上妻城(鹿児島県熊毛郡南種子町)
南北に長く展開し、その名の如く植物の種子のやうな形をなしている種子島。
東西の幅が最大でも12kmであるのに対し、南北は57kmにも及びます。
島内でも中心となっている西之表市が位置するのはその北側であり、中央部を占めるのが中種子町、南に南種子町が所在しており、うち種子島といってしばしば真っ先に想起される宇宙センターや鉄砲伝来の地(門倉岬)があるのが南種子町です。
今回ご紹介する上妻城はその南種子町にある城址。
実はこの度の種子島行に際して当初、訪ねる予定ではなかったのですが、想定よりも順調に西之表市中心の城址や史跡を巡ることができたので時間に余白が生まれたといふ経緯があり、現地で地図を見ながら検討した結果、急遽、予定に組み込んだのがここ上妻城でした。
この日の予定はまず西之表市南部の住吉城を訪問し、そのまま南種子町方面の路線バスを利用するといふ道行き。
同日付で種子島空港より飛行機で帰路に就く予定だったのですが、調べてみると南種子町より予約制のオンデマンド交通(のるーと南種子)があって空港へも運行しているとのことだったので、これ幸いと利用させていただくことといたしました。
ちなみにこののるーと南種子の空港線は前日18時までに予約せねばならないとのことで、急遽、訪問を決めたとあってギリギリのタイミングで予約を取り付けることができました。
路線バス利用の場合、上妻城の最寄りとなるのが長谷(はせ)の停留所。
最寄りといってもここから徒歩で1時間程度といふ距離であり、この日は住吉を12時52分に出て、13時32分に長谷に到着、空港行きののるーとが16時58分発なので2時間の往復を差し引いても1時間半の時間が現地で活用できます。
長谷のバス停は国道と西海岸の島間と東海岸の広田を結ぶ道路が交わる十字路にあり、上妻城は島間方面に4kmの道程。
ちなみに十字路を平田方面へ1kmほど行ったところに長谷展望公園があり、ロケットの発射場がよく見えるということで、発射の際には多くの人が詰めかけることで知られています。
さて、長谷のバス停から城址へ向かってひたすら西へ―。
農地や山林が広がる中をしばし歩いてようやく城の東に隣接する豊受神社に到着しました。
神社にお詣りをしてから西へ回ってみると、思いがけず深く切り込まれた空堀に邂逅して全く度肝を抜かれてしまった。
幅こそそれほどではないものの、シラス台地(※種子島の地質はシラスではない)に削り込まれたがごとく直立した壁が両側に屹立し、一切の侵入者を許さぬといはむばかりの
圧迫感をひしひしと感じるのです。
<水上城と桜園(豊受神社)間の空堀。両サイドは懸崖である>
上妻城の縄張は西から内城、仮屋、水上城と土塁に囲まれた方形の曲輪が連続しているのを核として、水上城東の豊受神社境内も桜園と呼ばれて北に空堀、南が溜池の跡と自立した曲輪の構えであり、内城の西は外城と呼ばれ、西面は高い切岸となっていてここも城内。
内城の北は谷を挟んで殿川と呼ばれていて水の手となる水源地を抑える位置にあり、この6区画をもって城域としていたやうです。
堀底道を兼ねる空堀で仕切られて自立性の高い3曲輪の虎口は内城で東、仮屋では西、水上城は南西から入って左→左と折れて南の開口部より郭内へ入るといふ複雑な導線構造となっていますが、それぞれが自立した構えで、連携する構造とはなっていない。
<水上城の南虎口へ至る道>
この辺りは南九州らしい群郭式の縄張といえますが、地形の上では水上城が高所にあって優位な位置にあり、複雑な虎口の構えからしてもここが主郭でありませう。
一方で、内城は高い土塁に囲まれて種子島南部の要津・島間港を見下ろす位置にあり、あるいは仮屋、水上城に先行する館の跡と見ることも―。
例えば西之表の赤尾木城では方形の土塁に囲まれた内城に続いて東に上の谷地が構えられ、城主の居所が遷移しており、縄張を見る限りでは上妻城の場合も仮屋、水上城を増築部とみなすことができるかもしれないが、この辺りは今後の研究の進展を待つの他ない。
いずれにせよその完成は戦国時代のことでせう。
<現地案内板に見られる縄張図。赤塗り部が主郭たる水上城>
上妻城の歴史は必ずしも明らかではありませんが、元は種子島氏入島以前の領主たる大浦口氏の代官として実質的に島内を統治していた上妻氏の居城であったとかー。
肥後氏改め種子島氏の入島後はその麾下に入って増田(中種子町)に居住、近世においては家老となって西之表城下に移住しており、常にNo.2として島政に携わっていた存在といえます。
上妻氏の居城に関してはここ上妻や後年の拠点であった増田古房、後に住吉城の一翼となった住吉のジョウの山(西之表市・住吉小学校)など諸説があります。
ただ、室町期には上妻氏が増田にいたことは確かであり、上妻城は島間港を抑える種子島氏の支城として代官が置かれていたものと見られます。
また、天文12年(1543)の禰寝氏侵攻を受けてより後には種子島氏の避難所としての機能も兼ねたものと見られ、あるいは代官は仮屋にあって主郭である水上城は種子島氏のための空間としてあえて常時は使われていなかったのかもしれません。
あくまで想像ですが・・・。
現在、城址は仮屋、外城は民家が建ち、内城は元耕作地なれども今は草が繁茂、水上城は山林となっていますが、各曲輪を巡る空堀は道路となってよく残っています。
元々、訪ねる予定もない城とあってさほど期待をしていなかったのですが、大いに見応えのある城址であり、島の南部の支配拠点であったと見られるといふ歴史的背景及び遺構の残存度の点から種子島を代表する城址の一つといっても過言ではないでせう。
<水上城―仮屋間の空堀入り口。案内板が立つ>
<仮屋北の空堀。クランクしながらも堀底道が十字に交わる>
<仮屋(右)―内城間の空堀。犬の馬場と称される>
<内城東虎口。土塁は高く直立する>
<南から見た豊受神社(桜園)。手前は溜池の跡>
住吉城(鹿児島県西之表市)
<いかにも城址然とした地形のジョウの山>
西之表市南部にある住吉の集落はその名の通り、村内に住吉神社を祀り、住吉岬から内湾した入り江に港を有して周辺においては比較的大きな規模の村落を有しており、漁師が今も多く居住しています。
村内南にある住吉神社は種子島氏18代の久時によって元禄7年(1694)に勧請されたとされているのですが、住吉といふ地名の起源とするには新しきに過ぎ、その他、記録からも住吉神社の創建はさらに遡ると思はれ、けだし久時は社殿等を新たに整備したのではなからうか―。
東方の台地上には古く馬を飼育した牧があり、その台地から西方に突き出た突端にある住吉小学校の地はジョウの山と称され、鉄砲伝来で名高い種子島氏14代・時堯の居館のあった場所とされています。
住吉港の北に展開する住吉の集落の北側にあたかも船の如くに張り出した地形はいかにも城郭建造の好適地であることは明瞭で、うっかりこの場所を住吉城の中核と思い込んでしまいそうなのですが、実際はここはいわば二の丸に相当する所であり、かつては望楼は置かれていたといいます。
住吉城の中核があったのは小学校から国道を挟んで西側の前園地区のうちでも里と呼ばれるエリアであり、恐らくは台地上の農地を管理している家々が東西に走る道を中心として立ち並ぶ一帯です。
小学校前の国道(58号線)から東に向かって緩やかに登ってゆく東西道に入るとほどなく、右手に小高く林のようになった場所がある。
東西道から南へ入る小径は右手があえて高台が削り残されたような土塁状の高まりとなっていて切り通しの如き堀底道となっており、労力からするとこの不自然な小径の情景から林のような高台の上がどうにも怪しく見えてきました。
<岩盤を切り開いた切通し>
高台へはスロープ状の道が西から東へ向かって上がっており、その先を右折して内部へ進入できるようになっている。
この導入路はさらに右へ曲がって上面へと入れるのですが、内部は草が繁茂していてちょっと立ち入れそうにないくらい。
下からは林に見えたものの木が生えているのは周縁部のみで、内部の状態からすると元々は畑だったのでせう。
注目するべきはその木の生えた周縁部に高い土塁が立ち上がっている点で、草が茂る中をかき分けつつ何とか土塁が四周に巡っていることを確認、ここが住吉城の中核であることを確信しました。
<周囲を巡る土塁。1.5mほどの高さで馬踏は狭い>
地形を含めてみると赤尾木城と同様に丘陵上に方形館を置き、その周囲に付随する施設を置いた構えで、西の切通は規模こそ違え、赤尾木の犬の馬場と同じく外側に土塁を構えて堀底道としています。
導入路となっているスロープも赤尾木の内城の西に開かれた搦手門と同様の構造で、こちらはさらに郭内でもう一度折れを設ける構え。
今日では北側に民家が並んでいますが、ここに家臣団の屋敷があったのでせうか。
ちなみに種子島時堯の居館としては赤尾木の内城もその一つです。
中世の種子島氏の居館は頻繁に動いていてかなり煩雑なので、少し整理がてらご紹介いたしませう。
種子島氏は系図等では平清盛の孫・行盛の流れを汲むとされますが、実際には大隅半島に勢力を持っていた肥後氏(藤原北家勧修寺流)の嫡流が種子島へ渡ったものとする説が有力で、種子島氏の家臣団中にも肥後氏の名が見えています。
種子島に来島し、苗字を種子島としたのは平行盛の子・信基を初代とする系図に従えば南北朝期の当主であった6代・時充とされていますが、その時充が居城としたのが赤尾木城の北方、谷一つ隔てた所の本城であり、以後、しばらくは同城が居城であったとされています。
<本城の最高所。現在は墓地となっている>
ところが、戦国初期の12代・忠時の代より俄かに腰が定まらなくなってきまして・・・。
12代・忠時―池田黒山尻城(甲女川河口北側)
13代・恵時―屋久田城(甲女川河畔?)
14代・時堯―後の本源寺の場所(内城の西)→内城
15代・時次―内城
16代・久時―野久尾城(石之峯城・内城の西、本源寺北)
17代・忠時―赤尾木城(上の屋地)
<種子島時堯の居館跡に建つ本源寺の山門>
甲女川北岸、現在の西之表市の中心部をほぼ1代ごとに小刻みに動座しており、古代の天皇の宮殿もかくやといふ具合。
居城は1代限りという認識でもあったのか―と思われるほどで、とりわけ赤尾木城のある台地の上では時堯以降、式年遷宮の如く、隣の敷地に移るパターンを繰り返しています。
この間、大きな出来事といえば天文12年(1543)の禰寝氏(大隅半島の土豪)による種子島侵攻があり、この際、当主・恵時は一時、屋久島へ逃れ、さらにはその屋久島も占拠されるも翌13年に奪回して禰寝氏の勢力を駆逐する―といふことがありました。
天文12年といえば時堯が漂着した船に乗船していたポルトガル商人より鉄砲を入手した年ですが、こうした島内の緊迫した状況もあって西之表よりも南の住吉に退避していた時期があったのでせう。
あるいは有事の際の副館としての機能があったと思はれ、伝承では16代・久時(18代・久時の祖父)が住んでいた時期があったといいますから、種子島氏の有力な支城として存続したものと見られます。
西之表港よりのアクセスは南種子町行きで住吉下車。
ただしバスの本数が少ない上に日・祝日は運休となるので注意が必要です。
<立ち入りが困難なほど草が茂る館内>
<北側の進入路>
<上の写真の進入路を右へ入った所の虎口跡>
<南側の小径より見た館の土塁>
<住吉城図。南に住吉港を望む>
赤尾木城(鹿児島県西之表市)
九州の南端、鹿児島県大隅半島の南に浮かぶ種子島。
北方領土を除く日本の離島としては8番目の面積を誇り、一時ではあるが古代には多禰国といふ独立した分国が置かれ、国分寺も造営されたといひます。
島内の人口は2万7千万人ほどであり、自治体は北の西之表市、中央の中種子町、南の南種子町の3市町。
鉄砲伝来と宇宙センターで知られた離島であり、近年では宇宙を目指すロケットの発射日になると多くの人が集まり、その様子を見守る様がニュースにも取り上げられています。
かたや種子島の古くから代名詞といえば鉄砲伝来であり、時に天文12年(1543)、漂着船に乗っていたポルトガル商人より火縄銃を買い受け、後に国産化に成功。
火縄銃の別名を種子島というやうにもなりました。
この時、鉄砲を買い受けたのが、種子島を治めていた種子島時堯であり、平行盛の子・信基に始まるとされる種子島家の14代目に位置付けられる人物です。
種子島氏の発祥に関しましては諸説ありますが、中世には種子島島主と呼ばれるほどの勢力を持ち、島津氏に従属しながらも琉球王国とも誼を通じて独自の貿易を行うなどその立地を存分に生かした活動を見せていました。
<赤尾木城の登丸に相当する赤尾木城内城の搦手(西面)。門址の脇に種子島時堯の像がある>
戦国期にあっては種子島の他、屋久島と口永良部島をも領域化していましたが、文禄4年(1595)に豊臣秀吉の命で薩摩知覧へと移り、慶長4年(1599)、種子島に復領するも両島の支配は島津氏に移管されて回復することはありませんでした。
種子島氏の知行は概ね1万石。
島津氏の下にあって入来院氏などごく少数を除いて在来の諸豪族は本来の知行地より切り離され、他所へ移される中で、種子島氏は旧領を維持して明治まで存続。
薩摩藩の家臣といふ立場ながら藩中藩を形成する一方で、江戸時代の10代の当主の中には薩摩藩家老を務めた者も出るなど、藩の重臣として重きをなされる存在でした。
種子島氏の居館の変遷を追っていくと極めて煩雑になるので詳細は次回記事に回すとして、近世においては西之表、赤尾木両港を見下ろす丘陵上にある赤尾木城がその居館でした。
尤も赤尾木城とはいふものの近世においては公式に城として認められた存在ではなく、‘麓‘と通称される薩摩藩外城の一としてその政庁たる地頭仮屋といふのが表向きの位置づけ。
ただし種子島氏の系図などには赤尾木城とあるので島内では「城」で通用していたのでせう。
赤尾木(アコウギ)とはガジュマルのことであり、当時は周辺に多く見られたのだそうです。
赤尾木城の構成は本丸に相当する上の屋地とその西、二の丸に相当する内城といふ二連の方形館を中心とした構え。
上の屋地は現在のヨウ城小学校(ヨウ=木ヘンに容)の敷地であり、南北150m、東西100mほどの敷地で、南西角のみ石垣を築いて西面に正門を開いた。
<上の屋地南西に開かれた正門の跡>
西の内城との間は土塁に挟まれた堀底道状の通路となり、その西が約100m四方の土塁に囲まれた内城ですが、現在では西の土塁のみが残っています。
虎口は西辺北寄りに搦手を開き、大手は上の屋地側の東面。
かつてはヨウ城中学校の敷地でしたが、今は廃校となり、建物はそのままに市の施設として利用されています。
内城の西側はかなりの高低差があって鉄砲館や熊毛郡支庁舎などが建っていますが、ここは中世には石峯城とか坂之上城と称された種子島氏の居館の一つとされる場所で、近世には家臣の屋敷地でした。
一方、内城の南側の道路は対面にも土塁があり、この間の堀底道になっている直線道路は犬の馬場と呼ばれ、犬追物などが行われていたのだとか―。
上の屋地北東には城内の最高点があり、字(あざな)と呼ばれていましたが、琉球のグスクにおいてアザナといへば物見台などの高台を指す語であり、両者の交流をうかがわせる名称といえませう。
<城内最高所のアザナ。現在は空き地になっている>
家臣団の屋敷地は谷によって仕切られた周辺の丘陵上に散在しており、丘陵下には町屋や二十家と呼ばれた船頭集団の屋敷地がありました。
城内などは道がT字になるなど直進の道路が少なく、これを山鹿流兵法の影響としているのですが、さて、どんなものでありますやら。
赤尾木城の中心である上の屋地の築城が寛永元年(1624)のことであり、山鹿素行が生まれたのはその2年後。
時代の観点から言っても後々、大々的な改修があったとも思えませんから山鹿流が入り込む余地はないように思ひます。
山鹿流の築城といって思い浮かぶのは赤穂城(兵庫県)、平戸城(長崎県)、広瀬城(宮崎県)の三ケ城ですが、いずれも塁線を執拗に屈折させ、ともすれば西洋の稜堡式を思わせるやうな結構なのですが、方形を基調とした赤尾木城にその片鱗はありません。
なお近世、種子島氏の居所、政庁の施設は上の屋地に置かれ、内城には妙泉寺、射場、焔硝蔵、郷校(幕末)などが置かれていたさうです。
アクセスはフェリー、ジェットフォイルが発着する西之表港より徒歩10分ほど。
<上の屋地―内城間の堀底道>
<上の屋地正門脇の石垣。未加工の丸石を多用している>
<内城西の高く重厚な土塁>
<内城南の犬の馬場>
<赤尾木城の南方丘陵上の小牧地区(家臣の屋敷地)に見られる鉤の手の道>
井筒部屋の四股名・番外編③ 種子ヶ島・薩摩洋の巻
前回記事にて種子島と相撲について取り上げましたが、今回取り上げますのはその種子島を四股名とした力士たち。
前回登場の横綱・西ノ海(2代)とその孫弟子たる鶴ヶ嶺(道芳)が最初に名乗った四股名であり、井筒部屋としては3人の種子島(種子ヶ島)が出ています。
ちなみに江戸時代にまで遡ると種子島・種ヶ島を名乗った力士は多く、ざっと20例近くもある。
ところが明確に種子島出身というのがはっきりしている例はなく、唯一、大坂相撲の明和8年(1771)8月に幕下筆頭で見える種ヶ島与作が九州を頭書としているくらい。
その他は大坂や江戸ですが、下位力士の頭書は具体的に記されることはなく、江戸や大坂で一括りにされるパターンが多いので、出身地としては余りアテにはなりません。
江戸時代に種ヶ島を名乗った力士で特筆されるのは種ヶ島吉平が3人おり、2代(現役は1750~60年代)は大坂の幕内格(上取り)で頭取(年寄)にもなっており、3代(現役は1780年代)も大坂で幕内格、江戸でも十両に相当する二段目4枚目に名を顕しています。
1840~50年代の種ヶ島金蔵は大坂の幕内格、1860年代の種ヶ島虎吉は大坂の関脇で、いずれも頭書は尼(尼崎?)。
なお、この時期はほとんどの場合で種子島ではなく種ヶ島としているのは当時としてはこちらも一般的な表記だったといふことでせう。
では、ここからは明治以降の種子島(種子ヶ島)について―。
①種子ヶ島 休八(後の西ノ海)・・・現役:明治33~大正7年。鹿児島県西之表市出身。
元西ノ海(横綱)の8代・井筒の弟子。
明治33年1月に種子ヶ島の四股名で初土俵を踏み、翌場所より番付に就いて星甲と改名、さらに翌34年1月より錦洋と改名し、この四股名で関脇まで昇進。
41年11月に師匠の死去に伴い関ノ戸(元関脇・逆鉾)預かりとなり、翌42年6月に二枚鑑札で井筒(9代)を襲名すると共に西ノ海と改名し、部屋を再興。43年1月に大関、大正5年1月に優勝し、場所後、横綱(第25代)に推挙される。
7年5月に引退してからは弟子の育成に努め、門下から横綱・西ノ海(3代)、大関・豊国らが出た。また協会取締(今の理事長)として腕を振るうも昭和6年1月に自殺。
②種子ヶ島 道義(後の鶴ヶ嶺)・・・現役:昭和6~22年。鹿児島県熊毛郡中種子町出身。
同郷の9代・井筒が死去した直後の昭和6年5月が初土俵で、師匠は元星甲(前頭2)の10代・井筒。
先代も名乗った種子ヶ島を四股名として順調に昇進し、9年1月に十両昇進を機に星甲と改名、入幕後の13年1月より鶴ヶ嶺に。長身で、吊りや櫓投げといった豪快な技を得意として最高位は前頭2枚目。弟は十両の薩摩洋。
19年9月に師匠の死去により双葉山道場→時津風部屋の預かりとなり、22年6月に引退して井筒(11代)を襲名して部屋を再興。関脇・鶴ヶ嶺らを育てた。
昭和47年3月に死去。
③種子ヶ島 孝志・・・現役:昭和32~36年。鹿児島県熊毛郡中種子町出身。
同郷の11代・井筒(元前頭2・鶴ヶ嶺)の弟子で、昭和32年1月に初土俵。師匠の初名と同じ種子ヶ島を四股名として三段目に昇進した。
34年7月に本名の町田に改名して幕下に昇進、36年3月に谷の川と改名するも同年9月に引退。最高位は幕下45枚目。
※種子島 万来(後の玉正鳳)・・・現役:平成23年~。モンゴル出身。
モンゴルより来日後、高島部屋に入門するも、新弟子検査前に部屋が閉鎖となり、春日山部屋所属として平成23年9月、高春日の四股名で初土俵。
その後、幕下までは順調に番付を上げたが28年10月に春日山部屋が閉鎖となり、追手風部屋預かりを経て29年1月より中川部屋の所属となり、同年5月に種子島と改名。しかし11月には旭蒼天に改名しており、種子島の期間は3場所、いずれも幕下だった。
令和2年7月に中川部屋が閉鎖となると姉が玉鷲と結婚していた縁で片男波部屋の所属に転じ、9月より玉正鳳と改名。長身ながら肉がつかず足踏みをしていたが右四つの地力を磨き、5年3月に十両に昇進、7年1月には新入幕を果たした。最高位は前頭16枚目。
井筒部屋の種子ヶ島は以上の3人ですが、うち2人が井筒部屋を継承しており、重要な四股名であるといえます。
現役の玉正鳳の場合は世話になっている後援者の名をもらって種子島と名乗ったとのことで、直接、鹿児島県の種子島や井筒部屋との関係はありませんが、実は高春日を名乗っていた時分に井筒部屋の大関(当時)・鶴竜の付け人をしていたことがあります。
続いて本稿では2代目の種子ヶ島こと鶴ヶ嶺の弟が名乗った薩摩洋についても取り上げます。
薩摩洋を名乗った力士は2人のみと伝統の四股名といふには弱いのですが、いずれも十両に昇進している点で特筆してもよかろうかと―。
①薩摩洋 時久・・・現役:大正12~昭和19年。鹿児島県熊毛郡中種子町出身。
10代・井筒(元星甲)の弟子で、兄は鶴ヶ嶺(前頭筆頭)。
大正12年5月に薩摩洋の四股名で初土俵を踏み、以後、改名なし。
長身を利した左四つ、吊りを得意とし、昭和17年1月に十両に昇進も負け越し、関取在位は1場所のみ。
昭和19年5月に引退。最高位は十両13枚目。
②薩摩洋 重昭(後の大寛)・・・現役:昭和37~51年。鹿児島県熊毛郡中種子町出身。
師匠は同郷中種子町出身の11代・井筒(元鶴ヶ嶺)。
昭和37年3月に渕上の四股名で初土俵(本名は淵上)、その後、薩摩海(39年9月~)を経て、40年1月より薩摩洋と改名。翌3月に幕下に昇進し、44年11月に大寛と改名し、45年3月に新十両。右四つからの寄りを武器に十両に在位すること21場所、最高位は十両4枚目だった。
47年3月に11代・井筒の死去に伴い、師匠は元星甲の12代・井筒に―。しかし49年7月に先代遺族との関係から12代・井筒は陸奥に名跡を変更し、所属も陸奥部屋となった。
これに先立ってすでに幕下に陥落していた大寛は一時、西ノ島(49年5月~9月)を名乗っていたが、再度、大寛に改名し、51年1月に引退。
2人の薩摩洋はいずれも種子島の出身であり、11代・井筒としても思い入れのある四股名だったのでせうが、種子島の旧分国が薩摩ではなく大隅であるのはご愛敬。
なお14代・井筒(元関脇・鶴ヶ嶺)の弟子に薩洲洋(前頭筆頭、吉崎→薩州洋→薩洲洋)がおりますが、14代・井筒の伝統の四股名に対する志向からすると多分に薩摩洋を意識した四股名ではなかったかと思はれます。
後の薩洲洋こと吉崎が入門したのは昭和51年1月場所ですが、奇しくもこの場所は薩摩洋を名乗っていた大寛最後の場所であり、その1月の29日には初代・薩摩洋の下家時久氏が死去。
3人の運命が不思議と交錯した瞬間でした。
種子ヶ島、薩摩洋は井筒部屋とゆかりの深い四股名ではありますが、伝統の四股名として囲い込むには弱く、現役の玉正鳳の事例がある如く、今後、他部屋の鹿児島県出身力士が四股名とする場合があるかもしれません。
種子島と相撲
「南海の黒豹」と呼ばれ、優勝2回、横綱まであと一歩に迫った昭和の名大関・若嶋津。
日焼けした引き締まった肉体に精悍な風貌、アイドル歌手の高田みづえさんとの結婚でも話題をさらった人気力士であり、親方としても松ケ根→二所ノ関部屋を率いて小結・松鳳山らを育てた他、協会理事の要職を歴任しましたが、去る3月15日に69歳にて永眠いたしました。
まずは故人のご冥福をお祈りいたします。
この若嶋津、鹿児島県の中でも大隅半島の南方に浮かぶ種子島は中種子町の出身です。
種子島といえば鉄砲と宇宙センターといふイメージがあり、こと相撲の点では近年は奄美に押されている感もありますが、毎年、全島を挙げて種子島相撲大会が開催されて熱戦が展開されるほど相撲が盛んな土地柄でもあります。
種子島と相撲―といふ点では何といっても第25代横綱・西ノ海(2代)の存在を忘れるわけにはまいりません。
明治13年、現在の西之表市の生まれで少年時代には島一番の大男として早くも話題をさらい、同じ鹿児島県出身の西ノ海(第19代横綱)の井筒部屋に入門して名乗った四股名が種子ケ島。
この四股名を名乗ったのは前相撲の時のみで、番付に載ってからは星甲→錦洋と改名、41年に師匠の井筒が亡くなると二枚鑑札で部屋を継承し、四股名も西ノ海に―。
後に大関→横綱と昇進し、現役引退後は協会理事の要職を務める一方、横綱・西ノ海(3代)や大関・豊国らを育てました。
西ノ海の出身地である西之表市下西川迎の近くにある日典寺は法華宗の高僧にして地元出身の日典上人ゆかりの寺として知られていますが、本堂の東には「横綱西ノ海嘉次郎顕彰碑」(原文ママ)と刻まれた立派な石碑が建てられています。
<日典寺の西ノ海顕彰碑。揮毫は21代・木村庄之助(年寄・立田川)>
また、西ノ海と直接のかかわりはないものの、日典寺西方の塰泊(あまどまり)の安徳川には多くの河童が住んでいてしばしば相撲を取ろう、とせがんだのだとかー。
安徳川の由来は壇ノ浦の戦いで入水したとされる安徳天皇がひそかにこの地に逃れた―とする伝承によるもので、あるいは河童も水底から生還した幼き天皇の眷属であったのだらうか?
安徳天皇、河童、西ノ海にはそれぞれの相関性があるとは言えないながら、どこか通底するものを感じます。
<安徳川の景観。今も河童が棲んでいそうな雰囲気?>
この西ノ海の孫弟子(師匠は元星甲)として井筒部屋に入門したのが中種子町増田出身の鶴ヶ嶺であり、初土俵時(昭和6年)の四股名が先代師匠と同じ種子島。
その後、星甲を経て鹿児島城後背の城山の別名に因んだ鶴ヶ嶺と改名して前頭筆頭まで進むと同時に、昭和17年1月には弟の薩摩洋(十両13)も十両に昇進し、兄弟関取としても知られました。
引退後は一旦途絶えていた井筒部屋を復興し、もろ差しの技能派関脇・鶴ヶ嶺らを輩出、同じ中種子町の大寛も昭和45年に十両に昇進しています(最高位は4枚目、後に陸奥部屋)。
かくの如く、西ノ海以来の流れから種子島の出身者は井筒部屋へ入門するケースが多かったのですが、昭和47年に元鶴ヶ嶺の井筒親方が死去した後、井筒部屋の跡目を巡って混乱があったせいか、この後は井筒路線を外れる力士が多くなってきます。
冒頭の二子山部屋の大関・若嶋津は昭和50年に入門し、55年に十両に昇進しており、続いて西之表市出身の西乃龍改め常の山(出羽海部屋・前頭12)が昭和63年に十両に昇進。
平成に入ってからは南種子町出身の若隼人(十両3)と中種子町出身の光法(前頭9)の2人が宮城野部屋を牽引しました。
現役では若嶋津の二所ノ関親方の弟子で現在は放駒部屋の島津海(西之表市出身・前頭12)が活躍する他、大阪出身ではあるが常の山の息子の西ノ龍(境川部屋)が十両で健闘しています(最高位は4枚目)。
かくの如く明治の2代・西ノ海以来、陸続と関取を送り出し、その中から横綱、大関を1名ずつ輩出した種子島の存在感は鹿児島県の相撲史においても決して小さいものではないでせう。
そして大相撲の力士ではないものの、もう一人、種子島と相撲を語る上で外せないのが「相撲の神様」河野又四郎です。
又四郎は15世紀後期の人で島内にあっては当代随一の相撲の強豪。
加えて美男と来ているから安城村(現・西之表市)の地頭の羽生右京能房の娘・安姫と恋仲になったのですが、又四郎は士族とはいえ地頭の娘とでは身分が違う。
それでも密会を続けているうちに父・右京の知る所となり、右京は安姫に別れるよう諭すも姫はこれに応じず、右京はやむを得ず家臣に命じ安姫を殺してしまったのでした。
残された又四郎も姫が死んだ翌年の長享3年(1488)、その墓前で自害。
後にこの悲劇をはかなんだ安城の村人は善政を布いて領民に慕われた羽生右京とその妻、安姫、又四郎の4人を祭神に祀って岡山神社を建立し、これが又四郎の事績から相撲の神様と称されているのです。
岡山神社の境内にはやはり安城の生まれで幕末期に島寄せの相撲で7回連続で優勝した無敵の大関・川原嘉助ゆかりの力石もあります。
他にも西之表市洲之崎では女性が相撲取り節やはんや節に合わせて踊る「どすこい」
といふ行事もあり、相撲が文化として島の暮らしに根付いていることが実感されるのではないでしょうか。





























