欧米における保守とリベラルの本当の意味 | Ty Hassyの敢えてwokeなブログ

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 以前からこのブログでも折に触れて欧米特にアメリカにおける保守とリベラルの話を少しだけしてきましたが、あまり深入りすると話が長くなるので表向きの話だけに留めてきました。
 しかし、最近は世界的な貧富の格差の拡大が大きな政治・経済・社会問題の原因となってきているため、そのことが従来の保守とリベラルとの対立という枠を超えて政策論争の中心になりつつあります。そして、今後ますますその傾向は強くなってくると思います。
 そこで、今回は、今後、国際情勢を考えていくうえで、様々な要因が絡み合って何が何だか分からなくなってしまう前に、先ずは従来の欧米における保守とリベラルの対立の本質とは一体何であったのかを今一度整理・確認しておきたいと思います。
 そもそもリベラリズムとは何かというと、そのまま訳すと自由主義という事になります。自由主義と言っても何に対する自由かによってその意味あいは大きく異なることもあります。政治的な自由主義か、経済的な自由主義か、宗教的な自由主義かなど国によってその使われ方と意味する所はかなり違うとも言えます。
 例えば、日本に於ける自由主義とは主に政治的・経済的な自由主義の事を意味し、政治的専制主義・全体主義・独裁主義や経済的な共産主義や統制主義に対するものとしての自由主義という意味で主に使われています。
 また、日本語の自由主義という言葉とリベラリズムとは日本においては必ずしも同じものではなく、日本におけるリベラリズムとは、国家主義的・国粋主義的な保守主義に対するものとして、より民主的・平和主義的な政治姿勢を指すことが多いようです。
 このように、一口に自由主義やリベラリズムと言っても、国によってその意味する所はかなり違うので、それを踏まえずに言葉だけで判断すると訳が分からなくなることも多いと思います。
 特にアメリカにおける保守主義とリベラリズムとの違いは、日本における保守主義とリベラリズムとの違いとは、全く意味合いが異なることを忘れてはならないと思います。日本における意味は上述の通り国家主義的・国粋主義的か民主的・平和主義的かのちがいですが、アメリカにおける保守主義とは伝統的な価値観に対して保守的であるという事です。そして、その伝統的な価値観と言うのは他でもないキリスト教的な価値観なのであります。従って、アメリカの保守派の人々は政治姿勢も政策も基本的にはキリスト教の教えに沿ったものでなければならないと考える訳です。
 それに対して、リベラル派の人々は何がリベラルかと言うと、宗教的価値観においてより「自由」な立場を取ろうとすると言う意味でのリベラルなのであります。
 例えば、キリスト教の教えでは堕胎は認めませんし、同性愛も禁じています。それに対して、リベラル派の人々は堕胎も同性愛も個人の自由の問題であるとして、個人の自由は何ものにも制限されてはならないと考える訳です。
 このような宗教的な価値観の違いが、政治姿勢や政策の根本的な違いとして、毎回、大統領選挙の度に大きな争点になってきたわけです。政党でいえば保守派が共和党で、リベラル派が民主党で、地域でいえば両端の西海岸・東海岸のリベラル派が民主党支持者が多く、中南部の州が保守派で共和党支持者が多いようです。
 そして、このキリスト教の教えに従うべきと考えるか、個人の判断の自由を尊重すべきであると考えるかという問題は、実は大変に根深い問題であって、欧米の歴史の底流に流れている根源的な対立点なのであります。
 実は、前の投稿で、人工頭脳の問題の所で、キリスト教の原罪と言う問題の起源にもなっているエデンの園の話をご紹介したことがありますが、その話の中では、当初、神の意のままに生きていた人類の始祖のアダムとイブは、悪魔の化身である蛇に「智慧の実を食べて、神の教えに盲目的に従って生きるのではなくて、自分の智慧と判断を一番のよりどころとして生きるべきである」とそそのかされます。そして、その通り智慧の実を食べた結果、自分で考えるようになり、神の言いつけにも疑問を持つようになり、結果的に神の怒りをかい、楽園から追放されたというお話です。それ以来、人類は原罪を背負うことに成り、自分の罪深さを悔いて神に全てを捧げることによってのみ神に救われるというキリスト教の教義の原点が出来上がった訳であります。
 つまり、今でもキリスト教徒であるということは、神のご意志を第一義に尊重して、その神のご意志と愛が自分の中で働くように自分の全てを神に委ねる気持ちにならなければならないわけであります。
 従って、神のご意志よりも、自分の判断や気持ちを優先するなどという事は、正に悪魔の言いなりになっているのも同然であり、大変に罰当たりな事なのであります。
 そして、当然ながら、堕胎や同性愛などという事も神の教えに反しており、絶対に許されないことになる訳であります。
 こうやって、エデンの園の話を原点にして考えると、保守とリベラルの立場の違いと言うのは極めて明瞭に見えてくるわけですが、意外とそのような視点で考える人は多くはないのであります。
 実は欧米の歴史そのものが、このエデンの園の話の続編のようなものなのですが、そういう視点で歴史を概観する学者もあまり多くはないのであります。というか少なくとも表向きにはそういう捉え方はしない方が色んな意味で無難だからだろうと思います。
 欧米の歴史を概観すると、ローマ時代にキリスト教が国教化されて以来、長い間、キリスト教がヨーロッパの人々の精神的な支柱となり、教会も大きな権威をもつようになりました。そのような教会の権威主義に対して、もっと個人個人の信仰を重視したのがプロテスタンドでした。
 しかし、17世紀後半から18世紀にかけて、啓蒙思想、啓蒙主義運動と言うものがヨーロッパ全体を席巻しました。この啓蒙思想こそが、正にあのエデンの園の蛇の代弁者であり、人間の理性こそが至上の存在であり、全ては人間の理性の光によって照らされて明らかにされるべきであって、理性の光こそが人間を無知の闇の盲目状態から開放するのであるとする考え方なのでありました。正に本質的には蛇の言い分そのままなのですが、私達も学校で習ったとは思いますが、啓蒙思想をエデンの園の蛇の言い分と対比するような話は一切なかったはずだと思います。
 まあ、その理由はともかく、啓蒙思想はその後の科学主義・合理主義の基礎ともなり、近代というのは啓蒙主義的な科学主義・合理主義がそれまでのキリスト教的な価値観にとって代わって人類の指導原理に成りあがった時期なのであります。
 その啓蒙思想に基づいて、フランス革命やアメリカの独立が成し遂げられたわけで、現代のアメリカにおけるリベラル派の源流もこの啓蒙思想にある訳であります。それに、絶対反対の姿勢を崩さずにあくまでキリスト教的な価値観を守りきろうとしているのが保守派であり共和党の支持基盤となっている人々なわけであります。
 ということで、この話はまだまだいろんな問題に波及するとてもつもなく複雑で壮大なるテーマなのですが、話は際限なく長くなりますので取りあえず今回はここまでにしておきます。