命はしつこい。

俺は、生きる気力を失って長いが、まだこうして生きている。

どうやら、相当本気にならねば死ねないらしい。

そんなものではなく、生きる気力をなくしたとたんにちょっとずつ命が減っていき、静かに死ねるような機能になっていてくれればいいのに。

世の中には、「生きたい」と願いつつ、周囲にも愛されているにもかかわらず、いとも簡単に死んでしまう人がいるにもかかわらず、俺のような願っても、願われてもいない人間がいまだに生きているというのは不思議なことだ。

簡単に死んでしまう人。

残念ながら、昨今は増えている気がする。統計データは知らないが、

東日本大震災
コロナのパンデミック
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻

それぞれの現場では命がたやすく消えていく。その本人は当然のこととして、それを目の当たりにしている人々にとっても耐えがたい悲劇であるだろう。その心中は察するに余りある。

だが、ふと思う。それらの犠牲者は本当に「簡単に」死んだのだろうか。

このような大規模な天災(あるいは事件)が起こると、えてして「いともたやすく」「あっさり」と言った修飾語が「死」に対してつけられる。

だが、ふと思う。そうではないのだろうか。何せこの、死にたい人間をいつまでも死なせてくれない命のことである。それが「easy」を意味する言葉によって形容されるのは妥当ではないように思う。

例えば、東日本大震災で、40歳で死んだ者がいるとしよう。

その人間は、40歳まで生き続けてきたのだ。

この世に人智を超えた何者かがいるとする。「運命」「神」「天」なんと呼んでも構わない。

何と呼ぶにせよ、「それ」は絶えず人間のもとに侍り、もしくは頭上から見張り、いつか必ず命を奪っていく。
その人は40年間それと戦い続け、そしてついに東日本大震災によって敗北した。

その事実は、その人の命を奪うのに、「それ」は40年の年月と巨大地震を必要とした、ということだ。

「それ」はその人の何度も命を奪おうとし続け、失敗し、ついには大震災を引き起こすことでようやくなしえたのだった。

ウクライナ侵攻もそうであろう。
「それ」はそこで死んだ誰かを殺すのに、軍隊さえ動かさねばならなかった。

ある強大な何かを打倒するときには、それを上回る力がいる。その時、その何か以外の別のものを巻き込んでしまうのはよくあることだ。

「核兵器並みの殺傷能力があるが、半径1メートルしか破壊しない兵器」なんてものは存在しない。ドラゴンボールのフリーザは孫悟空1人を倒すのに、惑星さえ破壊した(結局倒せなかったが)。

このような見方をすれば、このような世界的な規模の出来事でなくとも、それよりは小さい(といっても当事者や関係者にとっては大きいだろうが)事件の被害者にしてもそうであろう。

それというのは、たとえば通り魔殺人のようなものだ。

通り魔に襲われたというと、「その日たまたま人気のない夜道を通っただけ」で殺されるというケースがある。そんな話を聞くと「たったそれだけのことで」とやはり、「easy」に死んだような気がする。

だが、それは違う。人は常に「死」と戦っている。
様々な形で。
その死んだ人も常に、生きてきたその年月分「死」に抵抗し続けていたのは想像に難くない。

通り魔に襲われた人が、その日だけたまたま油断してしまったのはなぜだ。
絶えず行っていた「死」への抵抗にほんの少し疲れてしまっただけなのだ。

しかしその場合でも、「それ」がその人を殺すのに、その人が生きてきた年月分の労力が必要だったのだ。

他の人もそうである。
「それ」はあなたを殺すのに、天災が必要であった。
「それ」はあなたを殺すのに、軍隊が必要であった。

命は強い。
自分がなかなか死なないわけである。