アメーバでは今日はマッチの日になっているようですが、今日9月16日は9:16というハイビジョンの画像比率と同じなので、「ハイビジョンの日」であるとどこかに書いてありました。
昔のテレビからハイビジョンになった時はあまりの鮮明さに目が覚める思いがしたものです。
パソコンで動画を加工したりすると良く分かりますが、画像の鮮明さは画素数の多さに比例しますし、動きの滑らかさはフレームレート(fps)つまり一秒間に何コマの静止画を表示するかによって変わります。ハイビジョン動画なら一秒間に60コマの静止画が入れ替わって動画に見えるようになっています。
実は、映画でもビデオでもあらゆる動画と言われるものは、点滅しており、また点滅しないと動画にはなりません。映画のフィルムをご覧になれば分かる通り、フィルム上では静止画が映っているだけで、それを1秒間に何コマか単位で流すと動画に成ります。そんなことは当たり前の話で今更特に取り立てて言う話でも無かろうと思われる方も少なくないとは思います。
しかし、本当に興味深いのは、点滅しないと動画にならないというのは、何もビデオや映画に限った話では無くて、我々の現実世界そのものも、実は点滅しおり、点滅しているからこそ動きがあるということです。
実は、この事実は、比較的最近まであまり知られていませんでした。科学者でも、ちょっと昔の物理学者たちは、物質はずっと存在し続けていると思っていましたし、原子レベルでも、地球が太陽の周りを回っているように、原子核の周りをぐるぐる電子がまわっていると思っていました。
所が、電子のエネルギー計算をすると直ぐにそんなことは不可能であることが分ったのです。もし、電子が原子核の周りを回り続けているとすると、あっと言う間にエネルギーを使い果たして原子核の引力に引っ張られて原子核に激突してしまうことが分ったのです。
で、結論から言うと、電子は原子核の周りをグルグルと回りつづけている訳ではなくて、ある特定の確率の範囲内に存在する可能性があると言う状態にあるだけで、実際に観測されるまでは、その状態は確定できないということが分りました。また、実際に観測されても位置か運動量かのどちらかしか確定できないことも分りました。それを、ハイゼンベルグの不確定性原理と言います。
更に不思議なのは、電子のエネルギー状態の変化も1,2,3とデジタル式に変化することが分かりました。デジタル式と言うのは、よく車についているデジタル時計だと7時59分から8時00分にいきなり変わるので、7時59分1秒なのか7時59分59秒なのかは次の表示に変わるまでは皆目分からないと言う難点があります。時計であれば、本当はアナログ時計の針のように7時59分から8時00分まで長針が動き続けてから8時なったと言えますが、デジタル時計は必ず1,2,3と飛び飛びの値しか表示しません。それと同様に電子の場合も、1,2,3の間は全く不連続でとびとびの値を取ると言うことです。
つまり、1のエネルギー状態にあった電子は2の状態になるまでに、1.1, 1.2, 1.3・・・と連続的にエネルギー状態が増して2に到達するのではなくて、1からいきなり2になるのであります。1から2までの間の状態は一切ありえないと言うことです。
1と言うエネルギー状態にあった電子が2の状態に遷移する時は、1の状態からいったん消えて、いきなり2の状態でまた現れると言うことが分った訳であります。
このように、電子などの素粒子は、連続的に存在している訳ではなくて、デジタル的な数値に従って消えたり現れたりを繰り返しているということが分った訳です。
そして、この世の全てのものは素粒子から構成されているので、全てのものは消えたり現れたりの点滅を繰り返しているということが分かった訳です。
動画に詳しい人なら分かると思いますが、動画の動きを出来るだけ滑らかにしようとして、1秒間に入れ替わる静止画のコマ数を(fps=フレームパーセカンド)通常は60フレーム位ですが、それを無理やり1万フレーム位にしたら余りの情報量の多さに動画が動かなくなると思います。
それと同様に、実際の物質も、アナログ的に連続的に存在し続けると言うことは、一つの状態から次の状態に移行するまでの過程が無限の数だけあることになってしまうため、どのような変化も移動も出来ない事になる訳であります。
つまり、連続的に存在し続けると言うことは、変化の過程においても存在し続ける訳ですから、その過程の数は無限になってしまい、無限の数の過程を経るには無限の時間が掛かるため、実質的に変化できない事になる訳です。
しかし、実際に、我々が見ているものは絶えず変化しており、移動もしている訳ですから、変化したり、移動したりするには、その変化や移動の過程が無限数にならない様にどこかで変化の過程の数を減らさなければならないわけです。そして、実際に変化の過程の数を減らすには飛び飛びの値を取るしかない、つまり、点滅するしかないという事です。
むかし、ゼノンの矢のパラドックスと言うものがありました。今から二千何百年も前のギリシャの哲学者ゼノンによって提示された問題ですが、飛んでいる矢は的までの間の中間点を通らねばならず、その中間点の数は無限個あるため、無限個の中間点を通るには無限時間かかる為、矢は永遠に的に到達できないというものです。
所が実際には矢は的に到達できるため、その理由をどうやって説明したらいいか、古来、色んな人が屁理屈を捏ねてきた問題でした。
しかし、実際、もし矢と言うものが連続的に存在しているものであるとすると、正にゼノンの言う通りであって、矢は無限の中間点を通らねばならず、永遠に移動もできないことになります。
多くの哲学者や数学者は色んな方法で論証しようとしてきましたが、矢が連続的に存在しているという前提に立つ限りは、どのような論証も屁理屈に過ぎず、ちゃんとゼノンを論破できたと言える人は一人も居ませんでした。
所が、先にも言いましたように、20世紀になって量子論が発展して、物は連続的には存在しておらず、絶えず点滅しているのであるということが分かって初めて、ゼノンの矢のパラドックスの謎も解けたわけであります。
矢も点滅しながら現れたり消えたりしながら移動しているので、無限の中間点を通る必要もなく、多くの中間点をすっ飛ばしながら移動しているので、的に到達できるわけであります。
のぞみも快速も間の駅をすっ飛ばすから早いのであって、間に無限の数の駅があったら永遠にどこにもたどり着けないということであります。
宮沢賢治の《春と修羅》 序の中に以下の様な一節があります。
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽靈の複合體)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
あの時代に既に、全てが明滅している現象であると言うコンセプトを持っていたという所に彼の天才が伺えます。
今日9月12日は宇宙の日だそうで、せっかく宇宙の日なんだったら、昔、NASAのハッブル望遠鏡の写真に自分で作った音楽を入れて、ちょっとした宇宙旅行気分が味わえる動画を作ったことがありますので、この際、その動画を改めてアップさせて頂きます。
もう既に見たことのある人も居るかもしれませんが、未だ見たことがない人は、部屋を暗くしてパソコンを全画面にしてヘッドホンで大音量で聞くと、な~んちゃって宇宙旅行に行けます。お試しください。
2001年9月11日のあの忌まわしい米国同時多発テロからもう15年が経ちました。ついこないだだったようにも思いますが、もう15年もたっていることに驚いてしまいます。改めて犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
あの頃は、僕はまだL.A.に住んでいて、早朝6時半ごろでまだ寝ていた頃に突然ニューヨークに住んでいる友人から電話があり、貿易センタービルが倒れた!ということと共通の友人であるAさんが中にいたはずだ!とパニくった様子で電話口で叫んでいました。
僕は寝起きでまだ目が覚めていなかったので、ツインタワーが倒れた?そんな馬鹿な話がある訳ないでしょ?この電話自体がまだ夢の中なのかな?と一瞬信じられませんでした。
ところが、寝ぼけながらもベッドルームのテレビをつけてみたらなんとビルの上の方がまっ黒焦げで穴が開いて煙が出ているではありませんか。それを見てようやく、本当だったということが分かりました。そして、まもなくビルはガラガラと崩壊していくのでした。
その光景自体があまりに衝撃的で現実感がありませんでした。
その共通の友人の安否は、その日の内に判り、無事であることが確認されました。
彼女は最初に飛行機が突っ込んだビルとは別のビルの上層階にいたのですが、最初は事態の把握も出来なかったそうですが、暫くして、とにかく避難することにして、エレベーターで下に降りている途中で、ビル全体がとてつもない衝撃音とともに大きく揺れたそうです。2機目が彼女のいたビルに激突したのです。そこで、エレベーターがとまり、幸い地上10階までは来ていてそのフロアーでエレベーターのドアが開いたので、飛び出して非常階段を必死で駆け下りたそうです。
そして、ビルの外に出て必死でビルから遠ざかっている途中に今まで自分が居たビルが大音響と共に崩壊していったそうです。
自分が避難した時には、まだ沢山の人が中にいたそうで、その人たちのことを思うと涙が止まらなかったと言うことです。
犯人はイスラム過激派のアルカーイダのメンバーだそうですが、全く関係のない普通の一般市民何千人もの命を平気で奪うというその発想がとても信じられませんでした。
彼らから言わせれば、アメリカやイスラエルは常にアラブやパレスチナの罪もない数多くの一般市民の命を平気奪っているのだから当然の報いであると言うことなんだと思いますが、別にツインタワーで働いていた人たちがパレスチナの人々の命を奪ったわけではないので、いずれにしてもとんでもない八つ当たりだと言えます。
しかし、米国での同時多発テロのニュースを聞いて、パレスチナの人々は歓喜乱舞していたそうです。
何千人もの罪もない人々の命が失われたのに、その事実に対して狂喜乱舞できるというほど、彼らの米国に対する恨みつらみは積もり積もっていたというその事実に改めて衝撃を受けました。
正に悲劇は憎しみを生み、その憎しみは更なる悲劇を生むというその典型だと思いました。
アルカーイダは元はと言えば、1980年代のソ連のアフガン侵攻に対抗するゲリラを強化し組織化するためにアメリカとパキスタンの情報局が共同で訓練した組織が母体になっています。つまり、アメリカのCIAが彼らの軍事訓練をはじめ、ありとあらゆる破壊活動の仕方を教えたわけです。
つまり、CIAが彼らをテロリストに育てたわけです。そして、目的のためには手段を選ばないという発想もその時以来彼らに伝授されたもののような気がします。
というのも、歴史的に見ても、イスラム教はもともと寛容な宗教であり、現在のような過激な思想は近年特有のものだからです。
アメリカは、自らが伝授したテロ活動と目的のために手段を選ばないという過激思想によって、自国の人々に大きな被害を与えることになってしまったわけです。
この目的のためには手段を選ばないという思想の原点がどこにあるのかは、とりあえずおいておくとして、この思想こそがあらゆる惨劇の大元になっているのではないかと僕は強く感じている次第であります。
9.11はそのような諸悪の根源的な発想がもたらした象徴的な事件であり、だからこそ、決しては忘れてはならないと思うわけであります。
あの頃は、僕はまだL.A.に住んでいて、早朝6時半ごろでまだ寝ていた頃に突然ニューヨークに住んでいる友人から電話があり、貿易センタービルが倒れた!ということと共通の友人であるAさんが中にいたはずだ!とパニくった様子で電話口で叫んでいました。
僕は寝起きでまだ目が覚めていなかったので、ツインタワーが倒れた?そんな馬鹿な話がある訳ないでしょ?この電話自体がまだ夢の中なのかな?と一瞬信じられませんでした。
ところが、寝ぼけながらもベッドルームのテレビをつけてみたらなんとビルの上の方がまっ黒焦げで穴が開いて煙が出ているではありませんか。それを見てようやく、本当だったということが分かりました。そして、まもなくビルはガラガラと崩壊していくのでした。
その光景自体があまりに衝撃的で現実感がありませんでした。
その共通の友人の安否は、その日の内に判り、無事であることが確認されました。
彼女は最初に飛行機が突っ込んだビルとは別のビルの上層階にいたのですが、最初は事態の把握も出来なかったそうですが、暫くして、とにかく避難することにして、エレベーターで下に降りている途中で、ビル全体がとてつもない衝撃音とともに大きく揺れたそうです。2機目が彼女のいたビルに激突したのです。そこで、エレベーターがとまり、幸い地上10階までは来ていてそのフロアーでエレベーターのドアが開いたので、飛び出して非常階段を必死で駆け下りたそうです。
そして、ビルの外に出て必死でビルから遠ざかっている途中に今まで自分が居たビルが大音響と共に崩壊していったそうです。
自分が避難した時には、まだ沢山の人が中にいたそうで、その人たちのことを思うと涙が止まらなかったと言うことです。
犯人はイスラム過激派のアルカーイダのメンバーだそうですが、全く関係のない普通の一般市民何千人もの命を平気で奪うというその発想がとても信じられませんでした。
彼らから言わせれば、アメリカやイスラエルは常にアラブやパレスチナの罪もない数多くの一般市民の命を平気奪っているのだから当然の報いであると言うことなんだと思いますが、別にツインタワーで働いていた人たちがパレスチナの人々の命を奪ったわけではないので、いずれにしてもとんでもない八つ当たりだと言えます。
しかし、米国での同時多発テロのニュースを聞いて、パレスチナの人々は歓喜乱舞していたそうです。
何千人もの罪もない人々の命が失われたのに、その事実に対して狂喜乱舞できるというほど、彼らの米国に対する恨みつらみは積もり積もっていたというその事実に改めて衝撃を受けました。
正に悲劇は憎しみを生み、その憎しみは更なる悲劇を生むというその典型だと思いました。
アルカーイダは元はと言えば、1980年代のソ連のアフガン侵攻に対抗するゲリラを強化し組織化するためにアメリカとパキスタンの情報局が共同で訓練した組織が母体になっています。つまり、アメリカのCIAが彼らの軍事訓練をはじめ、ありとあらゆる破壊活動の仕方を教えたわけです。
つまり、CIAが彼らをテロリストに育てたわけです。そして、目的のためには手段を選ばないという発想もその時以来彼らに伝授されたもののような気がします。
というのも、歴史的に見ても、イスラム教はもともと寛容な宗教であり、現在のような過激な思想は近年特有のものだからです。
アメリカは、自らが伝授したテロ活動と目的のために手段を選ばないという過激思想によって、自国の人々に大きな被害を与えることになってしまったわけです。
この目的のためには手段を選ばないという思想の原点がどこにあるのかは、とりあえずおいておくとして、この思想こそがあらゆる惨劇の大元になっているのではないかと僕は強く感じている次第であります。
9.11はそのような諸悪の根源的な発想がもたらした象徴的な事件であり、だからこそ、決しては忘れてはならないと思うわけであります。
以前からこのブログでも折に触れて欧米特にアメリカにおける保守とリベラルの話を少しだけしてきましたが、あまり深入りすると話が長くなるので表向きの話だけに留めてきました。
しかし、最近は世界的な貧富の格差の拡大が大きな政治・経済・社会問題の原因となってきているため、そのことが従来の保守とリベラルとの対立という枠を超えて政策論争の中心になりつつあります。そして、今後ますますその傾向は強くなってくると思います。
そこで、今回は、今後、国際情勢を考えていくうえで、様々な要因が絡み合って何が何だか分からなくなってしまう前に、先ずは従来の欧米における保守とリベラルの対立の本質とは一体何であったのかを今一度整理・確認しておきたいと思います。
そもそもリベラリズムとは何かというと、そのまま訳すと自由主義という事になります。自由主義と言っても何に対する自由かによってその意味あいは大きく異なることもあります。政治的な自由主義か、経済的な自由主義か、宗教的な自由主義かなど国によってその使われ方と意味する所はかなり違うとも言えます。
例えば、日本に於ける自由主義とは主に政治的・経済的な自由主義の事を意味し、政治的専制主義・全体主義・独裁主義や経済的な共産主義や統制主義に対するものとしての自由主義という意味で主に使われています。
また、日本語の自由主義という言葉とリベラリズムとは日本においては必ずしも同じものではなく、日本におけるリベラリズムとは、国家主義的・国粋主義的な保守主義に対するものとして、より民主的・平和主義的な政治姿勢を指すことが多いようです。
このように、一口に自由主義やリベラリズムと言っても、国によってその意味する所はかなり違うので、それを踏まえずに言葉だけで判断すると訳が分からなくなることも多いと思います。
特にアメリカにおける保守主義とリベラリズムとの違いは、日本における保守主義とリベラリズムとの違いとは、全く意味合いが異なることを忘れてはならないと思います。日本における意味は上述の通り国家主義的・国粋主義的か民主的・平和主義的かのちがいですが、アメリカにおける保守主義とは伝統的な価値観に対して保守的であるという事です。そして、その伝統的な価値観と言うのは他でもないキリスト教的な価値観なのであります。従って、アメリカの保守派の人々は政治姿勢も政策も基本的にはキリスト教の教えに沿ったものでなければならないと考える訳です。
それに対して、リベラル派の人々は何がリベラルかと言うと、宗教的価値観においてより「自由」な立場を取ろうとすると言う意味でのリベラルなのであります。
例えば、キリスト教の教えでは堕胎は認めませんし、同性愛も禁じています。それに対して、リベラル派の人々は堕胎も同性愛も個人の自由の問題であるとして、個人の自由は何ものにも制限されてはならないと考える訳です。
このような宗教的な価値観の違いが、政治姿勢や政策の根本的な違いとして、毎回、大統領選挙の度に大きな争点になってきたわけです。政党でいえば保守派が共和党で、リベラル派が民主党で、地域でいえば両端の西海岸・東海岸のリベラル派が民主党支持者が多く、中南部の州が保守派で共和党支持者が多いようです。
そして、このキリスト教の教えに従うべきと考えるか、個人の判断の自由を尊重すべきであると考えるかという問題は、実は大変に根深い問題であって、欧米の歴史の底流に流れている根源的な対立点なのであります。
実は、前の投稿で、人工頭脳の問題の所で、キリスト教の原罪と言う問題の起源にもなっているエデンの園の話をご紹介したことがありますが、その話の中では、当初、神の意のままに生きていた人類の始祖のアダムとイブは、悪魔の化身である蛇に「智慧の実を食べて、神の教えに盲目的に従って生きるのではなくて、自分の智慧と判断を一番のよりどころとして生きるべきである」とそそのかされます。そして、その通り智慧の実を食べた結果、自分で考えるようになり、神の言いつけにも疑問を持つようになり、結果的に神の怒りをかい、楽園から追放されたというお話です。それ以来、人類は原罪を背負うことに成り、自分の罪深さを悔いて神に全てを捧げることによってのみ神に救われるというキリスト教の教義の原点が出来上がった訳であります。
つまり、今でもキリスト教徒であるということは、神のご意志を第一義に尊重して、その神のご意志と愛が自分の中で働くように自分の全てを神に委ねる気持ちにならなければならないわけであります。
従って、神のご意志よりも、自分の判断や気持ちを優先するなどという事は、正に悪魔の言いなりになっているのも同然であり、大変に罰当たりな事なのであります。
そして、当然ながら、堕胎や同性愛などという事も神の教えに反しており、絶対に許されないことになる訳であります。
こうやって、エデンの園の話を原点にして考えると、保守とリベラルの立場の違いと言うのは極めて明瞭に見えてくるわけですが、意外とそのような視点で考える人は多くはないのであります。
実は欧米の歴史そのものが、このエデンの園の話の続編のようなものなのですが、そういう視点で歴史を概観する学者もあまり多くはないのであります。というか少なくとも表向きにはそういう捉え方はしない方が色んな意味で無難だからだろうと思います。
欧米の歴史を概観すると、ローマ時代にキリスト教が国教化されて以来、長い間、キリスト教がヨーロッパの人々の精神的な支柱となり、教会も大きな権威をもつようになりました。そのような教会の権威主義に対して、もっと個人個人の信仰を重視したのがプロテスタンドでした。
しかし、17世紀後半から18世紀にかけて、啓蒙思想、啓蒙主義運動と言うものがヨーロッパ全体を席巻しました。この啓蒙思想こそが、正にあのエデンの園の蛇の代弁者であり、人間の理性こそが至上の存在であり、全ては人間の理性の光によって照らされて明らかにされるべきであって、理性の光こそが人間を無知の闇の盲目状態から開放するのであるとする考え方なのでありました。正に本質的には蛇の言い分そのままなのですが、私達も学校で習ったとは思いますが、啓蒙思想をエデンの園の蛇の言い分と対比するような話は一切なかったはずだと思います。
まあ、その理由はともかく、啓蒙思想はその後の科学主義・合理主義の基礎ともなり、近代というのは啓蒙主義的な科学主義・合理主義がそれまでのキリスト教的な価値観にとって代わって人類の指導原理に成りあがった時期なのであります。
その啓蒙思想に基づいて、フランス革命やアメリカの独立が成し遂げられたわけで、現代のアメリカにおけるリベラル派の源流もこの啓蒙思想にある訳であります。それに、絶対反対の姿勢を崩さずにあくまでキリスト教的な価値観を守りきろうとしているのが保守派であり共和党の支持基盤となっている人々なわけであります。
ということで、この話はまだまだいろんな問題に波及するとてもつもなく複雑で壮大なるテーマなのですが、話は際限なく長くなりますので取りあえず今回はここまでにしておきます。
しかし、最近は世界的な貧富の格差の拡大が大きな政治・経済・社会問題の原因となってきているため、そのことが従来の保守とリベラルとの対立という枠を超えて政策論争の中心になりつつあります。そして、今後ますますその傾向は強くなってくると思います。
そこで、今回は、今後、国際情勢を考えていくうえで、様々な要因が絡み合って何が何だか分からなくなってしまう前に、先ずは従来の欧米における保守とリベラルの対立の本質とは一体何であったのかを今一度整理・確認しておきたいと思います。
そもそもリベラリズムとは何かというと、そのまま訳すと自由主義という事になります。自由主義と言っても何に対する自由かによってその意味あいは大きく異なることもあります。政治的な自由主義か、経済的な自由主義か、宗教的な自由主義かなど国によってその使われ方と意味する所はかなり違うとも言えます。
例えば、日本に於ける自由主義とは主に政治的・経済的な自由主義の事を意味し、政治的専制主義・全体主義・独裁主義や経済的な共産主義や統制主義に対するものとしての自由主義という意味で主に使われています。
また、日本語の自由主義という言葉とリベラリズムとは日本においては必ずしも同じものではなく、日本におけるリベラリズムとは、国家主義的・国粋主義的な保守主義に対するものとして、より民主的・平和主義的な政治姿勢を指すことが多いようです。
このように、一口に自由主義やリベラリズムと言っても、国によってその意味する所はかなり違うので、それを踏まえずに言葉だけで判断すると訳が分からなくなることも多いと思います。
特にアメリカにおける保守主義とリベラリズムとの違いは、日本における保守主義とリベラリズムとの違いとは、全く意味合いが異なることを忘れてはならないと思います。日本における意味は上述の通り国家主義的・国粋主義的か民主的・平和主義的かのちがいですが、アメリカにおける保守主義とは伝統的な価値観に対して保守的であるという事です。そして、その伝統的な価値観と言うのは他でもないキリスト教的な価値観なのであります。従って、アメリカの保守派の人々は政治姿勢も政策も基本的にはキリスト教の教えに沿ったものでなければならないと考える訳です。
それに対して、リベラル派の人々は何がリベラルかと言うと、宗教的価値観においてより「自由」な立場を取ろうとすると言う意味でのリベラルなのであります。
例えば、キリスト教の教えでは堕胎は認めませんし、同性愛も禁じています。それに対して、リベラル派の人々は堕胎も同性愛も個人の自由の問題であるとして、個人の自由は何ものにも制限されてはならないと考える訳です。
このような宗教的な価値観の違いが、政治姿勢や政策の根本的な違いとして、毎回、大統領選挙の度に大きな争点になってきたわけです。政党でいえば保守派が共和党で、リベラル派が民主党で、地域でいえば両端の西海岸・東海岸のリベラル派が民主党支持者が多く、中南部の州が保守派で共和党支持者が多いようです。
そして、このキリスト教の教えに従うべきと考えるか、個人の判断の自由を尊重すべきであると考えるかという問題は、実は大変に根深い問題であって、欧米の歴史の底流に流れている根源的な対立点なのであります。
実は、前の投稿で、人工頭脳の問題の所で、キリスト教の原罪と言う問題の起源にもなっているエデンの園の話をご紹介したことがありますが、その話の中では、当初、神の意のままに生きていた人類の始祖のアダムとイブは、悪魔の化身である蛇に「智慧の実を食べて、神の教えに盲目的に従って生きるのではなくて、自分の智慧と判断を一番のよりどころとして生きるべきである」とそそのかされます。そして、その通り智慧の実を食べた結果、自分で考えるようになり、神の言いつけにも疑問を持つようになり、結果的に神の怒りをかい、楽園から追放されたというお話です。それ以来、人類は原罪を背負うことに成り、自分の罪深さを悔いて神に全てを捧げることによってのみ神に救われるというキリスト教の教義の原点が出来上がった訳であります。
つまり、今でもキリスト教徒であるということは、神のご意志を第一義に尊重して、その神のご意志と愛が自分の中で働くように自分の全てを神に委ねる気持ちにならなければならないわけであります。
従って、神のご意志よりも、自分の判断や気持ちを優先するなどという事は、正に悪魔の言いなりになっているのも同然であり、大変に罰当たりな事なのであります。
そして、当然ながら、堕胎や同性愛などという事も神の教えに反しており、絶対に許されないことになる訳であります。
こうやって、エデンの園の話を原点にして考えると、保守とリベラルの立場の違いと言うのは極めて明瞭に見えてくるわけですが、意外とそのような視点で考える人は多くはないのであります。
実は欧米の歴史そのものが、このエデンの園の話の続編のようなものなのですが、そういう視点で歴史を概観する学者もあまり多くはないのであります。というか少なくとも表向きにはそういう捉え方はしない方が色んな意味で無難だからだろうと思います。
欧米の歴史を概観すると、ローマ時代にキリスト教が国教化されて以来、長い間、キリスト教がヨーロッパの人々の精神的な支柱となり、教会も大きな権威をもつようになりました。そのような教会の権威主義に対して、もっと個人個人の信仰を重視したのがプロテスタンドでした。
しかし、17世紀後半から18世紀にかけて、啓蒙思想、啓蒙主義運動と言うものがヨーロッパ全体を席巻しました。この啓蒙思想こそが、正にあのエデンの園の蛇の代弁者であり、人間の理性こそが至上の存在であり、全ては人間の理性の光によって照らされて明らかにされるべきであって、理性の光こそが人間を無知の闇の盲目状態から開放するのであるとする考え方なのでありました。正に本質的には蛇の言い分そのままなのですが、私達も学校で習ったとは思いますが、啓蒙思想をエデンの園の蛇の言い分と対比するような話は一切なかったはずだと思います。
まあ、その理由はともかく、啓蒙思想はその後の科学主義・合理主義の基礎ともなり、近代というのは啓蒙主義的な科学主義・合理主義がそれまでのキリスト教的な価値観にとって代わって人類の指導原理に成りあがった時期なのであります。
その啓蒙思想に基づいて、フランス革命やアメリカの独立が成し遂げられたわけで、現代のアメリカにおけるリベラル派の源流もこの啓蒙思想にある訳であります。それに、絶対反対の姿勢を崩さずにあくまでキリスト教的な価値観を守りきろうとしているのが保守派であり共和党の支持基盤となっている人々なわけであります。
ということで、この話はまだまだいろんな問題に波及するとてもつもなく複雑で壮大なるテーマなのですが、話は際限なく長くなりますので取りあえず今回はここまでにしておきます。
またまた痛ましい事件が起こりました。
少年が不良グループに河原でリンチされたあげくに殺害されるという、とても人間の所業とは思えない凄惨な事件です。
所がこのような事件は近年続けて起こっています。全くデジャヴーのように定期的に起こっているとさえ思えるほどです。
たいていの場合は、不良グループの金づるにされた気の弱い少年が逃げ出そうとしたときに徹底的にリンチされて殺されるというものです。
昔は、不良でもやくざでも少しは人間性が残っていて、ここまでの惨いことはしなかったものですが、今時の不良少年たちは面白半分で人殺しをしているようで、いくら彼らサイドで考えようとしても、どうしても初めから壊れてしまっているとしか思えない程の人間性の欠如具合は、まともな解釈を寄せ付けない程の異常性があるとしか言ようがないと思います。
正にサイコパスなんだと思いますが、サイコパスはある意味どうしようもない病気なので、彼らをどうにかする方法を見つけるのは極めて困難であると思います。
潜在的な犯罪者である彼らは人口の5%ぐらいは必ずいるそうなので、彼らをどうにかするよりも、彼らの被害者になるかもしれない人々を徹底的に保護する法整備をして、警察なり行政機関が強権を発動してでも彼らを守るためのあらゆる手段を講じることを義務付けるべきであると思います。
実現までには様々なハードルがあるとは思いますが、少なくとも今から実現に向けて社会全体が動き出すべきだと思います。
その為には、まずはイジメや脅迫に当たる行為を徹底的に犯罪として認定し、今回の事件のように、金ずるにされてパシリを強要された時点で、完全に犯罪認定して、犯人達にGPS装置の装着を義務づけて、被害者にもGPSを付けてもらって、両者が一定以上の距離に近づくと自動的に最寄りの警察に通報されて直ぐに警察官が被害者のところに警護に行けるような、システムづくりをするべきだと思います。
以前、アイドルで歌手をしていた女性がストーカーに襲われて重体になった事件がありましたが、あの事件も犯人が脅迫した時点で、強制的にGPS装置装着を義務づけていれば、防げたはずです。
このような案はとかく、人権侵害にあたるとか言う反対論が出ますが、あらかじめ、イジメや脅迫をした者は、もし被害者が申し出れば、強制的にGPS装置の装着を義務付けられることを周知徹底しておけば、それを知ったうえで、イジメや脅迫をするのですから、覚悟の上だと認定すべきで、人権侵害にはあたらないと思います。
それよりも、そのまま放置しておけば、潜在的な犯罪者によって、被害者の人権が大きく侵害され、場合によって殺害されるかもしれないのに、そんな時に、潜在的犯罪者側の人権を考慮すべき必然性は全く見当たらないと思うわけであります。
欧米では、幼児に対する性犯罪者はGPS装置の装着が義務付けられており、また周辺住民にも周知徹底されるようになっている場合が少なくありません。
これも、そうなることが分かっていながら犯罪を犯す犯罪者に対する刑罰の一種であり、かつ、実際の犯罪の予防につながるだけでなく、もしそのような犯罪を犯したら一生GPS装置を外せなくなるという恐怖を与えるという意味で、犯罪そのものの抑止力になっているということです。
要するにGPS装置を付けられたくなかったら、そのようなことをするな!という警告になると言うことです。そして、同時に実際の犯罪実行の予防処置もとれるという一石二鳥のメリットがあるということです。
欧米でも現在のところ対象になっているのは幼児性犯罪者だけのようですが、これを日本では悪質なイジメやストーカー的な脅迫を行った者を対象にして、被害者が申し出てその主張の正当性が認められた場合は、加害者はGPS装置を装着して徹底的に当局の監視下に置かれ、被害者も加害者の居所を常に監視できるようにすれば良いと思います。
いずれにしても、現在の警察のように、基本的に民事不介入で、事件にならないと介入しないというのでは、初めから犯人に対して「先ずは殺してください。そしたら捜査しますので」と言っているようなもので、今回のような事件も、すでに立て続けに3回以上起こっているように、被害にあっている少年も一人で問題を抱え込んで、助けてくれる人もおらず、助けてくれる制度もなく、警察に言っても相手にしてくれず、逆に下手に言うと誰も守ってくれないので更にひどい目に合うことは目に見えており、どうしようもないまま、むざむざとリンチされた挙句に殺されるというようなことが繰り返されているのです。
このままだと、また半年以内に同じような事件が起こるかもしれません。また、あの重体になったアイドルのような事件もまた繰り返されるかもしれません。あの事件も事前に何度も警察に相談していたにもかかわらず、結局、警察は何もできませんでした。ということは、今の制度には明らかに不備があり、潜在的な犯罪の被害者が重大なる被害にあう可能性が極めて高いという事態になっていても、現行の制度では誰も何もできないということです。
文明社会にいながら、このような理不尽で不当な事態が放置されているというのは、明かに社会制度の欠陥であり、このような欠陥は直ちに修正されるべきであります。
潜在的な犯罪者が思うままに犯罪を犯す自由と権利が完全に保証されているのに、その犯罪者におびえる被害者の生きる権利を社会が保護しようとしないのは、あたかも、社会が被害者よりも加害者を尊重しているのも同然であり、そのような社会制度の不備を何も言わずに放置しておくのは、我々一人一人の無責任と怠慢を意味するとも言えると思います。
と言うことで、ここに敢えて、上記のように、潜在的な犯罪被害者の命が一人でも多く救われるような制度作りを提言するものであります。
このような提言に対する賛同者の数が増えて、社会全体のコンセンサスになっていくこと期待いたします。
少年が不良グループに河原でリンチされたあげくに殺害されるという、とても人間の所業とは思えない凄惨な事件です。
所がこのような事件は近年続けて起こっています。全くデジャヴーのように定期的に起こっているとさえ思えるほどです。
たいていの場合は、不良グループの金づるにされた気の弱い少年が逃げ出そうとしたときに徹底的にリンチされて殺されるというものです。
昔は、不良でもやくざでも少しは人間性が残っていて、ここまでの惨いことはしなかったものですが、今時の不良少年たちは面白半分で人殺しをしているようで、いくら彼らサイドで考えようとしても、どうしても初めから壊れてしまっているとしか思えない程の人間性の欠如具合は、まともな解釈を寄せ付けない程の異常性があるとしか言ようがないと思います。
正にサイコパスなんだと思いますが、サイコパスはある意味どうしようもない病気なので、彼らをどうにかする方法を見つけるのは極めて困難であると思います。
潜在的な犯罪者である彼らは人口の5%ぐらいは必ずいるそうなので、彼らをどうにかするよりも、彼らの被害者になるかもしれない人々を徹底的に保護する法整備をして、警察なり行政機関が強権を発動してでも彼らを守るためのあらゆる手段を講じることを義務付けるべきであると思います。
実現までには様々なハードルがあるとは思いますが、少なくとも今から実現に向けて社会全体が動き出すべきだと思います。
その為には、まずはイジメや脅迫に当たる行為を徹底的に犯罪として認定し、今回の事件のように、金ずるにされてパシリを強要された時点で、完全に犯罪認定して、犯人達にGPS装置の装着を義務づけて、被害者にもGPSを付けてもらって、両者が一定以上の距離に近づくと自動的に最寄りの警察に通報されて直ぐに警察官が被害者のところに警護に行けるような、システムづくりをするべきだと思います。
以前、アイドルで歌手をしていた女性がストーカーに襲われて重体になった事件がありましたが、あの事件も犯人が脅迫した時点で、強制的にGPS装置装着を義務づけていれば、防げたはずです。
このような案はとかく、人権侵害にあたるとか言う反対論が出ますが、あらかじめ、イジメや脅迫をした者は、もし被害者が申し出れば、強制的にGPS装置の装着を義務付けられることを周知徹底しておけば、それを知ったうえで、イジメや脅迫をするのですから、覚悟の上だと認定すべきで、人権侵害にはあたらないと思います。
それよりも、そのまま放置しておけば、潜在的な犯罪者によって、被害者の人権が大きく侵害され、場合によって殺害されるかもしれないのに、そんな時に、潜在的犯罪者側の人権を考慮すべき必然性は全く見当たらないと思うわけであります。
欧米では、幼児に対する性犯罪者はGPS装置の装着が義務付けられており、また周辺住民にも周知徹底されるようになっている場合が少なくありません。
これも、そうなることが分かっていながら犯罪を犯す犯罪者に対する刑罰の一種であり、かつ、実際の犯罪の予防につながるだけでなく、もしそのような犯罪を犯したら一生GPS装置を外せなくなるという恐怖を与えるという意味で、犯罪そのものの抑止力になっているということです。
要するにGPS装置を付けられたくなかったら、そのようなことをするな!という警告になると言うことです。そして、同時に実際の犯罪実行の予防処置もとれるという一石二鳥のメリットがあるということです。
欧米でも現在のところ対象になっているのは幼児性犯罪者だけのようですが、これを日本では悪質なイジメやストーカー的な脅迫を行った者を対象にして、被害者が申し出てその主張の正当性が認められた場合は、加害者はGPS装置を装着して徹底的に当局の監視下に置かれ、被害者も加害者の居所を常に監視できるようにすれば良いと思います。
いずれにしても、現在の警察のように、基本的に民事不介入で、事件にならないと介入しないというのでは、初めから犯人に対して「先ずは殺してください。そしたら捜査しますので」と言っているようなもので、今回のような事件も、すでに立て続けに3回以上起こっているように、被害にあっている少年も一人で問題を抱え込んで、助けてくれる人もおらず、助けてくれる制度もなく、警察に言っても相手にしてくれず、逆に下手に言うと誰も守ってくれないので更にひどい目に合うことは目に見えており、どうしようもないまま、むざむざとリンチされた挙句に殺されるというようなことが繰り返されているのです。
このままだと、また半年以内に同じような事件が起こるかもしれません。また、あの重体になったアイドルのような事件もまた繰り返されるかもしれません。あの事件も事前に何度も警察に相談していたにもかかわらず、結局、警察は何もできませんでした。ということは、今の制度には明らかに不備があり、潜在的な犯罪の被害者が重大なる被害にあう可能性が極めて高いという事態になっていても、現行の制度では誰も何もできないということです。
文明社会にいながら、このような理不尽で不当な事態が放置されているというのは、明かに社会制度の欠陥であり、このような欠陥は直ちに修正されるべきであります。
潜在的な犯罪者が思うままに犯罪を犯す自由と権利が完全に保証されているのに、その犯罪者におびえる被害者の生きる権利を社会が保護しようとしないのは、あたかも、社会が被害者よりも加害者を尊重しているのも同然であり、そのような社会制度の不備を何も言わずに放置しておくのは、我々一人一人の無責任と怠慢を意味するとも言えると思います。
と言うことで、ここに敢えて、上記のように、潜在的な犯罪被害者の命が一人でも多く救われるような制度作りを提言するものであります。
このような提言に対する賛同者の数が増えて、社会全体のコンセンサスになっていくこと期待いたします。
リオオリンピックが閉幕しました。
今回の日本人選手の活躍には目を見張るものがありました。それぞれの競技の各選手は、本当に良く頑張ったと思います。その血の滲む様な努力と健闘には心からの敬意を表したいと思います。
特に最後の方の400Mリレーは、ボルトが居なかったら、金メダルだったかもしれないほどの活躍で思わずガッツポーズが出て、しばらく鼻高々な気分でした。
所が、良く考えてみると、本当に頑張って素晴らしかったのはあの選手たちであって、僕は何も頑張ってないし、ただテレビを見て応援してただけなので、僕が鼻高々になる理由は何処にも無いのでありました。
そんなこと言ってしまうと正に身も蓋も無いのですが、これぞ他人の活躍に便乗した、便乗プライドとも言えるもので、このような便乗プライドと言えるものはオリンピック以外でも良くある話だと思いました。
例えば、地元の高校が甲子園に出て、優勝でもしようものなら、もう大ごとです。それまで、地元にそんな高校があることも知らなかった人までが我が事のように喜んで、鼻高々になるのであります。
その高校の球児たちが血の滲む様な努力で頑張った成果であって、たまたま地元に住んでいた人などは何にも偉くもないし、何の貢献もしていないのに、そういう時だけ鼻高々になるのは、正に便乗プライドと言えるものです。
また、良くある自慢話に、イチロー選手は自分の高校の先輩だとか、自分の知り合いの友達が○○という有名人だとかという典型的な自慢話です。イチローは偉いけど、お前は別に偉くない!と内心突っ込みたくなりますが、言っている本人は当然のごとく鼻高々なのであります。
恐らく、僕が400Mリレーを見てガッツポーズをして、凄い!凄い!と大騒ぎをして鼻高々な様子を、外国の人が見ていたら、内心、あの選手たちは凄いけど、お前が別に凄い訳じゃないことを忘れるな!と思うだろうなと想像したら、ちょっぴり恥ずかしくなりました。
今回の日本人選手の活躍には目を見張るものがありました。それぞれの競技の各選手は、本当に良く頑張ったと思います。その血の滲む様な努力と健闘には心からの敬意を表したいと思います。
特に最後の方の400Mリレーは、ボルトが居なかったら、金メダルだったかもしれないほどの活躍で思わずガッツポーズが出て、しばらく鼻高々な気分でした。
所が、良く考えてみると、本当に頑張って素晴らしかったのはあの選手たちであって、僕は何も頑張ってないし、ただテレビを見て応援してただけなので、僕が鼻高々になる理由は何処にも無いのでありました。
そんなこと言ってしまうと正に身も蓋も無いのですが、これぞ他人の活躍に便乗した、便乗プライドとも言えるもので、このような便乗プライドと言えるものはオリンピック以外でも良くある話だと思いました。
例えば、地元の高校が甲子園に出て、優勝でもしようものなら、もう大ごとです。それまで、地元にそんな高校があることも知らなかった人までが我が事のように喜んで、鼻高々になるのであります。
その高校の球児たちが血の滲む様な努力で頑張った成果であって、たまたま地元に住んでいた人などは何にも偉くもないし、何の貢献もしていないのに、そういう時だけ鼻高々になるのは、正に便乗プライドと言えるものです。
また、良くある自慢話に、イチロー選手は自分の高校の先輩だとか、自分の知り合いの友達が○○という有名人だとかという典型的な自慢話です。イチローは偉いけど、お前は別に偉くない!と内心突っ込みたくなりますが、言っている本人は当然のごとく鼻高々なのであります。
恐らく、僕が400Mリレーを見てガッツポーズをして、凄い!凄い!と大騒ぎをして鼻高々な様子を、外国の人が見ていたら、内心、あの選手たちは凄いけど、お前が別に凄い訳じゃないことを忘れるな!と思うだろうなと想像したら、ちょっぴり恥ずかしくなりました。
本当はこの記事は昨日の終戦記念日に投稿したかったのですが、昨日は帰省の移動日の真っ最中で一日遅れの今日になってしまいました。
安倍政権が過去の戦争の反省を表明しなくなる中で、それに反比例するように天皇陛下は去年から、前例のないほどの強い言葉で「先の大戦に対する深い反省」というお言葉を敢えて付け加えられ、今年のお言葉でも「深い反省」というお言葉を付け加えておられました。
まるで、政府がちゃんと言わないのなら、私が言いますと言わんばかりの強い決意が感じられます。
天皇陛下の戦争犠牲者の方々に対する思いとその本気度は単なる立場や職責を越えたもので、たまたま訪米中でアメリカ政府主催の晩餐会開始の時間が6月23日の沖縄戦慰霊の日の黙とうの時間と重なってしまった時、アメリカ政府に頼み込んで晩餐会の開始時間を45分も遅らせてもらったという程です。
昔から右寄りの人々は天皇陛下万歳!と言っていたものですが、最近はあまり言わなくなりました。
と言うのも、今の天皇陛下や皇太子は、もし他の人が同じことを言ったらネトウヨなどに「反日、亡国左翼、在日」などと徹底的に罵倒されるような、極めて、リベラルで平和主義で恐らく憲法改正にも絶対反対なのだろうと思われる発言を以前から繰り返し表明されておられるからです。
恐らく、今の右寄りの人々の最大の論敵は他ならぬ天皇陛下と皇太子ご自身であろうと思われるほどです。
その事実は当の右寄りの人々も感じており、さすがに天皇陛下万歳とは言えないし、本音では言いたくもないし、今や彼らにとってのもっとも厄介な存在になっているとさえ言えるかもしれません。
民族主義者で国家主義者である彼らにとってはその象徴である天皇は絶対的な存在であるはずだし、その彼らにとっての絶対的な尊崇の対象ご本人が、彼らの最大の反対者であり論敵であるというのはこれほどの矛盾はないと思います。
この度の、天皇陛下の生前退位のご希望も、政府は今の天皇の特例として処理しようとしましたが、天皇陛下御自身は制度化することを強く希望されています。
制度化するとなると、現行の皇室典範を改正する必要があります。それには相当な時間がかかるものと思われます。
この皇室典範を改正することの最大のポイントは、その問題が決着するまでは、憲法改正などの議論ができないということです。
衆議院で圧倒的多数を占めている与党は、今回の参院選でも圧勝し、いよいよ今度こそ憲法改正を国会の審議日程に乗せようとしていた正にその時に、あの天皇陛下の生前退位表明があったのです。
天皇陛下が自らの信念に反する憲法改正をどんな手を使ってでも阻止するために、今回の生前退位を表明されたとまでは思いませんが、結果的に現状では憲法改正のための手続きが始められなくなっているのは事実です。
我々国民が過去の大戦のことやその犠牲者の方々のことなど忘れつつあり、日本を再び戦争できる国にしようと本気で考えている人達がどんどん増えていっている中で、今の天皇陛下とそのご家族はむしろ時代に逆行するように、過去の大戦の過ちを深く反省することを訴えられ、二度と再び戦争によって国民や他国の人々を犠牲にしてはならないことを事ある毎に訴えられ続けています。
憲法改正を主張している人達と天皇陛下との最大の違いは、戦争の犠牲になった人々に対する思いと哀悼の念と彼らの死を絶対に無駄にしないためにも、二度と同じことを繰り返してはいけないという強い決意があるかないかです。
天皇陛下の、犠牲になった人々に対する思いは限りなく深く、心からのものであるのに対して、憲法改正を主張している人々は、殆どの場合は「戦争に犠牲はつきもの」位にしか思っておらず、犠牲者の方々の死を無駄にしないためにも同じ愚行を絶対に繰り返さないなどという発想は殆ど皆無で、そんなことは判断の要素にも成っていないのだ思います。
だからこそ、平気でまた再び多くの人々を戦争の犠牲者にする道を選ぼうとするのだと思います。これでは犠牲になった多くの人々が浮かばれないと思います。
安倍政権が過去の戦争の反省を表明しなくなる中で、それに反比例するように天皇陛下は去年から、前例のないほどの強い言葉で「先の大戦に対する深い反省」というお言葉を敢えて付け加えられ、今年のお言葉でも「深い反省」というお言葉を付け加えておられました。
まるで、政府がちゃんと言わないのなら、私が言いますと言わんばかりの強い決意が感じられます。
天皇陛下の戦争犠牲者の方々に対する思いとその本気度は単なる立場や職責を越えたもので、たまたま訪米中でアメリカ政府主催の晩餐会開始の時間が6月23日の沖縄戦慰霊の日の黙とうの時間と重なってしまった時、アメリカ政府に頼み込んで晩餐会の開始時間を45分も遅らせてもらったという程です。
昔から右寄りの人々は天皇陛下万歳!と言っていたものですが、最近はあまり言わなくなりました。
と言うのも、今の天皇陛下や皇太子は、もし他の人が同じことを言ったらネトウヨなどに「反日、亡国左翼、在日」などと徹底的に罵倒されるような、極めて、リベラルで平和主義で恐らく憲法改正にも絶対反対なのだろうと思われる発言を以前から繰り返し表明されておられるからです。
恐らく、今の右寄りの人々の最大の論敵は他ならぬ天皇陛下と皇太子ご自身であろうと思われるほどです。
その事実は当の右寄りの人々も感じており、さすがに天皇陛下万歳とは言えないし、本音では言いたくもないし、今や彼らにとってのもっとも厄介な存在になっているとさえ言えるかもしれません。
民族主義者で国家主義者である彼らにとってはその象徴である天皇は絶対的な存在であるはずだし、その彼らにとっての絶対的な尊崇の対象ご本人が、彼らの最大の反対者であり論敵であるというのはこれほどの矛盾はないと思います。
この度の、天皇陛下の生前退位のご希望も、政府は今の天皇の特例として処理しようとしましたが、天皇陛下御自身は制度化することを強く希望されています。
制度化するとなると、現行の皇室典範を改正する必要があります。それには相当な時間がかかるものと思われます。
この皇室典範を改正することの最大のポイントは、その問題が決着するまでは、憲法改正などの議論ができないということです。
衆議院で圧倒的多数を占めている与党は、今回の参院選でも圧勝し、いよいよ今度こそ憲法改正を国会の審議日程に乗せようとしていた正にその時に、あの天皇陛下の生前退位表明があったのです。
天皇陛下が自らの信念に反する憲法改正をどんな手を使ってでも阻止するために、今回の生前退位を表明されたとまでは思いませんが、結果的に現状では憲法改正のための手続きが始められなくなっているのは事実です。
我々国民が過去の大戦のことやその犠牲者の方々のことなど忘れつつあり、日本を再び戦争できる国にしようと本気で考えている人達がどんどん増えていっている中で、今の天皇陛下とそのご家族はむしろ時代に逆行するように、過去の大戦の過ちを深く反省することを訴えられ、二度と再び戦争によって国民や他国の人々を犠牲にしてはならないことを事ある毎に訴えられ続けています。
憲法改正を主張している人達と天皇陛下との最大の違いは、戦争の犠牲になった人々に対する思いと哀悼の念と彼らの死を絶対に無駄にしないためにも、二度と同じことを繰り返してはいけないという強い決意があるかないかです。
天皇陛下の、犠牲になった人々に対する思いは限りなく深く、心からのものであるのに対して、憲法改正を主張している人々は、殆どの場合は「戦争に犠牲はつきもの」位にしか思っておらず、犠牲者の方々の死を無駄にしないためにも同じ愚行を絶対に繰り返さないなどという発想は殆ど皆無で、そんなことは判断の要素にも成っていないのだ思います。
だからこそ、平気でまた再び多くの人々を戦争の犠牲者にする道を選ぼうとするのだと思います。これでは犠牲になった多くの人々が浮かばれないと思います。
8月6日広島原爆忌の日に、NHKスペシャルで当時のアメリカのトルーマン大統領が、原爆が市民密集地に落とされることを知らされずに原爆投下指令を出していたことが分かったと報道していました。
つまり、原爆の威力を試したい軍部と科学者たちが大統領を騙してまで、盆地で人口の多い所のど真ん中に原爆を落としたという事です。しかも、これはその時の番組ではなく別の番組で言っていたことですが、原爆を投下する飛行機は8時15分に投下する前に一旦広島上空を意図的に何もせずに通過したという事です。その時は空襲警報が鳴ってほぼ全員が防空壕に入っていたそうですが、飛行機が何もせずに通過したので空襲警報が解除されて人々が外に出てきた直後に飛行機がUターンして戻って来て原爆を投下したのだそうです。
皆、防空壕から出てきた直後だったので被害が倍増したということです。そして、それは意図的であったとしか考えられないという事です。
つまり、日本への原爆投下は壮大なる人体実験だったということです。沢山の人が地上にいる状態でそのど真ん中に原爆を落とすと一体どれぐらいの破壊力と人体への影響があるのかを実験したということです。
真実を知ったトルーマンは相当後悔したようですが、そのままでは国内世論も国際世論も収まらないので、戦争を早く終わらせるために原爆を落とさざるを得なかったという話をでっちあげて、しかも運よくその直後に日本が無条件降伏したので実際に原爆を落として良かったという国内・国際世論が定着してしまったということです。
しかし、実際は、日本は通常爆弾によって殆どの都市が壊滅的な打撃を受けていたので、もう無条件降伏は時間の問題だったのに、その事に焦りを感じたのは当のアメリカの軍部であって、何故焦ったかと言うと、日本が降伏してしまうとせっかく作った新兵器の原爆を実験できなくなってしまうからです。
だから、日本が降伏する前に何としてもウラン型の原爆とプルトニウム型の原爆をそれぞれ落としてのその効力のデータを取っておきたかったわけです。
このように、アメリカの軍部と科学者たちはそれぞれ兵器の効力を試したいという欲求と、核爆発の威力と人体への影響を実際に試したいという欲求によって、大統領を騙してまで目的を遂げてしまったという事です。
そこには、犠牲になる罪もない人々に対する思いなどひとかけらもなく、ひたすらに自分達の目的を達成することしか頭にない人間性のかけらもない冷血人間の姿しか見えません。
このような悪魔の様な冷血人間はアメリカにもいたし、ナチスドイツはその典型であるし、他ならぬ日本軍もその例外ではなかったという事です。日本軍の非道ぶりは数え上げれば切りがないほどありますが、多くの場合は戦闘の過程での混乱状態による場合もあったかもしれません。
しかし、そのような言い訳も一切通用しない、正に確信犯的な悪魔の様な所業を堂々と政府命令で行っていた例があります。それは、あの有名な731部隊です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
731部隊は満州を拠点にする医者や科学者を中心に構成された部隊で、細菌兵器や毒ガス兵器の開発をしたり生体実験によるデータを収集する部隊でした。
実際に細菌兵器を中国の農村にバラマキその効果を試したり、捕虜を使って、様々な人体実験を行ったという事です。その人体実験の殆どは麻酔も使わず生きたままの人間を解剖するもので、麻酔状態や死んだ後では得られない様々な貴重なデータが得られたという事です。これこそ、正に悪魔の所業以外の何ものでもありませんが、驚くべきことは、それに関わった多くの医者や科学者たちは戦後なんの罪に問われることもなく、日本の医学界や科学界の重鎮として君臨したという事実です。その中心人物の一人はあのミドリ十字社の設立者になっています。
戦後、多くの人が戦争犯罪人として国際法廷で裁かれていますが、この731部隊に限っては、一部がソ連の法廷で裁かれた以外は、その貴重なデータをアメリカに渡すことと引き換えに殆どの関係者は訴追を逃れることが出来たのです。正に悪魔同士の取引としか言いようがありません。
このように、アメリカの軍部も広島・長崎で壮大なる人体実験をし、日本軍も文字通りの生体人体実験を繰り返していたわけですが、よく、戦争が人々を狂気に走らせると言って、全てが戦争のせいであるかのような言い方がありますが、僕はあれは話が逆であって、元々人間はとてつもない残虐性と目的の為には手段を択ばないという本性を内に秘めているけど、普段は法律や世論などの様々な手枷足枷があるのでその本性を出す機会がないだけで、一度、チャンスが到来すれば、どこまでも冷徹無情にその目的を達しようとする生き物であるということです。
というか、ネズミを殺すのにも心が痛む人々も多くいる反面、ネズミはおろか状況が許せば人を殺すのも平気な人々が、我々の中には少なからず居ると言うことです。
そして、そういう他者の痛みを想像できない、他者の苦しみを全く意に介さない冷徹無情な人間達が権力を持つとナチスの様なことをしでかす訳だし、どこの国の軍部や政権や科学者の中にもそのような冷徹無情な人々が居て、自分達の出番をてぐすねひいて待っている訳ですが、皆が平和に暮らしている時は彼らの出番もありませんが、一度、国際情勢が緊迫して一触即発の状態になると、彼らの攻撃的なな意見が支持されるようになり、彼らがリーダーシップを取り始めるという訳です。
従って、戦争が人々を狂気に走らせるのではなくて、人類の中に必ずいる他者の痛みを想像できす、他者の苦しみを意に介さない冷徹非常なサイコパスのような人々が、緊張状態の中では攻撃的なリーダーシップを発揮して世論を扇動して全国民を戦争に引っ張り込んでいくということです。
そのような危険な連中が暴走しないように日頃から目を光らせておくのが、我々に課せられた重大な責任であると思う訳であります。国際情勢が緊張状態になった時に威勢の良いことを言う連中にはサイコパスが多いことを肝に銘じて、彼らの口車には絶対に乗せられないように気を付けましょう。
つまり、原爆の威力を試したい軍部と科学者たちが大統領を騙してまで、盆地で人口の多い所のど真ん中に原爆を落としたという事です。しかも、これはその時の番組ではなく別の番組で言っていたことですが、原爆を投下する飛行機は8時15分に投下する前に一旦広島上空を意図的に何もせずに通過したという事です。その時は空襲警報が鳴ってほぼ全員が防空壕に入っていたそうですが、飛行機が何もせずに通過したので空襲警報が解除されて人々が外に出てきた直後に飛行機がUターンして戻って来て原爆を投下したのだそうです。
皆、防空壕から出てきた直後だったので被害が倍増したということです。そして、それは意図的であったとしか考えられないという事です。
つまり、日本への原爆投下は壮大なる人体実験だったということです。沢山の人が地上にいる状態でそのど真ん中に原爆を落とすと一体どれぐらいの破壊力と人体への影響があるのかを実験したということです。
真実を知ったトルーマンは相当後悔したようですが、そのままでは国内世論も国際世論も収まらないので、戦争を早く終わらせるために原爆を落とさざるを得なかったという話をでっちあげて、しかも運よくその直後に日本が無条件降伏したので実際に原爆を落として良かったという国内・国際世論が定着してしまったということです。
しかし、実際は、日本は通常爆弾によって殆どの都市が壊滅的な打撃を受けていたので、もう無条件降伏は時間の問題だったのに、その事に焦りを感じたのは当のアメリカの軍部であって、何故焦ったかと言うと、日本が降伏してしまうとせっかく作った新兵器の原爆を実験できなくなってしまうからです。
だから、日本が降伏する前に何としてもウラン型の原爆とプルトニウム型の原爆をそれぞれ落としてのその効力のデータを取っておきたかったわけです。
このように、アメリカの軍部と科学者たちはそれぞれ兵器の効力を試したいという欲求と、核爆発の威力と人体への影響を実際に試したいという欲求によって、大統領を騙してまで目的を遂げてしまったという事です。
そこには、犠牲になる罪もない人々に対する思いなどひとかけらもなく、ひたすらに自分達の目的を達成することしか頭にない人間性のかけらもない冷血人間の姿しか見えません。
このような悪魔の様な冷血人間はアメリカにもいたし、ナチスドイツはその典型であるし、他ならぬ日本軍もその例外ではなかったという事です。日本軍の非道ぶりは数え上げれば切りがないほどありますが、多くの場合は戦闘の過程での混乱状態による場合もあったかもしれません。
しかし、そのような言い訳も一切通用しない、正に確信犯的な悪魔の様な所業を堂々と政府命令で行っていた例があります。それは、あの有名な731部隊です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
731部隊は満州を拠点にする医者や科学者を中心に構成された部隊で、細菌兵器や毒ガス兵器の開発をしたり生体実験によるデータを収集する部隊でした。
実際に細菌兵器を中国の農村にバラマキその効果を試したり、捕虜を使って、様々な人体実験を行ったという事です。その人体実験の殆どは麻酔も使わず生きたままの人間を解剖するもので、麻酔状態や死んだ後では得られない様々な貴重なデータが得られたという事です。これこそ、正に悪魔の所業以外の何ものでもありませんが、驚くべきことは、それに関わった多くの医者や科学者たちは戦後なんの罪に問われることもなく、日本の医学界や科学界の重鎮として君臨したという事実です。その中心人物の一人はあのミドリ十字社の設立者になっています。
戦後、多くの人が戦争犯罪人として国際法廷で裁かれていますが、この731部隊に限っては、一部がソ連の法廷で裁かれた以外は、その貴重なデータをアメリカに渡すことと引き換えに殆どの関係者は訴追を逃れることが出来たのです。正に悪魔同士の取引としか言いようがありません。
このように、アメリカの軍部も広島・長崎で壮大なる人体実験をし、日本軍も文字通りの生体人体実験を繰り返していたわけですが、よく、戦争が人々を狂気に走らせると言って、全てが戦争のせいであるかのような言い方がありますが、僕はあれは話が逆であって、元々人間はとてつもない残虐性と目的の為には手段を択ばないという本性を内に秘めているけど、普段は法律や世論などの様々な手枷足枷があるのでその本性を出す機会がないだけで、一度、チャンスが到来すれば、どこまでも冷徹無情にその目的を達しようとする生き物であるということです。
というか、ネズミを殺すのにも心が痛む人々も多くいる反面、ネズミはおろか状況が許せば人を殺すのも平気な人々が、我々の中には少なからず居ると言うことです。
そして、そういう他者の痛みを想像できない、他者の苦しみを全く意に介さない冷徹無情な人間達が権力を持つとナチスの様なことをしでかす訳だし、どこの国の軍部や政権や科学者の中にもそのような冷徹無情な人々が居て、自分達の出番をてぐすねひいて待っている訳ですが、皆が平和に暮らしている時は彼らの出番もありませんが、一度、国際情勢が緊迫して一触即発の状態になると、彼らの攻撃的なな意見が支持されるようになり、彼らがリーダーシップを取り始めるという訳です。
従って、戦争が人々を狂気に走らせるのではなくて、人類の中に必ずいる他者の痛みを想像できす、他者の苦しみを意に介さない冷徹非常なサイコパスのような人々が、緊張状態の中では攻撃的なリーダーシップを発揮して世論を扇動して全国民を戦争に引っ張り込んでいくということです。
そのような危険な連中が暴走しないように日頃から目を光らせておくのが、我々に課せられた重大な責任であると思う訳であります。国際情勢が緊張状態になった時に威勢の良いことを言う連中にはサイコパスが多いことを肝に銘じて、彼らの口車には絶対に乗せられないように気を付けましょう。
以前の「シュレディンガーの猫の謎」や「人間原理の謎」という記事の中で、多世界解釈の話をしたことがあります。
まあ、長い長い超ややこしい話を2~3行に縮めてお話しますと、最新の量子論や宇宙論によると、我々の見ている世界は毎瞬ごとに、あらゆる可能性の世界へと枝分かれして行っているという事です。
つまり、宇宙は一つではなく、過去にも未来にも無数の世界・無数の宇宙があり、可能性の数だけ世界や宇宙は存在するということです。
何故またこの話をするかというと、最近上記のようなことを色々考えて来て、ふと思ったのは、要するに我々が経験している世界と言うのは、壮大なるアミダクジ見たいだなあと改めて思ったからであります。
ただ、実際のアミダクジと根本的に違うところは、アミダクジの場合はいったん出発点を決めたらその時点で終着点も決まっているという事です。
つまり、アミダクジの場合は毎回の枝分かれの時の選択肢は一つしかいないので、いったん出発点を決めると終着点は決まってしまうということです。
しかし、多世界解釈では毎瞬の枝分かれの時の選択肢はあらゆる可能性の数だけあり、毎瞬その中の一つを選び、次の瞬間にはまた無数の可能性中から一つの世界を選ぶという作業を毎瞬繰り返しています。
ということで、多世界解釈のアミダクジは毎回の選択肢が無数にあるアミダクジで、その無数の選択肢のそれぞれの先には更に無数の選択肢がある、とても紙には書ききれない膨大な数の選択肢が無数に広がって行く、とてもつもなく壮大なるアミダクジなのであります。
そして、我々は毎瞬無数の選択肢の中から一つの世界を選んで行っているということです。
そんなややこしい事をしている積りは無いとお思いでしょうが、自分の人生を振り返ってみれば、あの時にああしていれば今頃はこうなっていたかもしれないとか、あの時にああしていなければ、今頃はこうなっていなかったかもしれないなんてことは幾らでもあると思います。
つまり、望むと望まざるとに関わらず、我々は毎瞬何等かの選択をしている訳で、困っているおばあさんを助けたことによって、予定より一本遅い電車に乗ることに成ったが、たまたまその電車で昔の友人に出会って、その出会いによって、その後の人生が大きく変わったなんてこともあるかもしれないし、逆に、おばあさんを助けようかどうか迷った挙句に、助けていると遅刻するかもしれないので、助けずにそのまま電車に乗ったら、その電車が脱線事故にあって大怪我をしてそれが元で失業したなんてこともあるかもしれません。
よく運命という言葉がありますが、もし未来が無数にあって毎瞬の選択で未来が決まって行くとすれば、決まった運命など無いことに成ります。
ただ、量子論の多世界解釈でも世界が分岐する際、それぞれの可能性には確率があって、確率の高い可能性と確率の低い可能性が共存している状態から分岐していきます。
それと同様に、我々の人生の可能性も未来にはあらゆる可能性があるにしても、確率の高い可能性と低い可能性が共存していて、その中かから選択することに成るので、流れに任せた人生を送っていると自動的に確率の高い可能性のみを選択していくことに成ります。
逆に、常に志をもって、自分の目指す方向を実現するべく努力を続けていくと、毎瞬そちらに近づく世界を選択して行くため、たとえ当初は確率が低そうに見えていた未来でも実現することは幾らでもあるという事です。
つまり、毎瞬の選択でいきなり確率10%しかない未来を選択することは、めったにできることではありませんが、毎瞬確率51%より49%の自分の望む未来を選択して行けば、少しずつそちらの方向に近いづいて行き、最終的には当初は確率10%しかなかった未来へも到達することは可能だという事です。
よく言われる、諦めないこと、自分を信じることなどというのは単なる気休めではなく実際に効力はあるということです。
まあ、ここまでの話は結構実用的な話なので、皆さんも興味はおありだと思いますが、僕が気になったのは、もし人生や世界が上記のような壮大なるアミダクジだとすると、そのアミダクジにあるあらゆる可能性が実在化した無限の数の過去の世界も、あらゆる可能性が実在化する無限の数の未来の世界も、今現在同時に存在しているという事を意味するということです。
つまり、時間と言うものは、本当は存在しているようで存在してはおらず、我々がアミダクジを辿っていく行為こそが時間の本質なのかもしれないという事です。
このように過去も未来も本当は今現在存在しているということが分かるとちょっと考え方が一皮剥けると言うか、かなり宇宙論や時間論の本質に迫る、ものごとの本当の在り方に一歩近づいたような気がしている訳ですが、この辺の話はちょっとマニアック過ぎて、プッツン行っちゃってる人と紙一重と思われそうなので、この辺で止めておきます。
しかし、この辺の話にご関心のある理系の方は、是非、まじめに研究して行って頂きたいと思います。
まあ、長い長い超ややこしい話を2~3行に縮めてお話しますと、最新の量子論や宇宙論によると、我々の見ている世界は毎瞬ごとに、あらゆる可能性の世界へと枝分かれして行っているという事です。
つまり、宇宙は一つではなく、過去にも未来にも無数の世界・無数の宇宙があり、可能性の数だけ世界や宇宙は存在するということです。
何故またこの話をするかというと、最近上記のようなことを色々考えて来て、ふと思ったのは、要するに我々が経験している世界と言うのは、壮大なるアミダクジ見たいだなあと改めて思ったからであります。
ただ、実際のアミダクジと根本的に違うところは、アミダクジの場合はいったん出発点を決めたらその時点で終着点も決まっているという事です。
つまり、アミダクジの場合は毎回の枝分かれの時の選択肢は一つしかいないので、いったん出発点を決めると終着点は決まってしまうということです。
しかし、多世界解釈では毎瞬の枝分かれの時の選択肢はあらゆる可能性の数だけあり、毎瞬その中の一つを選び、次の瞬間にはまた無数の可能性中から一つの世界を選ぶという作業を毎瞬繰り返しています。
ということで、多世界解釈のアミダクジは毎回の選択肢が無数にあるアミダクジで、その無数の選択肢のそれぞれの先には更に無数の選択肢がある、とても紙には書ききれない膨大な数の選択肢が無数に広がって行く、とてもつもなく壮大なるアミダクジなのであります。
そして、我々は毎瞬無数の選択肢の中から一つの世界を選んで行っているということです。
そんなややこしい事をしている積りは無いとお思いでしょうが、自分の人生を振り返ってみれば、あの時にああしていれば今頃はこうなっていたかもしれないとか、あの時にああしていなければ、今頃はこうなっていなかったかもしれないなんてことは幾らでもあると思います。
つまり、望むと望まざるとに関わらず、我々は毎瞬何等かの選択をしている訳で、困っているおばあさんを助けたことによって、予定より一本遅い電車に乗ることに成ったが、たまたまその電車で昔の友人に出会って、その出会いによって、その後の人生が大きく変わったなんてこともあるかもしれないし、逆に、おばあさんを助けようかどうか迷った挙句に、助けていると遅刻するかもしれないので、助けずにそのまま電車に乗ったら、その電車が脱線事故にあって大怪我をしてそれが元で失業したなんてこともあるかもしれません。
よく運命という言葉がありますが、もし未来が無数にあって毎瞬の選択で未来が決まって行くとすれば、決まった運命など無いことに成ります。
ただ、量子論の多世界解釈でも世界が分岐する際、それぞれの可能性には確率があって、確率の高い可能性と確率の低い可能性が共存している状態から分岐していきます。
それと同様に、我々の人生の可能性も未来にはあらゆる可能性があるにしても、確率の高い可能性と低い可能性が共存していて、その中かから選択することに成るので、流れに任せた人生を送っていると自動的に確率の高い可能性のみを選択していくことに成ります。
逆に、常に志をもって、自分の目指す方向を実現するべく努力を続けていくと、毎瞬そちらに近づく世界を選択して行くため、たとえ当初は確率が低そうに見えていた未来でも実現することは幾らでもあるという事です。
つまり、毎瞬の選択でいきなり確率10%しかない未来を選択することは、めったにできることではありませんが、毎瞬確率51%より49%の自分の望む未来を選択して行けば、少しずつそちらの方向に近いづいて行き、最終的には当初は確率10%しかなかった未来へも到達することは可能だという事です。
よく言われる、諦めないこと、自分を信じることなどというのは単なる気休めではなく実際に効力はあるということです。
まあ、ここまでの話は結構実用的な話なので、皆さんも興味はおありだと思いますが、僕が気になったのは、もし人生や世界が上記のような壮大なるアミダクジだとすると、そのアミダクジにあるあらゆる可能性が実在化した無限の数の過去の世界も、あらゆる可能性が実在化する無限の数の未来の世界も、今現在同時に存在しているという事を意味するということです。
つまり、時間と言うものは、本当は存在しているようで存在してはおらず、我々がアミダクジを辿っていく行為こそが時間の本質なのかもしれないという事です。
このように過去も未来も本当は今現在存在しているということが分かるとちょっと考え方が一皮剥けると言うか、かなり宇宙論や時間論の本質に迫る、ものごとの本当の在り方に一歩近づいたような気がしている訳ですが、この辺の話はちょっとマニアック過ぎて、プッツン行っちゃってる人と紙一重と思われそうなので、この辺で止めておきます。
しかし、この辺の話にご関心のある理系の方は、是非、まじめに研究して行って頂きたいと思います。
相模原の障害者施設で19人もの人が、一人の青年によって殺害された事件は、日本だけでなく世界も震撼させました。先ずは犠牲になった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
犯人は「障害者など生きている価値はないので抹殺した方がよい」と言っていたそうです。僕は、その言葉を聞いたとたんに直ぐに彼はナチスと同じことを言っていると思いました。その後、彼はヒットラーの思想が降りてきたなどと言っているそうですが、今回の事件は、このままでは気の狂った人間の狂気の沙汰であるということで片づけられてしまいそうなので、それだけでは済まない問題をはらんでいることを指摘しておきたいと思います。
今回の事件そのものは、恐らく障害者に受け入れてもらえなかったことによる自信喪失とその事実を受けいれたくない自分が自分を正当化するために、全てを障害者のせいにして自分の価値を貶めかねない憎むべき人々の抹殺を図ったのだと思います。しかし、結果的に犯人が抱くに至った「障害者など生きている価値はないので抹殺した方がよい」という発想が決して、この精神に異常をきたした一人の青年だけのものでは無く、非常に根が深く予想以上に大きな広がりを持つものであるということに我々は真剣に向き合う必要があると思う訳であります。
ナチスはこのような発想の元に国家事業として障害者を抹殺して行ったのです。最初は、病院や施設に命じて、障害者には治療も食事も与えないようにして餓死させるということから始めたようですが、次第に抹殺の為の収容所を作って、毒ガスで大量に殺害するようになったということです。それによって20万~40万人もの障害者が抹殺されました。
ナチスによるユダヤ人の殺害は有名ですが、最初は障害者がターゲットだったわけで、その障害者を抹殺するための施設がその後ユダヤ人抹殺にも使用されたという事です。
では、何故ナチスは障害者を抹殺したのかというと、上記の「障害者など生きている価値はないので抹殺した方がよい」という発想と、より積極的にはナチスの根本思想である「ドイツ民族に代表されるアーリア人種は最も美しく優秀な民族であって世界を支配するに値する民族である。その優秀な血統の中からは不純なもの不完全なものは取り除かなければならない」という優生思想に基づくものです。
おおよそ、ナチスに代表されるような民族主義者・国粋主義者・右寄りの人々には共通点があります。彼らは、更にリーダー格の確信犯的グリープと、取り巻き的フォロワーグループに二分できます。先ずはリーダー格の確信犯的グループの人の特徴は、ほぼ十中八九
1.自分大好きのナルシストであること
2.自分が最高の存在である為には、自分の属する民族も国も最高のものでなければならないと思っている。
3.強いもの、勇ましいもの、美しいものがなにもよりも大好きである。
4.逆に、弱いもの、劣ったもの、醜いものは反吐が出るほど嫌いである。
5.自分とは似ているが異質な人種、人々を異常なほど嫌い、卑下し、罵倒する。
6.自分と同質だと思っている強く、勇ましく、美しいものには心酔するが、弱いもの、劣ったもの、醜いものに対する思いやりは皆無であり、本音では、排除したいと思っている。
どこかの国の首相が「美しい国」に拘っているのは、彼らが美しくないものは愛せない性格をしているからです。
本当なら、人間でも国でも良い所もあれば悪い所もあり、美しいところもあれば、醜いもところもあるものですが、本当に大切ならそれらを全部ひっくるめて丸ごと大切に思えるものです。
所が、上記のような人々は、美しく素晴らしいものしか愛せないため、過去の出来事でも、美しくないことや素晴らしくないこと、ましてや醜いことや都合の悪いことはあってはならないことであり、事実と真摯に向き合って反省すべきところは反省するということが出来ないため、醜いことや不都合なことは、無かったはずであると思いたい一心で、その証拠を探すことにしか関心がありません。
ここまで、書いて来るともうお判りでしょうが、上記のナチスのような人々が決して過去の人々の事では無くて、今のどこかの国の与党の国会議員の多くに当てはまることが分かります。
もちろん、程度の差はあるとは思いますが、上記の6つの特徴がことごとく当てはまる確信犯的な右翼も居れば、幾つかは確実にあてはまる人も沢山いると思います。
また、上記の2番目のカテゴリーである、民族主義者・国粋主義者・右寄りの人々の中の取り巻き的フォロワーグループの人々の特徴は
1.自分では何の取り柄もない社会的な落ちこぼれであると思っている。
2.自分自身には何の取り柄も見いだせず、存在価値も感じられない為、せめて自分が属している民族と国家は最高のものであると信じ、また信じたいと思っており、その最高の民族又は国家の一員である自分と言うことに自らの存在意義を感じようとしている。
3.自分の民族・国家に属さない自分達に似てはいるけど異質な人々を徹底的に貶めて罵倒し彼らを排除するための活動に生きがいを見出している。そうすることで、自分の存在意義を実感しようとしている。
4.一方的で短絡的な思考にしか慣れておらず、多角的な物の見方をしようとしないので、全うな議論や話し合いをしようとはせず、自分達に同意しない者はことごとく全員問答無用に自分たちが卑下している民族や国に属している者として、罵倒を繰り返すだけで聞く耳を持たない。
今の日本には、我々の予想以上にこのような人々が溢れており、今回の凄惨な事件にしても、犯人がやったことはもちろん非難するにしても、言っていることには一理あるなどと内心思っている人も少なくないようです。
僕は今回の犯人の悪魔の様な所業はもちろんのこと、彼の主張に同調する人が少なからず居るという事実に愕然としますし、彼らこそが日本の将来に大変な悪影響与えかねない可能性を秘めていることを考えると暗澹たる気持ちになるのであります。
犯人は「障害者など生きている価値はないので抹殺した方がよい」と言っていたそうです。僕は、その言葉を聞いたとたんに直ぐに彼はナチスと同じことを言っていると思いました。その後、彼はヒットラーの思想が降りてきたなどと言っているそうですが、今回の事件は、このままでは気の狂った人間の狂気の沙汰であるということで片づけられてしまいそうなので、それだけでは済まない問題をはらんでいることを指摘しておきたいと思います。
今回の事件そのものは、恐らく障害者に受け入れてもらえなかったことによる自信喪失とその事実を受けいれたくない自分が自分を正当化するために、全てを障害者のせいにして自分の価値を貶めかねない憎むべき人々の抹殺を図ったのだと思います。しかし、結果的に犯人が抱くに至った「障害者など生きている価値はないので抹殺した方がよい」という発想が決して、この精神に異常をきたした一人の青年だけのものでは無く、非常に根が深く予想以上に大きな広がりを持つものであるということに我々は真剣に向き合う必要があると思う訳であります。
ナチスはこのような発想の元に国家事業として障害者を抹殺して行ったのです。最初は、病院や施設に命じて、障害者には治療も食事も与えないようにして餓死させるということから始めたようですが、次第に抹殺の為の収容所を作って、毒ガスで大量に殺害するようになったということです。それによって20万~40万人もの障害者が抹殺されました。
ナチスによるユダヤ人の殺害は有名ですが、最初は障害者がターゲットだったわけで、その障害者を抹殺するための施設がその後ユダヤ人抹殺にも使用されたという事です。
では、何故ナチスは障害者を抹殺したのかというと、上記の「障害者など生きている価値はないので抹殺した方がよい」という発想と、より積極的にはナチスの根本思想である「ドイツ民族に代表されるアーリア人種は最も美しく優秀な民族であって世界を支配するに値する民族である。その優秀な血統の中からは不純なもの不完全なものは取り除かなければならない」という優生思想に基づくものです。
おおよそ、ナチスに代表されるような民族主義者・国粋主義者・右寄りの人々には共通点があります。彼らは、更にリーダー格の確信犯的グリープと、取り巻き的フォロワーグループに二分できます。先ずはリーダー格の確信犯的グループの人の特徴は、ほぼ十中八九
1.自分大好きのナルシストであること
2.自分が最高の存在である為には、自分の属する民族も国も最高のものでなければならないと思っている。
3.強いもの、勇ましいもの、美しいものがなにもよりも大好きである。
4.逆に、弱いもの、劣ったもの、醜いものは反吐が出るほど嫌いである。
5.自分とは似ているが異質な人種、人々を異常なほど嫌い、卑下し、罵倒する。
6.自分と同質だと思っている強く、勇ましく、美しいものには心酔するが、弱いもの、劣ったもの、醜いものに対する思いやりは皆無であり、本音では、排除したいと思っている。
どこかの国の首相が「美しい国」に拘っているのは、彼らが美しくないものは愛せない性格をしているからです。
本当なら、人間でも国でも良い所もあれば悪い所もあり、美しいところもあれば、醜いもところもあるものですが、本当に大切ならそれらを全部ひっくるめて丸ごと大切に思えるものです。
所が、上記のような人々は、美しく素晴らしいものしか愛せないため、過去の出来事でも、美しくないことや素晴らしくないこと、ましてや醜いことや都合の悪いことはあってはならないことであり、事実と真摯に向き合って反省すべきところは反省するということが出来ないため、醜いことや不都合なことは、無かったはずであると思いたい一心で、その証拠を探すことにしか関心がありません。
ここまで、書いて来るともうお判りでしょうが、上記のナチスのような人々が決して過去の人々の事では無くて、今のどこかの国の与党の国会議員の多くに当てはまることが分かります。
もちろん、程度の差はあるとは思いますが、上記の6つの特徴がことごとく当てはまる確信犯的な右翼も居れば、幾つかは確実にあてはまる人も沢山いると思います。
また、上記の2番目のカテゴリーである、民族主義者・国粋主義者・右寄りの人々の中の取り巻き的フォロワーグループの人々の特徴は
1.自分では何の取り柄もない社会的な落ちこぼれであると思っている。
2.自分自身には何の取り柄も見いだせず、存在価値も感じられない為、せめて自分が属している民族と国家は最高のものであると信じ、また信じたいと思っており、その最高の民族又は国家の一員である自分と言うことに自らの存在意義を感じようとしている。
3.自分の民族・国家に属さない自分達に似てはいるけど異質な人々を徹底的に貶めて罵倒し彼らを排除するための活動に生きがいを見出している。そうすることで、自分の存在意義を実感しようとしている。
4.一方的で短絡的な思考にしか慣れておらず、多角的な物の見方をしようとしないので、全うな議論や話し合いをしようとはせず、自分達に同意しない者はことごとく全員問答無用に自分たちが卑下している民族や国に属している者として、罵倒を繰り返すだけで聞く耳を持たない。
今の日本には、我々の予想以上にこのような人々が溢れており、今回の凄惨な事件にしても、犯人がやったことはもちろん非難するにしても、言っていることには一理あるなどと内心思っている人も少なくないようです。
僕は今回の犯人の悪魔の様な所業はもちろんのこと、彼の主張に同調する人が少なからず居るという事実に愕然としますし、彼らこそが日本の将来に大変な悪影響与えかねない可能性を秘めていることを考えると暗澹たる気持ちになるのであります。