会津戦争序章『会津藩の成り立ち』 | 鳳山雑記帳アメブロ版

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 江戸期会津藩のあった会津地方は福島県の内陸部にありました。福島県の地勢は大きく3つに分かれます。すなわち奥羽山脈の西会津盆地を中心にした会津地方。奥羽山脈と阿武隈山地に挟まれた中通り。中通りは阿武隈川が中心を流れ主要幹線奥州街道が走っていることから仙道地方とも呼ばれました。阿武隈山地と太平洋に挟まれた地方を浜通りと呼びます。

 

 戦国時代には会津地方に割拠した蘆名氏が強大化し仙道地方の支配権をめぐって出羽米沢城主伊達氏と激しく争いました。一方浜通り北部には千葉一族の相馬氏が興り伊達氏と抗争します。戦国末期、伊達氏が蘆名氏を滅ぼし会津地方を併呑しますが、秀吉の欧州仕置きで伊達政宗はこれまで獲得した会津地方と仙道地方の大半を没収され、仙台に追いやられます。代わってこの地の支配者になったのは蒲生氏郷でした。

 

 会津地方を支配した蘆名氏は黒川城を本拠としますが、この地を若松と改めたのは蒲生氏郷でした。氏郷は黒川城を拡張し鶴ヶ城と名付けます。氏郷は会津92万石を領しますが1595年急死、代わって越後から上杉景勝が120万石で入部します。上杉氏の領地は浜通りを除く福島県の大半と、現在の山形県の米沢地方、庄内地方に及びました。その上杉氏も関ケ原敗戦で米沢30万石に減封、以後加藤氏(嘉明系)40万石の後、将軍家光の弟保科正之が23万石で会津藩に封じられます。

 

 会津藩松平家初代保科正之は家光の異母弟でした。2代将軍秀忠の御台所(正室)お江与の方は有名な浅井三姉妹の三女で大変嫉妬深い性格だったと伝えられます。秀忠が側室を設けるのを嫌い、秀忠がそんなお江与の束縛を逃れるため身分の低い侍女に産ませたのが正之でした。

 

 そのため、正之(幼名幸松丸)は存在を隠され信濃高遠藩主保科正光が預かり正光の子として養育されます。正之が異母兄の家光と初めて対面したのは、お江与の死後3年を経た1629年でした。1631年養父保科正光が死去したため、正之は信濃高遠藩3万石を継承し保科正之と名乗ります。家光は同母弟の忠長が秀忠、お江与の両親二人に溺愛され一時は三代将軍候補にもなったことから嫌いぬきました。一方、自分の地位を脅かす心配のない正之には愛情を示したそうです。

 

 保科正之は1636年出羽山形藩20万石に加増され1643年会津藩23万石に封じられます。以後保科松平家は幕末まで会津藩主を務めました。正之は徳川将軍家、特に家光の恩を忘れず子孫に「決して徳川将軍家を裏切るべからず」などの15か条の家訓(かきん)を残しました。これがのちの会津藩の運命を決めることになるのですから本当に歴史は分かりません。

 

 会津領は内高25万石以上あったそうですが、徳川御三家の水戸藩(当時25万石。のちに35万石になる)に遠慮して23万石に留めたとか。会津藩は藩祖保科正之の意向を受け、いざとなった時は徳川将軍家を助けるため尚武の気風を保ち続けます。そういう経緯から、幕末の危機の際幕府に頼られ矢面に立たされていくのです。

 

 次回、第1章では藩主松平容保の京都守護職就任と当時の会津藩や幕府の情勢について語ります。