バトスピ、というよりトレーディングカードゲームにおいて、ジャッジというのは非常に難しい。
バトスピは、今年で発売10周年だが、それほど経っているようなゲームでは発売されているカードも膨大で、本当に多種多様なカード効果を持っている。
さらに、実際のゲームではそれらが複雑に絡まりあって本当にいろいろな効果処理を行う。
それをプログラムではなく実際の人間が行うのだから、当然のごとくミスが頻発する。
やっているプレイヤーもミスをするし、大会のジャッジもミスをする。
そのミスのせいで、大事な大会に勝てなかったということも多々ある。
俺自身、ジャッジミスがあった試合で敗北したことがある。そのミスが敗北に直結したとは断定できないが。
そんな現状があるからか、こんな意見を見た。
「ジャッジというのはプレイヤーの勝敗を左右する。ジャッジはプレイヤーの命を握っているのだ」
といった内容だ。
だが、これは大きな勘違いだ。
ジャッジはプレイヤーの命を握ってなんかいない。
ドラガン・ストイコビッチをご存じだろうか?
かつてJリーグの名古屋グランパスで選手としてプレイし、また監督を務めてリーグ優勝に導いたこともある。現在では中国の広州富力で監督をしている。
妖精を意味する「ピクシー」の愛称で親しまれているが、彼は来日当初はよく退場になることで有名だった。
それは彼が特別乱暴者というわけではないのだが、その詳細はここでは無関係なので触れない。興味がある人は木村元彦著「誇りードラガン・ストイコビッチの軌跡ー」
を読んでいただきたい。
さて、この書には、ストイコビッチとあるコロンビア人審判とのこんなエピソードが紹介されている。
ある試合で、ストイコビッチがピッチの外に出たボールを触った。すると、主審がストイコビッチの方をにらんでいる。
「何かしでかしやしないか」と見張っているわけだが、その態度に苦笑しながらストイコビッチが「ボールも見てくださいよ」と言おうとした。
それをどう受け取ったのか、その主審は直ちに彼にとって二枚目のイエローカードを提示した。
そしてこう言い放ったそうだ。
「アイム、ボス!」
この行為について木村氏はこう続けている
「試合場における審判はあくまで黒子」
審判の存在はこの一言が的確に言い表している。
審判は、ルールにのっとって健全に試合が行われるように管理する裏方であり、彼らが勝敗を握る権限など持っていない。その判定が勝敗を分けたことがあったとしたら、それはそもそも前後のプレーが原因だ。
当然、審判もミスはある。ではそんな時、選手はそれに唯々諾々と従わなければいけないのか?
そんなことはない。
俺が子供のころ、地元では、よく中日ドラゴンズの試合が放送されていた。
その時監督をしていた星野仙一氏が、何かジャッジにおかしなところがあると猛然と抗議をしていて、それが一種の名物のようになっていた。
俺自身も、父親の要望でついているから仕方なく見ているだけの野球中継の中でそれだけを楽しみにしていた。
審判に抗議をするというのは、きわめて日常的な光景だった。
ほかにも、テニスには、「チャレンジ」と言って、試合中の判定に対して疑問があった場合、申し立てをすれば、CGによって判定を確認することができる。
さらに、去年行われたサッカーのワールドカップでは「VAR」と呼ばれるビデオ判定をする仕組みが導入され話題となった。
このように、スポーツの中でも「審判に対する異議申し立て」というのはよくあることだ。
奇妙なことに、バトスピプレイヤーはそのように考えていないようだ。
以前、公式大会であるジャッジミスがあったようだ。それに対して、公式の審判を務めている人が「『ヘッドジャッジシステム』(下された判定に疑問があったときに、ヘッドジャッジという審判団の責任者)があるのは知ってますよね?」とツイートしていた。
それに対して、プレイヤーの一部は不満があったようだ。
正直に言えば、俺は知らなかった。だがそれは、「テニスで言うチャレンジ、サッカーで言うVARをバトスピではヘッドジャッジシステムとして導入している」ということを知らなかっただけで、
「審判に対して異議申し立てをしてはいけない」などと考えたことなど一度もなかった。
多分、「審判は選手の命を握っている」と思う人は、彼らを絶対神のように思っているのではないだろうか?もしくは、先のコロンビア人の審判のように「アイム、ボス!」という感覚でいるのだろう。(プレイヤー側から見れば、「ユーアー、ボス!」といったところか。)
それは大きな間違いだ。
審判と選手は対等関係にある。神と人間でもないし、王と奴隷でもないし、ボスと部下でもない。
ともにグッドゲームを作るためのパートナーだ。
だから、当然のごとく、判定に疑問があったのなら、それをぶつけてもよい。それは、言うなれば、プレイヤー側も、正しい判定が下されるよう審判に協力する必要があるということだ。
そのためには、プレイヤー側もルールに精通していなければならない。
「なんでそんなことしなくちゃいけないんだ!ルールを把握するのは審判の仕事だろ!」
と思う人もいるかもしれない。
そう思いたいなら思っていてもいい。
ただし、
それで負けるのは自分だ。
審判も人間だ。必ずミスをする。それを補うように働かなければ、結局自分が損をする。それでもいいなら言わなくていい。
ちなみに、現野球評論家の野村克也氏は、監督時代、「プロ野球選手は野球博士たれ」として、選手たちに野球のルールを勉強させ、テストまでしていたそうだ。
はっきり言えば、「審判に抗議をしないのはプレミ」ということだ。
「え…でも、そんな抗議するなんて言いづらい…」
という人もいるかもしれない。
それならもう誤審には泣くしかない。
それは、フォークボールが苦手なバッターはフォークボールをあきらめるしかないのと同じことだ。
人には弱点がある。
例えば、パスが苦手なサッカー選手は、シュート力などでレギュラー入りを目指さなければいけないように、自分が苦手なところでの勝負はあきらめ、得意なところで勝負する必要がある。
この場合、「誤審に弱い」というのが弱点なら、もうそこでの勝負はあきらめるしかない。
でなければ、努力によって補うしかない。
例えば、ルールが複雑で誤審を誘発しそうなカードは使わないといった工夫だ。
繰り返すが、審判はゲームを共に作る協力者だ。支配者でも敵対者でもない。
このような審判とプレイヤーの話し合いはプロスポーツでも行われている。
野球界には選手会があって、ルールや最低の変更があった時など意見を交わしあっている。Jリーグでは、試合前に、両チームと審判団との間でミーティングが行われ、その日の試合のレフェリングについて話し合う。
審判と選手が健全にコミュニケーションが取れてこそ、グッドゲームを作ることができる。その意味では、さっきから俺は「抗議、抗議」と言っているが「会話」「質問」という言い方の方が適切かもしれない。(注1)
もしも「審判は選手の命を握っている」などという考えに陥ったらどうなるか?
それは、審判に絶対の権限を与えることだ。
それは、審判が恣意的に一方のプレイヤーに有利な判定を下すのを許すことだ。
それは、ゲームが審判のものになるということだ。
それは、スポーツというものの根幹を破壊する。
「審判はプレイヤーの命を握っている」などと考えてはいけない。
それは、スポーツマンシップに反する上に、そもそも間違っている。
ゲームの勝敗は自分次第なのだ。
それはもう驚くほど自分次第なんだよ。
「ゲームは筋書きのないドラマである」
野球でも、サッカーでもよく言われることだ。
これは、すべてのスポーツに当てはまるだろう。
審判とプレイヤーの関係性を再確認した時、実に「言い得て妙」だと思わないだろうか?
「筋書きのあるドラマ」つまり、演劇や映画などには「ボス」がいる。監督、脚本家、演出家など。舞台にいる役者は、彼らの意向を無視して演技はできない。基本的には、作品は彼らのものだからだ。
しかし、スポーツには筋書きがない。だから、「ボス」にあたる人間もいない。
その舞台にいる人間は、全員が「主役」であり、「脚本家」であり、そしてお互いがパートナーだ。
お互いが、相手に敬意を払い、相手の立場を尊重しつつ、自分の意見をきちんと通す。
そうしてこそ、初めてスポーツはスポーツとしての形を成すのである。
注1.よって、選手側に「意見があったら言ってくれ」というばかりではなく、審判側も大会開催前に受付とは別に、ルールやカードの裁定に関して質問を受ける窓口を設けるなどの工夫があってもいいかもしれない
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バトスピは、今年で発売10周年だが、それほど経っているようなゲームでは発売されているカードも膨大で、本当に多種多様なカード効果を持っている。
さらに、実際のゲームではそれらが複雑に絡まりあって本当にいろいろな効果処理を行う。
それをプログラムではなく実際の人間が行うのだから、当然のごとくミスが頻発する。
やっているプレイヤーもミスをするし、大会のジャッジもミスをする。
そのミスのせいで、大事な大会に勝てなかったということも多々ある。
俺自身、ジャッジミスがあった試合で敗北したことがある。そのミスが敗北に直結したとは断定できないが。
そんな現状があるからか、こんな意見を見た。
「ジャッジというのはプレイヤーの勝敗を左右する。ジャッジはプレイヤーの命を握っているのだ」
といった内容だ。
だが、これは大きな勘違いだ。
ジャッジはプレイヤーの命を握ってなんかいない。
ドラガン・ストイコビッチをご存じだろうか?
かつてJリーグの名古屋グランパスで選手としてプレイし、また監督を務めてリーグ優勝に導いたこともある。現在では中国の広州富力で監督をしている。
妖精を意味する「ピクシー」の愛称で親しまれているが、彼は来日当初はよく退場になることで有名だった。
それは彼が特別乱暴者というわけではないのだが、その詳細はここでは無関係なので触れない。興味がある人は木村元彦著「誇りードラガン・ストイコビッチの軌跡ー」
を読んでいただきたい。
さて、この書には、ストイコビッチとあるコロンビア人審判とのこんなエピソードが紹介されている。
ある試合で、ストイコビッチがピッチの外に出たボールを触った。すると、主審がストイコビッチの方をにらんでいる。
「何かしでかしやしないか」と見張っているわけだが、その態度に苦笑しながらストイコビッチが「ボールも見てくださいよ」と言おうとした。
それをどう受け取ったのか、その主審は直ちに彼にとって二枚目のイエローカードを提示した。
そしてこう言い放ったそうだ。
「アイム、ボス!」
この行為について木村氏はこう続けている
「試合場における審判はあくまで黒子」
審判の存在はこの一言が的確に言い表している。
審判は、ルールにのっとって健全に試合が行われるように管理する裏方であり、彼らが勝敗を握る権限など持っていない。その判定が勝敗を分けたことがあったとしたら、それはそもそも前後のプレーが原因だ。
当然、審判もミスはある。ではそんな時、選手はそれに唯々諾々と従わなければいけないのか?
そんなことはない。
俺が子供のころ、地元では、よく中日ドラゴンズの試合が放送されていた。
その時監督をしていた星野仙一氏が、何かジャッジにおかしなところがあると猛然と抗議をしていて、それが一種の名物のようになっていた。
俺自身も、父親の要望でついているから仕方なく見ているだけの野球中継の中でそれだけを楽しみにしていた。
審判に抗議をするというのは、きわめて日常的な光景だった。
ほかにも、テニスには、「チャレンジ」と言って、試合中の判定に対して疑問があった場合、申し立てをすれば、CGによって判定を確認することができる。
さらに、去年行われたサッカーのワールドカップでは「VAR」と呼ばれるビデオ判定をする仕組みが導入され話題となった。
このように、スポーツの中でも「審判に対する異議申し立て」というのはよくあることだ。
奇妙なことに、バトスピプレイヤーはそのように考えていないようだ。
以前、公式大会であるジャッジミスがあったようだ。それに対して、公式の審判を務めている人が「『ヘッドジャッジシステム』(下された判定に疑問があったときに、ヘッドジャッジという審判団の責任者)があるのは知ってますよね?」とツイートしていた。
それに対して、プレイヤーの一部は不満があったようだ。
正直に言えば、俺は知らなかった。だがそれは、「テニスで言うチャレンジ、サッカーで言うVARをバトスピではヘッドジャッジシステムとして導入している」ということを知らなかっただけで、
「審判に対して異議申し立てをしてはいけない」などと考えたことなど一度もなかった。
多分、「審判は選手の命を握っている」と思う人は、彼らを絶対神のように思っているのではないだろうか?もしくは、先のコロンビア人の審判のように「アイム、ボス!」という感覚でいるのだろう。(プレイヤー側から見れば、「ユーアー、ボス!」といったところか。)
それは大きな間違いだ。
審判と選手は対等関係にある。神と人間でもないし、王と奴隷でもないし、ボスと部下でもない。
ともにグッドゲームを作るためのパートナーだ。
だから、当然のごとく、判定に疑問があったのなら、それをぶつけてもよい。それは、言うなれば、プレイヤー側も、正しい判定が下されるよう審判に協力する必要があるということだ。
そのためには、プレイヤー側もルールに精通していなければならない。
「なんでそんなことしなくちゃいけないんだ!ルールを把握するのは審判の仕事だろ!」
と思う人もいるかもしれない。
そう思いたいなら思っていてもいい。
ただし、
それで負けるのは自分だ。
審判も人間だ。必ずミスをする。それを補うように働かなければ、結局自分が損をする。それでもいいなら言わなくていい。
ちなみに、現野球評論家の野村克也氏は、監督時代、「プロ野球選手は野球博士たれ」として、選手たちに野球のルールを勉強させ、テストまでしていたそうだ。
はっきり言えば、「審判に抗議をしないのはプレミ」ということだ。
「え…でも、そんな抗議するなんて言いづらい…」
という人もいるかもしれない。
それならもう誤審には泣くしかない。
それは、フォークボールが苦手なバッターはフォークボールをあきらめるしかないのと同じことだ。
人には弱点がある。
例えば、パスが苦手なサッカー選手は、シュート力などでレギュラー入りを目指さなければいけないように、自分が苦手なところでの勝負はあきらめ、得意なところで勝負する必要がある。
この場合、「誤審に弱い」というのが弱点なら、もうそこでの勝負はあきらめるしかない。
でなければ、努力によって補うしかない。
例えば、ルールが複雑で誤審を誘発しそうなカードは使わないといった工夫だ。
繰り返すが、審判はゲームを共に作る協力者だ。支配者でも敵対者でもない。
このような審判とプレイヤーの話し合いはプロスポーツでも行われている。
野球界には選手会があって、ルールや最低の変更があった時など意見を交わしあっている。Jリーグでは、試合前に、両チームと審判団との間でミーティングが行われ、その日の試合のレフェリングについて話し合う。
審判と選手が健全にコミュニケーションが取れてこそ、グッドゲームを作ることができる。その意味では、さっきから俺は「抗議、抗議」と言っているが「会話」「質問」という言い方の方が適切かもしれない。(注1)
もしも「審判は選手の命を握っている」などという考えに陥ったらどうなるか?
それは、審判に絶対の権限を与えることだ。
それは、審判が恣意的に一方のプレイヤーに有利な判定を下すのを許すことだ。
それは、ゲームが審判のものになるということだ。
それは、スポーツというものの根幹を破壊する。
「審判はプレイヤーの命を握っている」などと考えてはいけない。
それは、スポーツマンシップに反する上に、そもそも間違っている。
ゲームの勝敗は自分次第なのだ。
それはもう驚くほど自分次第なんだよ。
「ゲームは筋書きのないドラマである」
野球でも、サッカーでもよく言われることだ。
これは、すべてのスポーツに当てはまるだろう。
審判とプレイヤーの関係性を再確認した時、実に「言い得て妙」だと思わないだろうか?
「筋書きのあるドラマ」つまり、演劇や映画などには「ボス」がいる。監督、脚本家、演出家など。舞台にいる役者は、彼らの意向を無視して演技はできない。基本的には、作品は彼らのものだからだ。
しかし、スポーツには筋書きがない。だから、「ボス」にあたる人間もいない。
その舞台にいる人間は、全員が「主役」であり、「脚本家」であり、そしてお互いがパートナーだ。
お互いが、相手に敬意を払い、相手の立場を尊重しつつ、自分の意見をきちんと通す。
そうしてこそ、初めてスポーツはスポーツとしての形を成すのである。
注1.よって、選手側に「意見があったら言ってくれ」というばかりではなく、審判側も大会開催前に受付とは別に、ルールやカードの裁定に関して質問を受ける窓口を設けるなどの工夫があってもいいかもしれない
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