会津戦争1 『京都守護職』 | 鳳山雑記帳アメブロ版

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 江戸時代、美濃国石津郡高須(現在の岐阜県海津市)に高須藩3万石がありました。徳川御三家筆頭、尾張藩徳川家の支藩で尾張徳川宗家に嗣子が絶えたときこれを相続する役目を帯びていました。いわば徳川将軍家に対する御三家の役割の尾張徳川家版が美濃高須藩です。

 

 そんな高須藩松平家10代藩主松平義建(よしたつ)は子だくさんで10人の男子がいました。そのうち長男と末子の九男は早世しますが、次男慶勝は本来の役割通り尾張藩徳川家に養子に入り14代藩主となります。三男武成(たけしげ)は石見国浜田藩を継ぎ、五男茂栄(もちはる)は御三卿一橋大納言家の後継ぎとなりました。

 

 六男容保(かたもり)は会津藩松平家に養子に出され9代藩主を継ぎます。また七男定敬(さだあき)も伊勢桑名藩松平家を継承します。高須藩松平義建の子供たちが、戊辰戦争で敵味方に分かれ戦うのは悲劇でもあり歴史の皮肉でした。結局高須藩を継いだのは家に残った10男義勇(よしたけ)です。

 

 容保は幼少期から利発で将来を嘱望されていたそうですが、会津藩松平家は徳川将軍家第一の家で尚武の気風でしたから、14歳で養子に入った容保は藩祖保科正之が残した家訓を刻み込まれたそうです。養子として立場の弱い容保からしたら仕方ないことだったのでしょう。

 

 当時の日本は1853年のペリー来航から始まり安政の大獄、将軍継嗣問題、尊王攘夷運動の激化など動乱の時代を迎えていました。尊王攘夷の急先鋒長州藩は攘夷派公卿の三条実美(さねとみ)などを抱き込み幕府に攘夷決行を迫ります。しかし、そんなことをしたら欧米列強と大戦争になり幕府滅亡、日本植民地化の危険性がありました。

 

 京都には、一旗組の浪士たちが集まり要人暗殺、押し込み強盗など暴虐の限りを尽くします。幕府は、これまでの京都所司代体制では都を守り切れないと悟り、新たに京都所司代や大阪城代を管轄し京都の治安維持を役目とする京都守護職を設けました。

 

 本来なら、京都に近く実力もある御三家の尾張藩や紀州藩が就任すべき役職でしたが、誰も火中の栗を拾いたくないため就任依頼を断ります。御三家に次ぐ家格である越前松平家なども守護職就任を嫌ったため会津藩の松平容保に就任要請が来ました。

 

 もし守護職になったら尊王攘夷派の攻撃の的になり下手したら命も危なくなるので最初容保は就任を迷ったと言われます。国家老西郷頼母(たのも)、次席家老田中土佐なども会津から江戸に出てきて守護職就任を辞退するよう容保を説得しました。

 

 しかし幕府も強硬でどうしても容保に守護職就任してもらいたいと譲りません。一時は守護職候補で現在は幕府政治総裁職を務める越前福井藩主松平春嶽(慶永)は、容保に保科正之の家訓を持ち出して京都守護職就任を要請します。こうなると断れませんでした。

 

 自分は就任を断ったくせに嫌な役目を容保に押し付けた春嶽は狡猾だと思いますが、生真面目な容保は不本意ながらも受け入れざるを得なかったのでしょう。そしてそれが会津藩の悲劇の始まりでした。

 

 実は会津藩は、蝦夷警備を任され藩兵千人を蝦夷地に派遣していました。さらにペリー来航で三浦半島の警備も担当したため藩財政は火の車でした。西郷頼母もこれを理由に守護職就任を辞退すべきだと容保を説得したそうですが無駄に終わります。結局保科正之家訓の呪縛から逃れられない運命だったのでしょう。

 

 1862年(文久二年)12月、容保は会津藩士千人を率いて上洛します。京の市民は、整然と行進する会津藩兵を見て頼もしく思ったと伝えられます。容保は早速孝明天皇に拝謁し天杯と緋の御衣を賜りました。容保は感激し涕泣(有難く思って涙すること)したそうです。

 

 会津藩は黒谷金戒光明寺を本陣と定め京都の治安維持を開始しました。同時期桑名藩主で容保の実弟定敬も京都所司代に就任、兄弟で京都を守る役目を仰せつかります。

 

 次回は、会津藩の京都での活躍、新選組結成までを描きます。