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私は一つのことを気になりだすと関連する情報も集めたくなる性格でして、この前モンゴルのジャワ侵攻を書きましたので他にもモンゴルから侵略されたアジア諸国が無かったか調べてみました。一般受けはしないでしょうが、興味のある方(ほとんどいないと思う)だけ付いてきてください。
過去記事で日本への元寇、大越・占城への侵攻、ビルマ(パガン朝)への侵攻は紹介しました。中東やインドはもちろんです。高麗に関してはいつか書くかもしれませんがあまりにも情けない顛末なので興味は湧きません。モンゴル帝国(元朝)と国境を接している国で侵略から逃れた国があったのか調べてみたんですが、ほとんど例外が無く何とタイにまで手を出していたと知り呆れるばかりです。
当時のタイは、華南地方から南下してきたタイ族が当時東南アジアの覇権国だったカンボジアのアンコール王朝からメナム川(チャオプラヤー川)下流の肥沃なデルタ地帯を奪ってスコータイ朝を建国していました。タイ族の流入は断続的に続き一番北のチェンマイ盆地にはラーンナー王国が成立します。
ラーンナー王国は別名八百媳婦国(はっぴゃくふそうこく)と呼ばれ、伝説では王の妻(媳婦)が800人おりそれぞれが全国各地の砦を治めていたと言われますが、どこまで本当か分かりません。
モンゴル帝国第5代ハーンにして元朝初代皇帝フビライハーンは、雲南にある大理国、チベットを征服すると雲南には六男フゲチを封じて雲南王、チベットには七男アウルクチを封じて西平国王にしました。当時のチベットは全体で56万人の人口がいましたが、一番豊かな北東の青海地方は元朝の版図に組み入れられたため中央高原だけでわずか22万人位しか人口がいなかったと言われます。
一方、雲南地方は歴代独立政権が誕生したように豊かで100万人から最大で200万人の人口があったそうです。モンゴルの東南アジア侵略はこの雲南王国が先兵となりました。ビルマのパガン朝に侵攻したのはまさに雲南王フゲチの率いる元軍でした。1286年最終的にパガン朝を滅ぼしたのもフゲチの息子で第二代雲南王を継いだエセン・テムルです。
モンゴルがタイのラーンナー王国に最初に侵入したのは1282年だと言われますから、ビルマのパガン朝侵攻と同時期にタイにも出兵していたことになります。ただ遠征の主軸はパガン王朝でラーンナー王国への侵攻はついでだったらしくこの時は何ら成果を上げられず撤退したそうです。
1284年雲南西南部の騰越・永昌・羅必丹(羅必甸)で、支配下のタイ系少数民族が大規模な反乱を起こしました。これをザルダンダン(金歯)の乱と呼びますが、当時タイ系少数民族の歯に金のカバーを被せる風習からそう呼ばれました。反乱は雲南王国だけでは鎮圧できず、四川地方の司令官だったイェスデル(サルジウト部出身の将軍)や中央の都元帥耶律忙古帯(やりつまんぐたい、契丹族出身)らの援軍を得てようやく鎮圧します。
雲南に反乱鎮圧のための大軍が集まると、ついでに隣国ラーンナー王国にも侵攻しようという話になります。そんなふざけた理由で侵略されたらたまったものではないのですが、主力はビルマ遠征に割かれ瘴癘の地であるラーンナーでモンゴル兵は疾病に苦しみまたしてもほとんど成果を上げられるまま撤兵しました。
何度失敗しても懲りないところがモンゴルの長所でもあり短所でもあるんですが、1280年代は大越、占城と失敗続きでありどこか一つでも成功させようと考えたのか、1290年再度ラーンナー王国侵攻が決まりました。遠征軍はラーンナーの地に入りますが、ラーンナー軍の抵抗も激しく、悪いことに雨期に遭遇し河川の大規模氾濫に巻き込まれ撤退したそうです。場所は現在のタイ領内ではなく、ビルマ東部でタイ国境に近いケントゥン(現チャイントン)でした。当時はそこもラーンナー領だったのでしょう。
ケントゥンにはラーンナー王マンラーイの子ナムトゥアムが冊封されていました。結局モンゴル軍のラーンナー王国侵攻はグダグダに終わりますが、ラーンナー側もいつまでも抵抗を続ければじり貧になるという自覚があったのでしょう。モンゴルの侵略を防ぐために元朝に服属しました。
ただし心から心服していたわけではなくラーンナーはたびたび元朝に対して反乱を起こします。元朝はそのたびに討伐軍を送りますが、遠征の度に挑発される華南の住民は疲弊していきました。1302年の遠征では元軍がラーンナーの反乱軍に敗れ元の朝廷では「瘴癘の地であるラーンナーを治めても百害あって一利なし」と事実上放棄が決まります。結局、高温多湿で密林地帯の広がるラーンナーではさしものモンゴル騎兵も活躍できなかったのでしょう。
ラーンナー王国は、タイ南部の平野地帯でスコータイ朝、アユタヤ朝が成立した後も独立を保ち続けます。ところが1558年隣国ビルマの侵攻を受け滅ぼされました。ただ、住民はビルマの支配を良しとせず抵抗運動を続け1774年タイのトンブリー朝タークシン王に寝返り、以後この地はタイの領土となります。





