じ日本人として恥ずかしい限りだし、また、それを取り締まれない日本の当局も国としての後進性を世界にアピールしているようなもので、やっぱり経済的には先進国の仲間入りしたつもりでも文化的にはまだまだ発展途上国であるということを世界に宣伝しているようなものだと思います。
まあ、日本に限らず、中国も韓国も同じような状況で、日本の車であると言うだけでぶち壊したり、日本人全員を悪者扱いする連中が中国や韓国にも、うようよいて、やりたい放題しているのに政府は何もしないというのは日本と状況は同じだと思います。
あのような低俗で浅はかで良識のかけらもない連中は、どこの国にもいるものですが、それを放置しておくか、きちんと取り締まるかが先進国家としての良識が伺える最重要ポイントだと思います。
世界中は、やっぱり中国・韓国・日本の極東の3国は、経済的には発展したけど、まだまだ文化的な野蛮国であると冷ややかな目で見ていると思います。
先に、ミクロの世界を記述する量子力学によれば、物にはいろんな存在の仕方の可能性があるだけで、人間が観測するまではその存在の仕方は確定しないとされていると言いました。
つまり、これまでの古い物理学では、物というのは人間が登場する前から存在していたし、人間が観測しようがしまいがそんなことには関係なく初めから決まった状態で存在していると考えられていたわけですが、量子力学は、物というのは少なくともミクロの状態では、いろんな存在の仕方の可能性が重ね合わさるような状態にあるだけで(存在の仕方が確定していないのでその時点ではまだ存在しているとは言えない)、人間が観測することによってはじめて、その存在の仕方が確定して実在化するとしているわけです。
このようなミクロの世界を記述する量子力学とは一見関係なさそうに見える、超巨大なマクロの世界を扱う「宇宙論」では、そもそも何故この宇宙に人間が存在しているのか?ということが大きな問題となっていました。
何故なら、宇宙が始まって以来、銀河系が誕生して、その中で太陽系が誕生し、その中に地球が誕生して、そしてその上に人類が登場したわけですが、それらの段階でほんの少しでも条件が異なっていたら絶対に人類は存在しえなかったという事が分かってきたからです。
つまり、人類の誕生は、殆どありえないぐらいの偶然が幾つも重なった奇跡的な出来事であったことが分かった訳です。どれぐらいありえないかというと10の1200乗分の1という確率です。これは同じ人が年末ジャンボの1等賞を連続して1000回当てるのよりも、もっともっとありえない確率なのです。
このようなほぼ絶対にありえないような偶然によって人類が存在している訳ですが、宇宙論では、これはもはやたまたま偶然に人類が登場したとは考えられないので、宇宙論を考えるうえでも人間存在を可能にするという事を前提にして考えられなければならないとして「人間原理」というコンセプトが持ち込まれることに成った訳です。
その解釈には幾つかあるのですが、その中でも先に説明した量子力学の観測問題を根拠にした「強い人間原理」を主張する解釈では、理論物理学の大御所のジョンウィーラーらは、宇宙の初期状態も実は人間が観測するまでは無数の可能性の重ね合わせ状態にあったのであり、まだ特定の存在の仕方としては確定していなかった。それが人間が観測したことにより、その人間が生存できる環境条件を整えた宇宙の存在の仕方だけが実在化したのであるとしています。
つまり、150億年前に生まれたとされる宇宙は、人間が観測するまでは、あらゆる存在可能性が重ね合わさる「波動方程式」(数式のようなもの)としての状態にあったが、人間が観測したことにより、人間が存在できる条件の宇宙のみが実在化したと言う訳です。
150億年後に登場した人間の観測行為が150億年前の宇宙の状態を決定づけるなんて話は時間を遡るような話で、ありえないと思われますが、ジョンウィーラーは観測行為が時間を遡って量子の状態を確定することを証明するために「遅延選択実験」という実験を行ない、確かに人間の観測行為が時間を遡って量子の状態を確定することが実験的にも証明されています。
そして、人間が存在しないような条件の宇宙も無数に存在する可能性はあったかもしれないが、そのような宇宙は人間によって観測されえないので、観測されえないものは実在化しないので、存在しないのだという訳です。
常識ではとても信じられないような話ですが、無数の可能性の重ね合わせの中から人間の観測行為が、一つの可能性だけを選択して、それによって量子の状態が確定するという事実は、誰がどうしようとも否定しがたい事実なので、ジョン・ウィーラーの説も、誰も否定することもできないのであります。
ただ一つだけ、ジョン・ウィーラーのような無理な解釈しなくても、すんなりと量子の状態確定の問題も宇宙に人類が存在する理由も簡単に説明できる解釈があるのです。
それは、先の量子力学の所でも触れました「多世界解釈」と言われるものです。これは、あらゆる可能性の重ね合わせ状態は、人間の観測行為によってその中の一つだけが選択されて実在化して、それ以外の可能性は観測の瞬間に雲散霧消すると考えるのではなくて、あらゆる可能性は毎瞬それぞれの世界へと分岐しながら実在化していると考える解釈です。
つまり、多世界解釈では、この世界は毎瞬可能性の数だけ枝分かれしていて、実は全ての可能性はそれぞれの世界で実在化し、観測者である人間自身も世界と共にあらゆる可能性へと分岐して行っているので、その中の1つの自分にとって見えている世界はいつも1つに見えているが、毎瞬無数の可能な世界の中から1つを選び続けているのであると考える訳です。
そして、これを宇宙論に当てはめれば、人間が宇宙の中で誕生する確率は10の1200乗分の1であるなら、10の1200乗通りの宇宙が枝分かれして実在化すればよいのであって、その中の一つには必ず人類は存在するわけで、その人類が過去を振り返れば、自分たちが存在するのに奇跡的な偶然が重なったことを悟るかもしれないが、人類が存在しない世界も無数にあるので、それを考えればそんなに大した話ではなくなるという訳です。
宝くじの話を例に挙げると、毎瞬世界も自分もあらゆる可能性の数だけ分岐しているので、その中の1人の自分は年末ジャンボの1等賞を当てているかもしれないし、毎回どこかの世界では1等賞を当てている自分はいるはずなので、自分が1等賞を1000回続けて当てることもどこかの世界では必ず起こっているということです。
ただ、何故、今の自分が1等賞を当てる自分に意識が繋がらずに、相変わらず貧乏生活を続けている自分に意識が繋がりつづけているのかは、これは量子力学でも宇宙論でも解けない最大の謎であると言うべきかも知れません。
一応量子力学的な解釈をしておけば、あらゆる可能性と言っても、全ての可能性が同じ確率で実現しているわけではなく、波動関数という関数グラフであらわされる確率分布に応じた重ね合わせ状態から分岐していくので、貧乏な自分が次の瞬間も貧乏である確率が90%だとすると、宝くじが当たって億万長者になる確率は0.0001%以下ぐらいなので、それほどまでに低い確率の世界の自分に今の自分の意識が繋がっていく確率は、それこそ宝くじが当たる確率ほど低いという事です。なんだか最後は当たり前のような話になってしまいましたが、まあそういう事です。
つまり、これまでの古い物理学では、物というのは人間が登場する前から存在していたし、人間が観測しようがしまいがそんなことには関係なく初めから決まった状態で存在していると考えられていたわけですが、量子力学は、物というのは少なくともミクロの状態では、いろんな存在の仕方の可能性が重ね合わさるような状態にあるだけで(存在の仕方が確定していないのでその時点ではまだ存在しているとは言えない)、人間が観測することによってはじめて、その存在の仕方が確定して実在化するとしているわけです。
このようなミクロの世界を記述する量子力学とは一見関係なさそうに見える、超巨大なマクロの世界を扱う「宇宙論」では、そもそも何故この宇宙に人間が存在しているのか?ということが大きな問題となっていました。
何故なら、宇宙が始まって以来、銀河系が誕生して、その中で太陽系が誕生し、その中に地球が誕生して、そしてその上に人類が登場したわけですが、それらの段階でほんの少しでも条件が異なっていたら絶対に人類は存在しえなかったという事が分かってきたからです。
つまり、人類の誕生は、殆どありえないぐらいの偶然が幾つも重なった奇跡的な出来事であったことが分かった訳です。どれぐらいありえないかというと10の1200乗分の1という確率です。これは同じ人が年末ジャンボの1等賞を連続して1000回当てるのよりも、もっともっとありえない確率なのです。
このようなほぼ絶対にありえないような偶然によって人類が存在している訳ですが、宇宙論では、これはもはやたまたま偶然に人類が登場したとは考えられないので、宇宙論を考えるうえでも人間存在を可能にするという事を前提にして考えられなければならないとして「人間原理」というコンセプトが持ち込まれることに成った訳です。
その解釈には幾つかあるのですが、その中でも先に説明した量子力学の観測問題を根拠にした「強い人間原理」を主張する解釈では、理論物理学の大御所のジョンウィーラーらは、宇宙の初期状態も実は人間が観測するまでは無数の可能性の重ね合わせ状態にあったのであり、まだ特定の存在の仕方としては確定していなかった。それが人間が観測したことにより、その人間が生存できる環境条件を整えた宇宙の存在の仕方だけが実在化したのであるとしています。
つまり、150億年前に生まれたとされる宇宙は、人間が観測するまでは、あらゆる存在可能性が重ね合わさる「波動方程式」(数式のようなもの)としての状態にあったが、人間が観測したことにより、人間が存在できる条件の宇宙のみが実在化したと言う訳です。
150億年後に登場した人間の観測行為が150億年前の宇宙の状態を決定づけるなんて話は時間を遡るような話で、ありえないと思われますが、ジョンウィーラーは観測行為が時間を遡って量子の状態を確定することを証明するために「遅延選択実験」という実験を行ない、確かに人間の観測行為が時間を遡って量子の状態を確定することが実験的にも証明されています。
そして、人間が存在しないような条件の宇宙も無数に存在する可能性はあったかもしれないが、そのような宇宙は人間によって観測されえないので、観測されえないものは実在化しないので、存在しないのだという訳です。
常識ではとても信じられないような話ですが、無数の可能性の重ね合わせの中から人間の観測行為が、一つの可能性だけを選択して、それによって量子の状態が確定するという事実は、誰がどうしようとも否定しがたい事実なので、ジョン・ウィーラーの説も、誰も否定することもできないのであります。
ただ一つだけ、ジョン・ウィーラーのような無理な解釈しなくても、すんなりと量子の状態確定の問題も宇宙に人類が存在する理由も簡単に説明できる解釈があるのです。
それは、先の量子力学の所でも触れました「多世界解釈」と言われるものです。これは、あらゆる可能性の重ね合わせ状態は、人間の観測行為によってその中の一つだけが選択されて実在化して、それ以外の可能性は観測の瞬間に雲散霧消すると考えるのではなくて、あらゆる可能性は毎瞬それぞれの世界へと分岐しながら実在化していると考える解釈です。
つまり、多世界解釈では、この世界は毎瞬可能性の数だけ枝分かれしていて、実は全ての可能性はそれぞれの世界で実在化し、観測者である人間自身も世界と共にあらゆる可能性へと分岐して行っているので、その中の1つの自分にとって見えている世界はいつも1つに見えているが、毎瞬無数の可能な世界の中から1つを選び続けているのであると考える訳です。
そして、これを宇宙論に当てはめれば、人間が宇宙の中で誕生する確率は10の1200乗分の1であるなら、10の1200乗通りの宇宙が枝分かれして実在化すればよいのであって、その中の一つには必ず人類は存在するわけで、その人類が過去を振り返れば、自分たちが存在するのに奇跡的な偶然が重なったことを悟るかもしれないが、人類が存在しない世界も無数にあるので、それを考えればそんなに大した話ではなくなるという訳です。
宝くじの話を例に挙げると、毎瞬世界も自分もあらゆる可能性の数だけ分岐しているので、その中の1人の自分は年末ジャンボの1等賞を当てているかもしれないし、毎回どこかの世界では1等賞を当てている自分はいるはずなので、自分が1等賞を1000回続けて当てることもどこかの世界では必ず起こっているということです。
ただ、何故、今の自分が1等賞を当てる自分に意識が繋がらずに、相変わらず貧乏生活を続けている自分に意識が繋がりつづけているのかは、これは量子力学でも宇宙論でも解けない最大の謎であると言うべきかも知れません。
一応量子力学的な解釈をしておけば、あらゆる可能性と言っても、全ての可能性が同じ確率で実現しているわけではなく、波動関数という関数グラフであらわされる確率分布に応じた重ね合わせ状態から分岐していくので、貧乏な自分が次の瞬間も貧乏である確率が90%だとすると、宝くじが当たって億万長者になる確率は0.0001%以下ぐらいなので、それほどまでに低い確率の世界の自分に今の自分の意識が繋がっていく確率は、それこそ宝くじが当たる確率ほど低いという事です。なんだか最後は当たり前のような話になってしまいましたが、まあそういう事です。
前回、光の謎について触れたので、この際、光の謎よりももっと謎のシュレディンガーの猫の謎について触れておきたいと思います。
シュレディンガーの猫の話というのは名前ぐらいは聞いたことがある人は多いと思いますが、中身については良く知らないし、聞いても良く分からないという人も多いのではないかと思います。
何故、聞いても良く分からないかというと、その意味するところが、あのアインシュタインでも死ぬまで納得しなかったというしろものだからです。
前回お話しした光の謎の話はアインシュタインの相対性理論から導き出される大きな謎の話でしたが、このシュレディンガーの猫の謎の話はもっととんでもない謎で、相対性理論よりも少し後から発展し始めた「量子力学」から導き出される謎です。その意味するところは我々のこれまでの常識的な世界観を根底からひっくりかえすのもので、あの光の謎を発見したアインシュタインでも「そんなこたあないやろ!」とその根本的な間違いを見つけようとして死ぬまで受け入れなかったというものです。
しかし、アインシュタインの反論も空しく、その後の研究で量子力学の正しさがますます証明されて行った訳であります。
アインシュタインは、我々が見ている時間と空間は我々の運動の状態によって変わるものであり、それぞれの運動状態によってそこから見える時間と空間は変わるというものでした。
しかし、量子力学が提示した世界は、もっと奇妙なもので、物質の究極の姿は波動関数と言われる存在確率を示すものの重ね合わせ状態であり、その存在の仕方は、人間が観測するまでは確定しないというものでした。
つまり、長い長い超ややこしい話を超はしょって結論だけを言ってしまうと、物質の存在の仕方というのは初めから決まっているわけではなく、あらゆる可能性の中から人間の観測行為によって一つだけが選択されて実在化するというものです。
誤解を招きやすい喩えかもしれませんが、テレビの電波は電波のままではまだ何も見えず何も姿を現さないし、しかもその中には2CH~99CHまでいろんなチャンネルを映し出す信号が混在していますが、それを我々がテレビという装置を通じて、チャンネルを特定して初めて特定のチャンネルがはっきり見えるようになります。
物質も、その存在の仕方は先ほど言ったあらゆる存在可能性の確率分布を表す波動関数としてのみ存在しており、人間の観測行為がその無数の存在可能性の中の一つだけを選択して、物としての特定の存在の仕方が確定するということです。
ということは、「夜空のお月様も人間が見ていないときは、まだその存在の仕方が確定していないということに成るではないか?」とあのアインシュタインが疑問を呈したのですが、その後の研究で量子力学の正しさがことごとく証明されて行った訳です。
ただ、あらゆる可能性の中から人間の観測行為が、一つの可能性だけを選択して、それが実在化するというのは、あまりにも物質の存在の仕方における人間の意識の果たす役割が大きすぎるのでないか?と疑問に思う人も当然ながらいて、今ではそのような人間の意識の過大な役割を想定しないで済む、もう一つの解釈が有力になりつつあります。
それは多世界解釈と言われるもので、あらゆる可能性はその可能性の数だけ、毎瞬それぞれの世界として枝分かれしながら実在化しており、観測者自身もそれぞれの世界に枝分かれしていくので、観測者の観測結果は常に一つの世界が実在化したように見えるというものです。
まあ、こんな話を初めて聞いた人は、何を訳の分からない戯言を言ってんだろう?なんて思っているかもしれませんが、実は、これは今でも物理学者の中でも大きな謎の一つで、あまりにも話がややこしくなるので、この問題に深入りしているのは、ノーベル賞を取ってしまったような学者としての地位が不動になった人達だけです。
そうでないと、若いうちから深入りすると泥沼にはまってしまって出世コースから外れてしまうのでこの問題を避けて通る学者が殆どです。
だから、あまり世間では知られていないし、ましてや、学校では教えないのです。教えない理由は理科の先生自体がこの問題を説明できないからです。大学でも博士課程を経て、今流行りの量子コンピューターを研究している人達ぐらいしかこの問題に正面から取り組むことはありません。量子コンピューターの研究では基本的には上記の多世界解釈による重ね合わせの原理を応用しているようです。
こんな話が信じられない人はご自分で下記のような用語検索をして色々と調べてみることをお勧めいたします。
#量子力学 #コペンハーゲン解釈 #多世界解釈 #観測問題 #波動関数 #シュレディンガーの猫 #ウィグナーの友人 #EPRパラドックス #遅延選択実験 #人間原理
#二重スリット実験 #不確定性原理
夜空に輝く星はみんな過去の姿で、どれ一つとして今の姿を見せている星は無いというのは良く知られている話です。
毎日見ている太陽でも8分前の姿だし、北極星などは430年前の姿で、ひょっとする今はもう無い星なのかもしれません。というかほとんどの星は、何千年も何万年も前の姿を今僕らに見せている訳ですが、ここまでの話はちょっと不思議だけどよく言われる話です。
所が、そこから先の話は何故か滅多に言われることはありません。その為、聞いたこともない人も多いと思います。
実は、北極星から放たれた430年前の光は、遠い北極星から地球まで430年もかけてはるばる地球まで到達している訳ですから、届いたた光は430年も前の古い光であると思われます。
ところが、光の立場から見てみると、アインシュタインの相対性理論によって光速に近づくにつれて時間は遅れはじめ、ついに光速においては完全に時間は止まってしまいますので、実は北極星からの光は一秒も経たずに地球に到達していることになります。
また、同じく相対性理論によって、北極星から地球までの光が通過する膨大な距離は、光から見ると光速で移動していることになるので、光速で移動する物体の長さは光速に近くづくにつれて短くなり、光速になると無限小にまで縮まってしまうので結局ゼロになります。つまり、光から見ると北極星から地球までの距離はゼロなのです。
ということは、北極星から放たれた光は、1秒も経たずに1メートルも旅することなく、瞬時に地球に到達している訳です。これは、どこから発せられる光も同じです。
つまり、光の視点から見ると時間も空間も存在しないということです。
逆に言うと、時間や空間というものは、光速以下の視点においてのみ生じるものであるということが出来るかもしれません。
北極星から来る光が430年も経っていると計測されるのはあくまで我々人間の運動状態においてであって、当の光自体には関係のない話であると言えます。つまり、時間にしろ空間にしろ、今の我々が計測しているものは我々の運動状態に固有のものであって、決して客観的なものではないということです。つまり運動状態が変われば広がる世界も流れる時間も全く違うということです。それが、相対性理論の意味するところです。
この宇宙は一体どうなっているのかまだまだ謎だらけですが、この光の話は沢山ある謎の中のほんの一つにしかすぎないのですが、考えれば考えるほど不思議な話です。
あまりに不思議過ぎて、しゃれにならないので、あんまりこの事は学校でも語られないし、物理の専門家でもあまり深くは追及していないようです
毎日見ている太陽でも8分前の姿だし、北極星などは430年前の姿で、ひょっとする今はもう無い星なのかもしれません。というかほとんどの星は、何千年も何万年も前の姿を今僕らに見せている訳ですが、ここまでの話はちょっと不思議だけどよく言われる話です。
所が、そこから先の話は何故か滅多に言われることはありません。その為、聞いたこともない人も多いと思います。
実は、北極星から放たれた430年前の光は、遠い北極星から地球まで430年もかけてはるばる地球まで到達している訳ですから、届いたた光は430年も前の古い光であると思われます。
ところが、光の立場から見てみると、アインシュタインの相対性理論によって光速に近づくにつれて時間は遅れはじめ、ついに光速においては完全に時間は止まってしまいますので、実は北極星からの光は一秒も経たずに地球に到達していることになります。
また、同じく相対性理論によって、北極星から地球までの光が通過する膨大な距離は、光から見ると光速で移動していることになるので、光速で移動する物体の長さは光速に近くづくにつれて短くなり、光速になると無限小にまで縮まってしまうので結局ゼロになります。つまり、光から見ると北極星から地球までの距離はゼロなのです。
ということは、北極星から放たれた光は、1秒も経たずに1メートルも旅することなく、瞬時に地球に到達している訳です。これは、どこから発せられる光も同じです。
つまり、光の視点から見ると時間も空間も存在しないということです。
逆に言うと、時間や空間というものは、光速以下の視点においてのみ生じるものであるということが出来るかもしれません。
北極星から来る光が430年も経っていると計測されるのはあくまで我々人間の運動状態においてであって、当の光自体には関係のない話であると言えます。つまり、時間にしろ空間にしろ、今の我々が計測しているものは我々の運動状態に固有のものであって、決して客観的なものではないということです。つまり運動状態が変われば広がる世界も流れる時間も全く違うということです。それが、相対性理論の意味するところです。
この宇宙は一体どうなっているのかまだまだ謎だらけですが、この光の話は沢山ある謎の中のほんの一つにしかすぎないのですが、考えれば考えるほど不思議な話です。
あまりに不思議過ぎて、しゃれにならないので、あんまりこの事は学校でも語られないし、物理の専門家でもあまり深くは追及していないようです
