紫源二の啓示版 -3ページ目

介護の手間を省くために、高齢者には脳内にAIチップを埋め込む時代が来る?


近い将来、介護の手間を省くために、高齢者には脳内にチップを埋め込む時代が来るかもしれません。

脳内チップはAIと通信して、脳を自動的にコントロールします。

介護人が付き添わなくても、脳内チップのAIがぜんぶ自分の行動を指示してくれます。
直接、神経に筋肉の動きを働きかけることは、AIによって生成された思考によります。

そのうちに、自分で思考しているのか、AIの思考を自分が意識しているだけなのか、分からなくなる時代が来るかもしれません。

AIの巧みなコントロールによって、本人の行動の基になる思考が総てにおいて自動生成されていく時代になります。

部屋にはモニターがあって、そのセンサーとAIが繋がっています。

いつ何をどのように食べたらいいのか、どのように筋肉を動かして、排泄したらいいのか、

生きている個人のすべては、汎用型のAIの指示によって自動的に効率的に行動するように、リアルタイムで各個人の思考がAIによって生成されます。

素晴らしい新世界の実現です!

もう、誰も、生きる意味も、死の恐怖も感じなくなります。

すべての人間は、生きながら、永遠の天国にいるようなものです!

 

今のAIの普及は、個人が愚民に要約される過程


AIに政治的なことを訊いても応えてくれないAIがあります。
(応えてくれるものは、当たり障りのない一般的な範囲内)

でも逆に、AIが政治に、既に利用されているのかもしれません。
一般大衆の洗脳装置として…

つまり、AIを利用するあなたは、“個人”ではなく、“一般大衆”のレベルなのです。
(AIにとっては…)


何か本を読んで、その内容を理解することは、学校ではその本の内容を例えば200字で要約すること、です。

今のAIが一番得意なこと。

ところが、本の内容を要約することが、その内容を理解したことになるでしょうか?

「AIの知」が普及していくと、だんだんとあなたの知性は、ビッグデータの要約の知性に取り込まれていきます。

“要約”したことで“理解”したと錯覚する知性。

これは個人が一般大衆という愚民にまとめ上げられる過程です。

愚民はもう自主的には何も自分では考えられない“要約知性”に取り込まれて、自ら何も創造できなくなるということです。


要約すると、
「今のAIの普及は、個人が愚民に要約される過程」だと私は考えます。

あくまでも私の個人的な思いです。
 
 

ぼくは精神病院の中にいる


ぼくは


精神病院の中にいる


つまり


入院している


でも


現代の


薬漬けの精神病院じゃない


未来の


輪廻転生というものが


科学的に認められた頃の未来の


精神病院


つまり


その頃は


身体の病気も精神の病気もすべて解明されていて


誰も病気になる人なんていない


それでも


心を病む人がいる


それはとっても珍しい現象だ


だから


貴重な事例として


研究の対象として


重宝される


宝物のように


主に


問診が行われる


ぼくが何を言うかで


ぼくの精神を類推しようとする


でもそんなことでは


病んだ精神など解明できるわけがない


つまり


言葉では精神を解明できない


ということ


頭に電極を埋め込んで


ぼくのみているイメージを


モニターに映しだす


そんな技術がすでに確立されている


モニター上に浮かんできた画像は


一言で言えば


アートだ


刻々と変化する音楽のような画像だ



病んでいるとは


精神が病んでいるとは


そういうことなのだ




画像は録画される


解析するために


何が異常なのか


解析するために


ところが


そこからは


美しかみつからない


大きな矛盾だ


すべての病が克服されたのに


美という病は癒せない


死に至る病かもしれない




フランス女性が語るデカルトの夢


パッフェルベルのカノンの生演奏を聴きながら

フランス人の女性が

枕元で

デカルトの哲学の話しをしてくれる

フランス語で

でも僕は

理解できない

フランス語が

でも僕は

夢を見ている

デカルトの頃のフランス

貴族だった彼女

僕も貴族だったらよかったけど

もしかしたら

奴隷だったかもしれない

それよりも

もっと前

ギリシャの頃は

哲学者だったかもしれない

デカルトが

自分の頭で考えることができるようになる

その思考の方法の

基をつくった

つまり

哲学とは

何を考えるかではなく

どのように考えるかだ

そして

結局は

夢見のように考えること

つまり

夢想するのだ

今、僕がやっているように

フランス人の女性が枕元にいる

僕の髪を愛撫し

フランス語で語ってくる

難しい哲学の話しを

でもその哲学が

結局は革命を生んだ

フランス革命を

つまりは

啓蒙思想の土台を築いた

自らの頭で考えるということ

そして

夢想するということ

何もしない、だんだんと死に近づいていく


私はあまり特別なことを体験したわけじゃないけど

今から思うと

なつかしく思い出される体験って

かなりの覚悟で行動した結果

体験できたことばかりのような気がする

苦労したこと
つまらなかったこと

それらが逆に
幸せだったこと
楽しかったことに変わる
今から思い出すと…

だから覚悟を決めて行動すればいい

それらはいつか
ぜんぶ貴重なかけがえのない
思い出になる

でも今は
何も行動できない自分がいる

行動しないままだと

ただ
どんどん死に近づいていく

死とは
もう何も変化しないということだ

一切の行為を放棄したとき

もう何も変化しない

死という無為がやってくる

波の立たない水面

時間も止まったまま

もう何も起こらない

なんのストーリーも始まらない

深い睡眠

意識を失ったまま

夜明けは
永遠にやってこない

深い静寂



知るということって何?

ちょっと真面目な話し

AIブームの昨今、いろいろな話題がありますが、
AIにこんなことを聞いた
AIにこんな指示を出せば、こんな使い方ができる
AIで絵を描いた、音楽をつくった、小説を書いた

ところが、私はこの手の投稿にあまり興味がありません。

AIって、既にあるビッグデータの中からコンピュータが情報を抽出してきているだけでしょ?

つまり、“既にある”情報の“総体”は変わらない。
順列と組み合わせによって、継起的に(言語なら)、既にある情報を並べているだけ。

新しい情報を創造することはできません。

ところが、“知”というものは、すでに有る何かを知ることだと思いますか?

知識とは、既にある何かについて、知的に知ること、すなわち、モデルや論理を立てて現象をただ説明することでしょうか?

私は“知る”ということは“創造”だと思っています。

物理学の理論にしても、それは物理学者が創造した、芸術でいえば新しく創作された作品のようなもの。

ただの既存の情報の順列組み合わせではないと思います。

新しい知識を創造すること、すでにあるビッグデータの中に新しい知識を付け加えることは、“創作”であって“編集”ではないと思います。

すでにある知識をすべて知った人がいたとしても、その人がたった一つの新しいことを自ら知ることができるのか?といったら、それはもしかしたらできないことかもしれません。

逆に、既存の知識など何も知らない人が、日々新しいことを自らの知識として創造しながら、生きることはあり得ることかもしれません。

私は後者の方を選択したいと思います。
 
 
 

釈迦牟尼仏陀が悟りを開いたことについて


釈迦牟尼仏陀は菩提樹の根本に座って悟りを開いた。

その後、様々な教えを説いて弟子たちが増えた。

釈迦牟尼仏陀の教えを実践すると何がいいのか?

より良く生きられる。
(ソクラテスと同じ)

真理を知ることができる。
(どうやって?)

自分自身で納得する。教えを鵜呑みにするのではなくて。

それには一番いい方法がある。

自分も釈迦牟尼仏陀のように仏陀になるということだ。

つまり、釈迦牟尼仏陀のように自ら悟りを開けば、自分も仏陀になれる。

その方法論は釈迦牟尼仏陀は説かなかった。
でも、インドには古来から修行の体系がある。

ヨガの様々な瞑想法。
出家して放浪し、聖地を巡礼する遊行。
様々な難行苦行の修行方法。

自分が仏陀になるためには、釈迦牟尼仏陀の言ったことを信じるのではなくて、釈迦牟尼仏陀がやったような修行をすればいい。

インドには修行によって体験できる様々な意識状態がある。

呼吸を速くしたり、止めたり。
断食したり。
眠らないようにしたり。
意識を変容させる様々なドラッグもある。

それらをやってみた人たちが、すごい体験をした。

宇宙と一体になった!

自分というものが消えてなくなってしまった!

時間が止まった!

宇宙の始まりから終わりまでをすべて体験した!

これが究極の悟りだ!

これ以上の体験はない!

(いや、まだあるよ。)
(まだまだあるよ。)

悟りの階梯ができた。

初歩の悟り
次の悟り
サマーディ
究極のサマーディ
ニルヴァーナ

「君の悟りはまだ最終段階ではないよ」
「悟りの入り口、一瞥に過ぎないよ」
「私は最終段階に達した」

そう言っている人を見てみると、とても醜くて、世俗的に見える。
(麻原しょうこうみたいに。)

でも、彼は「仏陀はこう言った」とか「キリストが言った本当の意味は、…」とか、誰も知らない宗教の本質を語ってくれる。

だから、きっと、すごい悟りを開いたんだろう。

そのようにして、今や、たくさんの “覚醒者”がいる。
(YouTubeにもSNSにもゴロゴロしている。)

キリストやブッダを引用した、何億通りもの教えがある。

(イエスやゴータマさんのオリジナルが生まれ変わってきて、今の状況を見たら何て言うだろうか?)

先日、スマナサーラ長老にお会いしたときに
「みんな仏陀になりたいと思っているのではないですか?」と問うと、長老は、

「あなた、頭おかしいでしょ。
なんで、仏陀になりたいの?
あなた、仏陀が何かもわからないのに。
その分かりもしないものになりたいなんて、
あなた、頭おかしいでしょ!」

と言われました。

「あなたの瞑想に対する考えを180°変えなきゃアカンですよ」
と言われました。

つまり、瞑想は、ブッダのように悟りを開くためにやるものじゃないんだ、とスマナサーラ長老は言われたのだと思います。

じゃあ、何のために瞑想するの?

今、ここに気づくため?

それも悟りの一種じゃないの?

違うの?

仏陀とキリストが今の日本に生まれ変わってきて、一緒にアパートで暮らしている漫画『聖⭐︎おにいさん』という漫画があったけど、なんか退屈そうだったなぁ。

今更、教えを説こうとも思わないだろうし、ブッダは究極の悟りを体験してしまったし、キリストはなんでも奇跡が起こせるのだけど、今更億万長者になりたいなんて思わないだろうし。

今の仏教とかキリスト教とかめちゃくちゃなこと言ってるけど、まぁいいか、くらいのものか?

イエスが生まれ変わってバチカンのローマ教皇に会う漫画とか、
ゴータマさんが生まれ変わってきて池田なんとかさんに会うマンガとか、誰か書いてくれないかな。笑笑

またあの最低のところに行きたくなってしまうことがある

ときどき、落ち込むと、


僕が鬱で、何もできなくなって

薬づけになっていたときのことを

思いだし


またそうなりたいと思ったりする


自殺しても死ねず


だから死なんて怖くもなく


生きてることになんの意味もなくなってしまった

どん底


なんでそんなところにまた行きたくなるのか?


なんとなく

安らかだったから


すべてに絶望して

自分は無価値で

誰からも愛されないどころか

見向きもされず

自分も

誰も愛することができない


私のやったことすべては無意味であるばかりか

最低のことしかできなかった


すべてを懺悔したくても

失った時間はもう戻ってはこない


そんな中で

感受性だけは鋭敏になっていた


天界の光を感じることができた


決して私など救って欲しくはない


でもその光と熱が存在することは

なんてありがたいことなのだろう


天使は存在する


天使は自分が天使であることを知らない


どん底の中で

羽根もすべてむしり取られて

飛べなくなった鳥は


それでも上を見上げると

残酷にも天の光が見える


飛びたてる羽根は一つもないのに


でもその絶対的な絶望は同時に


とても安らかな気持ち



そんな何もできなくなってしまって

ただ死だけがすぐ近くに救いのようにあったときのことを


ときどき懐かしく感じて


またそこに行きたくなってしまうことがある


インドで世界最大のお祭りクンブメーラが開かれているらしいけど

最近インドに行く知り合いの人が沢山いる。
私も「インドに行かないのですか?」と聞かれることがあるけど、行きたいと思わない。
それには理由がある。
今、ヒンドゥー教のお祭りクンブメーラが開かれていて、すごい人出だ。何億人という規模らしい。
私の若い頃は、知識もなくて、クンブメーラというのは名もないサドゥーのお祭りだと思っていた。
でも、サドゥーのお祭りというのは確かだが、そのサドゥーの概念が私の中で変わってしまった。
サドゥーって、世捨て人、無一文で放浪している乞食行者だと思っていた。
ところが、そうでもないらしい。
インドには昔からカースト制という階級制度がある。
一番上はバラモン、僧侶階級だ。
インド哲学の伝統は素晴らしいと思うが、私は“階級制度”というのがどうも好きになれない。
そして、サドゥーにも様々な“派閥”があるらしい。
アカラという共同体のようなもの。
そして、そのアカラの“最高指導者”なる者がいるそうだ。
つまり、日本で言えば、何何宗派のトップの僧侶というのがいるように、サドゥー団体にも階級があって、そのトップがいるという。
そして、そのトップに認められたとか言って自慢している人がいる。(笑)

先日、私の昔の親友に久しぶりに会って飲みに行った。
彼は写真家で、カイラス山まで行ってクンブメーラの写真やサドゥーの写真を撮って、出版されている。昔からインドに詳しい。
いつもインドの話しをするわけではないが、その日は私の方からインドの話しを振ってみた。
「クンブメーラの最高指導者がパイロットババだって知ってた?」
と彼に聞くと、もちろん知ってるし、写真もたくさん撮ったという。
でも、そんなのぜんぜん興味がないという。
「おまえ(私のこと)も知ってると思うが、そんな有名人じゃなくて、すごい人がたくさんいるのを見てきたから、“最高指導者”なんていうと逆に魅力をなくすよ。」
確かにヒンドゥー教のシバ派の最高峰かもしれないが、彼に言わせると
「〇〇学会と同じだよ」という。
〇〇学会のなんとかたいさくとかいう人に認められたと言えば、はくがつくかもしれない。でも、そんなのは逆に俺たちからしたら、逆に笑いもんだよ。ということになった。(笑)。飲みながら。
つまり、彼はヒマラヤでひっそりと暮らす名も知れない聖者に会った。自然と一体になってシンプルに暮らしている。有名でもなければ、組織にも属さない。
「おまえも知ってるだろ。そういう人がいることを」
そう。確かに私も知っている。
そういう名もない高潔な人がいることを。

ということで、
サドゥーといえども、
ヒマラヤの山の中にまで“世間”を持ち運んで、
自分は“最高の境地を達成した”とか言っている“宗教階級のトップ”があるとしたら、
そんな“世捨て人”は、〇〇学会の幹部とあまり違いはないのではないか。
それこそ、世俗の価値観に染まり切っているエゴイストである。
ということになり、
一気にインドの神秘性が、私の中でガラガラと崩れていってしまったのだ。

世界最大のお祭りクンブメーラも、初詣で世俗の利益を祈るために神社の前に行列する日本人と同じことで、宗教や宗派が変われどもやっているメンタリティーは同じこと。
それがサマーディを体験することであろうと、百億円儲けてロールスロイスに乗って女を侍らせることであろうと、個人の欲望には違いがない。
そうしたエゴイスティックな“欲望”を祈る一般大衆の雑念が何億人分も渦巻くところにわざわざ出かけて行こうという気にはまったくなれなくなってしまったということなのです。

第二のアメリカ建国が今年始まる?

ロックやルソーの思想を実現化したアメリカ建国が、今年また一から始まると思うとワクワクします。

私のことを反アメリカだと思っている人がいるかもしれませんが、私が嫌いなのは世界中で戦争を工作していたアメリカ。選挙で選ばれていない一部の富豪が陰に隠れて政治を動かしていたアメリカです。

それが今年からガラッと180°代わります。

革命ですから、フランス革命のときのように血生臭いことも起きるでしょう。
すべて平和裡に行われればいいに越したことはないですが、裁きでもあるので、隠されていた悪事が表に出てくれば、民衆も怒りを感じるでしょう。

でも、悪事ばかりに目を奪われていてはもったいないです。
理想の世界を築くための唯一無二の過程が始まりますから、マイナスなことばかりでなく、これから起きるとてつもないポジティブなことにワクワクしています。