星ヶ嶺、斬られて候
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六富士の時代~幷に七若と七琴(後編)

前編では直近の伊勢ケ濱部屋と武蔵川部屋の事例を見てまいりましたが、それ以前はどうでしょうか。

まずは時計の針を昭和30年へと巻き戻してみてみませう。

昭和30年代といえば土俵の上では栃若から柏鵬へと時代が変革を迎える時期。

時は昭和36年9月場所、その若乃花の所属する花籠部屋から7人が幕内に顔を揃えました。

その顔触れは御大の横綱・若乃花にベテランの若ノ海、若手の若三杉、若秩父、若乃國と続いて、この場所、新入幕の若天龍、若駒。

いわゆる‘七若‘であり、この体制は37年1月までの3場所続きました。

実はこの場所数は若駒の幕内在位場所数とイコールであり、若駒の十両陥落によって体制が崩れると5月には若乃花が引退し、時代の終焉を迎えました。

花籠部屋ではその後、52年1月場所にも6人の幕内力士が居並ぶ第2次黄金期を迎えましたが、輪島、魁傑、荒勢、大豪、大ノ海、若ノ海と四股名はまちまちでした。

 

ところで昭和36年9月の番付をよく見ると出羽海部屋も7人の幕内を揃えています。

ただ、出羽海といえばかつては片屋の一方を占めるほどの大部屋であり、同様に時津風や立浪といった一門の総帥クラスの部屋も多数の関取が犇めいていた時期が少なからずありました。

昭和34年以前ですと幕内力士が50人以上とあって特定の部屋の幕内力士が多数いる例はなお多くの事例が見られます。

 

同一部屋での幕内力士が多いと有利となる状況が生まれるのは何といっても部屋別総当たり制であればこそ。

それまでの一門・系統別よりなお対戦相手が絞り込まれる状態であり、その恩恵は無視できぬものでした、

そこで部屋別総当たり制へ移行した昭和40年1月場所以降を見てみるとその当初においては出羽海、時津風、立浪といった部屋が6人以上の幕内力士を揃えていることがありましたが、42年3月場所に幕内の定員が40人から34人に削減されると、以後、しばらくは6人以上の幕内を並べる部屋はありませんでした。

 

昭和50年5月場所、久しぶりにその一線を越えたのがかつての横綱・若乃花率いる二子山部屋(貴ノ花、若三杉、大旺、二子岳、若獅子、隆ノ里)。

次いで前述のとおり52年の花籠部屋を挟んで、56年7月、11月~57年3月にも二子山部屋が6人以上の幕内力士を揃えて阿佐谷勢の春を謳歌しています。

56年~の二子山部屋の顔触れは横綱・若乃花(2代目)を筆頭に隆ノ里、大寿山(後の太寿山)、若島津(後の若嶋津)、飛騨乃花、隆三杉、若獅子で、56年7月のみが7人、他の3場所は6人の布陣でした。

 

平成に入ってからは元年3月で井筒部屋が達成したのが最初の例。

逆鉾、寺尾、陣岳、霧島、薩洲洋、貴ノ嶺と、四股名に共通性はないものの鹿児島県出身者5人を含む全員が九州出身といふのも特筆されます。

 

平成4年5月場所には藤島部屋から6人の幕内が並ぶ若貴ブームの真っ盛り。

貴乃花、若乃花、貴ノ浪、安芸乃島、貴闘力、豊ノ海に加え、5年3月からは師匠が停年となる二子山部屋を引き受けてシン・二子山部屋となって三杉里、隆三杉、若翔洋、浪之花が合流、ここに幕内に実に10人の力士を擁する事態となりました。

以降、二子山部屋は9年3月まで常に6人以上の幕内力士を擁し、かつその内実たるや横綱2人、大関1人、関脇3人、小結3人の充実ぶりで、とりわけ幕内上位にあって同部屋のメリットを最大限、享受したと言えさうです。

 

一方、この二子山部屋の有力な対抗馬として名乗りを上げたのが佐渡ヶ嶽部屋。

平成3年7月場所にて琴錦、琴ケ梅、琴ノ若、琴富士、琴稲妻、琴椿と6人の幕内を揃えましたが、いずれも四股名に‘琴‘がついて‘六琴‘。

4年11月、5年1月にはここに琴別府が加わる‘七琴‘となり、なお合併以前の藤島部屋を上回る勢威を示しました。

七琴体制は2場所のみながら六琴は6年9月まで断続的に続いており、こちらも4関脇、1小結と全盛期に違いはあれ上位に躍進する力士が多く、同部屋力士が多数であることによるボトムアップがあったと言えるかもしれません。

 

これに続いたのが前編で取り上げた武蔵川部屋であり、さらに今回の伊勢ヶ濱部屋の‘六富士‘までの間には境川、追手風、木瀬などが多くの幕内力士を擁した時期がありましたが、6人揃えることもできなかったし、四股名に統一性があった訳でもありません(追手風部屋は翔が多いが・・・)。

最も惜しい事例が九重部屋で、幕内にコンスタントに3、4人を揃えた上に四股名も千代~。

令和2年11月場所及び3年1月場所には十両も含めると7人が轡を並べる‘七千代‘体制が整いつつありましたが、幕内の壁に阻まれました(幕内=千代の国、千代大龍、千代翔馬、十両=千代ノ皇、千代丸、千代鳳、千代ノ海)。

 

以上、同一部屋による6人以上の同時幕内在位について四股名をからめてご紹介いたしました。

今後の展望から七若、七琴、六富士に続きさうな部屋を探してみると、追手風(翔)、佐渡ヶ嶽(琴)、九重(千代)、高砂(朝)あたりは力士数も多く、四股名の同一性が高いので期待できそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六富士の時代~幷に七若と七琴~(前編)

大の里の歴史的快挙に沸いた令和6年の五月・夏場所。

初土俵より所要7場所での栄冠はまことに新時代の幕開けをも予感させるものでしたが、何といってもその2か月前―、春場所の尊富士の新入幕Vもまた世の人々の度肝を抜く偉業でした。

もとより相撲処の青森県で小学生時代から相撲に打ち込み、大学までキャリアも十分とは言え大きなタイトルとは不思議と無縁であった尊富士がなぜ、これほどの進化を遂げたのか―?

その裏には伊勢ヶ濱部屋といふ角界有数の豊富な稽古量と稽古相手の存在を抜きには語れないでせう。

 

伊勢ヶ濱部屋とくればまずは何といっても大将の横綱・照ノ富士。

度重なる怪我に苦しみながらも1月の初場所ではきっちり優勝してみせる第一人者の存在は精神的にも大きな柱として若武者を支えていたことは想像に難くない。

続いて小兵ながら押しの圧力と技の冴えを見せる翠冨士、錦富士の近大・同期生コンビ、若手の成長株として心境著しい熱海富士と幕内に並んでいたのですから、稽古相手にも事欠かないでしょうし、本場所ではこれらの力士との対戦がないといふ点も有利に働きます。

さらに五月場所では37歳といふ角界でもデラックス(別格)な存在となりつつある元関脇の宝富士が幕内に返り咲き、ここに同一部屋の力士が幕内に6人そろい踏みしたのです。

 

番付を振り返ってみると幕内に同一部屋の力士が6人揃ったのはこの前では平成16年3月場所の武蔵川部屋。

大関・武双山を筆頭に小結・垣添、平幕で雅山(元大関)、出島(元大関)、武雄山、和歌乃山(元小結)と居並んだ。

武蔵川勢の6人衆体制は武雄山が新入幕を果たした平成13年11月場所以降、横綱の武蔵丸を中心に断続的に続いており、15年の9月には垣添の新入幕により1場所限りながら7人が揃いました(翌場所は和歌乃山が十両に陥落、武蔵丸は11月場所で引退)。

 

ただ今回の伊勢ケ濱部屋が当時と違うのは皆が皆、師匠(元横綱・旭富士)より四股名の一部を譲られて‘~富士‘を名乗っている点であり、前回の武蔵川部屋では比較的、「武」の字が含まれるのが多かったものの、過半以上の例外がありました。

かくの如く、同一部屋の幕内力士が6人以上で、かつ共通の四股名の傾向が認められるのは過去においては花籠部屋の‘七若‘、佐渡ヶ嶽部屋の‘七琴‘であり、ここに‘六富士‘というべき体制が構築されたのです。

 

伊勢ケ濱部屋の力士が‘~富士‘を名乗るのは師匠の四股名である旭富士に因むのは言わずもがなのですが、ここへ至るまではいささかの曲折もあったので少しご説明いたしませう。

現在の伊勢ケ濱部屋はかつて安治川部屋と称し、元々、宮城野部屋の関脇・陸奥嵐によって創設された部屋を大島部屋の横綱・旭富士が平成5年に継承したものです。

安治川とあって当初、親方が弟子たちにつけた四股名は‘安美錦‘など「安」の字を用いる例が多く、次いで‘安壮富士など‘安○富士‘と両の字を用いる者も数名。

ところが19年に名跡変更により伊勢ケ濱となって部屋名も改めると‘~富士‘を用いる事例が増え、従来の‘安‘の字のみを外す力士さえ現れました(安聡富士→聡ノ富士など)。

これにより、なお安美錦や照強の例外こそあれ大半が‘~富士‘を名乗るに至った伊勢ヶ濱部屋は横綱・日馬富士らを擁しつつ勢力を蓄えておりましたが、ここについに幕内に6人の関取を擁する一大勢力へと飛躍したのです。

 

幕下以下を見渡せばすでに上位へと進出してきた聖富士の存在があり、遠からず‘七富士‘が揃う可能性も出てきている。

一方で満身創痍の照ノ富士やベテランの宝富士の踏ん張りも重要な所で、まずはきっちりと六富士体制を固めたいところでせう。

 

さて、先の5月・夏場所―。

番付上では6人が揃ったものの2人が休場し、うち尊富士は十両への陥落が濃厚となっていて‘六富士‘体制は1場所限りとなってしまいさうです。

伊勢ケ濱部屋全体に目を転じると旧宮城野部屋の合流で、幕内・十両への躍進をとげそうな力士が少なからず出てきそうな情勢で、将来的には伊勢ケ濱部屋の勢力も大きく伸長するであろうことは想像に難くない。

宮城野部屋が再興されるタイミングにもよるのでせうが、10名近い関取を擁するようになるのは時間の問題。

ことによると‘○富士Δ鵬‘の一時代が遠からずやってくるのかもしれません。

 

後編では七若、七琴など、昭和戦後から平成の事例を訪ねます。

 

 

 

 

 

 

ウィアン=環濠都市から見るチェンマイの成立(後編・タイ王国チェンマイ県)

さて、前編ではウィアン・ジェット・リン、ウィアン・クム・カームといふ二つの環濠都市からチェンマイ成立の前史を概覧してまいりました。

これより述べるチェンマイの成立は1296年のことですが、それ以前より一帯にはラワ族、そしてモン族といった人々の足跡があり、そこへ北方よりタイ族が進出、モン族主体の国々を打倒してスコータイ王国やラーンナー王国が成立します。

ご存知のように‘北のバラ‘と称されるチェンマイはラーンナー王国の王都ですが、元はラワ族によって開かれたウィアン・ノッブリー(ノッパブリー)があった場所。

チェンマイを巡るウィアンの掉尾を飾って、このウィアン・ノッブリーを取り上げてまいります。

 

 

◎ウィアン・ノッブリー(Wiang Nopburi)

ラーンナー王国の王・メンラーイ王がウィアン・クム・カームより北方の地にあったワット・チェン・マンに動座し、新都の造営に取りかかったのは1296年のこと。

ビン川の西岸に位置し、ドイ・ステープ山からの豊富な湧水を有する一帯は古くラワ族によって開発されていた場所でした。

同時代にはウィアン・ノッブリ―と呼ばれており、時として洪水をももたらしかねない水を本来は環濠であったと見られるメーカー運河に導水して安定化させ、かつ耕作に必要な分量の水を確保しました。

 

‹メーカー運河のうち南西部。市街中心近くながらわりと落ち着いたゾーン›

 

 

この頃、ラワ族は既に鉄器を盛んに製造し、稲作などの耕作を広く展開していたことが知られており、ウィアン・ノッブリーは、完全に近い円形で観念的な都市プランを持ち、精神的な色合いの強いウィアン・ミサンコーン(ウィアン・ジェット・リン)に対し、生産や交易のための拠点としての性格があったものと思われます。

想定されるウィアン・ノッブリーの範囲は南北2.8km、東西1.7km程度の楕円形。

後年のチェンマイの城壁がその内部に収まってしまう巨大さですが、都市プランとしてはドヴァーラヴァティーの環濠集落とよく似ており、あるいはモン族によって完成されたのかもしれません。

 

‹チェンマイ都城概略図。方形の内郭と楕円の外郭の組み合わせ›

 

ノッブリーの‘ブリー‘は城壁の巡る都市を意味していて、タイの南部にはよく見られる地名ですが、北部ではほとんどお見掛けしないこともその証左。

ウィアン・ノッブリーの歴史については多分に伝承的であり、その成立に関してはなお再考の余地があるとも言えます。

1296年にはタイ族のメンラーイ王によって新たな都城が構築されますが、1.5km四方の方形の都市プランの西辺はメーカー運河を転用したものと思はれ、かつメーカー運河を外堀として利用するものでした。

新しい都を意味する「チェンマイ」と命名された王都はその中心にラック・ムアン(都市の柱)と称される祠堂を配して須弥山に仮託し、その北に王宮を配置するといふ構造はアンコール・トムやスコータイと同じくインドの世界観を具現化したものです。

 

‹ウェットトン王家の王宮跡。写真は芸術文化センター›

 

 

なお、チェンマイに限らずタイ北部に見られるチェンライ、チェンセーンなどの‘チェン~‘とは漢語における城(城壁の巡る都市)に由来する語であり、同様の意味を持つウィアン、ブリーを含めてまさに三役そろい踏み。

在来のウィアンにインド世界のブリー、中国世界のチェンと、民族・文化が交差し、蓄積された重層的な歴史の厚みを感じさせてくれます。

チェンマイはまた、王都として「頭のウィアン」を意味するファ・ウィアンとも称されました。

ラーンナー王国は15世紀の繁栄を経て1588年にビルマ(タウングー朝→コンバウン朝)の支配下に入って独立国としての歴史は終焉。

以後はチェンマイ周辺を統治する国主が擁立され、旧ラーンナー諸都市を束ねる要に―。

1774年に至りタイ南部に勃興したタイ族のトンブリー王朝によって奪還され、次いで王権がチャックリー王朝(シャム)に代わった後の1796年にランパーン王家のカーウィラが地方王家として入城、チェンマイ復興に力を注ぎ、城壁や堡塁もレンガ造りの強固なものへと改修しています。

カーウィラの後裔はチェットトン王家としてチェンマイを中心とするラーンナー地域を半ば独立的に支配し、1939年まで存続しました。

王家の終焉よりほどなく、レンガの城壁はその多くが解体されて道路等の建設資材として持ち去られ、今日においては四隅に配された堡塁などが残るのみとなっています。

 

 

‹北西隅のシープーム砦。胸牆も含め最もよく残る›

 

 

 

―以上、前後編に渡ってラワ族、モン族、タイ族と支配を変えつつ北部タイに燦然と輝いたチェンマイの歴史を環濠都市・ウィアンを通して概覧してまいりました。

今日なお北部タイの経済の要であり、観光の拠点としても多くの人を惹きつける北のバラ・チェンマイ。

かつての城壁はその多くが失われてしまいましたが、旧市街を巡る環濠はほぼ従前のまま残存し、城門や堡塁の跡にレンガの城壁をたどることが出来ます。

さらに外堀たるメーカー運河の内外はかなり雑多なエリアで、堀の景観なども保全されているとは言い難い所ですが、運河自体はほぼ残っておりますし、一部には高い版築土塁の城壁も残っていて見応えのある遺構です。

近年には運河自体も整備されて、その一部は観光客の注目を集めるエリアになっているとか―。

チェンマイのウィアンをたどることで見えてくるそこに交錯した人々の物語。

そして今でもチェンマイ周辺に住まうラワ族やモン族の息吹を感じ、その遺跡からかつての繁栄のよすがに思いを馳せてみてはいかがでせうか。

 

 

‹わずかに残る内郭内の城壁›

‹北西隅のクーファン砦。最も城壁がよく残っているエリア›

 

‹メーカー運河沿いの外郭土塁。高さもあり、一部はレンガが残っている›

 

 

‹東側のメーカー運河。この辺りは城壁は撤去され、住宅となっている。›

 

 

 

 

 

 

ウィアン=環濠都市から見るチェンマイの成立(前編・タイ王国チェンマイ県)

‘北のバラ‘の雅称を持ち、タイ北部屈指の城塞都市として知られるチェンマイ。

かつてラーンナータイ王国の都が置かれ、南部とは異なる文化が花開いた一帯にはウィアン(wiaug)と呼ばれる遺跡が点在しています。

ウィアンとは城壁に囲まれた町、すなわち環濠都市を意味し、チェンマイ市街のほど近くにもいくつものウィアンの存在が知られています。

本稿ではそうしたウィアンを訪ねつつ、チェンマイ成立までの道をたどってまいります。

 

◎ウィアン・ジェット・リン(Wiaug Chet Lin)

チェンマイ西の霊峰、ドイ・ステープ山への道の入り口に位置し、ファイ・ケーオの滝の湧水点を押さえる場所にラワ族によって築かれたウィアンがあります。

ラワ族とはドヴァーラヴァティーやハリプンチャイ王国を建国したモン族に先行して一帯に進出した人々であり、伝説ではヴァステープといふドイ・ステープに住むラワ族の仙人(隠者)がその東麓に、後にウィアン・ジェット・リンとなるウィアン・ミサンコーンを築いたとされています。

このウィアンの特徴は直径970mのほぼ正円の土塁と環濠をもって周囲を囲繞している点であり、日本でいえば田中城(静岡県藤枝市)のやうでもある。

 

<円形のプランが浮かぶ航空写真(Yahooマップより)> 

 

タイに方形の城郭は多かれど、円形のプランもまたインドの世界観において天を表わすものであり、ミャンマーにあったピューの王都・シュリークシェトラなどが知られる所。

ラワ族は同じく南方にナヴォウッタ(後のウィアン・スアン・ドーク)という一辺が概ね570mの方形のウィアンも築いており、かなり観念的な都市を構築していたことが窺える。

しかしハリプンチャイが一帯に進出してくると次第に勢力を失い、これらのウィアンも放棄された模様です。

なおウィアン・ミサンコーンは後にウィアン・ジェッド・リンと改称されてラーンナータイによってチェンマイを守る要塞の一つとして利用され、王家の離宮なども置かれました。

今日ではチェンマイ大学やファイ・ケーオ植物園等の敷地となり、植物園内に高い土塁や堀を見ることが出来ます。

 

‹チェンマイ大学構内の堀。土塁は削平されている›

 

‹南の植物園内には高い土塁も残っている›

 

‹植物園外の堀›

 

 

 

◎ウィアン・クム・カーム(Wiang Kum Kam)

13世紀末、それまで北部タイを支配していたハリプンチャイを併呑し、チェンマイ平原に進出してきたのがラーンナータイのメンラーイ王でした。

王はビン川西岸にあったワット・カーントムの集落付近に新たな都の構築を計画し、1287年、従来の都であったチェンライから遷都します。

これがウィアン・クム・カームで、1km四方程度の不整形の方形の都市プランであった由。

ところがメンラーイ王は僅か10年たらずでこの新都を放棄し、北のウィアン・ノッブリー(後のチェンマイ)の地に新たに都を構築して遷座しています。

恐らくこの地がビン川の増水に対して脆弱であるのが予知せられたからと思はれ、雨期になると水が溜まりやすい地形だったのでせう。

とはいえ構築半ばの新都は全き廃絶した訳ではなく、その後も多くの寺院が建立せられて、ラーンナーの王も度々この地を訪れるなどチェンマイ近郊の要塞、衛星都市として存続し続けました。

しかし度重なるビン川の増水は町に七難八苦の打撃を与え続け、18世紀にはビン川の流路が町の西から東へと遷移して港湾機能も喪失、町はついに廃絶して以後は農村に姿を変えたのでした。

 

‹仏塔が再建されたワット・イーカン›

 

 

近代以降は忘れられてしまったこの旧都であるが、1984年に突如として発見されて、大きなセンセーションを巻き起こすことに―。

尤も崩れかけた仏塔などが露出して点在していた訳ですから、その存在がまるで知られていなかったわけではなく、考古学的にその存在が実証されたという辺りがより正確な表現で、新たな観光資源としての価値が発見されたといった所でせう。

現在、城内には多くの修復された寺院の跡が見られ、チェンマイ近縁において遺跡の雰囲気を味わうには格好のスポットとなっています。

南西には土塁の城壁や堀も見られますが、注意せねばならないのはビン川の土砂が一帯を埋めたとあって、現在見えている城壁はあくまでその頂部付近が見えているに過ぎない点で、本来の城壁はなお高く、堀幅はより広かったはずです(堆積した土砂は概ね1.5m程度)。

なお、この遺跡を訪ねるにあたって、私は往路はチェンマイ市街からトゥクトゥクを利用しましたが、チェンマイ―ラムプーンを結ぶソンテーオも遺跡入り口(東の幹線道路沿い)を通っているので、午前中に遺跡を見終えた後はそのままラムプーンへと移動しました。

 

後編では現在のチェンマイ市街地の基礎となったウィアン・ノッブリーを紹介します。

 

 

‹1288年創建のワット・チェディー・リアムは現役の寺院›

 

‹再現された西の城壁と堀。土塁状の城壁としては唯一、残る箇所›

 

‹南西城壁外にあったワット・クー・バトムは広く基壇が整備されている›

 

‹南の城壁ライン。堀跡には細い水路が穿たれているが、本来の遺構面は1.5mほど下›

 

ハリプンチャイの王都・ラムプーン(タイ王国ラムプーン県)

<ワット・プラ・タート・ハリプンチャイ>

 

スコータイ王朝、アユタヤー王朝、あるいはラーンナータイ王国・・・。

ここまで13~14世紀に勃興したタイ族のムアン(国・都市)についてのキーワードが何度か出てきましたが、それ以前のタイの歴史はどのやうになっていたのでしょう?

すでに触れた所ではカンボジアのクメール王朝の支配下にあった―といふものですが、さらに地域の動きをつぶさに見てゆくとモン族によって樹立されたドゥヴァーラヴァティーの動きを忘れるわけにはまいりません。

モン族といふと今日ではラオスやタイなどに暮らす山岳の民のような印象を受けるかもしれませんが、かつてはタイ中原域において農耕を基盤とし上座部仏教を信奉する独自の王権国家を林立させており、けだしドゥヴァーラヴァティーとはモン族による小国家の連合体でありました。

その中心となったのは今日のナコーンパトムでしたが、北方では後のロッブリーであるラヴォも有力な小国家であったようです。

 

伝承によると661年、そのラヴォの王女・チャームテウィ(ジャマデヴィ)がドイステープ(チェンマイの西の霊峰)の仙人・ヴァステープの招聘によりラムプーンに移住し、ハリプンチャイ王国を建国したとか―(実際の建国は750年頃とされる)。

この仙人とも隠者とも形容されるヴァステープはモン族より前にチェンマイ一帯に進出していたラワ族の出で、ウィアン・ミサンコーン(チェンマイ近郊の環濠都市)の建都にも携わったというから、隠者とはいいながら世俗の権力にも強い影響力を持つ傑物であったらしい。

伝承からもモン族とラワ族は協調関係を維持していたやうなのですが、一方で両者間の戦闘も伝承されており、あるいはハリプンチャイの建国も南方から勢力を拡大したモン族がラワ族を圧迫した結果なのかもわかりません。

10~11世紀にはラヴォがクメール王朝の支配下に入ったためにハリプンチャイがモン族国家の中心となり、以後、度々ラヴォ奪回に執念を燃やしているところからもラヴォ出身者がハリプンチャイに逃れ来て体制内に参与していたとみてよいでせう。

 

ところが1281年になると北方よりラーンナータイの進出が顕著になり、攻防の末、ハリプンチャイの王・イバはラムプーンを放棄し、モン族の中心はラオスのペグーへ―。

変わって1291年にラーンナー王国の王・メンラーイ王がラムプーンに入り、一時的にラーンナータイの都ともなりました。

メンラーイ王が去った後はラワ族のアイ・ファーがラムプーンの王となりますが、このアイ・ファーはラーンナータイによるラムプーン攻撃の際に城内にあってラーンナータイに内通して陥落に功のあった人物であり、この辺りにモン族とラワ族の微妙な心情の屈折をうかがえます。

 

ラーンナータイの統治下にあってはチェンマイ南方の拠点都市として重視され、15世紀までに城壁のレンガ、ラテライト化が完成しますが、16世紀にラーンナー王国がビルマの支配下に入るとラムプーンは衰退。

ラッタナコーシン王朝の支配下に移行した後の18世紀には地方王家であるチェンマイ王家の一族のチェットトン王家が入城して町は再建され、最終的には20世紀に至るまで同王家の都として存続しました。

 

‹チェットトン王家時代の王宮跡は今はラムプーン県庁に›

 

 

ハリプンチャイの王都であったラムプーンはクワン川の西岸にあって、南北1km、東西500mほどの、俗に貝の形と言われる楕円形の環濠に囲まれた範囲を中心として展開しています。

この楕円形の環濠プランはドゥヴァーラヴァティーの環濠集落に共通するスタイルであり、恐らくラムプーンの都市プランはその時分からほとんど変わっていないのだと思われる。

なお、環濠内の中心には12世紀に建立されたワット・プラ・タート・ハリプンチャイが鎮座し、王宮はその北西(現在は県庁用地)と、インド仏教の世界観を踏襲している配置故にあえてチェンマイのやうな方形の環濠プランを採択する必要がなかったのかもしれません。

城内へ入る門は北・西・南は各1ヶ所ずつだが、東だけは3門を開く構えで、西のマワハン門前には馬出状の小区画が設けられていました。

 

‹現在のラムプーン市街図。旧城時代と大きな変化はない›

 

かつて市街を囲っていた城壁は1939~40年に道路建設のために大半が撤去されており、現在、北のチャン・スー門址や南のリー門址に見られるレンガ城壁は近年の再建です。

ほぼ唯一残されたのが西のマワハン門付近で、上部の胸牆には十字の銃眼が並びます。

一方、北東に開かれたタ・ナーン門はレンガ城壁のみならず門の建屋自体も復元されていて当時の威容を知る上で必見のポイント。

切妻屋根の下に腰庇を設けて屋根を二重に見せているのが特徴的です。

 

他にもハリプンチャイ博物館や寺院の址などの見所も多いラムプーン。

かつての王国の誇りを保ちながらも比較的静かな雰囲気で、落ち着いた史跡巡りを楽しめます。

 

チェンマイからは定時発着のバスの他、乗り合いのミニバスであるロットゥーやトラックの荷台を改造して座席としたソンテーオなどの交通手段があり、所要は1時間ほど。

 

 

 

‹クワン川に面したタ・ナーン門›

 

‹北東部の環濠›

 

‹西に開かれたマワハン門址。最も残りが良いが、駐車場になっている・・・›

 

‹南のリー門址。奥に見えるのは市場で、門内は商業の中心›

 

‹北のチャン・スー門西の城壁を背面より。レンガ壁の背面は土塁›

 

‹ラムプーンの市街地。写真は旧城内を南北に貫くメインストリート›

 

 

 

 

 

 

 

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