新城(宮崎県児湯郡西米良村)
宮崎県の西部、熊本県と県境を接する西米良村は日向灘に注ぐ一ツ瀬川の源流域に位置する、深山幽谷の地としてご存知の方も少なくないのではないでせうか―?
公共の交通機関は宮崎交通のバスが西都バスセンターから発着している他、村営バスのやまびこ号がくま川鉄道の湯前駅に乗り入れており、宮崎と熊本の双方に対し交通の便が図られています。
とはいえ、西都はもとより鉄道がないので、宮崎駅、あるいは高鍋駅、佐土原駅から路線バスに乗る必要がありますし、湯前にしても人吉駅から第三セクターにくま川鉄道へと乗り継がねばならないのですから中々に遠き道のり。
しかも人吉駅を発着するJR肥薩線及びくま川鉄道の一部区間は豪雨の影響で運休が続いているとあって、一介の旅行者からすると到達の難易度が高い秘境の雰囲気が漂う場所でもあります。
中世から近世にかけてこの隠れ里ともいうべき場所を拠点としていたのが米良氏であり、私もその米良氏の足跡を訪ねる目的で西米良村を訪問したのでした。
米良氏といえば高名な声楽家の存在もあって多くの人がその名を知る所となっていますが、中世、米良山と呼ばれていた西米良村における領主としての米良氏の起源は肥後の菊池氏より始まっています。
その初代とされるのが重次で、肥後守護・菊池能運の子とされる人物。
能運が菊池氏当主であった15世紀末から16世紀初頭にかけては家臣の反乱や近隣勢力の侵攻が相次いだ時期で、故に能運は文亀元年(1501)に弟の重房に子の重次を託して米良の地へ送る出したといふのですが、この点には異説も多く、判然としない。
米良において米良氏以前より基盤を構築していたのが天氏であるが、この天氏も菊池一門とされる他、すでに米良を名乗っていた菊池一門の足跡が種々伝えられており、古くより米良山が菊池氏の影響下にあったことがわかります。
いずれにせよ重次の跡は重種―重治(重種弟)―重鑑―重良(重鑑弟)―重隆と続いたとされる米良氏。
この間、内憂外患に晒されながらも命脈を保ち、近世には人吉藩相良氏の附庸として存続します。
人吉藩内にあっては客分的な扱いであった一方で、幕府旗本として大名に準じる交代寄合として5年に一度ながら参勤交代の義務があったという異色の存在で、いわゆる石高という点では無高ではあったが格式は5千石。
山また山に囲まれて江戸中期にも米の生産高は12石といいますから、米を尺度とした石高制では極めて微小な存在のやうですが、米良山の生産基盤は豊富な森林資源にこそあり、相応の経済力と天嶮があればこそ米良氏は戦国乱世にあっても半ば独立した存在としてこの地に存立し得たのです。
無論、完全に自立していた訳ではなく、戦国期においては当初、伊東氏の麾下にあり、後には相良氏に従属、江戸時代初頭には延岡藩主・高橋氏との間で帰属を巡る諍いもありました。
前置きが長くなりましたがここからが本題で、米良氏の居城の変遷についてご説明致しませう。
米良山へ逃れてきた重次が最初に入ったのが銀鏡城で現状の区分では西都市。
次いで移ったのが村所城で、ここは現在でも西米良村の中心地であり、西都、球磨、阿蘇からの街道が集まる交通の要衝です。
近世に入ると東方の小川館(陣屋)へと移りますが、明治維新の後、菊池姓に復した米良氏は先祖の故地・菊池郡へと去り、昭和初期に村民によって別邸が村所に構えられています(現在の菊池記念館)。
‹村所市街地とは川を挟んで対岸にある村所城址›
問題の新城は村所城の東方の山上にあり、村所の市街地からは一ツ瀬川を挟んだ対岸です。
居城である村所城は村所市街地の西方、やはり一ツ瀬川を挟んだ対岸の丘上にあり、位置づけとしては詰めの城として築かれたのでせう。
新城といふ名称は村所城に対する呼称と思はれますが、新城の方はあくまで純然たる山城であり、山麓も土地がないとあって基本的には村所城と並立していたものと思われる。
新城があるのは一ツ瀬川の南岸の山上、最高所を中心に尾根上に一直線に曲輪が並んでいます。
主郭の北東は広い曲輪で、現在、配水池などがある曲輪。
その北東下にも小郭があるのですが、ここが中々に出色で、三方を低いながらも石垣が築かれているのです。
最高所から南西は2段の平場があって堀切が入りますが、この堀切は岩盤を削り込んだものであり、石垣の石材も現地で調達できたのでせう。
以上が尾根上に展開する曲輪であり、他には北西側に帯曲輪が2段程度重なる程度の小規模な城といえます。
斜面を回り込む虎口が主郭や北東の曲輪に見られ、小規模な石垣も―。
‹高さ1m弱の石垣が小曲輪を囲む›
石垣と米良氏といえば近世の居館となる小川館の隠居場曲輪に高石垣が見られますが、豊臣政権との邂逅の後は米良氏も朝鮮出兵などに従軍しており、石垣の技術を学ぶ機会があったのでせう(初期の居城・銀鏡城にも石垣が見られるが、近世の構築か?)。
傾斜地の多い米良山では石垣の需要が高かったと見えて、随所に石垣を見ることが出来ます。
ちなみに新城の北側の石垣はどうも一ツ瀬川対岸を進軍する敵勢や村所の町屋から見える所に築かれた節がある。
この時点では米良山でも石垣が珍しい存在だったとうかがわせる配置であり、形式も横目地の通らない野面積みです。
あるいは何らかの建物があって、米良氏の威信を象徴していたのかもしれませんが発掘などがなされていないので真相はわかりません。
村所城及び新城は3代・重治によって築かれたと伝わり、近世前期の承応年間(1652~55)に小川館が築かれるまでの居城であったが、山城である新城はその時点では廃城になっていたのではなからうか?
村所の新城は紙の資料やインターネット上での情報も少ない城ではありましたが、訪れてみると小規模ながら石垣、堀切、虎口など中々に見所のある遺構が残る城跡でした。
‹新城の概略図。北の林道は西郷坂と呼ばれている›
‹南西から見た主郭›
‹電波塔が建つ主郭北東の曲輪。奥が主郭›
‹同上東の虎口。石垣の小曲輪の下を巡って到達する›
‹岩盤を切り込む北東の堀切›
‹南西の堀切は至って浅い。この上方には鋭い切岸と石垣が控えている›
‹北西斜面には帯曲輪が段々と築かれている›
南郷城(久木野城・熊本県阿蘇郡南阿蘇村)
熊本県の阿蘇といえば阿蘇五岳と呼ばれる主峰群の周りを直径25kmに及ぶ外輪山が囲む巨大カルデラであることがつとに有名です。
このカルデラは27万年前から9万年前頃にかけて起こった大噴火によるもので、マグマだまりの空洞が陥没することで形成されたもの。
阿蘇の五岳はそのカルデラ内に再びマグマが溜まることで隆起した山であり、今なお活火山として軽微な火山活動が度々観測されています。
現在、このカルデラ内には阿蘇市、高森町、南阿蘇村といった自治体があり、その人口はおよそ5万人。
酪農や農業の他、豊富で清冽たる湧水を利用した酒造りなども有名であり、観光でもカルデラや五岳の恩恵を存分に浴しているといえます。
さて、このカルデラ内には太古より人々が住んでいましたが、中世において大きな影響を持っていたのが阿蘇神社でした。
阿蘇神社は時として荒ぶる阿蘇山を信仰をベースとし、主祭神は健磐龍命をはじめとした12柱の神々。
神武天皇の孫とされる健磐龍命の子孫が神社の大宮司として君臨した阿蘇氏であり、阿蘇神社の祭神はこの阿蘇氏の祖先にもあたっている。
この神々が神武天皇と結びつくかどうかは兎も角として阿蘇氏は阿蘇国造家に連なる旧家であり、その宗教的権威を背景に次第に軍事力を備え、阿蘇カルデラ内を中心に肥後中原に勢力基盤を構築しました。
その後、カルデラの外にも勢力を伸長した阿蘇氏は執権の北条氏の影響もあって鎌倉前期頃には南の矢部(山都町)へと拠点を移しているのですが、それ以前の拠点は南郷と呼ばれていたカルデラ南部地域に置かれていました。
なお南郷より前の拠点は阿蘇神社のあるカルデラ北部地域で、二辺塚及びその山麓地域に居館があったとか―。
<二辺塚の内、北塚から本塚を見る。背後は阿蘇五岳の西の峰々>
さて、この南郷における阿蘇氏の居館はその具体的な場所が不明だったのが、近年の発掘調査により、南阿蘇高原鉄道・中松駅の南方、白川の北岸に位置する二本木前遺跡から大陸より移入した陶磁器等が大量に出土したことから、この地こそが阿蘇氏の居館であったと見る向きが強い。
南方に目を転じると外輪山より北へ突き出た山塊のうち白禿山と呼ばれる山に城郭の遺址があり、この城を南郷城として二本木前遺跡の詰めの城であった、とする説が有力視されています。
<西から見た二本木前遺跡。仮川によって形成された段差がある>
南郷城については阿蘇氏庶流の恵良惟澄が建武4年(延元2、1337)以降、度々、この城を攻めてついに攻略したとの記録があり、後に惟澄は大宮司となっています。
なおこの時、南郷城に籠っていたのは北朝方の大宮司であった阿蘇一門の坂梨孫熊丸らであり、惟澄は南朝方にあって各地に転戦、その功もあって南朝より大宮司と認められたが、一方で北朝方の大宮司も並立している状態で、阿蘇大宮司を巡る混乱は後々まで続いてゆきます。
この記録に見える南郷城に関しては長らくその所在が不明だったものの、久木野城と呼ばれていた白禿山の城址が古くから恵良惟澄ゆかりの城とされるなどその最右翼であった模様。
城址の北1.2kmの位置にある二本木前遺跡が阿蘇氏居館である可能性が高まったことで、久木野城もまた南郷城である可能性がより高まったといふ次第なのです。
久木野城の縄張は山頂部を2段に削平して南側を主郭とし、南から東にかけて2段の腰曲輪を設けている。
腰曲輪のうち下段の南側には外縁に土塁があって半ば空堀状。
特徴的なのはこの2段の腰曲輪が北へ向かうにつれてスロープ状に傾斜する点で、一見、林業の作業道のやうでもある。
このうち上段の腰曲輪は北尾根と同化し、下段の腰曲輪はそのまま北の小ピークから北東へ下る尾根へ向かってゆくのですが、途中で一旦途絶えてまた復活するのです。
この一旦途絶える点を除けばいかにも作業道といった感じながら、腰曲輪の真ん中に行く手を阻むかの如く杉が植林されている点やあくまで城址への導線を志向している点などから作業道という訳ではないらしい。
<主郭東の上段腰曲輪。平坦面の中央に杉が植えられている>
なお主郭から北へ下る尾根は緩斜面であるにも関わらず削平地も堀切もないいまま鞍部を経て北の小ピークへ続いており、何故か防備の配慮がなされていない。
すなわち北のカルデラ内の低地よりも南の外輪山の峠へとつながる尾根続きを警戒しているやうなのだ。
地図を開くと駒返峠、多津山峠、天神峠といった古道がまさに城の南の外輪山を越えており、城の南の尾根続きへの進入も容易に見える。
情勢的に南北朝期であれば南朝勢力が南方にあったのでこの方面に防備を施したのかもしれないが、城自体は戦国期まで久木野氏を城主として存続したようなので、遺構の最終形態はこの久木野氏時代のものではないかと思われます。
いずれにせよ北方に対しては地の利に頼って防備施設がない上にスロープ状の2段の腰曲輪の存在も不可解。
曲輪と呼べるのが2段の平場のみで、阿蘇氏本家の城とするには余りに手狭と、ここが城址であるのは間違いないにせよ、「はて?」と首をかしげざる点が多々あるのも事実です。
城址へのアプローチは北方の尾根は藪となっていて困難ですが、東及び南斜面はよく手入れされた山林なので、原尻神社よりさらに奥に進んだ所から踏み跡をたどってゆくのがよいでせう。
現状、山林となっている城址からは展望が利きませんが、麓の道からは涅槃にも例えられる阿蘇五岳が一望に見渡せます。
<南郷城の概略図。南の鞍部には堀切状の切通し道がある>
<南北に細長い山頂の主郭。広さは18m×6mほど>
<外縁に低い土塁がある下段の腰曲輪(山頂の北)>
<かなり荒れ気味な北の小ピーク>
米内沢城(秋田県北秋田市)
全長94kmといふ長大な路線を誇る第三セクターの秋田内陸縦貫鉄道。
北の鷹巣駅と南の角館駅とを結ぶ鷹角線として着工された路線は長らく比立内~松葉間が未成のままで北の阿仁合線と南の角館線に分かれていましたが、昭和61年に国鉄から切り離され第三セクターとして再出発すると平成元年には早くも南北両線がつながり、昭和7年の着工以来、およそ60年の歳月を要して鷹角線の夢が実現しました。
この鷹角線の内、最も早く開業したのが阿仁合線の鷹ノ巣-米内沢間。
今日でこそその長大さに似ず北秋田市と大仙市という二つの自治体にしかまたがらない秋田内陸縦貫鉄道ですが、平成の大合併以前においては6町村を貫いており、今日、北秋田市に属する米内沢は当時、森吉町の中枢として町役場が所在していました。
今回、ご紹介する米内沢城はその名の如く北秋田市の米内沢にある城址です。
米内沢は米代川の支流・阿仁川の左岸に発展した町で、上流の阿仁と下流の鷹巣とを結ぶ舟運の中継地として栄えました。
米内沢城はその米内沢の町を北に見下ろす山上に位置しており、城主を嘉成氏と言いました。
中世における嘉成氏の動向は不明な点が多い。
そのルーツは現在の宮城県内の栗原郡にあるようで、葛西氏の一族である金成氏が本流に当たるのだが、阿仁一円に進出した時期や経緯は明らかではありません。
ようやく戦国末期になって資清、貞清の名が見え、この頃には阿仁城や小沢田、木戸口、前田といった支城網を展開し、安東氏の下で阿仁郡代を称するほどに一円では力量のある勢力でした。
天正15年(1587)、主家の安東愛季が没すると桧山家と湊家の間で内訌を生じ、ここに湊家の安東通季に与力する形で南部家が介入してくる。
大館城の五城目秀兼の内応を得て比内に進出した南部氏はさらに同17年に阿仁にも進軍、嘉成氏は陣場岱でこれを撃退すると主家の桧山安東実季に従って大館城の奪回戦に従軍し、南部氏が撤退した後には米代川中流域をも管理下に治めて勢力を拡大しました。
但し大館城の奪回戦では嘉成貞清が討死しています。
さらに天正19年8月、世は豊臣秀吉による天下一統が実現した時分ではありましたが、阿仁では風雲告げる事態が発生する。
嘉成資清が夜陰に乗じて南方の風張城を強襲し、長年友好関係にあった松橋盛光を自刃せしめたのです。
松橋氏が管理していた阿仁鉱山の権益を狙ったともいわれているがはっきりした理由はわからず、安東氏もこれを黙認。
しかし嘉成氏は関ヶ原役後、秋田と名を改めた安東氏に従って常陸宍戸へ移り、替わって常陸より入部した佐竹氏の家臣で十二所城代となった赤坂朝光が米内沢城を合わせて管理したが、慶長8年(1603)には廃城となりました。
城址は米内沢市街地の南に聳える標高127mの山上に位置している。
米内沢神社境内に登山口がありますが、城址へ至る斜面はかつてはスキー場となっていたようで、神社からしばらくは自動車も通行できるような道が上方へ続いていきます。
ところがこの道もしばらく登った所で道幅が狭くなり、植物の旺盛な繁茂ぶりに半ば埋もれてしまう始末。
かつてスキー場であっただけに大木もなく、陽を遮るものがないときて草本の植物が野放図に伸びている状態なのです。
それでも人の通った踏み跡は何とかわかるもので、頂部の平坦面まで我慢して登ると後は山林となっていて陽の差し込みが制限されるとあって下草の成育も悪くなり、支障なく歩けるやうになります。
山上の曲輪群は尾根に沿う形でL字を鏡にした形で展開しており、中央の最高所を主郭とし、その西端には櫓台状の土壇があって厳密にはここが最高点。
土壇の南には1条の堀切が穿たれ、さらに南方へと尾根が続いた先に小ピークがありますが遺構は見られません。
<城内最高所の土壇>
南東には1段下がって細尾根が続き、その先端に浅く堀切が入り、さらに2段の小郭があって、これより南は大きく落ち込んでいます。
一方、北側には広く腰曲輪があり、スキー場のありし日は町を見下ろす展望台として四阿が整備されていたものが、今は放擲されて藪と化している。
この平場はスキー場建設の際に改変されたのだとか―。
平場北西にも堀切があり、以上が確認できた山上の遺構。
城の規模は小さく、縄張も尾根を基調に各方面の尾根を掘り切ったのみといふ単純な造りではありますが、近隣の城址もさほど大規模なものはないので、嘉成氏としてはこの辺りがスタンダートな形態だったのでせう。
北麓には前述の米内沢神社の他、西に龍淵寺があり、境内には切岸が見られることからこの付近に平時の居館があったとも推測されています。
<米内沢城・山上部の概略図>
なお、山城である米内沢城の東、倉ノ沢と呼ばれる細流を挟んだ対面の台上も城域とされ、こちらは古舘と呼ばれています。
米内沢神社の脇をそのまま南下した突き当りに当たる所で、東に土塁のある平場と東尾根に2条の堀切があるとのことですが、こちらの古館は不覚にも実見していません。
位置関係からするとこれらは一体の城と言ふよりは別個の城館であり、かつ居館と詰めの城というよりは町屋との関係性や沢によって双方が隔てられていることを慮るにこの両者には新旧の関係があったやに思わるる。
即ち当初の居館が古館で、後に西の山城が構築されて居館もまた移されたと見るべきで、山城の北麓には館、下屋敷、根小屋といった地名が残るやうです。
但し山城の築城後も古館が支城的な位置づけで存続し、並立していた可能性はあるのでせう。
ところで米内沢にはサギサギ(語源は懺悔懺悔と思われる)といってマワシを付けた若衆が町を練り歩く行事があり、最終的には倉ノ山にある三吉神社へと登拝します。
三吉様といえば相撲好きとして聞こえた神様であり、米内沢神社の奉納相撲と共にかつての相撲所としての歴史を伝える所。
そうといえば大相撲の元関脇・豪風(現・押尾川親方)はまさに北秋田市の旧森吉町の出身です。
<土俵がある米内沢神社。毎年5月の祭礼で奉納相撲が行われる>
<最高所の平場。意外と手入れがされているのか、下草は少ない>
<南東尾根の堀切>
<上掲堀切の南の小郭。南方に対する見張り台であろうか―?>
<自然に回帰しつつある北の腰曲輪>
<腰曲輪西の堀切。スキー場の藪を乗り越えて初めて出会う遺構>
十二所城(秋田県大館市)
さて、花輪線の旅を続けてまいりましたが、鹿角市を出てさらに西へと進んでいきませう。
錦木塚最寄りの十和田南駅で進行方向を逆転させた列車は米代川に沿って末広、土深井と過ぎて大館市に入ります。
ここまで来ると好摩に始まった花輪線の旅もじきに終わりで、終点の大館駅までは5駅を残すばかり、後は大館市域を走っていきます。
大館市といえば天然記念物でもある比内鶏で有名ですが、その名が示す通り比内地方に属する所。
鹿角市一帯の旧鹿角郡とは同じ秋田県ながら江戸時代に遡れば南部藩と久保田藩という違いがあり、その境となっていたのが概ね今日の鹿角市と大館市の市境といふことになります。
さらに言えば鹿角・大館両市の北は青森県であり、こちらは旧津軽藩領。
南部・津軽という潜在的に仲の悪い両藩に加え、関ヶ原合戦で東軍に参じなかったがために常陸を追われた久保田藩という三つの藩が睨みあう地域であり、けだし大館市は久保田藩における最前線という位置づけにありました。
土深井駅を過ぎて大館市に入った列車は沢尻を経て十二所駅へと駒を進めます。
1面のホームと小さなまだ真新しい無機質な待合室のあるだけの駅ですが、ここにはかつて久保田藩の対南部の最前線である境口御門が設置されていました。
厳密には藩境はより東にあったのですが、南部藩の最前線の毛馬内との間は緩衝地帯というべき非軍事ゾーンになっていたのでせう。
十二所の歴史を紐とけば当地に鎮座していた十二天神社に由来するもので、神社の創建は明らかではないのだが、十二所といふ地名からいえば本来は十二所権現と呼ばれ、熊野信仰と関係があったものと思はれる(現在は十二所神明社)。
戦国期には比内一円を領有した浅利氏の支配下にあり、十二所城主として十二所信濃の名が記録されるが、意外とこの時代の記録は多くはありません。
<十二所城の東郭に鎮座する十二所神明社>
天正15年(1587)には浅利氏にかわって一帯を支配していた安東氏麾下の五城目秀兼(大館城代)が南部氏に内通して、比内に南部氏が進出。
さらに阿仁への進出を図った南部氏でしたが敗戦に内憂も重なって17年には比内から手を引き、一帯は安東氏の勢力下に戻るも関ヶ原合戦後に常陸へと移りました。
代わって出羽北部に封ぜられたのが常陸の佐竹氏で、十二所には家臣の赤坂朝光が入って対南部の抑えとなり、元和5年(1615)に塩谷義綱に交代、義綱は城や城下の整備等に力を注ぎますが、同10年に一国一城令により城は廃城となってしまいます。
十二所城の縄張は北に米代川を見下ろす比高30mほどの真山岱と呼ばれる台地上に展開し、その中心は今日、神明社のある北端の東西に長い曲輪(東郭)と空堀を挟んで南にある方形の曲輪(南郭)及びこれに西にある曲輪(西郭)を加えた3郭であり、当初の主郭は南郭であったと思われます。
さらに浸食谷を挟んだ南側の台地も縁部に切り落としが見られることから城域であったやうで、西郭後背の台地も含めかなり広大な城であった模様。
塩谷義綱の時代には西郭を主郭として西後背の台地を整備しており、この時期に城域の中核が台地の北西へと移っていきます。
<やや荒れている西郭内。城址碑もここにある>
中心をなす3ケの曲輪についていえば各々が広い空堀で隔てられた群郭式で、立地の点でも鹿角の大湯新城とよく似た構造。
しかし、西方や南方に広がる広い城域は在地の十二所氏の手になるとすれば巨大に過ぎ、あるいは安東氏や南部氏、佐竹氏といった勢力によって拡張せられたのかもしれません。
城が廃された後についても簡単に見てまいりませう。
まず廃城後の塩谷氏の居館ですが、実は元の主郭(西曲輪)に再来館と呼ばれる屋形を建て、その西方の台地上に家臣等の屋敷を置いてなおも半ば城郭が維持されているやうな状態でした。
延宝7年(1679)に塩谷氏が去って梅津忠貞が入るも、天和3年(1683)には茂木知恒に代わり、以降は茂木氏が所預として国境の守りを固めました。
なお、茂木氏は再来館から北麓に居館を移していますが、西曲輪西の台地にはなお茂木氏の下屋敷と足軽屋敷、今日も残る茂木氏及び家中の墓地が置かれていました。
茂木氏の居館の北にはその家臣及び在方給人と呼ばれる久保田藩の直臣の屋敷が置かれ、その北、米代川との間を東西に走る鹿角街道沿いに町屋がありました。
この街道の東の入口に設けられたのが境口御門です。
<茂木氏の居館跡。明治となってからは長らく小学校の敷地だった>
戊辰戦争時には南部藩の侵攻が現実のものとなりますが、茂木氏は城下の東方での戦いに敗れると居館を自焼して後退、大館を目指す南部藩との間ではなおも激しい戦闘を展開しています。
今日、この茂木氏の居館跡は公民館と民家の敷地なっており、北の塁壁が遺存。
現状では城址と北麓の居館、城下を隔てるやうに花輪線の線路敷があり、十二所駅裏手を登ってゆくと旧城域の西端である茂木氏の墓地へ至ります。
台地上の城址は十二所神明社境内(東曲輪)の他は耕地や山林となり、切岸や空堀など概ねかつての遺構を残している。
それにしても関東に在住し、茂木氏の居城の茂木城(栃木県芳賀郡茂木町)や塩谷氏の居城・川崎城(栃木県矢板市)を訪ねたことのある愚拙と致しましては、この北の地で塩谷氏や茂木氏の名を聞くと何やら感慨深いものがあります。
十二所を出た列車はこの後、大滝温泉、扇田、東大館と停車して、終点・大館駅に到着します。
<本来の主郭と見られる南郭。現在は耕地となっている>
<南郭-東郭間の谷を利用した空堀。右手が南郭>
‹西郭の西の空堀›
‹南の台地縁に見られる切岸›
‹北麓からの進入路。東郭と西郭の間を抜ける›
‹城下に見られる鉤の手。侍屋敷と町屋を結ぶ道の3ヶ所に見られる›
大湯館(大湯新城・秋田県鹿角市)
秋田県の大湯といえばその響きから連想されるやうに大湯温泉と言ふ温泉街がある所ですが、何といっても縄文時代の遺跡である大湯環状列石で全国的にその存在が知られている所でありませう。
尤もこの大湯環状列石は温泉街のある大湯の中枢からは意外と距離があり、公共交通機関による訪問も中々簡単ではありません。
主なルートとしてはJR花輪線の花輪鹿角駅から秋北バスの大湯線がありますが、平日以外は極端に本数が少ないのが難。
他に鹿角市内バス・花輪大湯線でも鹿角花輪駅から十和田南駅を経由して大湯温泉へ行くことが出来ます(環状列石は経由せず)。
さて、大湯温泉は伝承によれば13世紀の開湯であるとされ、『鹿角由来記』によれば中世においては奈良姓の大湯氏が一帯を治めていたといいます。
実は大湯地域には大湯館と称される城館址は二か所あり、この大湯氏の居城は大湯市街南西の山上にある大湯鹿倉館であったとされています。
そして一般に大湯館と称されているのが近世、南部藩の要害屋敷として存続した市街南方台地上の大湯新城です。
一説にこの新城は明暦3年(1657)に館主となった赤尾又兵衛(卓頼)によって築かれたと言われていますが、江戸時代の安定期に入った時分の築城とは思われぬ規模の城館であり、その起源を戦国期の大湯氏時代に求めるのが現在の解釈では大勢を占めるやうです。
ちなみに大湯氏の動向については史料が少なく不明な点が多いのですが、周辺の情勢から考えれば戦国期には南部氏に従属する立場であったと思われ、戦国末期に至り昌忠(五兵衛)、昌次(四郎左衛門)兄弟の名が登場する。
この兄弟はどうも嫡宗関係がはっきりしないキライもあるのだが、天正19年(1591)の九戸政実の乱では昌忠が南部信直方、昌次が九戸方と別れており、敗れた昌次系は没落します。
南部方に残った昌忠系大湯氏はその後も大湯を治めるも正徳年間(1711~16)に断絶。
一方、大湯館主としては寛永20年(1643)に毛馬内直次から毛馬内則氏(直次の兄・政次の孫)に交替したとあり、この時点では大湯氏は大湯にはいなかったことになり、やや混乱が見られます。
則氏の死後は前述の通り赤尾氏が入りますが、寛文5年(1665)には南部家を去ってしまい、代わって南部一門の北宣継が2千石をもって館主に。
宣継の父・直次は花巻城代・北信愛の三男であり、北家の嫡宗家が断絶した後は大湯北家が同家の位牌を守る立場となり、文政元年(1818)には南部姓に復しました。
宣継以降、北―南部氏は11代続いて明治を迎え、複数人の家老を輩出するなど藩の重鎮として藩境に睨みを利かせる存在でした。
なお江戸期にあって大湯館は藩の要害屋敷として実質的に城郭が維持されていましたが、花輪、毛馬内のように館主(花輪は後に城代)と代官の二重支配とはならず、館は正式には要害に準ずる存在であったやうです。
大湯館の構造を概覧してみませう。
現在、大湯の町の中心を東西に走り、目抜き通りとなっているのが国道103号線。
ただしこれは昭和の初めに出来た新しい道路であり、本来の来満街道はこれより南の東西道で、上町、中町、下町と称された町屋が展開しており、これらの城下を見下ろす南の台地上に館は展開しています。
<館及び周辺図。現地案内板より。方位は南が上>
台地とはいうものの麓から見れば全き山の聳えるゴトであり、その比高差は50m。
麓より台地上の館への道はいくつかあるが、中町の神明神社を挟むように東に上館坂、西に下館坂とあるのがメインルートで、この両道は神社裏で合流するもすぐに「X 」を描くように東西に分岐し、右手(西)が大手坂、左手(東)が搦手坂となる。
この時、やや荒れてはいるが搦手道を選択して上がってゆくと、左手にコブのような二つのピークがあり、さらに谷間を進むと本丸ともいうべき館にダイレクトに通じています。
一方の大手道は一旦、館の西に出てから北へ回り込み、反転して大手門へと至るといふ迂回ルート。
しかも大手口の導入部の背後は堀切を隔てて柳館があって攻め手を挟み撃ちに出来るのです。
<館(本丸)南西の大手門址>
柳館の西には現在は民家がある向新城があり、東には小さいながらも貝館があり、貝館の南に新城(二の丸)の広い曲輪が展開します。
新城の西下の平場には下屋敷があって概ねこの辺りが館の中枢。
新城の南にはさらに空堀を隔てて館っこ、きよさんと通称される曲輪が続きます。
家中の屋敷は下屋敷周辺の和町や北の大円寺へ通じる谷間にありました。
各曲輪はそれぞれに連携はすれども独立した構えの群郭式で、こうした形式自体は東北北部にも多い形態ではありますが、周辺の諸城と比べてもその規模は一頭地を抜いており、あたかも南部九州の城郭を想起させる。
なによりも大湯氏の本城とされる鹿倉館との懸隔は大きく、よし大湯氏の手による築城だとしたらその構築に当たっては南部氏の介入があったと見るべきでせう。
二の丸に相当する曲輪が新城と呼ばれている点からすると、あるいは本丸に相当する館周辺が戦国時代に鹿倉館の支城として先行していたとも考へられます。
毛馬内館の構築などと共に国境の防衛線としての役割が期待されたが故に南部氏の指導による増築がなされたのではありますまいか。
なおこれらの曲輪の内、北氏の居館は当然、本丸たる館にあった訳ですが、二の丸に相当する新城には客分として遇されていた城代家老・汲川氏(斯波氏本流)の屋敷があり、名実ともに大湯館には二つの中心が分立していたことになる。
現在の館址は概ね山林、一部が民家となり、土塁、空堀、切岸といった遺構が良好に残っています。
<館(本丸)南面の切岸>
<搦手坂が通じている館・北の門址>
<大手坂の景観。侍道とも称された>
<貝館(左)と柳館の間を侍道が通じている>
<城代を務めた汲川氏の屋敷があった新城内>
<新城と南の館っことの間の空堀。堀合坂として東の大円寺へ下る>
<お化け石。夜な夜な武者に化けていた九尾の狐の骸と伝わる>