星ヶ嶺、斬られて候
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幕末維新力士伝(49) 東京大角觝協会の発足

日本相撲協会は去る令和7年12月に文部省(現・文部科学省)より財団法人としての認可を受けてより100周年の節目を迎えました。

これに合わせて協会では古式相撲の開催などイベントやオリジナルグッズの販売などが実施されました。

財団法人が認可された100年前といふと大正14年。

当時の名称は大日本相撲協会であり、これに先立って摂政宮(後の昭和天皇)からの下賜金を基に賜杯(現・天皇賜杯)を作成したこともあって東京と大阪の各角力協会が合流し、ここに東西統一が実現して、大相撲団体の一本化が達成されたのでした(正式な合併は昭和2年)。

 

では、それ以前は―といふと江戸→東京相撲にあっては相撲会所といふのがあって、この組織が江戸→東京はもとより東日本の相撲を統括していたのですが、その内実は個人の裁量に負う所が大きく、明確な規則などもない状態でした。

裁量をふるう個人といふのは組織のトップたる筆頭(ふでがしら)とNo.2の筆脇であり、会所の運営、台所から番付編成までもを一手に引き受ける存在。

その番付の昇降も単純に成績を反映するといふわけでもなく、多分に情実が入るという不明瞭さ。

力士の給料も今の持ち給金のようなシステムが適用されていたものの、その通りに支払われるわけでもなく、お金の流れも全くブラックボックスという状態でした。

 

江戸時代ならば力士たちは大名を後ろ盾として会所の金などアテにしなくても大丈夫であったものが、明治の御代になってよりその大名もなくなってしまい、一部の元大名などの華族や政府有力者などを依然、タニマチとすることの出来た力士を除いては生活に基盤も危うくなってきていました。

まして世間は文明開化に熱心で、相撲人気は全く下火といふ大逆風。

 

この状況を打破するべく、明治6年、ついに力士の中から待遇改善や改革を訴えて決起する者が現れた。

その中心が当時、幕内力士であった高砂浦五郎(前頭筆頭)。

時の筆頭・玉垣(8代、前歴不明)、筆脇・伊勢ノ海(7代、前頭筆頭・柏戸)は当然とばかりにこの要求を退けて、高砂を除名処分とすると、高砂は同志の力士を糾合して「改正組」を立ち上げ、独自に各地を興行して会所とは一線を画して活動を続けます。

 

高砂は大阪相撲や京都相撲とも連携して相応の勢力を保ち、なお意気軒昂でしたが、この高砂の動きに会所も近代化への取り組みをせざるを得ない状況になってきました。

実は初期において相撲界の近代化を促すことになったのは警視庁であり、明治11年2月、『相撲並行司取締規制』(全4条)を発布して営業鑑札の発行やその際の料金を明示(第一条)した他、「年寄、行司は年番を定め組合取締とするべし」(第三条)などと会所の体制にも注文を付け、会所の組織としての帰属、体制を明らかにしたといえます。

さらにこの規則において重要だったのが、東京府下においては相撲団体を1団体と限定(第三条)したことで、これにより東京進出の機をうかがっていた高砂改正組の出鼻をくじき、あまつさえ会所と高砂が和解するきっかけとなったのです。

この時、すでに現役を退いていた高砂は年寄として迎えられ、同時に『角觝営業規則』が定められて、会所内の組織やシステムを明文化するとともに将来の改革を期する内容が含まれました。

 

『規則』は12ヶ条からなり、営業というだけにまず興行における損益金の精算やその配分を明確にし(第一~三条)、また年寄、力士の給金及び番付の昇降(第四条)や他団体からの加入力士の待遇(第五条)、罰則(第八、十二条)などについても明文化しました。

さらに注目するべきは第十一条において組合取締を選定する際に営業人(鑑札の保持者)の投票をもって選定するとした点で、これらはすぐに実行されたわけではないが、会所内における発言権を増した高砂らの働きかけで暫時、改革が進められていきました。

 

明治15年には番付編成を全き実力によるものと改め、相撲学校や相撲新聞の設立を構想(この構想は実現せず)。

ついに16年には従来の筆頭、筆脇の名称を取締(取締編輯人)と改めて選挙を実施し、高砂、境川(6代、横綱免許大関)の両名が選出されました。

同時に会所の組織も改変され、取締の下に副取締、組長を置いて機構を整備すると、17年には天覧相撲の実現にこじつけ、相撲の地位を回復、向上させたのでした。

 

とはいえこうした改革は往々にして反発を招くもので、17年の選挙では守旧派の伊勢ノ海、大嶽(4代、前頭2・和田ケ原)が選出されて高砂は組長に降格。

続く19年の選挙では境川が再任した他、根岸(9代)が選出され、従来の『角觝営業規則』を改正する形で『角觝仲間申合規則』12ヶ条が制定されました。

内容は興行損益金の配当(第一、二条)に始まり、番付及び給金(第四条)や新序出世の規定(第五条)、第六~九条はべからず集が続き、役員の協議(第十条)や選挙(第十一、十二条)に関することなど。

ここでは従来の会所に代わって会社という表現が採用されており、正式な名称が変更されたわけではないですが、近代組織への脱却が意図されているとみるべきでせうか。

 

そして、今日のその時―。

明治20年5月、『角觝仲間申合規則』が『角觝組中申合規則』と改称されるとともに相撲会所の名称も改めて東京大角觝協会が設立されたのです(21年説、22年説あり)。

なお、協会設立の年代に関しては従来、明治22年とする説が優勢でしたが、これは明治29年に制定された『東京角觝協会申合規約』の改正版の制定(明治36年)の年代を22年と誤認していたためにかく言われていたらしい。

この『規約』は全70条と従来の『規則』よりも大幅に増量されていて、まさに組織の全貌をこと細かに規定したもので、ここに江戸以来の会所組織の近代化がひとまず完成されたのでした。

 

その後、角觝と角力が混在していたスモウの表記が統一されて東京大角力協会となり、梅・常陸や太刀山、栃木山といった強豪力士を輩出、国技館の開館などもあってさらなる組織の近代化を進め、大正14年、財団法人大日本相撲協会への移行を迎えるのです

 

 

 

 

 

 

久川城(福島県南会津郡南会津町)

 

 

前回取り上げました福島県は南会津町(旧伊南村)の駒寄城。

ここは会津四家に数えられた河原田氏の居城とされている城ですが、戦国末期、その河原田氏が最終的に拠点としたのが駒寄城の北西、伊南川の西岸にある久川城でした。

 

久川城が築かれたのは小丈山(こじょうさん→古城山)といい、麓からの高さは80mほど(標高632m)の南北に長い一見、独立丘にも見える台上の山で、南で南西の山塊と尾根続きになってはいるのですが、ここも鞍部となっている上に西に滝倉川、北にその滝倉川が合流する久川の流れがあり、極めて独立性に優れた立地といえます。

東の前面に伊南川が北流しており、対岸が一円の中心集落で河原田氏の居館の一つである西館・東館がある古町集落です。

古町は上野の沼田から尾瀬・桧枝岐を経て、田島や只見へ抜ける街道の宿場としても機能していた町場であり、小丈山がその絶好ともいえる地形を有しながら河原田氏の拠点として積極的に利用されなかったのはやはりこの古町と隔てられてしまうといふ点が大きかったのでせう。

 

しかし天正17年(1589)、事態は風雲急を告げる。

磐梯山麓の摺上原に芦名氏を破り、一気呵成にその本拠たる黒川(後の若松)を掌握した伊達政宗の軍勢が伊南にも迫りつつあったのです。

隣接する南山の領主・長沼盛秀が伊達氏に靡くなど会津の中でもほとんど芦名カラーが淘汰される中、あえて伊達に組せずあくまで抵抗の意思を示すのは山内氏と河原田氏。

かつて芦名亀王丸の跡目を巡って佐竹派と伊達派に家中が割れた中にあって両家は佐竹家の義広(芦名盛重)を支持していたといふこともあったのですが、伊達家への抵抗は芦名氏に対する忠義といふよりはあくまでその高い自立性に基づく判断によるものと見た方がいいのでせう。

元々、山内氏が越後の上杉氏と誼を通じていたこともあって河原田盛次も豊臣政権の石田三成に使者を送り、書状によって支援の約束を得るなど広い視野に基づき冷静に情勢を見極めんとしていました。

 

とはいえ伊達の軍勢を迎えるには従来の要害である駒寄城と後背の要害山城ではいかにも手狭であり、山上が平坦で多人数を収容できる小丈山に新城の築城が開始されたのでした。

城内には伊南一円の戦闘要員は勿論のこと、撫で斬りを辞さない伊達への恐怖から古町等の領民の収容も考慮する必要があったものと思われます。

 

久川城が実際に伊達勢の攻撃を受けたーとも言われているのですが、この辺りは信頼性の高い史料には記述がなく、実態には不明な点が多い。

いずれにせよ河原田氏は伊達に屈することなく所領を守り抜いたものの、石田三成との連絡も甲斐なく結局は伊南の地を失うこととなり、盛次は常陸江戸崎の芦名義広を頼り久川城を退去しました。

 

かくの如く久川城は伊南領主・河原田氏の最後の拠点となった城ではあるのですが、今日見られる城の遺構はどうやらこの河原田氏によるものではないやうだ。

 

伊達氏や河原田氏が退転した後、会津一円は蒲生氏郷の領地となり、久川城にも城代(蒲生郷可)が置かれ、この時、近世城郭への改修が着手されたのでせう。

さらに蒲生氏郷の死後、会津が上杉氏領となってほどなく、関ヶ原合戦前夜における徳川家康との決戦が現実味を帯びてくると上杉氏は南部国境の城郭群の大改修を行うのですが、上州へ通じる街道を抑える久川城もその一つとして改修を受けたやうなのです。

 

久川城の縄張は上面の東部が平坦になった小丈山の中央に土塁、空堀に囲まれた主郭を置き、南にいずれも土塁、堀切で仕切られた曲輪を三連に配置、尾根続きの南の鞍部を切通状の堀切として連絡を遮断する。

 

 

<南の尾根を分断する堀切。現在は林道が走る>

 

 

一方の北は広く平坦な曲輪が配され、その東寄りに浅い空堀が巡っていて空間が仕切られていますが、現状見る限りではこの空堀は防御用といふよりはあくまで郭内を仕切ることに主眼があったものと思はれる。

山上に至るルートは北東と南東にあり、うち南東の登城路入口には土塁が巡らされた馬出が配され、大手と伝わります。

 

このように書いてしまうと主郭を軸とした直線的な連郭構造と思われるでせうが、この城の特色は曲輪群の後背の西側が屏風の如く立ち上がっている点にあり、各曲輪の空堀、堀切は西側で一気にこの斜面を駆け上る竪堀となってそのまま山稜尾根を遮断するという極めてダイナミックな構えとなっているのです。

 

 

<主郭北の空堀。写真奥では竪堀となる>

 

 

この辺りは縄張図を見ているだけでは掴みにくい立体的な構造であり、元々の地形の影響もありませうが、風除けとしても都合がよかったのではなからうか…。

主郭の奥の一段高くなった区画からは天守相当の櫓が建てられたと思われる礎石が検出されており、全体の構造が至って近世城郭風であるゆえに河原田氏によるオリジナルの築城の痕跡は分かりにくくなっています。

 

 

<主郭南西奥に鎮座する稲荷神社。神社の建つ一段高い区画からは大型建物(天守?)の礎石を検出>

 

 

久川城は関ヶ原役後、再度入封した蒲生氏の下で支城として存続しますが、一国一城令の際に廃城になったと見られ、その後は山林や耕作地となりました。

 

なお伊南を退転した後の河原田氏は芦名氏の家臣となって出羽久保田藩領の角館に移り、150石の禄(後に分家のため100石→75石)をもって明治期まで存続。

今日、角館に残る武家屋敷の代表格の一つである河原田家は分家に当たります。

 

アクセスは会津鉄道・会津田島駅よりバスにて所要1時間ほど。

北東登り口近くに奥会津博物館伊南館があり、ここに城や河原田氏に関する展示があるとともに久川城大手門のものと伝わる柱材(元は善導寺山門)が移設されています。

 

 

<主郭東面の虎口>

 

<主郭内より。写真中央に東の虎口、その右手に南東隅の櫓台>

 

<主郭西に屹立する尾根>

 

<主郭南・二の郭-三の郭を画する空堀。右が二の郭>

 

<北東登城路(青柳七曲り)上の枡形虎口>

 

<南東登城路(小塩七曲り)上の虎口と四の郭東の段差。虎口脇には石積あり>

 

<南東登城路入り口の馬出>

 

<奥会津博物館伊南館内の伝大手門の柱。開館日に金・日のみ>

 

 

 

 

 

 

 

 

駒寄城・駒寄要害山城(福島県南会津郡南会津町)

 

 

現在の福島県会津地方において、中世、大きな勢力を持っていたのは「会津四家」といふ、いずれも関東武士の系譜を引く芦名、長沼、山内、河原田の各家でした。

このうち圧倒的な力を有していたのは会津守護とも称された芦名家であり、他の三家も戦国後期にはその影響下に入ったのですが、本来は会津の山間を流れる大きな川の流域を中心に独自の勢力を維持していたのでした。

即ち阿賀川(大川)の長沼氏、只見川の山内氏、伊南川の河原田氏。

殆どが山林に覆われている会津ではこうした川の流域に開けた平地が重要な生産拠点となると同時に、川が物流・交通の要として機能していたのです。

このうち伊南川流域を治めた河原田氏は南会津町の旧伊南村を中心に旧南郷村、桧枝岐村及び旧舘岩村の西半を概ねその影響下に置いていました。

 

河原田氏は結城朝光の子・盛光が源頼朝に従い奥州に従軍、その功から伊南郷を賜ったとされていますが、その出自には謎が多い。

結城朝光は小山政光の三男なのですが、一説には河原田盛光は政光の子で朝光の弟とも言いますし、やはり政光の次男・宗政に始まる長沼氏の出とも言われています。

いずれにせよその苗字の地は下野国の河原田郷(栃木県小山市付近)とされており、確実に会津の歴史の中にその名が登場するのは戦国時代まで待たなければなりません(下野から伊南への入部は室町中期頃か?)。

 

戦国期にはすでに長沼氏や山内氏と並ぶ自立した勢力として時として芦名氏とも対立することもあり、天文12年(1543)には芦名氏の攻撃を受けるも宮沢塁(旧伊南村)においてこれを撃退しています。

ただしこれを契機として芦名氏の影響下に入ったらしく、芦名氏は会津一円を勢力下に収めるとさらに中通り方面へと進出してゆくこととなるのです。

 

河原田氏の居館は伊南郷の中でも複数の名が挙がっていますが、その範囲は旧伊南村の中でもその中心地にして村役場も置かれていた古町と呼ばれる地域の周辺です。

曰く、その居館は―、

 

駒寄城

西館・東館

久川城

 

このうち伊南川西岸の久川城は天正17年(1589)に築かれたとされる河原田氏の最末期の居城であり、それ以前の居城は伊南川の東岸にありました。

駒寄城と西館・東館に関しては前後関係が不明なのですが、町屋である古町との関係性からすると西館・東館が平時の居館であり、駒寄城を詰めの城のように捉えていたのかもしれません。

両城の距離の近さからしても併存していて、両所を行き来していたとしても問題はないでせう。

西館・東館は全くの平城なので戦時の用には立たなかった点は押さえておかねばなりません。

 

さて、今回取り上げますのは駒寄城とその後背にある要害山城ですが、天文の芦名氏の侵攻に際して宮沢塁に籠った点からすると駒寄城の築城はそれ以降とみるべきでしょうか。

その立地は西館・東館がある古町からは小滝川を隔てた南東、伊南中学校の裏手の山中にあり、入口には案内板も立っています。

 

駒寄城は詰めの城である要害山城からすると北麓、尾根突端のこんもりとした丘上にあり、勝軍大権現の小祠がある小郭を最高点として北に比較的、広い平場が連なる構造です。

最高点の小郭は低い土塁が巡り、北は露出した岩肌―、立地、規模からして物見台として機能したのでせう。

 

 

<駒寄城最高所の勝軍大権現の石祠>

 

 

実質的な主郭はむしろその北下の平場で、北に浅いながらも空堀があって独立しており、その北に2段の広い平場、次いでやはり2段の東西に長く幅の狭い平場が続き、北東方向に大手口が開かれています。

この下方の細長い平場には能化院といふ寺院があったようで、その南の平場にかけては何か所かに石積が見られますが、近世以降は耕作地等としても利用されたようなので後の時代のものと見た方がいいかもしれません。

白眉といえるのは物見台の南後背から東を巡って下方の曲輪群の外面を遮断する空堀で、北の尾白沢方面からの攻撃に備えるとともに城域の一体性を高めています。

 

 

<駒寄城の実質的な主郭を北より>

 

<曲輪群東の空堀。緩やかに南に登る>

 

 

この駒寄城の南、比高にして250mほど登った尾毛山(標高800m)に立地するのが詰の城である駒寄要害山城であり、その最高所は立岩のある山頂からやや北に下った物見台状の小郭で、南後背に堀切を配し、北下は2段の小段があって浅い堀切、次いで尾根を遮断する大きな堀切があり、その北が要害部における実質的な主郭となる平場。

段々と平場が続く北面以外の三方に土塁が巡り、とりわけ堀切側の南が高くなる。

3段ほど小段を下った下にも三角形の比較的広い曲輪があり、東の土塁は下方の水の手への虎口を挟んで登り土塁状になって上方の主郭へと続いています。

この三角形の曲輪の北下は壁面を削り落として犬走を設け、さらに下方の壁面を削り落として急峻な城壁を造成するという遺構が見られ、また西へ続く尾根には段々と小段を連ね、壁面を削り落とした遺構があるのですが、この部分が新潟県にある天神山城(新潟市)に見られる十三車と呼ばれる遺構によく似ているのです。

 

 

<要害山城の西尾根、十三車に似た遺構>

 

 

駒寄城は天正17年の伊達勢の侵攻を前に廃城となり、久川城攻撃に際しては伊達方に組した長沼氏が陣を置いたとされていますが、その後、関ヶ原合戦を前にした緊張の中で当時、会津を治めていた上杉氏による改修があったのではないでしょうか?

小さい城ながら久川城を攻撃するとなれば、後背の高山上に敵勢がいるというのはかなり気持ちの悪い状態で、無視できなかったものと思はれます。

 

駒寄城から要害山城は比高差が大きく30分ほどの道のりですが、ささやかながら登山道が通じ、城内もそれなりに人が通っている雰囲気があります。

 

 

<要害山城最高所後背(南)の堀切。左が最高所の曲輪>

 

<幅が広い主郭背面の堀切>

 

<三方に土塁が巡る要害山城の主郭>

 

<主郭群北面の削り落とした壁面と犬走上のテラス>

 

<大手尾根(北尾根)の岩盤を切り開いた通路>

 

 

シリーズ東京の謎の城⑦ 神津島に眠るオロシャの石塁

伊豆半島の東、相模湾の沖合に点々と浮かぶ伊豆諸島。

北は大島に始まり、八丈島から青ヶ島に至る島並は近世までは伊豆国に属していましたが、廃藩置県後は韮山県→足柄県→静岡県の管轄を経て、明治11年より東京府の管轄となって現在に至っています。

このうち神津島は大島を起点とすると利島、新島、式根島に次ぐ5番目の有人島であり、伊豆半島の下田からは約80km沖合に位置しています。

 

神津島の歴史は古い。

史料上には平安時代以降、その記録が残っているのですが、島における人の営みは無論、もっと古くからのもの。

神津島の場合、島内や近くの恩馳島で産出する黒曜石が石器の材料として重要視されたとあって、かなり早い段階で人が住むようになったといいます。

神津島産の黒曜石を用いた石器は関東や東海から多く出土していますが、その最古のものは3万7千年前のものといいますから旧石器時代の後期には人が定住していたらしく、神話の中でも伊豆諸島の中でも最も重要な島に位置付けられ、古くは神々が集うゆえに神津集(かみづまり)島と表記されることもありました。

 

尤も弥生時代以降、石器の需要が失われていくに従い、神津島における黒曜石の採掘も行われなくなり、以降は漁業を主要な産業として歴史を紡ぎ、中世から近世にかけては流人の受け入れも行われていました。

 

そんな神津島には近世、島内の行政を統括した島役所の他は城址などもありませんが、ただ一つ、天上山防塁、あるいはオロシャの石塁と呼ばれる防御施設が江戸時代の後期に建造されたと知り、長らく気になっていたのでした。

 

神津島を訪ねる手段はまず第一に船であり、その船においてもフェリーと高速のジェットフォイルがある他、東京の調布飛行場から航空機の便もあります。

ただ、いずれの場合も冬季などは強風の影響で欠航となるケースが少なからずあって、私も一度は強風で予約していたフェリーが欠航となり、島の民宿もろともキャンセルを余儀なくされたものでした。

 

船の場合は島の玄関となる港は二か所あり、西の神津島港と東の多幸湾(三浦港)。

基本的にはメインの集落がある神津島港発着を指向するものの、風向きが西風であれば影響の少ない多幸湾へと入港することとなります。

いずれの場合においても海上から見る神津島の景観は中央に高くそびえる標高572mの天上山が存在感を放ち、その南北に低い山を従えている。

件の石塁はこの天上山の山上にあるのです。

 

<東から見た天上山>

 

 

江戸時代における外国船の出没というとペリーのアメリカ艦隊のイメージが強いのですが、早くも18世紀において日本近海に出没を繰り返し、幕府の眠りを醒ますことなったのはオロシャと呼ばれていたロシア船でした。

明和8年(1771)、四国沖にロシアを脱走したベニョフスキー(ハンガリー人)が突如として来航すると、安永7年(1778)には蝦夷地のネモロ(根室)にロシア船が来航し、松前藩に貿易を要求、以後、日本近海や蝦夷地などにロシア船の他、イギリスやアメリカの軍艦や商船、捕鯨船が度々来航、接近するようになりました。

文化3年(1803)には幕府領として管理下に置かれるようになった蝦夷地のうち、樺太、択捉、宗谷などでロシアが日本の施設や船を襲撃する事件も起きており、幕府も海防政策に注力せざるを得ないような状況となってきていたのです。

 

南方に浮かぶ伊豆諸島においても外国船の船影を認めて役人に通報する事例もあって、その脅威が漠然とした不安を醸成しつつありました。

やや年代は前後するのですが、文政13年(1830)には南の小笠原諸島に欧米人が定住を始めています。

 

対して幕府としても危機感を抱いたとあって文政8年(1825)には外国船が上陸しようとした際は問答無用で打ち払えといふ「無二念打払令」を発出、伊豆の各島に対しては鉄砲数丁の他、槍、弾薬を貸し与えて海上防備を命じ、さらに韮山代官所の代官や手代を巡回させて、武器の取り扱いや防塁、陣地の構築を島民に指導させました。

 

神津島の天上山にある防塁もこの過程で築かれたやうで、文政10年頃に構築されたといひます。

かくて完成した防塁は天上山の山頂南西の斜面におよそ300mに渡って石を積み上げて防衛線としたものでした。

 

では、実際にその防塁を見てまいりませう。

天上山への登山ルートは西側斜面南の黒島登山道と同じく北側の白島登山道がありますが、防塁があるのは黒島登山道を登り詰めた10合目から南の脇道を入った所。

物見台のような岩場があって、その東斜面をのぞき込むとやや谷状を呈した急な斜面に一列に並んだ石が見えるのです。

 

<上方から見た石塁と神津島の市街地>

 

 

上からは石を一列に並べただけのように見えるのですが、実際は2,3段に石を積み上げたもので、石の列は断続的に東へと続いています。

積み方は現地で産出する石を無造作に積み上げているようにも見えるのですが、それでも急斜面で崩れていないのはあえて隙間を作って通水性を確保しているからと思われ、実はかなり理にかなっているようなのです。

2,3段とはいえこれだけの高所、急斜面に石積を構築したというのは幕府の指導以上にやはり島民の恐怖心が大きかったからなのでせう。

 

 

<側面より見た石塁。大ぶりな石を乱雑に積み上げているように見える>

 

 

次に防塁が築かれた立地を見てまいります。

防塁が築かれている300mといいますのは天上山の山頂部のうちでも黒島登山道の南側(かつては登山道をまたいでいたという)。

この場所は今も登山道があるくらいで急斜面ではあるが他所に比べて登り易いポイントであり、当然、寄せ手もここから攻めてくる可能性が高い。

さらに防塁を見下ろす岩場からは上陸ポイントとなり得る西と東の港を望見出来る上に後背部には旧火口に出来た千代池という窪地・水場があり、風の強い山上でも一応の居住性を確保できる場所が控えています。

 

 

<石塁の後背地。左手が千代池、奥に見えるのが多幸湾>

 

 

江戸時代後期に900人程度の人口があったという神津島。

天上山上には千代池以外にも旧火口に形成された窪地・水場が複数ある上に登攀ルートが限定された急峻な地形、加えて北東方向に脱出ルートを持つという点で、島民の避難場所としては好適な場所でした(とはいえ気象条件は厳しい)。

 

外国船を打ち払えと言いながら数丁の鉄砲を貸与するのみという幕府の姿勢には首をかしげざるを得ないが、天上山上の防衛においては投石を主としつつ鉄砲を効果的に用いれば実際の威力以上に心理的なプレッシャーを与えることができたでせう。

 

一見、石塁は石を並べただけでさほどのものでもないと思ってしまいそうなのですが、南の信仰の山である秩父山(標高238m)の山上からも石塁のラインをはっきりと認めた時、私は改めてその労力の偉大さに気付かされたのでした。

 

なお、実際に上陸したロシア人を防塁をもって撃退したという話もありますが、あくまで防塁に関する昔語りで話に尾鰭がついた類のものでせう。

 

幕末に至り八丈島や御蔵島では座礁、漂着した外国船を救助したことこそあれ、結局、伊豆諸島の各島において外国船を打ち払うような事態に至ることなく明治を迎えたのです。

 

 

<南方の高処山展望台から見た石塁。矢印のところにライン上に認められる>

 

<岩場の直下の石積はやや丁寧で高く積まれている>

 

<東方へ続く石塁>

 

<阿波命神社の玉石の石積。島内における石積技術の水準を物語る。参考までに―>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シリーズ東京の謎の城⑥ 羽田台場の挫折

東京都大田区羽田といえば言わずと知れた羽田空港こと東京国際空港の所在地です。

昭和53年に新東京国際空港、いわゆる成田空港の運用が始まってからは国内線の発着がメインでしたが、平成26年に国際線ターミナル(第3ターミナル)が完成して以降は国際線の発着も増えて、再び国際空港としての存在感を高めています。

 

空港の立地は東京湾に注ぎ込む多摩川河口の北岸。

元は天明8年(1784)に開発された鈴木新田であった場所で、近代以降は工場用地等になっていた所に昭和7年に空港の前身である羽田飛行場が開業しました。

 

羽田の地自体は鎮守の羽田神社の創建が鎌倉時代に遡るといいますから、村の形成も同じ頃までは遡るのでせう。

中世は六郷一帯の領主であった行方氏の水軍の根拠地であったともいわれています。

その後は漁師町、農村として発展し、多摩川河口とあって物流の拠点としても機能した―と古くから羽田の地が枢要なポジションを占めていることがおわかりいただけたでしょうか?

 

<羽田の総鎮守・羽田神社。行方氏が牛頭天王を勧請したのが始まりとされる>

 

 

江戸時代末期、この地に羽田台場及び羽田奉行が置かれたといふのもこの地江戸防衛において重要な場所と認識されていればこそ。

世界にあっては1842年に中国(清)がアヘン戦争で英国に敗れたことから日本においてもその脅威が高まっていたーといふ時期であり、実際、これを重く見た江戸幕府は従来、観音崎(三浦半島)―富津岬のラインに設定していた江戸湾の防衛線の練り直しに迫られ、江戸湾内奥部にも砲台を建設する方針に転換しました。

この際、まず台場建設地の候補として挙げられたのがここ羽田の鈴木新田の地であり、天保13年(1842)、建設と同時に羽田奉行が新設されることとなったのです。

 

台場建設の責任者は海防掛の老中・真田幸貫(信濃松代藩主)であり、その下で勘定奉行・岡本成、勘定吟味役・川村修就が実務にあたり、併せて羽田奉行には田中一郎右衛門が就任しました。

 

台場の規模は約9畝歩の長方形であったといひ、即ち34.5m×25.5mといいますから小さなもの。

海面からの高さは2.4mで、台場とは別に番士が生活するための番所が鈴木新田に設けられました。

建設に際しては地元の羽田村、羽田猟師町、鈴木新田村が協力したさうですが、結局、台場は完成に至らぬまま弘化元年(1844)10月に廃止されることにー。

 

台場の立地は一見、地図で見ると岬のように突出した鈴木新田にあっていかにも海防上の要地と思われるのですが、実際は多摩川によってもたらされた土砂が堆積した地形であり、深度の浅い海域が沖にまで張り出しているような場所。

台場の要である大砲や砲弾も海上からは小舟すら接岸できずに搬入に難儀したといひ、台場や番所の施設も仮のままで運用せざるを得ない状況でした。

このような地形であるから侵入が予想される外国の大型船は座礁の恐れがある羽田付近に近づくことは考えにくく、当時の大砲の射程から言っても外国船がある程度、接近しなければ十分な威力を期待できないような有様でした。

 

政治の世界では天保の改革で軍備の増強を図っていた老中・水野忠邦が失脚し、ほどなく海防掛であった真田も辞職、それより少し前には羽田奉行、下田奉行が廃止され、羽田奉行の田中は浦賀奉行に転任―と江戸湾内における台場構築の機運は萎えてしまい、ここに江戸湾の防衛網構築は一旦、頓挫したのです。

 

では、2年足らずでその使命を終えてしまった羽田台場はどこにあったのでしょうか?

後年、競馬場になったという記述から現在の場所を推定してみると、そこは羽田空港の中―、それも国際線の発着ターミナルである第3ターミナル付近のようなのです。

私も空港の展望デッキから空港内を望見してみましたが、勿論、その跡形は皆無であり、京浜急行線及び東京モノレールの天空橋駅の駅前に鈴木新田内にあったの三町(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)の顕彰碑があるばかりです。

かつて外国船を打ち払う目的の台場があった場所が今は海外からの玄関となっているといふのもまた歴史の皮肉というか、妙味と申しませうかー。

 

 

<台場があったと思われる空港第三ターミナル遠望>

 

 

さて、羽田台場が廃された後の嘉永2年(1849)。

イギリスのマリーナ号が江戸湾に侵入し、湾内の測量を行うといふ事態が出来するに至り、再び湾内の防衛の必要に迫られた幕府は羽田台場の再建を検討するもやはり地形・地盤の問題から却下せられ、それより北の大森に町打場(ちょううちば)が造られました。

町打場とは大砲や鉄砲の練習場を意味するもので、大森のそれは実質的に台場を兼ねるものでした。

 

しかし嘉永6年にペリー率いるアメリカ艦隊の江戸湾侵入を許すと、より強固な海防体制の構築に迫られ、品川台場群や御殿山下台場、神奈川台場といった西洋式の築城術を取り入れた台場が建造されるようになりましたが、結局は台場群が未完の状態で翌7年のペリー再来航を迎え、和親条約を締結、開国するに至ったのでした。

 

 

<台場小学校となっている御殿山下台場址>

 

かくの如く江戸幕府の海防政策は誠に場当たり的で泥縄といふべきもの。

羽田台場の挫折より品川台場等の建造に至るまではわずか10数年で超速と申しますか長足の進歩といえますが、遅きに失した感は否めず、また防衛網が完成していたとしても開国が数年遅れた程度のことであったでせう。

 

台場の構想も今は昔―。

水気が多く、水がハネる田んぼが広がっていたからだとか、良質な土(埴=はに)の田んぼがあるから羽田と呼ばれるやうになったといわれるこの地は現在、航空機が行き交い、世界へと翼を広げています。

 

 

<天空橋駅地上出口前に建つ鈴木新田三町の顕彰碑>

 

<鈴木新田三町及び台場の位置図(顕彰碑の案内板より)>

 

<昭和7年の地図に見える飛行場と競馬場。飛行場の敷地はまだ小さい>

 

 

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